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ー/ー




 
 閉店時間を三十分回った頃に、ハムスターカフェのドアが開いた。


来客に店長は微笑を向けた。


「いらっしゃいませ、佐々木様。弊社のサービスに何か問題でもございましたか?」


「とんでもない! 例の社員はすっかりおとなしくなりましたよ。御社のおかげです」


 佐々木は上ずった声で興奮気味にまくし立てる。


「ご満足いただけたようで何よりです」


 店長は微笑を浮かべたままそう言った。


 企業にとって面倒な従業員がいても、余程の問題を起こさない限り企業は従業員をクビにすることはできない。


つまり、会社にとって一番厄介な従業員とは、頻繁に遅刻する社員でも仕事をさぼる社員でもない。やる気のある無能なのだ。


無能なら何もせずにぼんやりしていてくれた方が、会社の損害にならないだけマシである。


やる気のある無能はやる気だけはあるので、じっとしていてくれずに会社のマイナスになることをし続ける。


その厄介な社員の情報収集をして通勤のルートや趣味嗜好を調べて、その社員が興味を持って立ち寄りそうな店を開く。


その店に立ち寄ったら、通い詰めるように仕向ける。


来れば来るほど、自分で考えようとする意思を奪い、やる気のある無能をやる気のない無能に変えるのだ。


そんなサービスを提供している会社があると社長が知り、佐々木に依頼をすることを命じたのである。


「御社は素晴らしいサービスを提供なさっています。大変感銘を受けました。この感謝の気持ちを御社の社長に直接申し上げさせていただけないでしょうか」


 社長に礼を言うのはあくまで口実だ。


佐々木が今日来店した目的は一つ。


人を懐柔するノウハウを盗んでくることだ。


自己主張の強かった社員が従順になるのを目の当たりにした社長が、この会社のノウハウを手に入れれば、自社の従業員を思い通りにコントロールできると考えた。


その調査役として人事課長である佐々木に白羽の矢が立ったのだ。


厄介な社員を手なずける具体的な手段は教えてもらえなかったため、社員のあとをつけて、このハムスターカフェに辿り着いたのだ。


 店長に続いて閉店後のためか灯りのない廊下を歩くと、グリーンのカーテンがかかった部屋に通された。


部屋の中のハムスター用のケージで何かが蠢く音がして、どんぐり型のハウスからハムスターの着ぐるみを着た男が這い出してきた。


「きゅう?」


 ハムスターの着ぐるみを纏った壮年の男が、四つん這いで小首を傾げる。


その異様な光景に佐々木は本能的に後ずさりした。


社長に面会を申し出てこの部屋に通された。


そして、この部屋には佐々木以外にこの着ぐるみ男しかいない。


つまり、このハムスターの着ぐるみ姿で奇声をあげた男が、社長ということになる。


なぜ、社長がハムスターの着ぐるみを纏い、檻のような場所にいるのか。


佐々木には分からない。


理解不能が原因で訪れる恐怖と焦燥でじっとりと滲んだ汗で、背中にシャツが張り付いた。


「君もハムスターにならないかね?」


 唐突に話しかけられた佐々木は戸惑った。


「今日君が来たのは……人事部長、いや、社長に言われたからのようだね? ご苦労なことだ」


 この着ぐるみ男には全て見透かされているらしい。


まるで佐々木の耳の中で心臓が動いているかのように、鼓動が煩く感じられた。


着ぐるみ男の瞳が、佐々木を見つめている。


普通の人間よりも黒目の割合が大きく、吸い込まれそうな瞳だと佐々木は思った。


じっと見られると、なぜか目を逸らすことができない。


「上の命令に振り回されて、彼らの思う成果を出さなければ労いの言葉もない……。ハムスターになればそんなことはない。無償の愛を与えられ、無条件で愛される」


 心地よいリズムで脳が揺さぶられる。


脳に直接言葉がしみ込んでくるように感じられる。


その言葉に従ったら、絶対に気持ちいいという確信があった。


――従ってしまいたい。この男の言葉に従いたい。


 突然の異音に佐々木の意識が引き戻された。


スラックスのポケットの中の、スマートフォンのバイブレーションの音だ。


 汗で滑る手でディスプレイを確認すると、メールの通知だった。


――ここに居ては駄目だ。この男と会話しては駄目だ……呑まれる。


 佐々木は着ぐるみ男と目を合わせないようにして、部屋を飛び出した。


 思ったよりドアを閉める音が大きくなってしまった。


 佐々木は閉じたドアにもたれ掛かり、深いため息をついた。


「おや、もうよろしいのですか?」


「あ、ああ……」


 店長に話しかけられても、そう返すのが佐々木には精いっぱいだった。


「またのご利用お待ちしております」


 お辞儀をする店長の背後の店の暗がりが、何でものみ込むブラックホールのように佐々木には見えた。




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 閉店時間を三十分回った頃に、ハムスターカフェのドアが開いた。
来客に店長は微笑を向けた。
「いらっしゃいませ、佐々木様。弊社のサービスに何か問題でもございましたか?」
「とんでもない! 例の社員はすっかりおとなしくなりましたよ。御社のおかげです」
 佐々木は上ずった声で興奮気味にまくし立てる。
「ご満足いただけたようで何よりです」
 店長は微笑を浮かべたままそう言った。
 企業にとって面倒な従業員がいても、余程の問題を起こさない限り企業は従業員をクビにすることはできない。
つまり、会社にとって一番厄介な従業員とは、頻繁に遅刻する社員でも仕事をさぼる社員でもない。やる気のある無能なのだ。
無能なら何もせずにぼんやりしていてくれた方が、会社の損害にならないだけマシである。
やる気のある無能はやる気だけはあるので、じっとしていてくれずに会社のマイナスになることをし続ける。
その厄介な社員の情報収集をして通勤のルートや趣味嗜好を調べて、その社員が興味を持って立ち寄りそうな店を開く。
その店に立ち寄ったら、通い詰めるように仕向ける。
来れば来るほど、自分で考えようとする意思を奪い、やる気のある無能をやる気のない無能に変えるのだ。
そんなサービスを提供している会社があると社長が知り、佐々木に依頼をすることを命じたのである。
「御社は素晴らしいサービスを提供なさっています。大変感銘を受けました。この感謝の気持ちを御社の社長に直接申し上げさせていただけないでしょうか」
 社長に礼を言うのはあくまで口実だ。
佐々木が今日来店した目的は一つ。
人を懐柔するノウハウを盗んでくることだ。
自己主張の強かった社員が従順になるのを目の当たりにした社長が、この会社のノウハウを手に入れれば、自社の従業員を思い通りにコントロールできると考えた。
その調査役として人事課長である佐々木に白羽の矢が立ったのだ。
厄介な社員を手なずける具体的な手段は教えてもらえなかったため、社員のあとをつけて、このハムスターカフェに辿り着いたのだ。
 店長に続いて閉店後のためか灯りのない廊下を歩くと、グリーンのカーテンがかかった部屋に通された。
部屋の中のハムスター用のケージで何かが蠢く音がして、どんぐり型のハウスからハムスターの着ぐるみを着た男が這い出してきた。
「きゅう?」
 ハムスターの着ぐるみを纏った壮年の男が、四つん這いで小首を傾げる。
その異様な光景に佐々木は本能的に後ずさりした。
社長に面会を申し出てこの部屋に通された。
そして、この部屋には佐々木以外にこの着ぐるみ男しかいない。
つまり、このハムスターの着ぐるみ姿で奇声をあげた男が、社長ということになる。
なぜ、社長がハムスターの着ぐるみを纏い、檻のような場所にいるのか。
佐々木には分からない。
理解不能が原因で訪れる恐怖と焦燥でじっとりと滲んだ汗で、背中にシャツが張り付いた。
「君もハムスターにならないかね?」
 唐突に話しかけられた佐々木は戸惑った。
「今日君が来たのは……人事部長、いや、社長に言われたからのようだね? ご苦労なことだ」
 この着ぐるみ男には全て見透かされているらしい。
まるで佐々木の耳の中で心臓が動いているかのように、鼓動が煩く感じられた。
着ぐるみ男の瞳が、佐々木を見つめている。
普通の人間よりも黒目の割合が大きく、吸い込まれそうな瞳だと佐々木は思った。
じっと見られると、なぜか目を逸らすことができない。
「上の命令に振り回されて、彼らの思う成果を出さなければ労いの言葉もない……。ハムスターになればそんなことはない。無償の愛を与えられ、無条件で愛される」
 心地よいリズムで脳が揺さぶられる。
脳に直接言葉がしみ込んでくるように感じられる。
その言葉に従ったら、絶対に気持ちいいという確信があった。
――従ってしまいたい。この男の言葉に従いたい。
 突然の異音に佐々木の意識が引き戻された。
スラックスのポケットの中の、スマートフォンのバイブレーションの音だ。
 汗で滑る手でディスプレイを確認すると、メールの通知だった。
――ここに居ては駄目だ。この男と会話しては駄目だ……呑まれる。
 佐々木は着ぐるみ男と目を合わせないようにして、部屋を飛び出した。
 思ったよりドアを閉める音が大きくなってしまった。
 佐々木は閉じたドアにもたれ掛かり、深いため息をついた。
「おや、もうよろしいのですか?」
「あ、ああ……」
 店長に話しかけられても、そう返すのが佐々木には精いっぱいだった。
「またのご利用お待ちしております」
 お辞儀をする店長の背後の店の暗がりが、何でものみ込むブラックホールのように佐々木には見えた。