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第9話 ことだま:後編

ー/ー



 事故死と聞いた。
 転落死だった。

 萌花はその場にいたわけではないから、その時の詳しい状況を知っているわけではない。でも、あとから聞いた話だけでも、思うところはあった。転落。それって、もしかして、――自殺では、ないのか。

 その時、萌花は迷っていた。夏帆と疎遠になりながら、自分は、彼女のことを本当に好きになることはできないだろうか、と。夏帆から告白されるまで、萌花の中には、同性と恋愛をするという選択肢や考えがまったくなかった。でもあらためて考えてみたら、それって、そんなに無理なことなんだろうか。

 実際、萌花は異性とまともな恋愛をした経験があるわけではなかった。恋愛、という感情で本気で人を好きになったりしたことはないし、――もちろん、幼稚園のときの淡い初恋とか、中学や高校で、これって恋愛感情なのかなあ、なんていう曖昧な気持ちは経験したことはあったけれど――お付き合い、みたいなこともしたことはなかった。ならばなぜ、同性が相手ではダメなんだろう。

 夏帆に告白をされたときだって、別に嫌悪感とかは湧かなかった。夏帆のことはそれでもずっと好きだった。これが恋愛感情になっていかないとは言えない。好きなってみる、ことからはじめたって、いいんじゃないだろうか。だって自分は、彼女のことが好きだ。その好きは自覚的には友達として、先輩として、だったけれど、違うものになるかもしれない。そのくらいには、彼女が好きだ。自分の好きと彼女の好きが違っていたら彼女を傷つける。そちらの方が、嫌だった。でもそう思えるなら、これはもう、恋愛感情のはじまりくらいにはなっているのでは。いたの、では。

 そんなことでぐるぐるして、結果として距離を置くことを選んだことを、萌花はひどく後悔した。夏帆は、萌花に嫌われたと思ったろうか。もし、自殺だったとしたら、自分の行動が彼女にそれを選ばせてしまったのだとしたら、どうしたらいいんだろうか。

 いまさら遅い、ということはわかっている。もちろん遅い。遅すぎる。彼女はいなくなってしまったのだから。でも、だとしてもせめて、もう一度でいい、会って、伝えたくて。自分は、伝え方も行動も間違った。

 この期に及んで自分の気持ちはまだよくわからないし、感傷や後悔のせいでいいかんげんな結論も出したくない。でもたぶん、自分は彼女のことを好きになれた。もっと早く、自分自身がそれに気が付いていれば。いや、そういうふうに、はじめから彼女に伝えられたら。なにより、自分は。あなたに、生きていて欲しかった。


       ☆


 冷たい空気と、赤く灼けた、裸電球に色セロファンを張りつけたみたいな鮮やかな空。
 その空の光を受けて、逆光気味になった鳥居は、黒い影絵のように見える。
 そこに、ふと紛れ込んできた気配が――皇柚真人の気を引いた。

 気配は、鳥居のもとにあり、それもまた、影絵のような人影だった。
 けれども柚真人が目を凝らすと、女性だな、ということがわかる。すらりとした、均整の取れた背格好の、美人だ。
 神社はちょうど参拝時間の終わりを迎えたところで、境内には他に人影もない。他の職員は、社務所の中で事務仕事に勤しんでいるところだった。

 彼女は、じっとその場に立っている。
 だが、何かもの言いたげだなということはわかって、柚真人は彼女に呼びかけた。

「……なにか?」

 すると彼女からは、

「……宮司さん、でいいですか?」

 と返ってきた。

「見ての通りだ。……あなたになら、わかると思うが」

 そう、柚真人は応じる。

 その先の言葉を待って、柚真人が待っていると、彼女は少しの間を置いて続けた。

「お願い、したいことがあるんです」
「おねがい」
「はい。……かまいませんか?」
「それは、ことと次第によりますね。ですが……まずうかがいましょうか。なぜ、ここに?」
「……それは、…………あの子が……」

 彼女の答えに、柚真人は、ぴく、と肩眉を動かした。

「あの子が、こちらにお邪魔したと思うんです。 それで」

 伝えて欲しいことがあって――と、彼女は云う。あの子、という言い方と、こちらにお邪魔した、という言い方とで、思い当たる節はあった。

「もしかして、中里萌花さんとなにか縁が?」

 柚真人は少し額の奥に力を入れるような感じでさらに目を凝らそうとした。しかし、彼女自身にそれほどの余力がないのか、通常であれば柚真人には読み取れるような事柄が彼女からは読み取れない。

 まあ、普通こんなふうにして神社にやってきたり柚真人の前に現れたりする者は、自ら何かを発しようという強い意思を持っているものである。けれど、彼女からはそういうものも感じられない。どちらかというと、大変に不本意ながら仕方なくここを訪れたのだという感じがした。

「……縁、というほどのものはないのだと思います。でも、あの子が、私のせいで、こんなところまできてしまったようなので」
「こんなところとはご挨拶ですね」
「……でも、ここは、本来ならあんなふうにあんな子が来ちゃいけないところでしょう? ……私も、そのつもりで……もう、あの子には二度とかかわらないで逝こうとしていたんです。だって、そうするべきですもの」
「――……」

 なるほど、あの中里萌花という娘が、なにやら必死に訴えるわりには、その相手の気配が感じられないと思っていたが。
 どうやらそういうことだったのか。
 この女性は、ずいぶんとしっかりしていて、潔い心の持ち主であるようだ。そうして、お互いに伝えたいことがあると願うはずの相手のことを、正しく深く想っている。

「あなたのお名前を、うかがいましょう」

 柚真人は、彼女には答えずに訊いた。
 この季節は、陽の落ちるのが早く、夕暮れ時だなと思うとすぐに暗くなってくる。ついさっきまで赤く灼けていた空は疾く暗く色をなくしはじめており、彼女の姿も闇に飲み込まれそうだ。

「……神崎、夏帆、といいます」
「神崎さん。神崎、夏帆さん。それがあなたのお名前ですね」
「……ええ。…………ああ、宮司さんて、すごいんですね。……いま、あなたに呼ばれたら、どうしてか、少し、楽になりました」

 柚真人が、彼女の名前を復唱したからだ。そこに、祝詞に似た力を込めた。彼女がそう感じたのなら、それは祝詞を介した黄泉の女神の加護のようなものだ。もちろん、発声や音でそれを仲介するのは、神職の力だが。

 彼女は、ふだん柚真人のような生業の人間が接する者と違って、素直に現世を離れることを心から受け入れてしまっている。残す想いも、基本的には無い。だから、逆にここに留まるための力をそれほど持っていないのだ。

「それはなにより。で、あなたのお願い、というのは?」

 そして柚真人は、神崎夏帆という女性が、中里萌花という女性にとって、どういう存在であったかを、神崎夏帆が語る言葉で知った。
 

      ☆


 中里萌花がふたたび神社にやってきたのは、それから1週間ほど後の早朝だった。

 その2日前に、柚真人は彼女から電話で相談を受けており、早朝と時間を指定したのが柚真人だったのだ。
 柚真人としては、中里萌花から再度の連絡があるだろうことはその時点でわかっており、早朝を指定したのはそれが色々な意味で都合の良い時間帯だったため。
 
 ひとつには、まだ神社にひとけがない。そして、早朝かわたれどきは此の世の1日に2度ある、現世と幽世の境目があやふやになる時間帯のうち、より清浄な気配の強い方であったためだ。

 ちなみに時計では、午前6時を過ぎたところで、来客に備えて社務所の電灯は点けておいたが、あたりはまだ暗い。天候は良くない予報で暗くとも曇天なのがわかるが、もうしばらくすると、空ははっきりと夜明けの色になってくるだろう。

「早朝の暗いうちから、ご足労すみませんでしたね」

 待ち合わせにと指定した時間に、ちゃんと境内にあらわれた中里萌花に対して、柚真人はきちんと敬意を表した。
 こちら側の事情で少々非常識な時間での来社をお願いしたという自覚はある。応えて行動してくれたことには彼女の覚悟が感じられた。おまけに今の時期は寒さもある。言葉を交わすと吐く息もが白くこぼれる寒さのなか、ひとりでこんなところにやってくるのは彼女としても思うところはあったろう。

「……説明、していただけるんですよね」

 コートに手袋、マフラーといった出で立ちの中里萌花が少し剣のある雰囲気でそういったのは、柚真人のせいだ。対する柚真人は普段と変わらぬ白衣に袴で、彼女を迎えていた。

「もちろんです」

 柚真人は頷いた。
 そうして、

「実は、彼女のためでして」

 萌花は怪訝そうな反応を見せた。しかし、彼女という柚真人の言葉と、そのすぐあとで柚真人と彼女との間に浮かび上がるようにあらわれたひとつの人影に、次第に目を見開いていく。

「うそ」

 そんな声がおそらくは反射的にであろう萌花の唇からはこぼれ出た。

「…………夏帆」
 
 

 神崎夏帆と名乗る女性――の御霊――がこの神社にあらわれた時、柚真人は彼女にあることを頼まれた。そして、それを聞き届けるためにひとつ条件を出した。

 彼女の頼みとは、中里萌花が柚真人に対して頼もうとしたことに似ていた。彼女は、中里萌花に伝えて欲しいことがあるのだ、と柚真人に訴えた。伝えて欲しいことがある、と、つまり彼女たちは双方が言うのだ。

 もっとも、神崎夏帆の方は、もともとはそのつもりがなかった。しかし中里萌花の行動が、自らの死を受け入れて現世を離れようとしていた夏帆を引き戻してしまったというべきか。
 そこまで至ってしまったとなると、神崎夏帆は自らそうは望んでいなかったのに、黄泉への道を見失うことになってしまう。なので柚真人は、彼女たち双方の願いに手を貸さざるをえなくなった――といえた。

 そのために、柚真人が夏帆に課した条件は、では自身で中里萌花にここへ来るよう伝えなさい、ということ。彼女自身が何を望むのか、迷わないためにはっきりした意思を持ってもらうためだった。執着や怨嗟などの余分なものを霊から取り祓っていく普段とは、真逆のやり方だ。

 それを萌花に伝えると、萌花が目を瞠った。

「え……じゃあ、あれって夏帆……が……?」

 萌花からすると、ここ数日、原因不明の不気味な現象に悩まされていた、といったところだろう。柚真人は相談を受けた電話でそう聞いた。そして柚真人もその時は具体的なことは返答しなかった。
 自身が誤って呼び寄せた者に悩まされた後であったこともあって、萌花自身、夏帆のことよりもその時のことの方が強く頭にあったようで、それについて本当に大丈夫なのかと怖がっていた。
 大丈夫だということと、それは気にしないで神社にもう一度来るようにとその時に柚真人は返したのだった。

「でも……宮司さん、夏帆のことなんてなにも……私の身の回りにはそういう気配は無いって、言いましたよね?」
「はい。彼女はその後、あなたの身を案じてこちら側に引き戻されてしまった……とでもいいましょうか」

 柚真人は萌花と夏帆を交互に見遣った。本来、夏帆の霊力と萌花の感受性では、このような交差は起こらないだろう。ここが皇神社の境内で、今がかわたれどきであり、柚真人の助力があるので、萌花は夏帆の姿を見ることが出来ている。

 ただ、それでも声は届くまい。ゆえに、神崎夏帆が望んだことを、柚真人は萌花に伝えることにする。この状況がもっとも説得力があるだろう――と、柚真人が考えて選んだ、祓いの舞台でもあった。これは。

「神崎夏帆さんは、あなたのご友人ですね」

 柚真人は確認するように問うた。これに萌花は答えなかったが、その理由は柚真人にもわかっていた。友人という簡単な言い方で語れるなら、萌花も夏帆もこんな事態にはなっていない。それについては夏帆から、伝えられていた。
 柚真人は続けた。

「あなたに、伝えたいことがあるそうです。――自分は、単なる事故死であったと。そうして、自分のことについては何も気に止まないで欲しいと」
「――」
「もともと、夏帆さんは、あなたが自分の死に捕らわれることはないだろうと思っていたようです。そのこともあって、死後、速やかに自分の死を受け入れた。もちろん、あなたに迷惑をかけたくないという気持ちもあったでしょう。……ただ、それだけのことだと」
「――」

 それを聞いた萌花の顔は、すこし歪んだように見えた。

「……それだけ、って」
「夏帆さんは、あなたを大切に想っていた、ということです。だから、まだはじまってもいなかった関係を、あとに残してあなたを縛りたくないと」

 自分の死で、あの子を縛ることば絶対にしたくないんです。あの子だってまだ大学生だし、この先、どんな人とどんな未来が待っているのかわからないから。自分の死を、あの子のこれからの人生のシミみたいなものにしたくないんです。
 夏帆はそう言っていた。

 そうして、柚真人は萌花にはこう告げた。

「――いまなら、あなたの言葉も彼女に伝わりますよ」


     ☆


「……あの、宮司さん」

 萌花がふと、柚真人に尋ねた。自分の言葉を神崎夏帆に伝え、この場で、しっかりと彼女を見送った後で。

 空はすっかり白み、夜は明けていた。
 いわゆるあの世とこの世が交錯し、その境目が少しあやふやになる時間帯の終わりだ。その変わり目の潮にのって、神崎夏帆は今度こそきちんと此岸を離れた。

「夏帆の言っていたこと、本当なんですよね?」
「本当、とは?」
「自殺じゃなかった。事故死だった、って」

 萌花の方はどうしてもそれが気になっているらしい。そこは間違いないことなので、柚真人は肯定した。

「はい、事故でした」
「……どうして」
「理不尽なことは、いつ、だれのところにでも、起きえます。ただひとつ言えるのは、あなたのせいではないし、あなたにはどうすることもできなかった、ということでしょう。それもまた、残酷なことかもしれませんが」

 萌花は、夏帆に、生きていて欲しかった、と言った。
 夏帆には、それで充分だったことだろう。

「……ありがとう、ございました。お手数、おかけしました」
 萌花はそういって、頭を下げた。その声は、今になって、やっと少し震えたように、柚真人の耳には聞こえた。



 中里萌花が鳥居をくぐって境内を去っていくのを見送ったのち、柚真人は反対方向へむかって踵をかえす。
 その時、ふと。
 目の前に白いものがチラついた。
 天候は夜半から重い曇天で、天気予報でもそのような予報はされていたが、雪――が、舞い出したようだ。

「――…………」

 その瞬間、目の前に広がる光景が、柚真人の中で、遠い記憶に重なった。
 いつぞやにも、こんなことがあった。

 早朝、雪の舞い散る曇天の下で、――あれも確かその年の冬の少し早い初雪だった――あの時は、道ならない恋路の果てに自ら命を絶った女性を、見送った。
 あれはまだ自分が高校生になったばかりの頃で、司もこの家にいた。司は、柚真人のしていること、つまりは家の稼業であるのだが、それに強い拒絶反応を示し、日々、怒ったようなそぶりのしたに怯えた顔を隠していたっけ。

 伝えられずに、届く先を失う言葉がある。
 思えばそれは、自らにも還ってくることだ。

 柚真人は夜明けのぼんやりした薄く鈍い青色から、やがてすっかり白くなった雲に覆われた空を見上げた。昇ってきたはずの太陽を厚く隠してその輝きだけをうっすらと通す雲の下で、思うのは、消えてしまった妹のこと。

 あの時。
 まさかこんなことになるとは予想も出来ず、ただ司のためを思って、司に向けて放った言葉は、司に伝えたい言葉ではなかった。だが本当に伝えたい言葉は、司にだけは向けてはいけない言葉でもあった。だから柚真人は言ったのだ。撤回しろ、自分に触れるな、と。

 今になって考えるに、では何をどう伝えるべきだったのか。答えがでているのかと言えば、そうでもない。柚真人は、まだ迷いの中にいる。

 それでも、やみくもにでも司を取り戻さなければ、と思っている間は、なりふりかまわず、なにも考えずに、いられた。しかし現在、おそらく再会は間近に現実のものになりつつあるようだ。その可能性がやっと自分のもとにもたらされた時、柚真人はわずかながら怖さを覚えた。現時点で彼女に対して最後に向けたことになる自分の言葉を、そして態度を、彼女はどう受け止めたのだろう。その彼女が、自分に対していったいどう向き合おうとするのだろう。そして何より、ふたたび確かに彼女とまみえたとき、自分は、どうするべきなんだろう。

 自分の伝えたい言葉は、まだ行き先を失っていないが。
 取返しのつかないことになる前に、選択肢を誤るわけにはいかない。
 だからといって、怯みはしないが。
 ただ、ひとつ。
 ここからの道筋を、絶対に、ひとつとして、何があっても、間違えないようにしなければならない。
 そう、思う。

 ふ、と空に向かって息を吐くと、それが白くなって、空気に溶けた。
 境内は静まり返っていて、雪が次第にあたりの玉砂利を濡らしていく。

 さて、とはいえとりあえずは日々の業務だ。
 柚真人がそう思った時だった。
 背後から、聞き覚えのある声がする。

「おおーい、ゆまとおー!」

 振り向くと、その声の主、見慣れた顔の主がいた。
 橘飛鳥だ。
 そういえば、そろそろ職員の出勤時間か。いや、まだちょっと早い気がするが。と思った柚真人のところまで、飛鳥は傘もささずに急ぎ足でやってきた。

「てかどうしたの。こんな時間にこんなところで」

 飛鳥は自らまだ少々早いのではと心の中に湧いた柚真人の考えを肯定した。

「それは話せばちょっと長いが。お前こそどうした。まだ早いだろう」

 柚真人がいうと、飛鳥の返事はこうだ。

「おねがーい。朝ごはん食べさせて」
「は?」
「朝ごはん。今日、ちょっと余裕なくてさー。ほら、新嘗祭の時のご飯の友が、まだ残ってるでしょ」
「…………」

 そりゃ、遺ってはいるし、食べてもらえればそれに越したことはないのだが。
 それにしても、朝いちでやってきて朝ごはんはないもんだ。

「息子になんとかしてもらえよ、朝飯ぐらい」

 と呆れ気味に返すと、飛鳥は情けない声を出した。

「息子ぉ、今反抗期でぇ」
「反抗期ィ?」

 橘飛鳥は独身だが実は息子がいる。年齢はまだ高校生で、飛鳥とは同居しているはずだ。この息子がどうして未婚の飛鳥の息子なのかということはまた別の話で、話せば長くなる経緯が――ある。

「しょうがないな。俺もまだだし、これから米炊くからちょっと待ってろ」

 ほんとうにしょうがないなあ、という気持ち半分、こいつらしいなあ、という気持ち半分、柚真人は答えた。


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 事故死と聞いた。
 転落死だった。
 萌花はその場にいたわけではないから、その時の詳しい状況を知っているわけではない。でも、あとから聞いた話だけでも、思うところはあった。転落。それって、もしかして、――自殺では、ないのか。
 その時、萌花は迷っていた。夏帆と疎遠になりながら、自分は、彼女のことを本当に好きになることはできないだろうか、と。夏帆から告白されるまで、萌花の中には、同性と恋愛をするという選択肢や考えがまったくなかった。でもあらためて考えてみたら、それって、そんなに無理なことなんだろうか。
 実際、萌花は異性とまともな恋愛をした経験があるわけではなかった。恋愛、という感情で本気で人を好きになったりしたことはないし、――もちろん、幼稚園のときの淡い初恋とか、中学や高校で、これって恋愛感情なのかなあ、なんていう曖昧な気持ちは経験したことはあったけれど――お付き合い、みたいなこともしたことはなかった。ならばなぜ、同性が相手ではダメなんだろう。
 夏帆に告白をされたときだって、別に嫌悪感とかは湧かなかった。夏帆のことはそれでもずっと好きだった。これが恋愛感情になっていかないとは言えない。好きなってみる、ことからはじめたって、いいんじゃないだろうか。だって自分は、彼女のことが好きだ。その好きは自覚的には友達として、先輩として、だったけれど、違うものになるかもしれない。そのくらいには、彼女が好きだ。自分の好きと彼女の好きが違っていたら彼女を傷つける。そちらの方が、嫌だった。でもそう思えるなら、これはもう、恋愛感情のはじまりくらいにはなっているのでは。いたの、では。
 そんなことでぐるぐるして、結果として距離を置くことを選んだことを、萌花はひどく後悔した。夏帆は、萌花に嫌われたと思ったろうか。もし、自殺だったとしたら、自分の行動が彼女にそれを選ばせてしまったのだとしたら、どうしたらいいんだろうか。
 いまさら遅い、ということはわかっている。もちろん遅い。遅すぎる。彼女はいなくなってしまったのだから。でも、だとしてもせめて、もう一度でいい、会って、伝えたくて。自分は、伝え方も行動も間違った。
 この期に及んで自分の気持ちはまだよくわからないし、感傷や後悔のせいでいいかんげんな結論も出したくない。でもたぶん、自分は彼女のことを好きになれた。もっと早く、自分自身がそれに気が付いていれば。いや、そういうふうに、はじめから彼女に伝えられたら。なにより、自分は。あなたに、生きていて欲しかった。
       ☆
 冷たい空気と、赤く灼けた、裸電球に色セロファンを張りつけたみたいな鮮やかな空。
 その空の光を受けて、逆光気味になった鳥居は、黒い影絵のように見える。
 そこに、ふと紛れ込んできた気配が――皇柚真人の気を引いた。
 気配は、鳥居のもとにあり、それもまた、影絵のような人影だった。
 けれども柚真人が目を凝らすと、女性だな、ということがわかる。すらりとした、均整の取れた背格好の、美人だ。
 神社はちょうど参拝時間の終わりを迎えたところで、境内には他に人影もない。他の職員は、社務所の中で事務仕事に勤しんでいるところだった。
 彼女は、じっとその場に立っている。
 だが、何かもの言いたげだなということはわかって、柚真人は彼女に呼びかけた。
「……なにか?」
 すると彼女からは、
「……宮司さん、でいいですか?」
 と返ってきた。
「見ての通りだ。……あなたになら、わかると思うが」
 そう、柚真人は応じる。
 その先の言葉を待って、柚真人が待っていると、彼女は少しの間を置いて続けた。
「お願い、したいことがあるんです」
「おねがい」
「はい。……かまいませんか?」
「それは、ことと次第によりますね。ですが……まずうかがいましょうか。なぜ、ここに?」
「……それは、…………あの子が……」
 彼女の答えに、柚真人は、ぴく、と肩眉を動かした。
「あの子が、こちらにお邪魔したと思うんです。 それで」
 伝えて欲しいことがあって――と、彼女は云う。あの子、という言い方と、こちらにお邪魔した、という言い方とで、思い当たる節はあった。
「もしかして、中里萌花さんとなにか縁が?」
 柚真人は少し額の奥に力を入れるような感じでさらに目を凝らそうとした。しかし、彼女自身にそれほどの余力がないのか、通常であれば柚真人には読み取れるような事柄が彼女からは読み取れない。
 まあ、普通こんなふうにして神社にやってきたり柚真人の前に現れたりする者は、自ら何かを発しようという強い意思を持っているものである。けれど、彼女からはそういうものも感じられない。どちらかというと、大変に不本意ながら仕方なくここを訪れたのだという感じがした。
「……縁、というほどのものはないのだと思います。でも、あの子が、私のせいで、こんなところまできてしまったようなので」
「こんなところとはご挨拶ですね」
「……でも、ここは、本来ならあんなふうにあんな子が来ちゃいけないところでしょう? ……私も、そのつもりで……もう、あの子には二度とかかわらないで逝こうとしていたんです。だって、そうするべきですもの」
「――……」
 なるほど、あの中里萌花という娘が、なにやら必死に訴えるわりには、その相手の気配が感じられないと思っていたが。
 どうやらそういうことだったのか。
 この女性は、ずいぶんとしっかりしていて、潔い心の持ち主であるようだ。そうして、お互いに伝えたいことがあると願うはずの相手のことを、正しく深く想っている。
「あなたのお名前を、うかがいましょう」
 柚真人は、彼女には答えずに訊いた。
 この季節は、陽の落ちるのが早く、夕暮れ時だなと思うとすぐに暗くなってくる。ついさっきまで赤く灼けていた空は疾く暗く色をなくしはじめており、彼女の姿も闇に飲み込まれそうだ。
「……神崎、夏帆、といいます」
「神崎さん。神崎、夏帆さん。それがあなたのお名前ですね」
「……ええ。…………ああ、宮司さんて、すごいんですね。……いま、あなたに呼ばれたら、どうしてか、少し、楽になりました」
 柚真人が、彼女の名前を復唱したからだ。そこに、祝詞に似た力を込めた。彼女がそう感じたのなら、それは祝詞を介した黄泉の女神の加護のようなものだ。もちろん、発声や音でそれを仲介するのは、神職の力だが。
 彼女は、ふだん柚真人のような生業の人間が接する者と違って、素直に現世を離れることを心から受け入れてしまっている。残す想いも、基本的には無い。だから、逆にここに留まるための力をそれほど持っていないのだ。
「それはなにより。で、あなたのお願い、というのは?」
 そして柚真人は、神崎夏帆という女性が、中里萌花という女性にとって、どういう存在であったかを、神崎夏帆が語る言葉で知った。
      ☆
 中里萌花がふたたび神社にやってきたのは、それから1週間ほど後の早朝だった。
 その2日前に、柚真人は彼女から電話で相談を受けており、早朝と時間を指定したのが柚真人だったのだ。
 柚真人としては、中里萌花から再度の連絡があるだろうことはその時点でわかっており、早朝を指定したのはそれが色々な意味で都合の良い時間帯だったため。
 ひとつには、まだ神社にひとけがない。そして、早朝かわたれどきは此の世の1日に2度ある、現世と幽世の境目があやふやになる時間帯のうち、より清浄な気配の強い方であったためだ。
 ちなみに時計では、午前6時を過ぎたところで、来客に備えて社務所の電灯は点けておいたが、あたりはまだ暗い。天候は良くない予報で暗くとも曇天なのがわかるが、もうしばらくすると、空ははっきりと夜明けの色になってくるだろう。
「早朝の暗いうちから、ご足労すみませんでしたね」
 待ち合わせにと指定した時間に、ちゃんと境内にあらわれた中里萌花に対して、柚真人はきちんと敬意を表した。
 こちら側の事情で少々非常識な時間での来社をお願いしたという自覚はある。応えて行動してくれたことには彼女の覚悟が感じられた。おまけに今の時期は寒さもある。言葉を交わすと吐く息もが白くこぼれる寒さのなか、ひとりでこんなところにやってくるのは彼女としても思うところはあったろう。
「……説明、していただけるんですよね」
 コートに手袋、マフラーといった出で立ちの中里萌花が少し剣のある雰囲気でそういったのは、柚真人のせいだ。対する柚真人は普段と変わらぬ白衣に袴で、彼女を迎えていた。
「もちろんです」
 柚真人は頷いた。
 そうして、
「実は、彼女のためでして」
 萌花は怪訝そうな反応を見せた。しかし、彼女という柚真人の言葉と、そのすぐあとで柚真人と彼女との間に浮かび上がるようにあらわれたひとつの人影に、次第に目を見開いていく。
「うそ」
 そんな声がおそらくは反射的にであろう萌花の唇からはこぼれ出た。
「…………夏帆」
 神崎夏帆と名乗る女性――の御霊――がこの神社にあらわれた時、柚真人は彼女にあることを頼まれた。そして、それを聞き届けるためにひとつ条件を出した。
 彼女の頼みとは、中里萌花が柚真人に対して頼もうとしたことに似ていた。彼女は、中里萌花に伝えて欲しいことがあるのだ、と柚真人に訴えた。伝えて欲しいことがある、と、つまり彼女たちは双方が言うのだ。
 もっとも、神崎夏帆の方は、もともとはそのつもりがなかった。しかし中里萌花の行動が、自らの死を受け入れて現世を離れようとしていた夏帆を引き戻してしまったというべきか。
 そこまで至ってしまったとなると、神崎夏帆は自らそうは望んでいなかったのに、黄泉への道を見失うことになってしまう。なので柚真人は、彼女たち双方の願いに手を貸さざるをえなくなった――といえた。
 そのために、柚真人が夏帆に課した条件は、では自身で中里萌花にここへ来るよう伝えなさい、ということ。彼女自身が何を望むのか、迷わないためにはっきりした意思を持ってもらうためだった。執着や怨嗟などの余分なものを霊から取り祓っていく普段とは、真逆のやり方だ。
 それを萌花に伝えると、萌花が目を瞠った。
「え……じゃあ、あれって夏帆……が……?」
 萌花からすると、ここ数日、原因不明の不気味な現象に悩まされていた、といったところだろう。柚真人は相談を受けた電話でそう聞いた。そして柚真人もその時は具体的なことは返答しなかった。
 自身が誤って呼び寄せた者に悩まされた後であったこともあって、萌花自身、夏帆のことよりもその時のことの方が強く頭にあったようで、それについて本当に大丈夫なのかと怖がっていた。
 大丈夫だということと、それは気にしないで神社にもう一度来るようにとその時に柚真人は返したのだった。
「でも……宮司さん、夏帆のことなんてなにも……私の身の回りにはそういう気配は無いって、言いましたよね?」
「はい。彼女はその後、あなたの身を案じてこちら側に引き戻されてしまった……とでもいいましょうか」
 柚真人は萌花と夏帆を交互に見遣った。本来、夏帆の霊力と萌花の感受性では、このような交差は起こらないだろう。ここが皇神社の境内で、今がかわたれどきであり、柚真人の助力があるので、萌花は夏帆の姿を見ることが出来ている。
 ただ、それでも声は届くまい。ゆえに、神崎夏帆が望んだことを、柚真人は萌花に伝えることにする。この状況がもっとも説得力があるだろう――と、柚真人が考えて選んだ、祓いの舞台でもあった。これは。
「神崎夏帆さんは、あなたのご友人ですね」
 柚真人は確認するように問うた。これに萌花は答えなかったが、その理由は柚真人にもわかっていた。友人という簡単な言い方で語れるなら、萌花も夏帆もこんな事態にはなっていない。それについては夏帆から、伝えられていた。
 柚真人は続けた。
「あなたに、伝えたいことがあるそうです。――自分は、単なる事故死であったと。そうして、自分のことについては何も気に止まないで欲しいと」
「――」
「もともと、夏帆さんは、あなたが自分の死に捕らわれることはないだろうと思っていたようです。そのこともあって、死後、速やかに自分の死を受け入れた。もちろん、あなたに迷惑をかけたくないという気持ちもあったでしょう。……ただ、それだけのことだと」
「――」
 それを聞いた萌花の顔は、すこし歪んだように見えた。
「……それだけ、って」
「夏帆さんは、あなたを大切に想っていた、ということです。だから、まだはじまってもいなかった関係を、あとに残してあなたを縛りたくないと」
 自分の死で、あの子を縛ることば絶対にしたくないんです。あの子だってまだ大学生だし、この先、どんな人とどんな未来が待っているのかわからないから。自分の死を、あの子のこれからの人生のシミみたいなものにしたくないんです。
 夏帆はそう言っていた。
 そうして、柚真人は萌花にはこう告げた。
「――いまなら、あなたの言葉も彼女に伝わりますよ」
     ☆
「……あの、宮司さん」
 萌花がふと、柚真人に尋ねた。自分の言葉を神崎夏帆に伝え、この場で、しっかりと彼女を見送った後で。
 空はすっかり白み、夜は明けていた。
 いわゆるあの世とこの世が交錯し、その境目が少しあやふやになる時間帯の終わりだ。その変わり目の潮にのって、神崎夏帆は今度こそきちんと此岸を離れた。
「夏帆の言っていたこと、本当なんですよね?」
「本当、とは?」
「自殺じゃなかった。事故死だった、って」
 萌花の方はどうしてもそれが気になっているらしい。そこは間違いないことなので、柚真人は肯定した。
「はい、事故でした」
「……どうして」
「理不尽なことは、いつ、だれのところにでも、起きえます。ただひとつ言えるのは、あなたのせいではないし、あなたにはどうすることもできなかった、ということでしょう。それもまた、残酷なことかもしれませんが」
 萌花は、夏帆に、生きていて欲しかった、と言った。
 夏帆には、それで充分だったことだろう。
「……ありがとう、ございました。お手数、おかけしました」
 萌花はそういって、頭を下げた。その声は、今になって、やっと少し震えたように、柚真人の耳には聞こえた。
 中里萌花が鳥居をくぐって境内を去っていくのを見送ったのち、柚真人は反対方向へむかって踵をかえす。
 その時、ふと。
 目の前に白いものがチラついた。
 天候は夜半から重い曇天で、天気予報でもそのような予報はされていたが、雪――が、舞い出したようだ。
「――…………」
 その瞬間、目の前に広がる光景が、柚真人の中で、遠い記憶に重なった。
 いつぞやにも、こんなことがあった。
 早朝、雪の舞い散る曇天の下で、――あれも確かその年の冬の少し早い初雪だった――あの時は、道ならない恋路の果てに自ら命を絶った女性を、見送った。
 あれはまだ自分が高校生になったばかりの頃で、司もこの家にいた。司は、柚真人のしていること、つまりは家の稼業であるのだが、それに強い拒絶反応を示し、日々、怒ったようなそぶりのしたに怯えた顔を隠していたっけ。
 伝えられずに、届く先を失う言葉がある。
 思えばそれは、自らにも還ってくることだ。
 柚真人は夜明けのぼんやりした薄く鈍い青色から、やがてすっかり白くなった雲に覆われた空を見上げた。昇ってきたはずの太陽を厚く隠してその輝きだけをうっすらと通す雲の下で、思うのは、消えてしまった妹のこと。
 あの時。
 まさかこんなことになるとは予想も出来ず、ただ司のためを思って、司に向けて放った言葉は、司に伝えたい言葉ではなかった。だが本当に伝えたい言葉は、司にだけは向けてはいけない言葉でもあった。だから柚真人は言ったのだ。撤回しろ、自分に触れるな、と。
 今になって考えるに、では何をどう伝えるべきだったのか。答えがでているのかと言えば、そうでもない。柚真人は、まだ迷いの中にいる。
 それでも、やみくもにでも司を取り戻さなければ、と思っている間は、なりふりかまわず、なにも考えずに、いられた。しかし現在、おそらく再会は間近に現実のものになりつつあるようだ。その可能性がやっと自分のもとにもたらされた時、柚真人はわずかながら怖さを覚えた。現時点で彼女に対して最後に向けたことになる自分の言葉を、そして態度を、彼女はどう受け止めたのだろう。その彼女が、自分に対していったいどう向き合おうとするのだろう。そして何より、ふたたび確かに彼女とまみえたとき、自分は、どうするべきなんだろう。
 自分の伝えたい言葉は、まだ行き先を失っていないが。
 取返しのつかないことになる前に、選択肢を誤るわけにはいかない。
 だからといって、怯みはしないが。
 ただ、ひとつ。
 ここからの道筋を、絶対に、ひとつとして、何があっても、間違えないようにしなければならない。
 そう、思う。
 ふ、と空に向かって息を吐くと、それが白くなって、空気に溶けた。
 境内は静まり返っていて、雪が次第にあたりの玉砂利を濡らしていく。
 さて、とはいえとりあえずは日々の業務だ。
 柚真人がそう思った時だった。
 背後から、聞き覚えのある声がする。
「おおーい、ゆまとおー!」
 振り向くと、その声の主、見慣れた顔の主がいた。
 橘飛鳥だ。
 そういえば、そろそろ職員の出勤時間か。いや、まだちょっと早い気がするが。と思った柚真人のところまで、飛鳥は傘もささずに急ぎ足でやってきた。
「てかどうしたの。こんな時間にこんなところで」
 飛鳥は自らまだ少々早いのではと心の中に湧いた柚真人の考えを肯定した。
「それは話せばちょっと長いが。お前こそどうした。まだ早いだろう」
 柚真人がいうと、飛鳥の返事はこうだ。
「おねがーい。朝ごはん食べさせて」
「は?」
「朝ごはん。今日、ちょっと余裕なくてさー。ほら、新嘗祭の時のご飯の友が、まだ残ってるでしょ」
「…………」
 そりゃ、遺ってはいるし、食べてもらえればそれに越したことはないのだが。
 それにしても、朝いちでやってきて朝ごはんはないもんだ。
「息子になんとかしてもらえよ、朝飯ぐらい」
 と呆れ気味に返すと、飛鳥は情けない声を出した。
「息子ぉ、今反抗期でぇ」
「反抗期ィ?」
 橘飛鳥は独身だが実は息子がいる。年齢はまだ高校生で、飛鳥とは同居しているはずだ。この息子がどうして未婚の飛鳥の息子なのかということはまた別の話で、話せば長くなる経緯が――ある。
「しょうがないな。俺もまだだし、これから米炊くからちょっと待ってろ」
 ほんとうにしょうがないなあ、という気持ち半分、こいつらしいなあ、という気持ち半分、柚真人は答えた。