孔子と子貢
ー/ー 儒学の祖、孔子の弟子に、子貢という男がいた。才人である。その弁舌の見事さは孔子にも認められた。その他に商売の才能まであった。貧乏な孔子が飢え死にしないで済んだのは、この優れた弟子のおかげかもしれない。
金儲けが巧い人間は人から妬まれたり恨まれたりするものだが子貢には、そんなことはなかった。生真面目な人間であり、謙虚であったので、商才を自慢するような愚かしい真似をしなかったからだ。
子貢の弟子である陳子禽は、そんな師匠を心の底から尊敬している。この世で最高の人間だと思う。だから師匠に、こんなことを言った。
「先生は孔子より賢いです」
そう言われた子貢は、それを完全に否定した。そして、そんなことを言う陳子禽をたしなめた。
「君子は、たった一言で知性があるとも、知的ではないとも判断されるものだ。軽はずみな発言は慎まなければいけないよ」
大好きな師匠から注意された陳子禽は、子貢が孔子より優れているとの説を唱えるのをやめた。だが、口に出して言わなくなっただけで、心の底では自説を疑っていない。
その思いが、さらに強まる事態が起きた。子貢の智謀で孔子の祖国である魯が救われたのだ。
当時の魯は小国で、強国の斉と呉の間に挟まれ存亡の危機にあった。斉の軍隊が魯を攻撃するとの情報を得た孔子は、最も頼りになる弟子の子貢を斉に派遣し、故国への攻撃を止めさせようとした。
子貢は巧みな弁舌で斉の矛先を呉へ向けさせた。それから彼は呉へ向かい、呉王の夫差を焚き付け、斉との直接対決へと誘導した。これにより魯は、斉と呉の両方から同時に攻撃を受けるという最悪の事態を回避することができた。
だが子貢の策略は、それだけに留まらない。
斉と呉のどちらが勝つにしても、その勝者は魯の併合を目論むだろうと子貢は考えた。そこで、もう一つの大国・晋を紛争に介入させることにしたのだ。
子貢の予想通り、斉との戦いに勝った呉は魯を勢力圏に置こうとした。呉の勢力拡大を恐れた晋が待ったをかける。今度は呉と晋の戦いになるかと思えた、そのときである。呉の南方にある越という国が、呉王の夫差が不在の呉を強襲したのだ。夫差は泡を食って本国へ戻った。決戦をしなくて済んだ晋軍は撤退した。かくして魯は独立を維持したのである。
実は呉の攻撃を越に促したのは、子貢だった。商売上の付き合いがあった越の政治家・范蠡を通じて、越王の勾践に呉を攻めさせたのである。
物凄い策略だと陳子禽は、自分の師匠ながら恐ろしくなった。
その思いは子貢の師匠である孔子も同じかもしれない、と彼は考える。
子貢の悪癖に人の批評を好む点があった。真面目な正直者が持つ素直な気持ちの現れとも言えるが、そんな弟子に対し孔子は、こんな言葉を贈った。
「君は賢いなあ、私なんか、それだけのゆとりがないよ」
世間には「孔子より子貢の方が優れた人物である」という声が少なからずあった。それを踏まえての発言だろう。
やがて孔子は死んだ。彼の弟子たちは作法に従い、孔子の墓の近くで三年間の喪に服した。子貢のみが、六年間の喪に服した。陳子禽は、もし子貢が死んだら、自分も六年間の喪に服せるだろうか、と自らに問いかけた。無理だと結論付ける。自分は子貢ほどの人物ではない。弟子が師匠を追い抜けるわけがないのだから。しかし師匠の師匠である孔子には大きく劣っていないのではないか……と思うのだった。
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儒学の祖、孔子の弟子に、子貢という男がいた。才人である。その弁舌の見事さは孔子にも認められた。その他に商売の才能まであった。貧乏な孔子が飢え死にしないで済んだのは、この優れた弟子のおかげかもしれない。
金儲けが巧い人間は人から妬まれたり恨まれたりするものだが子貢には、そんなことはなかった。生真面目な人間であり、謙虚であったので、商才を自慢するような愚かしい真似をしなかったからだ。
子貢の弟子である陳子禽は、そんな師匠を心の底から尊敬している。この世で最高の人間だと思う。だから師匠に、こんなことを言った。
「先生は孔子より賢いです」
そう言われた子貢は、それを完全に否定した。そして、そんなことを言う陳子禽をたしなめた。
「君子は、たった一言で知性があるとも、知的ではないとも判断されるものだ。軽はずみな発言は慎まなければいけないよ」
大好きな師匠から注意された陳子禽は、子貢が孔子より優れているとの説を唱えるのをやめた。だが、口に出して言わなくなっただけで、心の底では自説を疑っていない。
その思いが、さらに強まる事態が起きた。子貢の智謀で孔子の祖国である魯が救われたのだ。
当時の魯は小国で、強国の斉と呉の間に挟まれ存亡の危機にあった。斉の軍隊が魯を攻撃するとの情報を得た孔子は、最も頼りになる弟子の子貢を斉に派遣し、故国への攻撃を止めさせようとした。
子貢は巧みな弁舌で斉の矛先を呉へ向けさせた。それから彼は呉へ向かい、呉王の夫差を焚き付け、斉との直接対決へと誘導した。これにより魯は、斉と呉の両方から同時に攻撃を受けるという最悪の事態を回避することができた。
だが子貢の策略は、それだけに留まらない。
斉と呉のどちらが勝つにしても、その勝者は魯の併合を目論むだろうと子貢は考えた。そこで、もう一つの大国・晋を紛争に介入させることにしたのだ。
子貢の予想通り、斉との戦いに勝った呉は魯を勢力圏に置こうとした。呉の勢力拡大を恐れた晋が待ったをかける。今度は呉と晋の戦いになるかと思えた、そのときである。呉の南方にある越という国が、呉王の夫差が不在の呉を強襲したのだ。夫差は泡を食って本国へ戻った。決戦をしなくて済んだ晋軍は撤退した。かくして魯は独立を維持したのである。
実は呉の攻撃を越に促したのは、子貢だった。商売上の付き合いがあった越の政治家・范蠡を通じて、越王の勾践に呉を攻めさせたのである。
物凄い策略だと陳子禽は、自分の師匠ながら恐ろしくなった。
その思いは子貢の師匠である孔子も同じかもしれない、と彼は考える。
子貢の悪癖に人の批評を好む点があった。真面目な正直者が持つ素直な気持ちの現れとも言えるが、そんな弟子に対し孔子は、こんな言葉を贈った。
「君は賢いなあ、私なんか、それだけのゆとりがないよ」
世間には「孔子より子貢の方が優れた人物である」という声が少なからずあった。それを踏まえての発言だろう。
やがて孔子は死んだ。彼の弟子たちは作法に従い、孔子の墓の近くで三年間の喪に服した。子貢のみが、六年間の喪に服した。陳子禽は、もし子貢が死んだら、自分も六年間の喪に服せるだろうか、と自らに問いかけた。無理だと結論付ける。自分は子貢ほどの人物ではない。弟子が師匠を追い抜けるわけがないのだから。しかし師匠の師匠である孔子には大きく劣っていないのではないか……と思うのだった。