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第五話  光の日、叫び島で

ー/ー



「リノア〜。今日は光の日だから教会行くぞ〜。俺は外で待ってるからな」

光の日。
聖光神レナウスが、はじめて人間に光のマナを与えた日。

この日だけは、カスボ村の人たちは畑も店も早めに切り上げて、
教会に集まり、レナウスへ祈りを捧げる。

「おとうさん待ってー! わたしも行くー!」

白いワンピースの裾を押さえながら、リノアはぱたぱたと駆けていく。
カルレンはその姿を横目で見ながら、歩幅を少しだけゆるめた。

二人は並んで、のどかな土道を教会へと歩いていく。

「リノア、さっき魔法の練習見たけどよ。かなり上達したな」

「えへへ、まあね! わたし天才ですから!」

「はいはい、そうですか〜」

「おとうさん! その反応なにー!」

リノアをちょっとだけくすぐると、すぐムキになって返してくる。
それが面白くて、カルレンはよくわざと適当に流した。

そんな何気ないやりとりの最中――。

「カルレンさん! リノアちゃん! こんにちは〜」

前方から、丸っこい体の老婆が手を振りながら近づいてきた。
スタコ婆さんだ。

「おー、スタコ婆さんじゃねぇか。教会行くとこか?」

「そうよ〜。教会行こうと思って歩いてたら、たまたま二人を見つけちゃったのよ〜」

「スタコおばさん、こんにちは! この前のカスボジュース、美味しかったです!」

「あらまあ、リノアちゃんは今日も可愛いわねぇ! リノアちゃんのためなら、ジュースなんていくらでも作っちゃうわよ〜」

「ありがとうございます!」

スタコは目尻のシワをぐっと深くしながら笑う。

ふと、彼女の視線がカルレンに向いた。

「カルレンさん。モニカちゃんはどうしたの? 最近姿見ないけど……大丈夫?」

カルレンの表情が少し曇る。

「モニカは……ここ一週間帰ってきてないんだ」

「え……」

「一週間前の朝、テーブルの上に紙が置いてあってな。“修行してるから心配しなくていい”って書いてあった。俺は急いで家を飛び出して、近くの森やら、外れの林やら、行けそうな場所を片っ端から探したんだが……全然見つからなくてな」

「そうだったのねぇ……。モニカちゃん、昔からあまり村で見かけないから、心配になっちゃうのよ、わたし」

カルレンはふっと息を吐き、空を仰いだ。

「……あいつは強い。危ないことは自分で判断できる。そういう女だ。だから、俺は信じてる」

その口調は、心配を無理やり押し込めたような、どこか無茶な強さを含んでいた。

そんな話をしているうちに、教会が見えてきた。
石造りの小さな教会には、すでに村人たちが何人も集まっている。

「じゃあな、スタコ婆さん。またジュース頼むぞ」

「任されました〜」

スタコはひょこひょこと中へ入っていく。

そのとき、教会前の広場で、ひらひらとスカートを揺らしながら走ってくる少女がいた。

「リノアちゃん、カルレンさん、こんにちは!」

ニーナだ。
リノアと同い年で、明るくて声が大きい、いつも元気な女の子。

リノアとカルレンが挨拶を返すと、カルレンは先に教会の中へ入り、
リノアは少しのあいだ外でニーナと話すことにした。

「リノアちゃん! 最近さ、叫び島からすごい声聞こえるの知ってる?
『うりゃあああ!』とか『でらあああ!』とか、ああいう声! めっちゃ怖いんだけど!!」

「えええ!? なにそれ! こ、怖いね……」

「でしょ!? あの島、絶対なんかいるよ! だからリノアちゃん、絶対行っちゃダメ!! ぜっっったいに!!」

ニーナの顔は本気で怯えていた。

「絶対行かないよ〜。だって怖いもん!」

そう言って笑うリノアの背中に――。

「リノア! ニーナ!」

少し離れた所から、聞き慣れた声が飛んできた。
クロンとギアンだ。二人とも手を振っている。

リノアとニーナはそちらへ駆け寄った。

「クロン、ギアン、こんにちは! 二人で一緒に来たの?」

「ギアンとは途中で合流したんだ。……それよりリノア、魔法の訓練どうなんだ?」

「ボクも気になります! リノアさんの魔法訓練!」

ギアンは相変わらず丁寧で、ちょっとだけ緊張したような笑顔を浮かべている。

リノアは胸を張り、小さくドヤ顔をした。

「最近はすごく順調だよ! マナの量も増えてきた気がするし、この前なんて――一人でビックボア倒したんだ!」

「「えええええええ!?」」

リノア以外の三人の叫びが、見事にハモった。

「リノアちゃん、それほんとに?」

「うん! ほんとだよ!」

「おまえすげーな! もう自警団入ってもいいんじゃないか?」

「リノアさん、すごいです! ビックボアって、大人三人でも苦戦するくらいなのに……」

ギアンは目を丸くしながら、本気で尊敬しているようだった。

ニーナも身を乗り出す。

「リノアちゃんは、塔の攻略に向けて、ちゃくちゃくと強くなってるんだね!
もし十三歳になったらさ、ニーナたちと一緒に行こうよ! 塔の旅!」

「え!? だ、大丈夫なの? 危険な旅になるって、おとうさん言ってたけど……」

リノアが不安そうに眉を寄せると、クロンが胸をどんと叩いた。

「リノア、おれたちを舐めんな! こっそり魔法の練習もしてるし、剣の修行はオレの父さんに教わってるんだぞ!
ギアンもニーナも一緒にな!」

「そうなんだよね。やっぱりリノアさん一人で冒険に出るのは危ないから……」

「ギアンくんの言う通り! ニーナたちが、リノアちゃんを守るんだ! だから、今のうちから訓練してるの!
魔法の訓練は、叫び島の近くでやってるから、人も来ないし邪魔されないんだよ〜!」

「マジ叫び島に感謝だよな……名前は怖いけど」

そんなことを話しているうちに、教会の鐘がカラン、と鳴った。

「そろそろ始まるな。行こうぜ」

クロンがそう言うと、四人は揃って教会の中へ入っていった。

 ・
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 ・

光の日の祈りは、ゆったりとした賛美歌とともに進み――
終わる頃には、教会の外はすっかり昼の光で満ちていた。

リノアがクロンたちと一緒に外へ出ると、少し先で老婆が転んでいた。
膝を抱えて、顔をしかめている。

「だ、大丈夫ですか!?」

リノアが駆け寄ると、老婆の膝から血が流れていた。

「聖女様、すいませんねぇ……。わたしゃ大丈夫だからねぇ。こんな傷、大したことないからねぇ」

そう言いつつも、足はぶるぶる震えている。

リノアはそっと膝元に手をかざした。

「大丈夫です。すぐ治します。――ヒール(癒しの光)」

リノアの手のひらに、淡い光が集まる。
それは柔らかな布のように傷口へ流れ、血を洗い、肉を繋ぎ、皮膚を滑らかに戻していく。

数秒後、血は止まり、傷跡は消えていた。

「……あらまぁ。ありがとうねぇ、聖女様」

老婆は足を曲げ伸ばししてみせて、何度も頭を下げた。

「いえいえ! これくらい余裕です!」

リノアが笑うと、老婆はまた礼を言って、ゆっくりと去っていく。

そこへニーナが駆け寄った。

「さすが聖女だね! リノアちゃん!」

クロンも感心したように腕を組む。

「そんな一瞬で治るもんなのかよ……」

ギアンも目を輝かせていた。

「ボク、初めてちゃんと見ましたけど……すごいです。不思議な感じですね。
この前ボク、転んで足擦りむいちゃって、リノアさんにお願いしようとしたんですけど、お母さんに
“そんな大したことない傷でリノアちゃんにお願いしてはいけません! これくらいは自分で治しなさい!”
って怒られて……」

「ギアン、そうだったの? わたしは別に治してあげるよ〜?」

クロンがすかさず割り込む。

「ギアンのお母さんの言う通りだ! そんなことで毎回リノアに頼んでたら、リノアの周りにずっと人だかりできて、オレたちが遊べなくなるだろ!」

「クロンくんの言う通り! ニーナだって、リノアちゃんと遊びたいもん!!」

「ボクだって……! リノアさんと、あ、遊びたいです!」

三人が口々に言うと、リノアは少し照れながら笑った。

「みんな……ありがとう」

そんなふうに、教会の後の時間をどう過ごすか話していた、そのとき――。

「あれ……誰?」

ニーナがリノアの背後を指さした。

リノアが振り向くと、
黒ずんだボロボロのフードとローブをまとった人物が、ゆっくりとこちらへ近づいてきていた。

顔はフードで隠れ、表情は見えない。

静かに、だが確実に歩み寄り――
リノアの目の前でぴたりと止まる。

「……お主。聖女か?」

低く掠れた声。
リノアは突然の問いに、返事が遅れる。

その瞬間――クロンが一歩前へ出た。

「おい! おまえ!! リノアに近づくな!!」

険しい顔で叫ぶクロンを、黒フードの人物は一瞥もしない。
ただ、もう一度リノアへ問いかける。

「……お主。聖女か?」

リノアは、少しだけ躊躇ってから、こくりと頷いた。

その瞬間。

「――やっと、見つけたわい……」

ボロ布のようなローブの下から伸びた腕が、
リノアの体を抱きかかえ、そのままくるりと踵を返す。

「聖女様、お許しくだされ」

そう言い残し、黒フードの人物はリノアを抱えたまま一気に走り出した。

「え、え……? な、なに……?」

あまりに唐突な出来事に、リノアの頭は現状を理解できない。

クロンとギアン、ニーナがすぐに走り出すが、相手の足が速すぎた。

「クソ! 追いつかねぇ!!」

クロンは、走りながらギアンに怒鳴る。

「ギアン!! お前、自警団に伝えに戻れ!!
“リノアが変なヤツに連れていかれた”って! いいか、絶対だぞ!!」

「わ、分かった!!」

ギアンは踵を返し、全力で教会へ駆け戻る。

「ニーナ!! おれとお前は追うぞ!!」

「うん!!」

二人は叫びながら、黒フードの行った方角――海沿いのほうへと走っていく。

「待てええええ!!」

「今の方向……叫び島のほうだよ、クロンくん!!」

「クソッ! リノアをさらいやがって!! 絶対見つけてやる!!」

 ・
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一方そのころ、教会の中では。

カルレンが祈りを終え、外に出たところで、慌てた様子のギアンに出会った。

「か、カルレンさん!! リノアさんが……!!」

  ◇

「なんだと!? 聖女様が攫われただと!!?」

教会横の自警団詰め所。
ギアンの報告に、団長格の男が怒鳴り声を上げる。

「誰か追いかけてる奴はいるのか!?」

「クロンとニーナが追いかけています! それから……カルレンさんも、さっき外に飛び出して……顔、すっごく怖かったです!!」

「チッ……! 子どもまで巻き込まれてやがる……!
おい、すぐに動ける奴は集まれ!! 聖女様の救出に向かう!!」

自警団員十人ほどが、武具を掴みながら慌ただしく飛び出していく。



その頃、カルレンはすでにギアンの指さした方向へ全力で走っていた。

「クソ……! 俺は何してた……! なんで目を離した……!!
リノアあああ!! どこだあああ!! 返事しろおおお!!」

必死に叫びながら海沿いの道を駆ける。
だが、それらしい姿は見えない。

焦りで頭が真っ白になりかけた、その時――。

上空で、小さな風の渦が生まれた。

「……風魔法!? 今のは――アネマか!?」

カルレンの脳裏に、リノアの魔法が浮かぶ。

(今の場所……!)

風が巻き起こった方角へ、カルレンはさらに速度を上げて走り出した。

 ・
 ・
 ・

「離してぇぇぇ!! たすけてぇぇ!! おとうさん!! たすけてーー!!」

黒いフードの腕の中で、リノアは必死に暴れる。

男は走りながらも、できるだけ体が揺れないように抱きかかえていた。

「聖女様……すまんのう。
聖女様のお力を頼りたくて、無理やり連れ去ってしまった……」

「離してってばぁぁ!!」

リノアは涙目になりながら、男の顔めがけて手を突き出す。

「アネマ!!」

風の弾丸が黒フードの男の顔面を襲う――が。
男は首を少し傾け、ギリギリでそれを避ける。

風の塊は空へ飛び去り、霧散した。

「おお……危なかったわい。
まだ小さいのに、なんちゅう威力の魔法を撃つんじゃ……」

リノアは涙を拭う余裕もなく、手足をばたばたさせる。

「なら、はなしてよぉ!!」

「聖女様! どうか、聞いてくだされ!!
――わしは、聖女様の光のマナの力を借りて……我が弟子、アデルを……救って欲しいんじゃ!!」

その声は、必死で、切実で、震えていた。

 ・
 ・
 ・

  〜数時間前・叫び島〜

「アデルよ〜。飯にするぞ〜」

パニアの声が、焚き火のそばに響いた。

アデルはペガルイム・プルスの練習を一旦止めて、
汗だくの体をぺたっと草の上に落とした後、すぐにパニアの隣へ座る。

「なあアデル」

「ん?」

「隣の島に、一度行ってみないかの〜」

「パニア爺、急にどうしたんだよ」

パニアは空を見上げる。
雲ひとつない青空、その向こうにうっすらとカスボ島の影が見える。

「アデルは、まだ“同じ人間”をわししか知らんじゃろ」

「まあな。パニア爺以外の人間見たことねぇし」

「隣の島には、アデルと同じぐらいの子どもも、もっとちっこいのも、大きいのも、たくさんおる。
そこで、友達や仲間を作るんじゃ」

アデルは鼻をほじりながら、よく分かってない顔で聞いている。

「友達? 仲間? なんだよそれ」

「友達や仲間というのはの。
互いに難しい試練を協力して乗り越えたり、お互いを助け合ったりする相手のことじゃ」

「ふーん。オレ強いから大丈夫だし、一人でなんとかなるだろ。友達なんていらねーよ、パニア爺」

パニアは少し眉をひそめた。

「アデルよ。一人ではどうにもならんことは、山ほどある。
それに……聖女の旅についていくんじゃろう? 聖女と仲間にならんと、一緒に塔に行くこともできんぞ?」

アデルの目がぴくっと動いた。

「それは……嫌だ。
パニア爺、分かった! 友達作る!!」

即答だった。

「で、どうやって作るんだ?」

「そうじゃな〜。一番最初が肝心での。
まずはしっかり相手の目を見る。
それから――“オレはパニア。よろしくな!”って、自己紹介するんじゃ」

「なんでパニア爺なんだよ」

「今のは例え話じゃい。
名前のとこは自分ので言え。……で、言い終えたら手を前に差し出して、握手する。
それができたら、もうそいつとは“友達”じゃ」

「おお! そんな簡単なのかよ!」

「簡単ではないが……まあ、最初の一歩じゃ。
わしはそれで、山ほど友達を作ったんじゃぞ〜」

パニアはちょっと誇らしげに笑う。

「とりあえず、アデル。練習するぞ」

「練習?」

「わしを相手に挨拶してみい。
心は込めて、目は怖くせんで、声は大きすぎず、笑顔でじゃ」

「……めんどくせぇな」

「文句言うでない」

なんだかんだで素直なアデルは、パニアの前に立つ。

「オ、オレはアデル!! よろしくな!!!」

「目つき怖いの〜。声がでかすぎる。
最後に笑顔が足らん。そんな顔で近づいたら、みんな逃げるわい。もう一度じゃ」

それからしばらく、アデルの表情と声のトーンの調整が続いた。

「オレはアデル。よろしくなっ!」

三度目のトライで、パニアは大きく頷いた。

「……今のは完璧じゃ!」

「よっしゃああ!! 早く試したい!! パニア爺、早く隣の島行こうぜ!!」

「分かった分かった。船の準備をするからの〜。
呼ぶまで、その辺ぶらぶらしておれ」

「早くな〜!!」

パニアが岸の方へ歩いていくのを見届けてから、
アデルはキャンプ場から少し離れた森の中をぶらぶら歩き始めた。

木漏れ日が揺れ、鳥が鳴き、風が葉を鳴らす。
そんな中――アデルの足がふいに止まる。

前方に、茶色く巨大な背中が見えた。

「……ハンドベアー」

分厚く硬い毛並み。異常に発達した二本の腕。
パニアから「絶対に手を出すな」と何度も言われた危険な魔物だ。

(やべぇ……見つかったら……)

一瞬、“逃げる”という選択肢が頭をよぎる。

だが、すぐに別の声が脳裏に響いた。

――ここで逃げたら、最強になれない。

「オレは……ビビらない。
パニア爺と修行して、強くなった。オレは最強になる男だ……!」

アデルは自分に言い聞かせ、
ハンドベアーの背中めがけて蹴りを一発叩き込んだ。

「ヴォオオオオオオ!!」

荒々しい咆哮が森を揺らす。

ハンドベアーが振り向き、立ち上がる。
その巨体は五メートルは下らない。

だがアデルは怖気づかなかった。
二発目の蹴りを狙って踏み込んだ、その瞬間――。

ハンドベアーの腕がうねり、空気を裂いた。

(はえ――)

あまりの速さに、避けるという判断すら追いつかなかった。

ガッ――!!

爪がアデルの腹部に食い込み、肉を抉る。

「あ……っ、あああああああああ!!」

視界がぐらりと揺れる。
体から一気に血が吹き出し、足元の土を真っ赤に染めた。

ハンドベアーが、トドメを刺そうとさらに腕を振り上げた、その時――。

ドゴッ!!

ハンドベアーの巨体が、横から何かに殴り飛ばされ、数メートル転がった。

獣はうめき声を上げ、しばし怯えたように周囲を見回すと、
そのまま森の奥へ逃げ込んでいく。

「アデルーー!! 大丈夫か!!」

血相を変えたパニアが駆け寄る。

「く、そ……オレは……まだ……」

アデルの腹部からは、止まる気配のない血が溢れていた。

パニアは迷わず自分の服を引き裂き、アデルの腹に強く押し当てる。

「アデル!! 諦めるでない!! 今から助けを呼んでくる!!
だからそれまで……絶対に死ぬんじゃないぞ!!」

朦朧とした意識の中、アデルはかすかに頷いた。

パニアは土魔法でアデルの周りに小さな“かまくら”を作る。
冷たい風と雨、獣から守るための簡易のシェルターだ。

「すぐ戻るからの……!」

そう言い残し、パニアは全速力で海岸――そして船へと向かった。

 ・
 ・
 ・

  〜現在〜

「……貴方の名前は、なんですか?」

抱えられたままの状態で、リノアが尋ねる。

黒フードの人物は、一瞬だけ驚いたように肩を揺らした後、静かに答えた。

「わしは、パニアと言う。
怖い思いをさせて、すまんのう……聖女様」

フードの奥から見えた老人の目には、涙が溜まっていた。

その眼を見て、リノアははっきりと理解した。
この人は、自分に危害を加えようとしているわけじゃない、と。

やがてパニアは岸へ下り、小さな船に乗り込む。
リノアもそのまま抱えられて乗せられた。

「どこに行くんですか……?」

「すぐ隣の島じゃ。……わしとアデルが暮らしておる島よ」

「……叫び島、ですか?」

「ほう……そんな名前で呼ばれておるんか。知らなんだわい」

小舟はきしみながらも、ゆっくりと海を滑っていく。

 ・
 ・
 ・

「クロン!! あれ見て!!」

ニーナが指さした先――
海の上に、小舟が一隻出ている。

よく目を凝らすと、その上に乗っている小さな影。
白い髪。白い服。

「……リノアだ!!」

クロンは歯を食いしばる。

「ニーナ! おれたちの冒険用の船、まだ砂浜にあったよな!?」

「うん! こっちだよ!!」

二人は走り、岸の脇に隠してあった小舟を引っ張り出す。

「ニーナ、押すぞ! せーの!!」

二人の全体重をかけて押し出し、船を海に浮かべる。

「行くぞ!!」

クロンとニーナが船に飛び乗り、必死にオールを漕いで、リノアの乗る小舟を追う。

岸から数メートル離れたときだった。

「おい!! 俺も乗せろ!!」

突然、怒鳴り声とともに、人影が船へ向かって飛んできた。

ドンッ!!

重い音を立てて男が乗り込むと、船が大きくぐらつき、
今にもひっくり返りそうになるが――ギリギリで持ちこたえた。

「お、お、お、おも……」

「悪いな。助かった」

そう言って振り返った男は――カルレンだった。

「カルレンさん……!」

クロンとニーナが安堵の声を漏らす。

カルレンはオールを取り上げ、短く告げた。

「二人とも、しっかり掴まってろ」

そして、空へ手を突き出す。

「――アネマ!!」

風が吠え、船の後ろから強く押し出す。
小舟はまるで矢のように海面を滑り始めた。

「カ、カルレン、さん……はや、はやい、です……!」

「きゃああああ!! こわいこわいこわいこわい!!」

「喋ると舌噛むぞ! ……もうすぐ岸だ!!」

カルレンは一瞬だけ前方の叫び島を睨み――
船が砂浜に突っ込む直前に、ニーナを抱え、クロンを引っ掴んだまま、勢いよくジャンプした。

「――っと」

三人はなんとか岸に着地し、船はそのまま浜に打ち上げられる。

「大丈夫か、お前ら」

「「は、はい……」」

二人の無事を確認すると、カルレンはすぐさま森の中へ駆け出した。

 ・
 ・
 ・

そのころ、叫び島・アデルのかまくらの前では――。

「アデルーー!! 大丈夫かーー!!」

パニアは土のかまくらの一部を崩し、人が入れる程度の穴を作った。

中を覗くと、アデルの顔は真っ白で、浅い息をしている。

「……っ!」

パニアはリノアをそっと下ろし、深く頭を下げた。

「聖女様……お願いします。どうか、どうかこの子を……」

リノアはかまくらの中に入り、アデルの腹部に手をかざした。

アデルはかすかに目を開ける。

「だ……れだ、おま、え……」

「今は、喋らないで……。――ヒール」

柔らかな光があふれ、アデルの腹部を包み込む。

抉れた肉がふさがり、裂けた皮膚が繋がり、血が止まる。
さっきまで死の匂いを漂わせていた傷は、
まるで嘘のように跡形もなく消えていた。

「なんと……」

パニアは思わず息を止める。

他の聖女たちが癒しを行う光景を、パニアは何度か見たことがある。
だが、それは時間をかけてじわじわと肉を塞いでいくものだった。

今のリノアの癒しは――あまりにも速すぎた。

「パニアさん。もう、大丈夫ですよ」

リノアが微笑みながら振り返ると、
アデルはゆっくりと上体を起こし、自分の腹部に手を当てて目を見開いた。

「……お、おい」

「?」

「おまえ!!! すっげえええ!!! なんだその魔法!!!!」

リノアが思わずのけぞる。

「アデル! 落ち着くのじゃ!! 聖女様が驚いておる!!
――聖女様、本当に……アデルを救ってくださり、ありがとうございました!!」

「い、いえ……助かったなら、よかったです」

パニアが深々と頭を下げる。

「アデルもお礼を言うんじゃ!」

「おまえ、聖女か!! オレはアデル! よろしくな!」

アデルは、パニアに教わったばかりの挨拶を思い出し、
胸を張ってそう言うと、手を前に差し出した。

「え? あ、よ、よろしく、です……」

リノアも緊張しながらその手を握る。

「これでオレたち、友達だな!」

握手を終えると、アデルはじーっとリノアを観察し始めた。

「……な、なに?」

リノアが不安そうにパニアを見る。

「おまえ、なんかオレとパニア爺と雰囲気違うな。
おまえ、何者だ?」

アデルは本気で不思議そうだ。

パニアが苦笑する。

「アデルは、女を見るのが初めてでの。
ずっとこの島で、わしと二人で暮らしておったから、他の人間を知らんのじゃ」

「え! アデル、そうなの? パニアさん以外、本当に知らないの?」

「そうだぞ! オレはパニア爺しか知らねぇ。
……これが“女”か。そりゃ雰囲気違うわけだ。
パニア爺、ほかに女の見分け方とかねーのか?」

「そうじゃな〜、一番分かりやすいのは……ち◯ち◯があるかないかじゃの」

リノアの顔が一瞬で真っ赤になる。

「ち◯ち◯って、女には付いてないんだな! びっくりしたぜ!!
なあ聖女! 一回パンツ脱いで見せてくれ!」

「っっ――!!?」

リノアの顔はさっきよりさらに真っ赤になり、
変な声すら出ない。

「このバカタレがぁぁ!!! 聖女様になんてこと聞くんじゃ!!!」

ゴンッ!!

パニアの拳骨がアデルの頭に炸裂した。

「いってえええ!! なにしやがるクソジジイ!!
オレはただ気になって聞いただけじゃん!!」

「アデル!! 女の人に、二度とそんなこと言うんじゃない!!
友達どころか、人が一気に離れていくわい!!
――聖女様、本当に……このバカ弟子が失礼なことを……」

パニアが再度頭を下げると、アデルもしぶしぶ頭を下げた。

「ご、ごめんなさい……わたしは大丈夫だから……」

リノアは頑張って笑顔を作り、二人に顔を上げるよう促した。

 ・
 ・
 ・

「ニーナ、クロン、しっかり俺に掴まれよ」

カルレンは森を駆け抜けながら、二人にそう言い、足を止めない。

木々の間を縫うように走りながら、
地面に残る足跡や、折れた枝の向きから、先へ進んだ人数を読み取る。

「こっちだな……!」

しばらく進むと、前方にかすかな声が聞こえた。

「……聖女様を攫って申し訳ない、アデルを救いたくて――」

カルレンが木の影から飛び出すと、
そこには――ボロボロの服を着た老人が、リノアに頭を下げている光景があった。

リノアの隣には見知らぬ少年。
その腹には服の裂け目があるが、傷はない。

「リノアあああああ!!!」

カルレンはすぐさま二人の間に割り込むように走り込み、リノアの前に立つ。

「おとうさん!!」

リノアが叫ぶより早く、カルレンは老人を睨みつけた。

「てめぇか……リノアを攫ったのは」

殺気が溢れ、周囲の空気が一瞬にして冷たくなる。

パニアはその圧を真正面から受けながらも、ひとつ息を吐いた。

「聖女様を攫って、申し訳なかった。
じゃがどうしても、アデルを救いたかったのじゃ」

「おとうさん! 本当にそうなの! わたし、痛いこともされてないし、大丈夫だよ!」

カルレンの胸の内で、怒りと安堵がぶつかり合う。

だが――怒りが勝った。

「……リノア。ダメなものはダメだ」

カルレンは短く呟くと、懐から手錠を取り出し、パニアの手首にかけた。

「おとうさん!! なんで!!」

「お前が大丈夫でも、やったことは“誘拐”だ。
……まして聖女だぞ。村に連れて帰らないわけにはいかねぇ」

「わたしはパニアさんを責めてないよ! アデルを助けるために――」

「リノア!」

カルレンは声を荒げた。

「ダメなことはダメなんだ!!」

リノアはビクッと肩を震わせ、涙目で俯く。

パニアは静かに口を開いた。

「聖女様。これは仕方ないことじゃ。
わしが悪い。……おまえさんも、そんなに自分を責めんでええ」

「ジジイは黙ってろ」

カルレンの苛立ちはまだ消えていない。

そのとき――。

「やっと見つけた!!」

「リノアちゃん!! 無事でよかった!!」

ニーナとクロンが息を切らせながら駆け寄ってくる。

二人は、泣いているリノアと、手錠をかけられている老人、
そして険しい顔のカルレンの様子を見て、言葉を飲み込んだ。

「丁度いい。リノアと、この誘拐ジジイを連れて戻る。
岸に、もう一隻船がある。打ち上がってる小舟も合わせて二隻でカスボ島に帰るぞ」

カルレンはパニアの腕を掴み、立たせる。

「ジジイ。手錠してても小舟を海に戻すくらいはできるよな?」

「そのくらい、余裕じゃわい」

その時だった。

――ズンッ。

背筋を凍らせるような殺気が、背後から放たれた。

リノア、ニーナ、クロンは全身が強張り、その場から動けなくなる。

カルレンは、すぐに殺気の方へ体を向けた。

殺気を放っていたのは――
パニアのすぐ傍に立つ、まだ幼い少年だった。

「おい。てめぇ……パニア爺を離せ」

アデルだ。

言うが早いか、アデルは一気に距離を詰め、カルレンに蹴りを放つ。

カルレンは咄嗟に上体を逸らし、辛うじて回避した。

空振りしたアデルの蹴りが背後の木に直撃し――
太い幹が、バキッと音を立ててへし折れた。

「……マジかよ」

カルレンは冷や汗をかきながらアデルを見る。

(なんだこのガキ……リノアたちと歳はそう変わらねぇのに、動きも殺気も、大人顔負けじゃねぇか)

もしさっきの蹴りが直撃していれば、ただでは済まなかっただろう。

カルレンは、さっきまで以上に集中を高めた。

「おい坊主。名前は?」

「オレはアデルだ。パニア爺はオレの爺ちゃんだ。
だから――パニア爺を離せ」

「そうか。だがそれはできねぇ。
俺の娘を攫ったんだ。悪いことをしたなら、罰は受けてもらう」

「オレを助けるためにだろ!! 傷つけるために攫ったんじゃねぇ!!
それなのに、パニア爺を連れていくっていうなら――」

アデルの拳に、再び殺気が宿る。

「オレは、おまえを倒す」

アデルが殴りかかろうと踏み込んだ、その瞬間――。

「アデル。やめるのじゃ」

パニアの声が、空気を刃のように裂いた。

同時に――アデルただ一人を狙った、凄まじい殺気が放たれる。

「っ……!」

アデルの体がびくりと震えた。

リノア、ニーナ、クロンには、その殺気は向けられていない。
それでも、空気が重くなったのははっきりと分かった。

(なんて殺気だ……。このジジイ……何者だ?)

カルレンは冷静に分析しながらも、内心で舌を巻いていた。

普通の子どもなら、とっくに気絶していてもおかしくない。
だがアデルは――歯を食いしばり、その殺気に耐えている。

パニアはしばしアデルを睨み続けた後、ふっと殺気を解いた。

「アデルよ。ちとばかし、留守番頼めるかの」

「うるせぇジジイ!! オレは、こいつをぶん殴って、パニア爺を連れていかせねぇように――」

「アデル」

パニアの声がもう一度、鋭く響く。

「今、お主はどんな気持ちじゃ?」

「……は?」

「わしが連れていかれるかもしれんことに対して、どう思っておる」

アデルは拳を震わせた。

「……なんか、分かんねぇけど……
胸がモヤモヤして、苦しい……!!」

「それが“心配”じゃ。
わしはな、アデルが血まみれで倒れておった時、同じ気持ちだった。
だから何度も、危ないことするなと厳しく言っておったんじゃ」

「……っ」

「そしてな。わしはこの男の娘――聖女様を攫った。
お主と同じように、家族を想って心配しておるはずじゃ。
だからこうして怒っとる。……わしは、悪いことをした」

アデルは悔しそうに歯を食いしばる。

「パニア爺は、悪くねぇ……オレを助けるためにやったんだろ……!」

「聖女様を攫ったことには変わりない。
聖女様はこの男の子どもで、家族じゃ。
大事な家族を奪われたら、誰だって怒る。……当たり前のことじゃ」

パニアは静かに微笑んだ。

「アデルよ。
少し罰を受けてくるからの。
悪いことをしたら、罰を受けねばならん。……大人でも、子どもでもな」

「……」

「わしがいない間。
ここで大人しく、待っておれるか?」

アデルは俯いたまま、しばらく何も言わなかった。

「それでは、行こうかの……」

パニアがカルレンに向き直った、その時――。

「おーい!! カルレンさん!!」

森の奥から複数の足音と、怒鳴り声が聞こえる。

自警団だ。

「やっと追いついた……! はぁ、はぁ……
カルレンさん、聖女様は……!」

「無事だ。……見ての通りな」

リノアがそこに立っているのを見て、自警団員たちは胸を撫で下ろした。

「よかった……。
その手錠の老人が、誘拐犯か?」

「ああ。こいつが“パニア”だ。
自警団の牢に入れる。準備しておけ」

「了解しました!」

数人が船を整えに、もう数人が警戒に散っていく。

しばらく様子を見ていた一人の団員が、アデルを見つけて眉をひそめた。

「おい坊主。名前は?」

「……アデル」

「ここは危険だ。お前もカスボ島へ来い。
子ども一人で森なんざ、まともな大人でも危ねぇんだ」

パニアは微かに首を振った。

「アデルは大丈夫じゃ。
こやつは、この森で一人で生きていける。……わしが保証する」

「何言ってる。
リノアたちと同じくらいの歳だろうが。
置いていけるかよ」

「アデルよ」

パニアは、最後に弟子へ向き直る。

「お主が望むなら、カスボ島へ行ってもよい。
じゃが――」

アデルは顔を上げない。
ぎゅっと握った拳から、血がぽたぽたと落ちていた。

カルレンは少しだけ考え込み、やがて息を吐いた。

「……一週間後、また来る」

カルレンはアデルにそれだけ告げる。

「そのとき、どうするか決めろ。
ここに残るか、村に来るか。……その時は、ちゃんと話し合おう」

そう言い残し、カルレンはパニアの腕を引いて歩き出した。

リノアは何度も振り返り、
ニーナとクロンも、言葉が見つからず俯きながら、ゆっくりと後ろをついていく。

アデルは、遠ざかっていくパニアの背中をじっと見つめていた。

「……」

握り締めた拳に、爪が食い込む。
皮膚が切れ、血が垂れる。

それでも、手を開こうとはしなかった。

ただ――
叫び島の風だけが、いつもと同じように吹き抜けていった。

ーーーーー
魔物図鑑

ハンドベアー

前腕が発達した魔物、見た目は熊、普段は木のみを食べる、たまに動物も食べたりする
自分のテリトリーに侵入すると凶暴化する、糞と尿を一緒に出して、テリトリーを作る


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次のエピソードへ進む 第六話 八年後に向けて


みんなのリアクション



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「リノア〜。今日は光の日だから教会行くぞ〜。俺は外で待ってるからな」
光の日。
聖光神レナウスが、はじめて人間に光のマナを与えた日。
この日だけは、カスボ村の人たちは畑も店も早めに切り上げて、
教会に集まり、レナウスへ祈りを捧げる。
「おとうさん待ってー! わたしも行くー!」
白いワンピースの裾を押さえながら、リノアはぱたぱたと駆けていく。
カルレンはその姿を横目で見ながら、歩幅を少しだけゆるめた。
二人は並んで、のどかな土道を教会へと歩いていく。
「リノア、さっき魔法の練習見たけどよ。かなり上達したな」
「えへへ、まあね! わたし天才ですから!」
「はいはい、そうですか〜」
「おとうさん! その反応なにー!」
リノアをちょっとだけくすぐると、すぐムキになって返してくる。
それが面白くて、カルレンはよくわざと適当に流した。
そんな何気ないやりとりの最中――。
「カルレンさん! リノアちゃん! こんにちは〜」
前方から、丸っこい体の老婆が手を振りながら近づいてきた。
スタコ婆さんだ。
「おー、スタコ婆さんじゃねぇか。教会行くとこか?」
「そうよ〜。教会行こうと思って歩いてたら、たまたま二人を見つけちゃったのよ〜」
「スタコおばさん、こんにちは! この前のカスボジュース、美味しかったです!」
「あらまあ、リノアちゃんは今日も可愛いわねぇ! リノアちゃんのためなら、ジュースなんていくらでも作っちゃうわよ〜」
「ありがとうございます!」
スタコは目尻のシワをぐっと深くしながら笑う。
ふと、彼女の視線がカルレンに向いた。
「カルレンさん。モニカちゃんはどうしたの? 最近姿見ないけど……大丈夫?」
カルレンの表情が少し曇る。
「モニカは……ここ一週間帰ってきてないんだ」
「え……」
「一週間前の朝、テーブルの上に紙が置いてあってな。“修行してるから心配しなくていい”って書いてあった。俺は急いで家を飛び出して、近くの森やら、外れの林やら、行けそうな場所を片っ端から探したんだが……全然見つからなくてな」
「そうだったのねぇ……。モニカちゃん、昔からあまり村で見かけないから、心配になっちゃうのよ、わたし」
カルレンはふっと息を吐き、空を仰いだ。
「……あいつは強い。危ないことは自分で判断できる。そういう女だ。だから、俺は信じてる」
その口調は、心配を無理やり押し込めたような、どこか無茶な強さを含んでいた。
そんな話をしているうちに、教会が見えてきた。
石造りの小さな教会には、すでに村人たちが何人も集まっている。
「じゃあな、スタコ婆さん。またジュース頼むぞ」
「任されました〜」
スタコはひょこひょこと中へ入っていく。
そのとき、教会前の広場で、ひらひらとスカートを揺らしながら走ってくる少女がいた。
「リノアちゃん、カルレンさん、こんにちは!」
ニーナだ。
リノアと同い年で、明るくて声が大きい、いつも元気な女の子。
リノアとカルレンが挨拶を返すと、カルレンは先に教会の中へ入り、
リノアは少しのあいだ外でニーナと話すことにした。
「リノアちゃん! 最近さ、叫び島からすごい声聞こえるの知ってる?
『うりゃあああ!』とか『でらあああ!』とか、ああいう声! めっちゃ怖いんだけど!!」
「えええ!? なにそれ! こ、怖いね……」
「でしょ!? あの島、絶対なんかいるよ! だからリノアちゃん、絶対行っちゃダメ!! ぜっっったいに!!」
ニーナの顔は本気で怯えていた。
「絶対行かないよ〜。だって怖いもん!」
そう言って笑うリノアの背中に――。
「リノア! ニーナ!」
少し離れた所から、聞き慣れた声が飛んできた。
クロンとギアンだ。二人とも手を振っている。
リノアとニーナはそちらへ駆け寄った。
「クロン、ギアン、こんにちは! 二人で一緒に来たの?」
「ギアンとは途中で合流したんだ。……それよりリノア、魔法の訓練どうなんだ?」
「ボクも気になります! リノアさんの魔法訓練!」
ギアンは相変わらず丁寧で、ちょっとだけ緊張したような笑顔を浮かべている。
リノアは胸を張り、小さくドヤ顔をした。
「最近はすごく順調だよ! マナの量も増えてきた気がするし、この前なんて――一人でビックボア倒したんだ!」
「「えええええええ!?」」
リノア以外の三人の叫びが、見事にハモった。
「リノアちゃん、それほんとに?」
「うん! ほんとだよ!」
「おまえすげーな! もう自警団入ってもいいんじゃないか?」
「リノアさん、すごいです! ビックボアって、大人三人でも苦戦するくらいなのに……」
ギアンは目を丸くしながら、本気で尊敬しているようだった。
ニーナも身を乗り出す。
「リノアちゃんは、塔の攻略に向けて、ちゃくちゃくと強くなってるんだね!
もし十三歳になったらさ、ニーナたちと一緒に行こうよ! 塔の旅!」
「え!? だ、大丈夫なの? 危険な旅になるって、おとうさん言ってたけど……」
リノアが不安そうに眉を寄せると、クロンが胸をどんと叩いた。
「リノア、おれたちを舐めんな! こっそり魔法の練習もしてるし、剣の修行はオレの父さんに教わってるんだぞ!
ギアンもニーナも一緒にな!」
「そうなんだよね。やっぱりリノアさん一人で冒険に出るのは危ないから……」
「ギアンくんの言う通り! ニーナたちが、リノアちゃんを守るんだ! だから、今のうちから訓練してるの!
魔法の訓練は、叫び島の近くでやってるから、人も来ないし邪魔されないんだよ〜!」
「マジ叫び島に感謝だよな……名前は怖いけど」
そんなことを話しているうちに、教会の鐘がカラン、と鳴った。
「そろそろ始まるな。行こうぜ」
クロンがそう言うと、四人は揃って教会の中へ入っていった。
 ・
 ・
 ・
光の日の祈りは、ゆったりとした賛美歌とともに進み――
終わる頃には、教会の外はすっかり昼の光で満ちていた。
リノアがクロンたちと一緒に外へ出ると、少し先で老婆が転んでいた。
膝を抱えて、顔をしかめている。
「だ、大丈夫ですか!?」
リノアが駆け寄ると、老婆の膝から血が流れていた。
「聖女様、すいませんねぇ……。わたしゃ大丈夫だからねぇ。こんな傷、大したことないからねぇ」
そう言いつつも、足はぶるぶる震えている。
リノアはそっと膝元に手をかざした。
「大丈夫です。すぐ治します。――ヒール(癒しの光)」
リノアの手のひらに、淡い光が集まる。
それは柔らかな布のように傷口へ流れ、血を洗い、肉を繋ぎ、皮膚を滑らかに戻していく。
数秒後、血は止まり、傷跡は消えていた。
「……あらまぁ。ありがとうねぇ、聖女様」
老婆は足を曲げ伸ばししてみせて、何度も頭を下げた。
「いえいえ! これくらい余裕です!」
リノアが笑うと、老婆はまた礼を言って、ゆっくりと去っていく。
そこへニーナが駆け寄った。
「さすが聖女だね! リノアちゃん!」
クロンも感心したように腕を組む。
「そんな一瞬で治るもんなのかよ……」
ギアンも目を輝かせていた。
「ボク、初めてちゃんと見ましたけど……すごいです。不思議な感じですね。
この前ボク、転んで足擦りむいちゃって、リノアさんにお願いしようとしたんですけど、お母さんに
“そんな大したことない傷でリノアちゃんにお願いしてはいけません! これくらいは自分で治しなさい!”
って怒られて……」
「ギアン、そうだったの? わたしは別に治してあげるよ〜?」
クロンがすかさず割り込む。
「ギアンのお母さんの言う通りだ! そんなことで毎回リノアに頼んでたら、リノアの周りにずっと人だかりできて、オレたちが遊べなくなるだろ!」
「クロンくんの言う通り! ニーナだって、リノアちゃんと遊びたいもん!!」
「ボクだって……! リノアさんと、あ、遊びたいです!」
三人が口々に言うと、リノアは少し照れながら笑った。
「みんな……ありがとう」
そんなふうに、教会の後の時間をどう過ごすか話していた、そのとき――。
「あれ……誰?」
ニーナがリノアの背後を指さした。
リノアが振り向くと、
黒ずんだボロボロのフードとローブをまとった人物が、ゆっくりとこちらへ近づいてきていた。
顔はフードで隠れ、表情は見えない。
静かに、だが確実に歩み寄り――
リノアの目の前でぴたりと止まる。
「……お主。聖女か?」
低く掠れた声。
リノアは突然の問いに、返事が遅れる。
その瞬間――クロンが一歩前へ出た。
「おい! おまえ!! リノアに近づくな!!」
険しい顔で叫ぶクロンを、黒フードの人物は一瞥もしない。
ただ、もう一度リノアへ問いかける。
「……お主。聖女か?」
リノアは、少しだけ躊躇ってから、こくりと頷いた。
その瞬間。
「――やっと、見つけたわい……」
ボロ布のようなローブの下から伸びた腕が、
リノアの体を抱きかかえ、そのままくるりと踵を返す。
「聖女様、お許しくだされ」
そう言い残し、黒フードの人物はリノアを抱えたまま一気に走り出した。
「え、え……? な、なに……?」
あまりに唐突な出来事に、リノアの頭は現状を理解できない。
クロンとギアン、ニーナがすぐに走り出すが、相手の足が速すぎた。
「クソ! 追いつかねぇ!!」
クロンは、走りながらギアンに怒鳴る。
「ギアン!! お前、自警団に伝えに戻れ!!
“リノアが変なヤツに連れていかれた”って! いいか、絶対だぞ!!」
「わ、分かった!!」
ギアンは踵を返し、全力で教会へ駆け戻る。
「ニーナ!! おれとお前は追うぞ!!」
「うん!!」
二人は叫びながら、黒フードの行った方角――海沿いのほうへと走っていく。
「待てええええ!!」
「今の方向……叫び島のほうだよ、クロンくん!!」
「クソッ! リノアをさらいやがって!! 絶対見つけてやる!!」
 ・
 ・
 ・
一方そのころ、教会の中では。
カルレンが祈りを終え、外に出たところで、慌てた様子のギアンに出会った。
「か、カルレンさん!! リノアさんが……!!」
  ◇
「なんだと!? 聖女様が攫われただと!!?」
教会横の自警団詰め所。
ギアンの報告に、団長格の男が怒鳴り声を上げる。
「誰か追いかけてる奴はいるのか!?」
「クロンとニーナが追いかけています! それから……カルレンさんも、さっき外に飛び出して……顔、すっごく怖かったです!!」
「チッ……! 子どもまで巻き込まれてやがる……!
おい、すぐに動ける奴は集まれ!! 聖女様の救出に向かう!!」
自警団員十人ほどが、武具を掴みながら慌ただしく飛び出していく。
その頃、カルレンはすでにギアンの指さした方向へ全力で走っていた。
「クソ……! 俺は何してた……! なんで目を離した……!!
リノアあああ!! どこだあああ!! 返事しろおおお!!」
必死に叫びながら海沿いの道を駆ける。
だが、それらしい姿は見えない。
焦りで頭が真っ白になりかけた、その時――。
上空で、小さな風の渦が生まれた。
「……風魔法!? 今のは――アネマか!?」
カルレンの脳裏に、リノアの魔法が浮かぶ。
(今の場所……!)
風が巻き起こった方角へ、カルレンはさらに速度を上げて走り出した。
 ・
 ・
 ・
「離してぇぇぇ!! たすけてぇぇ!! おとうさん!! たすけてーー!!」
黒いフードの腕の中で、リノアは必死に暴れる。
男は走りながらも、できるだけ体が揺れないように抱きかかえていた。
「聖女様……すまんのう。
聖女様のお力を頼りたくて、無理やり連れ去ってしまった……」
「離してってばぁぁ!!」
リノアは涙目になりながら、男の顔めがけて手を突き出す。
「アネマ!!」
風の弾丸が黒フードの男の顔面を襲う――が。
男は首を少し傾け、ギリギリでそれを避ける。
風の塊は空へ飛び去り、霧散した。
「おお……危なかったわい。
まだ小さいのに、なんちゅう威力の魔法を撃つんじゃ……」
リノアは涙を拭う余裕もなく、手足をばたばたさせる。
「なら、はなしてよぉ!!」
「聖女様! どうか、聞いてくだされ!!
――わしは、聖女様の光のマナの力を借りて……我が弟子、アデルを……救って欲しいんじゃ!!」
その声は、必死で、切実で、震えていた。
 ・
 ・
 ・
  〜数時間前・叫び島〜
「アデルよ〜。飯にするぞ〜」
パニアの声が、焚き火のそばに響いた。
アデルはペガルイム・プルスの練習を一旦止めて、
汗だくの体をぺたっと草の上に落とした後、すぐにパニアの隣へ座る。
「なあアデル」
「ん?」
「隣の島に、一度行ってみないかの〜」
「パニア爺、急にどうしたんだよ」
パニアは空を見上げる。
雲ひとつない青空、その向こうにうっすらとカスボ島の影が見える。
「アデルは、まだ“同じ人間”をわししか知らんじゃろ」
「まあな。パニア爺以外の人間見たことねぇし」
「隣の島には、アデルと同じぐらいの子どもも、もっとちっこいのも、大きいのも、たくさんおる。
そこで、友達や仲間を作るんじゃ」
アデルは鼻をほじりながら、よく分かってない顔で聞いている。
「友達? 仲間? なんだよそれ」
「友達や仲間というのはの。
互いに難しい試練を協力して乗り越えたり、お互いを助け合ったりする相手のことじゃ」
「ふーん。オレ強いから大丈夫だし、一人でなんとかなるだろ。友達なんていらねーよ、パニア爺」
パニアは少し眉をひそめた。
「アデルよ。一人ではどうにもならんことは、山ほどある。
それに……聖女の旅についていくんじゃろう? 聖女と仲間にならんと、一緒に塔に行くこともできんぞ?」
アデルの目がぴくっと動いた。
「それは……嫌だ。
パニア爺、分かった! 友達作る!!」
即答だった。
「で、どうやって作るんだ?」
「そうじゃな〜。一番最初が肝心での。
まずはしっかり相手の目を見る。
それから――“オレはパニア。よろしくな!”って、自己紹介するんじゃ」
「なんでパニア爺なんだよ」
「今のは例え話じゃい。
名前のとこは自分ので言え。……で、言い終えたら手を前に差し出して、握手する。
それができたら、もうそいつとは“友達”じゃ」
「おお! そんな簡単なのかよ!」
「簡単ではないが……まあ、最初の一歩じゃ。
わしはそれで、山ほど友達を作ったんじゃぞ〜」
パニアはちょっと誇らしげに笑う。
「とりあえず、アデル。練習するぞ」
「練習?」
「わしを相手に挨拶してみい。
心は込めて、目は怖くせんで、声は大きすぎず、笑顔でじゃ」
「……めんどくせぇな」
「文句言うでない」
なんだかんだで素直なアデルは、パニアの前に立つ。
「オ、オレはアデル!! よろしくな!!!」
「目つき怖いの〜。声がでかすぎる。
最後に笑顔が足らん。そんな顔で近づいたら、みんな逃げるわい。もう一度じゃ」
それからしばらく、アデルの表情と声のトーンの調整が続いた。
「オレはアデル。よろしくなっ!」
三度目のトライで、パニアは大きく頷いた。
「……今のは完璧じゃ!」
「よっしゃああ!! 早く試したい!! パニア爺、早く隣の島行こうぜ!!」
「分かった分かった。船の準備をするからの〜。
呼ぶまで、その辺ぶらぶらしておれ」
「早くな〜!!」
パニアが岸の方へ歩いていくのを見届けてから、
アデルはキャンプ場から少し離れた森の中をぶらぶら歩き始めた。
木漏れ日が揺れ、鳥が鳴き、風が葉を鳴らす。
そんな中――アデルの足がふいに止まる。
前方に、茶色く巨大な背中が見えた。
「……ハンドベアー」
分厚く硬い毛並み。異常に発達した二本の腕。
パニアから「絶対に手を出すな」と何度も言われた危険な魔物だ。
(やべぇ……見つかったら……)
一瞬、“逃げる”という選択肢が頭をよぎる。
だが、すぐに別の声が脳裏に響いた。
――ここで逃げたら、最強になれない。
「オレは……ビビらない。
パニア爺と修行して、強くなった。オレは最強になる男だ……!」
アデルは自分に言い聞かせ、
ハンドベアーの背中めがけて蹴りを一発叩き込んだ。
「ヴォオオオオオオ!!」
荒々しい咆哮が森を揺らす。
ハンドベアーが振り向き、立ち上がる。
その巨体は五メートルは下らない。
だがアデルは怖気づかなかった。
二発目の蹴りを狙って踏み込んだ、その瞬間――。
ハンドベアーの腕がうねり、空気を裂いた。
(はえ――)
あまりの速さに、避けるという判断すら追いつかなかった。
ガッ――!!
爪がアデルの腹部に食い込み、肉を抉る。
「あ……っ、あああああああああ!!」
視界がぐらりと揺れる。
体から一気に血が吹き出し、足元の土を真っ赤に染めた。
ハンドベアーが、トドメを刺そうとさらに腕を振り上げた、その時――。
ドゴッ!!
ハンドベアーの巨体が、横から何かに殴り飛ばされ、数メートル転がった。
獣はうめき声を上げ、しばし怯えたように周囲を見回すと、
そのまま森の奥へ逃げ込んでいく。
「アデルーー!! 大丈夫か!!」
血相を変えたパニアが駆け寄る。
「く、そ……オレは……まだ……」
アデルの腹部からは、止まる気配のない血が溢れていた。
パニアは迷わず自分の服を引き裂き、アデルの腹に強く押し当てる。
「アデル!! 諦めるでない!! 今から助けを呼んでくる!!
だからそれまで……絶対に死ぬんじゃないぞ!!」
朦朧とした意識の中、アデルはかすかに頷いた。
パニアは土魔法でアデルの周りに小さな“かまくら”を作る。
冷たい風と雨、獣から守るための簡易のシェルターだ。
「すぐ戻るからの……!」
そう言い残し、パニアは全速力で海岸――そして船へと向かった。
 ・
 ・
 ・
  〜現在〜
「……貴方の名前は、なんですか?」
抱えられたままの状態で、リノアが尋ねる。
黒フードの人物は、一瞬だけ驚いたように肩を揺らした後、静かに答えた。
「わしは、パニアと言う。
怖い思いをさせて、すまんのう……聖女様」
フードの奥から見えた老人の目には、涙が溜まっていた。
その眼を見て、リノアははっきりと理解した。
この人は、自分に危害を加えようとしているわけじゃない、と。
やがてパニアは岸へ下り、小さな船に乗り込む。
リノアもそのまま抱えられて乗せられた。
「どこに行くんですか……?」
「すぐ隣の島じゃ。……わしとアデルが暮らしておる島よ」
「……叫び島、ですか?」
「ほう……そんな名前で呼ばれておるんか。知らなんだわい」
小舟はきしみながらも、ゆっくりと海を滑っていく。
 ・
 ・
 ・
「クロン!! あれ見て!!」
ニーナが指さした先――
海の上に、小舟が一隻出ている。
よく目を凝らすと、その上に乗っている小さな影。
白い髪。白い服。
「……リノアだ!!」
クロンは歯を食いしばる。
「ニーナ! おれたちの冒険用の船、まだ砂浜にあったよな!?」
「うん! こっちだよ!!」
二人は走り、岸の脇に隠してあった小舟を引っ張り出す。
「ニーナ、押すぞ! せーの!!」
二人の全体重をかけて押し出し、船を海に浮かべる。
「行くぞ!!」
クロンとニーナが船に飛び乗り、必死にオールを漕いで、リノアの乗る小舟を追う。
岸から数メートル離れたときだった。
「おい!! 俺も乗せろ!!」
突然、怒鳴り声とともに、人影が船へ向かって飛んできた。
ドンッ!!
重い音を立てて男が乗り込むと、船が大きくぐらつき、
今にもひっくり返りそうになるが――ギリギリで持ちこたえた。
「お、お、お、おも……」
「悪いな。助かった」
そう言って振り返った男は――カルレンだった。
「カルレンさん……!」
クロンとニーナが安堵の声を漏らす。
カルレンはオールを取り上げ、短く告げた。
「二人とも、しっかり掴まってろ」
そして、空へ手を突き出す。
「――アネマ!!」
風が吠え、船の後ろから強く押し出す。
小舟はまるで矢のように海面を滑り始めた。
「カ、カルレン、さん……はや、はやい、です……!」
「きゃああああ!! こわいこわいこわいこわい!!」
「喋ると舌噛むぞ! ……もうすぐ岸だ!!」
カルレンは一瞬だけ前方の叫び島を睨み――
船が砂浜に突っ込む直前に、ニーナを抱え、クロンを引っ掴んだまま、勢いよくジャンプした。
「――っと」
三人はなんとか岸に着地し、船はそのまま浜に打ち上げられる。
「大丈夫か、お前ら」
「「は、はい……」」
二人の無事を確認すると、カルレンはすぐさま森の中へ駆け出した。
 ・
 ・
 ・
そのころ、叫び島・アデルのかまくらの前では――。
「アデルーー!! 大丈夫かーー!!」
パニアは土のかまくらの一部を崩し、人が入れる程度の穴を作った。
中を覗くと、アデルの顔は真っ白で、浅い息をしている。
「……っ!」
パニアはリノアをそっと下ろし、深く頭を下げた。
「聖女様……お願いします。どうか、どうかこの子を……」
リノアはかまくらの中に入り、アデルの腹部に手をかざした。
アデルはかすかに目を開ける。
「だ……れだ、おま、え……」
「今は、喋らないで……。――ヒール」
柔らかな光があふれ、アデルの腹部を包み込む。
抉れた肉がふさがり、裂けた皮膚が繋がり、血が止まる。
さっきまで死の匂いを漂わせていた傷は、
まるで嘘のように跡形もなく消えていた。
「なんと……」
パニアは思わず息を止める。
他の聖女たちが癒しを行う光景を、パニアは何度か見たことがある。
だが、それは時間をかけてじわじわと肉を塞いでいくものだった。
今のリノアの癒しは――あまりにも速すぎた。
「パニアさん。もう、大丈夫ですよ」
リノアが微笑みながら振り返ると、
アデルはゆっくりと上体を起こし、自分の腹部に手を当てて目を見開いた。
「……お、おい」
「?」
「おまえ!!! すっげえええ!!! なんだその魔法!!!!」
リノアが思わずのけぞる。
「アデル! 落ち着くのじゃ!! 聖女様が驚いておる!!
――聖女様、本当に……アデルを救ってくださり、ありがとうございました!!」
「い、いえ……助かったなら、よかったです」
パニアが深々と頭を下げる。
「アデルもお礼を言うんじゃ!」
「おまえ、聖女か!! オレはアデル! よろしくな!」
アデルは、パニアに教わったばかりの挨拶を思い出し、
胸を張ってそう言うと、手を前に差し出した。
「え? あ、よ、よろしく、です……」
リノアも緊張しながらその手を握る。
「これでオレたち、友達だな!」
握手を終えると、アデルはじーっとリノアを観察し始めた。
「……な、なに?」
リノアが不安そうにパニアを見る。
「おまえ、なんかオレとパニア爺と雰囲気違うな。
おまえ、何者だ?」
アデルは本気で不思議そうだ。
パニアが苦笑する。
「アデルは、女を見るのが初めてでの。
ずっとこの島で、わしと二人で暮らしておったから、他の人間を知らんのじゃ」
「え! アデル、そうなの? パニアさん以外、本当に知らないの?」
「そうだぞ! オレはパニア爺しか知らねぇ。
……これが“女”か。そりゃ雰囲気違うわけだ。
パニア爺、ほかに女の見分け方とかねーのか?」
「そうじゃな〜、一番分かりやすいのは……ち◯ち◯があるかないかじゃの」
リノアの顔が一瞬で真っ赤になる。
「ち◯ち◯って、女には付いてないんだな! びっくりしたぜ!!
なあ聖女! 一回パンツ脱いで見せてくれ!」
「っっ――!!?」
リノアの顔はさっきよりさらに真っ赤になり、
変な声すら出ない。
「このバカタレがぁぁ!!! 聖女様になんてこと聞くんじゃ!!!」
ゴンッ!!
パニアの拳骨がアデルの頭に炸裂した。
「いってえええ!! なにしやがるクソジジイ!!
オレはただ気になって聞いただけじゃん!!」
「アデル!! 女の人に、二度とそんなこと言うんじゃない!!
友達どころか、人が一気に離れていくわい!!
――聖女様、本当に……このバカ弟子が失礼なことを……」
パニアが再度頭を下げると、アデルもしぶしぶ頭を下げた。
「ご、ごめんなさい……わたしは大丈夫だから……」
リノアは頑張って笑顔を作り、二人に顔を上げるよう促した。
 ・
 ・
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「ニーナ、クロン、しっかり俺に掴まれよ」
カルレンは森を駆け抜けながら、二人にそう言い、足を止めない。
木々の間を縫うように走りながら、
地面に残る足跡や、折れた枝の向きから、先へ進んだ人数を読み取る。
「こっちだな……!」
しばらく進むと、前方にかすかな声が聞こえた。
「……聖女様を攫って申し訳ない、アデルを救いたくて――」
カルレンが木の影から飛び出すと、
そこには――ボロボロの服を着た老人が、リノアに頭を下げている光景があった。
リノアの隣には見知らぬ少年。
その腹には服の裂け目があるが、傷はない。
「リノアあああああ!!!」
カルレンはすぐさま二人の間に割り込むように走り込み、リノアの前に立つ。
「おとうさん!!」
リノアが叫ぶより早く、カルレンは老人を睨みつけた。
「てめぇか……リノアを攫ったのは」
殺気が溢れ、周囲の空気が一瞬にして冷たくなる。
パニアはその圧を真正面から受けながらも、ひとつ息を吐いた。
「聖女様を攫って、申し訳なかった。
じゃがどうしても、アデルを救いたかったのじゃ」
「おとうさん! 本当にそうなの! わたし、痛いこともされてないし、大丈夫だよ!」
カルレンの胸の内で、怒りと安堵がぶつかり合う。
だが――怒りが勝った。
「……リノア。ダメなものはダメだ」
カルレンは短く呟くと、懐から手錠を取り出し、パニアの手首にかけた。
「おとうさん!! なんで!!」
「お前が大丈夫でも、やったことは“誘拐”だ。
……まして聖女だぞ。村に連れて帰らないわけにはいかねぇ」
「わたしはパニアさんを責めてないよ! アデルを助けるために――」
「リノア!」
カルレンは声を荒げた。
「ダメなことはダメなんだ!!」
リノアはビクッと肩を震わせ、涙目で俯く。
パニアは静かに口を開いた。
「聖女様。これは仕方ないことじゃ。
わしが悪い。……おまえさんも、そんなに自分を責めんでええ」
「ジジイは黙ってろ」
カルレンの苛立ちはまだ消えていない。
そのとき――。
「やっと見つけた!!」
「リノアちゃん!! 無事でよかった!!」
ニーナとクロンが息を切らせながら駆け寄ってくる。
二人は、泣いているリノアと、手錠をかけられている老人、
そして険しい顔のカルレンの様子を見て、言葉を飲み込んだ。
「丁度いい。リノアと、この誘拐ジジイを連れて戻る。
岸に、もう一隻船がある。打ち上がってる小舟も合わせて二隻でカスボ島に帰るぞ」
カルレンはパニアの腕を掴み、立たせる。
「ジジイ。手錠してても小舟を海に戻すくらいはできるよな?」
「そのくらい、余裕じゃわい」
その時だった。
――ズンッ。
背筋を凍らせるような殺気が、背後から放たれた。
リノア、ニーナ、クロンは全身が強張り、その場から動けなくなる。
カルレンは、すぐに殺気の方へ体を向けた。
殺気を放っていたのは――
パニアのすぐ傍に立つ、まだ幼い少年だった。
「おい。てめぇ……パニア爺を離せ」
アデルだ。
言うが早いか、アデルは一気に距離を詰め、カルレンに蹴りを放つ。
カルレンは咄嗟に上体を逸らし、辛うじて回避した。
空振りしたアデルの蹴りが背後の木に直撃し――
太い幹が、バキッと音を立ててへし折れた。
「……マジかよ」
カルレンは冷や汗をかきながらアデルを見る。
(なんだこのガキ……リノアたちと歳はそう変わらねぇのに、動きも殺気も、大人顔負けじゃねぇか)
もしさっきの蹴りが直撃していれば、ただでは済まなかっただろう。
カルレンは、さっきまで以上に集中を高めた。
「おい坊主。名前は?」
「オレはアデルだ。パニア爺はオレの爺ちゃんだ。
だから――パニア爺を離せ」
「そうか。だがそれはできねぇ。
俺の娘を攫ったんだ。悪いことをしたなら、罰は受けてもらう」
「オレを助けるためにだろ!! 傷つけるために攫ったんじゃねぇ!!
それなのに、パニア爺を連れていくっていうなら――」
アデルの拳に、再び殺気が宿る。
「オレは、おまえを倒す」
アデルが殴りかかろうと踏み込んだ、その瞬間――。
「アデル。やめるのじゃ」
パニアの声が、空気を刃のように裂いた。
同時に――アデルただ一人を狙った、凄まじい殺気が放たれる。
「っ……!」
アデルの体がびくりと震えた。
リノア、ニーナ、クロンには、その殺気は向けられていない。
それでも、空気が重くなったのははっきりと分かった。
(なんて殺気だ……。このジジイ……何者だ?)
カルレンは冷静に分析しながらも、内心で舌を巻いていた。
普通の子どもなら、とっくに気絶していてもおかしくない。
だがアデルは――歯を食いしばり、その殺気に耐えている。
パニアはしばしアデルを睨み続けた後、ふっと殺気を解いた。
「アデルよ。ちとばかし、留守番頼めるかの」
「うるせぇジジイ!! オレは、こいつをぶん殴って、パニア爺を連れていかせねぇように――」
「アデル」
パニアの声がもう一度、鋭く響く。
「今、お主はどんな気持ちじゃ?」
「……は?」
「わしが連れていかれるかもしれんことに対して、どう思っておる」
アデルは拳を震わせた。
「……なんか、分かんねぇけど……
胸がモヤモヤして、苦しい……!!」
「それが“心配”じゃ。
わしはな、アデルが血まみれで倒れておった時、同じ気持ちだった。
だから何度も、危ないことするなと厳しく言っておったんじゃ」
「……っ」
「そしてな。わしはこの男の娘――聖女様を攫った。
お主と同じように、家族を想って心配しておるはずじゃ。
だからこうして怒っとる。……わしは、悪いことをした」
アデルは悔しそうに歯を食いしばる。
「パニア爺は、悪くねぇ……オレを助けるためにやったんだろ……!」
「聖女様を攫ったことには変わりない。
聖女様はこの男の子どもで、家族じゃ。
大事な家族を奪われたら、誰だって怒る。……当たり前のことじゃ」
パニアは静かに微笑んだ。
「アデルよ。
少し罰を受けてくるからの。
悪いことをしたら、罰を受けねばならん。……大人でも、子どもでもな」
「……」
「わしがいない間。
ここで大人しく、待っておれるか?」
アデルは俯いたまま、しばらく何も言わなかった。
「それでは、行こうかの……」
パニアがカルレンに向き直った、その時――。
「おーい!! カルレンさん!!」
森の奥から複数の足音と、怒鳴り声が聞こえる。
自警団だ。
「やっと追いついた……! はぁ、はぁ……
カルレンさん、聖女様は……!」
「無事だ。……見ての通りな」
リノアがそこに立っているのを見て、自警団員たちは胸を撫で下ろした。
「よかった……。
その手錠の老人が、誘拐犯か?」
「ああ。こいつが“パニア”だ。
自警団の牢に入れる。準備しておけ」
「了解しました!」
数人が船を整えに、もう数人が警戒に散っていく。
しばらく様子を見ていた一人の団員が、アデルを見つけて眉をひそめた。
「おい坊主。名前は?」
「……アデル」
「ここは危険だ。お前もカスボ島へ来い。
子ども一人で森なんざ、まともな大人でも危ねぇんだ」
パニアは微かに首を振った。
「アデルは大丈夫じゃ。
こやつは、この森で一人で生きていける。……わしが保証する」
「何言ってる。
リノアたちと同じくらいの歳だろうが。
置いていけるかよ」
「アデルよ」
パニアは、最後に弟子へ向き直る。
「お主が望むなら、カスボ島へ行ってもよい。
じゃが――」
アデルは顔を上げない。
ぎゅっと握った拳から、血がぽたぽたと落ちていた。
カルレンは少しだけ考え込み、やがて息を吐いた。
「……一週間後、また来る」
カルレンはアデルにそれだけ告げる。
「そのとき、どうするか決めろ。
ここに残るか、村に来るか。……その時は、ちゃんと話し合おう」
そう言い残し、カルレンはパニアの腕を引いて歩き出した。
リノアは何度も振り返り、
ニーナとクロンも、言葉が見つからず俯きながら、ゆっくりと後ろをついていく。
アデルは、遠ざかっていくパニアの背中をじっと見つめていた。
「……」
握り締めた拳に、爪が食い込む。
皮膚が切れ、血が垂れる。
それでも、手を開こうとはしなかった。
ただ――
叫び島の風だけが、いつもと同じように吹き抜けていった。
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魔物図鑑
ハンドベアー
前腕が発達した魔物、見た目は熊、普段は木のみを食べる、たまに動物も食べたりする
自分のテリトリーに侵入すると凶暴化する、糞と尿を一緒に出して、テリトリーを作る
本日も見ていただきありがとうございます!!!!!!