高校の卒業式の次の日に髪を紫色に染めた僕を、父は殴った。浪人生になる資格がない。こんなんじゃどこ大にも受かるわけない。父は唾を飛ばして僕を罵倒しながら頭を抱えた。だから余計に、朝顔の色水にヘドロを混ぜたような紫色を、僕は気に入った。
現役時代は高校に行くのがやっとで、勉強なんて出来たものではなかった。綺麗な努力をする同級生がシャーペンを動かす姿は、ありきたりな青春映画のワンシーンのようで、今でもたまに思い出しては軽い吐き気を催す。
国立大学の不合格が出た次の日、長身の青年が家にやってきた。
「今日から担当致します、縫良(ぬいら)と申します。よろしくお願いします」
縫良はお辞儀をし終わると、僕に向かって微笑みかけた。変な洗剤を売りに来るような営業マンと大して変わらない笑みだなと、僕は心の中で嘲笑した。
僕は廊下の壁にもたれかかりそうなくらい壁すれすれを歩いて、縫良を自室まで連れて行った。僕と縫良は90°開くような形で座った。僕の左側に縫良がいると、左手から腐っていきそうだ。
「まず、共通テストの結果から見ると…」
縫良は、君は国語は現代文が得意だとか、理系科目は満遍なく苦手とか、僕が十何回は担任との面談で話したような内容を低い声で言った。僕は間隔を空けては頷くを繰り返しておいた。
「お母様から聞いてるかもしれないですが、僕も一浪なんです」
「…はい」
「浪人は辛いこともありますが、努力は報われることもあります」
2回目の「…はい」を言いながら、鼻で笑いそうになる。部屋の空気が1段濁って、僕の髪色から朝顔の色水を抜いたヘドロような色に包まれる。
「頑張ればいい結果は着いてきます。勉強は、努力が実りやすいですから」
顔を上げて縫良の目を見ると、一重の整った眼がこちらを見ていた。真面目に生きてきましたと言わんばかりに真っ直ぐな眼。大学時代は毎週ボランティアでもしていたに違いない。目を逸らすタイミングを逃して見つめ続けているうちに、僕の内側から笑いが漏れる。目の前の男がさっき言った言葉を反芻すると、笑いに拍車がかかる。
「何か面白いことあったかな?」
「ありましたよ、もう全部が面白い。ギャグかなんかですか?」
「…ごめん、言ってる意味が分かりません。ギャグってどこがですか?」
「まあ、気にしないでください。続けてください」
縫良は怪訝そうにしながら手を膝に置くと、僕に数学の問題集を出すように指示した。
授業の流れは毎回同じだ。僕が事前に問題を解いてきて、分からなかった問題を縫良が解説する。月曜日は数学、水曜日は物理、金曜日は化学で、土曜日が国語。その他の科目は自習で補う。
縫良は、問題との向き合い方や受験までのスケジュールは勿論、ノートの取り方や休憩の取り方に至るまで細かく指導をしてきた。
ノートを取るときは程良く間隔を空けることや休憩時間にスマホを見るのは望ましくないことくらい、YouTubeのshortsやインスタグラムを見ていれば嫌でも知っている。知っていても実践しなかったくらい気怠いことを、縫良は当たり前のように求めてくる。
その「当たり前」を飲み込もうとすると僕の中の紫色が薄れていく気がして、喉の入り口にあったそれを吐き出した。何度言っても出来ない僕を、縫良は常温の眼で見つめてはこう言った。
「もう少しだから、頑張ってみない?」
勉強が出来ない自分を見る度に心がすり減っていくのを感じる。メンタルクリニックに行く頻度は月1回から2回に増え、死にたいと言う度薬は増え続けた。
僕の身体は薬で出来ていて、もう薬無しでは生きられない。薬のおかげで毎日ハッピーというわけでは全く無いうえ、1回飲むのを忘れただけで吐き気と頭痛が止まらなくなる。厄介な身体になってしまった。
もう少しだからと言う縫良に、そうですねと返してシャーペンをノックする。芯が切れているようで、出てこない。暫く無言でシャーペンをノックしてみた。カチカチと、湿った音が部屋に響くだけだった。縫良は僕の筆箱からシャーペンの芯を取り出し、僕に差し出した。僕はそれを無視してノックし続けた。縫良は不思議そうに頭を掻いた。
昨日の勉強時間は何時間?と訊かれ、30分と答えた7月のある日、縫良は僕の物理の問題集を床に投げつけた。
「僕は、ただ、君に合格して欲しくて…」
縫良は、色落ちして黄みがかったピンク色になった僕の髪色みたいに顔を赤くしている。
「だからってそんな大げさな」
「…気が動転してしまって」
「…ねえ、今何歳なの?」
僕は、メンタルクリニックのカウンセラーのような声色で訊いてみる。
「え?」
「今何歳なの?」
「26です」
なんでそんなこと訊くんですか、とは言わなかった。弱っていく縫良を見ていると、僕の受験のせいでメンタルを壊した父を見ているようで、いたたまれなくなる。
「なんで26で家庭教師してんの?」
「え…、今俳優を目指してて、それで、生活費の為にバイトしてるだけです」
縫良は頭の回転が追いつく前に言葉を発しているようで、焦点が定まらない目をしている。
「へえ…。バイトなんだ。だったらさ、そんなに頑張らなくていいよ。バイトでしょ?僕の成績で時給変わるの?」
「変わりませんけど、」
「変わらないんなら別にいいじゃん。僕の為にそんなに頑張るなんて、勿体ないよ」
僕は縫良のせいでページが折り曲がってしまった問題集を拾って、机に置く。
「勿体なくないですよ」
「勿体ないよ、だって僕、勉強出来ないもん」
頭が痛い。昼ご飯のあとの薬を飲み忘れたことに気づく。頭からギシギシと音が鳴りそうだ。
「出来るよ。今からなら、国公立だって狙えるし…」
「無理だよ」
僕は笑いをこらえながら言った。
縫良はぼんやりと僕の胸のあたりを見ていた。
さっき縫良が落とした問題集を手に取り、折り曲がったページを指で弾く。
「ほら。ページ折れちゃった」
「…」
「貴方が落としたから、ページ折れちゃった」
「…」
「もう今日は勉強出来ないね」
机の上の問題集やノートや筆箱を、全て床に落としてみせた。縫良がそれらを拾おうとして、床に手を伸ばす。無防備な縫良の腹を、僕は思い切り蹴ってみる。
縫良はうめき声を上げて床に座り込んだ。歪んだ顔が、ドラマに出てくるイケメン俳優が恋人に振られた時みたいな絶妙に少々余裕のある顔に似ていて、余計に腹が立った。
「先生、…」
僕は縫良のことを初めて“先生”と呼んだ。
「先生なんだから、すぐ起き上がったらどう?」
縫良はゆっくりと身体を起こすと、床に落ちた物を全て拾って机に置き、自由落下するように座った。
僕はもう一度、机の上の物を全て床に落とした。
「なんでそんなことするの?」
「知らん」
どうせ僕に勉強なんて出来ないのだから、勉強道具が机にあろうと床にあろうと関係ない。
縫良はもう一度床の物を全て拾い上げて机の上に並べ、僕の眼を見た。縫良の眼は血走っていて、面白かった。
「今日は物理の気分じゃないんだね」
縫良の声は演技じみていた。
「そうなんです。今日は国語の気分なんですよね」
僕の声は縫良より演劇っぽかっただろうか。
僕は国語の共通テストの対策問題を取り出し、机の上に置いた。こうしたほうが面白いだろうと思って、物理の問題集とノートを床に投げつけた。
縫良は僕の顔を見たまま暫く動かなかった。
「先生、この問題を解説してください。これは2個目の漢文です、聞いてますか?」
優等生のような声色で言うと、縫良はやっと夢から覚めたような顔をして、問題集に向き直った。
「あ…、2個目の漢文ですね。やりましょう」
その日は、僕も縫良も謝罪の言葉を口にしなかった。明後日も縫良は何食わぬ顔で化学を教えに来るだろう。その時までに髪を染め直したい衝動に駆られて、僕は明日の美容室を予約した。
髪を明るい紫色にして家に帰ると、母が洗濯物を干すための部屋で服を干していた。
「ただいま」
母は僕を振り返ると、髪色を見てため息をついた。
「また染めたの?お父さん怒るよ」
何か不都合なことがあれば父を出してくるのは昔から変わらない。
この部屋だけ湿度が高くて気持ち悪い。
「家庭教師の方はどうなの?」
「どうって、普通」
「普通ってなんなのよ」
「塾でようわからん授業を受けるよりいいんじゃない」
僕の浪人生活を家庭教師に管理させると決めたのは母だ。息子は普通の子よりも勉強に対するやる気が足りない。一対一で見てくれる人を探さなければ。
母の予想は当たらずとも遠からず。普通の予備校に行ったとしてもまず精神を病んで帰ってくるの1択だが、一対一で管理する人が見つかったくらいで勉強のやる気が出るくらい単純な僕なら、とっくに現役で合格しているはずだ。
「先生が褒めてらっしゃったわよ、最近は勉強に対する姿勢が良くなってきたって」
「そう、ふぅん」
母は縫良に多大なる信頼を寄せている。彼が一浪であることも、母にとっては安心材料だ。
「今、大学はどこ目指してるとかあるの?」
「知らん。どうせどこ大も受からないから」
「そんなことないでしょ、先生と一緒に頑張れば国公立も目指せるって言ってらっしゃったわよ」
母は丁寧に服の皺を伸ばし、ハンガーに掛けていく。僕のことは一切見ずに。
「へえ、じゃあそうなんじゃない」
僕は部屋を出て、乱暴にドアを閉めた。
ちょっとなによ、こんな暴力的な子に育てた覚えは無いわよ、と母の声がする。
2階の自分の部屋に逃げ込み、鏡を見てみた。染めたばかりの髪を撫でてみた。ブリーチで傷んでいるくせにトリートメント代をケチってきたので、チリチリになってしまった。まあでも、悪くないな。十字架上で流されたキリストの血を象徴するクリスマスの赤に似ていたらもっと良かったのにと思ったりした。
窓の外で蝉が鳴いていた。
翌日の授業日、縫良は化学の参考書を持ってやって来た。僕の髪色に触れずにいつもの微笑みを浮かべて椅子に座り、よろしくお願いしますと言った。
「昨日は何の勉強をしたの?」
「なぁ〜んにも、してないです」
「なんにも?」
「そう、なぁ〜んにも」
僕は背もたれに深くもたれかかり、縫良が爆発するのを待った。
「そう、分かった。じゃあ今日の勉強始めようか」
縫良は自分の黒髪を手ぐしで梳いて今日の化学のページを開いた。
「でも、予習してないんですよ」
「じゃあ、問題解くところからすればいいですよ」
縫良の笑みは穏やかで、それが僕の心を逆撫でた。
ボイル・シャルルの法則を使った問題を解かないといけない。
「先生、全部、分かんない」
「大丈夫、法則の確認から、順番にやっていこうか」
縫良が僕の問題集に手を伸ばす。僕はその血管が浮いた右腕を持ち上げ、手首に噛みついた。湿気た煎餅と煮干しを同時に噛んだような感触が歯に伝わってくる。
縫良は顔をしかめることすらせず、歯のエナメル質に挟まれた自分の腕をぼんやりと見ていた。
僕は更に顎に力を込めた。縫良の手首の骨が僕の歯とぶつかり合い、蝕みあっていきそうだ。
「すみません、痛いです」
縫良の喉から発せられた声は冷房で冷やされて固まっていく。腕から口を離すと、唾液の糸を引いた。縫良はそれを左手で拭き取ると、右腕に付いた唾液を塗り込んでいった。
「じゃあ、法則の確認から。」
一定量の気体において体積(V)が圧力(P)に反比例し、絶対温度(T)に比例する。理想気体においてのみ成り立つ式。
縫良が淡々と話すのを聞きながら、口の中の感覚を確かめてみた。産毛のない滑らかな手首の触り心地が、舌に染み付いていた。
縫良の腕には、僕の歯並びの良くない歯形が黄色く刻まれている。もう少ししたら赤くなるのが楽しみだ。