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第10話 夜の永劫

ー/ー



 
 夕方まではなんとか持ちそうかなと思っていた空模様だったのに、社務所を閉める頃には雨が降り出し、なんとか今日の残業分を終えた頃にはけっこうな雨脚になっていた。
 いつもなら適当に置き傘をしていたりもするのだけれど、雨は先日も降っており、今日はあいにく、傘がない。

「柚真人ぉー」

 飛鳥は、皇邸の玄関先で、雇用主で幼馴染で従兄弟でもある相手に呼びかけた。
 呼ばれた柚真人は、台所の方から廊下を歩いて飛鳥に応えてやってくる。

「どうした」

 問われた飛鳥は、その場から柚真人に外の雨脚の様子を示し、

「雨ぇ」
「……」
「今日、傘がないの。借りれる傘、ない?」

 と、尋ねた。


      ☆


 結果として、飛鳥は車の助手席に座ることになっている。運転席には、皇神社の顧問弁護士の男、後部座席には(あかつき)緋月(ひづき)だ。

 あいにくと傘を持ってきていなくて、いつもはあるはずの置き傘もまだ家に置きっぱなしだ、と柚真人に訴えたところ、今日はその場に居合わせていた弁護士・(こうがい)優麻が、では私がお送りしましょう、と申し出てくれたのだった。

 その時、優麻がちょうど折よく神社にいたわけは、年末のこの時期なので、ということになる。普段は弁護士業を優先している優麻だが、これでも皇の一族の者である。なので神社が忙しい時期で弁護士業に差し支えがない時は、今日のように神社の仕事に駆り出されたりもする。皇神社にとっても、年末年始は年末年始なのだ。

 暁緋月は、ならばついでに、と飛鳥と優麻で誘って乗せた。他の非常勤の神職やバイトの巫女も、この時期は残業をするにはするが、一番遅くまでかかりきりになるのはどうしても常勤の神職である飛鳥と緋月である。となれば、緋月だけ歩いて帰らせることもないだろう。

 緋月は今も実家住まいで、飛鳥は息子とマンション住まいである。ともに皇の社からそう遠くないところに住んでいた。これは、神社になにか不測の事態が生じたときなどのためであり、彼らが一族として昔から皇の社に仕えているためでもあった。

 二人を乗せた優麻の車は夜の中をすべりだし、しばらくはそれぞれがみな、なんとなく沈黙していた。主に、疲労のためであったろう。

 けれども――。
 ひとつ、思うところがあって。

「……俺さあ」

 雨の流れるフロントグラスと、その向こうに滲む街中のさまざまな灯りを眺めながら、飛鳥は洩らした。
 雨は、車内にも、かすかではあるがその音を響かせていて、その雨脚の強さをずっと伝え続けている。

「ああやって、あいつをひとりで残して神社を出る時が、ずっと、ちょっと苦手なんだよね」

 あれだけの広い屋敷と広い社に、ひと気がなくなり、夜の間、ひとりになる。
 その中にある柚真人の姿。
 その光景を考えると、飛鳥の胸は、毎度、なんだかしんみりと痛むのだった。

「……わかりますわ」

 と、緋月が応じた。
 優麻は、黙ってステアリングを握っている。

 それから、

「まあ――実際、あいつはそんなこと、べつになんとも思ってないんだろうけど」

 とも、飛鳥はつけ足した。
 なぜなら。胸が痛むなあ、と感じるのは、そうはいっても自分の勝手な感傷にすぎないことも、飛鳥はちゃんとわかっているつもりだから――である。

 柚真人は、今夜も、ひとりで夜を越えていくんだな。勤める社に主を残して仕事を終える時、そう思えてしかたがないのが、もうずっと、長らく飛鳥の常だった。でもそれは、あくまでも自分の感覚が、自分の中のものさしが、想像して思うことなのである。

 なので、わかるといった緋月の返答はどちらかというと飛鳥への共感であり、沈黙を返してきた優麻がそこに含ませたのは、さあどうだろう、といったところであったろう。

 なにより、柚真人は芯から強い。それこそ、おそらく、自分たちには想像もつかないほどに。そして、孤独や孤立を嫌うたちでもない。
 むしろそんなもの、笑って捻じ伏せることができるような性格の男だ。虚勢ではなく、心底からの本気で。
 飛鳥は、そのこともよくよく、十二分に知っている。

 ただ。
 そうたいっても、だ。
 彼には、求めるものがある。得たいと願うことがある。
 で、あれば。その願い、その渇望を基とする寂寥はあるだろうと思うのだ。
 ゆえに――。
 その寂寥を、もう長いこと伴いながら、たったひとりでひとつひとつの夜を越えていく。そういう皇柚真人の姿と胸の内に、飛鳥は思いを馳せてしまう。

 もちろん、自分たちだって、次元や程度の違いはあれ、柚真人と同じ願いを抱えている。だからそこには、自分たちの願いや、自分たちの想いも、重なっているだろう。そういう自覚も、あるにはあった。

「……そんなこんなで今年も終わっちゃうのかあ」

 思えば、そう。
 もう、今年も年の瀬が近い。
 だから余計に、感じてしまうのかもしれない。
 あの場所に一人残され、その場所を一人守り続けている皇柚真人が、何を思っているのだろう、と。

 ついでにいえば、だから毎日こんな残業続きなのだし、神社勤めをしていれば、否応なく年の切れ目、強制的にやってくる暦という月日の区切りというものは感じざるをえない。

 だとしても、飛鳥は、今年も、な、とは言いたくなかった。もっとも、言いたくなかったという飛鳥の胸のうちは、優麻も緋月も察していて、その上でそれぞれが飛鳥が内心で思うことのすべてに同意したような間が沈黙に変わるのだけれど。

 もう、何年になるだろう。そう思うのも、今が年の瀬だからだろう。あの日から、自分たちはこうして、毎度、なすすべもなく年の終わりを迎えている。年が明ければ、今年こそ、と願いを新たにするにもかかわらず、だ。

 だがその時、緋月が沈黙を破るように、口を開いた。

「でも……最近、ちょっと気になっていることがありますの」
「? 気になっていること?」
「ええ」
「なに?」

 緋月は一瞬、言葉を探したようだった。
 そしてなお、言い方を選ぶようにしながら、

「最近……なんだか少し、柚真人さまの雰囲気が変わったような気がするんですわ。……はじめは、気のせいかとも思ったのですけれど」

 飛鳥は、バックミラー越しに、そう呟いた従妹の眼差しを見遣った。緋月もそうやって飛鳥を見ていて、お互いの目が合った。

「先日……今年の、新嘗祭の少し前。あの方がいらっしゃいましたでしょう」

 あの方。
 考えて、飛鳥は答えた。

「それって、桜さん? 高徳寺の?」
「ですわ。……私が思うには、あの日からだと思いますのよ。どこか……少し、柚真人さまの立ち振る舞いが…………そうですわね……硬くなった、といいますか……ほんの、少しなんですけど」
「……」
「……なんと言えばよろしいかしら……」
「……あー……えっと。それって、なんかちょっと、張りつめてる感じ? ピリピリしてる、みたいな?」
「……そう、かもしれませんわね。はっきり、あからさまにわかるほどではありませんけど。」
「それなら、俺もわかる気がする」

 ここのところ、柚真人の雰囲気になにかわずかばかりいつもと違う違和感があるな、というのは飛鳥も感じていたことだった。飛鳥が感じることを一番近い言葉で飛鳥が言い表せば、それは緊張感があるな、という感じだったのだ。

「あの時、うちのお社まで、わざわざいらしたわけでしょう。あの方」

 預けた仕事の顛末だけなら、いまはメールなりSNSなりといったものを介した簡単な連絡ひとつでも済む時代である。なのに、あの女はわざわざ柚真人に直接会いに来た、と緋月は解釈しているようだった。

「それで、その直後から柚真人さまの行動に影響が出るとしたら。柚真人さまが一番心を砕いていて、かつ、本庁の――上からの介入がありうること、くらいしか思いつきませんもの」
「……」

 つまりは。
 司に、関すること、で。
 何か上層部に動きが起こった。
 あの時、神社にわざわざ足を運んできた高徳寺桜は、それを柚真人に伝えにきたのではないか、と。
 推測できると、緋月は言っているのだ。

「わたくし……あの方は、なにか、柚真人さまに直接しなければならないお話があったのだと思いますのよ。それでいて、柚真人さまからは、私たちには、まだ言えないようなことを」

 なるほど、と飛鳥は頷いた。

「それは……まあ、ありうるかもね」

 高徳寺桜は、しかも柚真人と似たような特殊な立場で、勾玉の血脈を継ぐ一族のうちでは皇と並ぶ上位にある。
 そう考えると、問題は、それが良い方向にふれることなのか、悪い方向にふれることなのか、まではわからないということ――だろうか。

「優麻サン、なんか聞いてたりする?」

 飛鳥は、隣でステアリングを握っている弁護士にも向けてみた。自分たちが神社の神職となってからは、柚真人とともにある時間は、飛鳥と緋月の方が圧倒的に多い。しかし優麻は優麻で柚真人の片腕として動いているから、わかることはあるはずだった。
 しかし優麻はちらりと飛鳥の方へ視線を流してから、かすかに首を傾けたようだった。

「直接、なにもうかがってはおりませんね。ですが、私も、気にはなっていました。柚真人様自身に、何か含みがあるようには、ここ最近お見受けしていますよ」
「……俺たちには、話せないってことなのかなあ」
「どうでしょう。でも、何かを隠しているということではないでしょうね。あの人は、何か隠すとなったらこんなふうに下手に我々に気づかせることはしなませんからね。隠すと判断されていれば、もっとすんなりとかつあっさりと綺麗に隠し通すでしょう」
「ってことは、逆に、訊いたりしても大丈夫……ってこと?」
「何かある、ということはあっさりお認めになるのではないかと思いますよ。ただ、今の段階で訊いたとて、ではその先を我々にどれだけ開示してくれるかどうかはまた別の話かと思いますが」
「……そっかぁ。……まあ、そうだよねえ。柚真人ってそういうやつだよねえ」
「柚真人さまは、必要な時がくれば必要なことをきちんとお話してくださいますけれど、それ以外では少し頑ななところがおありですものね」

 緋月が、そんなふうに飛鳥の言葉を受けた。
 頑な。そう、頑なといえば頑なだが。

「頑なというか、あれはあれで一種のかっこつけなんだと俺は思うけど」
「……否定はしません」
「柚真人さまは柚真人さまなりに、私たちのことを慮ってくださっているんだと思いますわよ」

 というよりも、単に自分だけでもなんとかできる、自分でなんとかしようとしている、飛鳥や緋月を不用意不必要に巻き込みたくはない、と考えている。柚真人にそういうところがあるというのは飛鳥も学習していた。

「どっちにしろ、何かが、ある……もしくは、おきつつある、ってことか……?」

 ううん、と唸りつつ、飛鳥は呟いた。

「……憶測は危険かと思いますし、それこそ必要であれば柚真人さまからお話は必ずあるでしょう。まあ、それとこれとは別にして、心持ちとして備えておくことは悪いこととは思いません」

 優麻が飛鳥の呟きに応え、その瞬間、車は軽いブレーキとともに停車した。

 飛鳥が顔を上げてみれば、相変わらずの強い雨脚を感じさせるガラスの向こう正面に、まるで何かの目玉のような滲んだ赤が見えている。信号機だ。交差点は四辻。――道は、方々にある。

 ああ、いまはこの交差点にさしかかるところなのかも。なぜか、不意に飛鳥はそんなことを思った。次にアクセルを踏んだ時、ハンドルはどちらに向くか。アクセルはどこまで踏むべきか。柚真人が今、あえて何も言わずにいるのだとしたら、柚真人の状況もそういう状態であるの――かもしれない。

「そういえば、明日は煤払い神事の日になりますか」

 かちかちと、ウィンカーの音がする。
 そう思いながら、飛鳥は優麻からの問いかけを聞いた。

 煤払い神事は、神社にとっては年末年始の行事のはじまりでもある。一般的には十二月の十三日という決まった日に行われることになっていて、皇神社も例外ではない。
 そしてその日は正月迎えともいわれ、入念な一年分の清掃のほか、神社の注連縄を新しくしたり、門松を作り始めたりする。年末年始の参拝客に向けたお守りやお札への祈祷、破魔矢や御朱印の作成などにくわえて、である。

「そうなのよ。明日からがよりたいへんよ。ここからがたいへんの本番よ」

 と、飛鳥は頷いた。
 とまれ何があろうとも、人はまず基本の生活を送らねばならないのだ。けれども、日常、というものは存外大事でもある。止まらず、弛まず、おろそかにもできず。だから人は進まなければならない、とも言える。

「そのあと、うちの新月祭でしょ、冬至祭でしょ、クリスマスでしょ」
「飛鳥さんお待ちになって。クリスマスは関係ありませんでしょう」
「関係なくてもケーキとワインとチキンは持ってくるから。ケーキも発注済みだしぃ」

 飛鳥は神職だがクリスマスという行事が子供のころから好きだ。なのでこの日本において子供の頃に叩き込まれるクリスマスという行事を大事にしていた。ようするにみんなで鶏肉とケーキを食べてアルコールの入っていない子供向けの炭酸酒っぽい何かを飲んだりするアレだ。

「……飛鳥さん……」

 これには緋月はちょっと呆れた顔を毎年する。だが、鬼のように忙しい神社の年末年始に、強引に飛鳥がねじ込むクリスマスについては、それなりに楽しんでくれているようだった。
 といっても、年末の参拝者の増加や、破魔矢づくりや干支の縁起物づくりなどで、この時期の神社は本当に物理的に忙しい。なのでその日は、毎年、適当に誰でもいつでも食べたり飲んだりできるよう、社務所の一角にクリスマスのようななんだかわからないような食べ物と飲み物が並べて置かれることになるという話なのだが。

「……そんで。大晦日には、鎮護官が来るよね」

 そのことにも思い当たって発した時、飛鳥はかくんと軽い慣性を感じた。
 優麻がアクセルを踏み込んだためだ。交差点の信号機が青色に変わり、車は――直進しはじめる。

 勾玉(みすまる)血脈()。それをあまねく統率する鎮護官が、毎年決まった日に柚真人に会うためにやってくることは、むろん飛鳥も緋月も優麻も知っていた。そうして、それが何のためであり、鎮護官が誰なのかということも。
 あるいは、もしかすると、その時に。

「……飛鳥さん」
「うん?」
「わたくしから言い出しておいてなんですけれども、いまのところはもちろん柚真人さまのご判断ですから、こちらもこれ以上の余計な憶測はできませんわよ」
「そりゃ、まあね」
「柚真人さまのご判断を、ひとまず尊重してくださいますわね」
「俺が尊重できる限りにおいては、ね」
「わたくしは真面目に言っておりますのよ」
「わかってるよぅー」

 柚真人がなによりも第一にとしているものがあるように。
 自分たちも同じように柚真人のことがまず何よりも第一で、大事だ。
 
 彼にとっては、あるいはたとえすべてが必要のないものであったとしても。それでも彼を支となり、援けとなるために。自分たちは、ここにいる。

 彼が身を置く、永劫の夜から。
 彼を、彼の大切なものとともに、救い出すために。
 
 

 その年の年の瀬が、あと二十日ばかり後に迫っていた日のことだった。


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 夕方まではなんとか持ちそうかなと思っていた空模様だったのに、社務所を閉める頃には雨が降り出し、なんとか今日の残業分を終えた頃にはけっこうな雨脚になっていた。
 いつもなら適当に置き傘をしていたりもするのだけれど、雨は先日も降っており、今日はあいにく、傘がない。
「柚真人ぉー」
 飛鳥は、皇邸の玄関先で、雇用主で幼馴染で従兄弟でもある相手に呼びかけた。
 呼ばれた柚真人は、台所の方から廊下を歩いて飛鳥に応えてやってくる。
「どうした」
 問われた飛鳥は、その場から柚真人に外の雨脚の様子を示し、
「雨ぇ」
「……」
「今日、傘がないの。借りれる傘、ない?」
 と、尋ねた。
      ☆
 結果として、飛鳥は車の助手席に座ることになっている。運転席には、皇神社の顧問弁護士の男、後部座席には|暁《あかつき》|緋月《ひづき》だ。
 あいにくと傘を持ってきていなくて、いつもはあるはずの置き傘もまだ家に置きっぱなしだ、と柚真人に訴えたところ、今日はその場に居合わせていた弁護士・|笄《こうがい》優麻が、では私がお送りしましょう、と申し出てくれたのだった。
 その時、優麻がちょうど折よく神社にいたわけは、年末のこの時期なので、ということになる。普段は弁護士業を優先している優麻だが、これでも皇の一族の者である。なので神社が忙しい時期で弁護士業に差し支えがない時は、今日のように神社の仕事に駆り出されたりもする。皇神社にとっても、年末年始は年末年始なのだ。
 暁緋月は、ならばついでに、と飛鳥と優麻で誘って乗せた。他の非常勤の神職やバイトの巫女も、この時期は残業をするにはするが、一番遅くまでかかりきりになるのはどうしても常勤の神職である飛鳥と緋月である。となれば、緋月だけ歩いて帰らせることもないだろう。
 緋月は今も実家住まいで、飛鳥は息子とマンション住まいである。ともに皇の社からそう遠くないところに住んでいた。これは、神社になにか不測の事態が生じたときなどのためであり、彼らが一族として昔から皇の社に仕えているためでもあった。
 二人を乗せた優麻の車は夜の中をすべりだし、しばらくはそれぞれがみな、なんとなく沈黙していた。主に、疲労のためであったろう。
 けれども――。
 ひとつ、思うところがあって。
「……俺さあ」
 雨の流れるフロントグラスと、その向こうに滲む街中のさまざまな灯りを眺めながら、飛鳥は洩らした。
 雨は、車内にも、かすかではあるがその音を響かせていて、その雨脚の強さをずっと伝え続けている。
「ああやって、あいつをひとりで残して神社を出る時が、ずっと、ちょっと苦手なんだよね」
 あれだけの広い屋敷と広い社に、ひと気がなくなり、夜の間、ひとりになる。
 その中にある柚真人の姿。
 その光景を考えると、飛鳥の胸は、毎度、なんだかしんみりと痛むのだった。
「……わかりますわ」
 と、緋月が応じた。
 優麻は、黙ってステアリングを握っている。
 それから、
「まあ――実際、あいつはそんなこと、べつになんとも思ってないんだろうけど」
 とも、飛鳥はつけ足した。
 なぜなら。胸が痛むなあ、と感じるのは、そうはいっても自分の勝手な感傷にすぎないことも、飛鳥はちゃんとわかっているつもりだから――である。
 柚真人は、今夜も、ひとりで夜を越えていくんだな。勤める社に主を残して仕事を終える時、そう思えてしかたがないのが、もうずっと、長らく飛鳥の常だった。でもそれは、あくまでも自分の感覚が、自分の中のものさしが、想像して思うことなのである。
 なので、わかるといった緋月の返答はどちらかというと飛鳥への共感であり、沈黙を返してきた優麻がそこに含ませたのは、さあどうだろう、といったところであったろう。
 なにより、柚真人は芯から強い。それこそ、おそらく、自分たちには想像もつかないほどに。そして、孤独や孤立を嫌うたちでもない。
 むしろそんなもの、笑って捻じ伏せることができるような性格の男だ。虚勢ではなく、心底からの本気で。
 飛鳥は、そのこともよくよく、十二分に知っている。
 ただ。
 そうたいっても、だ。
 彼には、求めるものがある。得たいと願うことがある。
 で、あれば。その願い、その渇望を基とする寂寥はあるだろうと思うのだ。
 ゆえに――。
 その寂寥を、もう長いこと伴いながら、たったひとりでひとつひとつの夜を越えていく。そういう皇柚真人の姿と胸の内に、飛鳥は思いを馳せてしまう。
 もちろん、自分たちだって、次元や程度の違いはあれ、柚真人と同じ願いを抱えている。だからそこには、自分たちの願いや、自分たちの想いも、重なっているだろう。そういう自覚も、あるにはあった。
「……そんなこんなで今年も終わっちゃうのかあ」
 思えば、そう。
 もう、今年も年の瀬が近い。
 だから余計に、感じてしまうのかもしれない。
 あの場所に一人残され、その場所を一人守り続けている皇柚真人が、何を思っているのだろう、と。
 ついでにいえば、だから毎日こんな残業続きなのだし、神社勤めをしていれば、否応なく年の切れ目、強制的にやってくる暦という月日の区切りというものは感じざるをえない。
 だとしても、飛鳥は、今年も、《《かなわなかった》》な、とは言いたくなかった。もっとも、言いたくなかったという飛鳥の胸のうちは、優麻も緋月も察していて、その上でそれぞれが飛鳥が内心で思うことのすべてに同意したような間が沈黙に変わるのだけれど。
 もう、何年になるだろう。そう思うのも、今が年の瀬だからだろう。あの日から、自分たちはこうして、毎度、なすすべもなく年の終わりを迎えている。年が明ければ、今年こそ、と願いを新たにするにもかかわらず、だ。
 だがその時、緋月が沈黙を破るように、口を開いた。
「でも……最近、ちょっと気になっていることがありますの」
「? 気になっていること?」
「ええ」
「なに?」
 緋月は一瞬、言葉を探したようだった。
 そしてなお、言い方を選ぶようにしながら、
「最近……なんだか少し、柚真人さまの雰囲気が変わったような気がするんですわ。……はじめは、気のせいかとも思ったのですけれど」
 飛鳥は、バックミラー越しに、そう呟いた従妹の眼差しを見遣った。緋月もそうやって飛鳥を見ていて、お互いの目が合った。
「先日……今年の、新嘗祭の少し前。あの方がいらっしゃいましたでしょう」
 あの方。
 考えて、飛鳥は答えた。
「それって、桜さん? 高徳寺の?」
「ですわ。……私が思うには、あの日からだと思いますのよ。どこか……少し、柚真人さまの立ち振る舞いが…………そうですわね……硬くなった、といいますか……ほんの、少しなんですけど」
「……」
「……なんと言えばよろしいかしら……」
「……あー……えっと。それって、なんかちょっと、張りつめてる感じ? ピリピリしてる、みたいな?」
「……そう、かもしれませんわね。はっきり、あからさまにわかるほどではありませんけど。」
「それなら、俺もわかる気がする」
 ここのところ、柚真人の雰囲気になにかわずかばかりいつもと違う違和感があるな、というのは飛鳥も感じていたことだった。飛鳥が感じることを一番近い言葉で飛鳥が言い表せば、それは緊張感があるな、という感じだったのだ。
「あの時、うちのお社まで、わざわざいらしたわけでしょう。あの方」
 預けた仕事の顛末だけなら、いまはメールなりSNSなりといったものを介した簡単な連絡ひとつでも済む時代である。なのに、あの女はわざわざ柚真人に直接会いに来た、と緋月は解釈しているようだった。
「それで、その直後から柚真人さまの行動に影響が出るとしたら。柚真人さまが一番心を砕いていて、かつ、本庁の――上からの介入がありうること、くらいしか思いつきませんもの」
「……」
 つまりは。
 司に、関すること、で。
 何か上層部に動きが起こった。
 あの時、神社にわざわざ足を運んできた高徳寺桜は、それを柚真人に伝えにきたのではないか、と。
 推測できると、緋月は言っているのだ。
「わたくし……あの方は、なにか、柚真人さまに直接しなければならないお話があったのだと思いますのよ。それでいて、柚真人さまからは、私たちには、まだ言えないようなことを」
 なるほど、と飛鳥は頷いた。
「それは……まあ、ありうるかもね」
 高徳寺桜は、しかも柚真人と似たような特殊な立場で、勾玉の血脈を継ぐ一族のうちでは皇と並ぶ上位にある。
 そう考えると、問題は、それが良い方向にふれることなのか、悪い方向にふれることなのか、まではわからないということ――だろうか。
「優麻サン、なんか聞いてたりする?」
 飛鳥は、隣でステアリングを握っている弁護士にも向けてみた。自分たちが神社の神職となってからは、柚真人とともにある時間は、飛鳥と緋月の方が圧倒的に多い。しかし優麻は優麻で柚真人の片腕として動いているから、わかることはあるはずだった。
 しかし優麻はちらりと飛鳥の方へ視線を流してから、かすかに首を傾けたようだった。
「直接、なにもうかがってはおりませんね。ですが、私も、気にはなっていました。柚真人様自身に、何か含みがあるようには、ここ最近お見受けしていますよ」
「……俺たちには、話せないってことなのかなあ」
「どうでしょう。でも、何かを隠しているということではないでしょうね。あの人は、何か隠すとなったらこんなふうに下手に我々に気づかせることはしなませんからね。隠すと判断されていれば、もっとすんなりとかつあっさりと綺麗に隠し通すでしょう」
「ってことは、逆に、訊いたりしても大丈夫……ってこと?」
「何かある、ということはあっさりお認めになるのではないかと思いますよ。ただ、今の段階で訊いたとて、ではその先を我々にどれだけ開示してくれるかどうかはまた別の話かと思いますが」
「……そっかぁ。……まあ、そうだよねえ。柚真人ってそういうやつだよねえ」
「柚真人さまは、必要な時がくれば必要なことをきちんとお話してくださいますけれど、それ以外では少し頑ななところがおありですものね」
 緋月が、そんなふうに飛鳥の言葉を受けた。
 頑な。そう、頑なといえば頑なだが。
「頑なというか、あれはあれで一種のかっこつけなんだと俺は思うけど」
「……否定はしません」
「柚真人さまは柚真人さまなりに、私たちのことを慮ってくださっているんだと思いますわよ」
 というよりも、単に自分だけでもなんとかできる、自分でなんとかしようとしている、飛鳥や緋月を不用意不必要に巻き込みたくはない、と考えている。柚真人にそういうところがあるというのは飛鳥も学習していた。
「どっちにしろ、何かが、ある……もしくは、おきつつある、ってことか……?」
 ううん、と唸りつつ、飛鳥は呟いた。
「……憶測は危険かと思いますし、それこそ必要であれば柚真人さまからお話は必ずあるでしょう。まあ、それとこれとは別にして、心持ちとして備えておくことは悪いこととは思いません」
 優麻が飛鳥の呟きに応え、その瞬間、車は軽いブレーキとともに停車した。
 飛鳥が顔を上げてみれば、相変わらずの強い雨脚を感じさせるガラスの向こう正面に、まるで何かの目玉のような滲んだ赤が見えている。信号機だ。交差点は四辻。――道は、方々にある。
 ああ、いまはこの交差点にさしかかるところなのかも。なぜか、不意に飛鳥はそんなことを思った。次にアクセルを踏んだ時、ハンドルはどちらに向くか。アクセルはどこまで踏むべきか。柚真人が今、あえて何も言わずにいるのだとしたら、柚真人の状況もそういう状態であるの――かもしれない。
「そういえば、明日は煤払い神事の日になりますか」
 かちかちと、ウィンカーの音がする。
 そう思いながら、飛鳥は優麻からの問いかけを聞いた。
 煤払い神事は、神社にとっては年末年始の行事のはじまりでもある。一般的には十二月の十三日という決まった日に行われることになっていて、皇神社も例外ではない。
 そしてその日は正月迎えともいわれ、入念な一年分の清掃のほか、神社の注連縄を新しくしたり、門松を作り始めたりする。年末年始の参拝客に向けたお守りやお札への祈祷、破魔矢や御朱印の作成などにくわえて、である。
「そうなのよ。明日からがよりたいへんよ。ここからがたいへんの本番よ」
 と、飛鳥は頷いた。
 とまれ何があろうとも、人はまず基本の生活を送らねばならないのだ。けれども、日常、というものは存外大事でもある。止まらず、弛まず、おろそかにもできず。だから人は進まなければならない、とも言える。
「そのあと、うちの新月祭でしょ、冬至祭でしょ、クリスマスでしょ」
「飛鳥さんお待ちになって。クリスマスは関係ありませんでしょう」
「関係なくてもケーキとワインとチキンは持ってくるから。ケーキも発注済みだしぃ」
 飛鳥は神職だがクリスマスという行事が子供のころから好きだ。なのでこの日本において子供の頃に叩き込まれるクリスマスという行事を大事にしていた。ようするにみんなで鶏肉とケーキを食べてアルコールの入っていない子供向けの炭酸酒っぽい何かを飲んだりするアレだ。
「……飛鳥さん……」
 これには緋月はちょっと呆れた顔を毎年する。だが、鬼のように忙しい神社の年末年始に、強引に飛鳥がねじ込むクリスマスについては、それなりに楽しんでくれているようだった。
 といっても、年末の参拝者の増加や、破魔矢づくりや干支の縁起物づくりなどで、この時期の神社は本当に物理的に忙しい。なのでその日は、毎年、適当に誰でもいつでも食べたり飲んだりできるよう、社務所の一角にクリスマスのようななんだかわからないような食べ物と飲み物が並べて置かれることになるという話なのだが。
「……そんで。大晦日には、鎮護官が来るよね」
 そのことにも思い当たって発した時、飛鳥はかくんと軽い慣性を感じた。
 優麻がアクセルを踏み込んだためだ。交差点の信号機が青色に変わり、車は――直進しはじめる。
 |勾玉《みすまる》の|血脈《ち》。それをあまねく統率する鎮護官が、毎年決まった日に柚真人に会うためにやってくることは、むろん飛鳥も緋月も優麻も知っていた。そうして、それが何のためであり、鎮護官が誰なのかということも。
 あるいは、もしかすると、その時に。
「……飛鳥さん」
「うん?」
「わたくしから言い出しておいてなんですけれども、いまのところはもちろん柚真人さまのご判断ですから、こちらもこれ以上の余計な憶測はできませんわよ」
「そりゃ、まあね」
「柚真人さまのご判断を、ひとまず尊重してくださいますわね」
「俺が尊重できる限りにおいては、ね」
「わたくしは真面目に言っておりますのよ」
「わかってるよぅー」
 柚真人がなによりも第一にとしているものがあるように。
 自分たちも同じように柚真人のことがまず何よりも第一で、大事だ。
 彼にとっては、あるいはたとえすべてが必要のないものであったとしても。それでも彼を支となり、援けとなるために。自分たちは、ここにいる。
 彼が身を置く、永劫の夜から。
 彼を、彼の大切なものとともに、救い出すために。
 その年の年の瀬が、あと二十日ばかり後に迫っていた日のことだった。