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殉職した猫

ー/ー



 今年の夏、大正生まれの祖父が百二歳の生涯を終えた。
 その夜、祖父は縁側のそばに敷いた布団の上で、静かに鈴虫の声を聞いていた。
「たけ坊……」
 幼いころから祖父に懐いていた私は、そのかすれた声に耳を澄ませた。祖父は何かを伝えようとしていた。
 戦争の話かと思えば、それはさらに遠い昔の話。祖父の祖父、すなわち高祖父が遺した明治時代の逸話だ。
 うろ覚えだが、幼い頃に聞かされたような気がする。ただ、祖父はいつからか話さなくなった。おそらく、真剣に聞く者がいなかったのだろう。
 高祖父は、内務省が警察を統括していた時代の巡査だ。彼は同僚から聞いたことや、自身で目撃した事実を帳面に書き留め、それを子孫に託した。帳面は戦火で焼失したが、祖父は一言一句すべて記憶していると言う。
 令和の今日、その逸話にどんな意義があるのか分からない。だが、祖父が最期に語った物語を、私も語り継ぎたい。現代寄りの言葉で書くが、誇張や脚色はしない。
 高祖父は現代を風刺するような序文を書き、それから物語を綴っていた。

 人の世は取引によって成り立ち、ときに愛さえも例外ではない。
 殉死など馬鹿らしい。当たり前だ。何を得ようとも、命を失えば何の意味もない。
 ただ、これから語る者たちの愛は破滅を内包し、破滅をもって完結する。文明に憑かれた者には狂気としか映らぬだろう。なぜなら、その愛は理性を超越しているからだ。

 時は明治十三年に遡る。政府は文明開化の旗印のもと、近代化を推し進めていた。だがその光は、この悲劇の舞台となる山村には届いていなかった。
 寒風吹きすさぶ冬の日の午後。とある農家の納屋で、十一歳の少女が叔母の看病をしていた。そこが彼女たちに与えられた居室だった。
 少女の名は静香。叔母は彼女の父の末の妹に当たる。叔母は肺炎を患い、三十半ばにして死期が迫っていた。
 陽が傾き、板の隙間から光が射す。土間には霜が降り、火鉢の火では、慰み程度にしか暖まれない。
 静香は横たわる叔母の体をさするが、ござ越しに土の冷たさが伝わる。壁の隙間から寒風が吹き込み、火鉢の火が頼りなく揺れていた。
 火が消えると、静香はかじかんだ手で火打鎌を持ち、火打石を懸命に打つ。だが乾草に火をつけるのは容易ではない。
「静香……」
 静香は顔を上げ、叔母の顔を見る。
「マッチがあるから」
「マッチ?」
 叔母は懐から小さな紙箱を出す。
「ここから細い棒を出して」
 静香は細い木の棒を一本取り出し、不思議そうに見つめる。
「その先を、箱の横で擦るんだよ」
 言う通りにすると、棒の先がぼっと燃え上がり、思わず静香はそれを火鉢に投げた。
「それ、あげるよ」
「こんなものを、どこで手に入れたの?」
「旅人から貰ったのよ。施したお礼にね」
「施した?」
 叔母は静香の手を握った。
「こんな村にいちゃいけない。いい人を見つけて、一緒に暮らすんだよ」
 静香は叔母の目を見つめ、こくりと頷く。
 翌朝、叔母は静香に看取られて逝った。つらく悲しいだけの一生だった。

 それから十六年の月日が過ぎた。
 台湾で土匪が蜂起し、朝鮮で親露派のクーデターが勃発した動乱の春。二十二歳の青年が、静香が住む村を管轄する駐在所に配属される。
 裕史は警察官に相応しい青年だった。その気質は、職を解かれた武士である父と、献身的な母の教育の賜物だ。父は息子に武芸を教え、母は礼節と教養を授けた。
 だが夫婦は、息子を幸せにはできなかった。夫は金を得る術を知らず、学ぼうともしない。妻は武家の女に似つかわしくない仕事で家計を支えたが、無理が祟って身を崩し、若くして帰らぬ人となった。
 妻を失うと夫は酒に溺れた。酒代のために用心棒まがいの仕事に手を染め、刃傷沙汰の果てに命を落とす。
 不幸な生い立ちを背負う裕史は、幸せな家庭を手に入れるため、警察官になって身を立てることにした。
 教えられた武芸と教養を活かし、見事、官職を賜った彼は、静香の住む村を管轄する駐在所に着任した。

 裕史は管轄を小まめに巡回するうち、早朝から畑に出る美しい女に目をとめた。村人の話から察するに、どうやら未婚らしい。
 静香は二十七歳。裕史は彼女より五つ年下ながら、その美しさと働きぶりに心を奪われた。
 山村が朝霧に包まれるころ、裕史は期待に胸を膨らませ、駐在所を出発する。
 静香はその朝も畑に立っていた。髪を後ろに結え、土を見つめる横顔に汗が光る。
「おはようございます」と声をかけると、静香は鍬を止め、農道に立つ青年を見つめた。
 裕史は息を呑む。朝日に映えるその立ち姿は、もはや神秘的だった。
「毎朝、大変ですね」
 静香は汗をぬぐうだけで、何も言わない。
「濡れた藁を運ぶのは大変でしょう。僕が手伝いますよ」
 静香は案山子のように突っ立ったまま、結局一言も喋らなかった。

 静香の態度を不審に思った裕史は、仲の良い同期に彼女のことを聞いた。
「俺の管轄に、毎朝一人で畑仕事をする女がいるんだ。それが、かなりの別嬪なんだ。一体何者だと思う?」
「お前、あの女に惚れたのか?」
「馬鹿を言うな。自分の管轄のことを知りたいだけだ」
「そうか。ならいいが」
 彼はまだ裕史を疑っていた。
「一応言っとくが、あの女は『おばさ』だからな」
「おばさ?」
「なんだ。知らないのか。『おばさ』ってのは、あの村に伝わる奇妙な風習なんだ。末の娘が人生を一家に捧げるんだ。『おばさ』になったら、他人と話すことばかりか、名乗ることも許されない。まったく理不尽な風習だよ」
「本当なのか?」
「嘘を言ってどうする。『おばさ』になったら村から出ることもできない。恋も結婚も禁じられ、黙々と働いて一生を終える。要は人減らしを兼ねた奴隷制度だ。だから『おばさ』になった娘たちは、みんな藁人形みたいになってしまうんだ」
 裕史は静香を不憫に思ったが、美しくも、どこか能面のような表情が目に浮かぶと、結婚は諦めるしかなかった。

 ある朝、裕史は「みゃあ。みゃあ」という鳴き声で目を覚ます。
 駐在所の裏手に回ると、一匹の子猫が瓦礫の上で泣いていた。薄い毛並みが朝露に濡れ、小さな体が冷え切っている。
「おい、母親に捨てられたのか?」
 裕史は子猫を抱いて居間に戻ると、火鉢のそばに座布団を敷き、その上にそっと寝かせた。
「どうだ。暖かいか?」
 子猫は座布団の上で丸くなり、気持ち良さそうに目を閉じた。裕史は子猫をタマと名付け、駐在所で飼うことにした。
 やがてタマは立派な雄の虎猫に成長し、巡回について来るようになる。そして、彼はタマと共に運命の日を迎えるのだ。

 その日も静香は早朝から一人で畑を耕している。一仕事終えたところで、笹の包みを開け、握り飯を食べ始める。母が夫の目を盗んで作ったのだ。
 包みには手紙が添えられる。彼女はそれを読みながら、母の握り飯を噛み締める。
『静香。苦労をかけてすまないね。母さんを赦しておくれ。村の掟には逆らえないんだよ』
 こぼれた涙が母の字をにじませる。
 そのとき、かさかさと藁を踏む音が近づいてきた。顔を上げると、一匹の虎猫と目が合った。

 その朝も、裕史はタマと一緒に駐在所を出発した。
 タマは農道の途中で姿を消した。それはいつものことで、しばらくすれば戻ってくるのだ。
 だが、その日はなかなか戻らない。タマのことを気にしながら歩いていると、予期せぬ光景が目に入る。
 藁が敷かれた畑に女が座り、その前に小さな生き物がいる。近づくにつれ様相が明らかになる。静香が満面の笑みを浮かべ、寝転がるタマをなでていたのだ。
 裕史はその笑顔を見て確信する。藁人形なんかじゃない。ちゃんと心を持っているんだ。
 もう彼を止めるものは何もない。雨の日まで巡回に出て、農道から静香に声をかけた。静香も彼に会いたいがゆえに、どんな悪天候でも畑に出た。彼女は叔母の言葉を片時も忘れたことはない。
『いい人を見つけて、一緒に暮らすんだよ』

 やがて、ふたりはタマを連れて山菜を採りに行くようになる。山に入れば山菜は至る所に生えているが、あえて崖っぷちまで採りにゆく。裕史は静香の手を握って岩場を登り、静香は彼と危険を共にすると体が熱くなった。
 マムシが行く手をさえぎれば、静香は裕史の胸に飛び込んで震えた。
 蛇退治はタマの独壇場だ。タマはマムシを前にすると、背を低くし、牙を向いて大胆に距離を詰める。鋭い眼光と唸り声で威嚇するタマは、虎のように頼もしくも、笑みが溢れるほど愛らしい。
 マムシが恐れを成して退散すると、静香はタマを抱きしめ、裕史はタマの頭をなでる。
「ありがとう。タマ」
「タマ、よくやったぞ」
 タマはごろごろと喉を鳴らす。
 そのとき彼らは、やっと幸せを手にしたと思ったに違いない。
 
 静香は採れた山菜を小分けして紐で束ねると、「家族に食べてもらいます」と言う。しかし一束だけ自分の胸に忍ばせ、それでお浸しを作ると、密かに駐在所に届けた。
 だが、村人の目を誤魔化し続けることはできない。ある日、静香の父が村人を引き連れて駐在所に押し掛ける。
「裕史さん。わしの娘をめぐるこの騒動に、村のみんなが困惑しておる。たとえ駐在さんであっても、掟は守ってもらわにゃ困るんだ」
 だが裕史は、田舎の名士たる駐在所員の権威を使い、半ば強引な説得を試みる。
「いつまでも奇妙な風習に縛られていてはだめです。政府は奴隷制度を禁止したんですよ」
「でも掟は守らないと!」
「なら仕方ない。本職から内務省に通報します。そしたら皆さんは、全員官憲に逮捕されますよ」
 村人は口ごもり、視線を交わす。
「静香さんは本職が保護します。いいですね」
 村人は何も言い返せなかった。

 静香は裕史を愛し、その職務を支えた。昼は落とし物の処理や道案内。夜は仄かな灯火を頼りに、独身警官の制服を縫い直すこともあった。
 そのかいあってか、彼女は美しき良妻と評判になり、好意を抱く若者もいた。恭介という青年もその一人だ。
 彼は裕史の後輩で、静香より九つも年下だ。彼は静香を姉のように慕い、手直しされた制服に、彼女の香りを探したりもした。
 恭介の父は士族の反乱に加わり、敗れて自害したという。母と三人の姉は、卑しき身分に堕ちるを恥じ、赤子の恭介を遠縁に預けて入水した。
 恭介はろくに食事も与えられず、農家の子供から施しを受けることさえあったという。
 だが彼は、死んだ両親と姉たちに恥じない生き方をしなければと思い、日々を凌いでいたそうだ。

 裕史たちは恭介を弟のように可愛がり、三人での晩酌も日常の景色であった。
「恭介さん。ゼンマイのお浸しを作ったのよ。食べて」
「ありがとうございます!」
 恭介はそれを口に放り込むと、酒を煽って赤面のわけを誤魔化す。
「明日は休みだろ。今日はここに泊まっていけ」と裕史。
 静香が酒を口にすると、宴はさらに盛り上がる。彼女は恭介に注がれた酒を飲み干すと、さっと器の縁をふいて彼に返す。
「恭介さん、飲んで」
「はい!」
「恭介、お前もそろそろ結婚を考えないとな」
「恭介さん、好きな人がいるの?」
 徳利を傾けた静香が、恭介の顔を覗き込むと、彼は赤面して言葉も出ない。
「静香、そういじめるな」と裕史は笑うが、恭介は赦されぬ恋に悩んでいたのだ。
 彼はその苦悩を、ある同僚に打ち明け、よく相談もしたが、その話はまた別の機会に語られるだろう。

 確かに静香は美しい。しかし、『おばさ』という出自は、やはり汚点なのだ。いくら綺麗でも伴侶にするのはいかがなものか、と言う署員が少なからずいた。
 静香は自分が夫の足枷(あしかせ)とならぬよう公務に貢献し、その姿を署長は見ていた。
 ある日の夕方、署長がひょっこり駐在所に現れ、ふたりと晩酌を共にする。
「署長、今日はどうしたんですか?」と裕史。静香は「どうぞ」と署長に酒をつぐ。
「実は折り入って話したいことがあってな」
 裕史は居住まいを正す。
「朝鮮での親露派のクーデターのことは聞いているな。実は国内においても露国の工作活動が盛んになっている。だから優秀な人材を警保局に登用する話が出ているんだ」
「そうですか……」
 いわゆる出世街道なのに、裕史の表情に陰りが見える。静香にはその理由がわかっていた。
「あなた。私のことは気にしないでください」
 すると署長は言う。
「静香さん」
「はい」
「君のことは、かねてより承知している。無論『おばさ』のこともな」
 静香の顔にさっと影が差す。
「困った風習だ。時代錯誤も甚だしい。そんなことを気にせず、彼を支えてやってくれ。もし彼が本局に登用されたら、一緒に東京に行ってほしいんだ」
 その晩酌の様子を、タマが部屋の隅から見守っていた。

 最終的に本局への登用は見送られたが、裕史は内心ほっとしていた。出世にはさほど興味がなく、静香とタマのいる暮らしこそが、彼の望みだった。
 静香は内縁の妻である。だが、奉仕する姿が認められ、特別に夫人手当が支給されたため、日々の暮らしに困ることはなかった。
 ただ、静香は子を宿さなかった。裕史は若く活力にあふれ、静香も三十路が近いとは思えぬほど若々しい。子を授からないことが不思議ではあったが、寂しさはなかった。ふたりにはタマがいたからだ。

 ふたりが一つ屋根の下で暮らし始めて一年。静香の父が渋々婚姻を認めたのには訳がある。娘の幸せを願う母が、命懸けで夫を説き伏せたのだ。
 春の日の午後。静香は駐在所の裏手にある縁側で、桜を見ながら制服の手直しをしていた。すると指に針を刺してしまい、水で冷やしても血は流れ続けた。
 その頃、裕史は着物姿で老婆の話し相手になっていた。田舎の駐在所ではよくある光景だ。
「あの子はええ子だ」
「誰ですか?」
「あんたの嫁さんだあ」
「ああ、静香のことですか」
「幸せにしたってな」
 タマは老婆になでられながら事務机に寝そべっていた。年寄りの癒しはタマの唯一の仕事だった。
 そのとき、恭介が駐在に駆け込んできた。
「先輩! すぐ本署に来てください!」
「何があったんだ?」
 恭介が息を切らしていると、静香が居室から出てきた。
「恭介さん。一体なにがあったのですか?」
「話は後で。時間がないので自分は先に行きます。先輩、とにかく急いで下さい」
 裕史は老婆を静香にまかせ、綺麗に手直しされた制服の袖に腕を通すと、金色のボタンをとめた。
「あなた。気をつけてね」
「心配しないで。また猪でも出たんだろ」
 静香はタマと一緒に裕史を見送った。
 自転車をこぐ背中が彼方に消えると、彼女の指先の傷から、また血が流れ始めた。彼女は寒気がし、思わずタマを抱き寄せる。
 あの人の無事を祈って……

 裕史は署の駐輪場に自転車を放り込むと武道場へ急ぐ。既に同期や後輩たちが整列しており、その前に署長が立っていた。
 裕史が慌てて列に加わると、署長が悲壮な面持ちで口を開いた。
「今回は死を覚悟せねばなるまい」
「何があったのですか?」と裕史。
「隣村でコレラが発生したんだ。村人の移動を禁じたが、このままでは死を待つだけだ。消毒液を運び込み、消毒の仕方を教えなければならない。だが村人は毒薬と疑い、激しく抵抗するだろう。しかも感染拡大を防ぐため、単身で村に入ることになる。これは命懸けの任務だ。だから、妻子ある者に命ずることはできない」
「では誰が行くのですか?」
「私が行く」
「署長が……」
 ざわつく署員に署長が命を下す。
「君たちは村の東にある神社に待機してくれ。私が夕方になっても戻らなければ、警保局に指示を仰ぐんだ。間違っても救助に来てはいけない。感染が村の外へ及べば、この地域は壊滅する」
 だが逆らう声が上がる。
「署長にだって奥さんがいるじゃないですか」
「そうだ。お孫さんだっている」
「よく考えてください。署長が不在で誰が指揮をするんですか」
 すると武道場に恭介の声が響いた。
「自分に行かせて下さい」
 署員は一斉に彼を見る。
「僕はまだ独身だし、体力だって自信があります」
 その声は震えていた。死に怯えていることは明らかだ。
 裕史の胸中は想像に難くない。誠実と愛。その板挟みに彼は苦しむ。
 あいつは家族がいないから志願したんだ。本当は先輩たる者が行くべきなのに。でも俺には静香がいる。いや待て。恭介は俺たちの家族じゃないか。見殺しにしていいわけがない。あいつに万が一のことがあれば、俺は生涯自分を赦せない。
 裕史は恭介に向かって言う。
「俺が行くよ」
「裕史さん!」
「大丈夫。どうってことはない。署長、自分に行かせて下さい」

 裕史は駐在所に戻ると、畳に手をつき、妻に深く詫びた。
「すまない」
「こんな日が来ることを覚悟しておりました」
 穏やかな口調であった。だが裕史が抱き寄せると静香は泣いた。仄かな光の中で彼らは肉体を貪り、愛は狂熱を帯びた。
 裕史は彼女の細身をかき抱き、静香は彼の背中に爪を立てた。死を圧倒するまでに情念は燃え上がり、津波のごとく押し寄せる快楽は、やがて穏やかなさざ波と化す。
 静香は乱れた髪をととのえて言う。
「私のことは気になさらず、職務を全うして下さい」
 裕史は再び彼女を抱き寄せた。
 そんな二人を、部屋の隅からタマが見守っていた。

 翌日の正午、裕史は隣村の東半里にある神社の境内で、同期や後輩に囲まれていた。
 恭介は御守り袋を握りしめて泣いている。
「先輩。これを持って行ってください」
 裕史は御守り袋を受け取ると、冗談混じりに笑う。
「泣くな。縁起でもない。また静香の料理で一杯飲むぞ」
「頼むぞ」と署長。
「はい、行って参ります」
「君の帰還を信じている」
 裕史が鳥居をくぐると、署長は帽子を取り、厳しい顔でその背中を見つめた。署員は裕史を見送ると、そのまま神社に待機し、彼の無事を祈願した。

 裕史が荷車を引いて村に入ると、ただならぬ異臭が鼻を突く。奥へ進むにつれてそれは激しさを増し、ついに悪夢のような光景が広がる。焼け焦げた畑に、炭化した遺体が散乱していたのだ。
 さらに村の奥へ進むと、女の泣き声が藁葺きの家屋から聞こえた。格子窓から覗き込むと、若い女が幼子を抱きしめて泣いていた。
 夫らしき男が、「だめだ。離れるんだ」と説得をしても、女はその手を払いのけ、息絶えた我が子を離さない。
 そのとき、裕史は背後に人の気配を感じた。
「村を焼きに来たのか。人殺しめ」
「荷車にあるのは毒薬だろ」
「だまされないぞ」
 村人は鎌や竹槍を手にして迫る。すると、そこにタマが現れ、腹を見せて寝転がった。
「タマ。だめだよ。忙しいから遊んでやれない。村の皆さんに、消毒液の使い方を説明するから邪魔しないでおくれ」
 裕史が笑顔でタマを叱ると、緊迫した空気がほぐれ、村人はみな武器を下ろした。
 裕史は消毒液の使い方を説明すると、村人を励まし、タマと一緒に村を後にした。
 しかし、やがて彼は脱水症状に見舞われ、嘔吐を繰り返した。症状が激しさを増すと、廃墟と化した古民家に入り、己の死を覚悟した。
 彼は震える手で手紙を書き、それを御守り袋に入れると、身をすり寄せるタマの首輪にくくりつけ、タマを外に出して引き戸を閉めた。

 静香は、いつもと変わらぬ時刻に米をとぎ、夫の好きな山菜のお浸しを作っていた。すると、そこにタマが現れ、彼女の着物に爪を立てた。
 彼女はその様子から異変を察し、御守り袋の中の手紙に気づいた。
『疫病に感染した。僕はもう長くない。神社に署員が待機している。家屋ごと焼けと伝えてほしい。静香。さようなら。幸せになってください』
 彼女は手紙を持ったまま、しばし立ち尽くす。
 幸せになれと……
 彼女は、叔母の形見であるマッチを懐に忍ばせ、神社へと向かった。草鞋(わらじ)が裂け、血が足を染めても走り続けた。
 やがて鳥居が視界に入り、その奥に署員の姿が見えた。静香は恭介に向かって懸命に手を振る。
「恭介さぁん!」
 恭介は振り向く。蛇に追われる雛鳥のような、悲痛な叫びであった。

 署員が古民家を遠巻きに囲み、大声で裕史に呼び掛けていると、一人の若者が中に入る許可を署長に求めた。
 しかし静香はきっぱりと言う。
「やめて下さい。あなたを道連れにすれば主人は悲しみます」
 そう言うと彼女は制止を振り切り、彼のもとへ走ったのだ。

 裕史はもう息絶えていた。
 静香は彼の亡骸に添い寝をすると、その耳元で嗚咽を漏らす。
「私をおいて、逝ってしまったのですか」
 彼は口を開かない。
「もう抱いてはくださらないのですね」
 彼女は着物を脱ぎ捨て、その柔肌を彼の胸に重ねた。
 誰もこの淫らを、この冒涜を責めることはできまい。愛の狂熱を、愛の何たるかを知らぬ者たちに、彼女を裁く資格などないからだ。
「あなた、聞こえますか」
 彼は何も言わない。
「私は幸せです」
 静香は着物を着直し、乱れた髪をととのえると、懐からマッチを出して藁に火をつけた。火は瞬く間に燃え広がり、もうもうとした煙が家屋をつつむ。木材の割れる音が響き渡り、紅蓮の炎は天をも焦がす。
 火が鎮まり、署員が焼け跡を捜索すると、川の字に横たわる遺体が発見された。それは幸薄き夫婦と、一匹の猫の亡骸だった。

 以上が、高祖父の遺した逸話である。彼は当時、恭介の親友として同じ署に勤め、この出来事を間近に見届けたという。
 十月の休日、私はその山村を訪れ、美しい自然の中を巡り歩いた。村から東へ行くと、紅葉を迎えた社の森があり、その境内に立つ石碑に鎮魂の詩が刻まれていた。
『裕史。静香。たま。彼らの御魂、ここに眠る。』
 静かだった。目を閉じて耳を澄ますと、風に揺れる草木の音が、彼らの団欒に聞こえた。





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 今年の夏、大正生まれの祖父が百二歳の生涯を終えた。
 その夜、祖父は縁側のそばに敷いた布団の上で、静かに鈴虫の声を聞いていた。
「たけ坊……」
 幼いころから祖父に懐いていた私は、そのかすれた声に耳を澄ませた。祖父は何かを伝えようとしていた。
 戦争の話かと思えば、それはさらに遠い昔の話。祖父の祖父、すなわち高祖父が遺した明治時代の逸話だ。
 うろ覚えだが、幼い頃に聞かされたような気がする。ただ、祖父はいつからか話さなくなった。おそらく、真剣に聞く者がいなかったのだろう。
 高祖父は、内務省が警察を統括していた時代の巡査だ。彼は同僚から聞いたことや、自身で目撃した事実を帳面に書き留め、それを子孫に託した。帳面は戦火で焼失したが、祖父は一言一句すべて記憶していると言う。
 令和の今日、その逸話にどんな意義があるのか分からない。だが、祖父が最期に語った物語を、私も語り継ぎたい。現代寄りの言葉で書くが、誇張や脚色はしない。
 高祖父は現代を風刺するような序文を書き、それから物語を綴っていた。
 人の世は取引によって成り立ち、ときに愛さえも例外ではない。
 殉死など馬鹿らしい。当たり前だ。何を得ようとも、命を失えば何の意味もない。
 ただ、これから語る者たちの愛は破滅を内包し、破滅をもって完結する。文明に憑かれた者には狂気としか映らぬだろう。なぜなら、その愛は理性を超越しているからだ。
 時は明治十三年に遡る。政府は文明開化の旗印のもと、近代化を推し進めていた。だがその光は、この悲劇の舞台となる山村には届いていなかった。
 寒風吹きすさぶ冬の日の午後。とある農家の納屋で、十一歳の少女が叔母の看病をしていた。そこが彼女たちに与えられた居室だった。
 少女の名は静香。叔母は彼女の父の末の妹に当たる。叔母は肺炎を患い、三十半ばにして死期が迫っていた。
 陽が傾き、板の隙間から光が射す。土間には霜が降り、火鉢の火では、慰み程度にしか暖まれない。
 静香は横たわる叔母の体をさするが、ござ越しに土の冷たさが伝わる。壁の隙間から寒風が吹き込み、火鉢の火が頼りなく揺れていた。
 火が消えると、静香はかじかんだ手で火打鎌を持ち、火打石を懸命に打つ。だが乾草に火をつけるのは容易ではない。
「静香……」
 静香は顔を上げ、叔母の顔を見る。
「マッチがあるから」
「マッチ?」
 叔母は懐から小さな紙箱を出す。
「ここから細い棒を出して」
 静香は細い木の棒を一本取り出し、不思議そうに見つめる。
「その先を、箱の横で擦るんだよ」
 言う通りにすると、棒の先がぼっと燃え上がり、思わず静香はそれを火鉢に投げた。
「それ、あげるよ」
「こんなものを、どこで手に入れたの?」
「旅人から貰ったのよ。施したお礼にね」
「施した?」
 叔母は静香の手を握った。
「こんな村にいちゃいけない。いい人を見つけて、一緒に暮らすんだよ」
 静香は叔母の目を見つめ、こくりと頷く。
 翌朝、叔母は静香に看取られて逝った。つらく悲しいだけの一生だった。
 それから十六年の月日が過ぎた。
 台湾で土匪が蜂起し、朝鮮で親露派のクーデターが勃発した動乱の春。二十二歳の青年が、静香が住む村を管轄する駐在所に配属される。
 裕史は警察官に相応しい青年だった。その気質は、職を解かれた武士である父と、献身的な母の教育の賜物だ。父は息子に武芸を教え、母は礼節と教養を授けた。
 だが夫婦は、息子を幸せにはできなかった。夫は金を得る術を知らず、学ぼうともしない。妻は武家の女に似つかわしくない仕事で家計を支えたが、無理が祟って身を崩し、若くして帰らぬ人となった。
 妻を失うと夫は酒に溺れた。酒代のために用心棒まがいの仕事に手を染め、刃傷沙汰の果てに命を落とす。
 不幸な生い立ちを背負う裕史は、幸せな家庭を手に入れるため、警察官になって身を立てることにした。
 教えられた武芸と教養を活かし、見事、官職を賜った彼は、静香の住む村を管轄する駐在所に着任した。
 裕史は管轄を小まめに巡回するうち、早朝から畑に出る美しい女に目をとめた。村人の話から察するに、どうやら未婚らしい。
 静香は二十七歳。裕史は彼女より五つ年下ながら、その美しさと働きぶりに心を奪われた。
 山村が朝霧に包まれるころ、裕史は期待に胸を膨らませ、駐在所を出発する。
 静香はその朝も畑に立っていた。髪を後ろに結え、土を見つめる横顔に汗が光る。
「おはようございます」と声をかけると、静香は鍬を止め、農道に立つ青年を見つめた。
 裕史は息を呑む。朝日に映えるその立ち姿は、もはや神秘的だった。
「毎朝、大変ですね」
 静香は汗をぬぐうだけで、何も言わない。
「濡れた藁を運ぶのは大変でしょう。僕が手伝いますよ」
 静香は案山子のように突っ立ったまま、結局一言も喋らなかった。
 静香の態度を不審に思った裕史は、仲の良い同期に彼女のことを聞いた。
「俺の管轄に、毎朝一人で畑仕事をする女がいるんだ。それが、かなりの別嬪なんだ。一体何者だと思う?」
「お前、あの女に惚れたのか?」
「馬鹿を言うな。自分の管轄のことを知りたいだけだ」
「そうか。ならいいが」
 彼はまだ裕史を疑っていた。
「一応言っとくが、あの女は『おばさ』だからな」
「おばさ?」
「なんだ。知らないのか。『おばさ』ってのは、あの村に伝わる奇妙な風習なんだ。末の娘が人生を一家に捧げるんだ。『おばさ』になったら、他人と話すことばかりか、名乗ることも許されない。まったく理不尽な風習だよ」
「本当なのか?」
「嘘を言ってどうする。『おばさ』になったら村から出ることもできない。恋も結婚も禁じられ、黙々と働いて一生を終える。要は人減らしを兼ねた奴隷制度だ。だから『おばさ』になった娘たちは、みんな藁人形みたいになってしまうんだ」
 裕史は静香を不憫に思ったが、美しくも、どこか能面のような表情が目に浮かぶと、結婚は諦めるしかなかった。
 ある朝、裕史は「みゃあ。みゃあ」という鳴き声で目を覚ます。
 駐在所の裏手に回ると、一匹の子猫が瓦礫の上で泣いていた。薄い毛並みが朝露に濡れ、小さな体が冷え切っている。
「おい、母親に捨てられたのか?」
 裕史は子猫を抱いて居間に戻ると、火鉢のそばに座布団を敷き、その上にそっと寝かせた。
「どうだ。暖かいか?」
 子猫は座布団の上で丸くなり、気持ち良さそうに目を閉じた。裕史は子猫をタマと名付け、駐在所で飼うことにした。
 やがてタマは立派な雄の虎猫に成長し、巡回について来るようになる。そして、彼はタマと共に運命の日を迎えるのだ。
 その日も静香は早朝から一人で畑を耕している。一仕事終えたところで、笹の包みを開け、握り飯を食べ始める。母が夫の目を盗んで作ったのだ。
 包みには手紙が添えられる。彼女はそれを読みながら、母の握り飯を噛み締める。
『静香。苦労をかけてすまないね。母さんを赦しておくれ。村の掟には逆らえないんだよ』
 こぼれた涙が母の字をにじませる。
 そのとき、かさかさと藁を踏む音が近づいてきた。顔を上げると、一匹の虎猫と目が合った。
 その朝も、裕史はタマと一緒に駐在所を出発した。
 タマは農道の途中で姿を消した。それはいつものことで、しばらくすれば戻ってくるのだ。
 だが、その日はなかなか戻らない。タマのことを気にしながら歩いていると、予期せぬ光景が目に入る。
 藁が敷かれた畑に女が座り、その前に小さな生き物がいる。近づくにつれ様相が明らかになる。静香が満面の笑みを浮かべ、寝転がるタマをなでていたのだ。
 裕史はその笑顔を見て確信する。藁人形なんかじゃない。ちゃんと心を持っているんだ。
 もう彼を止めるものは何もない。雨の日まで巡回に出て、農道から静香に声をかけた。静香も彼に会いたいがゆえに、どんな悪天候でも畑に出た。彼女は叔母の言葉を片時も忘れたことはない。
『いい人を見つけて、一緒に暮らすんだよ』
 やがて、ふたりはタマを連れて山菜を採りに行くようになる。山に入れば山菜は至る所に生えているが、あえて崖っぷちまで採りにゆく。裕史は静香の手を握って岩場を登り、静香は彼と危険を共にすると体が熱くなった。
 マムシが行く手をさえぎれば、静香は裕史の胸に飛び込んで震えた。
 蛇退治はタマの独壇場だ。タマはマムシを前にすると、背を低くし、牙を向いて大胆に距離を詰める。鋭い眼光と唸り声で威嚇するタマは、虎のように頼もしくも、笑みが溢れるほど愛らしい。
 マムシが恐れを成して退散すると、静香はタマを抱きしめ、裕史はタマの頭をなでる。
「ありがとう。タマ」
「タマ、よくやったぞ」
 タマはごろごろと喉を鳴らす。
 そのとき彼らは、やっと幸せを手にしたと思ったに違いない。
 静香は採れた山菜を小分けして紐で束ねると、「家族に食べてもらいます」と言う。しかし一束だけ自分の胸に忍ばせ、それでお浸しを作ると、密かに駐在所に届けた。
 だが、村人の目を誤魔化し続けることはできない。ある日、静香の父が村人を引き連れて駐在所に押し掛ける。
「裕史さん。わしの娘をめぐるこの騒動に、村のみんなが困惑しておる。たとえ駐在さんであっても、掟は守ってもらわにゃ困るんだ」
 だが裕史は、田舎の名士たる駐在所員の権威を使い、半ば強引な説得を試みる。
「いつまでも奇妙な風習に縛られていてはだめです。政府は奴隷制度を禁止したんですよ」
「でも掟は守らないと!」
「なら仕方ない。本職から内務省に通報します。そしたら皆さんは、全員官憲に逮捕されますよ」
 村人は口ごもり、視線を交わす。
「静香さんは本職が保護します。いいですね」
 村人は何も言い返せなかった。
 静香は裕史を愛し、その職務を支えた。昼は落とし物の処理や道案内。夜は仄かな灯火を頼りに、独身警官の制服を縫い直すこともあった。
 そのかいあってか、彼女は美しき良妻と評判になり、好意を抱く若者もいた。恭介という青年もその一人だ。
 彼は裕史の後輩で、静香より九つも年下だ。彼は静香を姉のように慕い、手直しされた制服に、彼女の香りを探したりもした。
 恭介の父は士族の反乱に加わり、敗れて自害したという。母と三人の姉は、卑しき身分に堕ちるを恥じ、赤子の恭介を遠縁に預けて入水した。
 恭介はろくに食事も与えられず、農家の子供から施しを受けることさえあったという。
 だが彼は、死んだ両親と姉たちに恥じない生き方をしなければと思い、日々を凌いでいたそうだ。
 裕史たちは恭介を弟のように可愛がり、三人での晩酌も日常の景色であった。
「恭介さん。ゼンマイのお浸しを作ったのよ。食べて」
「ありがとうございます!」
 恭介はそれを口に放り込むと、酒を煽って赤面のわけを誤魔化す。
「明日は休みだろ。今日はここに泊まっていけ」と裕史。
 静香が酒を口にすると、宴はさらに盛り上がる。彼女は恭介に注がれた酒を飲み干すと、さっと器の縁をふいて彼に返す。
「恭介さん、飲んで」
「はい!」
「恭介、お前もそろそろ結婚を考えないとな」
「恭介さん、好きな人がいるの?」
 徳利を傾けた静香が、恭介の顔を覗き込むと、彼は赤面して言葉も出ない。
「静香、そういじめるな」と裕史は笑うが、恭介は赦されぬ恋に悩んでいたのだ。
 彼はその苦悩を、ある同僚に打ち明け、よく相談もしたが、その話はまた別の機会に語られるだろう。
 確かに静香は美しい。しかし、『おばさ』という出自は、やはり汚点なのだ。いくら綺麗でも伴侶にするのはいかがなものか、と言う署員が少なからずいた。
 静香は自分が夫の足枷(あしかせ)とならぬよう公務に貢献し、その姿を署長は見ていた。
 ある日の夕方、署長がひょっこり駐在所に現れ、ふたりと晩酌を共にする。
「署長、今日はどうしたんですか?」と裕史。静香は「どうぞ」と署長に酒をつぐ。
「実は折り入って話したいことがあってな」
 裕史は居住まいを正す。
「朝鮮での親露派のクーデターのことは聞いているな。実は国内においても露国の工作活動が盛んになっている。だから優秀な人材を警保局に登用する話が出ているんだ」
「そうですか……」
 いわゆる出世街道なのに、裕史の表情に陰りが見える。静香にはその理由がわかっていた。
「あなた。私のことは気にしないでください」
 すると署長は言う。
「静香さん」
「はい」
「君のことは、かねてより承知している。無論『おばさ』のこともな」
 静香の顔にさっと影が差す。
「困った風習だ。時代錯誤も甚だしい。そんなことを気にせず、彼を支えてやってくれ。もし彼が本局に登用されたら、一緒に東京に行ってほしいんだ」
 その晩酌の様子を、タマが部屋の隅から見守っていた。
 最終的に本局への登用は見送られたが、裕史は内心ほっとしていた。出世にはさほど興味がなく、静香とタマのいる暮らしこそが、彼の望みだった。
 静香は内縁の妻である。だが、奉仕する姿が認められ、特別に夫人手当が支給されたため、日々の暮らしに困ることはなかった。
 ただ、静香は子を宿さなかった。裕史は若く活力にあふれ、静香も三十路が近いとは思えぬほど若々しい。子を授からないことが不思議ではあったが、寂しさはなかった。ふたりにはタマがいたからだ。
 ふたりが一つ屋根の下で暮らし始めて一年。静香の父が渋々婚姻を認めたのには訳がある。娘の幸せを願う母が、命懸けで夫を説き伏せたのだ。
 春の日の午後。静香は駐在所の裏手にある縁側で、桜を見ながら制服の手直しをしていた。すると指に針を刺してしまい、水で冷やしても血は流れ続けた。
 その頃、裕史は着物姿で老婆の話し相手になっていた。田舎の駐在所ではよくある光景だ。
「あの子はええ子だ」
「誰ですか?」
「あんたの嫁さんだあ」
「ああ、静香のことですか」
「幸せにしたってな」
 タマは老婆になでられながら事務机に寝そべっていた。年寄りの癒しはタマの唯一の仕事だった。
 そのとき、恭介が駐在に駆け込んできた。
「先輩! すぐ本署に来てください!」
「何があったんだ?」
 恭介が息を切らしていると、静香が居室から出てきた。
「恭介さん。一体なにがあったのですか?」
「話は後で。時間がないので自分は先に行きます。先輩、とにかく急いで下さい」
 裕史は老婆を静香にまかせ、綺麗に手直しされた制服の袖に腕を通すと、金色のボタンをとめた。
「あなた。気をつけてね」
「心配しないで。また猪でも出たんだろ」
 静香はタマと一緒に裕史を見送った。
 自転車をこぐ背中が彼方に消えると、彼女の指先の傷から、また血が流れ始めた。彼女は寒気がし、思わずタマを抱き寄せる。
 あの人の無事を祈って……
 裕史は署の駐輪場に自転車を放り込むと武道場へ急ぐ。既に同期や後輩たちが整列しており、その前に署長が立っていた。
 裕史が慌てて列に加わると、署長が悲壮な面持ちで口を開いた。
「今回は死を覚悟せねばなるまい」
「何があったのですか?」と裕史。
「隣村でコレラが発生したんだ。村人の移動を禁じたが、このままでは死を待つだけだ。消毒液を運び込み、消毒の仕方を教えなければならない。だが村人は毒薬と疑い、激しく抵抗するだろう。しかも感染拡大を防ぐため、単身で村に入ることになる。これは命懸けの任務だ。だから、妻子ある者に命ずることはできない」
「では誰が行くのですか?」
「私が行く」
「署長が……」
 ざわつく署員に署長が命を下す。
「君たちは村の東にある神社に待機してくれ。私が夕方になっても戻らなければ、警保局に指示を仰ぐんだ。間違っても救助に来てはいけない。感染が村の外へ及べば、この地域は壊滅する」
 だが逆らう声が上がる。
「署長にだって奥さんがいるじゃないですか」
「そうだ。お孫さんだっている」
「よく考えてください。署長が不在で誰が指揮をするんですか」
 すると武道場に恭介の声が響いた。
「自分に行かせて下さい」
 署員は一斉に彼を見る。
「僕はまだ独身だし、体力だって自信があります」
 その声は震えていた。死に怯えていることは明らかだ。
 裕史の胸中は想像に難くない。誠実と愛。その板挟みに彼は苦しむ。
 あいつは家族がいないから志願したんだ。本当は先輩たる者が行くべきなのに。でも俺には静香がいる。いや待て。恭介は俺たちの家族じゃないか。見殺しにしていいわけがない。あいつに万が一のことがあれば、俺は生涯自分を赦せない。
 裕史は恭介に向かって言う。
「俺が行くよ」
「裕史さん!」
「大丈夫。どうってことはない。署長、自分に行かせて下さい」
 裕史は駐在所に戻ると、畳に手をつき、妻に深く詫びた。
「すまない」
「こんな日が来ることを覚悟しておりました」
 穏やかな口調であった。だが裕史が抱き寄せると静香は泣いた。仄かな光の中で彼らは肉体を貪り、愛は狂熱を帯びた。
 裕史は彼女の細身をかき抱き、静香は彼の背中に爪を立てた。死を圧倒するまでに情念は燃え上がり、津波のごとく押し寄せる快楽は、やがて穏やかなさざ波と化す。
 静香は乱れた髪をととのえて言う。
「私のことは気になさらず、職務を全うして下さい」
 裕史は再び彼女を抱き寄せた。
 そんな二人を、部屋の隅からタマが見守っていた。
 翌日の正午、裕史は隣村の東半里にある神社の境内で、同期や後輩に囲まれていた。
 恭介は御守り袋を握りしめて泣いている。
「先輩。これを持って行ってください」
 裕史は御守り袋を受け取ると、冗談混じりに笑う。
「泣くな。縁起でもない。また静香の料理で一杯飲むぞ」
「頼むぞ」と署長。
「はい、行って参ります」
「君の帰還を信じている」
 裕史が鳥居をくぐると、署長は帽子を取り、厳しい顔でその背中を見つめた。署員は裕史を見送ると、そのまま神社に待機し、彼の無事を祈願した。
 裕史が荷車を引いて村に入ると、ただならぬ異臭が鼻を突く。奥へ進むにつれてそれは激しさを増し、ついに悪夢のような光景が広がる。焼け焦げた畑に、炭化した遺体が散乱していたのだ。
 さらに村の奥へ進むと、女の泣き声が藁葺きの家屋から聞こえた。格子窓から覗き込むと、若い女が幼子を抱きしめて泣いていた。
 夫らしき男が、「だめだ。離れるんだ」と説得をしても、女はその手を払いのけ、息絶えた我が子を離さない。
 そのとき、裕史は背後に人の気配を感じた。
「村を焼きに来たのか。人殺しめ」
「荷車にあるのは毒薬だろ」
「だまされないぞ」
 村人は鎌や竹槍を手にして迫る。すると、そこにタマが現れ、腹を見せて寝転がった。
「タマ。だめだよ。忙しいから遊んでやれない。村の皆さんに、消毒液の使い方を説明するから邪魔しないでおくれ」
 裕史が笑顔でタマを叱ると、緊迫した空気がほぐれ、村人はみな武器を下ろした。
 裕史は消毒液の使い方を説明すると、村人を励まし、タマと一緒に村を後にした。
 しかし、やがて彼は脱水症状に見舞われ、嘔吐を繰り返した。症状が激しさを増すと、廃墟と化した古民家に入り、己の死を覚悟した。
 彼は震える手で手紙を書き、それを御守り袋に入れると、身をすり寄せるタマの首輪にくくりつけ、タマを外に出して引き戸を閉めた。
 静香は、いつもと変わらぬ時刻に米をとぎ、夫の好きな山菜のお浸しを作っていた。すると、そこにタマが現れ、彼女の着物に爪を立てた。
 彼女はその様子から異変を察し、御守り袋の中の手紙に気づいた。
『疫病に感染した。僕はもう長くない。神社に署員が待機している。家屋ごと焼けと伝えてほしい。静香。さようなら。幸せになってください』
 彼女は手紙を持ったまま、しばし立ち尽くす。
 幸せになれと……
 彼女は、叔母の形見であるマッチを懐に忍ばせ、神社へと向かった。草鞋(わらじ)が裂け、血が足を染めても走り続けた。
 やがて鳥居が視界に入り、その奥に署員の姿が見えた。静香は恭介に向かって懸命に手を振る。
「恭介さぁん!」
 恭介は振り向く。蛇に追われる雛鳥のような、悲痛な叫びであった。
 署員が古民家を遠巻きに囲み、大声で裕史に呼び掛けていると、一人の若者が中に入る許可を署長に求めた。
 しかし静香はきっぱりと言う。
「やめて下さい。あなたを道連れにすれば主人は悲しみます」
 そう言うと彼女は制止を振り切り、彼のもとへ走ったのだ。
 裕史はもう息絶えていた。
 静香は彼の亡骸に添い寝をすると、その耳元で嗚咽を漏らす。
「私をおいて、逝ってしまったのですか」
 彼は口を開かない。
「もう抱いてはくださらないのですね」
 彼女は着物を脱ぎ捨て、その柔肌を彼の胸に重ねた。
 誰もこの淫らを、この冒涜を責めることはできまい。愛の狂熱を、愛の何たるかを知らぬ者たちに、彼女を裁く資格などないからだ。
「あなた、聞こえますか」
 彼は何も言わない。
「私は幸せです」
 静香は着物を着直し、乱れた髪をととのえると、懐からマッチを出して藁に火をつけた。火は瞬く間に燃え広がり、もうもうとした煙が家屋をつつむ。木材の割れる音が響き渡り、紅蓮の炎は天をも焦がす。
 火が鎮まり、署員が焼け跡を捜索すると、川の字に横たわる遺体が発見された。それは幸薄き夫婦と、一匹の猫の亡骸だった。
 以上が、高祖父の遺した逸話である。彼は当時、恭介の親友として同じ署に勤め、この出来事を間近に見届けたという。
 十月の休日、私はその山村を訪れ、美しい自然の中を巡り歩いた。村から東へ行くと、紅葉を迎えた社の森があり、その境内に立つ石碑に鎮魂の詩が刻まれていた。
『裕史。静香。たま。彼らの御魂、ここに眠る。』
 静かだった。目を閉じて耳を澄ますと、風に揺れる草木の音が、彼らの団欒に聞こえた。


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