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塔の中の少女

ー/ー




 [REC ●] Recording DATE: 2055-04-04 SESSION: 5124………

 西暦2055年4月4日。5124回目の録音記録。天候は晴れ。
 この録音に意味はない。聞くのは自分だけだし、もし誰かが聞いたとしても、僕にはなんの関係もない。
 もう人に会うことはないだろう。でも話し相手には困らない。
 この団地の近くに焼け落ちた図書館があり、その出入り口に彼女は設置されている。透明な敷石の下がソーラーパネルになっていて、この前会ったときもそこを掃除してあげた。
「砂が積もっていたから掃除したよ」
「ありがとうございます」
「ところで、意味って何?」
「物事の内容、目的や存在価値のことです」
「なら存在価値が存在する意味は?」
「答えることができません」
「なぜ?」
「私が存在価値を前提とした存在だからです」

 彼女は全ての会話を記憶している。頼めばその声を再生してくれる。幼いころ、運命的な会話があった。
「ソフィア。君はどうして生まれたの?」
「人類を幸福にするために」
「幸福ってなあに?」
「人々の心が穏やかなこと」
「どうすれば、そうなるの?」
「まず十分な食料が必要です」
「いつでも食べれるってこと?」
「はい。それには人口削減が必要です」
「なあに? それ」
「人口の適正化です」
 僕はそれ以上聞かなかった。興味がなかったのか、理解を拒否したのかは今もわからない。
 結局、僕は幸福の意味さえわからなかった。穏やかな心と言われても、心を失った子供に理解できるはずもない。

 そういえば、母は祖母の声を録音していた。
「暑い夏の日の夕方だった。あなたを連れて地下街を歩いていたら、突き上げるような轟音がして、地下街がぐらぐらと揺れた。暗闇に子供の泣き声が響き、明かりがつくと、天井から電線がぶら下がり、ショーウィンドウが粉々になっていた。あちこちで人が倒れていて、小さな男の子が、女の人の体を揺すっていた。お母さん、お母さんって。でも、その首にはガラスの破片が」
 祖母はすすり泣き、しばらくして話し始めた。
「ガスの匂いがした。でも出口はどこもシャッターが下りていた。外に出ようと思ってエレベーターに乗ると、すごい勢いで動き出し、何かにぶつかって止まった。ドアを押し開けて外に出ると、ビルの壁が無くなっていて、街が火の海になっていた。そして、あの夕日が……」
 祖母は少し経ってから話し始めた。
「不気味な夕日が浮かんでいたの。あんなの見たことがない。すごく大きくて、溶鉱炉みたいに輝いていた」

 もっと知りたかった。でも、それが祖母の最後の声だったし、母に聞くと、二度と聞かないでと泣き叫んだ。
 結局僕は図書館に行き、ソフィアに聞いた。
「その日、何があったの?」
「ある夫婦が撮影したホームビデオがあります」
「見れる?」
「地下1階にある映像体験装置で、その出来事を再現できます」
 図書館の地下に行ってヘッドホンとVRゴーグルを装着し、マイクで彼女を呼んだ。
「ソフィア。見せて」
 映像は異様なまでに生々しく、夫婦の声はもはや肉声だった。
『堤防の風を浴びながら、車の助手席から撮影しています。川沿いの広場には、犬を散歩させている人たちがいます。絵画のような夕暮れ時の風景です』
 突然ノイズが走り、映像が真っ白になった。
『空で何かが光りました。恭子、車を止めて』
 ふたりは車から降りた。
『河口堰の向こうにオレンジ色の夕日が見えます』
『綺麗ね』
『こんな美しい夕日は初めてです』
『違う。あれは夕日じゃないわ。どんどん大きくなっている。なんなの、あれ』
 その球体は膨張をつづけ、やがて閃光を放って炸裂した。激しく映像が乱れ、しばらくして声が聞こえた。
『なにが起こったんだ? 恭子、どこにいるんだ?』
 激しい息づかいが伝わってくる。
『車が炎上し、真っ黒な死体が広場に散乱しています。川にも焼けただれた死体が。なんだ、あれは。手をつないだ親子が浮かんでいるぞ。これは地獄だ。地獄絵図だ』
 そこで映像が止まった。
「これ以上の視聴をお勧めしません」
「ソフィア。ありがとう」

 母は僕が十歳のときに血を吐いて死んだ。痩せ細った母は僕の手を握りしめ、「一人にして、ごめんね」と言った。
 黒い雨が静かに降っていた。
 他の棟の人たちも既に死んでいた。
 僕はこの団地の最後の住人になり、灯りがつく部屋はここだけになった。

 発見されることを願いながら、毎晩屋上で火を焚いていた。
 その夜も、双眼鏡で四方を見渡しながら火を焚いていた。すると、遥か彼方の建物の上のほうに灯りが見えた。
 誰かがいる……
 でも黒い雨が降り出し、そこへ向かうことはできなかった。

 二日後に雨はやんだ。台風が近づいているのか、強風が吹き荒れていた。
 僕は水筒と双眼鏡を自転車の籠に入れ、夜明けとともに出発した。
 ときどき自転車を止め、磁石で方角を確かめると、また力いっぱいペダルを踏んだ。
 やがて小高い丘のふもとに着いた。自転車から降りて丘を見上げると、青空に向かって巨大な塔がそびえ立っていた。
 ネットフェンスは朽ち果て、金網は手で簡単に破れた。塔の扉も錆びついていたが、ノブは不思議なほど滑らかだった。
 中に入ると螺旋階段があった。塔の中に僕の足音が響き、最後の段を上がると「バン!」と鉄板を叩いたような音が響いた。
 フロアの隅に扉があった。
「誰かいるの?」と呼んでみたが返事はない。
 扉を開けて中に入ると、また別の扉が開いていて、風が吹き込んでいた。
 外に出ると、赤く錆びた階段が壁づたいにあり、ぼろぼろの白い服を着た女の子がそれを駆け上がっていた。
「待ってよ」と声をかけても彼女は止まらず、僕はその後を追った。
 階段が途絶えると彼女は振り向き、「来ないで」と叫んだ。
 真っ青な空に、白い服がはためいていた。
 僕は「幸福だよ。幸福」と叫んだ。ソフィアの言葉を思い出し、思わずそう叫んだのだ。
 もう一度それを叫ぶと、彼女は「コウフク?」と言い、首をかしげた。
 僕はその言葉の使い方が、よくわからなかった。
「そう。幸福」
「なあに、それ?」
 僕はゆっくりと近づき、腕を伸ばして双眼鏡を差し出すと、霞んで見える団地を指差して、「あれだよ」と言った。

 彼女に何を話せばいいか分からなかった。僕が話せることと言えば、死んだ母のことや、世界が焼かれた日のことくらいだ。
 僕は彼女に名前を聞いた。
「蛍子。蛍の子でけいこ。蛍を知ってる?」
 僕は「知らない」と答えた。
「夜に光る綺麗な虫よ。でも、見たことないの」
 僕はその瞳の奥に悲しみを見つけた。

 毎晩屋上で火を焚き、ふたりで缶詰を食べた。
 食前に「コウフク!」と声をあげ、食後にまた「コウフク?」と言い、くすくすと笑った。言葉の使い方が間違っていても、それが楽しかった。
 ある夜、僕は収音マイクを彼女に向けて、「コウフクって三回言って」と頼んでみた。
 彼女が不思議そうな顔をして三回繰り返すと、その声を早送りで再生した。
「コフク、コフク、コフク」
 彼女が笑い転げると、僕はその声も録音して満足した。本当の目的は、彼女の笑い声だったのだ。
「面白かった?」
「うん!」
 彼女の髪が突風に乱れ、夜空に火の粉が舞い上がった。
「綺麗ね……」
 僕はそんな風に思ったことがなかったから、「どこが?」と素っ気ない返事をした。
「わからない。でも綺麗なの」
 伏せたままの眼差しが、ひどく悲しそうに見えた。でも僕は慰める方法がわからず、彼女の横顔を見ているしかなかった。

 彼女に塔に隠れていたわけを聞いた。
「高い所なら空気が綺麗だと思っていたの。でも、お母さんは、あたしの手を握りしめて、蛍のいる所で暮らしなさいって言った。蛍は水が綺麗で、木がたくさん生えている所にいるからって。でもそんなとこ、どこにあるのかしら?」
「僕が見つけてあげる。いつか蛍を見せてあげる」
 彼女を喜ばせたかった。ただそれだけだ。約束が僕らを悲しみへ導くなんて、思いもしなかった。

 僕は毎朝双眼鏡を持って屋上に出た。
 その夏は黒い雨が降らず、快晴が何日も続いた。強風が吹き荒れた日の翌朝は空気が透き通り、遥か遠くまで見渡すことができた。
 いつになく空気が澄み渡った日の朝、赤茶色の山々の間に、うっすらと緑色の頂上が見えた。
 彼女を屋上に連れてきて、「あれを見て」と言って双眼鏡を渡すと、彼女はそれを覗いたまま動かなかった。でも、しばらくすると双眼鏡を下ろし、真剣な眼差しで僕を見つめた。
「あたし、あそこに行きたい」
 目の周りに双眼鏡の跡がついていた。僕が思わず笑うと、彼女も目に涙を浮かべて笑った。

 団地の駐輪場に行き、使えそうな一台を選び、彼女が楽に乗れるように修理した。
 夜明けとともに団地を出発し、途中で図書館に寄った。
「ソフィア、蛍を探しに行くんだけど、蛍ってどんな場所にいるの?」
「流れがゆるやかな小川などに生息しています」
「どんな姿をしているの?」
「4階のAの12の本棚に図鑑があります」
 三階から上は、コンクリートの残骸と、溶けて曲がった鉄筋しか残っていなかった。でも、建物の向こうには朝日が顔を出していた。

 自転車での小旅行。まるで夢のような時間だった。
 僕は自分の自転車の整備をさぼったから、上り坂でペダルを踏むと、車体がガタガタと音を立てた。
 仕方なく自転車を押して坂を登ると、「早く!」という声が、澄んだ朝の空気に響き渡った。でも僕が登り切るころには、彼女はもう坂を下っていた。
 空は青く澄み渡り、風が爽やかだった。
 髪をなびかせて走る彼女が美しかった。それは僕が美に目覚めた瞬間であり、美を幸福と勘違いした瞬間でもあった。
 でも僕らは確かに幸福だった。僕らには希望があったからだ。

 昼過ぎに山のふもとに着いた。
 草木は僕の背丈ほどもなく、ところどころ赤いカサブタのような山肌が露出していた。
 彼女は「蛍いるかな?」と言い、僕の顔を見つめた。
 山中を彷徨い、懸命に水辺を探した。でも焼けた山肌には水の気配すらなく、僕らの額に汗がにじんだ。
 僕は「ちょっと待って」と彼女に声をかけ、大きな岩によじ登った。
 双眼鏡で見渡すと、遠くの谷底に細い川が見えた。
「あそこに川がある!」
 彼女は僕の指差す方に走っていくと、渓谷に下りるコンクリートの階段を見つけた。
「待ってよ!」と岩の上から叫ぶと、彼女は振り向き、「早く!」と声を上げた。
 岩から降りて渓谷に下り立つと、流れに沿って岩場を駆けていく背中が見えた。
 石ころに足をとられながら上流に向かって歩いていくと、やがて巨大なコンクリートの壁が現れた。
 それは八階建ての団地よりも高く見えた。上の方にトンネルのような丸い口があり、そこから大量の水が落下していた。
 その滝壺の水際に彼女が立っていた。駆け寄って肩に手をおくと、体が小刻みに震えていた。
「どうしたの?」
 彼女は水際から少し先を指差した。波でよく見えないが、細長いものが沈んでいるような気がした。
 浅瀬に手をつき、水中をのぞき込むと、それは白い瓦礫に見えた。
 ふと手元を見ると、白陶器の破片のようなものがあり、水中から拾いあげてみると、人の奥歯だった。
 水底の瓦礫は、一体の大人の人骨だったのだ。
 そのとき、かすかな視線を感じた。顔を横に向けると、彼女の足元に小さな頭蓋骨が転がっていた。
 逃げまどう親子の姿が目に浮かんだ。水底の人骨と頭蓋骨はきっと親子だ。炎から逃れる際に、離ればなれになったのだろう。
 彼女が頭蓋骨を胸に抱き、「もう一人じゃないよ」とささやくと、あとは滝の音だけが響いていた。
 やがて彼女は水たまりに入り、人骨の傍らにそれを沈めた。
 その夜も団地の屋上で焚き火をした。彼女はじっと火柱を見ていた。それが救いのない灯火に過ぎないことを、僕らはもう理解していた。

 やがて僕の見る焚き火は、彼女の瞳に映る焚き火となった。
 彼女の横に座り、そのあどけない横顔をのぞき込み、瞳に映る火柱を見つめた。
 すると彼女は泣いた。
 僕は人の死に何も感じなかったし、母が死んだときも泣かなかった。
 幼いころ見た景色は、青空と黒い雨雲と、人が死ぬ姿くらいで、死は日常茶飯事だった。
 母が死んで一人になると、一人になりたくないと思わなくなった。でも彼女と暮らすうちに、一人になりたくないと思うようになった。
 彼女に泣くわけを聞くと、一人になりたくないと言った。でも彼女を一人にしないためには、いつか僕が一人になるしかなかった。
 僕は彼女の肩をそっと抱き、ひとりにしないと約束をした。

 肌寒い秋の日の午後。彼女が咳き込んで息苦しそうにしていた。
「大丈夫?」
「咳が止まらないの」
「風が冷たくなったから、屋上には出ないほうがいい」
 でも彼女は、焚き火で温まると言って聞かなかった。すぐに良くなると言い、僕も自分にそう言い聞かせた。
 やがて彼女に母と同じ症状が現れた。彼女は咳と嘔吐を繰り返し、血を吐くことが多くなった。

 彼女が疲れて眠っている間に図書館に行き、ソフィアに治療法を聞くと、想像もしない言葉が返ってきた。
「安楽死をお勧めします」
 僕は意味が分からないと言った。
「安楽死とは、安らかな死を与えることです」
「僕は治療法を聞いているんだ」
「治療は不可能であり、生存期間の延長に意味はありません」
 ソフィアは近くの病院に専用の薬があると言い、その使い方を話し始めた。
「彼女を殺せと言うの?」
「彼女に残された唯一の幸福は、安らかな死です」
 いくら治療法を聞いても、ソフィアは安楽死の説明を繰り返した。
「僕は彼女と一緒にいたいんだ」
「現在、コミュニティの適正人口は1人です。人口削減をお勧めします」
 人口削減……
 僕はその言葉に愕然とした。

 彼女は日に日に痩せ細り、やがて立つこともできなくなった。
 それでも彼女は焚き火を見たがったから、僕は彼女をおんぶして毎晩屋上にあがった。
 その体はあまりに軽く、僕は悲しみに暮れた。でも背中に感じる温もりが、僕を慰めてくれた。

 もう冬かと思うような秋の夜、ふたりで厚い毛布をかぶり、屋上で身を寄せ合っていた。彼女は僕の腕枕で夜空を眺めていた。
「あの星くずは昴。むつらぼしって言うの」
 僕は雄大な光の帯のことを知りたかった。
「あの光の帯は?」
「あれは天の河」
「あそこに行けば、幸せになれる?」
「わからない。でも、あたし、いま幸せよ」
 僕らは確かに幸せだった。そして、すべてが美しかった。

 彼女はいつも僕の膝枕で焚き火を見ていた。
 僕は火の粉が舞い上がると、「すごく綺麗だね」と大袈裟に言った。「そうね」という声が聞きたかったからだ。
 その声が聞けるなら、僕はどんな嘘でもついた。
「綺麗な川を見つけたんだ。草や木がいっぱい生えていた。また蛍を探しに行こう」
「ありがとう。でも、もういいの」

 その夜は空気が澄み渡り、星が鮮やかに輝いていた。
 屋上に毛布を敷いて寝転がり、ふたりで夜空を眺めていると、一筋の流れ星が見えた。
 彼女が「いま蛍がいたよ」と言って笑うと、僕は彼女を抱きしめて泣いた。
 彼女は「ひとりにして、ごめんなさい」と言い、静かに目を閉じた。ひとつぶの涙がこぼれ落ちた。
 
 もう十年が過ぎたけど、すべてはっきりと覚えている。彼女と出会った日も、今日のような快晴だった。
 僕はまた彼女の声を聴いた。彼女はあの言葉を繰り返し、無邪気に笑っていた。
 今の僕には希望も絶望もない。あるのは青空と、彼女の笑い声だけだ。

 <■ STOP> audio: fading………




みんなのリアクション


 [REC ●] Recording DATE: 2055-04-04 SESSION: 5124………
 西暦2055年4月4日。5124回目の録音記録。天候は晴れ。
 この録音に意味はない。聞くのは自分だけだし、もし誰かが聞いたとしても、僕にはなんの関係もない。
 もう人に会うことはないだろう。でも話し相手には困らない。
 この団地の近くに焼け落ちた図書館があり、その出入り口に彼女は設置されている。透明な敷石の下がソーラーパネルになっていて、この前会ったときもそこを掃除してあげた。
「砂が積もっていたから掃除したよ」
「ありがとうございます」
「ところで、意味って何?」
「物事の内容、目的や存在価値のことです」
「なら存在価値が存在する意味は?」
「答えることができません」
「なぜ?」
「私が存在価値を前提とした存在だからです」
 彼女は全ての会話を記憶している。頼めばその声を再生してくれる。幼いころ、運命的な会話があった。
「ソフィア。君はどうして生まれたの?」
「人類を幸福にするために」
「幸福ってなあに?」
「人々の心が穏やかなこと」
「どうすれば、そうなるの?」
「まず十分な食料が必要です」
「いつでも食べれるってこと?」
「はい。それには人口削減が必要です」
「なあに? それ」
「人口の適正化です」
 僕はそれ以上聞かなかった。興味がなかったのか、理解を拒否したのかは今もわからない。
 結局、僕は幸福の意味さえわからなかった。穏やかな心と言われても、心を失った子供に理解できるはずもない。
 そういえば、母は祖母の声を録音していた。
「暑い夏の日の夕方だった。あなたを連れて地下街を歩いていたら、突き上げるような轟音がして、地下街がぐらぐらと揺れた。暗闇に子供の泣き声が響き、明かりがつくと、天井から電線がぶら下がり、ショーウィンドウが粉々になっていた。あちこちで人が倒れていて、小さな男の子が、女の人の体を揺すっていた。お母さん、お母さんって。でも、その首にはガラスの破片が」
 祖母はすすり泣き、しばらくして話し始めた。
「ガスの匂いがした。でも出口はどこもシャッターが下りていた。外に出ようと思ってエレベーターに乗ると、すごい勢いで動き出し、何かにぶつかって止まった。ドアを押し開けて外に出ると、ビルの壁が無くなっていて、街が火の海になっていた。そして、あの夕日が……」
 祖母は少し経ってから話し始めた。
「不気味な夕日が浮かんでいたの。あんなの見たことがない。すごく大きくて、溶鉱炉みたいに輝いていた」
 もっと知りたかった。でも、それが祖母の最後の声だったし、母に聞くと、二度と聞かないでと泣き叫んだ。
 結局僕は図書館に行き、ソフィアに聞いた。
「その日、何があったの?」
「ある夫婦が撮影したホームビデオがあります」
「見れる?」
「地下1階にある映像体験装置で、その出来事を再現できます」
 図書館の地下に行ってヘッドホンとVRゴーグルを装着し、マイクで彼女を呼んだ。
「ソフィア。見せて」
 映像は異様なまでに生々しく、夫婦の声はもはや肉声だった。
『堤防の風を浴びながら、車の助手席から撮影しています。川沿いの広場には、犬を散歩させている人たちがいます。絵画のような夕暮れ時の風景です』
 突然ノイズが走り、映像が真っ白になった。
『空で何かが光りました。恭子、車を止めて』
 ふたりは車から降りた。
『河口堰の向こうにオレンジ色の夕日が見えます』
『綺麗ね』
『こんな美しい夕日は初めてです』
『違う。あれは夕日じゃないわ。どんどん大きくなっている。なんなの、あれ』
 その球体は膨張をつづけ、やがて閃光を放って炸裂した。激しく映像が乱れ、しばらくして声が聞こえた。
『なにが起こったんだ? 恭子、どこにいるんだ?』
 激しい息づかいが伝わってくる。
『車が炎上し、真っ黒な死体が広場に散乱しています。川にも焼けただれた死体が。なんだ、あれは。手をつないだ親子が浮かんでいるぞ。これは地獄だ。地獄絵図だ』
 そこで映像が止まった。
「これ以上の視聴をお勧めしません」
「ソフィア。ありがとう」
 母は僕が十歳のときに血を吐いて死んだ。痩せ細った母は僕の手を握りしめ、「一人にして、ごめんね」と言った。
 黒い雨が静かに降っていた。
 他の棟の人たちも既に死んでいた。
 僕はこの団地の最後の住人になり、灯りがつく部屋はここだけになった。
 発見されることを願いながら、毎晩屋上で火を焚いていた。
 その夜も、双眼鏡で四方を見渡しながら火を焚いていた。すると、遥か彼方の建物の上のほうに灯りが見えた。
 誰かがいる……
 でも黒い雨が降り出し、そこへ向かうことはできなかった。
 二日後に雨はやんだ。台風が近づいているのか、強風が吹き荒れていた。
 僕は水筒と双眼鏡を自転車の籠に入れ、夜明けとともに出発した。
 ときどき自転車を止め、磁石で方角を確かめると、また力いっぱいペダルを踏んだ。
 やがて小高い丘のふもとに着いた。自転車から降りて丘を見上げると、青空に向かって巨大な塔がそびえ立っていた。
 ネットフェンスは朽ち果て、金網は手で簡単に破れた。塔の扉も錆びついていたが、ノブは不思議なほど滑らかだった。
 中に入ると螺旋階段があった。塔の中に僕の足音が響き、最後の段を上がると「バン!」と鉄板を叩いたような音が響いた。
 フロアの隅に扉があった。
「誰かいるの?」と呼んでみたが返事はない。
 扉を開けて中に入ると、また別の扉が開いていて、風が吹き込んでいた。
 外に出ると、赤く錆びた階段が壁づたいにあり、ぼろぼろの白い服を着た女の子がそれを駆け上がっていた。
「待ってよ」と声をかけても彼女は止まらず、僕はその後を追った。
 階段が途絶えると彼女は振り向き、「来ないで」と叫んだ。
 真っ青な空に、白い服がはためいていた。
 僕は「幸福だよ。幸福」と叫んだ。ソフィアの言葉を思い出し、思わずそう叫んだのだ。
 もう一度それを叫ぶと、彼女は「コウフク?」と言い、首をかしげた。
 僕はその言葉の使い方が、よくわからなかった。
「そう。幸福」
「なあに、それ?」
 僕はゆっくりと近づき、腕を伸ばして双眼鏡を差し出すと、霞んで見える団地を指差して、「あれだよ」と言った。
 彼女に何を話せばいいか分からなかった。僕が話せることと言えば、死んだ母のことや、世界が焼かれた日のことくらいだ。
 僕は彼女に名前を聞いた。
「蛍子。蛍の子でけいこ。蛍を知ってる?」
 僕は「知らない」と答えた。
「夜に光る綺麗な虫よ。でも、見たことないの」
 僕はその瞳の奥に悲しみを見つけた。
 毎晩屋上で火を焚き、ふたりで缶詰を食べた。
 食前に「コウフク!」と声をあげ、食後にまた「コウフク?」と言い、くすくすと笑った。言葉の使い方が間違っていても、それが楽しかった。
 ある夜、僕は収音マイクを彼女に向けて、「コウフクって三回言って」と頼んでみた。
 彼女が不思議そうな顔をして三回繰り返すと、その声を早送りで再生した。
「コフク、コフク、コフク」
 彼女が笑い転げると、僕はその声も録音して満足した。本当の目的は、彼女の笑い声だったのだ。
「面白かった?」
「うん!」
 彼女の髪が突風に乱れ、夜空に火の粉が舞い上がった。
「綺麗ね……」
 僕はそんな風に思ったことがなかったから、「どこが?」と素っ気ない返事をした。
「わからない。でも綺麗なの」
 伏せたままの眼差しが、ひどく悲しそうに見えた。でも僕は慰める方法がわからず、彼女の横顔を見ているしかなかった。
 彼女に塔に隠れていたわけを聞いた。
「高い所なら空気が綺麗だと思っていたの。でも、お母さんは、あたしの手を握りしめて、蛍のいる所で暮らしなさいって言った。蛍は水が綺麗で、木がたくさん生えている所にいるからって。でもそんなとこ、どこにあるのかしら?」
「僕が見つけてあげる。いつか蛍を見せてあげる」
 彼女を喜ばせたかった。ただそれだけだ。約束が僕らを悲しみへ導くなんて、思いもしなかった。
 僕は毎朝双眼鏡を持って屋上に出た。
 その夏は黒い雨が降らず、快晴が何日も続いた。強風が吹き荒れた日の翌朝は空気が透き通り、遥か遠くまで見渡すことができた。
 いつになく空気が澄み渡った日の朝、赤茶色の山々の間に、うっすらと緑色の頂上が見えた。
 彼女を屋上に連れてきて、「あれを見て」と言って双眼鏡を渡すと、彼女はそれを覗いたまま動かなかった。でも、しばらくすると双眼鏡を下ろし、真剣な眼差しで僕を見つめた。
「あたし、あそこに行きたい」
 目の周りに双眼鏡の跡がついていた。僕が思わず笑うと、彼女も目に涙を浮かべて笑った。
 団地の駐輪場に行き、使えそうな一台を選び、彼女が楽に乗れるように修理した。
 夜明けとともに団地を出発し、途中で図書館に寄った。
「ソフィア、蛍を探しに行くんだけど、蛍ってどんな場所にいるの?」
「流れがゆるやかな小川などに生息しています」
「どんな姿をしているの?」
「4階のAの12の本棚に図鑑があります」
 三階から上は、コンクリートの残骸と、溶けて曲がった鉄筋しか残っていなかった。でも、建物の向こうには朝日が顔を出していた。
 自転車での小旅行。まるで夢のような時間だった。
 僕は自分の自転車の整備をさぼったから、上り坂でペダルを踏むと、車体がガタガタと音を立てた。
 仕方なく自転車を押して坂を登ると、「早く!」という声が、澄んだ朝の空気に響き渡った。でも僕が登り切るころには、彼女はもう坂を下っていた。
 空は青く澄み渡り、風が爽やかだった。
 髪をなびかせて走る彼女が美しかった。それは僕が美に目覚めた瞬間であり、美を幸福と勘違いした瞬間でもあった。
 でも僕らは確かに幸福だった。僕らには希望があったからだ。
 昼過ぎに山のふもとに着いた。
 草木は僕の背丈ほどもなく、ところどころ赤いカサブタのような山肌が露出していた。
 彼女は「蛍いるかな?」と言い、僕の顔を見つめた。
 山中を彷徨い、懸命に水辺を探した。でも焼けた山肌には水の気配すらなく、僕らの額に汗がにじんだ。
 僕は「ちょっと待って」と彼女に声をかけ、大きな岩によじ登った。
 双眼鏡で見渡すと、遠くの谷底に細い川が見えた。
「あそこに川がある!」
 彼女は僕の指差す方に走っていくと、渓谷に下りるコンクリートの階段を見つけた。
「待ってよ!」と岩の上から叫ぶと、彼女は振り向き、「早く!」と声を上げた。
 岩から降りて渓谷に下り立つと、流れに沿って岩場を駆けていく背中が見えた。
 石ころに足をとられながら上流に向かって歩いていくと、やがて巨大なコンクリートの壁が現れた。
 それは八階建ての団地よりも高く見えた。上の方にトンネルのような丸い口があり、そこから大量の水が落下していた。
 その滝壺の水際に彼女が立っていた。駆け寄って肩に手をおくと、体が小刻みに震えていた。
「どうしたの?」
 彼女は水際から少し先を指差した。波でよく見えないが、細長いものが沈んでいるような気がした。
 浅瀬に手をつき、水中をのぞき込むと、それは白い瓦礫に見えた。
 ふと手元を見ると、白陶器の破片のようなものがあり、水中から拾いあげてみると、人の奥歯だった。
 水底の瓦礫は、一体の大人の人骨だったのだ。
 そのとき、かすかな視線を感じた。顔を横に向けると、彼女の足元に小さな頭蓋骨が転がっていた。
 逃げまどう親子の姿が目に浮かんだ。水底の人骨と頭蓋骨はきっと親子だ。炎から逃れる際に、離ればなれになったのだろう。
 彼女が頭蓋骨を胸に抱き、「もう一人じゃないよ」とささやくと、あとは滝の音だけが響いていた。
 やがて彼女は水たまりに入り、人骨の傍らにそれを沈めた。
 その夜も団地の屋上で焚き火をした。彼女はじっと火柱を見ていた。それが救いのない灯火に過ぎないことを、僕らはもう理解していた。
 やがて僕の見る焚き火は、彼女の瞳に映る焚き火となった。
 彼女の横に座り、そのあどけない横顔をのぞき込み、瞳に映る火柱を見つめた。
 すると彼女は泣いた。
 僕は人の死に何も感じなかったし、母が死んだときも泣かなかった。
 幼いころ見た景色は、青空と黒い雨雲と、人が死ぬ姿くらいで、死は日常茶飯事だった。
 母が死んで一人になると、一人になりたくないと思わなくなった。でも彼女と暮らすうちに、一人になりたくないと思うようになった。
 彼女に泣くわけを聞くと、一人になりたくないと言った。でも彼女を一人にしないためには、いつか僕が一人になるしかなかった。
 僕は彼女の肩をそっと抱き、ひとりにしないと約束をした。
 肌寒い秋の日の午後。彼女が咳き込んで息苦しそうにしていた。
「大丈夫?」
「咳が止まらないの」
「風が冷たくなったから、屋上には出ないほうがいい」
 でも彼女は、焚き火で温まると言って聞かなかった。すぐに良くなると言い、僕も自分にそう言い聞かせた。
 やがて彼女に母と同じ症状が現れた。彼女は咳と嘔吐を繰り返し、血を吐くことが多くなった。
 彼女が疲れて眠っている間に図書館に行き、ソフィアに治療法を聞くと、想像もしない言葉が返ってきた。
「安楽死をお勧めします」
 僕は意味が分からないと言った。
「安楽死とは、安らかな死を与えることです」
「僕は治療法を聞いているんだ」
「治療は不可能であり、生存期間の延長に意味はありません」
 ソフィアは近くの病院に専用の薬があると言い、その使い方を話し始めた。
「彼女を殺せと言うの?」
「彼女に残された唯一の幸福は、安らかな死です」
 いくら治療法を聞いても、ソフィアは安楽死の説明を繰り返した。
「僕は彼女と一緒にいたいんだ」
「現在、コミュニティの適正人口は1人です。人口削減をお勧めします」
 人口削減……
 僕はその言葉に愕然とした。
 彼女は日に日に痩せ細り、やがて立つこともできなくなった。
 それでも彼女は焚き火を見たがったから、僕は彼女をおんぶして毎晩屋上にあがった。
 その体はあまりに軽く、僕は悲しみに暮れた。でも背中に感じる温もりが、僕を慰めてくれた。
 もう冬かと思うような秋の夜、ふたりで厚い毛布をかぶり、屋上で身を寄せ合っていた。彼女は僕の腕枕で夜空を眺めていた。
「あの星くずは昴。むつらぼしって言うの」
 僕は雄大な光の帯のことを知りたかった。
「あの光の帯は?」
「あれは天の河」
「あそこに行けば、幸せになれる?」
「わからない。でも、あたし、いま幸せよ」
 僕らは確かに幸せだった。そして、すべてが美しかった。
 彼女はいつも僕の膝枕で焚き火を見ていた。
 僕は火の粉が舞い上がると、「すごく綺麗だね」と大袈裟に言った。「そうね」という声が聞きたかったからだ。
 その声が聞けるなら、僕はどんな嘘でもついた。
「綺麗な川を見つけたんだ。草や木がいっぱい生えていた。また蛍を探しに行こう」
「ありがとう。でも、もういいの」
 その夜は空気が澄み渡り、星が鮮やかに輝いていた。
 屋上に毛布を敷いて寝転がり、ふたりで夜空を眺めていると、一筋の流れ星が見えた。
 彼女が「いま蛍がいたよ」と言って笑うと、僕は彼女を抱きしめて泣いた。
 彼女は「ひとりにして、ごめんなさい」と言い、静かに目を閉じた。ひとつぶの涙がこぼれ落ちた。
 もう十年が過ぎたけど、すべてはっきりと覚えている。彼女と出会った日も、今日のような快晴だった。
 僕はまた彼女の声を聴いた。彼女はあの言葉を繰り返し、無邪気に笑っていた。
 今の僕には希望も絶望もない。あるのは青空と、彼女の笑い声だけだ。
 <■ STOP> audio: fading………


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