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月見そば

ー/ー



 よし、今日こそは死のう。

 今年で齢、二十二になる井口(いぐち)は、通勤ラッシュのホームで、拳を強く握った。

 食品会社の一人息子として生まれ、なに不自由ない幼少期を過ごしたあと、小、中、高は私立で学生生活を送り、名門大学に合格した。しかし、順風満帆な人生は就活を期に狂い始めたのだった。
 大手コンサルタント会社、外資金融、広告代理店、IT系ベンチャー企業。就職氷河期と言われるご時世での、新卒採用試験はキツかった。そんな中でも同じ学部のメンバーは皆、有名企業に内定を決めていたから、当たり前に内定をもらえるものだと思っていた。けれど、第一希望のコンサルタント会社は惨敗。その後も、三十を越える企業にエントリーシートを送ったが、通過したのは十社。一次面接に漕ぎ着けても二次に呼ばれることはなかった。だからといって就職浪人生になるわけにもいかず、父親に頭を下げて入社したのが『イグチパン』という実家の会社である。
 当然、良いポストが用意される、なんてことはなく、配属されたのは自社工場の製造だった。

「社長の息子だからって、優遇されると思うなよ」

 井口の教育担当である小清水(こしみず)は、配属初日にそう言った。彼は勤めて三十年のベテラン社員らしい。

 社長息子に生まれて、何不自由なく育てられたあと、名門大学を卒業したんだっけ? オレだったら、自分は選ばれし人間だと錯覚しちまうな。出来ないものなんか無いって思うだろ。でも結局は、就活に失敗した。ここで一つ質問がある。社長が製造に配属した理由はなんでしょう? 正解は自分の胸に聞いてみろ。

 小清水は一度も言い淀むことなく、「期待されてない人間」という現実を、井口に突き付けた。確かにそうだ。父親がほんの僅かでも期待していたのなら、商品開発なり、営業なり、会社の花形と呼べる部署に配属していただろう。就活に失敗した自分は、父親の目の届かぬ場所で、ベルトコンベアーと睨み合うのがお似合いなのだと、井口は唇を噛み締める。

「毎日毎日、流れてくるあんぱんに胡麻を振るんだよ。一振りで二十五粒。多くても少なくても、手首のスナップがなってない! って怒鳴られるんだ……もう嫌だよ。ノイローゼになりそう」

 配属されてから半年までの間、井口は飼い犬に愚痴を吐くのを日課にしていた。

「なんか小清水さんってさ。あ、小清水さんっていうのは、めちゃくちゃ禿げてる教育担当ね。五十歳過ぎのベテラン社員で、あんぱんの胡麻に命かけてるんだよ」

 そう言いながらため息を吐く井口に、イキっていた大学時代の面影はない。

「俺も毎日胡麻を振り続けたらハゲるのかなぁ。仕事行きたくねーなー。あ、でも、辞めたら父さんに怒られるよな。ならいっそのこと死のうかな」

 飼い犬を抱えて嘆いた夜。井口の頭の中は小清水でいっぱいになっていた。人を威圧するような眼光と、どこまでがオデコかわからない頭は、まるで満月のよう。自分も将来、あんなふうになってしまうのかと考えるだけで、怖くて夜も眠れないほどだった。

「ねぇ、知ってる? 今夜、スーパームーンが見れるんだって」

 隣の女子高生の声で、井口ははっと我に返る。
 脳裏に残った小清水の頭を焼き付けるように、「満月でしょ? おっきい満月」とたたみかけてくる。ああもううるさい。

「間もなく快速急行———」

 そのアナウンスが流れると同時に、小学生三人組が井口の視界に入った。彼らは子犬が転げ回るようにして、白線の向こうを駆けていく。制服を着ているのでたぶん私立だろう。良いところの坊ちゃんだか知らないが、危ないじゃないか。
 井口は死のうとしていたことを忘れ、小学生たちを視線で追った。それから僅かに遅れて、「危ないから走るんじゃない!」という怒号が響く。声の主は六十代くらいの男だった。恰幅のいい身体にトレーナーを着て、チェックのハンチング帽を被っている。駆け抜けて行く後頭部に髪はなかった。

ああ、中年が仕事に心血を注ぐと毛根が死んでしまうのか。自分もそうなる前に死んだ方がいいのかもしれない。

 井口はスマートフォンを取り出し、フサフサした後頭部を掻きながら、遺書の内容を考える。「人生に疲れたので死にます」これだと動機がわからない。「胡麻を振りすぎてノイローゼになったので死にます」一番しっくりくる。メモアプリに打ち込んでいたら、パーッ、パッパーと、警笛が鳴った。思わず顔を上げた瞬間、ドォーン、と、トタンに勢いよくボールをぶつけたような、大きな音が響く。何が起きたのだろう。呆然と辺りを見回す井口の耳に、「人が飛び込んだ」誰かの慌てた声が入ってきた。

「お客さまにお知らせします。ただいま当駅で人身事故が発生した影響で、本線は運転を見合わせております」

 「ホームでの写真撮影はご遠慮ください」駅員の悲痛なアナウンスも聞かず、ぞろぞろとホームの奥へと向かう野次馬たち。列車に飛び込んだ人物にどのような事情があって、何があったのかは一切わからない。けれど、初めて人身事故に遭遇した井口の胸には、「人生から脱落できて羨ましい」という感情が湧いていた。自分もいずれ後を追うのだから、今日だって無理に仕事へ行く必要はないじゃないか。そう思っていたはずなのに、井口の足は、自然とホームの出口へ向かっていた。  
 何故かはわからない。ただ、仕事へ向かわなくてはいけない使命感と、死に群がる蛾にはなりたくない気持ちが、井口の足を動かしていた。

 電車の大幅な遅延が見込める、つまり、公然とサボれる千差一隅のチャンスに、まさか路線バスで仕事へ向かおうとするなんて、予想もしなかったのだ。

 遅刻したら小清水さんにどつかれるな、などと独り言ちながら野次馬を掻き分けていたとき、不意に泣き叫ぶ小学生が目に留まった。よく見ると、あの時白線の向こう側を走っていた男の子だった。「おじさんが……ぼくのせいで……」その嗚咽に嫌な予感がしたが、耳をそばだてている時間はない。他人の死を深追いしたって意味がないのだから。
 井口は外へ続く階段に向かおうとしたが、踏み出した足がクシャリと何かを踏んだ。ひやっとして足元を見る。そこには裏返しになったチェックのハンチング帽が転がっていた。拾ってまじまじ見ると、洗い込んだ洗濯表示に『アダチ』の文字がある。今どき持ち物に名前を書くなんて、よほど几帳面な人なのだろう。
 井口は時計を見る。出勤時間まであと四十分。バス乗り場まで五分。そこから会社まで三十分と少し……。無理だ。係員に届けている時間なんてない。仕方なくハンチング帽を鞄へしまって、井口は階段をのぼった。息を切らしてバスに駆け込んだ。帰りに届ければ良いか、と一息つく頃には、全身が汗びっしょりになっていた。

「おい井口、スーパームーンって知ってるか?」

 社員のジジババでごった返す休憩室。井口の隣には、弁当屋のミックスフライをつつく小清水がいた。仕事中はこっ酷く叱ってくるというのに、昼になれば必ずと言っていいほど、隣に座ってくる。
 今朝だって、遅刻ギリギリだったことをしつこく責められたばかりだ。井口は虚ろな表情でご飯を頬張っている。

「……いや、知らないっす」
「はぁ? なんだ、若いのに冷めてるな。いいか、スーパームーンってのは、『これ以上ない』とか『完了』って意味がある。つまり今夜は、心をまっさらにし、新たな気持ちで再スタートを切るのに適しているんだと」

 得意気に鼻を鳴らす小清水さんの向かいで、「さすがリーダー、博識っすね」と、下っ端従業員がヨイショする。「よせって」言いながらも、自分のスーパームーンを掻く小清水さんは、まんざらでもなさそうだった。

「死んだ嫁の受け売りさ。すぴりちゅある? だかに詳しかったんで、俺も自然と覚えちまったのさ」

 はっきり言って、井口にとってはどうでもいい話しだった。それにしても食欲が湧かないな。三分の一も減っていない弁当を持て余していると、小清水の顔がぬぅっと近づいてくる。

「なぁ井口。入社当初、オレが問題出したの覚えてるか?」
「ああ‥‥どうして社長息子が、製造に配属されたかですよね」

 箸を置いて井口は言った。小清水が深く頷く。この人はどこまで意地が悪いのだろう。

「期待されてないから、ですよ」

 はぁー、と小清水は大袈裟にため息を吐いた。

「お前は何もわかってないな。いいか、社長がこの部署に配属した理由は、自社製品を知ってもらいたいからだ。パンが作られる工程を見て学んでからじゃないと、商品の良さが分からないだろう」

 首を傾げた井口がちらりと視線をやると、小清水が動きを止める。それから何を思ったのか、箸に挟んだアジフライを差し出してきた。

「ほら、揚げもんでも食って頑張れ」
「あ、俺青魚食えないんで大丈夫です」

 色んな感情を詰め込んだ声は、周りが引くほどに冷たかった。「ったく、お前はほんとに可愛くねぇな」プライドをへし折られたように不貞腐れるこの人に、媚びを売るなんて出来ない。いくら職場の上司とはいえ、自分を怒鳴りつける人間とは仲良くする気にはなれなかった。

 休憩が明けて早々、あんぱんに胡麻を振り続ける仕事に、井口は限界を感じていた。
 自分はいったい何のために胡麻を振っているのだろう。自分はこんな仕事をするために大学へ行ったわけじゃない。心の中で何度も呟いていると、あっという間に手が滑って、容器が落ちてしまった。途端にブザーが鳴り響き、ベルトコンベアが止まる。突然のアクシデントに周りが騒然とする中、井口は顎に手を添え、ざっと見た感じ、二百粒は優に超えているな、などと他人事のように呟いている。すると案の定、後頭部に衝撃が走った。

「バカやろう! ボサっとしてるからこういうことになるんだ!」

 小清水さんは、フードキャップとマスクの隙間から、充血した目を覗かせて怒号を浴びせた。しかし、井口は何とも思わなかった。仲間が順調に進めたラインを止めたことも、それによって現場の士気が落ちていることだって、井口にとってはどうでもいいことだ。

 「しょうがないじゃないですか。手が滑ったんだから」その投げやりな言動に、「お前の自暴自棄に周りを巻き込むな」小清水が声を荒げる。

「いや、俺だけじゃないでしょう。こんなロボットみたいな仕事、嫌にならないやつがいるわけない」
「……今なんて言った?」
「だから、こんな仕事」

 井口の声に被せるようにして、小清水が厳しい口調で言う。

「お前にとってはでも、誰かにとっては誇りある仕事だ。だいたい就活に失敗したか何だか知らねぇが、こんな仕事も、てめぇで選んだ場所だろ。いつまでも不貞腐れてねぇで、ちっとは真面目にやったらどうだ」
「俺だって真面目にやってますよ。なのにあんたがいちいち怒るから、やる気が削がれるんじゃないか!」
「真面目にやってるやつが手を滑らせるわけねぇだろ! 一生懸命やっている中でのミスなら、オレだって怒らない。だけどお前のは身が入ってないやつのする凡ミスだ!」

 小清水は血走った目で井口を睨みつけながら怒鳴った。ベルトコンベアが止まった室内は、今までになく静かで、井口の浅い息遣いが周りに聞こえるほどだった。
悔しいとも、情けないとも違う。井口はなんとも表現し難い気持ちに苛まれていた。どうしてみんなは、こんな仕事に誇りを持てるんだ? どうして大人はいつも、職場や社会に順応できるのだろう。この世界はプライドを捨てた人たちで回っているのかもしれない。

 結局、ベルトコンベアが止まったせいで、二時間も残業をすることになった。井口が着替えて外に出る頃には、もう二十時を回っていた。
 ぐったりとした体に秋の風が刺さる。寒さに肩を窄めつつ空を見上げると、そこには黄卵のような満月が金色に光っていた。
 ふと、井口の頭に小清水の言葉が甦る。
 新たな気持ちで再スタートを切れると言うなら、自分は一度死んで生まれ変わればいいんじゃないか。つまりスーパームーンの今夜は、死ぬのにもってこいってことだ。よし、帰りの急行電車に飛び込もう。そう思って見上げる満月は、大きくて眩しく、そして最期の時に相応しく美しかった。

 就活に失敗してから、来る日も来る日も死ぬことばかり考えていたはずなのに、いざ電車を前にすると恐怖で足がすくむ。井口の目下にある白線が現世だとすると、一歩踏み出した先はあの世。 
 ぽつりぽつりと思い出される、細やかな思い出。じわりと広がる後悔。ああ、死ぬのって思っていたよりずっと怖い。

 何本電車を見送ったか、わからなくなる頃合いで、ふわりとの匂いが漂ってきた。井口は斜め後ろの立ち食い蕎麦屋に目をやる。そこでは、つるんとした頭の男性が蕎麦を啜っていた。一瞬、既視感を覚えたけれど、スキンヘッドの知り合いは小清水だけだし、彼は車通勤だ。ホームの蕎麦屋に居るわけがない。
 ごくり、と生唾を飲んだ井口は、ふらふらとした足取りで券売機へ向かい、かけ蕎麦のボタンを押す。そして気がつけば店主に食券を渡していた。俺はいったい何をやっているんだろう。不思議な気持ちで蕎麦を待ちながら、先ほどの男性を見遣った。ふわふわと湯気の立つどんぶりには、青ねぎと蕎麦と———満月のような卵。

「月見そば美味しいですよ」

 視線に気づいた中年男性が、かけそばが来たタイミングで声をかけてきた。髪がないせいか、笑顔がやけに眩しい。「俺も卵トッピングしていいですか?」井口がお金を差し出すと、店主は首を傾げながら小皿に乗った卵を渡した。
 井口は湯気の立つダシに卵を落として、ズルズルと蕎麦を啜る。その身体を溶かすようなおいしさ。凍った心を崩すようなやるせなさ。喉をこするように食べると、飲み込んだ拍子に涙がこぼれる。俺は今まで何をしていたのだろう。就活の失敗をいつまでも引き摺って、周りに迷惑をかけて、うまいくいかないことを他人のせいにする、まるで駄々っ子じゃないか。
 井口の涙は流れ続けていた。ヨレたトレーナーで何度も拭いても、蕎麦をかきこんでもぽたぽた落ちる。箸をもったまま俯き、声を殺した。

「泣くほど美味しかったのかな? それとも、辛いことがあったとか」

 見兼ねた中年男性が柔らかな声で訊ねた。井口が慌てて顔を拭うと、「わたしでよければ聞くよ」とたたみ掛けてくる。それがスイッチだった。就活に失敗したこと。胡麻を振る仕事にやり甲斐を感じないこと。何者にもなれない自分がもどかしいこと。劣等感に苛まれ、死のうと思ったこと。
 心のしこりを潰して、膿を搾り出すように言葉たちが次々と流れる。見ず知らずの相手に話すなんてどうかしていると、頭では分かっているのに止まらなかった。涙がぽろぽろと落ち、どんぶりのつゆに波紋を描く。井口が一気に話し終えると、中年男性が目を細めて言った。

「実はわたしも、食品工場でライン作業をしているんだ。青い看板のコンビニ知ってるかな? あそこのお弁当に梅干しを乗せる仕事だよ。単純で地味に思えるけど、自分が梅干しを乗せたお弁当を見ると誇らしい気持ちになる。ああ、わたしの仕事もちゃんと誰かに届いているんだなって」

 差し出された紙ナプキンを受け取って、井口は鼻をかんだ。その派手な音の後ろで中年男性が続ける。

「あんぱんには、二十五粒の胡麻がかかっていた方が風味が出るし、白米には梅干しが乗っていた方が華が出る。そういう細やかな仕事が、社会を豊かにしているのさ」
「……表舞台に立てなくても、誇りを持てるものなんですか?」
「だって自分の選んだ仕事だからね」

 小さく笑って蕎麦を頬張る中年男性を見て、ずるりと鼻を啜り、井口はどんぶりに浮かぶ(つき)を見つめる。最後に食べようと思っていたそれを箸で割って、残りの蕎麦と一緒にかきこんだ。

「まあ、わたしもこう見えて、正義のヒーローに憧れる節があるので、何かになりたい気持ちはわかる。そう、よくわかるよ。だから今朝もつい身体が動いてしまって」

 そこまで言うと、中年男性は何かを思い出したかのように、つるりとした後頭部をさすった。

「あれ? 帽子をどこかに落としてしまったみたいだ」

 帽子———中年男性の言葉を合図に、朝の出来事が思い出される。そうだバッグに突っ込んだ帽子を、駅員に届けなくては。慌てた井口がハンチング帽を取り出したとき、

「お兄さん。さっきから誰と話してるんだい?」

 声を掛けてきた店主は訝しんでいた。洗い物をする手を止めて、じっと井口を見ている。

「いやこちらの男性と———」

 しかし、井口の指差す先に中年男性の姿はなく、空のどんぶりがぽつりと置いてあるだけだった。

 「あんた以外にお客さんなんかいないよ」眉根を寄せて言った店主は、「片付けるの忘れてたかな」と言って、空のどんぶりを下げる。
 確かに中年男性はいた。隣で月見そばを食べていた。でも誰もいなかったと言われると、自信がなくなってくる。疑問を飲み込んで井口は、「ごちそうさまです」とハンチング帽を持って、店主に背を向けた。

「あれ? その帽子、さんのじゃないか?」

 突然そう言われて、井口は振り返る。

「見覚えありますか?」
「うちの常連さんが被ってるやつだよ‥‥そういや、毎日欠かさずこれぐらいの時間に来るんだが、今日は遅いな」
「今朝ホームで拾ったんです。人身事故の影響で遅刻しそうだったから、届けに行く時間がなくて」

 井口がそう言うと、店主はハンチング帽を見たままフリーズした。

「どうかしました?」
「いや、その人身事故、小学生を庇って男が巻き込まれたって話しを聞いたんでな」

 店主の言葉を聞いた瞬間、全ての事象が繋がった気がした。そして、また溢れそうになる涙を必死に堪える。小学生を庇ったのは、多分、ヒーローに憧れていたあの人だ。

「今日が定年最後って言ってたし、そんなハレの日に馬鹿なことしないか。ああでも、正義感の強い人だったから心配だな」

 井口は洗い物を再開する店主を見たあと、ぎゅっとハンチング帽を握った。誰かのために命を無駄にするのを馬鹿だと言うのなら、自ら命を断とうとしていた自分は、もっと馬鹿だ。

「まあ、同僚の見送りがしつこくて遅れてるだけだろう。会ったら渡しておくよ」

 そう言って差し出された手に、井口はハンチング帽を託す。

「アダチさんに会ったら、あなたのおかげで仕事と———自分と向き合う決心がついたとお伝えください」

 そう言って会釈する井口の目には、薄らと涙の膜が張っていた。ちょうどホームに電車が滑り込んでくるところだった。井口は店主に別れを告げ、最後尾に乗り込んだ。
 車窓についてくる満月。
 真っ黒な夜空に優しい光りが瞬いている。仕事に疲れ、ふらふらと行き交う人々を優しく照らす光り———理想と現実の狭間を彷徨い、絶望を味わいながらも、大人たちは立ち止まらない。小さな幸せをつまみながら、毎日を生きて行く。ヒーローになれなくてもいい。平凡に歳を重ねて行くのも悪くない。けれど、死ぬ間際に思い出される記憶が、優しく光るものであって欲しい。
 そんなふうに思う井口の横顔は、かつてないほどに晴れやかなものだった。




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 よし、今日こそは死のう。
 今年で齢、二十二になる|井口《いぐち》は、通勤ラッシュのホームで、拳を強く握った。
 食品会社の一人息子として生まれ、なに不自由ない幼少期を過ごしたあと、小、中、高は私立で学生生活を送り、名門大学に合格した。しかし、順風満帆な人生は就活を期に狂い始めたのだった。
 大手コンサルタント会社、外資金融、広告代理店、IT系ベンチャー企業。就職氷河期と言われるご時世での、新卒採用試験はキツかった。そんな中でも同じ学部のメンバーは皆、有名企業に内定を決めていたから、当たり前に内定をもらえるものだと思っていた。けれど、第一希望のコンサルタント会社は惨敗。その後も、三十を越える企業にエントリーシートを送ったが、通過したのは十社。一次面接に漕ぎ着けても二次に呼ばれることはなかった。だからといって就職浪人生になるわけにもいかず、父親に頭を下げて入社したのが『イグチパン』という実家の会社である。
 当然、良いポストが用意される、なんてことはなく、配属されたのは自社工場の製造だった。
「社長の息子だからって、優遇されると思うなよ」
 井口の教育担当である|小清水《こしみず》は、配属初日にそう言った。彼は勤めて三十年のベテラン社員らしい。
 社長息子に生まれて、何不自由なく育てられたあと、名門大学を卒業したんだっけ? オレだったら、自分は選ばれし人間だと錯覚しちまうな。出来ないものなんか無いって思うだろ。でも結局は、就活に失敗した。ここで一つ質問がある。社長が製造に配属した理由はなんでしょう? 正解は自分の胸に聞いてみろ。
 小清水は一度も言い淀むことなく、「期待されてない人間」という現実を、井口に突き付けた。確かにそうだ。父親がほんの僅かでも期待していたのなら、商品開発なり、営業なり、会社の花形と呼べる部署に配属していただろう。就活に失敗した自分は、父親の目の届かぬ場所で、ベルトコンベアーと睨み合うのがお似合いなのだと、井口は唇を噛み締める。
「毎日毎日、流れてくるあんぱんに胡麻を振るんだよ。一振りで二十五粒。多くても少なくても、手首のスナップがなってない! って怒鳴られるんだ……もう嫌だよ。ノイローゼになりそう」
 配属されてから半年までの間、井口は飼い犬に愚痴を吐くのを日課にしていた。
「なんか小清水さんってさ。あ、小清水さんっていうのは、めちゃくちゃ禿げてる教育担当ね。五十歳過ぎのベテラン社員で、あんぱんの胡麻に命かけてるんだよ」
 そう言いながらため息を吐く井口に、イキっていた大学時代の面影はない。
「俺も毎日胡麻を振り続けたらハゲるのかなぁ。仕事行きたくねーなー。あ、でも、辞めたら父さんに怒られるよな。ならいっそのこと死のうかな」
 飼い犬を抱えて嘆いた夜。井口の頭の中は小清水でいっぱいになっていた。人を威圧するような眼光と、どこまでがオデコかわからない頭は、まるで満月のよう。自分も将来、あんなふうになってしまうのかと考えるだけで、怖くて夜も眠れないほどだった。
「ねぇ、知ってる? 今夜、スーパームーンが見れるんだって」
 隣の女子高生の声で、井口ははっと我に返る。
 脳裏に残った小清水の頭を焼き付けるように、「満月でしょ? おっきい満月」とたたみかけてくる。ああもううるさい。
「間もなく快速急行———」
 そのアナウンスが流れると同時に、小学生三人組が井口の視界に入った。彼らは子犬が転げ回るようにして、白線の向こうを駆けていく。制服を着ているのでたぶん私立だろう。良いところの坊ちゃんだか知らないが、危ないじゃないか。
 井口は死のうとしていたことを忘れ、小学生たちを視線で追った。それから僅かに遅れて、「危ないから走るんじゃない!」という怒号が響く。声の主は六十代くらいの男だった。恰幅のいい身体にトレーナーを着て、チェックのハンチング帽を被っている。駆け抜けて行く後頭部に髪はなかった。
ああ、中年が仕事に心血を注ぐと毛根が死んでしまうのか。自分もそうなる前に死んだ方がいいのかもしれない。
 井口はスマートフォンを取り出し、フサフサした後頭部を掻きながら、遺書の内容を考える。「人生に疲れたので死にます」これだと動機がわからない。「胡麻を振りすぎてノイローゼになったので死にます」一番しっくりくる。メモアプリに打ち込んでいたら、パーッ、パッパーと、警笛が鳴った。思わず顔を上げた瞬間、ドォーン、と、トタンに勢いよくボールをぶつけたような、大きな音が響く。何が起きたのだろう。呆然と辺りを見回す井口の耳に、「人が飛び込んだ」誰かの慌てた声が入ってきた。
「お客さまにお知らせします。ただいま当駅で人身事故が発生した影響で、本線は運転を見合わせております」
 「ホームでの写真撮影はご遠慮ください」駅員の悲痛なアナウンスも聞かず、ぞろぞろとホームの奥へと向かう野次馬たち。列車に飛び込んだ人物にどのような事情があって、何があったのかは一切わからない。けれど、初めて人身事故に遭遇した井口の胸には、「人生から脱落できて羨ましい」という感情が湧いていた。自分もいずれ後を追うのだから、今日だって無理に仕事へ行く必要はないじゃないか。そう思っていたはずなのに、井口の足は、自然とホームの出口へ向かっていた。  
 何故かはわからない。ただ、仕事へ向かわなくてはいけない使命感と、死に群がる蛾にはなりたくない気持ちが、井口の足を動かしていた。
 電車の大幅な遅延が見込める、つまり、公然とサボれる千差一隅のチャンスに、まさか路線バスで仕事へ向かおうとするなんて、予想もしなかったのだ。
 遅刻したら小清水さんにどつかれるな、などと独り言ちながら野次馬を掻き分けていたとき、不意に泣き叫ぶ小学生が目に留まった。よく見ると、あの時白線の向こう側を走っていた男の子だった。「おじさんが……ぼくのせいで……」その嗚咽に嫌な予感がしたが、耳をそばだてている時間はない。他人の死を深追いしたって意味がないのだから。
 井口は外へ続く階段に向かおうとしたが、踏み出した足がクシャリと何かを踏んだ。ひやっとして足元を見る。そこには裏返しになったチェックのハンチング帽が転がっていた。拾ってまじまじ見ると、洗い込んだ洗濯表示に『アダチ』の文字がある。今どき持ち物に名前を書くなんて、よほど几帳面な人なのだろう。
 井口は時計を見る。出勤時間まであと四十分。バス乗り場まで五分。そこから会社まで三十分と少し……。無理だ。係員に届けている時間なんてない。仕方なくハンチング帽を鞄へしまって、井口は階段をのぼった。息を切らしてバスに駆け込んだ。帰りに届ければ良いか、と一息つく頃には、全身が汗びっしょりになっていた。
「おい井口、スーパームーンって知ってるか?」
 社員のジジババでごった返す休憩室。井口の隣には、弁当屋のミックスフライをつつく小清水がいた。仕事中はこっ酷く叱ってくるというのに、昼になれば必ずと言っていいほど、隣に座ってくる。
 今朝だって、遅刻ギリギリだったことをしつこく責められたばかりだ。井口は虚ろな表情でご飯を頬張っている。
「……いや、知らないっす」
「はぁ? なんだ、若いのに冷めてるな。いいか、スーパームーンってのは、『これ以上ない』とか『完了』って意味がある。つまり今夜は、心をまっさらにし、新たな気持ちで再スタートを切るのに適しているんだと」
 得意気に鼻を鳴らす小清水さんの向かいで、「さすがリーダー、博識っすね」と、下っ端従業員がヨイショする。「よせって」言いながらも、自分のスーパームーンを掻く小清水さんは、まんざらでもなさそうだった。
「死んだ嫁の受け売りさ。すぴりちゅある? だかに詳しかったんで、俺も自然と覚えちまったのさ」
 はっきり言って、井口にとってはどうでもいい話しだった。それにしても食欲が湧かないな。三分の一も減っていない弁当を持て余していると、小清水の顔がぬぅっと近づいてくる。
「なぁ井口。入社当初、オレが問題出したの覚えてるか?」
「ああ‥‥どうして社長息子が、製造に配属されたかですよね」
 箸を置いて井口は言った。小清水が深く頷く。この人はどこまで意地が悪いのだろう。
「期待されてないから、ですよ」
 はぁー、と小清水は大袈裟にため息を吐いた。
「お前は何もわかってないな。いいか、社長がこの部署に配属した理由は、自社製品を知ってもらいたいからだ。パンが作られる工程を見て学んでからじゃないと、商品の良さが分からないだろう」
 首を傾げた井口がちらりと視線をやると、小清水が動きを止める。それから何を思ったのか、箸に挟んだアジフライを差し出してきた。
「ほら、揚げもんでも食って頑張れ」
「あ、俺青魚食えないんで大丈夫です」
 色んな感情を詰め込んだ声は、周りが引くほどに冷たかった。「ったく、お前はほんとに可愛くねぇな」プライドをへし折られたように不貞腐れるこの人に、媚びを売るなんて出来ない。いくら職場の上司とはいえ、自分を怒鳴りつける人間とは仲良くする気にはなれなかった。
 休憩が明けて早々、あんぱんに胡麻を振り続ける仕事に、井口は限界を感じていた。
 自分はいったい何のために胡麻を振っているのだろう。自分はこんな仕事をするために大学へ行ったわけじゃない。心の中で何度も呟いていると、あっという間に手が滑って、容器が落ちてしまった。途端にブザーが鳴り響き、ベルトコンベアが止まる。突然のアクシデントに周りが騒然とする中、井口は顎に手を添え、ざっと見た感じ、二百粒は優に超えているな、などと他人事のように呟いている。すると案の定、後頭部に衝撃が走った。
「バカやろう! ボサっとしてるからこういうことになるんだ!」
 小清水さんは、フードキャップとマスクの隙間から、充血した目を覗かせて怒号を浴びせた。しかし、井口は何とも思わなかった。仲間が順調に進めたラインを止めたことも、それによって現場の士気が落ちていることだって、井口にとってはどうでもいいことだ。
 「しょうがないじゃないですか。手が滑ったんだから」その投げやりな言動に、「お前の自暴自棄に周りを巻き込むな」小清水が声を荒げる。
「いや、俺だけじゃないでしょう。こんなロボットみたいな仕事、嫌にならないやつがいるわけない」
「……今なんて言った?」
「だから、こんな仕事」
 井口の声に被せるようにして、小清水が厳しい口調で言う。
「お前にとっては《《こんな仕事》》でも、誰かにとっては誇りある仕事だ。だいたい就活に失敗したか何だか知らねぇが、こんな仕事も、てめぇで選んだ場所だろ。いつまでも不貞腐れてねぇで、ちっとは真面目にやったらどうだ」
「俺だって真面目にやってますよ。なのにあんたがいちいち怒るから、やる気が削がれるんじゃないか!」
「真面目にやってるやつが手を滑らせるわけねぇだろ! 一生懸命やっている中でのミスなら、オレだって怒らない。だけどお前のは身が入ってないやつのする凡ミスだ!」
 小清水は血走った目で井口を睨みつけながら怒鳴った。ベルトコンベアが止まった室内は、今までになく静かで、井口の浅い息遣いが周りに聞こえるほどだった。
悔しいとも、情けないとも違う。井口はなんとも表現し難い気持ちに苛まれていた。どうしてみんなは、こんな仕事に誇りを持てるんだ? どうして大人はいつも、職場や社会に順応できるのだろう。この世界はプライドを捨てた人たちで回っているのかもしれない。
 結局、ベルトコンベアが止まったせいで、二時間も残業をすることになった。井口が着替えて外に出る頃には、もう二十時を回っていた。
 ぐったりとした体に秋の風が刺さる。寒さに肩を窄めつつ空を見上げると、そこには黄卵のような満月が金色に光っていた。
 ふと、井口の頭に小清水の言葉が甦る。
 新たな気持ちで再スタートを切れると言うなら、自分は一度死んで生まれ変わればいいんじゃないか。つまりスーパームーンの今夜は、死ぬのにもってこいってことだ。よし、帰りの急行電車に飛び込もう。そう思って見上げる満月は、大きくて眩しく、そして最期の時に相応しく美しかった。
 就活に失敗してから、来る日も来る日も死ぬことばかり考えていたはずなのに、いざ電車を前にすると恐怖で足がすくむ。井口の目下にある白線が現世だとすると、一歩踏み出した先はあの世。 
 ぽつりぽつりと思い出される、細やかな思い出。じわりと広がる後悔。ああ、死ぬのって思っていたよりずっと怖い。
 何本電車を見送ったか、わからなくなる頃合いで、ふわりと《《ダシ》》の匂いが漂ってきた。井口は斜め後ろの立ち食い蕎麦屋に目をやる。そこでは、つるんとした頭の男性が蕎麦を啜っていた。一瞬、既視感を覚えたけれど、スキンヘッドの知り合いは小清水だけだし、彼は車通勤だ。ホームの蕎麦屋に居るわけがない。
 ごくり、と生唾を飲んだ井口は、ふらふらとした足取りで券売機へ向かい、かけ蕎麦のボタンを押す。そして気がつけば店主に食券を渡していた。俺はいったい何をやっているんだろう。不思議な気持ちで蕎麦を待ちながら、先ほどの男性を見遣った。ふわふわと湯気の立つどんぶりには、青ねぎと蕎麦と———満月のような卵。
「月見そば美味しいですよ」
 視線に気づいた中年男性が、かけそばが来たタイミングで声をかけてきた。髪がないせいか、笑顔がやけに眩しい。「俺も卵トッピングしていいですか?」井口がお金を差し出すと、店主は首を傾げながら小皿に乗った卵を渡した。
 井口は湯気の立つダシに卵を落として、ズルズルと蕎麦を啜る。その身体を溶かすようなおいしさ。凍った心を崩すようなやるせなさ。喉をこするように食べると、飲み込んだ拍子に涙がこぼれる。俺は今まで何をしていたのだろう。就活の失敗をいつまでも引き摺って、周りに迷惑をかけて、うまいくいかないことを他人のせいにする、まるで駄々っ子じゃないか。
 井口の涙は流れ続けていた。ヨレたトレーナーで何度も拭いても、蕎麦をかきこんでもぽたぽた落ちる。箸をもったまま俯き、声を殺した。
「泣くほど美味しかったのかな? それとも、辛いことがあったとか」
 見兼ねた中年男性が柔らかな声で訊ねた。井口が慌てて顔を拭うと、「わたしでよければ聞くよ」とたたみ掛けてくる。それがスイッチだった。就活に失敗したこと。胡麻を振る仕事にやり甲斐を感じないこと。何者にもなれない自分がもどかしいこと。劣等感に苛まれ、死のうと思ったこと。
 心のしこりを潰して、膿を搾り出すように言葉たちが次々と流れる。見ず知らずの相手に話すなんてどうかしていると、頭では分かっているのに止まらなかった。涙がぽろぽろと落ち、どんぶりのつゆに波紋を描く。井口が一気に話し終えると、中年男性が目を細めて言った。
「実はわたしも、食品工場でライン作業をしているんだ。青い看板のコンビニ知ってるかな? あそこのお弁当に梅干しを乗せる仕事だよ。単純で地味に思えるけど、自分が梅干しを乗せたお弁当を見ると誇らしい気持ちになる。ああ、わたしの仕事もちゃんと誰かに届いているんだなって」
 差し出された紙ナプキンを受け取って、井口は鼻をかんだ。その派手な音の後ろで中年男性が続ける。
「あんぱんには、二十五粒の胡麻がかかっていた方が風味が出るし、白米には梅干しが乗っていた方が華が出る。そういう細やかな仕事が、社会を豊かにしているのさ」
「……表舞台に立てなくても、誇りを持てるものなんですか?」
「だって自分の選んだ仕事だからね」
 小さく笑って蕎麦を頬張る中年男性を見て、ずるりと鼻を啜り、井口はどんぶりに浮かぶ|卵《つき》を見つめる。最後に食べようと思っていたそれを箸で割って、残りの蕎麦と一緒にかきこんだ。
「まあ、わたしもこう見えて、正義のヒーローに憧れる節があるので、何かになりたい気持ちはわかる。そう、よくわかるよ。だから今朝もつい身体が動いてしまって」
 そこまで言うと、中年男性は何かを思い出したかのように、つるりとした後頭部をさすった。
「あれ? 帽子をどこかに落としてしまったみたいだ」
 帽子———中年男性の言葉を合図に、朝の出来事が思い出される。そうだバッグに突っ込んだ帽子を、駅員に届けなくては。慌てた井口がハンチング帽を取り出したとき、
「お兄さん。さっきから誰と話してるんだい?」
 声を掛けてきた店主は訝しんでいた。洗い物をする手を止めて、じっと井口を見ている。
「いやこちらの男性と———」
 しかし、井口の指差す先に中年男性の姿はなく、空のどんぶりがぽつりと置いてあるだけだった。
 「あんた以外にお客さんなんかいないよ」眉根を寄せて言った店主は、「片付けるの忘れてたかな」と言って、空のどんぶりを下げる。
 確かに中年男性はいた。隣で月見そばを食べていた。でも誰もいなかったと言われると、自信がなくなってくる。疑問を飲み込んで井口は、「ごちそうさまです」とハンチング帽を持って、店主に背を向けた。
「あれ? その帽子、《《アダチ》》さんのじゃないか?」
 突然そう言われて、井口は振り返る。
「見覚えありますか?」
「うちの常連さんが被ってるやつだよ‥‥そういや、毎日欠かさずこれぐらいの時間に来るんだが、今日は遅いな」
「今朝ホームで拾ったんです。人身事故の影響で遅刻しそうだったから、届けに行く時間がなくて」
 井口がそう言うと、店主はハンチング帽を見たままフリーズした。
「どうかしました?」
「いや、その人身事故、小学生を庇って男が巻き込まれたって話しを聞いたんでな」
 店主の言葉を聞いた瞬間、全ての事象が繋がった気がした。そして、また溢れそうになる涙を必死に堪える。小学生を庇ったのは、多分、ヒーローに憧れていたあの人だ。
「今日が定年最後って言ってたし、そんなハレの日に馬鹿なことしないか。ああでも、正義感の強い人だったから心配だな」
 井口は洗い物を再開する店主を見たあと、ぎゅっとハンチング帽を握った。誰かのために命を無駄にするのを馬鹿だと言うのなら、自ら命を断とうとしていた自分は、もっと馬鹿だ。
「まあ、同僚の見送りがしつこくて遅れてるだけだろう。会ったら渡しておくよ」
 そう言って差し出された手に、井口はハンチング帽を託す。
「アダチさんに会ったら、あなたのおかげで仕事と———自分と向き合う決心がついたとお伝えください」
 そう言って会釈する井口の目には、薄らと涙の膜が張っていた。ちょうどホームに電車が滑り込んでくるところだった。井口は店主に別れを告げ、最後尾に乗り込んだ。
 車窓についてくる満月。
 真っ黒な夜空に優しい光りが瞬いている。仕事に疲れ、ふらふらと行き交う人々を優しく照らす光り———理想と現実の狭間を彷徨い、絶望を味わいながらも、大人たちは立ち止まらない。小さな幸せをつまみながら、毎日を生きて行く。ヒーローになれなくてもいい。平凡に歳を重ねて行くのも悪くない。けれど、死ぬ間際に思い出される記憶が、優しく光るものであって欲しい。
 そんなふうに思う井口の横顔は、かつてないほどに晴れやかなものだった。


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