三國くんはマユミを殺したい。
ー/ー 幼い頃に毎週欠かさず見ていたドラマがあった。トリックが凝っていたり、犯行がちょっと猟奇的だったりする名探偵シリーズである。
犯人の姿がわりとトラウマで、トイレに入った時にふとあの怪人が家の中に居るんじゃないかという想像をしてしまって、個室から出られなくなった記憶がある。最終的には買い物から帰ってきた母の声に安心して、しれっと出ることができたのだが。
その記憶につられてもう一つ思い出したのは、ある意味でテンプレと化した、あのお決まりの場面だった。
「殺人犯と一緒に過ごせっていうの? 冗談じゃない! 私は一人で部屋に籠って鍵をかけるから、絶対に誰も来ないでちょうだい!」っていうヤツ。
これをやる人は絶対次の被害者になる。トリックは解らなくても、それだけはわかる。特に連続殺人ものに必ずと言っていいほど登場するこの第二の被害者だが、これこそ私がああはなるまいよと思った大人像でもあった。だって疑心暗鬼で単独行動をとった挙句、その翌日には被害者になるだなんて格好悪すぎるし、謎増やしてるし、主人公側に迷惑しかかけてない。
故に自分はどんな状況でも節度ある態度を心がけ、最後は笑顔で生き残れるような大人になりたいと思っていた。それはホント。なのだが。
「つまりこの中に犯人が居るってことですか? 信じられない! 私は自分の部屋に籠ります。絶対誰も来ないで!」
言うが早いが扉を閉めて鍵をかけ、早数分後。少し頭が冷えてきて、自分の言動を思い起こし、はたと気がつく。自身の、まるでお手本のような第二の被害者さんっぷりに若干引いた。
え、やだ。待って。まだ死にたくない。
でもあんな啖呵切っちゃった手前すごく戻りにくいし、あの中に犯人が居る事自体は変わらないのである。なにそれ怖い。やっぱり戻りたくない。
落ち着け。まだ連続殺人とは決まってないんだし、明日は皆と合流して解決策を図るのだ。そうだ。それがいい。そのためにはこの部屋でベストは尽くさなきゃ。そう決心した矢先、遠慮がちなノックの音が聞こえた。
「すみ香、大丈夫?」
聞こえてきたのは、幼馴染みのマユミの声だった。
「マユミ?」
「あ……うん。夕飯を持ってきたんだけど、顔見せてよ。落ち着いて話そう」
優しい声がグッと胸に沁みる。一瞬その気遣いに早くも縋りつきたくなった。今ならまだ間に合う。しかし、私はノブにかけようとした自分の手を寸でのところでとめた。
犯人の姿がわりとトラウマで、トイレに入った時にふとあの怪人が家の中に居るんじゃないかという想像をしてしまって、個室から出られなくなった記憶がある。最終的には買い物から帰ってきた母の声に安心して、しれっと出ることができたのだが。
その記憶につられてもう一つ思い出したのは、ある意味でテンプレと化した、あのお決まりの場面だった。
「殺人犯と一緒に過ごせっていうの? 冗談じゃない! 私は一人で部屋に籠って鍵をかけるから、絶対に誰も来ないでちょうだい!」っていうヤツ。
これをやる人は絶対次の被害者になる。トリックは解らなくても、それだけはわかる。特に連続殺人ものに必ずと言っていいほど登場するこの第二の被害者だが、これこそ私がああはなるまいよと思った大人像でもあった。だって疑心暗鬼で単独行動をとった挙句、その翌日には被害者になるだなんて格好悪すぎるし、謎増やしてるし、主人公側に迷惑しかかけてない。
故に自分はどんな状況でも節度ある態度を心がけ、最後は笑顔で生き残れるような大人になりたいと思っていた。それはホント。なのだが。
「つまりこの中に犯人が居るってことですか? 信じられない! 私は自分の部屋に籠ります。絶対誰も来ないで!」
言うが早いが扉を閉めて鍵をかけ、早数分後。少し頭が冷えてきて、自分の言動を思い起こし、はたと気がつく。自身の、まるでお手本のような第二の被害者さんっぷりに若干引いた。
え、やだ。待って。まだ死にたくない。
でもあんな啖呵切っちゃった手前すごく戻りにくいし、あの中に犯人が居る事自体は変わらないのである。なにそれ怖い。やっぱり戻りたくない。
落ち着け。まだ連続殺人とは決まってないんだし、明日は皆と合流して解決策を図るのだ。そうだ。それがいい。そのためにはこの部屋でベストは尽くさなきゃ。そう決心した矢先、遠慮がちなノックの音が聞こえた。
「すみ香、大丈夫?」
聞こえてきたのは、幼馴染みのマユミの声だった。
「マユミ?」
「あ……うん。夕飯を持ってきたんだけど、顔見せてよ。落ち着いて話そう」
優しい声がグッと胸に沁みる。一瞬その気遣いに早くも縋りつきたくなった。今ならまだ間に合う。しかし、私はノブにかけようとした自分の手を寸でのところでとめた。
「ごめん。朝になったらちゃんと顔出すから」
ドア越しにマユミが小さく息を呑む気配があった。
「もしも犯人が私達全員を恨んでるなら、次は孤立した私が狙われると思う。だったら、誰が来ても私がこの扉を開けなければ、今夜はそれで済むかもしれない」
しばらく間があり、やがてため息とともに折れたのはマユミの方だった。
「わかった。夕飯はここに置いておくから、食べられそうだったら食べて」
「うん。ありがとう。ごめんね。また明日会おうね」
「うん」
どこか歯切れの悪い返事が気にかかったが、マユミだってきっと不安でいっぱいで、まさか断られるとは思ってもみなかったのだろう。傍に居てあげられなくてごめん、と内心何度も謝りながらも、こうなった以上、今晩は何があってもこの扉を開けないことを決めていた。
まぁ、でもマユミには三國くんがついてるし、大丈夫だよね。
三國くんとは、今回の旅行サークルの合宿を主催したサークル長であり、法学部の一個上の先輩である。顔よし頭よし家柄よし、と三拍子揃った完璧超人だが、私達のもう一人の幼馴染みでもある。彼ならマユミを守ってくれるだろう。いや、本当だったら最初に警察を呼ぶべきなのだが。
窓の外の暴風雨に吹き荒れる景色を見て、私はため息をついた。携帯電話は圏外だし、雷の影響か、コテージの固定電話も繋がらない。まさにここは陸の孤島だった。常駐している管理人さんも居ないので、マスターキーやスペアキーはない。なので内側から鍵をかけてしまえばそれでもう籠城することはできる。が、しかし。
本棚の隣にある『もう一つの扉』に私は目を向けた。そう。この部屋には外の廊下と繋がる扉の他に、もう一つ隣部屋と通じる内扉があるのだ。
元々とある名家の別荘宅を三國財閥が買い取ってリノベーションしたこのコテージは、こうして大きな一部屋を扉で仕切って、普段は二部屋として使う部屋が存在する。家族連れや団体客のためにこうした仕様を残しているらしいが、今回は隣が空きとなっていたので、チェックイン時からその分の鍵は貸し出されていない。
でも怖い。怖いもんは、怖い。少しでも危険因子は排除したい。一応扉と床の隙間はタオルとガムテで塞いだ。これで有毒ガスとかピアノ線などを下から通すことはできない。欲を言えば扉の前を何か重いもので塞ぎ、物理的に開かないようにしたいが……。私は隣の本棚へと目線を戻した。
ドア越しにマユミが小さく息を呑む気配があった。
「もしも犯人が私達全員を恨んでるなら、次は孤立した私が狙われると思う。だったら、誰が来ても私がこの扉を開けなければ、今夜はそれで済むかもしれない」
しばらく間があり、やがてため息とともに折れたのはマユミの方だった。
「わかった。夕飯はここに置いておくから、食べられそうだったら食べて」
「うん。ありがとう。ごめんね。また明日会おうね」
「うん」
どこか歯切れの悪い返事が気にかかったが、マユミだってきっと不安でいっぱいで、まさか断られるとは思ってもみなかったのだろう。傍に居てあげられなくてごめん、と内心何度も謝りながらも、こうなった以上、今晩は何があってもこの扉を開けないことを決めていた。
まぁ、でもマユミには三國くんがついてるし、大丈夫だよね。
三國くんとは、今回の旅行サークルの合宿を主催したサークル長であり、法学部の一個上の先輩である。顔よし頭よし家柄よし、と三拍子揃った完璧超人だが、私達のもう一人の幼馴染みでもある。彼ならマユミを守ってくれるだろう。いや、本当だったら最初に警察を呼ぶべきなのだが。
窓の外の暴風雨に吹き荒れる景色を見て、私はため息をついた。携帯電話は圏外だし、雷の影響か、コテージの固定電話も繋がらない。まさにここは陸の孤島だった。常駐している管理人さんも居ないので、マスターキーやスペアキーはない。なので内側から鍵をかけてしまえばそれでもう籠城することはできる。が、しかし。
本棚の隣にある『もう一つの扉』に私は目を向けた。そう。この部屋には外の廊下と繋がる扉の他に、もう一つ隣部屋と通じる内扉があるのだ。
元々とある名家の別荘宅を三國財閥が買い取ってリノベーションしたこのコテージは、こうして大きな一部屋を扉で仕切って、普段は二部屋として使う部屋が存在する。家族連れや団体客のためにこうした仕様を残しているらしいが、今回は隣が空きとなっていたので、チェックイン時からその分の鍵は貸し出されていない。
でも怖い。怖いもんは、怖い。少しでも危険因子は排除したい。一応扉と床の隙間はタオルとガムテで塞いだ。これで有毒ガスとかピアノ線などを下から通すことはできない。欲を言えば扉の前を何か重いもので塞ぎ、物理的に開かないようにしたいが……。私は隣の本棚へと目線を戻した。
実は私は高校の頃から引っ越し業者でバイトをしている。家具を一人で持ち上げることはさすがに無理だが、横にずらすコツぐらいは心得ているつもりだ。早速、棚を完全に空にしてから布を下に噛ませ、少しずつ横へと押す。扉の前を塞ぎ、もう一度本を戻せば完璧だ。これでこの部屋は完全に密室となった。額の汗を拭いながら達成感に浸っていると、静かなノックが聞こえた。
「誰?」
ハッとして声をかけると、小さな声で「丹羽だよ」と返ってきた。
「ば、晩ご飯、ま、まだ食べてなかったんだ」
所々に吃音が入る小声は、確かに丹羽先輩のものだった。
「あと、ま、まだ、生きてたね」
「おかげ様で!」
丹羽先輩は、この旅行サークルに何故入っているのか不思議なくらい貧弱で、性格もわりと卑屈で陰湿である。本当は機械いじりの方が好きらしく、風景を撮る写真の技術は素直に感動してしまうが、体力がなくて皆の足も引っ張りがちなので、第一の被害者である新島先輩に嫌ないじられ方をしていた。フォローして変に懐かれるのも嫌で、普段から関わりを控えていたのだが、その丹羽先輩が何の用だろう。
「よ、様子を見にきたんだ。三國君に言われて」
「私は大丈夫です。先輩方は?」
「だ、談話室で暖炉の番をしながらソファで仮眠をとってる。二人以上は必ず起きてることにしてね。ま、まるで、遭難状態だ。お互いがお互いを見張り合っててさ。ひひっ」
おい、そこ、なんで笑った?
「でもこれでもし君が既に死んでたら、か、完全に外部犯だったのにね」
「え、どういう事ですか?」
「今朝、家でニュースを見てね。この地区で殺人事件が起きたんだって。もしかしたら犯人が山中に逃げてる可能性もあるよね」
「それ他の先輩方には……」
「言ってない。ま、まだ確定したわけじゃないし、この状態が、こ、滑稽なんだもの。人間なんて何か起こればこんなもんだよね」
うわ、こいつ……。正直、今も怯えているのであろう皆のことを考えると、罵詈雑言が口から飛び出しそうになったが、理性でなんとか踏みとどまった。
「い、言っとくけど、ぼ、僕は君を疑ってるよ」
「は?」
「に、新島に度々飲みに誘われてただろ。断りにくかったんじゃないの? ほ、ほんとはさ」
「違います! それはっ」
「それは?」
それが今は亡き新島先輩のプライバシーに関わると思い至り、私は再び言葉を飲み込んだ。
「誰?」
ハッとして声をかけると、小さな声で「丹羽だよ」と返ってきた。
「ば、晩ご飯、ま、まだ食べてなかったんだ」
所々に吃音が入る小声は、確かに丹羽先輩のものだった。
「あと、ま、まだ、生きてたね」
「おかげ様で!」
丹羽先輩は、この旅行サークルに何故入っているのか不思議なくらい貧弱で、性格もわりと卑屈で陰湿である。本当は機械いじりの方が好きらしく、風景を撮る写真の技術は素直に感動してしまうが、体力がなくて皆の足も引っ張りがちなので、第一の被害者である新島先輩に嫌ないじられ方をしていた。フォローして変に懐かれるのも嫌で、普段から関わりを控えていたのだが、その丹羽先輩が何の用だろう。
「よ、様子を見にきたんだ。三國君に言われて」
「私は大丈夫です。先輩方は?」
「だ、談話室で暖炉の番をしながらソファで仮眠をとってる。二人以上は必ず起きてることにしてね。ま、まるで、遭難状態だ。お互いがお互いを見張り合っててさ。ひひっ」
おい、そこ、なんで笑った?
「でもこれでもし君が既に死んでたら、か、完全に外部犯だったのにね」
「え、どういう事ですか?」
「今朝、家でニュースを見てね。この地区で殺人事件が起きたんだって。もしかしたら犯人が山中に逃げてる可能性もあるよね」
「それ他の先輩方には……」
「言ってない。ま、まだ確定したわけじゃないし、この状態が、こ、滑稽なんだもの。人間なんて何か起こればこんなもんだよね」
うわ、こいつ……。正直、今も怯えているのであろう皆のことを考えると、罵詈雑言が口から飛び出しそうになったが、理性でなんとか踏みとどまった。
「い、言っとくけど、ぼ、僕は君を疑ってるよ」
「は?」
「に、新島に度々飲みに誘われてただろ。断りにくかったんじゃないの? ほ、ほんとはさ」
「違います! それはっ」
「それは?」
それが今は亡き新島先輩のプライバシーに関わると思い至り、私は再び言葉を飲み込んだ。
「とにかく、先輩が邪推してるような事はありませんよ。セクハラもアルハラも受けてないですし、私は新島先輩を恨んでもいません」
恨んでるとしたらむしろ先輩の方だろう。私だって一番に疑ってるのは丹羽先輩だ。
「まぁ、き、君が朝まで生き延びたら、代わりに死ぬのは、ぼ、僕じゃないかな。一番弱そうだしね」
恨んでるとしたらむしろ先輩の方だろう。私だって一番に疑ってるのは丹羽先輩だ。
「まぁ、き、君が朝まで生き延びたら、代わりに死ぬのは、ぼ、僕じゃないかな。一番弱そうだしね」
自嘲を織り交ぜて話しを結び、交代の時間だからと丹羽先輩は一階へと戻って行った。足音が遠のき、ほっと緊張していた肩の力が抜ける。
それにしても、丹羽先輩の言った外部犯という可能性に再び怖気が走った。例えば私達がチェックインする前に、もうすでに犯人が潜伏先としてこのコテージを見つけていたら? それこそ新島先輩は犯人と鉢合わせになって殺されたのかも。考えすぎかもしれないが、隣の部屋の廊下に繋がる扉の方も、今からでも塞いでしまおうか。
しかし私は、いや待てよ、と思い直した。ドラマでは部屋の扉を自ら開けた途端に死ぬというトリックが多い。ましてや今は一番怪しい人が去っていった後である。扉に何か細工がされてるかもしれないし、そもそも外部犯という情報も、私をおびき出すためのブラフかも。
どうしたもんかと悩んでいると、ぐぅっと腹の虫が鳴いた。私か? と一瞬思ったが、違う。扉の向こうに誰か居るのだ。ドッと心臓が鳴った。
「誰かいるの?」
背筋に寒いものが走りながらもなるべく気丈に尋ねると、数秒の沈黙の後、躊躇いがちなノックが一度、聞こえた。不気味すぎて叫びそうになったが、パニックはいけないと必死に自制する。
それにしても、丹羽先輩の言った外部犯という可能性に再び怖気が走った。例えば私達がチェックインする前に、もうすでに犯人が潜伏先としてこのコテージを見つけていたら? それこそ新島先輩は犯人と鉢合わせになって殺されたのかも。考えすぎかもしれないが、隣の部屋の廊下に繋がる扉の方も、今からでも塞いでしまおうか。
しかし私は、いや待てよ、と思い直した。ドラマでは部屋の扉を自ら開けた途端に死ぬというトリックが多い。ましてや今は一番怪しい人が去っていった後である。扉に何か細工がされてるかもしれないし、そもそも外部犯という情報も、私をおびき出すためのブラフかも。
どうしたもんかと悩んでいると、ぐぅっと腹の虫が鳴いた。私か? と一瞬思ったが、違う。扉の向こうに誰か居るのだ。ドッと心臓が鳴った。
「誰かいるの?」
背筋に寒いものが走りながらもなるべく気丈に尋ねると、数秒の沈黙の後、躊躇いがちなノックが一度、聞こえた。不気味すぎて叫びそうになったが、パニックはいけないと必死に自制する。
「誰?」
声を潜めて再度訊くと、扉の下からなにやら白い紙が滑り込んできた。慌てて拾ってみると、それはなんともシンプルな名刺だった。
「写真家、柴田光?」
中央に書かれた名前を復唱して、私は首を傾げた。どこかで見たような名前だったのだ。
「あ」
思い出した。丹羽先輩がファンで、ちゃっかり部室に持ち込まれたポスターやカレンダーに彼の写真が使われていた気がする。確か普段はネイチャー系の雑誌を専門とする写真家だ。
「すみません。驚かせるつもりはなかったんですが。実は昨日チェックアウトするはずが、今まで眠ってしまっていてあなた方が来たことに気づかなかったんです。昨晩は夜行性の動物をずっと張っていまして。今日がフリーだったもので、つい気が緩んでしまい……」
「えーと」
今一つ怪しんでいいのか、笑えばいいのかわからない間の抜けた話しに、妙に呑気な空気が醸し出される。仮に殺人犯でも、もっとうまい言い訳を言いそうだが。
「ということは、まだ部屋の鍵を返してないってことですよね?」
部外者が隣部屋にいる。恐れていた事態が普通に起きていて、つい鍵の所在を確認してしまったのだが、柴田さんの返事は少し予想の斜め上をいくものだった。
「ええ。なので明朝には管理会社の方が不審に思って、なんらかの対応をとってくれるかと」
声を潜めて再度訊くと、扉の下からなにやら白い紙が滑り込んできた。慌てて拾ってみると、それはなんともシンプルな名刺だった。
「写真家、柴田光?」
中央に書かれた名前を復唱して、私は首を傾げた。どこかで見たような名前だったのだ。
「あ」
思い出した。丹羽先輩がファンで、ちゃっかり部室に持ち込まれたポスターやカレンダーに彼の写真が使われていた気がする。確か普段はネイチャー系の雑誌を専門とする写真家だ。
「すみません。驚かせるつもりはなかったんですが。実は昨日チェックアウトするはずが、今まで眠ってしまっていてあなた方が来たことに気づかなかったんです。昨晩は夜行性の動物をずっと張っていまして。今日がフリーだったもので、つい気が緩んでしまい……」
「えーと」
今一つ怪しんでいいのか、笑えばいいのかわからない間の抜けた話しに、妙に呑気な空気が醸し出される。仮に殺人犯でも、もっとうまい言い訳を言いそうだが。
「ということは、まだ部屋の鍵を返してないってことですよね?」
部外者が隣部屋にいる。恐れていた事態が普通に起きていて、つい鍵の所在を確認してしまったのだが、柴田さんの返事は少し予想の斜め上をいくものだった。
「ええ。なので明朝には管理会社の方が不審に思って、なんらかの対応をとってくれるかと」
「あ、なるほど」
つまりこの一晩を凌げば、外部の人が来てくれるということだ。その希望の光と先程の話しも相まって、私の警戒心は少し緩んだ。
「でも、今どうして私の部屋の前に居るんですか?」
「先程から会話を聞いていたのですが、外部犯という言葉を聞いてぎょっとしまして。このタイミングであなたに弁明しておくか、それとも朝が来るまで部屋に籠っているか迷っていたところ、腹の虫が鳴ってしまいました」
これまたタイミングよく、再び柴田さんのお腹が鳴るのが聞こえた。
「あの、もしよければそこに置いてあるご飯、食べてくれませんか。食欲なくて。冷めてて申し訳ないですが」
「え、いいんですか? いやぁ、朝から何も食べてないんで、ありがたいです」
無邪気な返事にとうとう笑ってしまう。確かにこの状況では柴田さんが真っ先に犯人として疑われるだろう。しかし仕事で宿泊していたということは身元もハッキリしてるし、第一に新島先輩を殺す動機がない。
「また誰かが上がってきたら柴田さんのことをご紹介しましょうか?」
「いえ。皆さんをこれ以上刺激したくないのでまた部屋に籠ろうと思います。朝が来たら大人しくあなたと一緒に顔を出しますよ。もし皆さんに今夜中にバレてしまったら、事情説明のお手伝いをしてくださいますか?」
「もちろんです」
「よかった。それにしても、目が覚めたら殺人事件が起きていただなんて驚きですよ」
そりゃあそうだろうな、と思う。私だって未だに信じたくない。
「亡くなられた方、新島さん? という方でしょうか。その方はどのように亡くなられたんですか?」
つまりこの一晩を凌げば、外部の人が来てくれるということだ。その希望の光と先程の話しも相まって、私の警戒心は少し緩んだ。
「でも、今どうして私の部屋の前に居るんですか?」
「先程から会話を聞いていたのですが、外部犯という言葉を聞いてぎょっとしまして。このタイミングであなたに弁明しておくか、それとも朝が来るまで部屋に籠っているか迷っていたところ、腹の虫が鳴ってしまいました」
これまたタイミングよく、再び柴田さんのお腹が鳴るのが聞こえた。
「あの、もしよければそこに置いてあるご飯、食べてくれませんか。食欲なくて。冷めてて申し訳ないですが」
「え、いいんですか? いやぁ、朝から何も食べてないんで、ありがたいです」
無邪気な返事にとうとう笑ってしまう。確かにこの状況では柴田さんが真っ先に犯人として疑われるだろう。しかし仕事で宿泊していたということは身元もハッキリしてるし、第一に新島先輩を殺す動機がない。
「また誰かが上がってきたら柴田さんのことをご紹介しましょうか?」
「いえ。皆さんをこれ以上刺激したくないのでまた部屋に籠ろうと思います。朝が来たら大人しくあなたと一緒に顔を出しますよ。もし皆さんに今夜中にバレてしまったら、事情説明のお手伝いをしてくださいますか?」
「もちろんです」
「よかった。それにしても、目が覚めたら殺人事件が起きていただなんて驚きですよ」
そりゃあそうだろうな、と思う。私だって未だに信じたくない。
「亡くなられた方、新島さん? という方でしょうか。その方はどのように亡くなられたんですか?」
状況を知っておきたいのだろう。が、私は一瞬、言い淀んでしまった。正直ちょっと思い出したくなかったのである。その沈黙に気づいたのだろう。柴田さんが一層声を潜めた。
「えっと、あなたは、すみ香さんで合っていますか?」
「あ、ごめんなさい。私の自己紹介がまだでしたね。はい。黛すみ香といいます」
「黛さんですね。事件について安易に聞いてしまいましたが、無理しないで下さい。普通、思い出したくないですよね」
「いえ、でも話してる内になにか気づくこともあるかも。お話しさせて下さい」
「大丈夫ですか?」
「はい。えっと、柴田さんもこのコテージに来る途中に吊り橋を渡ったと思うんですが、あの下にナイフで胸を刺された新島先輩の遺体があったんです。丁度下半身を川のほとりに浸けるような感じで」
「えっと、あなたは、すみ香さんで合っていますか?」
「あ、ごめんなさい。私の自己紹介がまだでしたね。はい。黛すみ香といいます」
「黛さんですね。事件について安易に聞いてしまいましたが、無理しないで下さい。普通、思い出したくないですよね」
「いえ、でも話してる内になにか気づくこともあるかも。お話しさせて下さい」
「大丈夫ですか?」
「はい。えっと、柴田さんもこのコテージに来る途中に吊り橋を渡ったと思うんですが、あの下にナイフで胸を刺された新島先輩の遺体があったんです。丁度下半身を川のほとりに浸けるような感じで」
「どうして彼はそんなところに?」
「さぁ……。私達、お昼頃には頂上に着いて、時間を決めて辺りを散策することにしたんです。でも新島先輩が約束の時間になっても全然来なかったから、何かあったのかもしれないということになって。とにかく先に皆でコテージに向かって、装備を軽くしてから本格的に捜そうということになったんです」
「なるほど。そしてその道中に彼の遺体を発見した、と。第一発見者はどなたですか?」
聞かれて初めてその言葉を意識した。第一発見者。
「三國くんです。彼が吊り橋の先頭を歩いていたので」
その時、再び誰かが二階に上がってくる足音が聞こえてきた。柴田さんも気づいたのだろう。隣部屋の扉が静かに閉まる音が聞こえた。入れ違いに足音が廊下を歩く音へと変わり、軽いノックが聞こえた。
「さぁ……。私達、お昼頃には頂上に着いて、時間を決めて辺りを散策することにしたんです。でも新島先輩が約束の時間になっても全然来なかったから、何かあったのかもしれないということになって。とにかく先に皆でコテージに向かって、装備を軽くしてから本格的に捜そうということになったんです」
「なるほど。そしてその道中に彼の遺体を発見した、と。第一発見者はどなたですか?」
聞かれて初めてその言葉を意識した。第一発見者。
「三國くんです。彼が吊り橋の先頭を歩いていたので」
その時、再び誰かが二階に上がってくる足音が聞こえてきた。柴田さんも気づいたのだろう。隣部屋の扉が静かに閉まる音が聞こえた。入れ違いに足音が廊下を歩く音へと変わり、軽いノックが聞こえた。
「すみ香ちゃん、大丈夫?」
綺麗にハモった声が扉の向こうから聞こえてきて、私は詰めていた息を吐いた。
「綿実先輩方」
「あ、ご飯、食べれたんだね。じゃ、下げちゃうお」
「ありがとうございます」
綿実先輩は姉の桜子さんと妹の撫子さんの一卵性双生児だ。二人ともよく似ていて、髪型を変えられてしまうと全く見分けられなくなる。そんなお茶目な先輩方だが、同じ女子部員ということで普段から何かとお世話になっていた。
「なんだか大変なことになっちゃったね」
「私は丹羽先輩が怪しいと思います」
二人に注意喚起する為にもいち早く宣言すると、扉からは「うーん、丹羽かぁ」という二人の悩ましい唸り声が聞こえてきた。
「あたし達はさ、三國が怪しいと思ってる」
「えっ」
「だってよく言うじゃん。第一発見者が怪しいって。それに新島ってすみ香ちゃんのことよく飲みに誘ってたし。面白くなかったと思うよ」
「え? なんでですか?」
「え? そりゃあ……」
桜子さんが言いかけた直後、つんざくような悲鳴が階下から聞こえた。
「あの声、丹羽先輩?」
「行こう。桜子。すみ香ちゃんはそこに居て!」
「えっ」
展開の早さに戸惑っている内に、二人は階下に降りて行ってしまった。しばらく扉の前でやきもきしていると、十五分程経っただろうか。誰かが階段を上がって来る音がした。足音は一人分。直感的に綿実姉妹ではないと思った。
「すみ香? そこにいる?」
「三國くん? あの悲鳴はなに? 皆は無事なの?」
恐る恐る尋ねると、数秒の間、彼は黙り込んでいた。
「すみ香、落ち着いて聞いてほしい」
やがて重い口を開いて、彼が一言私に告げた。
「マユミが死んだ」
え。
「ごめん。これからのこと話したいから、下に降りて来てくれないか?」
「嫌っ」
「すみ香」
「絶対嫌っ。信じない! マユミが死んじゃうなんて! なんでそんな」
「すみ香、落ち着いて」
「……一人にして」
「……わかった。でも、待ってるから」
どこか名残り惜しそうにゆっくりと階下に降りていく三國くんの足音が完全に聞こえなくなるまで、私はその場に立ち尽くしていた。
マユミが死んだ。勝手に涙がこぼれ落ち、ズルズルと扉の前に崩れる。私の泣き声が聞こえてきたのだろう。ややあって、隣部屋の扉がそっと開く音が聞こえ、柴田さんが再びやって来た気配がした。
「黛さん」
「すみません、今はほっといてくれませんか」
「ええ、でも、もしかして今やって来た彼が三國さんですか?」
「そうですけど」
「マユミさんではなく?」
「え?」
不可思議なその言葉に顔を上げると、柴田さんが何かに気づいたのか、慌てた調子で再び隣部屋に戻っていく音がした。間一髪だ。バタバタと騒々しい足音が廊下を走り、忙しないノックが鳴り響いた。
綺麗にハモった声が扉の向こうから聞こえてきて、私は詰めていた息を吐いた。
「綿実先輩方」
「あ、ご飯、食べれたんだね。じゃ、下げちゃうお」
「ありがとうございます」
綿実先輩は姉の桜子さんと妹の撫子さんの一卵性双生児だ。二人ともよく似ていて、髪型を変えられてしまうと全く見分けられなくなる。そんなお茶目な先輩方だが、同じ女子部員ということで普段から何かとお世話になっていた。
「なんだか大変なことになっちゃったね」
「私は丹羽先輩が怪しいと思います」
二人に注意喚起する為にもいち早く宣言すると、扉からは「うーん、丹羽かぁ」という二人の悩ましい唸り声が聞こえてきた。
「あたし達はさ、三國が怪しいと思ってる」
「えっ」
「だってよく言うじゃん。第一発見者が怪しいって。それに新島ってすみ香ちゃんのことよく飲みに誘ってたし。面白くなかったと思うよ」
「え? なんでですか?」
「え? そりゃあ……」
桜子さんが言いかけた直後、つんざくような悲鳴が階下から聞こえた。
「あの声、丹羽先輩?」
「行こう。桜子。すみ香ちゃんはそこに居て!」
「えっ」
展開の早さに戸惑っている内に、二人は階下に降りて行ってしまった。しばらく扉の前でやきもきしていると、十五分程経っただろうか。誰かが階段を上がって来る音がした。足音は一人分。直感的に綿実姉妹ではないと思った。
「すみ香? そこにいる?」
「三國くん? あの悲鳴はなに? 皆は無事なの?」
恐る恐る尋ねると、数秒の間、彼は黙り込んでいた。
「すみ香、落ち着いて聞いてほしい」
やがて重い口を開いて、彼が一言私に告げた。
「マユミが死んだ」
え。
「ごめん。これからのこと話したいから、下に降りて来てくれないか?」
「嫌っ」
「すみ香」
「絶対嫌っ。信じない! マユミが死んじゃうなんて! なんでそんな」
「すみ香、落ち着いて」
「……一人にして」
「……わかった。でも、待ってるから」
どこか名残り惜しそうにゆっくりと階下に降りていく三國くんの足音が完全に聞こえなくなるまで、私はその場に立ち尽くしていた。
マユミが死んだ。勝手に涙がこぼれ落ち、ズルズルと扉の前に崩れる。私の泣き声が聞こえてきたのだろう。ややあって、隣部屋の扉がそっと開く音が聞こえ、柴田さんが再びやって来た気配がした。
「黛さん」
「すみません、今はほっといてくれませんか」
「ええ、でも、もしかして今やって来た彼が三國さんですか?」
「そうですけど」
「マユミさんではなく?」
「え?」
不可思議なその言葉に顔を上げると、柴田さんが何かに気づいたのか、慌てた調子で再び隣部屋に戻っていく音がした。間一髪だ。バタバタと騒々しい足音が廊下を走り、忙しないノックが鳴り響いた。
「黛! 泣いてんのか!」
その元気な声にポカンと私は口を開けた。だってその声は、死んだはずの新島先輩の声だったからだ。
その元気な声にポカンと私は口を開けた。だってその声は、死んだはずの新島先輩の声だったからだ。
「ぎゃーっ! 幽霊!」
しゃがみこんでいたこともあって、私はそのまま尻餅をついて、叫んだ。
「おぉっ。丹羽と同じ反応」
快活な笑顔が見えるような声に、私は恐る恐る再び扉の前に四つ這いで近寄った。
「本当に本物の先輩? でもなんで……」
「すまん! 全部ドッキリだ!」
「はぁ?」
「でも標的はお前じゃない。丹羽だった。ただお前がマジで信じるからちょっと面白くなって、ついでに丹羽も死んだことにしようって三國が言い出したんだが」
ん? 丹羽も死んだことにする? ちょっと待って。
「そもそもどうして丹羽先輩を標的に?」
「俺がもし死んだら丹羽がどういう反応するのか知りたかったんだ」
「それって……」
思い当たったのは新島先輩のプライバシーを考えて、丹羽先輩には言わないでおいた飲みの席での相談事だった。そう。もしかしたら自分は同性の方を好きになってしまったかもしれないという……。
しゃがみこんでいたこともあって、私はそのまま尻餅をついて、叫んだ。
「おぉっ。丹羽と同じ反応」
快活な笑顔が見えるような声に、私は恐る恐る再び扉の前に四つ這いで近寄った。
「本当に本物の先輩? でもなんで……」
「すまん! 全部ドッキリだ!」
「はぁ?」
「でも標的はお前じゃない。丹羽だった。ただお前がマジで信じるからちょっと面白くなって、ついでに丹羽も死んだことにしようって三國が言い出したんだが」
ん? 丹羽も死んだことにする? ちょっと待って。
「そもそもどうして丹羽先輩を標的に?」
「俺がもし死んだら丹羽がどういう反応するのか知りたかったんだ」
「それって……」
思い当たったのは新島先輩のプライバシーを考えて、丹羽先輩には言わないでおいた飲みの席での相談事だった。そう。もしかしたら自分は同性の方を好きになってしまったかもしれないという……。
「もしかして、そのお相手が丹羽先輩?」
「うん。三國にも相談したら、このドッキリを考えてくれて。でも黛はすぐに顔に出るからって内緒にさせてもらった」
「じゃあ、丹羽先輩以外みんなグル!?」
「うん」
ということは、さっきの丹羽先輩の悲鳴はマユミの遺体を見つけたからではなく、新島先輩が出てきたからか!
「人間不信に陥りそう」
「ごめんて! でもそのおかげで三國が丹羽のことべろべろに酔わせてくれてさ、さっき「僕だって悲しいですよ! なんで死んじゃったんですか! 新島!」っていう言葉が聞き出せたから、なんかちょっと希望が見えたよ」
「はー、そーですか」
「拗ねるなよ。悪かったって。せめて今夜はゆっくり眠ってほしくてネタばらしに来たんだ。だから安心して寝ろよ。な」
「言われなくてもそうさせていただきます」
「よしよし、じゃな、おやすみ」
まるで嵐のような展開だ。また嘘のように静けさを取り戻した扉をぼけっと見上げていると、控えめなノックが聞こえた。あ、たぶん柴田さんだ。
「柴田さん、さっきの話って、どういう意味ですか?」
「今までの会話を聞いていて私なりに皆さんの人間関係にあたりをつけていたんですが、私は最初、三國さんがマユミさんだと思っていたんです」
「なんでそんな勘違いを?」
「最初に夕飯のトレーを持ってきた方が、三國さんだったからです」
「へっ?」
「黛さんのマユミかという呼びかけに彼が答えたので、彼はマユミという苗字なんだと思いました」
「そ、そんなはず……」
しかし指摘された途端に何故か急にマユミの声がぼやけてきた。声だけではなく顔や背格好の輪郭もうまく思い出せない。思い出せない? 嘘だ。そんな馬鹿な。
「黛さん、本当はマユミさんは存在しないのではないですか?」
「……え?」
「いや、居ないというのは酷かもしれません。彼女は三國さんとあなたの間でしか通じない秘密の友達だったのでは?」
「なに言って……」
「誰が訪ねて来てもあなたはマユミさんの様子を聞こうとしなかったですし、どうやって死んだのかすら聞かなかった。他の方も普通は階下でマユミさんがどうしてるのか一言二言あってもいいはずだ。でもマユミさんの名前を出したのは三國さんだけ。そして一番解せないのは、この騒ぎの発案者が新島さんではなく、三國さんということです。なぜ彼は皆さんには悪ふざけの上乗せで丹羽さんも死んだことにしようと言っておいて、あなたにはマユミさんの死を伝えたのか」
カタカタという音が聞こえてきて、自分の歯の根が鳴っているのだと気づいた。
「昔、週刊誌の記者をやっていた友人から聞いた話しがありましてね。十二年前、八才の少女がトイレに行っている間に空き巣が入り込んだという事件がありました。異変に気づいた少女は母親が買い物から帰ってくるまで、ずっと息を殺して個室に閉じ籠っていたそうです。しかし少女はずっと友達と話していたから大丈夫だったと語った。無論、個室には少女しかいません。おそらく彼女は、頭の中で空想の友達を作り出し、その子と会話することで極限状態を乗り切ろうとしたのでしょう。少女のイニシャルは確か、M・S――、黛すみ香さん、あなたでは?」
帰ってきた母の呑気な声が、荒らされた部屋を見て悲鳴に変わった。泣きながら「すみ香、すみ香!」と呼ばれて、やっとトイレの扉を開けた八才の自分。自分の都合の良いように歪められた記憶が、めまぐるしく正しく矯正されていく。
「その記事を握り潰したのが、三國財閥だったと聞いています。記事を読み、あなたに顔を見られたかもしれないと危惧した犯人があなたに危害を及ぼさないように、と」
ああ、と思わず声が洩れた。
「これは想像ですが、黛さんの心の支えであるマユミさんを三國さんは何度か利用した事があったのかもしれませんね。それが更なる記憶の改竄を引き起こし、黛さんの中でマユミという架空の人物の存在の有無を曖昧にしてしまった」
「でもなんでこんなドッキリを……」
「三國さんは前々からマユミさんを消す方法を考えていたのではないでしょうか。少し荒治療かとも思いますが、わざとあなたを部屋に引き籠らせ情緒不安定にし、マユミさんを炙り出したのち、更に部屋の外で死んだことにした。本当ならマユミさんの死を聞いた時点であなたが部屋から飛び出し、階下でネタバラシした後、改めてマユミという人物が結局はどこにもいなかったという現実に気づいてほしかったのかもしれません」
「だからなんで、三國くんがそこまでっ!」
「わかりませんか? たぶん三國さんは黛さんに好意を持ってるからですよ。そしてそれは、黛さんも同じなのでは?」
柴田さんの言葉で、一回全部吹っ飛んだ。三國くんが私をすき?
「あ。雨が、あがりましたね」
未だぐるぐるしている私の頭に、柴田さんの穏やかな声が響いた。
「もうすぐ夜明けですし、皆さんもきっともう私室に戻って眠っていらっしゃるでしょう」
それはまるで、どこかへ行ってしまうような口ぶりだった。
「まだ山道は危ないですよ。このまま管理会社の方が来るのを待ったほうが」
「もちろん本当に殺人事件が起きていたらそうさせていただきましたが、ドッキリでしたし、怒られるのはチェックアウトを忘れた私だけですからね。私はこの隙に下山して、管理会社の方に電話をかけることにしますよ。いやぁ、なかなかにスリリングな夜でした」
「……ええ、本当に」
どこまでも呑気な柴田さんにつられて、ようやく少しだけ笑うことができた。
「では、お元気で。すみ香さん」
「はい。柴田さんも」
どうやら私にはこれから向き合わなければならないことがたくさんあるようだが、とにかく三國くんと話したい。そう思った。朝が来たら、何を話そう。少しの気まずさと喪失感。しかしどこか晴れやかな気持ちもあった。
――翌朝。
電波が繋がったテレビのニュースを見て、私は呆然とした。
「あれ? この被害者、丹羽がファンの写真家じゃないか?」
「ああ、き、昨日の事件の……まだ捕まってないんだね。犯人」
「だから丹羽、いつもより卑屈度が上がってたのか」
「へぇ。所持品がなくなってたんだって」
皆の会話を聞きながら立ちすくむ私に、隣に居た三國くんが小首を傾げた。
「どうしたの? すみ香」
「……ううん。なんでもない」
十二年前、トイレの個室の小窓からちらりと見た空き巣の犯人の顔が、今まさにテレビに映っている被害者の写真――柴田光、その人だったのである。
「うん。三國にも相談したら、このドッキリを考えてくれて。でも黛はすぐに顔に出るからって内緒にさせてもらった」
「じゃあ、丹羽先輩以外みんなグル!?」
「うん」
ということは、さっきの丹羽先輩の悲鳴はマユミの遺体を見つけたからではなく、新島先輩が出てきたからか!
「人間不信に陥りそう」
「ごめんて! でもそのおかげで三國が丹羽のことべろべろに酔わせてくれてさ、さっき「僕だって悲しいですよ! なんで死んじゃったんですか! 新島!」っていう言葉が聞き出せたから、なんかちょっと希望が見えたよ」
「はー、そーですか」
「拗ねるなよ。悪かったって。せめて今夜はゆっくり眠ってほしくてネタばらしに来たんだ。だから安心して寝ろよ。な」
「言われなくてもそうさせていただきます」
「よしよし、じゃな、おやすみ」
まるで嵐のような展開だ。また嘘のように静けさを取り戻した扉をぼけっと見上げていると、控えめなノックが聞こえた。あ、たぶん柴田さんだ。
「柴田さん、さっきの話って、どういう意味ですか?」
「今までの会話を聞いていて私なりに皆さんの人間関係にあたりをつけていたんですが、私は最初、三國さんがマユミさんだと思っていたんです」
「なんでそんな勘違いを?」
「最初に夕飯のトレーを持ってきた方が、三國さんだったからです」
「へっ?」
「黛さんのマユミかという呼びかけに彼が答えたので、彼はマユミという苗字なんだと思いました」
「そ、そんなはず……」
しかし指摘された途端に何故か急にマユミの声がぼやけてきた。声だけではなく顔や背格好の輪郭もうまく思い出せない。思い出せない? 嘘だ。そんな馬鹿な。
「黛さん、本当はマユミさんは存在しないのではないですか?」
「……え?」
「いや、居ないというのは酷かもしれません。彼女は三國さんとあなたの間でしか通じない秘密の友達だったのでは?」
「なに言って……」
「誰が訪ねて来てもあなたはマユミさんの様子を聞こうとしなかったですし、どうやって死んだのかすら聞かなかった。他の方も普通は階下でマユミさんがどうしてるのか一言二言あってもいいはずだ。でもマユミさんの名前を出したのは三國さんだけ。そして一番解せないのは、この騒ぎの発案者が新島さんではなく、三國さんということです。なぜ彼は皆さんには悪ふざけの上乗せで丹羽さんも死んだことにしようと言っておいて、あなたにはマユミさんの死を伝えたのか」
カタカタという音が聞こえてきて、自分の歯の根が鳴っているのだと気づいた。
「昔、週刊誌の記者をやっていた友人から聞いた話しがありましてね。十二年前、八才の少女がトイレに行っている間に空き巣が入り込んだという事件がありました。異変に気づいた少女は母親が買い物から帰ってくるまで、ずっと息を殺して個室に閉じ籠っていたそうです。しかし少女はずっと友達と話していたから大丈夫だったと語った。無論、個室には少女しかいません。おそらく彼女は、頭の中で空想の友達を作り出し、その子と会話することで極限状態を乗り切ろうとしたのでしょう。少女のイニシャルは確か、M・S――、黛すみ香さん、あなたでは?」
帰ってきた母の呑気な声が、荒らされた部屋を見て悲鳴に変わった。泣きながら「すみ香、すみ香!」と呼ばれて、やっとトイレの扉を開けた八才の自分。自分の都合の良いように歪められた記憶が、めまぐるしく正しく矯正されていく。
「その記事を握り潰したのが、三國財閥だったと聞いています。記事を読み、あなたに顔を見られたかもしれないと危惧した犯人があなたに危害を及ぼさないように、と」
ああ、と思わず声が洩れた。
「これは想像ですが、黛さんの心の支えであるマユミさんを三國さんは何度か利用した事があったのかもしれませんね。それが更なる記憶の改竄を引き起こし、黛さんの中でマユミという架空の人物の存在の有無を曖昧にしてしまった」
「でもなんでこんなドッキリを……」
「三國さんは前々からマユミさんを消す方法を考えていたのではないでしょうか。少し荒治療かとも思いますが、わざとあなたを部屋に引き籠らせ情緒不安定にし、マユミさんを炙り出したのち、更に部屋の外で死んだことにした。本当ならマユミさんの死を聞いた時点であなたが部屋から飛び出し、階下でネタバラシした後、改めてマユミという人物が結局はどこにもいなかったという現実に気づいてほしかったのかもしれません」
「だからなんで、三國くんがそこまでっ!」
「わかりませんか? たぶん三國さんは黛さんに好意を持ってるからですよ。そしてそれは、黛さんも同じなのでは?」
柴田さんの言葉で、一回全部吹っ飛んだ。三國くんが私をすき?
「あ。雨が、あがりましたね」
未だぐるぐるしている私の頭に、柴田さんの穏やかな声が響いた。
「もうすぐ夜明けですし、皆さんもきっともう私室に戻って眠っていらっしゃるでしょう」
それはまるで、どこかへ行ってしまうような口ぶりだった。
「まだ山道は危ないですよ。このまま管理会社の方が来るのを待ったほうが」
「もちろん本当に殺人事件が起きていたらそうさせていただきましたが、ドッキリでしたし、怒られるのはチェックアウトを忘れた私だけですからね。私はこの隙に下山して、管理会社の方に電話をかけることにしますよ。いやぁ、なかなかにスリリングな夜でした」
「……ええ、本当に」
どこまでも呑気な柴田さんにつられて、ようやく少しだけ笑うことができた。
「では、お元気で。すみ香さん」
「はい。柴田さんも」
どうやら私にはこれから向き合わなければならないことがたくさんあるようだが、とにかく三國くんと話したい。そう思った。朝が来たら、何を話そう。少しの気まずさと喪失感。しかしどこか晴れやかな気持ちもあった。
――翌朝。
電波が繋がったテレビのニュースを見て、私は呆然とした。
「あれ? この被害者、丹羽がファンの写真家じゃないか?」
「ああ、き、昨日の事件の……まだ捕まってないんだね。犯人」
「だから丹羽、いつもより卑屈度が上がってたのか」
「へぇ。所持品がなくなってたんだって」
皆の会話を聞きながら立ちすくむ私に、隣に居た三國くんが小首を傾げた。
「どうしたの? すみ香」
「……ううん。なんでもない」
十二年前、トイレの個室の小窓からちらりと見た空き巣の犯人の顔が、今まさにテレビに映っている被害者の写真――柴田光、その人だったのである。
了
みんなのリアクション
まだリアクションはありません。最初の一歩を踏み出しましょう!
幼い頃に毎週欠かさず見ていたドラマがあった。トリックが凝っていたり、犯行がちょっと猟奇的だったりする名探偵シリーズである。
犯人の姿がわりとトラウマで、トイレに入った時にふとあの怪人が家の中に居るんじゃないかという想像をしてしまって、個室から出られなくなった記憶がある。最終的には買い物から帰ってきた母の声に安心して、しれっと出ることができたのだが。
その記憶につられてもう一つ思い出したのは、ある意味でテンプレと化した、あのお決まりの場面だった。
「殺人犯と一緒に過ごせっていうの? 冗談じゃない! 私は一人で部屋に籠って鍵をかけるから、絶対に誰も来ないでちょうだい!」っていうヤツ。
これをやる人は絶対次の被害者になる。トリックは解らなくても、それだけはわかる。特に連続殺人ものに必ずと言っていいほど登場するこの第二の被害者だが、これこそ私がああはなるまいよと思った大人像でもあった。だって疑心暗鬼で単独行動をとった挙句、その翌日には被害者になるだなんて格好悪すぎるし、謎増やしてるし、主人公側に迷惑しかかけてない。
故に自分はどんな状況でも節度ある態度を心がけ、最後は笑顔で生き残れるような大人になりたいと思っていた。それはホント。なのだが。
「つまりこの中に犯人が居るってことですか? 信じられない! 私は自分の部屋に籠ります。絶対誰も来ないで!」
言うが早いが扉を閉めて鍵をかけ、早数分後。少し頭が冷えてきて、自分の言動を思い起こし、はたと気がつく。自身の、まるでお手本のような第二の被害者さんっぷりに若干引いた。
え、やだ。待って。まだ死にたくない。
でもあんな啖呵切っちゃった手前すごく戻りにくいし、あの中に犯人が居る事自体は変わらないのである。なにそれ怖い。やっぱり戻りたくない。
落ち着け。まだ連続殺人とは決まってないんだし、明日は皆と合流して解決策を図るのだ。そうだ。それがいい。そのためにはこの部屋でベストは尽くさなきゃ。そう決心した矢先、遠慮がちなノックの音が聞こえた。
「すみ香、大丈夫?」
聞こえてきたのは、幼馴染みのマユミの声だった。
「マユミ?」
「あ……うん。夕飯を持ってきたんだけど、顔見せてよ。落ち着いて話そう」
優しい声がグッと胸に沁みる。一瞬その気遣いに早くも縋りつきたくなった。今ならまだ間に合う。しかし、私はノブにかけようとした自分の手を寸でのところでとめた。
犯人の姿がわりとトラウマで、トイレに入った時にふとあの怪人が家の中に居るんじゃないかという想像をしてしまって、個室から出られなくなった記憶がある。最終的には買い物から帰ってきた母の声に安心して、しれっと出ることができたのだが。
その記憶につられてもう一つ思い出したのは、ある意味でテンプレと化した、あのお決まりの場面だった。
「殺人犯と一緒に過ごせっていうの? 冗談じゃない! 私は一人で部屋に籠って鍵をかけるから、絶対に誰も来ないでちょうだい!」っていうヤツ。
これをやる人は絶対次の被害者になる。トリックは解らなくても、それだけはわかる。特に連続殺人ものに必ずと言っていいほど登場するこの第二の被害者だが、これこそ私がああはなるまいよと思った大人像でもあった。だって疑心暗鬼で単独行動をとった挙句、その翌日には被害者になるだなんて格好悪すぎるし、謎増やしてるし、主人公側に迷惑しかかけてない。
故に自分はどんな状況でも節度ある態度を心がけ、最後は笑顔で生き残れるような大人になりたいと思っていた。それはホント。なのだが。
「つまりこの中に犯人が居るってことですか? 信じられない! 私は自分の部屋に籠ります。絶対誰も来ないで!」
言うが早いが扉を閉めて鍵をかけ、早数分後。少し頭が冷えてきて、自分の言動を思い起こし、はたと気がつく。自身の、まるでお手本のような第二の被害者さんっぷりに若干引いた。
え、やだ。待って。まだ死にたくない。
でもあんな啖呵切っちゃった手前すごく戻りにくいし、あの中に犯人が居る事自体は変わらないのである。なにそれ怖い。やっぱり戻りたくない。
落ち着け。まだ連続殺人とは決まってないんだし、明日は皆と合流して解決策を図るのだ。そうだ。それがいい。そのためにはこの部屋でベストは尽くさなきゃ。そう決心した矢先、遠慮がちなノックの音が聞こえた。
「すみ香、大丈夫?」
聞こえてきたのは、幼馴染みのマユミの声だった。
「マユミ?」
「あ……うん。夕飯を持ってきたんだけど、顔見せてよ。落ち着いて話そう」
優しい声がグッと胸に沁みる。一瞬その気遣いに早くも縋りつきたくなった。今ならまだ間に合う。しかし、私はノブにかけようとした自分の手を寸でのところでとめた。
「ごめん。朝になったらちゃんと顔出すから」
ドア越しにマユミが小さく息を呑む気配があった。
「もしも犯人が私達全員を恨んでるなら、次は孤立した私が狙われると思う。だったら、誰が来ても私がこの扉を開けなければ、今夜はそれで済むかもしれない」
しばらく間があり、やがてため息とともに折れたのはマユミの方だった。
「わかった。夕飯はここに置いておくから、食べられそうだったら食べて」
「うん。ありがとう。ごめんね。また明日会おうね」
「うん」
どこか歯切れの悪い返事が気にかかったが、マユミだってきっと不安でいっぱいで、まさか断られるとは思ってもみなかったのだろう。傍に居てあげられなくてごめん、と内心何度も謝りながらも、こうなった以上、今晩は何があってもこの扉を開けないことを決めていた。
まぁ、でもマユミには三國くんがついてるし、大丈夫だよね。
三國くんとは、今回の旅行サークルの合宿を主催したサークル長であり、法学部の一個上の先輩である。顔よし頭よし家柄よし、と三拍子揃った完璧超人だが、私達のもう一人の幼馴染みでもある。彼ならマユミを守ってくれるだろう。いや、本当だったら最初に警察を呼ぶべきなのだが。
窓の外の暴風雨に吹き荒れる景色を見て、私はため息をついた。携帯電話は圏外だし、雷の影響か、コテージの固定電話も繋がらない。まさにここは陸の孤島だった。常駐している管理人さんも居ないので、マスターキーやスペアキーはない。なので内側から鍵をかけてしまえばそれでもう籠城することはできる。が、しかし。
本棚の隣にある『もう一つの扉』に私は目を向けた。そう。この部屋には外の廊下と繋がる扉の他に、もう一つ隣部屋と通じる内扉があるのだ。
元々とある名家の別荘宅を三國財閥が買い取ってリノベーションしたこのコテージは、こうして大きな一部屋を扉で仕切って、普段は二部屋として使う部屋が存在する。家族連れや団体客のためにこうした仕様を残しているらしいが、今回は隣が空きとなっていたので、チェックイン時からその分の鍵は貸し出されていない。
でも怖い。怖いもんは、怖い。少しでも危険因子は排除したい。一応扉と床の隙間はタオルとガムテで塞いだ。これで有毒ガスとかピアノ線などを下から通すことはできない。欲を言えば扉の前を何か重いもので塞ぎ、物理的に開かないようにしたいが……。私は隣の本棚へと目線を戻した。
ドア越しにマユミが小さく息を呑む気配があった。
「もしも犯人が私達全員を恨んでるなら、次は孤立した私が狙われると思う。だったら、誰が来ても私がこの扉を開けなければ、今夜はそれで済むかもしれない」
しばらく間があり、やがてため息とともに折れたのはマユミの方だった。
「わかった。夕飯はここに置いておくから、食べられそうだったら食べて」
「うん。ありがとう。ごめんね。また明日会おうね」
「うん」
どこか歯切れの悪い返事が気にかかったが、マユミだってきっと不安でいっぱいで、まさか断られるとは思ってもみなかったのだろう。傍に居てあげられなくてごめん、と内心何度も謝りながらも、こうなった以上、今晩は何があってもこの扉を開けないことを決めていた。
まぁ、でもマユミには三國くんがついてるし、大丈夫だよね。
三國くんとは、今回の旅行サークルの合宿を主催したサークル長であり、法学部の一個上の先輩である。顔よし頭よし家柄よし、と三拍子揃った完璧超人だが、私達のもう一人の幼馴染みでもある。彼ならマユミを守ってくれるだろう。いや、本当だったら最初に警察を呼ぶべきなのだが。
窓の外の暴風雨に吹き荒れる景色を見て、私はため息をついた。携帯電話は圏外だし、雷の影響か、コテージの固定電話も繋がらない。まさにここは陸の孤島だった。常駐している管理人さんも居ないので、マスターキーやスペアキーはない。なので内側から鍵をかけてしまえばそれでもう籠城することはできる。が、しかし。
本棚の隣にある『もう一つの扉』に私は目を向けた。そう。この部屋には外の廊下と繋がる扉の他に、もう一つ隣部屋と通じる内扉があるのだ。
元々とある名家の別荘宅を三國財閥が買い取ってリノベーションしたこのコテージは、こうして大きな一部屋を扉で仕切って、普段は二部屋として使う部屋が存在する。家族連れや団体客のためにこうした仕様を残しているらしいが、今回は隣が空きとなっていたので、チェックイン時からその分の鍵は貸し出されていない。
でも怖い。怖いもんは、怖い。少しでも危険因子は排除したい。一応扉と床の隙間はタオルとガムテで塞いだ。これで有毒ガスとかピアノ線などを下から通すことはできない。欲を言えば扉の前を何か重いもので塞ぎ、物理的に開かないようにしたいが……。私は隣の本棚へと目線を戻した。
実は私は高校の頃から引っ越し業者でバイトをしている。家具を一人で持ち上げることはさすがに無理だが、横にずらすコツぐらいは心得ているつもりだ。早速、棚を完全に空にしてから布を下に噛ませ、少しずつ横へと押す。扉の前を塞ぎ、もう一度本を戻せば完璧だ。これでこの部屋は完全に密室となった。額の汗を拭いながら達成感に浸っていると、静かなノックが聞こえた。
「誰?」
ハッとして声をかけると、小さな声で「丹羽だよ」と返ってきた。
「ば、晩ご飯、ま、まだ食べてなかったんだ」
所々に吃音が入る小声は、確かに丹羽先輩のものだった。
「あと、ま、まだ、生きてたね」
「おかげ様で!」
丹羽先輩は、この旅行サークルに何故入っているのか不思議なくらい貧弱で、性格もわりと卑屈で陰湿である。本当は機械いじりの方が好きらしく、風景を撮る写真の技術は素直に感動してしまうが、体力がなくて皆の足も引っ張りがちなので、第一の被害者である新島先輩に嫌ないじられ方をしていた。フォローして変に懐かれるのも嫌で、普段から関わりを控えていたのだが、その丹羽先輩が何の用だろう。
「よ、様子を見にきたんだ。三國君に言われて」
「私は大丈夫です。先輩方は?」
「だ、談話室で暖炉の番をしながらソファで仮眠をとってる。二人以上は必ず起きてることにしてね。ま、まるで、遭難状態だ。お互いがお互いを見張り合っててさ。ひひっ」
おい、そこ、なんで笑った?
「でもこれでもし君が既に死んでたら、か、完全に外部犯だったのにね」
「え、どういう事ですか?」
「今朝、家でニュースを見てね。この地区で殺人事件が起きたんだって。もしかしたら犯人が山中に逃げてる可能性もあるよね」
「それ他の先輩方には……」
「言ってない。ま、まだ確定したわけじゃないし、この状態が、こ、滑稽なんだもの。人間なんて何か起こればこんなもんだよね」
うわ、こいつ……。正直、今も怯えているのであろう皆のことを考えると、罵詈雑言が口から飛び出しそうになったが、理性でなんとか踏みとどまった。
「い、言っとくけど、ぼ、僕は君を疑ってるよ」
「は?」
「に、新島に度々飲みに誘われてただろ。断りにくかったんじゃないの? ほ、ほんとはさ」
「違います! それはっ」
「それは?」
それが今は亡き新島先輩のプライバシーに関わると思い至り、私は再び言葉を飲み込んだ。
「誰?」
ハッとして声をかけると、小さな声で「丹羽だよ」と返ってきた。
「ば、晩ご飯、ま、まだ食べてなかったんだ」
所々に吃音が入る小声は、確かに丹羽先輩のものだった。
「あと、ま、まだ、生きてたね」
「おかげ様で!」
丹羽先輩は、この旅行サークルに何故入っているのか不思議なくらい貧弱で、性格もわりと卑屈で陰湿である。本当は機械いじりの方が好きらしく、風景を撮る写真の技術は素直に感動してしまうが、体力がなくて皆の足も引っ張りがちなので、第一の被害者である新島先輩に嫌ないじられ方をしていた。フォローして変に懐かれるのも嫌で、普段から関わりを控えていたのだが、その丹羽先輩が何の用だろう。
「よ、様子を見にきたんだ。三國君に言われて」
「私は大丈夫です。先輩方は?」
「だ、談話室で暖炉の番をしながらソファで仮眠をとってる。二人以上は必ず起きてることにしてね。ま、まるで、遭難状態だ。お互いがお互いを見張り合っててさ。ひひっ」
おい、そこ、なんで笑った?
「でもこれでもし君が既に死んでたら、か、完全に外部犯だったのにね」
「え、どういう事ですか?」
「今朝、家でニュースを見てね。この地区で殺人事件が起きたんだって。もしかしたら犯人が山中に逃げてる可能性もあるよね」
「それ他の先輩方には……」
「言ってない。ま、まだ確定したわけじゃないし、この状態が、こ、滑稽なんだもの。人間なんて何か起こればこんなもんだよね」
うわ、こいつ……。正直、今も怯えているのであろう皆のことを考えると、罵詈雑言が口から飛び出しそうになったが、理性でなんとか踏みとどまった。
「い、言っとくけど、ぼ、僕は君を疑ってるよ」
「は?」
「に、新島に度々飲みに誘われてただろ。断りにくかったんじゃないの? ほ、ほんとはさ」
「違います! それはっ」
「それは?」
それが今は亡き新島先輩のプライバシーに関わると思い至り、私は再び言葉を飲み込んだ。
「とにかく、先輩が邪推してるような事はありませんよ。セクハラもアルハラも受けてないですし、私は新島先輩を恨んでもいません」
恨んでるとしたらむしろ先輩の方だろう。私だって一番に疑ってるのは丹羽先輩だ。
「まぁ、き、君が朝まで生き延びたら、代わりに死ぬのは、ぼ、僕じゃないかな。一番弱そうだしね」
恨んでるとしたらむしろ先輩の方だろう。私だって一番に疑ってるのは丹羽先輩だ。
「まぁ、き、君が朝まで生き延びたら、代わりに死ぬのは、ぼ、僕じゃないかな。一番弱そうだしね」
自嘲を織り交ぜて話しを結び、交代の時間だからと丹羽先輩は一階へと戻って行った。足音が遠のき、ほっと緊張していた肩の力が抜ける。
それにしても、丹羽先輩の言った外部犯という可能性に再び怖気が走った。例えば私達がチェックインする前に、もうすでに犯人が潜伏先としてこのコテージを見つけていたら? それこそ新島先輩は犯人と鉢合わせになって殺されたのかも。考えすぎかもしれないが、隣の部屋の廊下に繋がる扉の方も、今からでも塞いでしまおうか。
しかし私は、いや待てよ、と思い直した。ドラマでは部屋の扉を自ら開けた途端に死ぬというトリックが多い。ましてや今は一番怪しい人が去っていった後である。扉に何か細工がされてるかもしれないし、そもそも外部犯という情報も、私をおびき出すためのブラフかも。
どうしたもんかと悩んでいると、ぐぅっと腹の虫が鳴いた。私か? と一瞬思ったが、違う。扉の向こうに誰か居るのだ。ドッと心臓が鳴った。
「誰かいるの?」
背筋に寒いものが走りながらもなるべく気丈に尋ねると、数秒の沈黙の後、躊躇いがちなノックが一度、聞こえた。不気味すぎて叫びそうになったが、パニックはいけないと必死に自制する。
それにしても、丹羽先輩の言った外部犯という可能性に再び怖気が走った。例えば私達がチェックインする前に、もうすでに犯人が潜伏先としてこのコテージを見つけていたら? それこそ新島先輩は犯人と鉢合わせになって殺されたのかも。考えすぎかもしれないが、隣の部屋の廊下に繋がる扉の方も、今からでも塞いでしまおうか。
しかし私は、いや待てよ、と思い直した。ドラマでは部屋の扉を自ら開けた途端に死ぬというトリックが多い。ましてや今は一番怪しい人が去っていった後である。扉に何か細工がされてるかもしれないし、そもそも外部犯という情報も、私をおびき出すためのブラフかも。
どうしたもんかと悩んでいると、ぐぅっと腹の虫が鳴いた。私か? と一瞬思ったが、違う。扉の向こうに誰か居るのだ。ドッと心臓が鳴った。
「誰かいるの?」
背筋に寒いものが走りながらもなるべく気丈に尋ねると、数秒の沈黙の後、躊躇いがちなノックが一度、聞こえた。不気味すぎて叫びそうになったが、パニックはいけないと必死に自制する。
「誰?」
声を潜めて再度訊くと、扉の下からなにやら白い紙が滑り込んできた。慌てて拾ってみると、それはなんともシンプルな名刺だった。
「写真家、柴田光?」
中央に書かれた名前を復唱して、私は首を傾げた。どこかで見たような名前だったのだ。
「あ」
思い出した。丹羽先輩がファンで、ちゃっかり部室に持ち込まれたポスターやカレンダーに彼の写真が使われていた気がする。確か普段はネイチャー系の雑誌を専門とする写真家だ。
「すみません。驚かせるつもりはなかったんですが。実は昨日チェックアウトするはずが、今まで眠ってしまっていてあなた方が来たことに気づかなかったんです。昨晩は夜行性の動物をずっと張っていまして。今日がフリーだったもので、つい気が緩んでしまい……」
「えーと」
今一つ怪しんでいいのか、笑えばいいのかわからない間の抜けた話しに、妙に呑気な空気が醸し出される。仮に殺人犯でも、もっとうまい言い訳を言いそうだが。
「ということは、まだ部屋の鍵を返してないってことですよね?」
部外者が隣部屋にいる。恐れていた事態が普通に起きていて、つい鍵の所在を確認してしまったのだが、柴田さんの返事は少し予想の斜め上をいくものだった。
「ええ。なので明朝には管理会社の方が不審に思って、なんらかの対応をとってくれるかと」
声を潜めて再度訊くと、扉の下からなにやら白い紙が滑り込んできた。慌てて拾ってみると、それはなんともシンプルな名刺だった。
「写真家、柴田光?」
中央に書かれた名前を復唱して、私は首を傾げた。どこかで見たような名前だったのだ。
「あ」
思い出した。丹羽先輩がファンで、ちゃっかり部室に持ち込まれたポスターやカレンダーに彼の写真が使われていた気がする。確か普段はネイチャー系の雑誌を専門とする写真家だ。
「すみません。驚かせるつもりはなかったんですが。実は昨日チェックアウトするはずが、今まで眠ってしまっていてあなた方が来たことに気づかなかったんです。昨晩は夜行性の動物をずっと張っていまして。今日がフリーだったもので、つい気が緩んでしまい……」
「えーと」
今一つ怪しんでいいのか、笑えばいいのかわからない間の抜けた話しに、妙に呑気な空気が醸し出される。仮に殺人犯でも、もっとうまい言い訳を言いそうだが。
「ということは、まだ部屋の鍵を返してないってことですよね?」
部外者が隣部屋にいる。恐れていた事態が普通に起きていて、つい鍵の所在を確認してしまったのだが、柴田さんの返事は少し予想の斜め上をいくものだった。
「ええ。なので明朝には管理会社の方が不審に思って、なんらかの対応をとってくれるかと」
「あ、なるほど」
つまりこの一晩を凌げば、外部の人が来てくれるということだ。その希望の光と先程の話しも相まって、私の警戒心は少し緩んだ。
「でも、今どうして私の部屋の前に居るんですか?」
「先程から会話を聞いていたのですが、外部犯という言葉を聞いてぎょっとしまして。このタイミングであなたに弁明しておくか、それとも朝が来るまで部屋に籠っているか迷っていたところ、腹の虫が鳴ってしまいました」
これまたタイミングよく、再び柴田さんのお腹が鳴るのが聞こえた。
「あの、もしよければそこに置いてあるご飯、食べてくれませんか。食欲なくて。冷めてて申し訳ないですが」
「え、いいんですか? いやぁ、朝から何も食べてないんで、ありがたいです」
無邪気な返事にとうとう笑ってしまう。確かにこの状況では柴田さんが真っ先に犯人として疑われるだろう。しかし仕事で宿泊していたということは身元もハッキリしてるし、第一に新島先輩を殺す動機がない。
「また誰かが上がってきたら柴田さんのことをご紹介しましょうか?」
「いえ。皆さんをこれ以上刺激したくないのでまた部屋に籠ろうと思います。朝が来たら大人しくあなたと一緒に顔を出しますよ。もし皆さんに今夜中にバレてしまったら、事情説明のお手伝いをしてくださいますか?」
「もちろんです」
「よかった。それにしても、目が覚めたら殺人事件が起きていただなんて驚きですよ」
そりゃあそうだろうな、と思う。私だって未だに信じたくない。
「亡くなられた方、新島さん? という方でしょうか。その方はどのように亡くなられたんですか?」
つまりこの一晩を凌げば、外部の人が来てくれるということだ。その希望の光と先程の話しも相まって、私の警戒心は少し緩んだ。
「でも、今どうして私の部屋の前に居るんですか?」
「先程から会話を聞いていたのですが、外部犯という言葉を聞いてぎょっとしまして。このタイミングであなたに弁明しておくか、それとも朝が来るまで部屋に籠っているか迷っていたところ、腹の虫が鳴ってしまいました」
これまたタイミングよく、再び柴田さんのお腹が鳴るのが聞こえた。
「あの、もしよければそこに置いてあるご飯、食べてくれませんか。食欲なくて。冷めてて申し訳ないですが」
「え、いいんですか? いやぁ、朝から何も食べてないんで、ありがたいです」
無邪気な返事にとうとう笑ってしまう。確かにこの状況では柴田さんが真っ先に犯人として疑われるだろう。しかし仕事で宿泊していたということは身元もハッキリしてるし、第一に新島先輩を殺す動機がない。
「また誰かが上がってきたら柴田さんのことをご紹介しましょうか?」
「いえ。皆さんをこれ以上刺激したくないのでまた部屋に籠ろうと思います。朝が来たら大人しくあなたと一緒に顔を出しますよ。もし皆さんに今夜中にバレてしまったら、事情説明のお手伝いをしてくださいますか?」
「もちろんです」
「よかった。それにしても、目が覚めたら殺人事件が起きていただなんて驚きですよ」
そりゃあそうだろうな、と思う。私だって未だに信じたくない。
「亡くなられた方、新島さん? という方でしょうか。その方はどのように亡くなられたんですか?」
状況を知っておきたいのだろう。が、私は一瞬、言い淀んでしまった。正直ちょっと思い出したくなかったのである。その沈黙に気づいたのだろう。柴田さんが一層声を潜めた。
「えっと、あなたは、すみ香さんで合っていますか?」
「あ、ごめんなさい。私の自己紹介がまだでしたね。はい。黛すみ香といいます」
「黛さんですね。事件について安易に聞いてしまいましたが、無理しないで下さい。普通、思い出したくないですよね」
「いえ、でも話してる内になにか気づくこともあるかも。お話しさせて下さい」
「大丈夫ですか?」
「はい。えっと、柴田さんもこのコテージに来る途中に吊り橋を渡ったと思うんですが、あの下にナイフで胸を刺された新島先輩の遺体があったんです。丁度下半身を川のほとりに浸けるような感じで」
「えっと、あなたは、すみ香さんで合っていますか?」
「あ、ごめんなさい。私の自己紹介がまだでしたね。はい。黛すみ香といいます」
「黛さんですね。事件について安易に聞いてしまいましたが、無理しないで下さい。普通、思い出したくないですよね」
「いえ、でも話してる内になにか気づくこともあるかも。お話しさせて下さい」
「大丈夫ですか?」
「はい。えっと、柴田さんもこのコテージに来る途中に吊り橋を渡ったと思うんですが、あの下にナイフで胸を刺された新島先輩の遺体があったんです。丁度下半身を川のほとりに浸けるような感じで」
「どうして彼はそんなところに?」
「さぁ……。私達、お昼頃には頂上に着いて、時間を決めて辺りを散策することにしたんです。でも新島先輩が約束の時間になっても全然来なかったから、何かあったのかもしれないということになって。とにかく先に皆でコテージに向かって、装備を軽くしてから本格的に捜そうということになったんです」
「なるほど。そしてその道中に彼の遺体を発見した、と。第一発見者はどなたですか?」
聞かれて初めてその言葉を意識した。第一発見者。
「三國くんです。彼が吊り橋の先頭を歩いていたので」
その時、再び誰かが二階に上がってくる足音が聞こえてきた。柴田さんも気づいたのだろう。隣部屋の扉が静かに閉まる音が聞こえた。入れ違いに足音が廊下を歩く音へと変わり、軽いノックが聞こえた。
「さぁ……。私達、お昼頃には頂上に着いて、時間を決めて辺りを散策することにしたんです。でも新島先輩が約束の時間になっても全然来なかったから、何かあったのかもしれないということになって。とにかく先に皆でコテージに向かって、装備を軽くしてから本格的に捜そうということになったんです」
「なるほど。そしてその道中に彼の遺体を発見した、と。第一発見者はどなたですか?」
聞かれて初めてその言葉を意識した。第一発見者。
「三國くんです。彼が吊り橋の先頭を歩いていたので」
その時、再び誰かが二階に上がってくる足音が聞こえてきた。柴田さんも気づいたのだろう。隣部屋の扉が静かに閉まる音が聞こえた。入れ違いに足音が廊下を歩く音へと変わり、軽いノックが聞こえた。
「すみ香ちゃん、大丈夫?」
綺麗にハモった声が扉の向こうから聞こえてきて、私は詰めていた息を吐いた。
「綿実先輩方」
「あ、ご飯、食べれたんだね。じゃ、下げちゃうお」
「ありがとうございます」
綿実先輩は姉の桜子さんと妹の撫子さんの一卵性双生児だ。二人ともよく似ていて、髪型を変えられてしまうと全く見分けられなくなる。そんなお茶目な先輩方だが、同じ女子部員ということで普段から何かとお世話になっていた。
「なんだか大変なことになっちゃったね」
「私は丹羽先輩が怪しいと思います」
二人に注意喚起する為にもいち早く宣言すると、扉からは「うーん、丹羽かぁ」という二人の悩ましい唸り声が聞こえてきた。
「あたし達はさ、三國が怪しいと思ってる」
「えっ」
「だってよく言うじゃん。第一発見者が怪しいって。それに新島ってすみ香ちゃんのことよく飲みに誘ってたし。面白くなかったと思うよ」
「え? なんでですか?」
「え? そりゃあ……」
桜子さんが言いかけた直後、つんざくような悲鳴が階下から聞こえた。
「あの声、丹羽先輩?」
「行こう。桜子。すみ香ちゃんはそこに居て!」
「えっ」
展開の早さに戸惑っている内に、二人は階下に降りて行ってしまった。しばらく扉の前でやきもきしていると、十五分程経っただろうか。誰かが階段を上がって来る音がした。足音は一人分。直感的に綿実姉妹ではないと思った。
「すみ香? そこにいる?」
「三國くん? あの悲鳴はなに? 皆は無事なの?」
恐る恐る尋ねると、数秒の間、彼は黙り込んでいた。
「すみ香、落ち着いて聞いてほしい」
やがて重い口を開いて、彼が一言私に告げた。
「マユミが死んだ」
え。
「ごめん。これからのこと話したいから、下に降りて来てくれないか?」
「嫌っ」
「すみ香」
「絶対嫌っ。信じない! マユミが死んじゃうなんて! なんでそんな」
「すみ香、落ち着いて」
「……一人にして」
「……わかった。でも、待ってるから」
どこか名残り惜しそうにゆっくりと階下に降りていく三國くんの足音が完全に聞こえなくなるまで、私はその場に立ち尽くしていた。
マユミが死んだ。勝手に涙がこぼれ落ち、ズルズルと扉の前に崩れる。私の泣き声が聞こえてきたのだろう。ややあって、隣部屋の扉がそっと開く音が聞こえ、柴田さんが再びやって来た気配がした。
「黛さん」
「すみません、今はほっといてくれませんか」
「ええ、でも、もしかして今やって来た彼が三國さんですか?」
「そうですけど」
「マユミさんではなく?」
「え?」
不可思議なその言葉に顔を上げると、柴田さんが何かに気づいたのか、慌てた調子で再び隣部屋に戻っていく音がした。間一髪だ。バタバタと騒々しい足音が廊下を走り、忙しないノックが鳴り響いた。
綺麗にハモった声が扉の向こうから聞こえてきて、私は詰めていた息を吐いた。
「綿実先輩方」
「あ、ご飯、食べれたんだね。じゃ、下げちゃうお」
「ありがとうございます」
綿実先輩は姉の桜子さんと妹の撫子さんの一卵性双生児だ。二人ともよく似ていて、髪型を変えられてしまうと全く見分けられなくなる。そんなお茶目な先輩方だが、同じ女子部員ということで普段から何かとお世話になっていた。
「なんだか大変なことになっちゃったね」
「私は丹羽先輩が怪しいと思います」
二人に注意喚起する為にもいち早く宣言すると、扉からは「うーん、丹羽かぁ」という二人の悩ましい唸り声が聞こえてきた。
「あたし達はさ、三國が怪しいと思ってる」
「えっ」
「だってよく言うじゃん。第一発見者が怪しいって。それに新島ってすみ香ちゃんのことよく飲みに誘ってたし。面白くなかったと思うよ」
「え? なんでですか?」
「え? そりゃあ……」
桜子さんが言いかけた直後、つんざくような悲鳴が階下から聞こえた。
「あの声、丹羽先輩?」
「行こう。桜子。すみ香ちゃんはそこに居て!」
「えっ」
展開の早さに戸惑っている内に、二人は階下に降りて行ってしまった。しばらく扉の前でやきもきしていると、十五分程経っただろうか。誰かが階段を上がって来る音がした。足音は一人分。直感的に綿実姉妹ではないと思った。
「すみ香? そこにいる?」
「三國くん? あの悲鳴はなに? 皆は無事なの?」
恐る恐る尋ねると、数秒の間、彼は黙り込んでいた。
「すみ香、落ち着いて聞いてほしい」
やがて重い口を開いて、彼が一言私に告げた。
「マユミが死んだ」
え。
「ごめん。これからのこと話したいから、下に降りて来てくれないか?」
「嫌っ」
「すみ香」
「絶対嫌っ。信じない! マユミが死んじゃうなんて! なんでそんな」
「すみ香、落ち着いて」
「……一人にして」
「……わかった。でも、待ってるから」
どこか名残り惜しそうにゆっくりと階下に降りていく三國くんの足音が完全に聞こえなくなるまで、私はその場に立ち尽くしていた。
マユミが死んだ。勝手に涙がこぼれ落ち、ズルズルと扉の前に崩れる。私の泣き声が聞こえてきたのだろう。ややあって、隣部屋の扉がそっと開く音が聞こえ、柴田さんが再びやって来た気配がした。
「黛さん」
「すみません、今はほっといてくれませんか」
「ええ、でも、もしかして今やって来た彼が三國さんですか?」
「そうですけど」
「マユミさんではなく?」
「え?」
不可思議なその言葉に顔を上げると、柴田さんが何かに気づいたのか、慌てた調子で再び隣部屋に戻っていく音がした。間一髪だ。バタバタと騒々しい足音が廊下を走り、忙しないノックが鳴り響いた。
「黛! 泣いてんのか!」
その元気な声にポカンと私は口を開けた。だってその声は、死んだはずの新島先輩の声だったからだ。
その元気な声にポカンと私は口を開けた。だってその声は、死んだはずの新島先輩の声だったからだ。
「ぎゃーっ! 幽霊!」
しゃがみこんでいたこともあって、私はそのまま尻餅をついて、叫んだ。
「おぉっ。丹羽と同じ反応」
快活な笑顔が見えるような声に、私は恐る恐る再び扉の前に四つ這いで近寄った。
「本当に本物の先輩? でもなんで……」
「すまん! 全部ドッキリだ!」
「はぁ?」
「でも標的はお前じゃない。丹羽だった。ただお前がマジで信じるからちょっと面白くなって、ついでに丹羽も死んだことにしようって三國が言い出したんだが」
ん? 丹羽も死んだことにする? ちょっと待って。
「そもそもどうして丹羽先輩を標的に?」
「俺がもし死んだら丹羽がどういう反応するのか知りたかったんだ」
「それって……」
思い当たったのは新島先輩のプライバシーを考えて、丹羽先輩には言わないでおいた飲みの席での相談事だった。そう。もしかしたら自分は同性の方を好きになってしまったかもしれないという……。
しゃがみこんでいたこともあって、私はそのまま尻餅をついて、叫んだ。
「おぉっ。丹羽と同じ反応」
快活な笑顔が見えるような声に、私は恐る恐る再び扉の前に四つ這いで近寄った。
「本当に本物の先輩? でもなんで……」
「すまん! 全部ドッキリだ!」
「はぁ?」
「でも標的はお前じゃない。丹羽だった。ただお前がマジで信じるからちょっと面白くなって、ついでに丹羽も死んだことにしようって三國が言い出したんだが」
ん? 丹羽も死んだことにする? ちょっと待って。
「そもそもどうして丹羽先輩を標的に?」
「俺がもし死んだら丹羽がどういう反応するのか知りたかったんだ」
「それって……」
思い当たったのは新島先輩のプライバシーを考えて、丹羽先輩には言わないでおいた飲みの席での相談事だった。そう。もしかしたら自分は同性の方を好きになってしまったかもしれないという……。
「もしかして、そのお相手が丹羽先輩?」
「うん。三國にも相談したら、このドッキリを考えてくれて。でも黛はすぐに顔に出るからって内緒にさせてもらった」
「じゃあ、丹羽先輩以外みんなグル!?」
「うん」
ということは、さっきの丹羽先輩の悲鳴はマユミの遺体を見つけたからではなく、新島先輩が出てきたからか!
「人間不信に陥りそう」
「ごめんて! でもそのおかげで三國が丹羽のことべろべろに酔わせてくれてさ、さっき「僕だって悲しいですよ! なんで死んじゃったんですか! 新島!」っていう言葉が聞き出せたから、なんかちょっと希望が見えたよ」
「はー、そーですか」
「拗ねるなよ。悪かったって。せめて今夜はゆっくり眠ってほしくてネタばらしに来たんだ。だから安心して寝ろよ。な」
「言われなくてもそうさせていただきます」
「よしよし、じゃな、おやすみ」
まるで嵐のような展開だ。また嘘のように静けさを取り戻した扉をぼけっと見上げていると、控えめなノックが聞こえた。あ、たぶん柴田さんだ。
「柴田さん、さっきの話って、どういう意味ですか?」
「今までの会話を聞いていて私なりに皆さんの人間関係にあたりをつけていたんですが、私は最初、三國さんがマユミさんだと思っていたんです」
「なんでそんな勘違いを?」
「最初に夕飯のトレーを持ってきた方が、三國さんだったからです」
「へっ?」
「黛さんのマユミかという呼びかけに彼が答えたので、彼はマユミという苗字なんだと思いました」
「そ、そんなはず……」
しかし指摘された途端に何故か急にマユミの声がぼやけてきた。声だけではなく顔や背格好の輪郭もうまく思い出せない。思い出せない? 嘘だ。そんな馬鹿な。
「黛さん、本当はマユミさんは存在しないのではないですか?」
「……え?」
「いや、居ないというのは酷かもしれません。彼女は三國さんとあなたの間でしか通じない秘密の友達だったのでは?」
「なに言って……」
「誰が訪ねて来てもあなたはマユミさんの様子を聞こうとしなかったですし、どうやって死んだのかすら聞かなかった。他の方も普通は階下でマユミさんがどうしてるのか一言二言あってもいいはずだ。でもマユミさんの名前を出したのは三國さんだけ。そして一番解せないのは、この騒ぎの発案者が新島さんではなく、三國さんということです。なぜ彼は皆さんには悪ふざけの上乗せで丹羽さんも死んだことにしようと言っておいて、あなたにはマユミさんの死を伝えたのか」
カタカタという音が聞こえてきて、自分の歯の根が鳴っているのだと気づいた。
「昔、週刊誌の記者をやっていた友人から聞いた話しがありましてね。十二年前、八才の少女がトイレに行っている間に空き巣が入り込んだという事件がありました。異変に気づいた少女は母親が買い物から帰ってくるまで、ずっと息を殺して個室に閉じ籠っていたそうです。しかし少女はずっと友達と話していたから大丈夫だったと語った。無論、個室には少女しかいません。おそらく彼女は、頭の中で空想の友達を作り出し、その子と会話することで極限状態を乗り切ろうとしたのでしょう。少女のイニシャルは確か、M・S――、黛すみ香さん、あなたでは?」
帰ってきた母の呑気な声が、荒らされた部屋を見て悲鳴に変わった。泣きながら「すみ香、すみ香!」と呼ばれて、やっとトイレの扉を開けた八才の自分。自分の都合の良いように歪められた記憶が、めまぐるしく正しく矯正されていく。
「その記事を握り潰したのが、三國財閥だったと聞いています。記事を読み、あなたに顔を見られたかもしれないと危惧した犯人があなたに危害を及ぼさないように、と」
ああ、と思わず声が洩れた。
「これは想像ですが、黛さんの心の支えであるマユミさんを三國さんは何度か利用した事があったのかもしれませんね。それが更なる記憶の改竄を引き起こし、黛さんの中でマユミという架空の人物の存在の有無を曖昧にしてしまった」
「でもなんでこんなドッキリを……」
「三國さんは前々からマユミさんを消す方法を考えていたのではないでしょうか。少し荒治療かとも思いますが、わざとあなたを部屋に引き籠らせ情緒不安定にし、マユミさんを炙り出したのち、更に部屋の外で死んだことにした。本当ならマユミさんの死を聞いた時点であなたが部屋から飛び出し、階下でネタバラシした後、改めてマユミという人物が結局はどこにもいなかったという現実に気づいてほしかったのかもしれません」
「だからなんで、三國くんがそこまでっ!」
「わかりませんか? たぶん三國さんは黛さんに好意を持ってるからですよ。そしてそれは、黛さんも同じなのでは?」
柴田さんの言葉で、一回全部吹っ飛んだ。三國くんが私をすき?
「あ。雨が、あがりましたね」
未だぐるぐるしている私の頭に、柴田さんの穏やかな声が響いた。
「もうすぐ夜明けですし、皆さんもきっともう私室に戻って眠っていらっしゃるでしょう」
それはまるで、どこかへ行ってしまうような口ぶりだった。
「まだ山道は危ないですよ。このまま管理会社の方が来るのを待ったほうが」
「もちろん本当に殺人事件が起きていたらそうさせていただきましたが、ドッキリでしたし、怒られるのはチェックアウトを忘れた私だけですからね。私はこの隙に下山して、管理会社の方に電話をかけることにしますよ。いやぁ、なかなかにスリリングな夜でした」
「……ええ、本当に」
どこまでも呑気な柴田さんにつられて、ようやく少しだけ笑うことができた。
「では、お元気で。すみ香さん」
「はい。柴田さんも」
どうやら私にはこれから向き合わなければならないことがたくさんあるようだが、とにかく三國くんと話したい。そう思った。朝が来たら、何を話そう。少しの気まずさと喪失感。しかしどこか晴れやかな気持ちもあった。
――翌朝。
電波が繋がったテレビのニュースを見て、私は呆然とした。
「あれ? この被害者、丹羽がファンの写真家じゃないか?」
「ああ、き、昨日の事件の……まだ捕まってないんだね。犯人」
「だから丹羽、いつもより卑屈度が上がってたのか」
「へぇ。所持品がなくなってたんだって」
皆の会話を聞きながら立ちすくむ私に、隣に居た三國くんが小首を傾げた。
「どうしたの? すみ香」
「……ううん。なんでもない」
十二年前、トイレの個室の小窓からちらりと見た空き巣の犯人の顔が、今まさにテレビに映っている被害者の写真――柴田光、その人だったのである。
「うん。三國にも相談したら、このドッキリを考えてくれて。でも黛はすぐに顔に出るからって内緒にさせてもらった」
「じゃあ、丹羽先輩以外みんなグル!?」
「うん」
ということは、さっきの丹羽先輩の悲鳴はマユミの遺体を見つけたからではなく、新島先輩が出てきたからか!
「人間不信に陥りそう」
「ごめんて! でもそのおかげで三國が丹羽のことべろべろに酔わせてくれてさ、さっき「僕だって悲しいですよ! なんで死んじゃったんですか! 新島!」っていう言葉が聞き出せたから、なんかちょっと希望が見えたよ」
「はー、そーですか」
「拗ねるなよ。悪かったって。せめて今夜はゆっくり眠ってほしくてネタばらしに来たんだ。だから安心して寝ろよ。な」
「言われなくてもそうさせていただきます」
「よしよし、じゃな、おやすみ」
まるで嵐のような展開だ。また嘘のように静けさを取り戻した扉をぼけっと見上げていると、控えめなノックが聞こえた。あ、たぶん柴田さんだ。
「柴田さん、さっきの話って、どういう意味ですか?」
「今までの会話を聞いていて私なりに皆さんの人間関係にあたりをつけていたんですが、私は最初、三國さんがマユミさんだと思っていたんです」
「なんでそんな勘違いを?」
「最初に夕飯のトレーを持ってきた方が、三國さんだったからです」
「へっ?」
「黛さんのマユミかという呼びかけに彼が答えたので、彼はマユミという苗字なんだと思いました」
「そ、そんなはず……」
しかし指摘された途端に何故か急にマユミの声がぼやけてきた。声だけではなく顔や背格好の輪郭もうまく思い出せない。思い出せない? 嘘だ。そんな馬鹿な。
「黛さん、本当はマユミさんは存在しないのではないですか?」
「……え?」
「いや、居ないというのは酷かもしれません。彼女は三國さんとあなたの間でしか通じない秘密の友達だったのでは?」
「なに言って……」
「誰が訪ねて来てもあなたはマユミさんの様子を聞こうとしなかったですし、どうやって死んだのかすら聞かなかった。他の方も普通は階下でマユミさんがどうしてるのか一言二言あってもいいはずだ。でもマユミさんの名前を出したのは三國さんだけ。そして一番解せないのは、この騒ぎの発案者が新島さんではなく、三國さんということです。なぜ彼は皆さんには悪ふざけの上乗せで丹羽さんも死んだことにしようと言っておいて、あなたにはマユミさんの死を伝えたのか」
カタカタという音が聞こえてきて、自分の歯の根が鳴っているのだと気づいた。
「昔、週刊誌の記者をやっていた友人から聞いた話しがありましてね。十二年前、八才の少女がトイレに行っている間に空き巣が入り込んだという事件がありました。異変に気づいた少女は母親が買い物から帰ってくるまで、ずっと息を殺して個室に閉じ籠っていたそうです。しかし少女はずっと友達と話していたから大丈夫だったと語った。無論、個室には少女しかいません。おそらく彼女は、頭の中で空想の友達を作り出し、その子と会話することで極限状態を乗り切ろうとしたのでしょう。少女のイニシャルは確か、M・S――、黛すみ香さん、あなたでは?」
帰ってきた母の呑気な声が、荒らされた部屋を見て悲鳴に変わった。泣きながら「すみ香、すみ香!」と呼ばれて、やっとトイレの扉を開けた八才の自分。自分の都合の良いように歪められた記憶が、めまぐるしく正しく矯正されていく。
「その記事を握り潰したのが、三國財閥だったと聞いています。記事を読み、あなたに顔を見られたかもしれないと危惧した犯人があなたに危害を及ぼさないように、と」
ああ、と思わず声が洩れた。
「これは想像ですが、黛さんの心の支えであるマユミさんを三國さんは何度か利用した事があったのかもしれませんね。それが更なる記憶の改竄を引き起こし、黛さんの中でマユミという架空の人物の存在の有無を曖昧にしてしまった」
「でもなんでこんなドッキリを……」
「三國さんは前々からマユミさんを消す方法を考えていたのではないでしょうか。少し荒治療かとも思いますが、わざとあなたを部屋に引き籠らせ情緒不安定にし、マユミさんを炙り出したのち、更に部屋の外で死んだことにした。本当ならマユミさんの死を聞いた時点であなたが部屋から飛び出し、階下でネタバラシした後、改めてマユミという人物が結局はどこにもいなかったという現実に気づいてほしかったのかもしれません」
「だからなんで、三國くんがそこまでっ!」
「わかりませんか? たぶん三國さんは黛さんに好意を持ってるからですよ。そしてそれは、黛さんも同じなのでは?」
柴田さんの言葉で、一回全部吹っ飛んだ。三國くんが私をすき?
「あ。雨が、あがりましたね」
未だぐるぐるしている私の頭に、柴田さんの穏やかな声が響いた。
「もうすぐ夜明けですし、皆さんもきっともう私室に戻って眠っていらっしゃるでしょう」
それはまるで、どこかへ行ってしまうような口ぶりだった。
「まだ山道は危ないですよ。このまま管理会社の方が来るのを待ったほうが」
「もちろん本当に殺人事件が起きていたらそうさせていただきましたが、ドッキリでしたし、怒られるのはチェックアウトを忘れた私だけですからね。私はこの隙に下山して、管理会社の方に電話をかけることにしますよ。いやぁ、なかなかにスリリングな夜でした」
「……ええ、本当に」
どこまでも呑気な柴田さんにつられて、ようやく少しだけ笑うことができた。
「では、お元気で。すみ香さん」
「はい。柴田さんも」
どうやら私にはこれから向き合わなければならないことがたくさんあるようだが、とにかく三國くんと話したい。そう思った。朝が来たら、何を話そう。少しの気まずさと喪失感。しかしどこか晴れやかな気持ちもあった。
――翌朝。
電波が繋がったテレビのニュースを見て、私は呆然とした。
「あれ? この被害者、丹羽がファンの写真家じゃないか?」
「ああ、き、昨日の事件の……まだ捕まってないんだね。犯人」
「だから丹羽、いつもより卑屈度が上がってたのか」
「へぇ。所持品がなくなってたんだって」
皆の会話を聞きながら立ちすくむ私に、隣に居た三國くんが小首を傾げた。
「どうしたの? すみ香」
「……ううん。なんでもない」
十二年前、トイレの個室の小窓からちらりと見た空き巣の犯人の顔が、今まさにテレビに映っている被害者の写真――柴田光、その人だったのである。
了