表示設定
表示設定
目次 目次




第三話 叫び島の少年

ー/ー



「まてえええ!! このクソザル!!! 俺のリンゴ返せえええ!!」

「ウキッ! ウキーーー!」

夕焼けに染まる森の中を、茶髪の少年アデルが全力で走る。
彼の手には何もない。さっきまで大事に握っていたリンゴは、泥まみれの尻をした〈泥ザル〉に奪われた。

「まてぇぇぇ……あああああああああ!」

声が森に空しく響くだけで、あのクソザルの姿はどこにもない。
アデルは肩で息をし、荒い息を吐きながらトボトボと歩き出した。

(せっかく見つけたリンゴだったのに……!)

ぬかるんだ道を抜けると、小さな土の家が二つ。
半球状のドームは泥のようで、しかし雨でも崩れない硬さを持つ。

家の前では、髪と髭がぼうぼうの老人——パニアが焚き火を囲んでいた。
左目に傷が走るその顔は、初めて見る者には怖いが、アデルには何よりの安心だった。

「おー、アデル。帰ってきたか。どうした? 元気ないの〜」

パニアは焚き火の上、細い棒に刺した魚の焼け具合を見ながら言った。

「俺が見つけたリンゴを泥ザルに取られたんだ!!
追いかけたけど逃げられた!! クッソ!!」

アデルは悔しさのあまり、足元の石を思い切り蹴り飛ばした。

「まあ落ち着け、落ち着け。ほれ、魚が焼けたぞ。食って機嫌直せ。うまいぞ〜」

パニアは塩を振った焼き魚を差し出した。
アデルはぶすっとしながらも受け取り、ムシャムシャとかじる。

噛んだ瞬間、目が丸くなる。

「パニア爺!! これ、うまっ!! なんて魚だ!?」

「豚魚(とんぎょ)ってやつじゃ。食感がクセになるわい。ほれ、まだまだあるから食え食え」

「マジか……! うまっ! うまっ!!」

アデルは魚を3匹たいらげ、ついにはお腹をさすって満足げな顔をした。

パニアはその様子をほっと見つめたが——次の瞬間、目が鋭くなる。

「……で、アデル。ビッグボアに手を出したな?」

「っ!」

アデルはビクッと反応する。視線をそらしながら、

「だ、出して……ない……よ……?」

「嘘をつくな。鼻の穴が開いておるぞ」

アデルは嘘をつくと鼻の穴が開く。

「ほ、本当に手なんて……出してない……」

「本当に?」

パニアの目が細まる。アデルは限界を迎え——

「……手は出してないけど……足は出した……」

パニアの拳が音を立ててアデルの頭に落ちた。

「いってぇぇぇ!! なにするんだよ!!」

「あれほど手を出すなと言ったじゃろうが!!」

「手は出してない!! 足だって言ってるだろ!!」

「そういう話をしとるのではないわい、馬鹿者が!!」

二人はすぐに口喧嘩になる。

「クソジジイ!!」

「なんじゃとこのクソガキ!!」

アデルはお尻を叩きながら挑発した。

「捕まえてみろよーだ! クソジジイ!」

パニアはゆっくり立ち上がる。

——その姿が消えた。

アデルが前を向いた瞬間、視界がひっくり返った。

「ふわっ!? いでででで!!」

次の瞬間、アデルのお尻に電撃のような痛みが走る。

「悪い子には、お尻ペンペンじゃ!!」

「いてーーー!! パニア爺ごめんなさい!! もうしません!!」

森にアデルの悲鳴がこだまし続けた——。
パニアはしばらくアデルの尻を叩いたあと、ようやく手を止めた。
アデルは涙目で地面に降ろされ、ヒリヒリするお尻を両手でさすった。

「なんでビッグボアなんかに手を出すんじゃ。まだお前じゃ勝てんと、あれほど言っておろうに」

パニアの問いに、アデルは唇を噛んで視線を落とす。

「……オレは、最強になりたいんだよ……」

パニアが動きを止める。

「最強になれば、誰にも舐められない……!
泥ザルだって、リンゴいっぱい持ってくるかもしれないし!」

「何を馬鹿なことを言っとる」

「馬鹿じゃねぇ! 本気だ!!
ビッグボアがこの島で一番強い魔物なんだろ!?
だから倒せば、オレが最強だ!!」

アデルは胸を張って言い放つ。

だがパニアは鼻で笑った。

「ビッグボアなど、世界では弱い部類じゃ」

「え!!!? 最強じゃないの!?」

「当たり前じゃ。世界には、この島より遥かに強い魔物がごまんとおるわい。
それに——ビッグボアなんぞ、そこらの冒険者でも狩れる」

アデルはぽかんと口を開ける。
世界の広さを、初めて想像した瞬間だった。

パニアは続ける。

「それにな、わしより強い人間も世の中にはいくらでもおるんじゃ」

「パニア爺より強い奴……?」

アデルには想像できない。
パニアは島でも“怪物じみた老人”であり、彼の拳を受け止められる者は誰もいない。

「たかがビッグボアごとき倒して最強など、笑わせるの〜」

アデルは拳を握る。

「だったら! オレはもっと強い魔物も、人間も、一撃で倒す!!
それで——最強になるんだ!!」

パニアの目が細くなる。

「アデルよ……なぜそこまで最強にこだわる?」

アデルは息を吸い込み、吐き出すように叫んだ。

「オレの存在を……父さん母さんに知らしめたいからだ!!
オレは捨てられた子なんだろ!!」

その言葉に、パニアの表情が固まる。

(……聞かれておったか)

パニアはアデルに“親のこと”を一度も話していない。
だがある日、独り言が漏れてしまっていた——
「なぜアデルの親はこんな森に……」と。

「アデル……お前、いつ——」

「前にパニア爺を驚かせようと帰ったとき、聞こえたんだ。
……でも、それでいいんだ」

アデルは拳を胸に当てる。

「オレが世界で名が知れ渡るくらい強くなったら、
きっと父さんと母さんも、どこかから気づいてくれる。
そしたら言ってやるんだ——

オレの親はおまえらじゃねえ。
世界でただ一人の親は……パニア爺、だって。」

パニアの喉が震えた。
胸の奥がじんと熱くなる。

だがそれでも、老人は厳しい声を崩さない。

「……だからといって無謀に挑むなと言っとるんじゃ!!」

ゴッッ!!!

アデルに再びゲンコツが飛んだ。

「死んだら元も子もないじゃろうが!!」

「いってえぇぇ……わかったよ……」

さすがのアデルも神妙な顔になる。
その様子にパニアはふうっと息を吐き、

「よし、アデルよ。組み手をするぞ」

「いきなりかよ……!」

「強くなりたいんじゃろ? なら立て。ほれ」

パニアは仁王立ちになり、手招きした。

「さあ、わしに一発当ててみろ」

アデルは両手で自分の頬を叩き、気合を入れる。

「いくぞ、パニア爺!!」

全速力で飛び込む。

「かかってこい、小童!!」

パニアは微動だにしない。ただ受けて立つ。

アデルは走りながら考える。

(いつもはパニア爺の顔面狙い……だからあいつもそう思ってるはず……!
今回はフェイントだ!!)

顔にパンチを見せかけ——

「くらえ! 一撃パンチと見せかけて——蹴りぃっ!!」

足がうなりをあげる。

決まった! そう思った瞬間、

バシッ!

「甘いわい」

パニアの掌に蹴りを吸い込まれる。

「なんで止めるんだよ!!」

アデルは後ろに跳び退き、距離を取る。

(じゃあ、このパターンだ……!
蹴りと見せかけての、裏拳!!)

アデルは素早く踏み込む。

だが——

パニアは片手で裏拳すら止め、ニヤリと笑った。

「読めとる読めとる」

なぜだ!?

アデルの背に汗が伝う。
アデルは歯を食いしばり、次の手を考える。
しかし、その思考よりも早く、腹部に――

ドスッ。

鈍い痛み。
視界がぐらりと揺れ、アデルは地面に膝をついた。

「ぐっ……! く、そ……息が……!」

パニアは腕を組み、ため息をつく。

「お前の攻撃は分かりやすいの〜。
裏をかいているつもりでも、全く裏になっとらん」

アデルはなんとか呼吸を整えながら立ち上がる。

「な、なら……はぁ……はぁ……
オレにも攻撃してこいよ! パニア爺!」

威勢よく挑むが、まだ息は荒い。

パニアは面白そうに口角を上げた。

「ほぉ……怖気づかんのは良いことじゃ。
よし、二発だけ攻撃してやろう。
避けるか、ガードするかしてみんさい。
もちろん寸止めじゃ。安心せい」

「上等だ……来い!」

アデルは両拳を握り、構える。

その瞬間――

パッ。

「……!!」

目の前に、パニアの拳があった。

「うわっ!? あ、あぶねえ!!」

ギリギリのところで、身体を後ろに反らして避ける。

(何だよ今の……! 速ぇ……!!
寸止めとは思えねえスピードじゃねーか……!!)

「一発目じゃ」

パニアは楽しげに笑う。

アデルは再び構え直した。
額にじんわりと汗がにじむ。

(次は蹴りか、パンチか……どっちだ……!
パニア爺の癖……さっきは右足の位置が……)

パニアが一歩踏み出した。

アデルの視線がパニアの身体の動きを追う。
視線の高さ、肩の傾き、腰の向き——

(くる! 左顔面――!!)

アデルは右腕を上げてガードを作る。

しかし。

パニアは軽く「甘い」と呟き——

ドンッ。

アデルの腹に軽く拳を当てた。

「なっ……!? 今、顔狙ってたよな!?
なんで腹に来るんだよ!!」

アデルが腹を押さえながら叫ぶ。

パニアは肩をすくめた。

「視線誘導じゃよ」

「視線……誘導……?」

子供のアデルには理解が追いつかない。

パニアはアデルの頭を指先で軽く突いた。

「腹を狙う素振りを見せて、顔に行く。
顔を狙う素振りで、腹に行く。
相手の“見ている方向”をわざとずらすことで、隙を作るんじゃ」

アデルは口をぽかんと開けた。

「……そんなの……できねぇよ……」

「できる。わしがやってみせる」

パニアは指を立てる。

「構えんか」

「またかよ……!」

ぶつぶつ言いながらもアデルは構えた。

パニアが動く。

アデルは腹にガードを寄せる。

その瞬間、

ビシッ!

アデルの右頬にパニアの拳が軽く当たる。

「腹を守ったな?」

「だって、そっち見たじゃん……!!」

「それが誘導じゃ。
“腹を狙うぞ”と視線で教えて、腕を下げさせた。
腕が下がれば、顔が開く。
そこに攻撃する」

アデルは驚愕した顔でパニアを見つめる。

「オレ……全部……引っかかってた……?」

「うむ。二回とも見事に、の〜」

パニアは胸を張って笑う。

アデルは悔しそうに歯を噛みしめた。

「くそ……オレ、全然ダメじゃん……!」

「アデルよ、攻撃の時にな、肩に力が入りすぎじゃ。
そういう時は動きが単調になり、読まれやすいんじゃ。

肩の力を抜き、呼吸を整え、
“どう見せるか”を考えながら攻撃するんじゃ」

アデルは黙って聞く。

パニアは腕を組み、厳しく、しかしどこか優しく言う。

「今言った技術はすぐには身につかん。
だが努力すれば必ず強くなる。
そして——」

パニアはアデルの頭にぽんと手を置く。

「わしを超えてみせい、アデル」

アデルの表情が一瞬で明るくなる。

「……パニア爺を超える……?」

「最強になりたいんじゃろ?
わしを倒せん者が、世界で通用するかい」

「よっっっしゃあああああ!!!!
やってやる!! 絶対やってやる!!」

叫ぶアデルの声は、海の向こうまで響いていた。

パニアは耳を押さえながら笑う。

「元気だけは一丁前じゃの〜」

アデルは拳を握り、興奮で跳ね回る。

「パニア爺!! 修行もっともっと厳しくしてくれ!!
オレ、絶対強くなる!!」

「ほっほっほ……その意気じゃ、アデル!
では——組み手再開じゃ!」

「来い!! パニア爺!!!」

少年の声が島に響く。

叫び島の静寂は、その日だけひどく賑やかだった——

組み手は、そこからさらに何十分も続いた。
アデルは何度も転び、砂にまみれ、膝を擦りむきながらも立ち上がる。

「はぁ……はぁっ……くそぉ……! どれだけやっても当たんねぇ……!」

息が切れ、胸が上下に大きく波打つ。
視界もかすみ、汗で髪が頬に張り付いていた。

パニアは逆に、まったくの無傷で、微動だにしていなかった。

「アデル、構えが高いぞ。
それでは下段に弱い。腰を落とせ」

「う、うるせぇ……! 言われなくても……やる……!」

アデルは膝に手をつきながら、ふらつく身体をなんとか起こし、再び構えた。

だが。

パニアはため息をついた。

「……アデルよ。今日はここまでじゃ」

「はぁ? なんでだよ!!
オレまだ……っ、できる……!」

アデルは拳を握りしめ、反抗する。

しかしパニアの表情は珍しく真剣で、静かだった。

「無理をして怪我をするのは、愚か者のすることじゃ。
強くなる前に身体を壊してどうする」

「ぐっ……」

怒りと悔しさで、アデルの喉がきゅっと詰まった。

パニアは背中を向け、焚き火の方へ歩き始める。

「帰るぞ。腹も減ったろう」

アデルは拳を握りしめたまま、ぐっと噛みしめた。

(くそ……オレは……なんでこんなに弱いんだ……
強くなりたいのに……!
パニア爺を超えるんだって決めたのに……!)

その時。

パニアがふと、足を止める。

「アデル」

「……なんだよ」

「お前は、弱くないぞ」

アデルは顔を上げた。

パニアはゆっくり振り返る。

「弱い者はな……“諦める”。
立ち上がらん。挑まん。泣きながらでも向かっていくお前は——弱くない」

アデルの喉の奥が熱くなる。

「パニア爺……」

「だが強さとは、“一度の努力”で掴めるもんじゃない。
積み重ねじゃ。わしも長い年月をかけて強くなった」

パニアはアデルの頭を、ぐしゃっと強く撫でた。

「焦らんでええ。
強くなりたいという気持ちがあるなら——お前は、必ず強くなる」

アデルは唇を噛みしめ、目の端に涙がにじんだ。

「……オレ、絶対……強くなる。
パニア爺を倒して……世界に名前を知らしめて……
父さんと母さんに、オレが生きてるって……証明するんだ……」

パニアは優しく微笑んだ。

「うむ。それでいい」

「でも……パニア爺を倒しても……
オレの親はパニア爺だけだからな……!!」

アデルは、涙と一緒に叫んだ。

パニアは驚き、肩が少し震えた。

「アデル……」

「オレを拾ってくれたのは……パニア爺だ。
育ててくれたのも……守ってくれたのも……
全部パニア爺だ……!!
だから……オレは絶対……強くなって……
パニア爺に胸を張って会う!!
世界中どこに行っても、オレの親はパニア爺だけなんだって……言うんだ……!!」

パニアは視線を落とし、ぐっと目を閉じる。

その瞬間——
皺だらけの目尻に、一筋の涙が滲んだ。

「……馬鹿者が。
そんなことを……真正面から言うんじゃない……
胸が締め付けられるわい……」

アデルは涙を拭き、拳を握った。

パニアは鼻をすすりながら、わざと乱暴にアデルの頭を叩いた。

「泣くな。男が泣くのは、心が折れた時だけでええ。
今のお前の涙は……前に進むための涙じゃ」

アデルは頷いた。

パニアは再び歩き出す。

「帰るぞ。今日は豚魚のスープの残りがある」

「俺、パンも焼く!」

「焦がすなよ。前は真っ黒だったろうが」

「なっ……! あれは……わざと焦がしたんだよ!」

「ならもう一回わざと焦がさずに焼いてみせろ」

「任せろよ!!」

二人の笑い声が小島に響く。

風に乗り、木々がざわざわと囁く。

誰も知らない小さな島で、
少年は今日も“最強”を夢見ていた。

アデルとパニアがかまくらの家へ戻る頃には、空はうっすら橙色に染まりはじめていた。
森の隙間から射す夕陽が長い影を作り、静かな島を金色に照らす。

焚き火の上には、パニアが作った豚魚(とんぎょ)のスープが湯気を立てていた。
白い脂がぷかぷか浮き、魚の香ばしさと野草の香りが漂う。

「腹減ったろ、アデル。ほれ、器をよこせ」

「おう! いっぱい入れてくれよ!」

パニアは大鍋からスープをすくい、どんぶりに豪快によそう。
具材は大きく切った魚の身と、叫び島で採れる特有の根菜だ。

「うおお……うまそ……!!」

アデルはじっと見つめ、唾を飲む。

「食べる前に手を洗え。まったく、お前はすぐ食べようとする」

「わかってるよ!」

川の水で手を洗い、アデルは急ぎ足で戻ってくると、湯気の立つスープにスプーンを突っこんだ。

「……うまっ!! やっぱパニア爺のスープ最高!!」

「ほっほ、食うのが早いのぉ。喉に詰まらせるでないぞ」

「うるせぇ! 食わせろっての!」

スープをがつがつ飲みながら、アデルの顔は幸せで満ちていた。
たくさん殴られ、疲れ切っていた身体に、温かさが染み渡る。

「……なぁ、パニア爺」

アデルがぽつりと言った。

「ん?」

「強くなりたい理由、もうひとつあるんだ」

パニアは視線を向ける。

アデルはスプーンを置き、膝を抱える。

「オレ……この島から出て……この世界を見てみたいんだ。
どんな人がいて、どんな町があって……
魔法が使える人たちがいっぱいいるんだろ?
強い奴も……変な奴も……たくさんいるんだよな?」

「そうじゃの。わしも若い頃、旅をした。いろんな土地を見た。
自然は美しいが、その分だけ、危険も多い」

パニアの声は懐かしむようであり、どこか痛みを含んでいた。

「旅をするには強さがいる。
アデル、お前は魔法が使えん。
普通の人間よりもずっと危険にさらされる」

「だから強くなりたいんだよ!」

アデルは拳を握った。

「オレ……怖いんだ。
何もできない自分のまま……島にずっといるのが……
それが一番の怖さなんだよ」

パニアは目を細めた。

(アデル……お前は……)

アデルの瞳には、不安も、怒りも、焦りも、決意も――全部詰まっていた。

「パニア爺。
オレは、魔法が使えなくても……戦えるようになりたい。
爺ちゃんみたいに……誰にも負けねぇ力がほしい。
そうすりゃ……どこへでも行けるんだろ?」

パニアは鍋の蓋を静かに閉め、アデルの前に座り込んだ。

「魔法が使えん者が強くなる道は、険しい。
血が出ることも、骨が折れることもある。
それでも進む覚悟はあるか?」

アデルは迷わずうなずいた。

「ある!
オレは……自分で選んだ道を歩きたいんだ……!!」

パニアはほんの少し、口元を緩めた。

「……なら、教えてやろう。
魔法を持たぬ者が戦うための……“技術(スキル)”を」

アデルの瞳が大きくなる。

「ほんとに!? 本当に!?」

「ただし……軽い気持ちでやるな。
わしの技は、生半可な気持ちでは身につかん。
痛みを知り、恐怖を知り……
それでも立ち上がる奴にしか教えん」

「立ち上がる! 何度でも立ち上がる!!」

アデルは立ち上がり、拳を握りしめた。

パニアはゆっくり立ち上がった。

「明日の朝から特訓を始める。
覚悟しておけ。今までの組み手とは比べ物にならんぞ」

「お、おう……! どんなのだって耐えてやる!!
オレは最強になるんだ!!」

アデルが笑ったその時。

――ビュウウウウッ

突然、強い風が吹いた。

焚き火の炎が揺れ、木々がざわめく。

アデルは風に手をかざし、不思議そうに目を細めた。

「なんだ……急に風が?」

パニアも同じ方向を見た。
夕暮れの空の端に、かすかに黒い雲がかかっていた。

しかし、まだ遠い。
まだ不吉と呼ぶには弱い影。
ただの雲かもしれない。

パニアはほんの短く息を吸い――
何も言わずにアデルの方へ向き直った。

「気にするな。ただの風じゃ。
さあ、早くスープの残りを食え。冷めるぞ」

「おう!」

アデルはすぐに笑顔を取り戻し、スプーンを握った。

夕陽はゆっくり沈み、島に夜が近づいていく。

少年は、まだ知らない。
この穏やかな島に、遠い未来――大きな影が近づくことを。

夜になり、島は静けさに包まれた。
焚き火の炎はゆらゆらと揺れ、虫の音が優しく夜を満たしている。

アデルは丸太のイスに座り、足をぷらぷらさせながら言った。

「パニア爺、明日の修行って……どんなことするんだ?」

パニアは火ばさみで薪を動かしつつ、ふっと笑う。

「明日からは“基礎の基礎”じゃ。
まずは走り込み。体の使い方、目の使い方……全部叩き込む」

「へへん!走るのは得意だしな!」

「泥ザルを追いかけてるからのう」

パニアが茶化すと、アデルは得意げに胸を張る。

「まあな!あいつらには負けねぇ!」

「ほっほ……なら期待しておるぞ。
明日は気合いを入れていくからの」

「任せろって!」

焚き火がぱちりと弾け、二人の影を揺らす。

パニアは炎を見つめ、少しだけ真剣な声で言った。

「アデルよ……強くなりたい理由、わしはちゃんと聞いた。
“最強”を目指す道は険しい。じゃが……お前なら行ける」

アデルは口をきゅっと引き締めた。

「オレ、絶対強くなる。
泣いても笑っても……最強になるんだ」

「うむ。強くなれ、アデル。
わしを越え、そして――自分自身も越えるんじゃ」

アデルの胸に火が灯るような感覚が走る。
そして勢いよく立ち上がった。

「よーし!寝る!
明日、絶対パニア爺をびびらせてやる!」

パニアも立ち上がり、かまくらの家に向かう。

「ほっほっほ、楽しみにしておる」

しかし――アデルはその場で振り返った。

胸の奥から、何かが噴き出す。

次の瞬間――

「よっしゃあああああああ!!!!」
「やってやらあああああああああ!!!!」

アデルの雄叫びは、夜空を震わせるほどの勢いとなり、
小さな島を越えて、カスボ島の岸辺にまで届いた。

「ほ〜……また随分と大きな声を出したの〜。
声を張り上げると、胸ん中の淀みが取れるじゃろ?」

パニアは耳を塞ぎながらも笑い、アデルも胸を張る。

「パニア爺!!どんどん厳しくしてくれ!!
オレはもっともっと強くなる!!
絶対にパニア爺を一撃で倒してやる!!」

「ほっほっほっ……その意気じゃアデル。
なら早速――組み手じゃ!構えい!」

「望むところだ!!行くぞパニア爺!!」

アデルが地面を蹴り、パニアが静かに腰を落とす。
焚き火が二人の影を大きく揺らした。

その瞬間、世界は少しだけ視点を引く。

ここは、カスボ島の向かいにぽつりと浮かぶ小島。
だが、ただの島ではない。

カスボ村の人々は、この場所をこう呼ぶ。

――『叫び島(さけびじま)』と。

夜になると、風に混じって、遠くへ響く“叫び声”が聞こえる。
人の声か、魔物の声か、それとも島そのものか――誰も確かめたことはない。

ただ、ひとつだけ確かなことがある。

この島で育った一人の少年が、
やがて世界を揺るがす旅へと歩き出す。

今はまだ小さく、弱く、無鉄砲で……
けれど胸の奥には、誰よりも強い“炎”を宿している。

その少年の名は――アデル。

そして、この夜の雄叫びこそが、
彼の物語の第一声となった。

ーーーーー
叫び島 魔物生態

泥ザル
毛が薄く太陽の日差しに弱いため、体に泥を塗っている、その泥には自分の糞も混ざっている、敵が来ると糞入り泥団子を作って敵に投げて逃げる。


スタンプを贈って作者を応援しよう!

次のエピソードへ進む 第四話 組み手


みんなのリアクション



おすすめ作品を読み込み中です…



「まてえええ!! このクソザル!!! 俺のリンゴ返せえええ!!」
「ウキッ! ウキーーー!」
夕焼けに染まる森の中を、茶髪の少年アデルが全力で走る。
彼の手には何もない。さっきまで大事に握っていたリンゴは、泥まみれの尻をした〈泥ザル〉に奪われた。
「まてぇぇぇ……あああああああああ!」
声が森に空しく響くだけで、あのクソザルの姿はどこにもない。
アデルは肩で息をし、荒い息を吐きながらトボトボと歩き出した。
(せっかく見つけたリンゴだったのに……!)
ぬかるんだ道を抜けると、小さな土の家が二つ。
半球状のドームは泥のようで、しかし雨でも崩れない硬さを持つ。
家の前では、髪と髭がぼうぼうの老人——パニアが焚き火を囲んでいた。
左目に傷が走るその顔は、初めて見る者には怖いが、アデルには何よりの安心だった。
「おー、アデル。帰ってきたか。どうした? 元気ないの〜」
パニアは焚き火の上、細い棒に刺した魚の焼け具合を見ながら言った。
「俺が見つけたリンゴを泥ザルに取られたんだ!!
追いかけたけど逃げられた!! クッソ!!」
アデルは悔しさのあまり、足元の石を思い切り蹴り飛ばした。
「まあ落ち着け、落ち着け。ほれ、魚が焼けたぞ。食って機嫌直せ。うまいぞ〜」
パニアは塩を振った焼き魚を差し出した。
アデルはぶすっとしながらも受け取り、ムシャムシャとかじる。
噛んだ瞬間、目が丸くなる。
「パニア爺!! これ、うまっ!! なんて魚だ!?」
「豚魚(とんぎょ)ってやつじゃ。食感がクセになるわい。ほれ、まだまだあるから食え食え」
「マジか……! うまっ! うまっ!!」
アデルは魚を3匹たいらげ、ついにはお腹をさすって満足げな顔をした。
パニアはその様子をほっと見つめたが——次の瞬間、目が鋭くなる。
「……で、アデル。ビッグボアに手を出したな?」
「っ!」
アデルはビクッと反応する。視線をそらしながら、
「だ、出して……ない……よ……?」
「嘘をつくな。鼻の穴が開いておるぞ」
アデルは嘘をつくと鼻の穴が開く。
「ほ、本当に手なんて……出してない……」
「本当に?」
パニアの目が細まる。アデルは限界を迎え——
「……手は出してないけど……足は出した……」
パニアの拳が音を立ててアデルの頭に落ちた。
「いってぇぇぇ!! なにするんだよ!!」
「あれほど手を出すなと言ったじゃろうが!!」
「手は出してない!! 足だって言ってるだろ!!」
「そういう話をしとるのではないわい、馬鹿者が!!」
二人はすぐに口喧嘩になる。
「クソジジイ!!」
「なんじゃとこのクソガキ!!」
アデルはお尻を叩きながら挑発した。
「捕まえてみろよーだ! クソジジイ!」
パニアはゆっくり立ち上がる。
——その姿が消えた。
アデルが前を向いた瞬間、視界がひっくり返った。
「ふわっ!? いでででで!!」
次の瞬間、アデルのお尻に電撃のような痛みが走る。
「悪い子には、お尻ペンペンじゃ!!」
「いてーーー!! パニア爺ごめんなさい!! もうしません!!」
森にアデルの悲鳴がこだまし続けた——。
パニアはしばらくアデルの尻を叩いたあと、ようやく手を止めた。
アデルは涙目で地面に降ろされ、ヒリヒリするお尻を両手でさすった。
「なんでビッグボアなんかに手を出すんじゃ。まだお前じゃ勝てんと、あれほど言っておろうに」
パニアの問いに、アデルは唇を噛んで視線を落とす。
「……オレは、最強になりたいんだよ……」
パニアが動きを止める。
「最強になれば、誰にも舐められない……!
泥ザルだって、リンゴいっぱい持ってくるかもしれないし!」
「何を馬鹿なことを言っとる」
「馬鹿じゃねぇ! 本気だ!!
ビッグボアがこの島で一番強い魔物なんだろ!?
だから倒せば、オレが最強だ!!」
アデルは胸を張って言い放つ。
だがパニアは鼻で笑った。
「ビッグボアなど、世界では弱い部類じゃ」
「え!!!? 最強じゃないの!?」
「当たり前じゃ。世界には、この島より遥かに強い魔物がごまんとおるわい。
それに——ビッグボアなんぞ、そこらの冒険者でも狩れる」
アデルはぽかんと口を開ける。
世界の広さを、初めて想像した瞬間だった。
パニアは続ける。
「それにな、わしより強い人間も世の中にはいくらでもおるんじゃ」
「パニア爺より強い奴……?」
アデルには想像できない。
パニアは島でも“怪物じみた老人”であり、彼の拳を受け止められる者は誰もいない。
「たかがビッグボアごとき倒して最強など、笑わせるの〜」
アデルは拳を握る。
「だったら! オレはもっと強い魔物も、人間も、一撃で倒す!!
それで——最強になるんだ!!」
パニアの目が細くなる。
「アデルよ……なぜそこまで最強にこだわる?」
アデルは息を吸い込み、吐き出すように叫んだ。
「オレの存在を……父さん母さんに知らしめたいからだ!!
オレは捨てられた子なんだろ!!」
その言葉に、パニアの表情が固まる。
(……聞かれておったか)
パニアはアデルに“親のこと”を一度も話していない。
だがある日、独り言が漏れてしまっていた——
「なぜアデルの親はこんな森に……」と。
「アデル……お前、いつ——」
「前にパニア爺を驚かせようと帰ったとき、聞こえたんだ。
……でも、それでいいんだ」
アデルは拳を胸に当てる。
「オレが世界で名が知れ渡るくらい強くなったら、
きっと父さんと母さんも、どこかから気づいてくれる。
そしたら言ってやるんだ——
オレの親はおまえらじゃねえ。
世界でただ一人の親は……パニア爺、だって。」
パニアの喉が震えた。
胸の奥がじんと熱くなる。
だがそれでも、老人は厳しい声を崩さない。
「……だからといって無謀に挑むなと言っとるんじゃ!!」
ゴッッ!!!
アデルに再びゲンコツが飛んだ。
「死んだら元も子もないじゃろうが!!」
「いってえぇぇ……わかったよ……」
さすがのアデルも神妙な顔になる。
その様子にパニアはふうっと息を吐き、
「よし、アデルよ。組み手をするぞ」
「いきなりかよ……!」
「強くなりたいんじゃろ? なら立て。ほれ」
パニアは仁王立ちになり、手招きした。
「さあ、わしに一発当ててみろ」
アデルは両手で自分の頬を叩き、気合を入れる。
「いくぞ、パニア爺!!」
全速力で飛び込む。
「かかってこい、小童!!」
パニアは微動だにしない。ただ受けて立つ。
アデルは走りながら考える。
(いつもはパニア爺の顔面狙い……だからあいつもそう思ってるはず……!
今回はフェイントだ!!)
顔にパンチを見せかけ——
「くらえ! 一撃パンチと見せかけて——蹴りぃっ!!」
足がうなりをあげる。
決まった! そう思った瞬間、
バシッ!
「甘いわい」
パニアの掌に蹴りを吸い込まれる。
「なんで止めるんだよ!!」
アデルは後ろに跳び退き、距離を取る。
(じゃあ、このパターンだ……!
蹴りと見せかけての、裏拳!!)
アデルは素早く踏み込む。
だが——
パニアは片手で裏拳すら止め、ニヤリと笑った。
「読めとる読めとる」
なぜだ!?
アデルの背に汗が伝う。
アデルは歯を食いしばり、次の手を考える。
しかし、その思考よりも早く、腹部に――
ドスッ。
鈍い痛み。
視界がぐらりと揺れ、アデルは地面に膝をついた。
「ぐっ……! く、そ……息が……!」
パニアは腕を組み、ため息をつく。
「お前の攻撃は分かりやすいの〜。
裏をかいているつもりでも、全く裏になっとらん」
アデルはなんとか呼吸を整えながら立ち上がる。
「な、なら……はぁ……はぁ……
オレにも攻撃してこいよ! パニア爺!」
威勢よく挑むが、まだ息は荒い。
パニアは面白そうに口角を上げた。
「ほぉ……怖気づかんのは良いことじゃ。
よし、二発だけ攻撃してやろう。
避けるか、ガードするかしてみんさい。
もちろん寸止めじゃ。安心せい」
「上等だ……来い!」
アデルは両拳を握り、構える。
その瞬間――
パッ。
「……!!」
目の前に、パニアの拳があった。
「うわっ!? あ、あぶねえ!!」
ギリギリのところで、身体を後ろに反らして避ける。
(何だよ今の……! 速ぇ……!!
寸止めとは思えねえスピードじゃねーか……!!)
「一発目じゃ」
パニアは楽しげに笑う。
アデルは再び構え直した。
額にじんわりと汗がにじむ。
(次は蹴りか、パンチか……どっちだ……!
パニア爺の癖……さっきは右足の位置が……)
パニアが一歩踏み出した。
アデルの視線がパニアの身体の動きを追う。
視線の高さ、肩の傾き、腰の向き——
(くる! 左顔面――!!)
アデルは右腕を上げてガードを作る。
しかし。
パニアは軽く「甘い」と呟き——
ドンッ。
アデルの腹に軽く拳を当てた。
「なっ……!? 今、顔狙ってたよな!?
なんで腹に来るんだよ!!」
アデルが腹を押さえながら叫ぶ。
パニアは肩をすくめた。
「視線誘導じゃよ」
「視線……誘導……?」
子供のアデルには理解が追いつかない。
パニアはアデルの頭を指先で軽く突いた。
「腹を狙う素振りを見せて、顔に行く。
顔を狙う素振りで、腹に行く。
相手の“見ている方向”をわざとずらすことで、隙を作るんじゃ」
アデルは口をぽかんと開けた。
「……そんなの……できねぇよ……」
「できる。わしがやってみせる」
パニアは指を立てる。
「構えんか」
「またかよ……!」
ぶつぶつ言いながらもアデルは構えた。
パニアが動く。
アデルは腹にガードを寄せる。
その瞬間、
ビシッ!
アデルの右頬にパニアの拳が軽く当たる。
「腹を守ったな?」
「だって、そっち見たじゃん……!!」
「それが誘導じゃ。
“腹を狙うぞ”と視線で教えて、腕を下げさせた。
腕が下がれば、顔が開く。
そこに攻撃する」
アデルは驚愕した顔でパニアを見つめる。
「オレ……全部……引っかかってた……?」
「うむ。二回とも見事に、の〜」
パニアは胸を張って笑う。
アデルは悔しそうに歯を噛みしめた。
「くそ……オレ、全然ダメじゃん……!」
「アデルよ、攻撃の時にな、肩に力が入りすぎじゃ。
そういう時は動きが単調になり、読まれやすいんじゃ。
肩の力を抜き、呼吸を整え、
“どう見せるか”を考えながら攻撃するんじゃ」
アデルは黙って聞く。
パニアは腕を組み、厳しく、しかしどこか優しく言う。
「今言った技術はすぐには身につかん。
だが努力すれば必ず強くなる。
そして——」
パニアはアデルの頭にぽんと手を置く。
「わしを超えてみせい、アデル」
アデルの表情が一瞬で明るくなる。
「……パニア爺を超える……?」
「最強になりたいんじゃろ?
わしを倒せん者が、世界で通用するかい」
「よっっっしゃあああああ!!!!
やってやる!! 絶対やってやる!!」
叫ぶアデルの声は、海の向こうまで響いていた。
パニアは耳を押さえながら笑う。
「元気だけは一丁前じゃの〜」
アデルは拳を握り、興奮で跳ね回る。
「パニア爺!! 修行もっともっと厳しくしてくれ!!
オレ、絶対強くなる!!」
「ほっほっほ……その意気じゃ、アデル!
では——組み手再開じゃ!」
「来い!! パニア爺!!!」
少年の声が島に響く。
叫び島の静寂は、その日だけひどく賑やかだった——
組み手は、そこからさらに何十分も続いた。
アデルは何度も転び、砂にまみれ、膝を擦りむきながらも立ち上がる。
「はぁ……はぁっ……くそぉ……! どれだけやっても当たんねぇ……!」
息が切れ、胸が上下に大きく波打つ。
視界もかすみ、汗で髪が頬に張り付いていた。
パニアは逆に、まったくの無傷で、微動だにしていなかった。
「アデル、構えが高いぞ。
それでは下段に弱い。腰を落とせ」
「う、うるせぇ……! 言われなくても……やる……!」
アデルは膝に手をつきながら、ふらつく身体をなんとか起こし、再び構えた。
だが。
パニアはため息をついた。
「……アデルよ。今日はここまでじゃ」
「はぁ? なんでだよ!!
オレまだ……っ、できる……!」
アデルは拳を握りしめ、反抗する。
しかしパニアの表情は珍しく真剣で、静かだった。
「無理をして怪我をするのは、愚か者のすることじゃ。
強くなる前に身体を壊してどうする」
「ぐっ……」
怒りと悔しさで、アデルの喉がきゅっと詰まった。
パニアは背中を向け、焚き火の方へ歩き始める。
「帰るぞ。腹も減ったろう」
アデルは拳を握りしめたまま、ぐっと噛みしめた。
(くそ……オレは……なんでこんなに弱いんだ……
強くなりたいのに……!
パニア爺を超えるんだって決めたのに……!)
その時。
パニアがふと、足を止める。
「アデル」
「……なんだよ」
「お前は、弱くないぞ」
アデルは顔を上げた。
パニアはゆっくり振り返る。
「弱い者はな……“諦める”。
立ち上がらん。挑まん。泣きながらでも向かっていくお前は——弱くない」
アデルの喉の奥が熱くなる。
「パニア爺……」
「だが強さとは、“一度の努力”で掴めるもんじゃない。
積み重ねじゃ。わしも長い年月をかけて強くなった」
パニアはアデルの頭を、ぐしゃっと強く撫でた。
「焦らんでええ。
強くなりたいという気持ちがあるなら——お前は、必ず強くなる」
アデルは唇を噛みしめ、目の端に涙がにじんだ。
「……オレ、絶対……強くなる。
パニア爺を倒して……世界に名前を知らしめて……
父さんと母さんに、オレが生きてるって……証明するんだ……」
パニアは優しく微笑んだ。
「うむ。それでいい」
「でも……パニア爺を倒しても……
オレの親はパニア爺だけだからな……!!」
アデルは、涙と一緒に叫んだ。
パニアは驚き、肩が少し震えた。
「アデル……」
「オレを拾ってくれたのは……パニア爺だ。
育ててくれたのも……守ってくれたのも……
全部パニア爺だ……!!
だから……オレは絶対……強くなって……
パニア爺に胸を張って会う!!
世界中どこに行っても、オレの親はパニア爺だけなんだって……言うんだ……!!」
パニアは視線を落とし、ぐっと目を閉じる。
その瞬間——
皺だらけの目尻に、一筋の涙が滲んだ。
「……馬鹿者が。
そんなことを……真正面から言うんじゃない……
胸が締め付けられるわい……」
アデルは涙を拭き、拳を握った。
パニアは鼻をすすりながら、わざと乱暴にアデルの頭を叩いた。
「泣くな。男が泣くのは、心が折れた時だけでええ。
今のお前の涙は……前に進むための涙じゃ」
アデルは頷いた。
パニアは再び歩き出す。
「帰るぞ。今日は豚魚のスープの残りがある」
「俺、パンも焼く!」
「焦がすなよ。前は真っ黒だったろうが」
「なっ……! あれは……わざと焦がしたんだよ!」
「ならもう一回わざと焦がさずに焼いてみせろ」
「任せろよ!!」
二人の笑い声が小島に響く。
風に乗り、木々がざわざわと囁く。
誰も知らない小さな島で、
少年は今日も“最強”を夢見ていた。
アデルとパニアがかまくらの家へ戻る頃には、空はうっすら橙色に染まりはじめていた。
森の隙間から射す夕陽が長い影を作り、静かな島を金色に照らす。
焚き火の上には、パニアが作った豚魚(とんぎょ)のスープが湯気を立てていた。
白い脂がぷかぷか浮き、魚の香ばしさと野草の香りが漂う。
「腹減ったろ、アデル。ほれ、器をよこせ」
「おう! いっぱい入れてくれよ!」
パニアは大鍋からスープをすくい、どんぶりに豪快によそう。
具材は大きく切った魚の身と、叫び島で採れる特有の根菜だ。
「うおお……うまそ……!!」
アデルはじっと見つめ、唾を飲む。
「食べる前に手を洗え。まったく、お前はすぐ食べようとする」
「わかってるよ!」
川の水で手を洗い、アデルは急ぎ足で戻ってくると、湯気の立つスープにスプーンを突っこんだ。
「……うまっ!! やっぱパニア爺のスープ最高!!」
「ほっほ、食うのが早いのぉ。喉に詰まらせるでないぞ」
「うるせぇ! 食わせろっての!」
スープをがつがつ飲みながら、アデルの顔は幸せで満ちていた。
たくさん殴られ、疲れ切っていた身体に、温かさが染み渡る。
「……なぁ、パニア爺」
アデルがぽつりと言った。
「ん?」
「強くなりたい理由、もうひとつあるんだ」
パニアは視線を向ける。
アデルはスプーンを置き、膝を抱える。
「オレ……この島から出て……この世界を見てみたいんだ。
どんな人がいて、どんな町があって……
魔法が使える人たちがいっぱいいるんだろ?
強い奴も……変な奴も……たくさんいるんだよな?」
「そうじゃの。わしも若い頃、旅をした。いろんな土地を見た。
自然は美しいが、その分だけ、危険も多い」
パニアの声は懐かしむようであり、どこか痛みを含んでいた。
「旅をするには強さがいる。
アデル、お前は魔法が使えん。
普通の人間よりもずっと危険にさらされる」
「だから強くなりたいんだよ!」
アデルは拳を握った。
「オレ……怖いんだ。
何もできない自分のまま……島にずっといるのが……
それが一番の怖さなんだよ」
パニアは目を細めた。
(アデル……お前は……)
アデルの瞳には、不安も、怒りも、焦りも、決意も――全部詰まっていた。
「パニア爺。
オレは、魔法が使えなくても……戦えるようになりたい。
爺ちゃんみたいに……誰にも負けねぇ力がほしい。
そうすりゃ……どこへでも行けるんだろ?」
パニアは鍋の蓋を静かに閉め、アデルの前に座り込んだ。
「魔法が使えん者が強くなる道は、険しい。
血が出ることも、骨が折れることもある。
それでも進む覚悟はあるか?」
アデルは迷わずうなずいた。
「ある!
オレは……自分で選んだ道を歩きたいんだ……!!」
パニアはほんの少し、口元を緩めた。
「……なら、教えてやろう。
魔法を持たぬ者が戦うための……“技術(スキル)”を」
アデルの瞳が大きくなる。
「ほんとに!? 本当に!?」
「ただし……軽い気持ちでやるな。
わしの技は、生半可な気持ちでは身につかん。
痛みを知り、恐怖を知り……
それでも立ち上がる奴にしか教えん」
「立ち上がる! 何度でも立ち上がる!!」
アデルは立ち上がり、拳を握りしめた。
パニアはゆっくり立ち上がった。
「明日の朝から特訓を始める。
覚悟しておけ。今までの組み手とは比べ物にならんぞ」
「お、おう……! どんなのだって耐えてやる!!
オレは最強になるんだ!!」
アデルが笑ったその時。
――ビュウウウウッ
突然、強い風が吹いた。
焚き火の炎が揺れ、木々がざわめく。
アデルは風に手をかざし、不思議そうに目を細めた。
「なんだ……急に風が?」
パニアも同じ方向を見た。
夕暮れの空の端に、かすかに黒い雲がかかっていた。
しかし、まだ遠い。
まだ不吉と呼ぶには弱い影。
ただの雲かもしれない。
パニアはほんの短く息を吸い――
何も言わずにアデルの方へ向き直った。
「気にするな。ただの風じゃ。
さあ、早くスープの残りを食え。冷めるぞ」
「おう!」
アデルはすぐに笑顔を取り戻し、スプーンを握った。
夕陽はゆっくり沈み、島に夜が近づいていく。
少年は、まだ知らない。
この穏やかな島に、遠い未来――大きな影が近づくことを。
夜になり、島は静けさに包まれた。
焚き火の炎はゆらゆらと揺れ、虫の音が優しく夜を満たしている。
アデルは丸太のイスに座り、足をぷらぷらさせながら言った。
「パニア爺、明日の修行って……どんなことするんだ?」
パニアは火ばさみで薪を動かしつつ、ふっと笑う。
「明日からは“基礎の基礎”じゃ。
まずは走り込み。体の使い方、目の使い方……全部叩き込む」
「へへん!走るのは得意だしな!」
「泥ザルを追いかけてるからのう」
パニアが茶化すと、アデルは得意げに胸を張る。
「まあな!あいつらには負けねぇ!」
「ほっほ……なら期待しておるぞ。
明日は気合いを入れていくからの」
「任せろって!」
焚き火がぱちりと弾け、二人の影を揺らす。
パニアは炎を見つめ、少しだけ真剣な声で言った。
「アデルよ……強くなりたい理由、わしはちゃんと聞いた。
“最強”を目指す道は険しい。じゃが……お前なら行ける」
アデルは口をきゅっと引き締めた。
「オレ、絶対強くなる。
泣いても笑っても……最強になるんだ」
「うむ。強くなれ、アデル。
わしを越え、そして――自分自身も越えるんじゃ」
アデルの胸に火が灯るような感覚が走る。
そして勢いよく立ち上がった。
「よーし!寝る!
明日、絶対パニア爺をびびらせてやる!」
パニアも立ち上がり、かまくらの家に向かう。
「ほっほっほ、楽しみにしておる」
しかし――アデルはその場で振り返った。
胸の奥から、何かが噴き出す。
次の瞬間――
「よっしゃあああああああ!!!!」
「やってやらあああああああああ!!!!」
アデルの雄叫びは、夜空を震わせるほどの勢いとなり、
小さな島を越えて、カスボ島の岸辺にまで届いた。
「ほ〜……また随分と大きな声を出したの〜。
声を張り上げると、胸ん中の淀みが取れるじゃろ?」
パニアは耳を塞ぎながらも笑い、アデルも胸を張る。
「パニア爺!!どんどん厳しくしてくれ!!
オレはもっともっと強くなる!!
絶対にパニア爺を一撃で倒してやる!!」
「ほっほっほっ……その意気じゃアデル。
なら早速――組み手じゃ!構えい!」
「望むところだ!!行くぞパニア爺!!」
アデルが地面を蹴り、パニアが静かに腰を落とす。
焚き火が二人の影を大きく揺らした。
その瞬間、世界は少しだけ視点を引く。
ここは、カスボ島の向かいにぽつりと浮かぶ小島。
だが、ただの島ではない。
カスボ村の人々は、この場所をこう呼ぶ。
――『叫び島(さけびじま)』と。
夜になると、風に混じって、遠くへ響く“叫び声”が聞こえる。
人の声か、魔物の声か、それとも島そのものか――誰も確かめたことはない。
ただ、ひとつだけ確かなことがある。
この島で育った一人の少年が、
やがて世界を揺るがす旅へと歩き出す。
今はまだ小さく、弱く、無鉄砲で……
けれど胸の奥には、誰よりも強い“炎”を宿している。
その少年の名は――アデル。
そして、この夜の雄叫びこそが、
彼の物語の第一声となった。
ーーーーー
叫び島 魔物生態
泥ザル
毛が薄く太陽の日差しに弱いため、体に泥を塗っている、その泥には自分の糞も混ざっている、敵が来ると糞入り泥団子を作って敵に投げて逃げる。