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涼しい異星で会いましょう

ー/ー



 四十二度で、脳のタンパク質は変性を始めるという。
 アスファルトがうねり、太陽の熱は地上を巨大な蒸し器にする。かつて栄華を誇ったというセミの鳴き声も、もう聞こえない。
 気温五十度。外に出れば、死ぬ。それが俺たちの夏だった。

「ああ、生きてるって感じだ……」
 薄紫の空と、一面に広がる銀緑の草原。行儀良く並んだ羊みたいな雲。胸いっぱいに空気を吸い込めば、冷気が鼻から肺を抜けてゆく。こんな爽やかな日光を浴びたのは、いったい何年ぶりだろう。
 ゴーグルの重さなんか気にならないくらい、美しい景色だった。
「ようこそ、惑星イーカリアへ!」
 羽音を立て、小さなドローンが俺の前に舞い降りる。中央のパネルに、笑顔のアニメーションが表示された。
「わたくしはアミー。ソウタ様の、クールトリップをサポートいたします!」
「ああ、よろしく頼むよ」
 地球の──日本の夏を、生身の人間が生きていくことはもはや不可能だ。
 少しでも外に出れば、生命の危機に直結する。だから人々は屋内にこもり、どうしても外出する時は重いエアコンスーツを着込むしかなかった。
 そんな中、流行しているのがこのクールトリップ──避暑異星旅行だ。
 家賃すら満足に払えない俺が、本来こんなものに行けるはずはない。懸賞の抽選に当たったのは、奇跡みたいな幸運だ。壊れたままのエアコンを放置して、俺は異星へと旅に出ることにした。
 いつも馬鹿にしてくる職場のやつらに、自慢話ができる──それだけで十分、来た甲斐はある。そう思っていた。
「にしても、マジで涼しいな……」
 もう二度と戻りたくない。この涼しさ、開放感をできるだけ長く味わいたい──実際にやってみると、そんな気持ちが湧き上がってくる。正直、予想以上だった。
「ええ。惑星イーカリアの外気温は高くても二十度以下、湿度も上がりません。この星特有の光波が、地表を冷却しているためです。ただ地球とは重力や気圧が異なるため身体への影響も──」
「はいはい、わかったよ」

 アミーに適当に返事をしながら、俺は草原に足を踏み出した。目指すは、SNSで見た絶景の山頂。頂上から双子月と海が一望できるのは、この季節だけらしい。
 雨上がりのような土の匂いと、甘い花の匂いが混じりあう。しばらく歩いたが、冷たい風のおかげで汗一つかかずに済んでいる。山道はどこも似たような景色だから、気をつけないと迷いそうだ。
「この季節に山登りができるなんて、贅沢だな」
「気に入っていただけて嬉しいです。この機会にぜひ正会員プランをご検討し──」
「あーもう、そういうのいいから」
 リラックスしたせいか、少し眠い。あくびをしながら、アミーの宣伝を聞き流す。話しかける度に営業をしてくるのは、一人旅を満喫したい俺としては鬱陶しかった。
「えーと。この先の高原の湖を見て、光の洞窟に行ってから頂上の展望台に行って……」
「お客様。そのプランでは一日の許容滞在時間を超える可能性が」
「はあ? それだとほとんど見れないじゃないか」
「無料プランですので。恐れ入ります」
 せっかくこんな所まで来たんだ。ちゃんと全部回っておきたい。俺は早足で目的地へと歩き出した。

 旅は楽しかった。高原では、雪をかぶった山をバックに鏡のような湖を見た。水は指先がしびれるくらい冷たかった。
 洞窟の中は水面を通して空の青が映り込んでいて、その鮮やかな美しさに感動した。
 ふと子どもの頃、夏休みに祖母の田舎で遊んだことを思い出す。あの頃はまだセミが鳴いていて、川で泳ぐことができた。祖母が死んで田舎も灼熱地獄になって、あんな時間は二度と帰ってこないと思っていた。でも、今ここに俺の夏休みがある。

「帰りたくないな……」
 この星の涼しさは、文字通り別世界だ。またあの灼熱地獄に、労働が待つ家に戻らなければならない……と考えるだけで気が重い。もう、このまま逃げ出したい。
 岩の上に座り、筋肉痛になった足をさする。イーカリアの生き物なのか、金属音のような鳥の鳴き声が聞こえた。
 ぼんやりしていると、アミーがまた口を挟んでくる。
「お客様、このままでは予定滞在時間を超過します。ご帰還を強く推奨します」
「まだ明るいし、この山は遭難するような高さじゃないだろ」
「ですが、お疲れのように見えます」
 山道を歩いたんだから、疲れるのは当然だ。アミーがこうまで帰還を勧めてくるのは、俺への仕事を早く終わらせたいからだろう。
 インフルエンサーでもない俺に、無料で旅を提供するのは企業としては不本意に違いない。だからといって、大人しく帰ってなどやるものか。
「せっかくここまで来たんだ。展望台で写真を撮ったらすぐ帰る」
 そう言って立ち上がった時、視界がチカチカと明滅した。地面がぐらりと揺れる。
「お客様! 大丈夫ですか?」
 どうやら立ちくらみを起こしたようだ。さっきアミーが言っていた、この星の重力や気圧のせいかもしれない。
「心拍が乱れています。帰還してください。これ以上のご案内はできません」
「うるさい! 金も払ってない客だからって、適当に扱うな!」
 軽んじられるのも、邪魔をされるのも、もううんざりだ。頭にきた俺はアミーの本体を掴むと、ミュートのスイッチを押した。

 冷たい風が背中を押す。ふわふわとした心地のまま、足を進めた。
 もう少し、もう少しで頂上だ。紺色に染まった空には、双子月とオーロラのような光の帯が輝いている。さっきから続いている頭痛を忘れるくらい、とても心地よい。
「ああ、本当に来て良かった」
 遠くでサイレンが鳴る。耳鳴りと混じって一瞬だけ二重になり、途切れる。
 頂上からの美しい景色を眺めて、息をついた次の瞬間──
 視界がぐにゃりと歪み、俺は胃のものを吐き出した。
(あれ……なに、が……おこ、って……)


「また、イーカリアか」
 救急医の一人が、担架を見て眉をひそめた。
 クールトリップで、異星旅行に"実際に"行けるのは富裕層だけ。抽選で無料提供される"旅"は、VR技術と香料付きのゴーグル、そして冷感剤による疑似体験だ。
「深部体温四十二度。完全に煮えてるな」
 散らばった薬剤とゴーグルを見て、医師が舌打ちする。彼らもまた、エアコンスーツを身にまとっていた。
「脳が涼しいと錯覚したまま、四十度超えの部屋で何時間も……気づいたときには手遅れだ」
「この人、エアコンが壊れたままVR旅行をしていたようですね」
「修理代と天秤にかけて、か。もう今月で三人目だぞ」
 若い医師が、ソウタの腕を見る。
 眠気や筋肉痛、立ちくらみの症状があった時点で引き返していれば。熱中症の末期。脳へのダメージはおそらく──
「あと少し、早ければ」
 誰かが小さく呟いた。


「惑星イーカリアへの旅、体験版はお楽しみいただけましたか?」
 開け放たれた六畳の部屋。ぎらつく日光と、水飴のような熱気。外から聞こえる工事の金属音。
 畳に倒れた体が、ビクリと小さく痙攣した。
 投げ出されたVRゴーグルが、床の上で映像を流し続けている。薄紫の空、銀緑の草原、双子月。誰も見ていない絶景が、熱波に満ちた部屋でループを続けている。
(ああ、生きてるって感じだ……)
 口元から浅い息が漏れる。
 四十二度で、脳のタンパク質は変性を始めるという。部屋の温度計は、五十二度を指していた。
 ゴーグルから、人工的な明るい声が響く。
「この機会に、ぜひ正会員プランをご検討ください。正会員プランになれば、本物の涼しさを──」
 セミの亡骸すら、もう街にはない。夏は静寂の季節だった。

「あなたもぜひ、涼しい異星で会いましょう!」





みんなのリアクション

 四十二度で、脳のタンパク質は変性を始めるという。
 アスファルトがうねり、太陽の熱は地上を巨大な蒸し器にする。かつて栄華を誇ったというセミの鳴き声も、もう聞こえない。
 気温五十度。外に出れば、死ぬ。それが俺たちの夏だった。
「ああ、生きてるって感じだ……」
 薄紫の空と、一面に広がる銀緑の草原。行儀良く並んだ羊みたいな雲。胸いっぱいに空気を吸い込めば、冷気が鼻から肺を抜けてゆく。こんな爽やかな日光を浴びたのは、いったい何年ぶりだろう。
 ゴーグルの重さなんか気にならないくらい、美しい景色だった。
「ようこそ、惑星イーカリアへ!」
 羽音を立て、小さなドローンが俺の前に舞い降りる。中央のパネルに、笑顔のアニメーションが表示された。
「わたくしはアミー。ソウタ様の、クールトリップをサポートいたします!」
「ああ、よろしく頼むよ」
 地球の──日本の夏を、生身の人間が生きていくことはもはや不可能だ。
 少しでも外に出れば、生命の危機に直結する。だから人々は屋内にこもり、どうしても外出する時は重いエアコンスーツを着込むしかなかった。
 そんな中、流行しているのがこのクールトリップ──避暑異星旅行だ。
 家賃すら満足に払えない俺が、本来こんなものに行けるはずはない。懸賞の抽選に当たったのは、奇跡みたいな幸運だ。壊れたままのエアコンを放置して、俺は異星へと旅に出ることにした。
 いつも馬鹿にしてくる職場のやつらに、自慢話ができる──それだけで十分、来た甲斐はある。そう思っていた。
「にしても、マジで涼しいな……」
 もう二度と戻りたくない。この涼しさ、開放感をできるだけ長く味わいたい──実際にやってみると、そんな気持ちが湧き上がってくる。正直、予想以上だった。
「ええ。惑星イーカリアの外気温は高くても二十度以下、湿度も上がりません。この星特有の光波が、地表を冷却しているためです。ただ地球とは重力や気圧が異なるため身体への影響も──」
「はいはい、わかったよ」
 アミーに適当に返事をしながら、俺は草原に足を踏み出した。目指すは、SNSで見た絶景の山頂。頂上から双子月と海が一望できるのは、この季節だけらしい。
 雨上がりのような土の匂いと、甘い花の匂いが混じりあう。しばらく歩いたが、冷たい風のおかげで汗一つかかずに済んでいる。山道はどこも似たような景色だから、気をつけないと迷いそうだ。
「この季節に山登りができるなんて、贅沢だな」
「気に入っていただけて嬉しいです。この機会にぜひ正会員プランをご検討し──」
「あーもう、そういうのいいから」
 リラックスしたせいか、少し眠い。あくびをしながら、アミーの宣伝を聞き流す。話しかける度に営業をしてくるのは、一人旅を満喫したい俺としては鬱陶しかった。
「えーと。この先の高原の湖を見て、光の洞窟に行ってから頂上の展望台に行って……」
「お客様。そのプランでは一日の許容滞在時間を超える可能性が」
「はあ? それだとほとんど見れないじゃないか」
「無料プランですので。恐れ入ります」
 せっかくこんな所まで来たんだ。ちゃんと全部回っておきたい。俺は早足で目的地へと歩き出した。
 旅は楽しかった。高原では、雪をかぶった山をバックに鏡のような湖を見た。水は指先がしびれるくらい冷たかった。
 洞窟の中は水面を通して空の青が映り込んでいて、その鮮やかな美しさに感動した。
 ふと子どもの頃、夏休みに祖母の田舎で遊んだことを思い出す。あの頃はまだセミが鳴いていて、川で泳ぐことができた。祖母が死んで田舎も灼熱地獄になって、あんな時間は二度と帰ってこないと思っていた。でも、今ここに俺の夏休みがある。
「帰りたくないな……」
 この星の涼しさは、文字通り別世界だ。またあの灼熱地獄に、労働が待つ家に戻らなければならない……と考えるだけで気が重い。もう、このまま逃げ出したい。
 岩の上に座り、筋肉痛になった足をさする。イーカリアの生き物なのか、金属音のような鳥の鳴き声が聞こえた。
 ぼんやりしていると、アミーがまた口を挟んでくる。
「お客様、このままでは予定滞在時間を超過します。ご帰還を強く推奨します」
「まだ明るいし、この山は遭難するような高さじゃないだろ」
「ですが、お疲れのように見えます」
 山道を歩いたんだから、疲れるのは当然だ。アミーがこうまで帰還を勧めてくるのは、俺への仕事を早く終わらせたいからだろう。
 インフルエンサーでもない俺に、無料で旅を提供するのは企業としては不本意に違いない。だからといって、大人しく帰ってなどやるものか。
「せっかくここまで来たんだ。展望台で写真を撮ったらすぐ帰る」
 そう言って立ち上がった時、視界がチカチカと明滅した。地面がぐらりと揺れる。
「お客様! 大丈夫ですか?」
 どうやら立ちくらみを起こしたようだ。さっきアミーが言っていた、この星の重力や気圧のせいかもしれない。
「心拍が乱れています。帰還してください。これ以上のご案内はできません」
「うるさい! 金も払ってない客だからって、適当に扱うな!」
 軽んじられるのも、邪魔をされるのも、もううんざりだ。頭にきた俺はアミーの本体を掴むと、ミュートのスイッチを押した。
 冷たい風が背中を押す。ふわふわとした心地のまま、足を進めた。
 もう少し、もう少しで頂上だ。紺色に染まった空には、双子月とオーロラのような光の帯が輝いている。さっきから続いている頭痛を忘れるくらい、とても心地よい。
「ああ、本当に来て良かった」
 遠くでサイレンが鳴る。耳鳴りと混じって一瞬だけ二重になり、途切れる。
 頂上からの美しい景色を眺めて、息をついた次の瞬間──
 視界がぐにゃりと歪み、俺は胃のものを吐き出した。
(あれ……なに、が……おこ、って……)
「また、イーカリアか」
 救急医の一人が、担架を見て眉をひそめた。
 クールトリップで、異星旅行に"実際に"行けるのは富裕層だけ。抽選で無料提供される"旅"は、VR技術と香料付きのゴーグル、そして冷感剤による疑似体験だ。
「深部体温四十二度。完全に煮えてるな」
 散らばった薬剤とゴーグルを見て、医師が舌打ちする。彼らもまた、エアコンスーツを身にまとっていた。
「脳が涼しいと錯覚したまま、四十度超えの部屋で何時間も……気づいたときには手遅れだ」
「この人、エアコンが壊れたままVR旅行をしていたようですね」
「修理代と天秤にかけて、か。もう今月で三人目だぞ」
 若い医師が、ソウタの腕を見る。
 眠気や筋肉痛、立ちくらみの症状があった時点で引き返していれば。熱中症の末期。脳へのダメージはおそらく──
「あと少し、早ければ」
 誰かが小さく呟いた。
「惑星イーカリアへの旅、体験版はお楽しみいただけましたか?」
 開け放たれた六畳の部屋。ぎらつく日光と、水飴のような熱気。外から聞こえる工事の金属音。
 畳に倒れた体が、ビクリと小さく痙攣した。
 投げ出されたVRゴーグルが、床の上で映像を流し続けている。薄紫の空、銀緑の草原、双子月。誰も見ていない絶景が、熱波に満ちた部屋でループを続けている。
(ああ、生きてるって感じだ……)
 口元から浅い息が漏れる。
 四十二度で、脳のタンパク質は変性を始めるという。部屋の温度計は、五十二度を指していた。
 ゴーグルから、人工的な明るい声が響く。
「この機会に、ぜひ正会員プランをご検討ください。正会員プランになれば、本物の涼しさを──」
 セミの亡骸すら、もう街にはない。夏は静寂の季節だった。
「あなたもぜひ、涼しい異星で会いましょう!」


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