表示設定
表示設定
目次 目次




失ったもの

ー/ー



 魔神の居城の最深部が崩れ始めていた。

 轟音。天井から石が降り注ぎ、壁にひびが走る。裂けた床の隙間からは、マグマが荒々しく吹き上がっている。

「魔神は封印できました。けれど、新たな問題が残りましたね」

 フクロウの姿をした精霊コタが、鋭い瞳で前を見つめる。その視線の先では、ルークが片膝をつき、肩で息をしていた。

 ルークの全身からは、黒い瘴気があふれ出している。地へこぼれ落ちるたび、瘴気は火花のように揺らめき、周囲の空気を濁らせていった。

「魔神の置き土産は呪いですか」

 低く響くコタの声に、ルークは唇を噛んだ。

「私は大丈夫だ。それよりランパが」

 傍らに横たわるランパの体からも、同じ瘴気が噴き上がっていた。小さな身体が震え、苦しげな呼吸が漏れる。その声はかすかで、今にも消えそうだった。

「厄介ですね。契約者だけでなく、契約した精霊にまで及ぶ呪いとは」

 コタは静かに翼を広げた。凍てつく冷気が広間に広がり、荒れ狂うマグマを一瞬で固めていく。

「助ける方法は、ひとつだけです。ルーク、あなたもわかっているはず」

「……契約の破棄か」

 ルークの声は震えていた。

「そんなことをしたらチビくんの記憶が!」

 狼の姿をした精霊レブンが、降り注ぐ瓦礫を砕きながら叫ぶ。

「ええ。契約を破棄すれば、契約者との記憶はすべて失われます。ランパは助かる。けれど、あなたたちの思い出は、跡形もなく消えてしまう」

「そう、か」

 ルークは歯を食いしばり、拳を震わせた。

「私は、ランパを死なせたくない……だが」

 その瞬間、ルークの剣と鎧から、四色の光が奔った。崩れゆく闇を切り裂き、広間を照らす神々しい輝き。

「……四大!」

 コタとレブンが目を見開く。

 ――樹の精霊の記憶は、私たちが預かりましょう。

 ――な、永き時の果てまで、決して忘れずに守り続けますっ!

 ――だから、安心するんだなぁ。

 ――さぁ、はやく!

 光に包まれたランパの体が、ゆっくりと安らいでいく。

 ルークは彼を抱きしめた。

「いったん、さよならだな」

「……オイラ、助けられてばっかだな」

「そうだな。うん、もし次に会えるときが来たら、今度はきみが私を助けてくれ」

 ルークはランパをそっと床に下ろす。両腕を大きく広げ、空間に響き渡る声で叫んだ。

「ランパとの契約を、破棄する!」

 まばゆい閃光が走り、ランパの体は木の枝へと変わっていく。

 その小さな枝は静かに光を宿し、ルークの両手の中に残された。

「ランパ……」

 ルークの仮面の下から涙があふれる。

 雄叫びが、崩壊の音をかき消した。

 ◇

「うああああっ! ランパ、ランパ!」

 自分の叫び声に、勇斗は飛び起きた。

 しばらく、何も聞こえなかった。

 左耳の奥で血の音が響き、そのあとに静寂が訪れる。

「今のは、夢?」

 勇斗は汗ばんだ額を押さえ、視線を彷徨わせた。

 木の壁、古びた机、積まれた本。見慣れぬ部屋だった。窓からは白い光が差している。

「おや、目が覚めましたか」

 静かな声がした。

 本を閉じ、椅子から立ち上がったのは、長い銀髪の男、トゥーレだった。

「トゥーレさん? ここは? 僕……」

「ウルパの町にある、私の家です」

「どうして、僕は」

「覚えていないのも仕方ありませんか。あなたは瀕死の状態で雪と瓦礫に埋もれていました。たまたま私がウルパに戻っていなかったら、あなたはこの世にはいなかったでしょう」

 勇斗は絶句した。

「ユートくん、今、自分の身体がどうなっているか、わかりますか?」

 トゥーレの問いに、勇斗はおそるおそる上体を起こした。

 違和感。

 視線を落とした瞬間、息が詰まった。

 左腕が、なかった。肘の下から先が消えている。

 恐怖が一気に蘇る。ソーマの冷たい笑み。腕を斬られ、両目を抉られ、右耳を削がれた、あの悪夢のような瞬間。

 けれど、なぜ? 両目を失ったはずなのに、今、トゥーレの姿も、部屋の景色も見えている。

「不思議に思っているでしょう。自分の顔を見てみますか?」

 トゥーレは掌をかざし、空中に水の鏡を作り出した。

 そこに映った自分の顔を見た瞬間、勇斗は絶句した。

 右耳がない。両目のまわりには深い傷跡。左目は完全に失われていたが、右目には緑色の光を宿した義眼がはめ込まれていた。

「この右目は……」

 トゥーレは穏やかに微笑んだ。そして、半開きの扉へと顎をしゃくる。

「あの子に聞いてみなさい」

 勇斗が目を向けると、扉の隙間から、小さな顔がのぞいていた。

「入ってきなさい。そして、説明してあげなさい」

 ギィ、と扉が軋む。ランパが俯いたまま、そろりと部屋へ入ってきた。

「ランパ!」

 勇斗はベッドから飛び起きた。だが、すぐに足がもつれ、床に倒れ込む。瞬間、ないはずの左腕に激痛が走った。思わず唸ってしまう。

「まだその身体に慣れていません。無茶は禁物ですよ」

 トゥーレがそっと肩を貸してくれた。勇斗は痛みをこらえながら、なんとか立ち上がる。

「ユートの義眼、オイラが作ったんだ」

 ランパがぽつりと呟いた。

「精霊樹の枝の一部と、コタの精霊石を合成した。片方しか作れなかったけど」

「寝る間も惜しんで看病していたのも、彼ですよ」

 勇斗は胸が詰まった。

 そこまでしてくれていたのか。ソーマに騙されていたとはいえ、あんな冷たい態度を取ってしまったのに。

「ランパ、ごめん。僕が迂闊だった。許してほしい」

「いいよ、もう」

 ランパはかすかに笑った。

「オイラ、ユートが生きてくれただけで満足だ」

「ほんとに、ごめん」

「あーもう、じれったい!」

 ランパは頬をふくらませ、拳を握った。

「くよくよすんなっての! もう終わったことだろ! ほら、仲直りしようぜ!」

 ランパの笑顔が、眩しかった。右目がにじんだ。

 勇斗は胸の奥が熱くなるのを感じた。

「九死に一生を得たのです。その命、大切にしなさい」

 トゥーレが静かに言った。
 

「ユート、目が覚めたんスね!」

「よかったぁ!」

 トゥーレに肩を借りながらリビングに足を運んだ瞬間、チカップとペックが駆け寄ってきた。

「でも、すべて元通りにはならなかったんスね」

 チカップの声は震えていた。

「仕方ないじゃん。さすがのボクちんでも、失った部位までは再生できない。ま、生きてるだけでめっけもんだよ」

 ペックは羽をぱたぱたさせ、軽口を叩きながら部屋を飛び回った。

「あなたとランパくんを見つけたのはチカップくん。そして治療をしたのはペック。二人にも感謝ですね」

「二人とも、ありがとう」

 勇斗は深々と頭を下げた。

「お久しぶりです、アルト……いえ、ユート」

 シグネリアが優雅にお辞儀をした。長かったローズピンクの髪はバッサリと切られ、ショートヘアになっている。ドレスではなく、旅人用の服をまとっていた。厚手のベージュの上着に革のベルト。スカートの裾には泥の跡が残っていた。

「そういえば、どうしてトゥーレさんとシグネリア王女がウルパに? ソレイン王国は?」

「その話は、座ってからにしましょう」

 トゥーレが椅子を示す。

「さあ、腰を下ろして。話すことが山ほどありますから」

 勇斗は静かに頷き、椅子に腰を下ろした。

「ソレイン城は、クラバンの手に墜ちました」

 その一言で、部屋の空気が張り詰めた。暖炉の火が弾ける音だけが、静寂の中に響く。

「あの日、すべてが終わりました。最初の異変が起きたのは、四日前の夜です。クラバン大臣が、突如として王の御前に現れました。顔色は死人のように蒼く……けれどその目だけが、赤く燃えるように光っていたのです」

 シグネリアの声が震えた。

「父上は兵に命じ、クラバンを拘束させようとしました。ですが、その場にいた兵たちが、次々に歪んでいったのです。骨が軋み、皮膚が裂け、声にならない叫びを上げながら……人ではない何かに変わっていく。私は、それを目の前で見てしまいました」

 勇斗たちは息を呑んだ。

「クラバンは笑っていました。そして、父上はその場で斬られ、跡形もなく燃やされました」

 シグネリアは唇を噛み、しばらく言葉を失った。

 小さく息を吸い、再び語り始める。

「気づけば、私は燃え広がる城下を走っていました。炎の匂い。泣き叫ぶ民。空には赤い霧が立ちこめ、どこまでも逃げ場がありませんでした。城壁の外へ逃れる道は、すでに魔族に塞がれていたのです」

 その声には、疲労と恐怖と、消えぬ悔しさが滲んでいた。

「その時、トゥーレが現れました。彼も城を脱出したばかりだったのでしょう。服は焦げ、腕に傷を負っていました。それでも私の手を掴み、生き延びる道を示してくれたのです。そして、追っ手の群れを相手に魔法を放ち、私をこのウルパまで導いてくれました」

 語り終えると、シグネリアは目を細め、小さく息を吐いた。

「私は、これからどうすればよいのでしょう」

 重い沈黙が、部屋を包み込む。

「すみません……少し、疲れました。トゥーレ、二階のベッドをお借りしてもよろしいでしょうか」

「えぇ、もちろんです。今は何も考えず、休みなさい」

 トゥーレの穏やかな声にうなずき、シグネリアは静かに立ち上がった。

 扉の閉まる音がして、再び部屋に静けさが戻った。

「さて、事情はその通りです」

「トゥーレさんは、これからどうするのですか」

「しばらくは、この町で王女殿下と共に身を潜めます。まだ混乱の余波が残っていますし、城下の民の避難も終わっていません。いずれ時機を見て、クラバンを討ち、ソレインを取り戻すつもりです」

 トゥーレの口調は穏やかだった。しかし、勇斗はその声に不安を感じた。なぜだかはわからなかった。

「僕たちも、協力します」

 衝動的に言ってしまった。胸の奥がわずかに痛む。ソーマの笑顔が脳裏にちらつく。

「ありがとう。けれど、あなたたちはあなたたちの目的を果たしなさい。マナの聖域へ行くのでしょう?」

「は、はい」

「私なら大丈夫です。お気遣いなく」

「でも……」

 勇斗は眉をひそめ、何かを言いかけた。そのとき、ランパが腹の虫を鳴らした。

「おい、腹へったぞ」

 部屋の空気が一瞬ゆるむ。

「はは、どうやら話はここまでのようですね。少し待っていてください。温かいスープくらいなら作れますから」

 トゥーレは立ち上がり、キッチンへと向かった。

 やがてスープが運ばれてきた。赤と橙の野菜が浮かぶ、ミネストローネのようなスープだった。

 口に運ぶたび、体の芯がじんわりと温まっていく。

 片手で何とか食べ終えると、胸の奥に小さな灯がともるようだった。久しぶりに、食事が生きるためのものだと感じた。

 勇斗は小さく息を吐いた。
 

 客間に戻ると、部屋の隅に聖剣クトネシスと精霊器ラクメトが置かれていた。どちらも傷ひとつなく、静かに輝いている。ただ、左のガントレットだけが見当たらなかった。

 これでは、ドラシガーに火をつけられない。

「あれ?」

 勇斗は眉を寄せた。よく見ると、右のガントレットの形状が以前と違っている。かつては親指以外が一枚の金属で覆われたミトン型だった。だが今は、五本の指が独立しており、甲の部分には灰色の宝珠がはめ込まれている。

「それも合成で作ったやつだよ」

 声の主はランパだった。小さな体でドアの影から顔を出し、得意げに胸を張る。

「火がつけられないと、ドラシガー吸えないだろ?」

「あ、ありがとう。何を素材に使ったの?」

「マントの中に入ってた、変な金属。あれを使ったんだ」

 勇斗は思い出した。森で拾ったオイルライターだ。あの金属を素材にしたから、宝珠も鈍い灰色をしているのだろう。

「吸うなら外で吸えって、トゥーレが言ってたぞ。行くか?」

「う、うん」

 勇斗はランパに手伝ってもらい、精霊器ラクメトを装着した。

 外に出ると、雪が静かに舞っていた。灰色の雲の隙間からわずかに光が差し込み、町の屋根を銀色に染めている。吐いた息が白く広がり、空気は澄んで冷たかった。

 マントの内側からドラシガーを取り出す。吸い口は、ランパが代わりに切ってくれていた。片腕では難しいから、これからも自分がやる、と言ってくれたのだ。ありがたかった。

 勇斗はドラシガーを咥え、ガントレットの甲に埋め込まれた灰色の宝珠に意識を向ける。

 宝珠から青白い炎が放たれ、ドラシガーの先を静かに照らした。腕を慎重に動かし、息を吸いながら火を灯す。

 ゆっくりと煙を含み、口の中で転がした。バニラやカカオを思わせる柔らかな甘み、ナッツのようなコク、かすかな柑橘系の清涼感が順に広がる。

 吐き出した淡い緑色の煙が、降る雪にゆっくり溶けた。

「ねぇ、ランパ。夢を見たんだ」

「どんな夢だ?」

 勇斗は語った。ルークが契約を破棄した、あの夢の中の出来事を。

「それは、オイラの最後の記憶だ。本当にあったことだよ」

 ランパの声が静かに響いた。

 世界から音が消え、時間が凍りつくようだった。

「あれが、真実だったんだね」

「うん」

 大地が唸った。

 足元が揺れ、雪が舞い上がる。遠くから悲鳴が聞こえた。

「シグネリア様ぁぁぁ! トゥーレ殿ぉぉぉ! ここにいるのはわかっておりますぞぉぉぉ! はやく出てきなさぁぁぁい!」

 その声を聞いた瞬間、勇斗の背筋が凍った。


スタンプを贈って作者を応援しよう!

次のエピソードへ進む 強襲


みんなのリアクション



おすすめ作品を読み込み中です…



 魔神の居城の最深部が崩れ始めていた。
 轟音。天井から石が降り注ぎ、壁にひびが走る。裂けた床の隙間からは、マグマが荒々しく吹き上がっている。
「魔神は封印できました。けれど、新たな問題が残りましたね」
 フクロウの姿をした精霊コタが、鋭い瞳で前を見つめる。その視線の先では、ルークが片膝をつき、肩で息をしていた。
 ルークの全身からは、黒い瘴気があふれ出している。地へこぼれ落ちるたび、瘴気は火花のように揺らめき、周囲の空気を濁らせていった。
「魔神の置き土産は呪いですか」
 低く響くコタの声に、ルークは唇を噛んだ。
「私は大丈夫だ。それよりランパが」
 傍らに横たわるランパの体からも、同じ瘴気が噴き上がっていた。小さな身体が震え、苦しげな呼吸が漏れる。その声はかすかで、今にも消えそうだった。
「厄介ですね。契約者だけでなく、契約した精霊にまで及ぶ呪いとは」
 コタは静かに翼を広げた。凍てつく冷気が広間に広がり、荒れ狂うマグマを一瞬で固めていく。
「助ける方法は、ひとつだけです。ルーク、あなたもわかっているはず」
「……契約の破棄か」
 ルークの声は震えていた。
「そんなことをしたらチビくんの記憶が!」
 狼の姿をした精霊レブンが、降り注ぐ瓦礫を砕きながら叫ぶ。
「ええ。契約を破棄すれば、契約者との記憶はすべて失われます。ランパは助かる。けれど、あなたたちの思い出は、跡形もなく消えてしまう」
「そう、か」
 ルークは歯を食いしばり、拳を震わせた。
「私は、ランパを死なせたくない……だが」
 その瞬間、ルークの剣と鎧から、四色の光が奔った。崩れゆく闇を切り裂き、広間を照らす神々しい輝き。
「……四大!」
 コタとレブンが目を見開く。
 ――樹の精霊の記憶は、私たちが預かりましょう。
 ――な、永き時の果てまで、決して忘れずに守り続けますっ!
 ――だから、安心するんだなぁ。
 ――さぁ、はやく!
 光に包まれたランパの体が、ゆっくりと安らいでいく。
 ルークは彼を抱きしめた。
「いったん、さよならだな」
「……オイラ、助けられてばっかだな」
「そうだな。うん、もし次に会えるときが来たら、今度はきみが私を助けてくれ」
 ルークはランパをそっと床に下ろす。両腕を大きく広げ、空間に響き渡る声で叫んだ。
「ランパとの契約を、破棄する!」
 まばゆい閃光が走り、ランパの体は木の枝へと変わっていく。
 その小さな枝は静かに光を宿し、ルークの両手の中に残された。
「ランパ……」
 ルークの仮面の下から涙があふれる。
 雄叫びが、崩壊の音をかき消した。
 ◇
「うああああっ! ランパ、ランパ!」
 自分の叫び声に、勇斗は飛び起きた。
 しばらく、何も聞こえなかった。
 左耳の奥で血の音が響き、そのあとに静寂が訪れる。
「今のは、夢?」
 勇斗は汗ばんだ額を押さえ、視線を彷徨わせた。
 木の壁、古びた机、積まれた本。見慣れぬ部屋だった。窓からは白い光が差している。
「おや、目が覚めましたか」
 静かな声がした。
 本を閉じ、椅子から立ち上がったのは、長い銀髪の男、トゥーレだった。
「トゥーレさん? ここは? 僕……」
「ウルパの町にある、私の家です」
「どうして、僕は」
「覚えていないのも仕方ありませんか。あなたは瀕死の状態で雪と瓦礫に埋もれていました。たまたま私がウルパに戻っていなかったら、あなたはこの世にはいなかったでしょう」
 勇斗は絶句した。
「ユートくん、今、自分の身体がどうなっているか、わかりますか?」
 トゥーレの問いに、勇斗はおそるおそる上体を起こした。
 違和感。
 視線を落とした瞬間、息が詰まった。
 左腕が、なかった。肘の下から先が消えている。
 恐怖が一気に蘇る。ソーマの冷たい笑み。腕を斬られ、両目を抉られ、右耳を削がれた、あの悪夢のような瞬間。
 けれど、なぜ? 両目を失ったはずなのに、今、トゥーレの姿も、部屋の景色も見えている。
「不思議に思っているでしょう。自分の顔を見てみますか?」
 トゥーレは掌をかざし、空中に水の鏡を作り出した。
 そこに映った自分の顔を見た瞬間、勇斗は絶句した。
 右耳がない。両目のまわりには深い傷跡。左目は完全に失われていたが、右目には緑色の光を宿した義眼がはめ込まれていた。
「この右目は……」
 トゥーレは穏やかに微笑んだ。そして、半開きの扉へと顎をしゃくる。
「あの子に聞いてみなさい」
 勇斗が目を向けると、扉の隙間から、小さな顔がのぞいていた。
「入ってきなさい。そして、説明してあげなさい」
 ギィ、と扉が軋む。ランパが俯いたまま、そろりと部屋へ入ってきた。
「ランパ!」
 勇斗はベッドから飛び起きた。だが、すぐに足がもつれ、床に倒れ込む。瞬間、ないはずの左腕に激痛が走った。思わず唸ってしまう。
「まだその身体に慣れていません。無茶は禁物ですよ」
 トゥーレがそっと肩を貸してくれた。勇斗は痛みをこらえながら、なんとか立ち上がる。
「ユートの義眼、オイラが作ったんだ」
 ランパがぽつりと呟いた。
「精霊樹の枝の一部と、コタの精霊石を合成した。片方しか作れなかったけど」
「寝る間も惜しんで看病していたのも、彼ですよ」
 勇斗は胸が詰まった。
 そこまでしてくれていたのか。ソーマに騙されていたとはいえ、あんな冷たい態度を取ってしまったのに。
「ランパ、ごめん。僕が迂闊だった。許してほしい」
「いいよ、もう」
 ランパはかすかに笑った。
「オイラ、ユートが生きてくれただけで満足だ」
「ほんとに、ごめん」
「あーもう、じれったい!」
 ランパは頬をふくらませ、拳を握った。
「くよくよすんなっての! もう終わったことだろ! ほら、仲直りしようぜ!」
 ランパの笑顔が、眩しかった。右目がにじんだ。
 勇斗は胸の奥が熱くなるのを感じた。
「九死に一生を得たのです。その命、大切にしなさい」
 トゥーレが静かに言った。
「ユート、目が覚めたんスね!」
「よかったぁ!」
 トゥーレに肩を借りながらリビングに足を運んだ瞬間、チカップとペックが駆け寄ってきた。
「でも、すべて元通りにはならなかったんスね」
 チカップの声は震えていた。
「仕方ないじゃん。さすがのボクちんでも、失った部位までは再生できない。ま、生きてるだけでめっけもんだよ」
 ペックは羽をぱたぱたさせ、軽口を叩きながら部屋を飛び回った。
「あなたとランパくんを見つけたのはチカップくん。そして治療をしたのはペック。二人にも感謝ですね」
「二人とも、ありがとう」
 勇斗は深々と頭を下げた。
「お久しぶりです、アルト……いえ、ユート」
 シグネリアが優雅にお辞儀をした。長かったローズピンクの髪はバッサリと切られ、ショートヘアになっている。ドレスではなく、旅人用の服をまとっていた。厚手のベージュの上着に革のベルト。スカートの裾には泥の跡が残っていた。
「そういえば、どうしてトゥーレさんとシグネリア王女がウルパに? ソレイン王国は?」
「その話は、座ってからにしましょう」
 トゥーレが椅子を示す。
「さあ、腰を下ろして。話すことが山ほどありますから」
 勇斗は静かに頷き、椅子に腰を下ろした。
「ソレイン城は、クラバンの手に墜ちました」
 その一言で、部屋の空気が張り詰めた。暖炉の火が弾ける音だけが、静寂の中に響く。
「あの日、すべてが終わりました。最初の異変が起きたのは、四日前の夜です。クラバン大臣が、突如として王の御前に現れました。顔色は死人のように蒼く……けれどその目だけが、赤く燃えるように光っていたのです」
 シグネリアの声が震えた。
「父上は兵に命じ、クラバンを拘束させようとしました。ですが、その場にいた兵たちが、次々に歪んでいったのです。骨が軋み、皮膚が裂け、声にならない叫びを上げながら……人ではない何かに変わっていく。私は、それを目の前で見てしまいました」
 勇斗たちは息を呑んだ。
「クラバンは笑っていました。そして、父上はその場で斬られ、跡形もなく燃やされました」
 シグネリアは唇を噛み、しばらく言葉を失った。
 小さく息を吸い、再び語り始める。
「気づけば、私は燃え広がる城下を走っていました。炎の匂い。泣き叫ぶ民。空には赤い霧が立ちこめ、どこまでも逃げ場がありませんでした。城壁の外へ逃れる道は、すでに魔族に塞がれていたのです」
 その声には、疲労と恐怖と、消えぬ悔しさが滲んでいた。
「その時、トゥーレが現れました。彼も城を脱出したばかりだったのでしょう。服は焦げ、腕に傷を負っていました。それでも私の手を掴み、生き延びる道を示してくれたのです。そして、追っ手の群れを相手に魔法を放ち、私をこのウルパまで導いてくれました」
 語り終えると、シグネリアは目を細め、小さく息を吐いた。
「私は、これからどうすればよいのでしょう」
 重い沈黙が、部屋を包み込む。
「すみません……少し、疲れました。トゥーレ、二階のベッドをお借りしてもよろしいでしょうか」
「えぇ、もちろんです。今は何も考えず、休みなさい」
 トゥーレの穏やかな声にうなずき、シグネリアは静かに立ち上がった。
 扉の閉まる音がして、再び部屋に静けさが戻った。
「さて、事情はその通りです」
「トゥーレさんは、これからどうするのですか」
「しばらくは、この町で王女殿下と共に身を潜めます。まだ混乱の余波が残っていますし、城下の民の避難も終わっていません。いずれ時機を見て、クラバンを討ち、ソレインを取り戻すつもりです」
 トゥーレの口調は穏やかだった。しかし、勇斗はその声に不安を感じた。なぜだかはわからなかった。
「僕たちも、協力します」
 衝動的に言ってしまった。胸の奥がわずかに痛む。ソーマの笑顔が脳裏にちらつく。
「ありがとう。けれど、あなたたちはあなたたちの目的を果たしなさい。マナの聖域へ行くのでしょう?」
「は、はい」
「私なら大丈夫です。お気遣いなく」
「でも……」
 勇斗は眉をひそめ、何かを言いかけた。そのとき、ランパが腹の虫を鳴らした。
「おい、腹へったぞ」
 部屋の空気が一瞬ゆるむ。
「はは、どうやら話はここまでのようですね。少し待っていてください。温かいスープくらいなら作れますから」
 トゥーレは立ち上がり、キッチンへと向かった。
 やがてスープが運ばれてきた。赤と橙の野菜が浮かぶ、ミネストローネのようなスープだった。
 口に運ぶたび、体の芯がじんわりと温まっていく。
 片手で何とか食べ終えると、胸の奥に小さな灯がともるようだった。久しぶりに、食事が生きるためのものだと感じた。
 勇斗は小さく息を吐いた。
 客間に戻ると、部屋の隅に聖剣クトネシスと精霊器ラクメトが置かれていた。どちらも傷ひとつなく、静かに輝いている。ただ、左のガントレットだけが見当たらなかった。
 これでは、ドラシガーに火をつけられない。
「あれ?」
 勇斗は眉を寄せた。よく見ると、右のガントレットの形状が以前と違っている。かつては親指以外が一枚の金属で覆われたミトン型だった。だが今は、五本の指が独立しており、甲の部分には灰色の宝珠がはめ込まれている。
「それも合成で作ったやつだよ」
 声の主はランパだった。小さな体でドアの影から顔を出し、得意げに胸を張る。
「火がつけられないと、ドラシガー吸えないだろ?」
「あ、ありがとう。何を素材に使ったの?」
「マントの中に入ってた、変な金属。あれを使ったんだ」
 勇斗は思い出した。森で拾ったオイルライターだ。あの金属を素材にしたから、宝珠も鈍い灰色をしているのだろう。
「吸うなら外で吸えって、トゥーレが言ってたぞ。行くか?」
「う、うん」
 勇斗はランパに手伝ってもらい、精霊器ラクメトを装着した。
 外に出ると、雪が静かに舞っていた。灰色の雲の隙間からわずかに光が差し込み、町の屋根を銀色に染めている。吐いた息が白く広がり、空気は澄んで冷たかった。
 マントの内側からドラシガーを取り出す。吸い口は、ランパが代わりに切ってくれていた。片腕では難しいから、これからも自分がやる、と言ってくれたのだ。ありがたかった。
 勇斗はドラシガーを咥え、ガントレットの甲に埋め込まれた灰色の宝珠に意識を向ける。
 宝珠から青白い炎が放たれ、ドラシガーの先を静かに照らした。腕を慎重に動かし、息を吸いながら火を灯す。
 ゆっくりと煙を含み、口の中で転がした。バニラやカカオを思わせる柔らかな甘み、ナッツのようなコク、かすかな柑橘系の清涼感が順に広がる。
 吐き出した淡い緑色の煙が、降る雪にゆっくり溶けた。
「ねぇ、ランパ。夢を見たんだ」
「どんな夢だ?」
 勇斗は語った。ルークが契約を破棄した、あの夢の中の出来事を。
「それは、オイラの最後の記憶だ。本当にあったことだよ」
 ランパの声が静かに響いた。
 世界から音が消え、時間が凍りつくようだった。
「あれが、真実だったんだね」
「うん」
 大地が唸った。
 足元が揺れ、雪が舞い上がる。遠くから悲鳴が聞こえた。
「シグネリア様ぁぁぁ! トゥーレ殿ぉぉぉ! ここにいるのはわかっておりますぞぉぉぉ! はやく出てきなさぁぁぁい!」
 その声を聞いた瞬間、勇斗の背筋が凍った。