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ー/ー午前三時十四分。
世界がいちばん澱んで、息を止めている時間だ。
六畳一間の安アパートは、遮光カーテンの隙間から滲む街灯のオレンジと、手元のスマートフォンが放つ青白い光とが混ざり合い、まるで腐りかけた深海みたいな色に沈んでいた。
俺の親指は、もはや俺の意思を離れた寄生生物のように、画面を弾き続けている。TikTok。アルゴリズムが吐き捨てる十五秒刻みの濁流。顔面がフィルターで溶け落ちた女子高生のダンス、咀嚼音だけを肥大化させた不快なASMR、意味不明なライフハックを名乗るDIY動画。
それらが次々と網膜を焦がし、脳の前頭葉をスプーンでぐちゃぐちゃにかき混ぜていく。
視神経が悲鳴を上げているのは分かっている。それでも指が止まらない。
ドーパミンを吸い尽くされた脳が、さらに空っぽの虚無を求めて、スクロールを強要してくる。画面には、俺の指先から移った脂が虹色の波紋を描いていて、その汚れ越しに見るインフルエンサーたちの笑顔は、どこか死体みたいに歪んで見えた。
そのときだ。
画面の上から、通知バナーがぬるりと垂れ下がってきた。
無機質なシステム音が、張りつめた静寂を真っ二つに裂く。
『デビット決済通知:-980円 加盟店名:UNEXPECTED_END_SUB』
親指が止まった。
心臓が、不整脈みたいに気持ちの悪いリズムを刻み始める。
九八〇円。
この金額が、いやらしいほど絶妙だ。Spotifyのプレミアムと同じ。松屋の定食なら二回分。
今の俺の口座残高において、それは「誤差」で片づけられる数字じゃない。来週の給料日まで、もやしと水道水で凌ぐ覚悟を決めた、その矢先の一撃だった。
俺は動画アプリを叩き落とし、震える指で銀行アプリを立ち上げる。
生体認証が、脂ぎった俺の指紋を一度、無慈悲に拒否した。舌打ちしながらパスコードを打ち込む。その暗転した画面に、自分の顔が映り込んでいるのが見えた。
無精髭、血走った目、半開きの口。進化の袋小路に迷い込んだサルみたいなツラだ。
明細には、はっきりと刻まれていた。
「UNEXPECTED_END_SUB」。
直訳すれば、「予想外の結末・定額制」。
背骨の内側を、冷たい虫が這い上がってくるみたいな悪寒が走る。
記憶を探る。
三年前、泥酔した夜の、穴だらけの映像が脳裏をかすめた。マッチングアプリで三連続サクラを引き当て、自暴自棄になった俺が、Siriに向かって喚いていたはずだ。
「もう何でもいいからオチをくれよ! このクソみたいに退屈な日常を壊してくれ!」と。
あれが契約だったのか?
現代の悪魔は、羊皮紙じゃなく、音声認識ログに署名させるのか。
俺はサポートチャットを開き、フリック入力で文字を叩きつけた。誤って「かいyく」と打ち込み、苛立ち紛れにバックスペースを連打する。
「身に覚えのない請求だ。今すぐ解約しろ」
送信して、〇・一秒。即座に既読がつく。その異様な速さが、神経を逆撫でする。
『AIボットがお答えします。解約をご希望ですね?「人生の結末」オプションを解除されますと、物語のカタルシス及び因果律が保証されなくなります。よろしいですか?』
画面には「はい」と「いいえ」。
「いいえ」だけが、わずかに小さい。誤タップを誘う、あからさまなダークパターン。企業の悪意が透けて見える。
俺は画面が割れるほどの力で「はい」を叩いた。
iPhoneの背面が、じわりと熱を帯びる。
劣化したバッテリーが、処理落ちの悲鳴を上げている。
『担当者に接続します。現在の待ち時間:約12分』
ふざけるな。
枕元を探り、充電ケーブルを引き寄せ、乱暴に差し込む。カチリ、という音が、やけに大きく響いた。
待機画面では、ロード中の円環がひたすら回っている。
それを見つめていると、胃の奥から吐き気がこみ上げた。さっき飲んだストロングゼロの、化学甘味料の粘ついた甘さが、胃壁にへばりついている。
無意識に、親指のささくれを前歯で噛みちぎった。鉄の味が、口内に広がる。痛みだけが、現実に繋ぎ止めてくれる。
十分。十一分。十二分。
円環は回り続ける。
俺の人生みたいに、どこにも辿り着かず、ただ時間だけを削り落とす回転。
「……もしもし」
スピーカーから、ノイズ混じりの声が漏れた。
底知れぬ疲労を孕んだ、中年男の声。深夜のコンビニで廃棄弁当を詰めているときの、生活にすり減った湿り気。
「チャットで解決しなかったか?」
第一声がそれか。
AirPodsを耳にねじ込み、声を荒げないよう腹に力を入れる。壁の薄いこの部屋で叫べば、隣の神経質な大学生から即座に壁ドンが飛んでくる。
「解約だ。今すぐ。この詐欺まがいのサブスクは何なんだ」
「お客様、詐欺とは心外ですね。三年前の三月十四日、午前二時四分。位置情報ログ、東京都練馬区のワンルーム。あなたは『驚かせてくれ』と、明確にリクエストしています」
「酔ってたんだよ! 無効だろ、そんなの!」
「規約第108条。酩酊状態における本音の吐露は、法的同意より優先される。……まあ、いいでしょう。最近多いんですよ。あなたみたいに『平穏な退屈』に耐えられなくなって契約したくせに、いざ物語が動き出すと怖気づく人」
あくびを噛み殺す気配が、声越しに伝わる。
その態度が、俺の劣等感に火を点けた。
「説教はいらない。返金も要らない。とにかく切れ。この月額九八〇円が、俺の精神衛生を破壊してる」
「かしこまりました。ただし、警告しておきます。現代において『結末』は高級品です。オチのない日常を誰もが垂れ流す中で、このサブスクはあなたの人生に無理やり『THE END』を保証していた。これを切ると——」
「知ったことか。俺の人生は俺のものだ」
「いえ、クラウド上のデータです。……では、解約処理を実行します。アンインストール中……」
プツン。
唐突に通話が切れた。
画面には「解約完了」の無愛想な文字。
俺は鼻で笑い、スマホを布団に放り投げた。
勝った。
搾取の構造から抜け出した。
喉が渇く。祝杯だ。冷蔵庫に残った麦茶でも飲もう。
ベッドから身を起こそうとした、その瞬間——
違和感が走った。
体が、動かない。
いや、違う。「重い」わけじゃない。
脳が「起きろ」と命令してから、筋肉が反応するまでに、妙な空白がある。
一秒。二秒。
ぬるりと、視界が傾いた。
遅延。ラグ。
俺の身体感覚と現実の動作の間に、致命的なズレが生じている。
「……は?」
自分の声が、口を動かしてから三秒遅れて耳に届く。
通信環境の最悪なWeb会議みたいな、不快なズレ。
立ち上がろうとして、バランスを失った。
床に倒れる——はずだった。
だが、俺の体は、斜め四十五度のまま、空中で静止した。
視界がカクつく。
フレームレートが落ちている。
六〇fpsだった現実が、パラパラ漫画以下の五fpsにまで劣化していく。
脱ぎ捨てたユニクロの靴下、飲みかけのペットボトル、埃を被ったカラーボックス。
すべてがディテールを失い、荒い低解像度テクスチャに張り替えられていく。
そして、視界の中央に——
あの、ぐるぐる回る円環。
『Buffering… 99%』
理解してしまった。
心臓が凍りつく恐怖と一緒に、理屈が腑に落ちた。
結末を解約したせいで、俺の人生は「次のシーン」を読み込めなくなっている。
終わることも、進むことも許されない。
永遠に続く「読み込み中」。
俺は叫ぼうとした。
だが音声データは送信されない。パケットロス。
口を開けた間抜けな表情のまま、空中で固まる。
静止したモザイクの世界で、ただ一つ、滑らかに動くものがあった。
床の隅から這い出す、黒い円盤。
ルンバ。
三ヶ月前に奮発して買ったロボット掃除機だけが、俺のバッファリング地獄とは無関係なローカル環境で、ウィーンという能天気な音を立てている。
あいつはオフラインだ。
ルンバが、斜めに固まった俺の顔に近づく。
障害物として認識していないのか、それとも「ゴミ」と判断したのか。
回転ブラシが、頬に触れた。
ジョリ、と皮膚を削る感触。
痛い、はずなのに——痛覚さえもバッファリングされている。痛みは、サーバーの向こうで順番待ちだ。
前髪が巻き込まれる。
ミリミリ、ブチブチと引き抜かれる音が、数秒遅れで骨伝導してくる。
まぶた一つ動かせない。
ルンバは頭部に乗り上げ、眼球を愛撫しようとする。
そのとき、遠くでスマホが光った。
通知。
『お支払いに失敗しました。アカウント情報を更新してください』
更新したい。
頼む、更新させてくれ。九八〇円でも、一万円でも払う。
この永遠の寸止めから、解放してくれ。
だが世界は九九%から進まない。
ただ、ルンバの無機質な吸引音だけが、最高音質のASMRみたいに、鼓膜を直接犯し続ける。
俺は、かつて垂れ流していたTikTokの動画みたいに、意味のない断片として、
この部屋で——
永遠に、バッファリングされ続けるのだ。
世界がいちばん澱んで、息を止めている時間だ。
六畳一間の安アパートは、遮光カーテンの隙間から滲む街灯のオレンジと、手元のスマートフォンが放つ青白い光とが混ざり合い、まるで腐りかけた深海みたいな色に沈んでいた。
俺の親指は、もはや俺の意思を離れた寄生生物のように、画面を弾き続けている。TikTok。アルゴリズムが吐き捨てる十五秒刻みの濁流。顔面がフィルターで溶け落ちた女子高生のダンス、咀嚼音だけを肥大化させた不快なASMR、意味不明なライフハックを名乗るDIY動画。
それらが次々と網膜を焦がし、脳の前頭葉をスプーンでぐちゃぐちゃにかき混ぜていく。
視神経が悲鳴を上げているのは分かっている。それでも指が止まらない。
ドーパミンを吸い尽くされた脳が、さらに空っぽの虚無を求めて、スクロールを強要してくる。画面には、俺の指先から移った脂が虹色の波紋を描いていて、その汚れ越しに見るインフルエンサーたちの笑顔は、どこか死体みたいに歪んで見えた。
そのときだ。
画面の上から、通知バナーがぬるりと垂れ下がってきた。
無機質なシステム音が、張りつめた静寂を真っ二つに裂く。
『デビット決済通知:-980円 加盟店名:UNEXPECTED_END_SUB』
親指が止まった。
心臓が、不整脈みたいに気持ちの悪いリズムを刻み始める。
九八〇円。
この金額が、いやらしいほど絶妙だ。Spotifyのプレミアムと同じ。松屋の定食なら二回分。
今の俺の口座残高において、それは「誤差」で片づけられる数字じゃない。来週の給料日まで、もやしと水道水で凌ぐ覚悟を決めた、その矢先の一撃だった。
俺は動画アプリを叩き落とし、震える指で銀行アプリを立ち上げる。
生体認証が、脂ぎった俺の指紋を一度、無慈悲に拒否した。舌打ちしながらパスコードを打ち込む。その暗転した画面に、自分の顔が映り込んでいるのが見えた。
無精髭、血走った目、半開きの口。進化の袋小路に迷い込んだサルみたいなツラだ。
明細には、はっきりと刻まれていた。
「UNEXPECTED_END_SUB」。
直訳すれば、「予想外の結末・定額制」。
背骨の内側を、冷たい虫が這い上がってくるみたいな悪寒が走る。
記憶を探る。
三年前、泥酔した夜の、穴だらけの映像が脳裏をかすめた。マッチングアプリで三連続サクラを引き当て、自暴自棄になった俺が、Siriに向かって喚いていたはずだ。
「もう何でもいいからオチをくれよ! このクソみたいに退屈な日常を壊してくれ!」と。
あれが契約だったのか?
現代の悪魔は、羊皮紙じゃなく、音声認識ログに署名させるのか。
俺はサポートチャットを開き、フリック入力で文字を叩きつけた。誤って「かいyく」と打ち込み、苛立ち紛れにバックスペースを連打する。
「身に覚えのない請求だ。今すぐ解約しろ」
送信して、〇・一秒。即座に既読がつく。その異様な速さが、神経を逆撫でする。
『AIボットがお答えします。解約をご希望ですね?「人生の結末」オプションを解除されますと、物語のカタルシス及び因果律が保証されなくなります。よろしいですか?』
画面には「はい」と「いいえ」。
「いいえ」だけが、わずかに小さい。誤タップを誘う、あからさまなダークパターン。企業の悪意が透けて見える。
俺は画面が割れるほどの力で「はい」を叩いた。
iPhoneの背面が、じわりと熱を帯びる。
劣化したバッテリーが、処理落ちの悲鳴を上げている。
『担当者に接続します。現在の待ち時間:約12分』
ふざけるな。
枕元を探り、充電ケーブルを引き寄せ、乱暴に差し込む。カチリ、という音が、やけに大きく響いた。
待機画面では、ロード中の円環がひたすら回っている。
それを見つめていると、胃の奥から吐き気がこみ上げた。さっき飲んだストロングゼロの、化学甘味料の粘ついた甘さが、胃壁にへばりついている。
無意識に、親指のささくれを前歯で噛みちぎった。鉄の味が、口内に広がる。痛みだけが、現実に繋ぎ止めてくれる。
十分。十一分。十二分。
円環は回り続ける。
俺の人生みたいに、どこにも辿り着かず、ただ時間だけを削り落とす回転。
「……もしもし」
スピーカーから、ノイズ混じりの声が漏れた。
底知れぬ疲労を孕んだ、中年男の声。深夜のコンビニで廃棄弁当を詰めているときの、生活にすり減った湿り気。
「チャットで解決しなかったか?」
第一声がそれか。
AirPodsを耳にねじ込み、声を荒げないよう腹に力を入れる。壁の薄いこの部屋で叫べば、隣の神経質な大学生から即座に壁ドンが飛んでくる。
「解約だ。今すぐ。この詐欺まがいのサブスクは何なんだ」
「お客様、詐欺とは心外ですね。三年前の三月十四日、午前二時四分。位置情報ログ、東京都練馬区のワンルーム。あなたは『驚かせてくれ』と、明確にリクエストしています」
「酔ってたんだよ! 無効だろ、そんなの!」
「規約第108条。酩酊状態における本音の吐露は、法的同意より優先される。……まあ、いいでしょう。最近多いんですよ。あなたみたいに『平穏な退屈』に耐えられなくなって契約したくせに、いざ物語が動き出すと怖気づく人」
あくびを噛み殺す気配が、声越しに伝わる。
その態度が、俺の劣等感に火を点けた。
「説教はいらない。返金も要らない。とにかく切れ。この月額九八〇円が、俺の精神衛生を破壊してる」
「かしこまりました。ただし、警告しておきます。現代において『結末』は高級品です。オチのない日常を誰もが垂れ流す中で、このサブスクはあなたの人生に無理やり『THE END』を保証していた。これを切ると——」
「知ったことか。俺の人生は俺のものだ」
「いえ、クラウド上のデータです。……では、解約処理を実行します。アンインストール中……」
プツン。
唐突に通話が切れた。
画面には「解約完了」の無愛想な文字。
俺は鼻で笑い、スマホを布団に放り投げた。
勝った。
搾取の構造から抜け出した。
喉が渇く。祝杯だ。冷蔵庫に残った麦茶でも飲もう。
ベッドから身を起こそうとした、その瞬間——
違和感が走った。
体が、動かない。
いや、違う。「重い」わけじゃない。
脳が「起きろ」と命令してから、筋肉が反応するまでに、妙な空白がある。
一秒。二秒。
ぬるりと、視界が傾いた。
遅延。ラグ。
俺の身体感覚と現実の動作の間に、致命的なズレが生じている。
「……は?」
自分の声が、口を動かしてから三秒遅れて耳に届く。
通信環境の最悪なWeb会議みたいな、不快なズレ。
立ち上がろうとして、バランスを失った。
床に倒れる——はずだった。
だが、俺の体は、斜め四十五度のまま、空中で静止した。
視界がカクつく。
フレームレートが落ちている。
六〇fpsだった現実が、パラパラ漫画以下の五fpsにまで劣化していく。
脱ぎ捨てたユニクロの靴下、飲みかけのペットボトル、埃を被ったカラーボックス。
すべてがディテールを失い、荒い低解像度テクスチャに張り替えられていく。
そして、視界の中央に——
あの、ぐるぐる回る円環。
『Buffering… 99%』
理解してしまった。
心臓が凍りつく恐怖と一緒に、理屈が腑に落ちた。
結末を解約したせいで、俺の人生は「次のシーン」を読み込めなくなっている。
終わることも、進むことも許されない。
永遠に続く「読み込み中」。
俺は叫ぼうとした。
だが音声データは送信されない。パケットロス。
口を開けた間抜けな表情のまま、空中で固まる。
静止したモザイクの世界で、ただ一つ、滑らかに動くものがあった。
床の隅から這い出す、黒い円盤。
ルンバ。
三ヶ月前に奮発して買ったロボット掃除機だけが、俺のバッファリング地獄とは無関係なローカル環境で、ウィーンという能天気な音を立てている。
あいつはオフラインだ。
ルンバが、斜めに固まった俺の顔に近づく。
障害物として認識していないのか、それとも「ゴミ」と判断したのか。
回転ブラシが、頬に触れた。
ジョリ、と皮膚を削る感触。
痛い、はずなのに——痛覚さえもバッファリングされている。痛みは、サーバーの向こうで順番待ちだ。
前髪が巻き込まれる。
ミリミリ、ブチブチと引き抜かれる音が、数秒遅れで骨伝導してくる。
まぶた一つ動かせない。
ルンバは頭部に乗り上げ、眼球を愛撫しようとする。
そのとき、遠くでスマホが光った。
通知。
『お支払いに失敗しました。アカウント情報を更新してください』
更新したい。
頼む、更新させてくれ。九八〇円でも、一万円でも払う。
この永遠の寸止めから、解放してくれ。
だが世界は九九%から進まない。
ただ、ルンバの無機質な吸引音だけが、最高音質のASMRみたいに、鼓膜を直接犯し続ける。
俺は、かつて垂れ流していたTikTokの動画みたいに、意味のない断片として、
この部屋で——
永遠に、バッファリングされ続けるのだ。
みんなのリアクション
まだリアクションはありません。最初の一歩を踏み出しましょう!
午前三時十四分。
世界がいちばん澱んで、息を止めている時間だ。
世界がいちばん澱んで、息を止めている時間だ。
六畳一間の安アパートは、遮光カーテンの隙間から滲む街灯のオレンジと、手元のスマートフォンが放つ青白い光とが混ざり合い、まるで腐りかけた深海みたいな色に沈んでいた。
俺の親指は、もはや俺の意思を離れた寄生生物のように、画面を弾き続けている。TikTok。アルゴリズムが吐き捨てる十五秒刻みの濁流。顔面がフィルターで溶け落ちた女子高生のダンス、咀嚼音だけを肥大化させた不快なASMR、意味不明なライフハックを名乗るDIY動画。
それらが次々と網膜を焦がし、脳の前頭葉をスプーンでぐちゃぐちゃにかき混ぜていく。
俺の親指は、もはや俺の意思を離れた寄生生物のように、画面を弾き続けている。TikTok。アルゴリズムが吐き捨てる十五秒刻みの濁流。顔面がフィルターで溶け落ちた女子高生のダンス、咀嚼音だけを肥大化させた不快なASMR、意味不明なライフハックを名乗るDIY動画。
それらが次々と網膜を焦がし、脳の前頭葉をスプーンでぐちゃぐちゃにかき混ぜていく。
視神経が悲鳴を上げているのは分かっている。それでも指が止まらない。
ドーパミンを吸い尽くされた脳が、さらに空っぽの虚無を求めて、スクロールを強要してくる。画面には、俺の指先から移った脂が虹色の波紋を描いていて、その汚れ越しに見るインフルエンサーたちの笑顔は、どこか死体みたいに歪んで見えた。
ドーパミンを吸い尽くされた脳が、さらに空っぽの虚無を求めて、スクロールを強要してくる。画面には、俺の指先から移った脂が虹色の波紋を描いていて、その汚れ越しに見るインフルエンサーたちの笑顔は、どこか死体みたいに歪んで見えた。
そのときだ。
画面の上から、通知バナーがぬるりと垂れ下がってきた。
画面の上から、通知バナーがぬるりと垂れ下がってきた。
無機質なシステム音が、張りつめた静寂を真っ二つに裂く。
『デビット決済通知:-980円 加盟店名:UNEXPECTED_END_SUB』
親指が止まった。
心臓が、不整脈みたいに気持ちの悪いリズムを刻み始める。
心臓が、不整脈みたいに気持ちの悪いリズムを刻み始める。
九八〇円。
この金額が、いやらしいほど絶妙だ。Spotifyのプレミアムと同じ。松屋の定食なら二回分。
今の俺の口座残高において、それは「誤差」で片づけられる数字じゃない。来週の給料日まで、もやしと水道水で凌ぐ覚悟を決めた、その矢先の一撃だった。
この金額が、いやらしいほど絶妙だ。Spotifyのプレミアムと同じ。松屋の定食なら二回分。
今の俺の口座残高において、それは「誤差」で片づけられる数字じゃない。来週の給料日まで、もやしと水道水で凌ぐ覚悟を決めた、その矢先の一撃だった。
俺は動画アプリを叩き落とし、震える指で銀行アプリを立ち上げる。
生体認証が、脂ぎった俺の指紋を一度、無慈悲に拒否した。舌打ちしながらパスコードを打ち込む。その暗転した画面に、自分の顔が映り込んでいるのが見えた。
無精髭、血走った目、半開きの口。進化の袋小路に迷い込んだサルみたいなツラだ。
生体認証が、脂ぎった俺の指紋を一度、無慈悲に拒否した。舌打ちしながらパスコードを打ち込む。その暗転した画面に、自分の顔が映り込んでいるのが見えた。
無精髭、血走った目、半開きの口。進化の袋小路に迷い込んだサルみたいなツラだ。
明細には、はっきりと刻まれていた。
「UNEXPECTED_END_SUB」。
「UNEXPECTED_END_SUB」。
直訳すれば、「予想外の結末・定額制」。
背骨の内側を、冷たい虫が這い上がってくるみたいな悪寒が走る。
背骨の内側を、冷たい虫が這い上がってくるみたいな悪寒が走る。
記憶を探る。
三年前、泥酔した夜の、穴だらけの映像が脳裏をかすめた。マッチングアプリで三連続サクラを引き当て、自暴自棄になった俺が、Siriに向かって喚いていたはずだ。
「もう何でもいいからオチをくれよ! このクソみたいに退屈な日常を壊してくれ!」と。
三年前、泥酔した夜の、穴だらけの映像が脳裏をかすめた。マッチングアプリで三連続サクラを引き当て、自暴自棄になった俺が、Siriに向かって喚いていたはずだ。
「もう何でもいいからオチをくれよ! このクソみたいに退屈な日常を壊してくれ!」と。
あれが契約だったのか?
現代の悪魔は、羊皮紙じゃなく、音声認識ログに署名させるのか。
現代の悪魔は、羊皮紙じゃなく、音声認識ログに署名させるのか。
俺はサポートチャットを開き、フリック入力で文字を叩きつけた。誤って「かいyく」と打ち込み、苛立ち紛れにバックスペースを連打する。
「身に覚えのない請求だ。今すぐ解約しろ」
「身に覚えのない請求だ。今すぐ解約しろ」
送信して、〇・一秒。即座に既読がつく。その異様な速さが、神経を逆撫でする。
『AIボットがお答えします。解約をご希望ですね?「人生の結末」オプションを解除されますと、物語のカタルシス及び因果律が保証されなくなります。よろしいですか?』
画面には「はい」と「いいえ」。
「いいえ」だけが、わずかに小さい。誤タップを誘う、あからさまなダークパターン。企業の悪意が透けて見える。
俺は画面が割れるほどの力で「はい」を叩いた。
「いいえ」だけが、わずかに小さい。誤タップを誘う、あからさまなダークパターン。企業の悪意が透けて見える。
俺は画面が割れるほどの力で「はい」を叩いた。
iPhoneの背面が、じわりと熱を帯びる。
劣化したバッテリーが、処理落ちの悲鳴を上げている。
劣化したバッテリーが、処理落ちの悲鳴を上げている。
『担当者に接続します。現在の待ち時間:約12分』
ふざけるな。
枕元を探り、充電ケーブルを引き寄せ、乱暴に差し込む。カチリ、という音が、やけに大きく響いた。
枕元を探り、充電ケーブルを引き寄せ、乱暴に差し込む。カチリ、という音が、やけに大きく響いた。
待機画面では、ロード中の円環がひたすら回っている。
それを見つめていると、胃の奥から吐き気がこみ上げた。さっき飲んだストロングゼロの、化学甘味料の粘ついた甘さが、胃壁にへばりついている。
無意識に、親指のささくれを前歯で噛みちぎった。鉄の味が、口内に広がる。痛みだけが、現実に繋ぎ止めてくれる。
それを見つめていると、胃の奥から吐き気がこみ上げた。さっき飲んだストロングゼロの、化学甘味料の粘ついた甘さが、胃壁にへばりついている。
無意識に、親指のささくれを前歯で噛みちぎった。鉄の味が、口内に広がる。痛みだけが、現実に繋ぎ止めてくれる。
十分。十一分。十二分。
円環は回り続ける。
俺の人生みたいに、どこにも辿り着かず、ただ時間だけを削り落とす回転。
円環は回り続ける。
俺の人生みたいに、どこにも辿り着かず、ただ時間だけを削り落とす回転。
「……もしもし」
スピーカーから、ノイズ混じりの声が漏れた。
底知れぬ疲労を孕んだ、中年男の声。深夜のコンビニで廃棄弁当を詰めているときの、生活にすり減った湿り気。
底知れぬ疲労を孕んだ、中年男の声。深夜のコンビニで廃棄弁当を詰めているときの、生活にすり減った湿り気。
「チャットで解決しなかったか?」
第一声がそれか。
AirPodsを耳にねじ込み、声を荒げないよう腹に力を入れる。壁の薄いこの部屋で叫べば、隣の神経質な大学生から即座に壁ドンが飛んでくる。
AirPodsを耳にねじ込み、声を荒げないよう腹に力を入れる。壁の薄いこの部屋で叫べば、隣の神経質な大学生から即座に壁ドンが飛んでくる。
「解約だ。今すぐ。この詐欺まがいのサブスクは何なんだ」
「お客様、詐欺とは心外ですね。三年前の三月十四日、午前二時四分。位置情報ログ、東京都練馬区のワンルーム。あなたは『驚かせてくれ』と、明確にリクエストしています」
「酔ってたんだよ! 無効だろ、そんなの!」
「規約第108条。酩酊状態における本音の吐露は、法的同意より優先される。……まあ、いいでしょう。最近多いんですよ。あなたみたいに『平穏な退屈』に耐えられなくなって契約したくせに、いざ物語が動き出すと怖気づく人」
あくびを噛み殺す気配が、声越しに伝わる。
その態度が、俺の劣等感に火を点けた。
その態度が、俺の劣等感に火を点けた。
「説教はいらない。返金も要らない。とにかく切れ。この月額九八〇円が、俺の精神衛生を破壊してる」
「かしこまりました。ただし、警告しておきます。現代において『結末』は高級品です。オチのない日常を誰もが垂れ流す中で、このサブスクはあなたの人生に無理やり『THE END』を保証していた。これを切ると——」
「知ったことか。俺の人生は俺のものだ」
「いえ、クラウド上のデータです。……では、解約処理を実行します。アンインストール中……」
プツン。
唐突に通話が切れた。
唐突に通話が切れた。
画面には「解約完了」の無愛想な文字。
俺は鼻で笑い、スマホを布団に放り投げた。
俺は鼻で笑い、スマホを布団に放り投げた。
勝った。
搾取の構造から抜け出した。
搾取の構造から抜け出した。
喉が渇く。祝杯だ。冷蔵庫に残った麦茶でも飲もう。
ベッドから身を起こそうとした、その瞬間——
ベッドから身を起こそうとした、その瞬間——
違和感が走った。
体が、動かない。
いや、違う。「重い」わけじゃない。
脳が「起きろ」と命令してから、筋肉が反応するまでに、妙な空白がある。
いや、違う。「重い」わけじゃない。
脳が「起きろ」と命令してから、筋肉が反応するまでに、妙な空白がある。
一秒。二秒。
ぬるりと、視界が傾いた。
ぬるりと、視界が傾いた。
遅延。ラグ。
俺の身体感覚と現実の動作の間に、致命的なズレが生じている。
俺の身体感覚と現実の動作の間に、致命的なズレが生じている。
「……は?」
自分の声が、口を動かしてから三秒遅れて耳に届く。
通信環境の最悪なWeb会議みたいな、不快なズレ。
通信環境の最悪なWeb会議みたいな、不快なズレ。
立ち上がろうとして、バランスを失った。
床に倒れる——はずだった。
床に倒れる——はずだった。
だが、俺の体は、斜め四十五度のまま、空中で静止した。
視界がカクつく。
フレームレートが落ちている。
六〇fpsだった現実が、パラパラ漫画以下の五fpsにまで劣化していく。
フレームレートが落ちている。
六〇fpsだった現実が、パラパラ漫画以下の五fpsにまで劣化していく。
脱ぎ捨てたユニクロの靴下、飲みかけのペットボトル、埃を被ったカラーボックス。
すべてがディテールを失い、荒い低解像度テクスチャに張り替えられていく。
すべてがディテールを失い、荒い低解像度テクスチャに張り替えられていく。
そして、視界の中央に——
あの、ぐるぐる回る円環。
あの、ぐるぐる回る円環。
『Buffering… 99%』
理解してしまった。
心臓が凍りつく恐怖と一緒に、理屈が腑に落ちた。
心臓が凍りつく恐怖と一緒に、理屈が腑に落ちた。
結末を解約したせいで、俺の人生は「次のシーン」を読み込めなくなっている。
終わることも、進むことも許されない。
永遠に続く「読み込み中」。
終わることも、進むことも許されない。
永遠に続く「読み込み中」。
俺は叫ぼうとした。
だが音声データは送信されない。パケットロス。
口を開けた間抜けな表情のまま、空中で固まる。
だが音声データは送信されない。パケットロス。
口を開けた間抜けな表情のまま、空中で固まる。
静止したモザイクの世界で、ただ一つ、滑らかに動くものがあった。
床の隅から這い出す、黒い円盤。
ルンバ。
ルンバ。
三ヶ月前に奮発して買ったロボット掃除機だけが、俺のバッファリング地獄とは無関係なローカル環境で、ウィーンという能天気な音を立てている。
あいつはオフラインだ。
あいつはオフラインだ。
ルンバが、斜めに固まった俺の顔に近づく。
障害物として認識していないのか、それとも「ゴミ」と判断したのか。
障害物として認識していないのか、それとも「ゴミ」と判断したのか。
回転ブラシが、頬に触れた。
ジョリ、と皮膚を削る感触。
痛い、はずなのに——痛覚さえもバッファリングされている。痛みは、サーバーの向こうで順番待ちだ。
ジョリ、と皮膚を削る感触。
痛い、はずなのに——痛覚さえもバッファリングされている。痛みは、サーバーの向こうで順番待ちだ。
前髪が巻き込まれる。
ミリミリ、ブチブチと引き抜かれる音が、数秒遅れで骨伝導してくる。
ミリミリ、ブチブチと引き抜かれる音が、数秒遅れで骨伝導してくる。
まぶた一つ動かせない。
ルンバは頭部に乗り上げ、眼球を愛撫しようとする。
ルンバは頭部に乗り上げ、眼球を愛撫しようとする。
そのとき、遠くでスマホが光った。
通知。
通知。
『お支払いに失敗しました。アカウント情報を更新してください』
更新したい。
頼む、更新させてくれ。九八〇円でも、一万円でも払う。
この永遠の寸止めから、解放してくれ。
頼む、更新させてくれ。九八〇円でも、一万円でも払う。
この永遠の寸止めから、解放してくれ。
だが世界は九九%から進まない。
ただ、ルンバの無機質な吸引音だけが、最高音質のASMRみたいに、鼓膜を直接犯し続ける。
ただ、ルンバの無機質な吸引音だけが、最高音質のASMRみたいに、鼓膜を直接犯し続ける。
俺は、かつて垂れ流していたTikTokの動画みたいに、意味のない断片として、
この部屋で——
永遠に、バッファリングされ続けるのだ。
この部屋で——
永遠に、バッファリングされ続けるのだ。