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第ニ話  初めての狩り

ー/ー



「リノア、先走るなって!!」

カルレンの怒鳴り声が森に響く。
けれど当の本人は聞こえていないかのように、草むらの向こうを全力で駆けていた。

小さな足は地面に散った落ち葉を蹴り、乾いた音を立てる。
背丈が低い分、くぐれる場所が多い。
細い木の間も、小道のようにすいすい通り抜けていく。

「待てーー!! うさぎちゃん!! ……んもぉ――アネマ!!」

リノアは息を切らしながらも、逃げ道を先読みするように手を突き出す。
掌に集まった光が、螺旋の風となって木の根元へ飛んだ。

だが――

「ぜ、ぜんっぜん当たんない!!」

風弾は木の皮を剥いただけで、うさぎは器用に方向を変えて走り続けた。
光の螺旋が木にめり込み、枝がばらばらと落ちる。
その枝が行く手をふさぎ、追うカルレンは足を取られた。

「リノアーー!! どこ行ったーー!!」

返事はない。

さっきまで見えていた小さな影が、草むらの奥に消えていた。

(……まずい)

焦りが胸を叩く。
森は安全な場所と言っても、あくまで“比較的”安全なのだ。
さっき魔物の匂いは感じなかったはずだが、油断はできない。

その時――

「きゃああああ!!」

近い。
声の方向を確かめる間もなく、カルレンの体は勝手に動いていた。

地面を蹴り、草を押し分け、枝を弾き飛ばし――
茂みを割って視界が開けた。

「っ……!」

リノアが尻もちをついている。
その小さな身体が震え、目の前には――

体長三メートルのビッグボア。

鈍い光を放つ剛毛。
地面を削る太い蹄。
唸り声と共に噴き出す白い鼻息。
突き出た牙が、まるで曲がった刃物のように光っていた。

ビッグボアは頭を低く構え、土を掻いている。

突進の“溜め”だ。

「アネマ!!」

叫ぶと同時、カルレンの風の螺旋が弾丸のように放たれた。
巨体が横へ弾き飛び、樹木に激突して土煙が舞い上がる。
枝が折れる音が重なり、森に衝撃が走った。

リノアは涙で顔をくしゃくしゃにして震えていた。

「大丈夫か!? ケガは!?」

「お、おとうさぁん……っ、こわかった……っ!」

小さな手が父の服を握りしめる。
鼻水と涙で顔がべちゃべちゃだが、そんなことはどうでもよかった。

カルレンはリノアを抱き寄せ、片手で背をゆっくりさすった。

「もう大丈夫だ。俺がいる。絶対に守る」

だがビッグボアはまだ死んでいない。
硬い地面を踏みしめる振動で、父娘は気付く。

巨獣が再び体勢を整えようとしていた。

カルレンはリノアを抱えたまま身構える。

「リノア、聞け」

リノアの震える肩を押さえ、視線を合わせる。

「あいつは、もう一度来る。
 俺が避ける。その隙に――お前が撃て」

「む、無理だよ……! うさぎにも当たらなかったのに……!」

「大丈夫だ。俺の声を信じろ。合図する」

リノアは唇を噛む。
恐怖で足が震え、魔法の構えすら取れない。

それでも――弱く頷いた。

(えらいぞ……リノア)

巨獣の咆哮が森を揺らす。
土煙を上げながら突進が始まった。

カルレンは獣の軌道を見切り、踏み込みの角度を一瞬で判断する。
地面を滑るように外側へ抜け、突進をかわした。

「リノア、今だ!!」

「アネマ・ラミーナ!!」

風が伸びる。
ビッグボアの頬に風刃が掠め、毛が宙に舞い、赤い血が線を描く。

「落ち着け……もう一度!」

「う、うん!!」

怒りで速度を上げる巨獣。
地面が震え、土煙が濃くなる。

カルレンは突進のリズムを完全に読んでいた。
半歩だけ遅らせて踏み込み、最短で外に抜ける軌道へ。

「次で仕留める……
 いくぞ…… 3、2、1――今だ!!」

「アネマ・ラミーナ!!!」

リノアの叫びと風刃が一直線に重なる。
風の刃がビッグボアの顔面に直撃し、巨体がのけぞった。

ドスン。

地面が揺れるほどの重い音を立て、巨獣が崩れ落ちた。

静寂。

風が血の匂いを運ぶ。

「……よくやった、リノア」

カルレンはゆっくりと娘の頭を撫でた。

「わ、わたし……できたの……?」

「命中してる。見事だ」

リノアの小さな手はまだ震えていた。
彼女は倒れた獣を見つめ、呟く。

「おとうさん……まだ息してる……」

「致命傷は入ったが、苦しんでる。
 最後は……俺らが責任を持って、終わらせる」

リノアは怯えたように父を見上げる。

「ころしちゃうの……?」

カルレンは膝をつき、娘の肩に手を置く。

「命は奪うものじゃない。
 生きるために “いただく” んだ。
 理由もなく奪うのは罪だ。
 だが俺たちは生きるために……命を分けてもらう」

リノアは息を呑む。
そして――小さく頷いた。

彼女は獣の額に手を当て、震える声で言った。

「……ありがとうございます」

カルレンは短く息を吐き、ナイフを抜いた。
一閃。

ビッグボアの最後の呻きが漏れ、森が静かになった。
カルレンは深く息を整えると、足元の地面をざっと均した。
魔物の血が飛び散った場所は、残り香で別の魔物を引き寄せる。
森での戦闘後の“後処理”は、生き残る上で最も大事だ。

「リノア、少し離れて見てなさい。ここは鼻が悪い子供には臭いが強い」

「う、うん……」

まだ震えの残る足を引きずりながら、リノアは少し後ろに下がった。

カルレンは素早く周囲を見渡す。
倒木の影、小さな穴、草の揺れ……どこかに“二匹目”が潜んでいないか、訓練された目で確認していく。

(……気配なし。よし、急いで済ませよう)

手際よくナイフを取り出し、巨体の腹へと刃を入れる。
ザクリと切れる感触と共に、温かい蒸気がぶわっと広がった。

「うっ……く、臭い……」

リノアが鼻をつまむ。
カルレンは苦笑した。

「これが、命をいただくってことだ。慣れるものじゃないが、向き合わなきゃいけない」

内臓を引き抜いて地面に置く。
鉄の匂い、湿った草、土の匂いが混ざり合う。
森の静けさの中で、それだけが異質だった。

内臓から熱が逃げると、蝿が寄る前に袋へ移す。
血が流れ出るたび、土がじわりと黒く染まっていく。

「よし。解体は村でやる。リノア、引っ張るぞ」

「うんっ!」

カルレンは周囲の枝を集め、木を組んで簡易の“台”を作った。
そこにビッグボアを乗せ、太い縄で固定していく。

縄が皮毛に食い込み、ずっしりした重みが腕に伝わる。

(あの時……少しでも判断が遅れていたら……)

思い出すだけで背筋が冷たくなる。
だが、その隣でリノアが精一杯引っ張っている小さな背中を見ると、胸の奥がじんと熱くなった。

「よし、帰るか」

「うん!」

二人は並んで森を抜けていく。
木々の間から差し込む光が少しずつ広がり、森の暗さが薄れていく。

足音が土から石に変わり、鳥の声が遠ざかり、かわりに海風の音が混じり始めた。

「……おとうさん」

「ん?」

リノアは少し下を向きながら言う。

「さっき、こわかった……。おとうさんがいなかったら、わたし……」

カルレンは優しい声で返した。

「それでいいんだ。怖いと思えるのは、命を知っている証拠だ」

リノアの歩幅は小さい。
けれど、恐怖を語る声はしっかりしていた。

「この島には騎士もギルドもない。
 自警団はいるが、完全に守れるわけじゃない。
 魔物だけじゃない。自然のほうがよっぽど怖いときもある」

カルレンは立ち止まり、リノアの頭を軽く撫でた。

「怖さを理解して、忘れず、気をつけて生きる。
 それができるなら……リノアはきっと強くなれる」

リノアは小さくうなずいた。

「ありがとう……おとうさん」

カルレンは娘の髪をくしゃっと撫で、穏やかに笑った。

(――レノラ。見ているか? お前の娘は、ちゃんと前を向いてる)



森を抜けると、村の景色が広がった。
潮風に揺れる干し網、畑の薄い金色。
漁具を干す竿、揺れる洗濯物。
すべてが海辺の村の、穏やかな日常だった。

桟橋には月に一度の行商を待つ荷車が止まり、太陽の反射が板の上で揺れていた。

「おーい、ジョルさーん」

カルレンが声をかけると、藁葺きの小屋から、がっしりした体格の男が杖をついて出てきた。

「おお! カルレンにリノアちゃんじゃねぇか! 元気か!」

「俺は元気だ。足の具合はどうだ?」

「ぼちぼちよ。歩けねぇほどじゃねぇ。……って、おいおいおい!
 なんだそのバカでけぇビッグボアは!! 片腕でよく倒したな、ガハハ!!」

カルレンは淡々と答える。

「俺じゃない。リノアだ」

「は? 冗談きっつ……」

ジョルの笑いが止まる。
カルレンが無表情で返すと、ジョルは真顔になった。

「……マジで言ってるか? リノアちゃん」

リノアは恥ずかしそうに小さく頷いた。

「正確には、俺が避けた隙に、リノアが魔法を当てたんだ」

「……ほう」

ジョルはゆっくりと傷口を覗き込む。
硬い毛を押し分け、血の付いた切り口を触る。

「……すげぇな。
 ビッグボアの毛は鋼みてぇに硬い。
 普通の剣でもなかなか通らねぇ。
 それがここまで切れてんのか……」

カルレンはわずかに胸を張り、照れくさそうに笑った。

「俺の娘、すごいだろ」

「まったく大したもんだ! ……よし、解体は任せとけ。
 お前らは一息つけ」

ジョルは腰の布包みから刃物を取り出すと、獣の皮に沿って静かに動かし始めた。

ザリ、ザリ……

規則正しい音が続く。
リノアはその手元をじっと見つめ、ひとつも見逃さないようにと真剣な目つきになっていた。

(……こういうところは、レノラにそっくりだ)

カルレンは思わず笑ってしまう。

「そういえばジョル、ジョンはどこだ?」

「寝てる。さっきまでツノムシ追っかけて暴れてたからな。くたびれて布団に沈んでるだろ」

ジョルはまた皮を剥ぎながら続けた。

「モニカちゃんは?」

刃の動きがほんの一瞬止まった。
カルレンは短く息を吐いてから答える。

「最近、森ばかり入ってる。
 あまり家に戻ってこない」

「おいおい……大丈夫なのかそれ!」

「落ち着け。あの子は強い。俺より強いくらいだ。
 だから大丈夫だ」

カルレンは肩をすくめながら微笑む。

「あいつ、この前も“心配だ”って言ったら、
 『あたしは強いから大丈夫』
 って言い返したんだ。まったく……母さんそっくりで困るよ」

ジョルは吹き出す。

「ははっ! そりゃあ強情だわ!
 ……ほんと、お前んとこはすげぇ娘ばっかだな」

カルレンは苦笑しながら空を見上げた。

潮風が吹き抜け、夕暮れの気配が村に落ち始めていた。
ジョルがビッグボアの皮を剥ぎながら、ふと声を低めた。

「……そういや、お前に言っておきてぇことがある」

カルレンは動きを止めた。
ジョルは周囲を見て、子どもたちの気配がないことを確認してから続ける。

「東のクラマル大陸でな。黒雪が降ったって噂が流れてる」

カルレンの眉がピクリと跳ね、カルレンの瞳が一瞬で強張る。
赤黒い雪――空の裂け目から落ちる災厄。
降れば木は枯れ、大地は赤黒く腐り、マナの低い人の肌はただれ、やがて**食屍鬼(グール)**になる。
一度グールになれば戻らない。

「黒雪……確かか?」

「確証はねぇ。行商人のまた聞きよ。
 ただ……“小規模だが黒い雪が空の裂け目から落ちた”ってな」

カルレンの喉がごくりと動く。
風がひとつ、海側から吹き抜ける。
カルレンはその冷たさを、背中で受けた。

(……聖女の旅まであと八年。
 リノアに、あんなものを……絶対に見せちゃいけない)

拳が、いつの間にか固く握られていた。

「……悪かった、ジョル。声が荒くなった」

「気にすんなよ。お前ならそう言うと思った」

ちょうどそのタイミングで

「カルレンおじちゃーん!!」
「あっ! リノアだー!」

甲高い声が風に乗って届いた。
振り向くと、クロンとニーナが両手をブンブン振りながら駆けてくる。

クロンは鼻水を垂らし、ニーナは花冠を頭にのせて跳ねるように走る。

「行ってこい」とカルレンが顎で合図すると、
リノアはぱっと顔を明るくして走り出した。

「クロン! ニーナ! 久しぶり!!」

「ほんと久しぶりじゃん!」
「リノアちゃん、会えなくて寂しかったよ〜!」

ニーナはリノアの両手を掴んでぶんぶん揺らし、
クロンは鼻をすすりながら胸を張った。

「最近どうしてたんだよ! 全然村に来ねぇし!」

「ごめん~。おとうさんと魔法の特訓してるの」

クロンの目がまん丸になる。

「もう魔法の練習してんの!? 早すぎ!!」

「ニーナがママに言ったらね、
『マナの制御ができないから十歳で習うの』
って言われたんだよ!」

ニーナはぷくっと頬を膨らませる。

「リノアちゃんずるい〜! 先に魔法やってるなんて!」

「そ、そうかな……?」

二人のハモり声が飛ぶ。

「「そうだよ!!」」

「きゃー! わかったってば!」

わいわいと笑う三人の声は、さっきまでの恐怖を洗い流すように明るかった。

するとクロンがぽんと手を叩いた。

「なぁ! ギアンん家行かね? ケーキ作ったって!」

「わぁ、行きたい! 甘いの久しぶり!」

ニーナがすかさず突っ込む。

「リノアちゃん、食べ物って聞くと目の輝きすごいよね〜」

「そ、そんなに!?」

「「そんなに!」」

笑い声が弾けた。

三人が石畳の道を進むと、背後から柔らかな声が響く。

「リノア様。お久しぶりです」

振り向くと、白い修道服のシスターが優しく手を伸ばしていた。

「シスター!!」

リノアは飛びつき、胸元に頬を押しつける。
洗いたての布の匂いと、ほんのり甘い香油の匂いが混ざる。
ニーナが「ちょっとずるい!」と袖を引っ張り、クロンは照れて耳を赤くした。

「シスター、どうしてここに?」とリノア。

「市場に買い物へ。ちょうど戻ってきたところです。
 みなさんは?」

「ギアンん家でケーキ食べるの!」

「まぁ! 羨ましい。……そういえば、ギアンくん、慌てて走っていましたよ。
 みなさんを呼びに行ったのかもしれませんね」

「呼びに? どっち?」

「あちらの道です」

「すれ違いかぁ。迎えに行こ!」

「めんどくせーけどな。呼んでくれたんだし言っとかねぇと」
「ニーナ、ギアンくんには“落ち着いて待つ”って注意します」
「やめてぇ〜〜!!」

わちゃわちゃと騒ぎながら、三人は海辺へ続く小道へ向かった。



潮の匂いが強くなる。
空が開け、海が広がる。
その向こうに――黒い影。

「ギアン!」

呼ぶと、岸辺に立つ吊り目の少年が振り返った。

「みんな……どうしてここに?」

「シスターに聞いた。ギアンが呼びに来たって」

「あ……そっか」

ギアンは額の汗を拭い、うつむいた。

「ぼく……ツノムシが逃げちゃって……追いかけたら、ここまで来ちゃって」

「捕まえられたの?」とリノア。

ギアンは海の向こうを指さした。

「それが……叫び島のほうまで逃げちゃった」

三人の視線が揃って黒い島影へ向く。

叫び島――村人が絶対に近づくなという禁忌の島。

クロンが小声で言う。

「リノア……耳をすませてみろ」

リノアはそっと目を閉じた。
波音、風のざわめき、カモメの声――

その奥で。

「ぎゃあああああ……」
「どりゃああああっ……!」

確かに、叫び声が響く。

「……聞こえる……ほんとに叫んでる……」
リノアは背筋が冷えるのを感じた。

「なぁ、あの島……何がいるの?」
「知らねぇ。親から“絶対近づくな”ってだけ言われてる」

静けさが足元の砂をひんやりさせる。
ニーナがぱんと手を叩いた。

「ギアンくん見つかったし、ケーキ食べに行こ!」

緊張がふっと解ける。
リノアも「うん!」と笑って答えた。

「ギアン、虫はあきらめよ?」
「……うん。ごめん、みんな」

「帰り道、ニーナが説教します」
「なんでぼくだけぇ!?」

笑いながら、四人は島を背にして歩き出した。

波打ち際に四つ並ぶ足跡。
そこに新しい風が通り抜けていく。

リノアは振り返らなかった。
けれど――胸の奥に、あの島から響く叫びがまだ残っていた。

(……知らないものは怖い。でも、怖いとわかるから、気をつけて進める)

五歳の心に、恐怖は“学び”として刻まれた。

――聖女の旅まで、あと八年。

怖さを知り、強くなり、進んでいく。
父の背中は遠くない。
手を伸ばせば、きっと届く。

ーーーーー

後ちょっとだけ、幼少期編続きます!次の展開までもうしばらくお待ちください


皆様!本日も見ていただきありがとうございます!



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「リノア、先走るなって!!」
カルレンの怒鳴り声が森に響く。
けれど当の本人は聞こえていないかのように、草むらの向こうを全力で駆けていた。
小さな足は地面に散った落ち葉を蹴り、乾いた音を立てる。
背丈が低い分、くぐれる場所が多い。
細い木の間も、小道のようにすいすい通り抜けていく。
「待てーー!! うさぎちゃん!! ……んもぉ――アネマ!!」
リノアは息を切らしながらも、逃げ道を先読みするように手を突き出す。
掌に集まった光が、螺旋の風となって木の根元へ飛んだ。
だが――
「ぜ、ぜんっぜん当たんない!!」
風弾は木の皮を剥いただけで、うさぎは器用に方向を変えて走り続けた。
光の螺旋が木にめり込み、枝がばらばらと落ちる。
その枝が行く手をふさぎ、追うカルレンは足を取られた。
「リノアーー!! どこ行ったーー!!」
返事はない。
さっきまで見えていた小さな影が、草むらの奥に消えていた。
(……まずい)
焦りが胸を叩く。
森は安全な場所と言っても、あくまで“比較的”安全なのだ。
さっき魔物の匂いは感じなかったはずだが、油断はできない。
その時――
「きゃああああ!!」
近い。
声の方向を確かめる間もなく、カルレンの体は勝手に動いていた。
地面を蹴り、草を押し分け、枝を弾き飛ばし――
茂みを割って視界が開けた。
「っ……!」
リノアが尻もちをついている。
その小さな身体が震え、目の前には――
体長三メートルのビッグボア。
鈍い光を放つ剛毛。
地面を削る太い蹄。
唸り声と共に噴き出す白い鼻息。
突き出た牙が、まるで曲がった刃物のように光っていた。
ビッグボアは頭を低く構え、土を掻いている。
突進の“溜め”だ。
「アネマ!!」
叫ぶと同時、カルレンの風の螺旋が弾丸のように放たれた。
巨体が横へ弾き飛び、樹木に激突して土煙が舞い上がる。
枝が折れる音が重なり、森に衝撃が走った。
リノアは涙で顔をくしゃくしゃにして震えていた。
「大丈夫か!? ケガは!?」
「お、おとうさぁん……っ、こわかった……っ!」
小さな手が父の服を握りしめる。
鼻水と涙で顔がべちゃべちゃだが、そんなことはどうでもよかった。
カルレンはリノアを抱き寄せ、片手で背をゆっくりさすった。
「もう大丈夫だ。俺がいる。絶対に守る」
だがビッグボアはまだ死んでいない。
硬い地面を踏みしめる振動で、父娘は気付く。
巨獣が再び体勢を整えようとしていた。
カルレンはリノアを抱えたまま身構える。
「リノア、聞け」
リノアの震える肩を押さえ、視線を合わせる。
「あいつは、もう一度来る。
 俺が避ける。その隙に――お前が撃て」
「む、無理だよ……! うさぎにも当たらなかったのに……!」
「大丈夫だ。俺の声を信じろ。合図する」
リノアは唇を噛む。
恐怖で足が震え、魔法の構えすら取れない。
それでも――弱く頷いた。
(えらいぞ……リノア)
巨獣の咆哮が森を揺らす。
土煙を上げながら突進が始まった。
カルレンは獣の軌道を見切り、踏み込みの角度を一瞬で判断する。
地面を滑るように外側へ抜け、突進をかわした。
「リノア、今だ!!」
「アネマ・ラミーナ!!」
風が伸びる。
ビッグボアの頬に風刃が掠め、毛が宙に舞い、赤い血が線を描く。
「落ち着け……もう一度!」
「う、うん!!」
怒りで速度を上げる巨獣。
地面が震え、土煙が濃くなる。
カルレンは突進のリズムを完全に読んでいた。
半歩だけ遅らせて踏み込み、最短で外に抜ける軌道へ。
「次で仕留める……
 いくぞ…… 3、2、1――今だ!!」
「アネマ・ラミーナ!!!」
リノアの叫びと風刃が一直線に重なる。
風の刃がビッグボアの顔面に直撃し、巨体がのけぞった。
ドスン。
地面が揺れるほどの重い音を立て、巨獣が崩れ落ちた。
静寂。
風が血の匂いを運ぶ。
「……よくやった、リノア」
カルレンはゆっくりと娘の頭を撫でた。
「わ、わたし……できたの……?」
「命中してる。見事だ」
リノアの小さな手はまだ震えていた。
彼女は倒れた獣を見つめ、呟く。
「おとうさん……まだ息してる……」
「致命傷は入ったが、苦しんでる。
 最後は……俺らが責任を持って、終わらせる」
リノアは怯えたように父を見上げる。
「ころしちゃうの……?」
カルレンは膝をつき、娘の肩に手を置く。
「命は奪うものじゃない。
 生きるために “いただく” んだ。
 理由もなく奪うのは罪だ。
 だが俺たちは生きるために……命を分けてもらう」
リノアは息を呑む。
そして――小さく頷いた。
彼女は獣の額に手を当て、震える声で言った。
「……ありがとうございます」
カルレンは短く息を吐き、ナイフを抜いた。
一閃。
ビッグボアの最後の呻きが漏れ、森が静かになった。
カルレンは深く息を整えると、足元の地面をざっと均した。
魔物の血が飛び散った場所は、残り香で別の魔物を引き寄せる。
森での戦闘後の“後処理”は、生き残る上で最も大事だ。
「リノア、少し離れて見てなさい。ここは鼻が悪い子供には臭いが強い」
「う、うん……」
まだ震えの残る足を引きずりながら、リノアは少し後ろに下がった。
カルレンは素早く周囲を見渡す。
倒木の影、小さな穴、草の揺れ……どこかに“二匹目”が潜んでいないか、訓練された目で確認していく。
(……気配なし。よし、急いで済ませよう)
手際よくナイフを取り出し、巨体の腹へと刃を入れる。
ザクリと切れる感触と共に、温かい蒸気がぶわっと広がった。
「うっ……く、臭い……」
リノアが鼻をつまむ。
カルレンは苦笑した。
「これが、命をいただくってことだ。慣れるものじゃないが、向き合わなきゃいけない」
内臓を引き抜いて地面に置く。
鉄の匂い、湿った草、土の匂いが混ざり合う。
森の静けさの中で、それだけが異質だった。
内臓から熱が逃げると、蝿が寄る前に袋へ移す。
血が流れ出るたび、土がじわりと黒く染まっていく。
「よし。解体は村でやる。リノア、引っ張るぞ」
「うんっ!」
カルレンは周囲の枝を集め、木を組んで簡易の“台”を作った。
そこにビッグボアを乗せ、太い縄で固定していく。
縄が皮毛に食い込み、ずっしりした重みが腕に伝わる。
(あの時……少しでも判断が遅れていたら……)
思い出すだけで背筋が冷たくなる。
だが、その隣でリノアが精一杯引っ張っている小さな背中を見ると、胸の奥がじんと熱くなった。
「よし、帰るか」
「うん!」
二人は並んで森を抜けていく。
木々の間から差し込む光が少しずつ広がり、森の暗さが薄れていく。
足音が土から石に変わり、鳥の声が遠ざかり、かわりに海風の音が混じり始めた。
「……おとうさん」
「ん?」
リノアは少し下を向きながら言う。
「さっき、こわかった……。おとうさんがいなかったら、わたし……」
カルレンは優しい声で返した。
「それでいいんだ。怖いと思えるのは、命を知っている証拠だ」
リノアの歩幅は小さい。
けれど、恐怖を語る声はしっかりしていた。
「この島には騎士もギルドもない。
 自警団はいるが、完全に守れるわけじゃない。
 魔物だけじゃない。自然のほうがよっぽど怖いときもある」
カルレンは立ち止まり、リノアの頭を軽く撫でた。
「怖さを理解して、忘れず、気をつけて生きる。
 それができるなら……リノアはきっと強くなれる」
リノアは小さくうなずいた。
「ありがとう……おとうさん」
カルレンは娘の髪をくしゃっと撫で、穏やかに笑った。
(――レノラ。見ているか? お前の娘は、ちゃんと前を向いてる)
森を抜けると、村の景色が広がった。
潮風に揺れる干し網、畑の薄い金色。
漁具を干す竿、揺れる洗濯物。
すべてが海辺の村の、穏やかな日常だった。
桟橋には月に一度の行商を待つ荷車が止まり、太陽の反射が板の上で揺れていた。
「おーい、ジョルさーん」
カルレンが声をかけると、藁葺きの小屋から、がっしりした体格の男が杖をついて出てきた。
「おお! カルレンにリノアちゃんじゃねぇか! 元気か!」
「俺は元気だ。足の具合はどうだ?」
「ぼちぼちよ。歩けねぇほどじゃねぇ。……って、おいおいおい!
 なんだそのバカでけぇビッグボアは!! 片腕でよく倒したな、ガハハ!!」
カルレンは淡々と答える。
「俺じゃない。リノアだ」
「は? 冗談きっつ……」
ジョルの笑いが止まる。
カルレンが無表情で返すと、ジョルは真顔になった。
「……マジで言ってるか? リノアちゃん」
リノアは恥ずかしそうに小さく頷いた。
「正確には、俺が避けた隙に、リノアが魔法を当てたんだ」
「……ほう」
ジョルはゆっくりと傷口を覗き込む。
硬い毛を押し分け、血の付いた切り口を触る。
「……すげぇな。
 ビッグボアの毛は鋼みてぇに硬い。
 普通の剣でもなかなか通らねぇ。
 それがここまで切れてんのか……」
カルレンはわずかに胸を張り、照れくさそうに笑った。
「俺の娘、すごいだろ」
「まったく大したもんだ! ……よし、解体は任せとけ。
 お前らは一息つけ」
ジョルは腰の布包みから刃物を取り出すと、獣の皮に沿って静かに動かし始めた。
ザリ、ザリ……
規則正しい音が続く。
リノアはその手元をじっと見つめ、ひとつも見逃さないようにと真剣な目つきになっていた。
(……こういうところは、レノラにそっくりだ)
カルレンは思わず笑ってしまう。
「そういえばジョル、ジョンはどこだ?」
「寝てる。さっきまでツノムシ追っかけて暴れてたからな。くたびれて布団に沈んでるだろ」
ジョルはまた皮を剥ぎながら続けた。
「モニカちゃんは?」
刃の動きがほんの一瞬止まった。
カルレンは短く息を吐いてから答える。
「最近、森ばかり入ってる。
 あまり家に戻ってこない」
「おいおい……大丈夫なのかそれ!」
「落ち着け。あの子は強い。俺より強いくらいだ。
 だから大丈夫だ」
カルレンは肩をすくめながら微笑む。
「あいつ、この前も“心配だ”って言ったら、
 『あたしは強いから大丈夫』
 って言い返したんだ。まったく……母さんそっくりで困るよ」
ジョルは吹き出す。
「ははっ! そりゃあ強情だわ!
 ……ほんと、お前んとこはすげぇ娘ばっかだな」
カルレンは苦笑しながら空を見上げた。
潮風が吹き抜け、夕暮れの気配が村に落ち始めていた。
ジョルがビッグボアの皮を剥ぎながら、ふと声を低めた。
「……そういや、お前に言っておきてぇことがある」
カルレンは動きを止めた。
ジョルは周囲を見て、子どもたちの気配がないことを確認してから続ける。
「東のクラマル大陸でな。黒雪が降ったって噂が流れてる」
カルレンの眉がピクリと跳ね、カルレンの瞳が一瞬で強張る。
赤黒い雪――空の裂け目から落ちる災厄。
降れば木は枯れ、大地は赤黒く腐り、マナの低い人の肌はただれ、やがて**食屍鬼(グール)**になる。
一度グールになれば戻らない。
「黒雪……確かか?」
「確証はねぇ。行商人のまた聞きよ。
 ただ……“小規模だが黒い雪が空の裂け目から落ちた”ってな」
カルレンの喉がごくりと動く。
風がひとつ、海側から吹き抜ける。
カルレンはその冷たさを、背中で受けた。
(……聖女の旅まであと八年。
 リノアに、あんなものを……絶対に見せちゃいけない)
拳が、いつの間にか固く握られていた。
「……悪かった、ジョル。声が荒くなった」
「気にすんなよ。お前ならそう言うと思った」
ちょうどそのタイミングで
「カルレンおじちゃーん!!」
「あっ! リノアだー!」
甲高い声が風に乗って届いた。
振り向くと、クロンとニーナが両手をブンブン振りながら駆けてくる。
クロンは鼻水を垂らし、ニーナは花冠を頭にのせて跳ねるように走る。
「行ってこい」とカルレンが顎で合図すると、
リノアはぱっと顔を明るくして走り出した。
「クロン! ニーナ! 久しぶり!!」
「ほんと久しぶりじゃん!」
「リノアちゃん、会えなくて寂しかったよ〜!」
ニーナはリノアの両手を掴んでぶんぶん揺らし、
クロンは鼻をすすりながら胸を張った。
「最近どうしてたんだよ! 全然村に来ねぇし!」
「ごめん~。おとうさんと魔法の特訓してるの」
クロンの目がまん丸になる。
「もう魔法の練習してんの!? 早すぎ!!」
「ニーナがママに言ったらね、
『マナの制御ができないから十歳で習うの』
って言われたんだよ!」
ニーナはぷくっと頬を膨らませる。
「リノアちゃんずるい〜! 先に魔法やってるなんて!」
「そ、そうかな……?」
二人のハモり声が飛ぶ。
「「そうだよ!!」」
「きゃー! わかったってば!」
わいわいと笑う三人の声は、さっきまでの恐怖を洗い流すように明るかった。
するとクロンがぽんと手を叩いた。
「なぁ! ギアンん家行かね? ケーキ作ったって!」
「わぁ、行きたい! 甘いの久しぶり!」
ニーナがすかさず突っ込む。
「リノアちゃん、食べ物って聞くと目の輝きすごいよね〜」
「そ、そんなに!?」
「「そんなに!」」
笑い声が弾けた。
三人が石畳の道を進むと、背後から柔らかな声が響く。
「リノア様。お久しぶりです」
振り向くと、白い修道服のシスターが優しく手を伸ばしていた。
「シスター!!」
リノアは飛びつき、胸元に頬を押しつける。
洗いたての布の匂いと、ほんのり甘い香油の匂いが混ざる。
ニーナが「ちょっとずるい!」と袖を引っ張り、クロンは照れて耳を赤くした。
「シスター、どうしてここに?」とリノア。
「市場に買い物へ。ちょうど戻ってきたところです。
 みなさんは?」
「ギアンん家でケーキ食べるの!」
「まぁ! 羨ましい。……そういえば、ギアンくん、慌てて走っていましたよ。
 みなさんを呼びに行ったのかもしれませんね」
「呼びに? どっち?」
「あちらの道です」
「すれ違いかぁ。迎えに行こ!」
「めんどくせーけどな。呼んでくれたんだし言っとかねぇと」
「ニーナ、ギアンくんには“落ち着いて待つ”って注意します」
「やめてぇ〜〜!!」
わちゃわちゃと騒ぎながら、三人は海辺へ続く小道へ向かった。
潮の匂いが強くなる。
空が開け、海が広がる。
その向こうに――黒い影。
「ギアン!」
呼ぶと、岸辺に立つ吊り目の少年が振り返った。
「みんな……どうしてここに?」
「シスターに聞いた。ギアンが呼びに来たって」
「あ……そっか」
ギアンは額の汗を拭い、うつむいた。
「ぼく……ツノムシが逃げちゃって……追いかけたら、ここまで来ちゃって」
「捕まえられたの?」とリノア。
ギアンは海の向こうを指さした。
「それが……叫び島のほうまで逃げちゃった」
三人の視線が揃って黒い島影へ向く。
叫び島――村人が絶対に近づくなという禁忌の島。
クロンが小声で言う。
「リノア……耳をすませてみろ」
リノアはそっと目を閉じた。
波音、風のざわめき、カモメの声――
その奥で。
「ぎゃあああああ……」
「どりゃああああっ……!」
確かに、叫び声が響く。
「……聞こえる……ほんとに叫んでる……」
リノアは背筋が冷えるのを感じた。
「なぁ、あの島……何がいるの?」
「知らねぇ。親から“絶対近づくな”ってだけ言われてる」
静けさが足元の砂をひんやりさせる。
ニーナがぱんと手を叩いた。
「ギアンくん見つかったし、ケーキ食べに行こ!」
緊張がふっと解ける。
リノアも「うん!」と笑って答えた。
「ギアン、虫はあきらめよ?」
「……うん。ごめん、みんな」
「帰り道、ニーナが説教します」
「なんでぼくだけぇ!?」
笑いながら、四人は島を背にして歩き出した。
波打ち際に四つ並ぶ足跡。
そこに新しい風が通り抜けていく。
リノアは振り返らなかった。
けれど――胸の奥に、あの島から響く叫びがまだ残っていた。
(……知らないものは怖い。でも、怖いとわかるから、気をつけて進める)
五歳の心に、恐怖は“学び”として刻まれた。
――聖女の旅まで、あと八年。
怖さを知り、強くなり、進んでいく。
父の背中は遠くない。
手を伸ばせば、きっと届く。
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後ちょっとだけ、幼少期編続きます!次の展開までもうしばらくお待ちください
皆様!本日も見ていただきありがとうございます!