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第8話 夢のまにまに:後編

ー/ー




 グラスの中身を飲み干すと、柚真人は次の飲み物をオーダーしてから、水月にこぼした。

「毎度、やり残したことがある、と言われる。それがなんなのか――それだけでも、わかればな、と思うんだが」

 そう。
 子供の姿の自分の夢を見ることはもちろんなのだが、なによりもそれが、柚真人の気がかりになるところだった。

 やり残したことがある。
 その言葉は、どこか警鐘のような響きを柚真人の胸に残していた。いつも。それはとても大事なことのような気がして、なにか、ひっかかりを覚えるのだ。しかし、柚真人自身が考えても、わからない。自分の中から返ってくる答えがない。自分のことであるはずなのに。

 なれば、自分と『柚真人』がずっと隔てられていたせいで、なお思考としてそこに分断があるものと仮定してみるとしよう。
 だとして、『柚真人』がそこまで執着することがあるとすれば、それはやはり司のことではないだろうかと思う。

『柚真人』は、夢の中では、ぼくはきみ、きみはぼくだよ、ともいう。
 そうであれば、むしろなおさら。
 もしその感覚が正しいのであれば、よけいに、『柚真人』がいうやり残したこと、そのために夢の中にあわられて、何度でも自分と逢う理由を、柚真人自身も知らなければならないような気がするのである。

 この夢が、自分自身の中で生み出された罪悪感や自責からの何かなら、自分自身にそれが手繰れないはずはない。そう思い、一度は水月に正式な診察もしてもらったのだ。しかし水月は、柚真人の中にかつてのような精神的な問題はない、と診断した。

 水月は、神職能力をもたないだたの医者だ。だから、心霊的な見地から、魂の在り方や、前世現世の分断などはわからない。
 まあ、精神医学的な見地から前世の研究を行っている人間や研究機関もあるけれど、そちらも水月の専門分野ではない。
 だとして、自分に診られる範疇での医学的な見地からは、現在の皇柚真人はただひとつ、正常なひとつの精神としてそこにある。幻覚や幻聴に悩まされるような兆候もない、と。

 とすると、答えは。
 柚真人の夢の中に現れる『柚真人』は今の柚真人とは別の――別の、というのも妙な話だし、それはそれで正確な表現ではないのだろうが――かつては柚真人とともにあった人格、ということになる。

「そもそも、俺があいつを喰って取り込むまで。あいつはずっと眠り続けていたんだぞ。俺はあいつを守っちゃいたが、その間、あいつはうんともすんともいわずに、全部俺に預けてた。それが、急に目覚めて俺に向かってあれこれ喋り出す、なんてことがあるか?」

 それも、柚真人の中にある疑問だ。
 なにしろ、柚真人は今の自分になるために、分かたれた人の部分である自分を喰い殺した。その感覚も、自覚も、ちゃんとある。それは偶さか、鬼から人に生まれ変わったはずだった皇柚真人の霊魂が、暁圭吾の手によって、ふたたび意図的、人為的に人と鬼とに分けられたから出来たことでもあった。

 柚真人の問いに、水月は応じて、言う。

「逆に、それは本当に、『そう』なの? ……逆に、柚真人くんが、『そう』思い込もうとしているということはない? つまり、引き継いだ前世の記憶に引きずられて、自分は人ではないものなんだ、と」

 まあ、その可能性も水月からは考えられることなのだろう。
 だが、と。
 柚真人はすっぱり答えた。火を見るよりも明らかな答えが、水月の目の前にはあるはずで。

「――それなら、俺は人の理になお縛られているはずだ。今の俺を見て、そうは思わないだろ?」
「……まあ、そうよねえ」
「それに、俺が人なら本庁の鎮護官どもだって何度も俺に警告じみたことはしないだろうし、監視もしないだろうさ。なにより、今の俺は奴らに信用されていない」

 大学時代から容姿をすこしも変えていない柚真人を見れば、水月にも答えは明白だった。今の皇柚真人の中には、人の魂はない。純粋にして、かつて最凶を誇った鬼の御霊だけがある。
 水月は唸り、少し考えるような仕草をした。
 その後で、カウンターテーブルの上に載せた指の爪を覆ったネイルで、とんとんと何度かテーブルを叩き、

「じゃあ――たとえば、それこそ幽霊みたいなものだとは――考えられないかしら」
「……ゆうれい?」
「そう」

 水月は大きく頷いた。

「高校生だったころ、君の身体の中には、ふたつにわかれた人格が生きていた。そうよね? その時には、何某かの障害……君は、私の父が現代医療を代替手段にして施した霊的な呪術の一種だというけど……とにかくそういうものがあって、君は別の人格であり存在となってしまった『柚真人』くんは、覚醒することができなかった。そのくびきのようなものから、『生』と『死』の境界線を越えたことで、逆に解放されて、『柚真人』くんは『柚真人』くんとしてその意思を外に、君に、伝えられるようになった――とか」

「……俺が、自分でそうと認識できていないのに?」

「自分自身だからこそ、なんじゃない? そして、君が、君だから。……柚真人君は、死者とその御霊のことについてなら、誰よりよくわかっていると思っているでしょう? それに、自分自身についても、自分のことなんだから、わからないことなんてあるはずがないと。でも、そんなはずはない、という思い込みは、存外、自分を強く拘束して視野を狭くするものよ」

「つまり、俺自身の中に、あれの――……幽霊――普段は、そういう言い方はしないけどな? が――いる状態、ってことか?」

 柚真人は、眉根を寄せて、水月の言葉を咀嚼しようと試みた。

 確かに、生きている時に縛られていた障害から、死ぬことによって解放されるという例はある。主には、それは人の御霊がその属する肉体に縛られるから、ということになるが、施された呪術もあるいはそれに類する障害といえば障害なのかもしれない。もっとも、他者から施された呪術は肉体だけでなく御霊にも及ぶことの方が多く、そこが厄介なところなのだが――『緋の禍鬼』としての記憶と力に覚醒した柚真人自身の霊力が、『柚真人』を呪縛した暁圭吾の力を凌げば、あるいは。考えられない話、でもない。

 柚真人は、死者を祓う巫だ。
 道を迷い、何かをこの世に遺して引きずる死者の御霊を黄泉路に送る。
 けれどもそれは、あくまで柚真人と対峙する存在に対して、である。
 自分の中に、自分の幽霊がいる、などということもは、言われてみれば、考えない。

「なにか、やり残した目的がある、というんでしょう?」

 水月は、柚真人にそうも向けた。

「それって――むしろ、幽霊っぽいって思ったけど。私はね。……だって、幽霊って、そういうものじゃない?」
「――……」

 やり残したこと。
 もう、少しの間だけ。

 柚真人は、自分の中で、自分――というか、『柚真人』が繰り返す言葉を、反芻した。

 ――幽霊、ねえ。

 案外と、正しい線なのかもしれない。
 そう思えは、夢の中の子供の姿をした――あるいは子供の姿のままであるのがその御霊の在り方なのか――『柚真人』のふるまいに、ひとつの筋を感じられなくもなかった。

 ただ、柚真人にとっての問題の本質の方は、そこではない。だとしたら、『柚真人』のいう、やり残したこと、というやつは、どうしたら聞き出せるだろう、ということが、どうしたってやはり問題になってくる。

 聞き出さなければならない気がするのに。それを知らなければならないような気がするのに。
 『柚真人』には、肝心のその部分をは、こちらに伝える気がないということか。

 そう、柚真人が考えを巡らせていると、オーダーしていた飲み物が、カウンター向こうから差し出された。タンブラー型のグラスの中身は、ハイボールだ。
 その時、いまさらもいまさらになって、水月がふと思いついたとでもいうように、訊いてきた。

「――そういえば柚真人君、今日、車じゃないのね?」
 
 柚真人は、軽く瞠目して水月のことを見返してしまった。
 ちなみにこのテーブルでアルコールをオーダーするのはこれで三杯目だ。
 車だったら問題だろう。
 柚真人はグラスを手元のコースターの上へと運びながら、それこそいまさらだなあと表情をそこから苦笑へと変えて応えた。

「だから、帰りは運転手を呼んである」
「――あら」
「そろそろ来るんじゃないかな」

 誰の事かは、水月にであればすぐにわかるだろう。
 それでなくとも、こんな時にこんなところに柚真人が運転手などと称して呼ぶ人間は、限られている。

 水月は、

「へえー。ひさしぶり!」

 といって、ちょっとかなり楽しそうな表情に――なった。


     ☆

 
 それから一週間後、皇神社に来客があった。

 

 その来客を、参道の鳥居の下まで見送った柚真人は、その後ろ姿が鳥居から神社沿いの道まで下りていく階段を降って自分の視界から消えていくまで眺めていた。

 オフホワイトのコートの背中に、その中ほどまで届く長い黒髪を揺らした女性は、いわば同業者で、皇と同じ勾玉の血脈を現代に継承する神社の神職だ。
 しかし彼女は、皇とはその役目を違えており、退魔を生業としている。

 というより、祓いの対象を死者に限定し、黄泉送りを専門とする皇の一族の方が、勾玉の血脈を受け継ぐ者たちの中では珍しい位置付けではあるのかもしれなかった。ただし、皇の一族は、生きとし生けるものの死に関わる祓事であれば、どのような事態にも対応する。そしてどのような御霊であっても、見捨て、見限ることはない。

 すなわち柚真人がいま見送った女性は、柚真人が水月から依頼された仕事を引き継ぎ、その処理が完了したことを柚真人に知らせに来てくれたのだった。

 水月は、皇の仕事の範疇だと思って柚真人に話を持ち掛けてきた。しかし水月の話を聞いて、少し事態を精査してみたところ、どうも違うな、これは自分には手が出せない、と柚真人にはすぐにわかった。そんなふうにして、分野違いの仕事を他の神社に引き継ぐことも、まれにあるのだ。

「お話、終わった?」

 と、背中から声がかけられたので、柚真人は振り向いた。
 そこには飛鳥と緋月が立っていて、事の次第を気にしているように見えた。いや、特に今回のことの次第というよりは――。

「今の、桜さんだよね」

 ストレートに、彼女のことが気にかかる、といったところか。飛鳥と緋月にしてみれば。
 いかにも、桜というのが彼女の名前だった。
 高徳寺桜。
 ひとことで言うと、目の覚めるような、美しい女性だ。どことなく、その美貌の雰囲気は柚真人に似ているかもしれない。そしてそれが、二人が気にかけていることの最たるところだろう。

 柚真人はとりあえず二人に頷いた。

「ああ。暁からの仕事を、ひとつ引き継いでもらってた。それが、片付いたそうだ」

 他のことには触れず、あくまで嘯く。しかし緋月はともかく飛鳥はそういうのが通用しないというか通用させてくれない男である。
 飛鳥は、少し目を細くするような仕草でもって、柚真人を見た。

「あの人がここに来るの、何年ぶりだっけ? 俺、相当しばらくぶりに見たと思うけど……あの人、いくつだ?」
「――それ、桜に直接言ったら殺されるぞお前」

 柚真人は肩をすくめて笑った。
 高徳寺桜は、――そうだな、と考える柚真人だ。

 見た目なら、自分より少し上になる。だいたいの人の目には、三十路を越えたかどうかといったところだろう。しかし飛鳥が言うことは、まあ、そういうことではない。彼が言いたいのは、相当しばらくぶりに見たはずの姿なのに、変わっていない、ということだ。柚真人と――それから、笄優麻などとも同じように。
 外見が変化しない。歳を、とっているように見えない。その意味を、飛鳥は問いたいのだ。

 飛鳥も緋月も、柚真人の傍にいるからこそそれに対する答えの推測もついているはずで、答えはおそらくそう遠く外れてはいない。しかし、その答えを自分が言うわけにもいかないだろうと考え、柚真人は答えを濁している。桜には、桜の事情があり。それもまた複雑なのだ。

 そして桜は桜で、自分が是と判断した相手にしか、自分についての話をしない。飛鳥や緋月は、申し訳ないが、そこに触れる資格を持たない。

 それに、桜の機嫌をそこねるのも、柚真人としては得策ではなかった。あまり正面から認めたくはないが、桜には、優麻と同じ程度と同じ意味での扱いづらさを、柚真人は感じている。
 いくつだ、と飛鳥は訊いたが、その本当のところは柚真人も知らない。推測は出来るが、柚真人ですら、あえて桜に向かって尋ねたいとは思わない類の問いだった。それは。

「まあ、敢えて言うならいろいろ微妙なお年頃かな。んが、正確なところなぞ知らなくても、今のお前に不都合はないはずだ。それに、あえて明確には知らない方がいいこともある」
「……」
「そのほうが、平和だ」
「……」

 飛鳥は、ふんと荒く鼻息つきそうな雰囲気だった。
 けれど、柚真人がぴしゃりと撥ねつけたことについては、さらに追及はしてこない。ただ、きちんと答えなかったことが逆に答えになりもする。そのことも、飛鳥はわかって引き下がらざるを得ないというような表情をしていた。

「わたくしは、あの方がすこし苦手ですわ」

 とは、緋月。

「……すこし、怖い感じがいたします」

 それにも、柚真人はこう答えた。

「まあ、怖いよ。その感覚も、正しい」
「――」
「あまり、本気で敵に回したくはない、祓い師だ。この俺でも――な」

 そう。怖い。それだけの力が、あの女にはある。
 そして柚真人自身、そこを信用したり、警戒したり、頼りにしたり、している部分もある。飛鳥がうっすら仄めかして訊いてきたように――自分や、笄優麻寄りの存在として。

 しかし、実のところ。
 その時、柚真人の胸のうちは、まったく別のことでざわざわと落ち着きなくざわついていた。

 それは。
 彼女が、つい先ほど。立ち去り際に、ふと。
 ひとつ、柚真人に向かって言い残したことについて、だ。

 普段、彼女はそんなような言動はしないのだが――だからこそ、強く、その言葉と言い様は柚真人を捕らえた。
 皇邸の居間での、仕事の話が終わって、柚真人に送られながら参道まで歩いてきた時。ふいに、柚真人の方を振り返って、彼女はこういった。

「ああ、そうだ。貴方にひとつ助言をするわ。……ここのところ、貴方が気にしているらしいことだけれど」

 急に言われたので、咄嗟には彼女が何を言っているのかと思った。
 けれど、彼女は続けて、

「『それ』、じゃないわ。貴方が気にすべきことは。気になる気持ちはわかるけどね。……何を気にかけ、何をすべきか。貴方自身がするべきことを、間違えないようになさい。もう、そう遠くないうちに、わかるわ」

 なぞなぞみたいな物言いだ。
 だが、それはあえてだと柚真人は知っていた。
 彼女――高徳寺桜は、千里眼能力を持っている。その能力は強力で、ゆえに皇柚真人と同様に、力の使役に制限がかけられている。その禁を破らぬ程度に、彼女が能力で霊視たものを外に伝えようとすると、このような言葉の選びになるのだ。

 そういう時、彼女は、同族のよしみで、と柚真人に言う。同族のよしみ――そして境遇も互いに近いところにあるからか、彼女はそのようにして何度か柚真人を援けてくれたこともあった。

 彼女の能力は、本物で、強力だ。柚真人からしても、十二分に。
 それは、鎮護官たちが囲って守る、未来視の巫女――桜御護にも近いところがあった。
 いまのところ、桜御護や鎮護官からは最近定時以外の接触や連絡はない。しかし、彼女が課された禁のすれすれに触れて言葉を残したのであれば。

 それは、きっと、信用に足る。

 おそらく今回は、仕事の引継があった関係で、柚真人が水月にもちかけていた例の夢の話についてがその能力に触れたのだろう。だがそれだけでなく、彼女の能力は、柚真人や水月には知ることのできない、その先にも触れた。
 彼女いわく、霊視ようと思えば彼女にはどこまででも霊視ることが出来るらしい。桜御護との違いは、そこだ。そして彼女の力に制限が必要な理由もまた同じ。
 彼女が何をどこまで霊視たのか、は、わからない。わからないが。

 もしか、しなくとも。
 近いの、か。
 その時が。

 そう、思う。

 思えば、胸はざわついて、締めつけられるような焦燥感に息が詰まる。
 またそれを、希望と取ればいいのか。あるいは新たな絶望に触れうるものなのか。わからない。

 間違えないように、と彼女は言った。ならば。
 今はまだどちらにも振れうる選択肢が、柚真人の前に迫っている、ということだろう。

 とはいえ。
 飛鳥と、緋月には――まだ――言えない。その程度の、淡い確信だ。彼女の言葉には、いつ、も、なに、も、どう、も欠けている。
 だから、喉を締めるような心地を飲み込み、柚真人は平静を繕う。その下で、歯がゆさと苛立ちと逸る心地を抑えつけながら、自分の一番大事なものを想っていた。


      ☆


 顔を合わせて話したい、いくらか訊きたいことがある。こちらがそう思っても、相手がこちらの望むように夢に現れてくれることはない。

 必要があるから夢で逢う。
 あいつはそう言っているから、自分の夢に出てくるにしても、あいつにはあいつなりの何か規則性もあるのだろう。
 幽霊、のようなものだってんなら。
 もうちょっと俺の意思に応えてくれても良さそうなもんなんだが。

 そう考える柚真人は、今、自分が夢の中にいるのか、それとも眠りに入り込みながら取り留めなく思考しているところなのか、よくわかっていなかった。
 お前は、いま、どこにいるんだ。
 返事はないと知っていても、問いたくなる。

 そういえば、もし、夢であるのであれば。
 せめて『彼女』の方に逢いたいものだが――。

 そんな夢は、ついぞ見ないな。
 そうも、柚真人は考えた。

 この手から失われるまでは、何度も詮無き夢を見た。気が、狂いそうだと思うほどに。けれどあの日、ありえない失態を犯し、あの、とてつもない絶望を自分自身へのどうしようもないほどの失望を味わってからは。それこそ己の罪悪感からなのか何なのか、夢の中ですら、『彼女』には逢えない。むろん、夢の中で逢えたとしても、それはよけいに虚しい幻想でしかなくもあるのだけれど。

 お前にこそ、逢いたいよ。
 どうすればいい。
 どうすれば間違わずに。
 この手をお前に届かせることができる。

 ――…………司。

 そう願い、焦がれてやまないたったひとつの名を呼びながら、意識は、闇の中に落ちていく。
 その傍らで。
 遠く。
 かすかに。

 ――それは、ぼくも同じだよ。
 ――だから、それはきみに託すよ。
 ――よろしく。

 どこかから、そんな言葉が聞こえた気がした。
 同時に、それは柚真人の意識をすり抜けていき、記憶として残ることはなかった――けれど。


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 グラスの中身を飲み干すと、柚真人は次の飲み物をオーダーしてから、水月にこぼした。
「毎度、やり残したことがある、と言われる。それがなんなのか――それだけでも、わかればな、と思うんだが」
 そう。
 子供の姿の自分の夢を見ることはもちろんなのだが、なによりもそれが、柚真人の気がかりになるところだった。
 やり残したことがある。
 その言葉は、どこか警鐘のような響きを柚真人の胸に残していた。いつも。それはとても大事なことのような気がして、なにか、ひっかかりを覚えるのだ。しかし、柚真人自身が考えても、わからない。自分の中から返ってくる答えがない。自分のことであるはずなのに。
 なれば、自分と『柚真人』がずっと隔てられていたせいで、なお思考としてそこに分断があるものと仮定してみるとしよう。
 だとして、『柚真人』がそこまで執着することがあるとすれば、それはやはり司のことではないだろうかと思う。
『柚真人』は、夢の中では、ぼくはきみ、きみはぼくだよ、ともいう。
 そうであれば、むしろなおさら。
 もしその感覚が正しいのであれば、よけいに、『柚真人』がいうやり残したこと、そのために夢の中にあわられて、何度でも自分と逢う理由を、柚真人自身も知らなければならないような気がするのである。
 この夢が、自分自身の中で生み出された罪悪感や自責からの何かなら、自分自身にそれが手繰れないはずはない。そう思い、一度は水月に正式な診察もしてもらったのだ。しかし水月は、柚真人の中にかつてのような精神的な問題はない、と診断した。
 水月は、神職能力をもたないだたの医者だ。だから、心霊的な見地から、魂の在り方や、前世現世の分断などはわからない。
 まあ、精神医学的な見地から前世の研究を行っている人間や研究機関もあるけれど、そちらも水月の専門分野ではない。
 だとして、自分に診られる範疇での医学的な見地からは、現在の皇柚真人はただひとつ、正常なひとつの精神としてそこにある。幻覚や幻聴に悩まされるような兆候もない、と。
 とすると、答えは。
 柚真人の夢の中に現れる『柚真人』は今の柚真人とは別の――別の、というのも妙な話だし、それはそれで正確な表現ではないのだろうが――かつては柚真人とともにあった人格、ということになる。
「そもそも、俺があいつを喰って取り込むまで。あいつはずっと眠り続けていたんだぞ。俺はあいつを守っちゃいたが、その間、あいつはうんともすんともいわずに、全部俺に預けてた。それが、急に目覚めて俺に向かってあれこれ喋り出す、なんてことがあるか?」
 それも、柚真人の中にある疑問だ。
 なにしろ、柚真人は今の自分になるために、分かたれた人の部分である自分を喰い殺した。その感覚も、自覚も、ちゃんとある。それは偶さか、鬼から人に生まれ変わったはずだった皇柚真人の霊魂が、暁圭吾の手によって、ふたたび意図的、人為的に人と鬼とに分けられたから出来たことでもあった。
 柚真人の問いに、水月は応じて、言う。
「逆に、それは本当に、『そう』なの? ……逆に、柚真人くんが、『そう』思い込もうとしているということはない? つまり、引き継いだ前世の記憶に引きずられて、自分は人ではないものなんだ、と」
 まあ、その可能性も水月からは考えられることなのだろう。
 だが、と。
 柚真人はすっぱり答えた。火を見るよりも明らかな答えが、水月の目の前にはあるはずで。
「――それなら、俺は人の理になお縛られているはずだ。今の俺を見て、そうは思わないだろ?」
「……まあ、そうよねえ」
「それに、俺が人なら本庁の鎮護官どもだって何度も俺に警告じみたことはしないだろうし、監視もしないだろうさ。なにより、今の俺は奴らに信用されていない」
 大学時代から容姿をすこしも変えていない柚真人を見れば、水月にも答えは明白だった。今の皇柚真人の中には、人の魂はない。純粋にして、かつて最凶を誇った鬼の御霊だけがある。
 水月は唸り、少し考えるような仕草をした。
 その後で、カウンターテーブルの上に載せた指の爪を覆ったネイルで、とんとんと何度かテーブルを叩き、
「じゃあ――たとえば、それこそ幽霊みたいなものだとは――考えられないかしら」
「……ゆうれい?」
「そう」
 水月は大きく頷いた。
「高校生だったころ、君の身体の中には、ふたつにわかれた人格が生きていた。そうよね? その時には、何某かの障害……君は、私の父が現代医療を代替手段にして施した霊的な呪術の一種だというけど……とにかくそういうものがあって、君は別の人格であり存在となってしまった『柚真人』くんは、覚醒することができなかった。そのくびきのようなものから、『生』と『死』の境界線を越えたことで、逆に解放されて、『柚真人』くんは『柚真人』くんとしてその意思を外に、君に、伝えられるようになった――とか」
「……俺が、自分でそうと認識できていないのに?」
「自分自身だからこそ、なんじゃない? そして、君が、君だから。……柚真人君は、死者とその御霊のことについてなら、誰よりよくわかっていると思っているでしょう? それに、自分自身についても、自分のことなんだから、わからないことなんてあるはずがないと。でも、そんなはずはない、という思い込みは、存外、自分を強く拘束して視野を狭くするものよ」
「つまり、俺自身の中に、あれの――……幽霊――普段は、そういう言い方はしないけどな? が――いる状態、ってことか?」
 柚真人は、眉根を寄せて、水月の言葉を咀嚼しようと試みた。
 確かに、生きている時に縛られていた障害から、死ぬことによって解放されるという例はある。主には、それは人の御霊がその属する肉体に縛られるから、ということになるが、施された呪術もあるいはそれに類する障害といえば障害なのかもしれない。もっとも、他者から施された呪術は肉体だけでなく御霊にも及ぶことの方が多く、そこが厄介なところなのだが――『緋の禍鬼』としての記憶と力に覚醒した柚真人自身の霊力が、『柚真人』を呪縛した暁圭吾の力を凌げば、あるいは。考えられない話、でもない。
 柚真人は、死者を祓う巫だ。
 道を迷い、何かをこの世に遺して引きずる死者の御霊を黄泉路に送る。
 けれどもそれは、あくまで柚真人と対峙する存在に対して、である。
 自分の中に、自分の幽霊がいる、などということもは、言われてみれば、考えない。
「なにか、やり残した目的がある、というんでしょう?」
 水月は、柚真人にそうも向けた。
「それって――むしろ、幽霊っぽいって思ったけど。私はね。……だって、幽霊って、そういうものじゃない?」
「――……」
 やり残したこと。
 もう、少しの間だけ。
 柚真人は、自分の中で、自分――というか、『柚真人』が繰り返す言葉を、反芻した。
 ――幽霊、ねえ。
 案外と、正しい線なのかもしれない。
 そう思えは、夢の中の子供の姿をした――あるいは子供の姿のままであるのがその御霊の在り方なのか――『柚真人』のふるまいに、ひとつの筋を感じられなくもなかった。
 ただ、柚真人にとっての問題の本質の方は、そこではない。だとしたら、『柚真人』のいう、やり残したこと、というやつは、どうしたら聞き出せるだろう、ということが、どうしたってやはり問題になってくる。
 聞き出さなければならない気がするのに。それを知らなければならないような気がするのに。
 『柚真人』には、肝心のその部分をは、こちらに伝える気がないということか。
 そう、柚真人が考えを巡らせていると、オーダーしていた飲み物が、カウンター向こうから差し出された。タンブラー型のグラスの中身は、ハイボールだ。
 その時、いまさらもいまさらになって、水月がふと思いついたとでもいうように、訊いてきた。
「――そういえば柚真人君、今日、車じゃないのね?」
 柚真人は、軽く瞠目して水月のことを見返してしまった。
 ちなみにこのテーブルでアルコールをオーダーするのはこれで三杯目だ。
 車だったら問題だろう。
 柚真人はグラスを手元のコースターの上へと運びながら、それこそいまさらだなあと表情をそこから苦笑へと変えて応えた。
「だから、帰りは運転手を呼んである」
「――あら」
「そろそろ来るんじゃないかな」
 誰の事かは、水月にであればすぐにわかるだろう。
 それでなくとも、こんな時にこんなところに柚真人が運転手などと称して呼ぶ人間は、限られている。
 水月は、
「へえー。ひさしぶり!」
 といって、ちょっとかなり楽しそうな表情に――なった。
     ☆
 それから一週間後、皇神社に来客があった。
 その来客を、参道の鳥居の下まで見送った柚真人は、その後ろ姿が鳥居から神社沿いの道まで下りていく階段を降って自分の視界から消えていくまで眺めていた。
 オフホワイトのコートの背中に、その中ほどまで届く長い黒髪を揺らした女性は、いわば同業者で、皇と同じ勾玉の血脈を現代に継承する神社の神職だ。
 しかし彼女は、皇とはその役目を違えており、退魔を生業としている。
 というより、祓いの対象を死者に限定し、黄泉送りを専門とする皇の一族の方が、勾玉の血脈を受け継ぐ者たちの中では珍しい位置付けではあるのかもしれなかった。ただし、皇の一族は、生きとし生けるものの死に関わる祓事であれば、どのような事態にも対応する。そしてどのような御霊であっても、見捨て、見限ることはない。
 すなわち柚真人がいま見送った女性は、柚真人が水月から依頼された仕事を引き継ぎ、その処理が完了したことを柚真人に知らせに来てくれたのだった。
 水月は、皇の仕事の範疇だと思って柚真人に話を持ち掛けてきた。しかし水月の話を聞いて、少し事態を精査してみたところ、どうも違うな、これは自分には手が出せない、と柚真人にはすぐにわかった。そんなふうにして、分野違いの仕事を他の神社に引き継ぐことも、まれにあるのだ。
「お話、終わった?」
 と、背中から声がかけられたので、柚真人は振り向いた。
 そこには飛鳥と緋月が立っていて、事の次第を気にしているように見えた。いや、特に今回のことの次第というよりは――。
「今の、桜さんだよね」
 ストレートに、彼女のことが気にかかる、といったところか。飛鳥と緋月にしてみれば。
 いかにも、桜というのが彼女の名前だった。
 高徳寺桜。
 ひとことで言うと、目の覚めるような、美しい女性だ。どことなく、その美貌の雰囲気は柚真人に似ているかもしれない。そしてそれが、二人が気にかけていることの最たるところだろう。
 柚真人はとりあえず二人に頷いた。
「ああ。暁からの仕事を、ひとつ引き継いでもらってた。それが、片付いたそうだ」
 他のことには触れず、あくまで嘯く。しかし緋月はともかく飛鳥はそういうのが通用しないというか通用させてくれない男である。
 飛鳥は、少し目を細くするような仕草でもって、柚真人を見た。
「あの人がここに来るの、何年ぶりだっけ? 俺、相当しばらくぶりに見たと思うけど……あの人、いくつだ?」
「――それ、桜に直接言ったら殺されるぞお前」
 柚真人は肩をすくめて笑った。
 高徳寺桜は、――そうだな、と考える柚真人だ。
 見た目なら、自分より少し上になる。だいたいの人の目には、三十路を越えたかどうかといったところだろう。しかし飛鳥が言うことは、まあ、そういうことではない。彼が言いたいのは、相当しばらくぶりに見たはずの姿なのに、変わっていない、ということだ。柚真人と――それから、笄優麻などとも同じように。
 外見が変化しない。歳を、とっているように見えない。その意味を、飛鳥は問いたいのだ。
 飛鳥も緋月も、柚真人の傍にいるからこそそれに対する答えの推測もついているはずで、答えはおそらくそう遠く外れてはいない。しかし、その答えを自分が言うわけにもいかないだろうと考え、柚真人は答えを濁している。桜には、桜の事情があり。それもまた複雑なのだ。
 そして桜は桜で、自分が是と判断した相手にしか、自分についての話をしない。飛鳥や緋月は、申し訳ないが、そこに触れる資格を持たない。
 それに、桜の機嫌をそこねるのも、柚真人としては得策ではなかった。あまり正面から認めたくはないが、桜には、優麻と同じ程度と同じ意味での扱いづらさを、柚真人は感じている。
 いくつだ、と飛鳥は訊いたが、その本当のところは柚真人も知らない。推測は出来るが、柚真人ですら、あえて桜に向かって尋ねたいとは思わない類の問いだった。それは。
「まあ、敢えて言うならいろいろ微妙なお年頃かな。んが、正確なところなぞ知らなくても、今のお前に不都合はないはずだ。それに、あえて明確には知らない方がいいこともある」
「……」
「そのほうが、平和だ」
「……」
 飛鳥は、ふんと荒く鼻息つきそうな雰囲気だった。
 けれど、柚真人がぴしゃりと撥ねつけたことについては、さらに追及はしてこない。ただ、きちんと答えなかったことが逆に答えになりもする。そのことも、飛鳥はわかって引き下がらざるを得ないというような表情をしていた。
「わたくしは、あの方がすこし苦手ですわ」
 とは、緋月。
「……すこし、怖い感じがいたします」
 それにも、柚真人はこう答えた。
「まあ、怖いよ。その感覚も、正しい」
「――」
「あまり、本気で敵に回したくはない、祓い師だ。この俺でも――な」
 そう。怖い。それだけの力が、あの女にはある。
 そして柚真人自身、そこを信用したり、警戒したり、頼りにしたり、している部分もある。飛鳥がうっすら仄めかして訊いてきたように――自分や、笄優麻寄りの存在として。
 しかし、実のところ。
 その時、柚真人の胸のうちは、まったく別のことでざわざわと落ち着きなくざわついていた。
 それは。
 彼女が、つい先ほど。立ち去り際に、ふと。
 ひとつ、柚真人に向かって言い残したことについて、だ。
 普段、彼女はそんなような言動はしないのだが――だからこそ、強く、その言葉と言い様は柚真人を捕らえた。
 皇邸の居間での、仕事の話が終わって、柚真人に送られながら参道まで歩いてきた時。ふいに、柚真人の方を振り返って、彼女はこういった。
「ああ、そうだ。貴方にひとつ助言をするわ。……ここのところ、貴方が気にしているらしいことだけれど」
 急に言われたので、咄嗟には彼女が何を言っているのかと思った。
 けれど、彼女は続けて、
「『それ』、じゃないわ。貴方が気にすべきことは。気になる気持ちはわかるけどね。……何を気にかけ、何をすべきか。貴方自身がするべきことを、間違えないようになさい。もう、そう遠くないうちに、わかるわ」
 なぞなぞみたいな物言いだ。
 だが、それはあえてだと柚真人は知っていた。
 彼女――高徳寺桜は、千里眼能力を持っている。その能力は強力で、ゆえに皇柚真人と同様に、力の使役に制限がかけられている。その禁を破らぬ程度に、彼女が能力で霊視たものを外に伝えようとすると、このような言葉の選びになるのだ。
 そういう時、彼女は、同族のよしみで、と柚真人に言う。同族のよしみ――そして境遇も互いに近いところにあるからか、彼女はそのようにして何度か柚真人を援けてくれたこともあった。
 彼女の能力は、本物で、強力だ。柚真人からしても、十二分に。
 それは、鎮護官たちが囲って守る、未来視の巫女――桜御護にも近いところがあった。
 いまのところ、桜御護や鎮護官からは最近定時以外の接触や連絡はない。しかし、彼女が課された禁のすれすれに触れて言葉を残したのであれば。
 それは、きっと、信用に足る。
 おそらく今回は、仕事の引継があった関係で、柚真人が水月にもちかけていた例の夢の話についてがその能力に触れたのだろう。だがそれだけでなく、彼女の能力は、柚真人や水月には知ることのできない、その先にも触れた。
 彼女いわく、霊視ようと思えば彼女にはどこまででも霊視ることが出来るらしい。桜御護との違いは、そこだ。そして彼女の力に制限が必要な理由もまた同じ。
 彼女が何をどこまで霊視たのか、は、わからない。わからないが。
 もしか、しなくとも。
 近いの、か。
 その時が。
 そう、思う。
 思えば、胸はざわついて、締めつけられるような焦燥感に息が詰まる。
 またそれを、希望と取ればいいのか。あるいは新たな絶望に触れうるものなのか。わからない。
 間違えないように、と彼女は言った。ならば。
 今はまだどちらにも振れうる選択肢が、柚真人の前に迫っている、ということだろう。
 とはいえ。
 飛鳥と、緋月には――まだ――言えない。その程度の、淡い確信だ。彼女の言葉には、いつ、も、なに、も、どう、も欠けている。
 だから、喉を締めるような心地を飲み込み、柚真人は平静を繕う。その下で、歯がゆさと苛立ちと逸る心地を抑えつけながら、自分の一番大事なものを想っていた。
      ☆
 顔を合わせて話したい、いくらか訊きたいことがある。こちらがそう思っても、相手がこちらの望むように夢に現れてくれることはない。
 必要があるから夢で逢う。
 あいつはそう言っているから、自分の夢に出てくるにしても、あいつにはあいつなりの何か規則性もあるのだろう。
 幽霊、のようなものだってんなら。
 もうちょっと俺の意思に応えてくれても良さそうなもんなんだが。
 そう考える柚真人は、今、自分が夢の中にいるのか、それとも眠りに入り込みながら取り留めなく思考しているところなのか、よくわかっていなかった。
 お前は、いま、どこにいるんだ。
 返事はないと知っていても、問いたくなる。
 そういえば、もし、夢であるのであれば。
 せめて『彼女』の方に逢いたいものだが――。
 そんな夢は、ついぞ見ないな。
 そうも、柚真人は考えた。
 この手から失われるまでは、何度も詮無き夢を見た。気が、狂いそうだと思うほどに。けれどあの日、ありえない失態を犯し、あの、とてつもない絶望を自分自身へのどうしようもないほどの失望を味わってからは。それこそ己の罪悪感からなのか何なのか、夢の中ですら、『彼女』には逢えない。むろん、夢の中で逢えたとしても、それはよけいに虚しい幻想でしかなくもあるのだけれど。
 お前にこそ、逢いたいよ。
 どうすればいい。
 どうすれば間違わずに。
 この手をお前に届かせることができる。
 ――…………司。
 そう願い、焦がれてやまないたったひとつの名を呼びながら、意識は、闇の中に落ちていく。
 その傍らで。
 遠く。
 かすかに。
 ――それは、ぼくも同じだよ。
 ――だから、それはきみに託すよ。
 ――よろしく。
 どこかから、そんな言葉が聞こえた気がした。
 同時に、それは柚真人の意識をすり抜けていき、記憶として残ることはなかった――けれど。