4 差し出されたカード

ー/ー



「どうしよう。迷った」

 階段を上ったり下りたりしているうちに、私は出口を見失った。
 度を越した方向音痴に加えて、激しく動揺していたため、看護師に道を尋ねて病院を出る頃には30分以上経っていた。

「ああ、またしても無駄な時間を過ごしてしまった……何も悪いことはしていないのに」
(あの人といるとペースが狂う)

 思えば最初から変だった。声にときめき、ハプニングに怯えて。
 わけのわからない理由で褒められて採用されて落ち込んで。
 助けた人はお祖父様で病院でまた偶然会って。こんなの、絶対……。

「運命だな」

 至近距離でそう言われ、私は思わず飛び上がった。
 私の正面に烏丸さんがいる。

「先回りして待ってた。随分遅かったな。一体何をしてたんだ」

 不思議そうな声。
 こっちのセリフだ。

「どうして私の心の声を!」
「流石の俺もテレパシーは持ってない。君が独り言を言ってたんだろ」

 そんな。いい大人がブツブツ話しながら歩いていたなんて。
 またしても恥をかいてしまった。

「迷ってました! 失礼しますっ」

 私は彼の傍らをすり抜け、コンクリートの階段に向かう。

「待て」

 追ってくる気配があり焦った私は小石につまずき、つんのめった。

「うわあああ」

 斜め前に迫った階段に、恐怖を覚える。結構高い。
 こけて負傷だなんて見っともない。烏丸さんの前だから余計に恥だ。

 と、腕をとられて、ぐい、と引きあげられる。

「大丈夫か?」

 烏丸さんの手だったが、その前にかけられた声にうっかりときめき、「ふ、ふぁい」と間抜けな声をあげてしまった。
 だめだ、落ち着かなきゃ、と思った瞬間、鼻の頭が彼の胸にぶつかる。
 コロンの香りが鼻腔をくすぐり服の上からでもわかる逞しい胸板にドキっとした。
 顔が真っ赤になるのがわかる。男の人との接触に慣れてないからだ、と私は己に言い聞かせた。

「ありがとうございます」

 そう言って体を遠ざけた瞬間、『チャンスのカードは平等だ』と、烏丸さんの声が流れてきた。

「えっ? あっ!」

 ペンダントが点滅している。

(いけないっ。私のコレクションがっ)

 慌てて止めようとしたが、「なんだ、これ」烏丸さんに取り上げられた。

『はあああ。素敵な声。生き返るわー』

 今度は少し巻き戻ったらしく、能天気な私の声が流れてしまう。

「きゃあああ、すみませんっ」

 私は彼の手からペンダントを奪い足を止めた。
 心臓をバクバクさせながら恐る恐る前を見ると、不審者を見るような眼差しの烏丸さんが目に入った。

(うううう、でも、当然だわ!)
 
 完璧、これで嫌われた。
 もう追われることもないだろう。
 しかしそれならそれで、開き直っちゃおう。

「説明させてください!」

 私はがしり、と彼の腕を掴み、高い木の後ろへと足早に歩く。
 向き合うと随分背が高い。180センチは超えていそうだ。
 首を思い切り反らさないと目が合わない。

「若い女の子がイケメンを物陰に引っ張り込んだぞな」
「最近の女子は積極的じゃのう」

 高齢男女がヒソヒソ話で通り過ぎる。
 そんなふうに見えてるの?
 ショックだけれど、今は照れてる場合じゃない。

「ごめんなさいっ! 実は、私、烏丸さんが好きだったんですっ」

 私は深々と頭を下げた。
 結局悪事には報いがある。
 全てがバレて、焦ったけれど、どこかホッとしている自分もいた。

「はあ? 俺の事が、好き? その態度で?」

 思いっきり呆れたような声が返ってきた。
 短い語句でも美しい声。頬がなぜか赤らんでいる。

「間違えました。好きなのは声、です! 烏丸さんそのものではなくて」
 
 私は慌てて言い直す。
 烏丸さんはどこかムッとした表情になり、「続けて」と言った。

「落ち込んでたとき、あなたの動画に元気をもらえて……声を録音させていただこうと、邪な気持ちで説明会に潜り込みました……もうしません。ファイルも消します。本当にすみませんでした」

 どれだけ気持ち悪がられても仕方ない。ただ、出来れば……許して欲しい。

「なるほど。真面目そうに見えて俺のストーカーだったのか」

 どんぴしゃりなキャッチフレーズに首をすくめる。

「はい」
「無断で録音して? 断りもなく?」
「ごめんなさいっ」
「何度もそれを聞き直すつもりで?」
「気持ち悪いですよねっ。でもしませんから!」
「いや別に構わないけど?」

 くぐもった声。
 と、頭を温かいものが包み込み、私はそっと顔をあげる。
 真顔の彼が私の頭を撫でていた。目があってもやめようとしない。

「あの、烏丸さん?」
「大した罪でもないのに、君という人は……まあ、だからこそ面白い」

 ホールの時は褒め殺しに聞こえたけれど、今のはちゃんと褒め言葉に聞こえた。

「あの、烏丸さん、これはどういう?」

 どこかたそがれている彼に、私は撫で撫でに意識を促す。

「あ、いや、なんか、死んだ妹を思い出して」

 烏丸さんは淡々と説明した。

「えっ! 妹さんですか!」
「あ、いや、うるうるしなくていい。妹といってもポメラニアンだ。犬だよ」
「え、犬?」
「ああ」
 
 思う存分といった様子で私の頭をひとしきり撫で、烏丸さんは言う。
 変な気分だった。だって私はもう25歳で誰かにヨシヨシされる年でも立場でもない。
 でも、なぜか逆らえなかった。

「謎に反省する犬だった。すぐに隅っこでうなだれて。目も髪も茶色くて、うん。君に似ている。だからつい」

 やっと手が離れていく。
 私はじっと彼を見つめた。この感じ、もしかして許してくれたのだろうか。

「少し話そう」
 
 そう言われ、ベンチへ誘われる。
 私を座らせると、彼は険しい顔で言う。

「待ってろよ。絶対に逃げるな。返事は?」
「はい」
「約束を破ったら許さない」

 肉食動物の意図的な圧に震え上がる。

「逃げません!」

 私は背筋を伸ばして請け合った。
 しばらくすると烏丸さんは缶コーヒーを2つ手にして戻ってきた。

「いい子にしてたな。偉いぞ」

 まるで犬をしつけるような口ぶりで言うと、隣に座る。
 近い距離にドキッとした。
 足が触れ合い、私はさり気なく距離を取る。
 本当に、男性とのスキンシップに慣れてないのだ。
 ただそれだけ。
 烏丸さんが推しだから、とか目を見張るような美青年だから、なんて事とは関係ない、と思う。多分。

「祖父を助けてくれてありがとう。君が受け止めなかったら大惨事だったと聞いている」

 そう言って烏丸さんは頭を下げた。

「そんな、大げさです。人として当然の事をしただけです」
「いや、それは違う」

 烏丸さんは神妙な顔だ。

「君がとっさに動けたのは普段から人を観察しているからだ。こういう事は今までにもあったんだろう? いざという時に動けるのは結局準備をしている人間だけだ」
「そんな」
「君がその場所にいてくれて本当に幸運だった。結果オーライ。逃げ出した事は許してやる」
「本当ですか!? あの、声フェチも?」
「そんなものには最初から怒ってない。さっきのは……からかっただけだ」
「ありがとうございます!! 良かった!」

 私の顔はふにゃりと弛んだ。
 心が広いなあ。絶対気持ち悪がられると思ってた。
 烏丸さんって変だけど、いい人かも。

「許しはするが謎だらけだ。なぜ逃げた? 2度も俺は君に振られた。声だけでも俺が好きなら普通はむしろ、注目されたら喜ぶだろう」

 だけ、の部分を何故か強調しつつ、烏丸さんは尋ねてくる。

「……それは……」

 私は口ごもる。

「さっき烏丸さんがおっしゃったみたいに、準備ができてなかったからかもしれません。烏丸商事みたいな大手だなんて。私には遠い世界ですし、もっとふさわしい人がいくらでもいると思うんです」
「音楽畑に未練があるのか?」

 私は大きく左右に首を振った。

「いいえ。普通の事務員になります。秘書課を出てますから事務系は一通り出来ますので」
「なるほど。秘書課か。それはグッドタイミングだったな。社長秘書の席が空いている。明日から来てくれ」
「え?」
「短大で二年学んだんだろう。あとは君の資質で十分だ」

 烏丸さんはポケットから青い紐付きのネームを取り出し私の首にかけた。
 表側にKから始まるローマ字が印字されている。

「Ka……カラスマ?」
「本社ビルの入場パスだ。明日の朝10時半までに出社しろ。社長室で待っている」
「え?」

 私は彼を見上げた。

「誰もが欲しがるレアカードだ。捨てるなよ」
「冗談……?!」
「本気だ。いいか」

 烏丸さんの目が、獲物を狙う肉食獣のような鋭さを帯びた気がして、私はまた逃げたくなった。
 が、気づかれたのか、先回りしてネームの紐を握られる。まるで首輪をつけられたよう。

「ホールで鳴ったのは君のスマホじゃない。隣の嘘つき女をかばったな。今も資産家を助けたというのに恩に着せようともしない。それだけでも信用できる。それに、ここで出会ったのは運命だ。すべてのカードが揃った。イエスと言うまで、毎日でも粘るぞ」

 唖然としている私に烏丸さんはきっぱりと言った。

「でも私には私なりの人生設計があります」
「そんなの、今すぐ書き換えろ。いいか」

 烏丸さんは私の耳に唇を寄せた。

「この声が好きなんだろ。だったらずっと聞いていろ。君に特等席を用意してやる」

 吐息がまじる、バリトンボイス。
 酷い。
 耳のよい私は気づいてしまう。
 今のは絶対わざとだった。
 声に特別な魔力をこめた。
 一部の動物が狩りの時に使う、催眠術みたいな特別な音色。

 ドキン、と心臓が跳ね上がる。
 この声に抗える人なんて絶対にいない。
 だから。
 私は彼を見つめたまま、瞬きを忘れこうつぶやく。

「よろしくお願いします」

 運命の扉が開かれた気がした。


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 階段を上ったり下りたりしているうちに、私は出口を見失った。
 度を越した方向音痴に加えて、激しく動揺していたため、看護師に道を尋ねて病院を出る頃には30分以上経っていた。
「ああ、またしても無駄な時間を過ごしてしまった……何も悪いことはしていないのに」
(あの人といるとペースが狂う)
 思えば最初から変だった。声にときめき、ハプニングに怯えて。
 わけのわからない理由で褒められて採用されて落ち込んで。
 助けた人はお祖父様で病院でまた偶然会って。こんなの、絶対……。
「運命だな」
 至近距離でそう言われ、私は思わず飛び上がった。
 私の正面に烏丸さんがいる。
「先回りして待ってた。随分遅かったな。一体何をしてたんだ」
 不思議そうな声。
 こっちのセリフだ。
「どうして私の心の声を!」
「流石の俺もテレパシーは持ってない。君が独り言を言ってたんだろ」
 そんな。いい大人がブツブツ話しながら歩いていたなんて。
 またしても恥をかいてしまった。
「迷ってました! 失礼しますっ」
 私は彼の傍らをすり抜け、コンクリートの階段に向かう。
「待て」
 追ってくる気配があり焦った私は小石につまずき、つんのめった。
「うわあああ」
 斜め前に迫った階段に、恐怖を覚える。結構高い。
 こけて負傷だなんて見っともない。烏丸さんの前だから余計に恥だ。
 と、腕をとられて、ぐい、と引きあげられる。
「大丈夫か?」
 烏丸さんの手だったが、その前にかけられた声にうっかりときめき、「ふ、ふぁい」と間抜けな声をあげてしまった。
 だめだ、落ち着かなきゃ、と思った瞬間、鼻の頭が彼の胸にぶつかる。
 コロンの香りが鼻腔をくすぐり服の上からでもわかる逞しい胸板にドキっとした。
 顔が真っ赤になるのがわかる。男の人との接触に慣れてないからだ、と私は己に言い聞かせた。
「ありがとうございます」
 そう言って体を遠ざけた瞬間、『チャンスのカードは平等だ』と、烏丸さんの声が流れてきた。
「えっ? あっ!」
 ペンダントが点滅している。
(いけないっ。私のコレクションがっ)
 慌てて止めようとしたが、「なんだ、これ」烏丸さんに取り上げられた。
『はあああ。素敵な声。生き返るわー』
 今度は少し巻き戻ったらしく、能天気な私の声が流れてしまう。
「きゃあああ、すみませんっ」
 私は彼の手からペンダントを奪い足を止めた。
 心臓をバクバクさせながら恐る恐る前を見ると、不審者を見るような眼差しの烏丸さんが目に入った。
(うううう、でも、当然だわ!)
 完璧、これで嫌われた。
 もう追われることもないだろう。
 しかしそれならそれで、開き直っちゃおう。
「説明させてください!」
 私はがしり、と彼の腕を掴み、高い木の後ろへと足早に歩く。
 向き合うと随分背が高い。180センチは超えていそうだ。
 首を思い切り反らさないと目が合わない。
「若い女の子がイケメンを物陰に引っ張り込んだぞな」
「最近の女子は積極的じゃのう」
 高齢男女がヒソヒソ話で通り過ぎる。
 そんなふうに見えてるの?
 ショックだけれど、今は照れてる場合じゃない。
「ごめんなさいっ! 実は、私、烏丸さんが好きだったんですっ」
 私は深々と頭を下げた。
 結局悪事には報いがある。
 全てがバレて、焦ったけれど、どこかホッとしている自分もいた。
「はあ? 俺の事が、好き? その態度で?」
 思いっきり呆れたような声が返ってきた。
 短い語句でも美しい声。頬がなぜか赤らんでいる。
「間違えました。好きなのは声、です! 烏丸さんそのものではなくて」
 私は慌てて言い直す。
 烏丸さんはどこかムッとした表情になり、「続けて」と言った。
「落ち込んでたとき、あなたの動画に元気をもらえて……声を録音させていただこうと、邪な気持ちで説明会に潜り込みました……もうしません。ファイルも消します。本当にすみませんでした」
 どれだけ気持ち悪がられても仕方ない。ただ、出来れば……許して欲しい。
「なるほど。真面目そうに見えて俺のストーカーだったのか」
 どんぴしゃりなキャッチフレーズに首をすくめる。
「はい」
「無断で録音して? 断りもなく?」
「ごめんなさいっ」
「何度もそれを聞き直すつもりで?」
「気持ち悪いですよねっ。でもしませんから!」
「いや別に構わないけど?」
 くぐもった声。
 と、頭を温かいものが包み込み、私はそっと顔をあげる。
 真顔の彼が私の頭を撫でていた。目があってもやめようとしない。
「あの、烏丸さん?」
「大した罪でもないのに、君という人は……まあ、だからこそ面白い」
 ホールの時は褒め殺しに聞こえたけれど、今のはちゃんと褒め言葉に聞こえた。
「あの、烏丸さん、これはどういう?」
 どこかたそがれている彼に、私は撫で撫でに意識を促す。
「あ、いや、なんか、死んだ妹を思い出して」
 烏丸さんは淡々と説明した。
「えっ! 妹さんですか!」
「あ、いや、うるうるしなくていい。妹といってもポメラニアンだ。犬だよ」
「え、犬?」
「ああ」
 思う存分といった様子で私の頭をひとしきり撫で、烏丸さんは言う。
 変な気分だった。だって私はもう25歳で誰かにヨシヨシされる年でも立場でもない。
 でも、なぜか逆らえなかった。
「謎に反省する犬だった。すぐに隅っこでうなだれて。目も髪も茶色くて、うん。君に似ている。だからつい」
 やっと手が離れていく。
 私はじっと彼を見つめた。この感じ、もしかして許してくれたのだろうか。
「少し話そう」
 そう言われ、ベンチへ誘われる。
 私を座らせると、彼は険しい顔で言う。
「待ってろよ。絶対に逃げるな。返事は?」
「はい」
「約束を破ったら許さない」
 肉食動物の意図的な圧に震え上がる。
「逃げません!」
 私は背筋を伸ばして請け合った。
 しばらくすると烏丸さんは缶コーヒーを2つ手にして戻ってきた。
「いい子にしてたな。偉いぞ」
 まるで犬をしつけるような口ぶりで言うと、隣に座る。
 近い距離にドキッとした。
 足が触れ合い、私はさり気なく距離を取る。
 本当に、男性とのスキンシップに慣れてないのだ。
 ただそれだけ。
 烏丸さんが推しだから、とか目を見張るような美青年だから、なんて事とは関係ない、と思う。多分。
「祖父を助けてくれてありがとう。君が受け止めなかったら大惨事だったと聞いている」
 そう言って烏丸さんは頭を下げた。
「そんな、大げさです。人として当然の事をしただけです」
「いや、それは違う」
 烏丸さんは神妙な顔だ。
「君がとっさに動けたのは普段から人を観察しているからだ。こういう事は今までにもあったんだろう? いざという時に動けるのは結局準備をしている人間だけだ」
「そんな」
「君がその場所にいてくれて本当に幸運だった。結果オーライ。逃げ出した事は許してやる」
「本当ですか!? あの、声フェチも?」
「そんなものには最初から怒ってない。さっきのは……からかっただけだ」
「ありがとうございます!! 良かった!」
 私の顔はふにゃりと弛んだ。
 心が広いなあ。絶対気持ち悪がられると思ってた。
 烏丸さんって変だけど、いい人かも。
「許しはするが謎だらけだ。なぜ逃げた? 2度も俺は君に振られた。声だけでも俺が好きなら普通はむしろ、注目されたら喜ぶだろう」
 だけ、の部分を何故か強調しつつ、烏丸さんは尋ねてくる。
「……それは……」
 私は口ごもる。
「さっき烏丸さんがおっしゃったみたいに、準備ができてなかったからかもしれません。烏丸商事みたいな大手だなんて。私には遠い世界ですし、もっとふさわしい人がいくらでもいると思うんです」
「音楽畑に未練があるのか?」
 私は大きく左右に首を振った。
「いいえ。普通の事務員になります。秘書課を出てますから事務系は一通り出来ますので」
「なるほど。秘書課か。それはグッドタイミングだったな。社長秘書の席が空いている。明日から来てくれ」
「え?」
「短大で二年学んだんだろう。あとは君の資質で十分だ」
 烏丸さんはポケットから青い紐付きのネームを取り出し私の首にかけた。
 表側にKから始まるローマ字が印字されている。
「Ka……カラスマ?」
「本社ビルの入場パスだ。明日の朝10時半までに出社しろ。社長室で待っている」
「え?」
 私は彼を見上げた。
「誰もが欲しがるレアカードだ。捨てるなよ」
「冗談……?!」
「本気だ。いいか」
 烏丸さんの目が、獲物を狙う肉食獣のような鋭さを帯びた気がして、私はまた逃げたくなった。
 が、気づかれたのか、先回りしてネームの紐を握られる。まるで首輪をつけられたよう。
「ホールで鳴ったのは君のスマホじゃない。隣の嘘つき女をかばったな。今も資産家を助けたというのに恩に着せようともしない。それだけでも信用できる。それに、ここで出会ったのは運命だ。すべてのカードが揃った。イエスと言うまで、毎日でも粘るぞ」
 唖然としている私に烏丸さんはきっぱりと言った。
「でも私には私なりの人生設計があります」
「そんなの、今すぐ書き換えろ。いいか」
 烏丸さんは私の耳に唇を寄せた。
「この声が好きなんだろ。だったらずっと聞いていろ。君に特等席を用意してやる」
 吐息がまじる、バリトンボイス。
 酷い。
 耳のよい私は気づいてしまう。
 今のは絶対わざとだった。
 声に特別な魔力をこめた。
 一部の動物が狩りの時に使う、催眠術みたいな特別な音色。
 ドキン、と心臓が跳ね上がる。
 この声に抗える人なんて絶対にいない。
 だから。
 私は彼を見つめたまま、瞬きを忘れこうつぶやく。
「よろしくお願いします」
 運命の扉が開かれた気がした。