目が覚めると、傍らに、不気味なぐらい面差しの整った、ものすごく綺麗な人がいた。
その人は、自分の顔をそこから見下ろして、
「もう大丈夫ですよ」
と、言った。
「まだ少し不調を感じるかもしれませんが。時間が経てば半日ほどで回復すると思います」
その時、自分の目から把握できたのは、自分が自分の部屋の寝台に寝ていたことと、知らない綺麗な男の人が自分の部屋にいたことと、その後ろに、両親の不安そうな顔があったこと。
あたし。
どうして。
しばらく意識はぼんやりとしたところを漂っていて、これはいったいどういう状況なのかと考えた。
考えて。
次第に、事の次第を思い出す。
思い出したら、自然と涙が出て来て、ゆっくりと瞬きをするとその涙があふれて流れていった。
そうか。
そうだ。
無茶苦茶なことをして、むちゃくちゃなことになってしまったっていう自覚はある。だけど、そんなことをしてみても、叶えたいことは叶わなかった。
自分の傍らにいる、誰だかまったく見当もつかない男の人は、『もう大丈夫ですよ』と言った。だけど、なにも。なにも、大丈夫じゃない。
あたし。
なにやってるんだろう――。
☆
ここのところ、皇邸での夕食の卓がにぎやかだ。
まあ、にぎやかと言っても実際に神職たちが食卓を囲んでいる間は基本的には黙食だから、誰も口を開かない。でも、食卓のうえにはいつにもまして彩よくいろいろなものが並んでいたし、食事が終わって一拝一拍手すれば黙食はそこまでとなる。
ここのところ、とは、11月の新嘗祭以降、ということで、ゆえにこれは毎年の常でもあった。
新嘗祭は全国一般的にも神社にとって大事な行事で、いわゆる一年の米の収穫に感謝をする祭禮だ。祭禮では、その年の新穀を神前に供え、その供え物を神からの賜りものとして、人の側でも共に食するならわしがある。
皇神社では、さらにこれが毎年、人の通常の食卓においても新米解禁の時ともなっており――とくに当代の宮司が正式に皇柚真人になってからは、その食卓に、同時に、大量の『ごはんの友』が用意されることとなっていた。
その『ごはんの友』があるために、しばらくの間、食卓がにぎやかになるのだ。
食後の拝と拍手を終えると、
「今日は……もうちょっと入りませんわ……俺の、明日のぶん、とっといて……とくにその……無限青唐辛子……やばい。新米が消える」
うう、と軽くうめくような声を出して畳に両手をついてから飛鳥が言う。
その様子を呆れたようなまなざしで眺めつつ、
「その歳で子供みたいなことをおっしゃいますわねえ、毎年。まあ、柚真人さまのお料理は美味しいですから、そうなりますのも致し方ありませんけれど」
と緋月が苦笑した。
飛鳥は唇を尖らせて応じる。
「だってー。……それに今は貴重だもん。柚真人くんがごはん食べさしてくれる機会がさあ」
新米とごはんの友の会が催されているこの間は、居間のテーブルに白米の入ったお櫃やら件のごはんの友の諸々やら取り皿やら日本酒やらが並べられていた。そのテーブルを、柚真人はもちろん飛鳥と緋月、それに優麻が囲んでいる。
実のところこの時期は、新嘗祭だけでなく、年末年始に向かって神社がひたすらに忙しくなる時期でもある。ゆえに、時には非常勤の神職や神職以外の職員たちがここに混ざることもままあった。彼らにも、宮司である柚真人の料理の腕は好評なのだ。
ただ、今は他に職員の参加はない。飛鳥が緋月の苦笑を誘うような態度で柚真人に気安い物言いをしているのは、だからでもあった。
柚真人もまた、そんな飛鳥にしかたないなというような苦笑いを向けながら、片付けのために席を立つ。
昔はよくこんなことをしていたし、料理をするのもその後片付けをするのも柚真人は嫌いではなかった。
ゆえに、立場は上下関係となる飛鳥たちが満腹で動けないと言って居間の畳の上でダラダラしていても、とくに思うところはない。
さすがに緋月は、私がやりますと気遣ってくれるが、柚真人はたいがいそれも制する。つまるところ、台所は自分の城のようなものであるのかもしれない。
しかしこの時は、すこし経ってから優麻が、皇邸の台所の方へと顔を出した。
「べつに、手伝いならいいぞ。さっき緋月にも言ったが」
柚真人が返すと、優麻は穏やかにこう返してくる。
「お茶を淹れようと思いまして」
そして、勝手知ったる具合で台所の戸棚から茶器や茶葉の缶を取り出した後で。
「……それはそうと。少し、浮かない顔をしているように見受けられます」
「――」
「今日は、出張でのお祓いがありましたよね。もしかして……なにか、ありましたか?」
洗い物のため、シンクの前に立っていた柚真人が、問いかけに応じて優麻の方を見遣れば、優麻もこちらをうかがっていた。相変わらず、その表情や雰囲気はおだやかなものだったが。
こいつには気づかれるか、と思う柚真人だ。まあ、それもいつものことではあるので、これはすでにやや諦観を孕んだものである。
今日のいわゆる仕事に対して、確かに優麻の指摘の通り、気になることがあるにはあった。ただ、そこを深堀するのは祓い事を依頼してきた依頼人の希望の範疇外に――いまのところは――なるので、ちょっとひっかかるなあ、とずっと考えていたのだ。
柚真人の微妙な迷いや思考の燻ぶりを、優麻はきちんと嗅ぎ分ける。そして、柚真人に質すべきだろうと自身が判断した場合は、こうやって様子をうかがってくる。
柚真人は少しの間、無言で思案した。
それから、泡だらけのスポンジで食器を洗っていた手を止める。この感覚を、果たしてなんと説明すればよいものか。
「んー、まあ。なんてことはないんだが。ちょっと中途半端だったかなあ、と思ってさ」
「中途半端?」
「そ」
「……めずらしいですね」
そう。どちらかというと柚真人は、何事も常にすっぱりさっぱり綺麗に片付けたい質で、仕事のやり方についても同様だ。
だからこそ、なんとなくキレの悪い後味のようなものを感じているのだった。
とはいえ、問題がある、というほどのことでもない。それに現状では、終わった仕事だ。
ひと月ほど前から、様子がおかしくなり、起き上がれなくなり、部屋からも出て来なくなってしまった娘の様子を見て欲しい、という、娘の両親からの依頼だった。それ自体は良くある祓いの仕事で、祓うべきものは祓った。ただ――。
両親によれば何日かぶりに意識を回復したのだという娘が、事態を把握したように見えたあとで、流した――涙。
それがどうにも、安堵や安心、開放感といったものを感じさせるものではなく。
柚真人の中に、なんとも微妙な、いつにない、ひっかかりを残したのである。
「なにかあれば、すぐに言ってくださいよ」
と、優麻。
これにはちょっと笑いながら、柚真人は返した。
「いまんとこ、これは弁護士先生の助けを借りる系の仕事じゃあないよ。――大丈夫」
☆
自分で中途半端な仕事をしたなと思った手前、なんとなくそういうこともあるかもしれないという予感はあった。
見覚えのある女性が、皇神社にやってきたのは、それから一週間ほど後のことになる。
その日、柚真人は、本殿でひとつ日常的な祭礼を終えたところを、社務所を預けていた緋月に呼ばれた。そこには、ベージュのコートを着た少しばかり陰鬱な感じのする若い女性が立っていた。
「アポイントなどはないとのことでしたけど、お時間ありますでしょうか? 柚真人さま?」
緋月が、社務所の中から柚真人にうかがう。本殿からやってきて社務所の前で女性と対面した柚真人は、緋月を見遣り、軽く頷いた。
「ちょうど時間は空いてる」
そうして、
「確か、|中里《なかざと》――|萌花《もえか》さん、でしたよね?」
女性の方に向き直って、そう問いかける。
今度は、問いかけられた女性の方が、頷いた。
社務所の前ではなんなので、柚真人は女性――中里萌花を、ひとまず参道脇の拝殿の手前あたりまで連れて行った。彼女がここへやってきたということは、何かしら思うところがあるということだろう。彼女こそ、柚真人が先日、なんとなくすっきりしない懸念を残しつつ仕事を終えたことにした祓い事の対象だ。
「あの……両親から、連絡先を聞いて。すみません……あれはもう終わったことだと、両親は思っているみたいなんですけど、どうしてもその……気になることが、あって」
そう、萌花は柚真人の前で紡ぎ出した。
「あれから、ここの神社のことを少し調べたんです。そうしたら、ここは黄泉の神様を祀る神社だって出ていて。宮司さんは、死んだ人と話ができるみたいだ、とかっていう噂もあって。あの……あなたが、ここの宮司さん、ですよね?」
そう問われれば、柚真人には頷くより他にない。まあ、最近のネットの中に書きたてられている事柄については一概には頷きかねることも多々あるのだけれど、彼女が柚真人に問いたいのだろうことは、なんとなく柚真人にはこの時点で察しがついていた。
「……立ち話、で済ませたいお話ではなさそうですね?」
彼女にそう向けてみると、彼女は先日の祓い事では拭いきれなかったような暗い――というか、どこか沈痛な感じの色を宿した瞳を、困ったように彷徨わせる。
そこにあるのが自分の気がかりと同じものを示しているのだろうということは、先日、柚真人が彼女にお祓いを施した時からわかっていた。同時に、わかっていながらそのままにしたのは、それが、柚真人の側からさらに踏み込んで暴き立てるような話ではなさそうなものだったからだった。
だから、あるいは、と思っていたのだ。
こんなふうに、彼女が後から、自分で話にくるのではないかと。
柚真人は、彼女を皇邸の居間の方に案内することにした。
皇の特殊な仕事としての除霊や死者祓に関することについては、たいていここで相談を受けることにしている。
皇邸は神社の拝殿と本殿の背後にあり、玄関を入ってすぐ左手が居間になる。そこに彼女を通しておいて、自分では台所でお茶を淹れ、柚真人は居間に戻ってきた。
彼女に一応お茶をすすめてから、お話をうかがいましょう、あれから何かありましたか、と彼女に向かって尋ねると。
中里萌花はすこし言葉を探しているようだったが、やがておずおずこう言った。
「……死んだ、人に。……もう、死んでしまった人に。どうしても、どうしても伝えたいことがある場合って。どうしたらいいですか」
なるほどそれが彼女の願いか、と柚真人は思った。
それで、か。
「……そのために、もしかして……降霊か何かを試しましたか」
「……」
「それで、あなたは、本来呼びたかった人とは違うものを呼び寄せてしまい、憑りつかれてしまった」
「………………はい。あの……その節は、すみませんでした。本当にその……ありがとうございました」
先日の、祓い事のあらましは、この、中里萌花という娘が、何か正体のわからないものに憑かれているのではないかという、彼女の両親からの相談が元だった。中里萌花は大学の三回生で、本来であれば学校の講義もバイトもある。なのに夏の休暇が終わった頃から体調を崩しはじめ、このひと月は部屋からでてこず、どうも様子が普通ではないのだ、と、彼女の両親は言っていた。
柚真人が様子をみたところ、彼女は三体ほどの、もうかつては人であったという人格すらも溶け落ちてしまったかのような、質の悪い怨念の名残とでもいうべき死者の御霊を背負いこんでしまっていた。だが、両親の話によれば娘にそのようなものに憑かれるような心当たりはなく、心霊だのオカルトだのといったものとも彼女はまったく無縁な生活を送っていた。
ゆえに、彼女に憑いたものをとり祓い、祓った御霊はしかるべきところへ送り届ける、それだけの儀式をして、柚真人はいったん仕事を終えたのだ。
ただ、ひとつ思ったことは。
縁がないなら、普通はこんな、自力では人に寄ることも出来なくなってしまったであろう、放っておいても無害であろう、ぼろぼろの死者の御霊がよってたかって人に憑りついたりはしない。ならば、彼女自身が自分でこれを呼びこんだのではないか、と推測できるということだった。
しかし、表向き、彼女にそのような傾向はない。となればそこまで踏み込むのは、その時点では、不要であろう。そう、柚真人は判断したのだ。
もとより、変にオカルトにのめり込んで戻れなくなっていそうだとか、背後に事件性があるとか、さらに不用意なことをしでかしそうだとか、そういった危険性は感じられなかった。だから、これでことが解決するなら、それでよかろうとも思った。彼女が自我を取り戻した時に、双眸から静かにあふれさせた涙に、やや思いつめたものを感じはしたものの。それで彼女が正気に立ち戻れるのであれば、特に問題はないだろう、と。
だが。
「どうしても……伝えたいことがあっ……、あるんです。どうしても。それで、私……」
対面に座った柚真人の目を、やや必至な具合で見返してきてそう言い募る彼女の様子を見たところでは、どうも柚真人が考えていたよりも根は深そうだった。
一般的にいっても、もしもそれが叶うなら。そう考える者は別に少なくはないだろう。もちろん普通はそんなことはできっこないと誰だってわかっている。
けれど、わかっていても、そう願わずにいられない者は、いる。その感情自体はとくに珍しいことではない。
とはいえ、と柚真人はまず答えた。
「何か事情があるのはお察しします。ですが、落ち着いて考えてみてください。あなたがどなたに対してそう仰るのかはわかりませんが、亡くなってしまった人に対しては、たいがい、どんなことも取り返しがつきません」
死、とはそういうものである。此岸を離れた魂には、現世からの言葉は届かない。もちろん例外はあって、そういう場合は、言われなくとも柚真人のような存在が仲介に入る。けれど、今回に限って言えば、彼女には、彼女に対して何かを伝えたがっている霊のようなものも憑いてはいない。柚真人が祓い事をしたときも、そうだった。
「試したあなたが一番よく理解しているんじゃないかと思いますが?」
ところが萌花は、食い下がるように、言うのだ。
「あの。それは、宮司さんでも……ですか」
「……というと?」
「ネットで、この神社のことを調べた、って言いましたよね? ここの宮司さんなら、そういうお願いも、聞いてくれそう、的なことが書いてあったんですけど……」
「……」
「この間の、お祓いのことは本当に、あの、ご迷惑おかけしたと思っています。私が、どうかしていたな、ってことも、わかっているつもりです。でも、それとこれとは別にして、……その……もしかしたら、と思ったんです……」
ネット、ねえ。そう思いつつ、柚真人は小さく鼻を鳴らした。
人の口には戸は立てられない。この神社が請け負う仕事は、確かにかなり特殊なものだし、世は常にオカルトや超常現象が大好きだ。もちろんネットに書かれた内容や噂話を鵜呑みにする人間がそれほど多いわけではない。そのうえで、いまや全世界規模で繋がって動いている情報網への対処はできるだけ講じているものの、こういうことも、あるにはある。
柚真人は少しばかり、今の時代とネットをメンドクサイことになったもんだなと苦々しく恨んだ。
「それはあくまで噂ですよ」
と、柚真人はまず答えた。
もちろんこの答えは時と場合と相手と状況によって変わりうる。しかし今のところは、これが彼女に向けるには最善の答えだと思った。
「それに……確かに、私は亡くなられた方の姿や声を|霊視《み》たり|霊聴《き》いたりはします。でも、見たところいまのあなたには、そういった……気配がありません。先日お宅で祓ったものもちゃんとあなたからは離れている。なにも残さずこの世から旅立った人は、こちらに生きて残された者とはすでに隔たっています。見送った側としては、多くの場合、たとえそれが円満で穏やかな旅立ちであったとしても、何かしらの悔いや思い残しを抱えるものです。でもそれは、あなたが生きている以上、自分でなんとか受け入れて、生きていくしかありません」
たとえば死んだ人にもう一度会いたいとか、もう一度話がしたいとか、それこそこの女性のように伝えたいことがあるだとか。そういう思いがある方が、普通だ。しかしそれは叶わないのが通常の生死の理である。
皇の宮司である柚真人に出来るのは、その理を変えたり捻じ曲げたりすることではない。死してなお迷い、その末に行く道を失った者や、我を見失うほどの穢れに溺れ怨嗟を手放せなくなってしまった者に、逝くべき道を示すことだけである。祓戸大神の巫として。
彼女の願いに呼応するような存在が、彼女に憑いて離れないとでもいうのであればともかく、彼女にはそういったものが感じられない。
彼女が困ったような顔をして言葉を詰まらせているので、柚真人はもうひと押し、彼女に決定的なことを向けてみることにした。そこに触れなければそれでよかろうと判断していたことだったけれど。
「先日、私が祓ったものが、あなたに憑いていたその理由を――うかがっても?」
すると彼女は、よりなにか追い詰められたよう反応をした。そのことについてはどうやら、話したくはないようだ。しかし。
「もちろん無理にとは言いませんが、お話を聞くぐらいであれば、できます。それで楽になるならここで話していかれることをおすすめします」
中里萌花は、しばらく逡巡していた。
だがやがて、何かを振り切るように、ぎゅっと唇を引き結ぶような仕草をして。
「……すみません。今日のお話は、すべて忘れてください」
もうしわけなさそうに、そう、絞り出した。
まさに、絞り出したというのがよくその様子を言い表してる。そんな言い方だった。
彼女の方からすると、気まずさや、いたたまれなさのようなものもあったのかもしれない。
とはいえ、そういう反応にも柚真人は慣れている。人の死に囚われている人間は、無茶なことや、荒唐無稽なことも言いがちだ。特にネットなどで胡乱な噂や情報を拾ってしまった場合などはとくに。
そのまま辞するというので、柚真人は了解して、中里萌花を見送ることにした。ひとつ、素人が降霊をしようなんてことをすると、ろくなことにはならない。二度としない方が良いとだけ忠告をして。
それにしても。
彼女はいったい誰を亡くしたというのだろう。
あれだけ必死になるのだから、彼女に親しい人間ではあろう。だが、両親は自分の娘について柚真人に説明する時に、そのような類のことを匂わせもしなかった。友人や、恋人。そんな感じの位置にある、あれほど彼女が必死になる人間を彼女が亡くしているのであれば、むしろ真っ先に不調の心当たりとして訴えたであろう。
柚真人が首を傾げるほどに、何も感じられないというのもめずらしいことだった。
☆
バカげたことを不躾に訴えたな、と中里萌花は少し自分の行動を後悔した。
あの、どうにもこの世のものとも思えないような整った面差しの神主さんに、何も言えなかったのは、その、まるでこちらを気押してくるような雰囲気のせいもあったと思う。美貌、というのはそれだけで迫力だ。しかも、相手はそれに拍車をかけるような真っ白な神職服を身に着けていて、それがまた異様――に、厳粛で清浄な空気を萌花に感じさせた。神社の宮司とはいえ、あんな人間がいるんだ、と思った。まあ、最初にあの神主さんが自分の部屋で自分の顔をのぞきこんでいたときにも、同じことは思ったけれど。
人、というにはあまりにも。端正で、凛然としていて、すべてを撥ねつけるようで、こちらが何か――まるで、裁かれているみたいで。
もちろん、自分の中には後ろめたさもあったから、それがまた悪かったのだろう。
神社を出た後、電車を乗り継いで自宅に戻った。自宅に戻った頃にはすっかり日も暮れていて、自分の部屋に向かおうとしたら、母親がまだ心配そうに、すぐに夕食だからね、と言った。
その言葉を耳にしながら自室のある二階にあがった萌花は、コートを脱いでハンガーにかけ、自室のクローゼットにしまいながら、――この夏の終わり、三月ほど前に亡くした人のことを想った。
その人の名前は、|神崎《かんざき》|夏帆《かほ》という。
夏帆は、いわゆる大学でのひとつ上の先輩だった。美人で、頭が良く、闊達で、よく笑う人だった。
知り合ったのは、萌花が大学に入ったばかりの頃。大学の図書館で課題をしていて、本を探していて書棚の前で。聞けば学部と学科が同じで、そこから彼女と仲良くなった。図書館でもう何度かあったのち、趣味が合い、帰り路が途中までではあったものの一緒になり、飲みに行ったり、休日に二人で出かけたり。気の合う先輩、いや、それを通り越して親友になれそうな友人、だったのだ。彼女は。少なくとも萌花の方はそう思っていた。
けれども。
あなたに、恋愛感情を抱いているといったら、どう思う? そんなふうにふいに尋ねられたのは、一年ほど前のことだ。
彼女の方は、いつのころからかそういう気持ちであったらしい。でも自分はそもそも異性しか恋愛対象として見てこなかったし、純粋に同性の友達あるいは先輩としてしか彼女のことを見ていなかったから、萌花はびっくりしてしまった。
そういうのがダメなら、もうこの話はしない。彼女はそうも言ってくれ、萌花が答えあぐねているとわかったといって、その話を止めた。そういうのがダメなら、と彼女――夏帆はいったけれど、そもそもダメとかどうとかいうこと自体が、萌花にはよくわからなかった。とはいえ、同性である夏帆に対して恋愛感情が持てるかといわれたらその時の萌花にはそれも考えられなくて。
その後も、夏帆はそれまでと変わらない感じで、萌花には接してくれた。でも萌花は、夏帆のことをどう考えたらいいのかわからなくなってしまって、夏帆から距離を取るようになってしまった。
もちろん彼女のことがダメとか嫌とかそういうことだったわけではない。同性同士の恋愛というものについて、自分でもとくに偏見は抱いていないタイプだと思っていたし、そういう偏見じみたものを夏帆に抱いたのでも、なかった。どちらかというと、そのまま、先輩後輩、友達同士、として付き合い続けていくのだとしたら、申し訳――なくて。
だって、相手が一方的に恋愛感情をもっている状態で付き合いつづけたら、立場が弱くなるのは彼女だろう。そういう関係で生じた優位を利用する気も萌花にはなかったけれど、どうしたって、好きなら好きの人に良く思われたいとか機嫌を取りたいとか、そういうふうになるはずだ。
萌花は夏帆のことを先輩としては慕っていたし友人としては好きだったから、余計にそれが気になった。
やがて、交わす連絡が少なくなり、連絡に返す言葉もそっけなくなり、そういえば最近大学でも合わなくなったし、連絡もないなと――そうなるように自分がしてしまっていたのだから当たり前だが――思っていた矢先。
彼女が死んだ。