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肝試し⑵

ー/ー



 旧校舎の中は、カビとほこりの匂いで満ちていた。

 それにしても、暗い。

「陽介、懐中電灯は?」

「持ってきてない。俺にはこれがあるから」

 陽介がショートカーゴパンツのポケットから取り出したのは、オイルライターだった。年季の入った真鍮製の重厚なボディには、いくつもの傷跡が刻まれている。下部には「Y・S」という文字が小さく刻まれていた。陽介は慣れた手つきでカチンと蓋を開け、ホイールを回してジュッと火花を散らす。オレンジ色の炎が頼りなく揺れた。

「お、結構明るいな」

 炎の明かりで周囲がぼんやり照らされる。

「陽介、煙草吸うの?」

「す、吸わねぇよ。これはなぁ……じいちゃんのやつで、ちょっと借りてきただけ!」

 言いながら、陽介は目線を泳がせた。

「な、なにじーっと見てんだよ。は、はやく行くぞ! 肝試し開始だ! ビビんなよ、真弘ーっ」

 陽介はライター片手に歩き出し、真弘はそのあとを追った。

 木の床は、一歩ごとにぎしりと鳴った。抜けそうな感触が足裏に伝わり、体重のかけ方も慎重になる。

 最初に覗いた教室には、机と椅子が乱雑に積み上げられていて、ガラクタの山と化していた。

 隣の教室は、さっきとはうって変わって殺風景だった。中央には机がひとつだけ取り残されていて、黒板のそばには壊れた足踏みオルガンが置かれていた。黒板にはチョークで落書きがされている。それ以外は何もない。

 教室を出る前に、陽介が黒板へ落書きを追加した。「陽介様参上!」と大きく書いていた。

 理科室は様相が違った。長机が無造作に並び、大小さまざまな瓶がいくつも置かれている。液の中には、解剖された魚やカエルが浮かんでいた。

「うげっ、なんだこれ」

「標本……ホルマリン漬け?」

 理科の授業で使ったのだろうか。鼻を刺す匂いに胃がきゅっと縮む。ここには長居したくない。

「昔って、こんな気持ち悪いことしてたんだな。マジで現代に生まれてよかった」

「気持ち悪いから、はやく出よう」

 廊下へ出たとき、視線を感じた。誰かに見られているような――

「どうした?」

「いや、何でもない」

 その後、保健室、職員室、トイレの順に見て回った二人は、階段にたどり着いた。二階へ上がることにした。

 一段踏むごとに、階段がぎし、ぎし、と骨をきしませた。真弘は手すりに指を絡め、息を殺して上がった。

 二階は闇だった。

 廊下の窓はどれも板で打ちつけられ、教室の出入り口も同じように封鎖されている。何かを閉じ込めている――そんな気がした。

 突き当たり近くで、一室だけ板が打たれていない教室を見つけた。覗くと、闇が丸ごと置いてあるみたいに真っ黒で、奥行きすら掴めない。

 真弘はテレビで見たやり方を試すことにした。バッグから飲みかけのペットボトルを取り出し、床に置いた懐中電灯の上にそっと載せる。水がレンズになって光が広がり、闇がはがれていった。

「おお、すっげー明るい! 真弘すげー!」

 簡易ランタンを教室中央の机に置き、周囲を探る。天板の傷、落書き、剥がれた掲示物のテープの跡。時間の欠片が、まだ部屋に残っている気がした。

「ぎゃー!」

 ガシャン、と乾いた音。陽介が尻もちをつき、その胸に骸骨が覆いかぶさっていた。掃除用具入れかと思った戸棚を開いた拍子に、人体骨格標本がそのまま倒れてきたらしい。

「助けてー! 殺されるぅー!」

「だ、大丈夫?」

 真弘は標本をどけ、プラスチック製だから大丈夫だと教えた。

「ちょっとビビっただけだし! 怖くねーし!」

 陽介は強い調子で指を突き出したが、その指先は小刻みに震えていた。

「つーかなんでこんなとこに標本入れてんだよ。普通こういうの理科室だろ!」

 陽介が文句を言い終えるのと同時に、風が頬を撫でた。

 さっき骨格標本が出てきた戸棚の後ろから、冷たい空気が細く流れてくる。

 二人で戸棚の脇に肩を入れ、ぐっと押した。床板がきしみ、戸棚の重心がずれる。

 ずらした背面に、大きな穴が口を開けていた。

「おお、隠し通路じゃん!」

 陽介の声が一段高くなる。

「行ってみよう」

 二人は身をかがめ、穴をくぐって封鎖されていた隣室へ入った。

 暗闇の中、紅い光がぽうっと灯っていた。

 内側から脈打つように、かすかに明滅している。舞い上がった埃が紅く染まる。その紅を目にした瞬間、真弘の背筋が細く冷えた。

 ――憎しみ。悲しみ。孤独。怒り。

 負の感情が、横殴りの風みたいに体の中へ流れ込んでくる。

 闇の底をひとりで歩いている。足音は吸い込まれ、前も後ろもわからない。

『私は、何のために生まれたのだ。何のために戦ったのだ』

 声は虚空からとも、胸の奥からともつかず響いてきた。
 

 歩く。

『頂点は孤独だ。誰も、私を理解しない』

 歩く。

『孤独が、憎い』

 歩く。

『封印したやつらが、憎い』

 歩く。

『生み出した者が、憎い』

 歩く。

『己が……憎い』

 闇の手前で、一本の巨大な斧が浮かび上がった。刃が脈打つような紅を反射して、ぬめるように光っている。
 

「お、おい、真弘! 大丈夫かよ! どうしたんだよ、真弘!」

 陽介の声が割り込んだ。肩が揺さぶられる。オイルライターの炎に照らされた陽介の顔は、強がりと涙目のあいだで揺れていた。

「ご、ごめん。もう、大丈夫」

「一体どうしたんだよ。声かけても震えてるだけで、全然返事しねーし」

「紅いカケラ……」

「カケラ?」

「元に、戻さないと」

「お前、本当に大丈夫かよ。はやく、ここ出るぞ」

 陽介に手を引かれ、二人は簡易ランタンの光が届く教室へ戻った。ほこりっぽい椅子に腰を下ろすと、胸の鼓動がようやく遅れて追いついてくる。

「そろそろ帰るか」

 陽介が深く息を吐いた。真弘はまだ、頭のどこかがあの赤い明滅に引っ張られていた。

 そのとき、床が低く唸り、教室全体がわずかに揺れた。

「地震? マジで?」

 廊下の奥から、ぎしぎしと床を押しつぶすような足音。続いて、ゴリゴリと何か重いものを引きずる音。

「だ、誰だ? 俺たち以外に誰か来たのか?」

 陽介がおろおろと立ち上がる。

 見えた。

 廊下側の窓の向こうに、それは現れた。身長が二メートルはある異形。全身を黒布で覆い、顔は見えない。

 ゆらゆらと体を左右に揺らしながら、そいつは教室の敷居をまたいだ。手に握られているのは、真弘の身長の倍はありそうな斧。

「な、な、なにこいつ」

 陽介の声が震える。黒い異形は、ゆっくりと二人の正面まで近づいてきた。

『オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ――』

 凍てつく咆哮が教室を満たした。同時に空間がぐにゃりと歪む感覚が皮膚を撫でる。膝の力が少し抜けた。

 刹那、一羽のトビが二人と異形の間に矢のような速さで割って入った。

 四つの渦巻きが絡み合った円形の文様が翼に描かれている、あのトビだ。

「トビ? なんで、こんなところに」

 ――逃げるんじゃ。はやく!

 どこからともなく、子供の声が落ちてきた。

 逃げなきゃ。

 頭では走れと命じるのに、足が床から外れなかった。

 ギャッ。

 トビの体が床に叩きつけられた。黒い腕が、無造作にそれを払ったのだ。

「うわっ、やめろ、はなせー!」

 異形の手が、陽介の胸ぐらを掴み、片手で持ち上げていた。

 陽介はじたばたともがいた。やがて抵抗は弱まり、手足がだらりと落ちた。

 床に投げ出された陽介は、白目をむき、微動だにしない。

 黒い影が、真弘へ向く。

 突然、狂ったチャイムが鳴り響いた。同時に校舎が揺れ、視界がぐにゃりと歪んだ。

 次の瞬間、冷たいものが首を掴んだ。

「ぐ、ぇえ」

 黒い手が喉を締め上げ、真弘の身体がゆっくりと持ち上がる。かかとが床を離れ、吸える空気が急に薄くなる。呼吸が途切れ、首の骨に鈍い圧が軋んだ。

 手足をばたつかせる。爪が空を掻くだけだ。視界の端が灰色に粒立っていく。

 その瞬間、紅が浮かんだ。

 胸の奥にともった小さな火が、ふっと広がる。

 赤い光はやがて炎となり、黒布をなめるように焼いた。焦げる匂いが一瞬で満ちる。

 顔を見た。

 顔はなかった。

 布の下にあったのは虚空そのもの――ブラックホールのように、光も音も吸い込む穴だけ。

 ――俺はお前。お前は俺。

 鼓動が遠ざかり、世界が紅に閉じ込められた。
 

 気がつくと、見慣れた天井があった。

 視線を動かせば、学習机とランドセル。カーテンの隙間からこぼれるやわらかな光の向こうで、スズメがちち、と鳴いていた。布団の匂いが鼻に戻ってきて、ここが自分の部屋だと理解するのに時間はかからなかった。

「よっ、目が覚めたか?」

 ドアのところに兄が立っていた。

「にいちゃん?」

「おう。兄ちゃんだ!」

 兄はにっと笑い、枕元にあぐらをかいた。

「昨日さ、お前、鳥居の前で倒れてたんだよ。けがは見当たらなかったし、息もしてたから、俺がここまで運んだ。マジで心配したんだからな」

 記憶を手繰る。夏祭り、自転車、――そこで糸がぷつりと切れた。

「頭、痛い」

 こめかみを締めつける痛みが、波のように押し寄せた。

「おいおい、まだ寝てたほうがいいんじゃないか?」

「うん」

 ――陽介。

「そうだ、陽介は?」

 兄の目が一瞬だけ泳いだ。

 問い詰めると、陽介も鳥居の前で倒れており、意識は戻らないまま入院中だという。

 真弘は布団に潜り、天井に背を向けた。兄が部屋を出ていく音。静けさが戻る。寝返りを打ったとき、ポケットの中で硬い感触に触れた。

 取り出したのは、カケラだった。それはひときわ紅く瞬き――体温に溶けるみたいに、指の間から静かに消えた。

 掌には何も残らない。

 ただ、かすかなぬくもりだけが、皮膚の奥に滲んでいた。


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 旧校舎の中は、カビとほこりの匂いで満ちていた。
 それにしても、暗い。
「陽介、懐中電灯は?」
「持ってきてない。俺にはこれがあるから」
 陽介がショートカーゴパンツのポケットから取り出したのは、オイルライターだった。年季の入った真鍮製の重厚なボディには、いくつもの傷跡が刻まれている。下部には「Y・S」という文字が小さく刻まれていた。陽介は慣れた手つきでカチンと蓋を開け、ホイールを回してジュッと火花を散らす。オレンジ色の炎が頼りなく揺れた。
「お、結構明るいな」
 炎の明かりで周囲がぼんやり照らされる。
「陽介、煙草吸うの?」
「す、吸わねぇよ。これはなぁ……じいちゃんのやつで、ちょっと借りてきただけ!」
 言いながら、陽介は目線を泳がせた。
「な、なにじーっと見てんだよ。は、はやく行くぞ! 肝試し開始だ! ビビんなよ、真弘ーっ」
 陽介はライター片手に歩き出し、真弘はそのあとを追った。
 木の床は、一歩ごとにぎしりと鳴った。抜けそうな感触が足裏に伝わり、体重のかけ方も慎重になる。
 最初に覗いた教室には、机と椅子が乱雑に積み上げられていて、ガラクタの山と化していた。
 隣の教室は、さっきとはうって変わって殺風景だった。中央には机がひとつだけ取り残されていて、黒板のそばには壊れた足踏みオルガンが置かれていた。黒板にはチョークで落書きがされている。それ以外は何もない。
 教室を出る前に、陽介が黒板へ落書きを追加した。「陽介様参上!」と大きく書いていた。
 理科室は様相が違った。長机が無造作に並び、大小さまざまな瓶がいくつも置かれている。液の中には、解剖された魚やカエルが浮かんでいた。
「うげっ、なんだこれ」
「標本……ホルマリン漬け?」
 理科の授業で使ったのだろうか。鼻を刺す匂いに胃がきゅっと縮む。ここには長居したくない。
「昔って、こんな気持ち悪いことしてたんだな。マジで現代に生まれてよかった」
「気持ち悪いから、はやく出よう」
 廊下へ出たとき、視線を感じた。誰かに見られているような――
「どうした?」
「いや、何でもない」
 その後、保健室、職員室、トイレの順に見て回った二人は、階段にたどり着いた。二階へ上がることにした。
 一段踏むごとに、階段がぎし、ぎし、と骨をきしませた。真弘は手すりに指を絡め、息を殺して上がった。
 二階は闇だった。
 廊下の窓はどれも板で打ちつけられ、教室の出入り口も同じように封鎖されている。何かを閉じ込めている――そんな気がした。
 突き当たり近くで、一室だけ板が打たれていない教室を見つけた。覗くと、闇が丸ごと置いてあるみたいに真っ黒で、奥行きすら掴めない。
 真弘はテレビで見たやり方を試すことにした。バッグから飲みかけのペットボトルを取り出し、床に置いた懐中電灯の上にそっと載せる。水がレンズになって光が広がり、闇がはがれていった。
「おお、すっげー明るい! 真弘すげー!」
 簡易ランタンを教室中央の机に置き、周囲を探る。天板の傷、落書き、剥がれた掲示物のテープの跡。時間の欠片が、まだ部屋に残っている気がした。
「ぎゃー!」
 ガシャン、と乾いた音。陽介が尻もちをつき、その胸に骸骨が覆いかぶさっていた。掃除用具入れかと思った戸棚を開いた拍子に、人体骨格標本がそのまま倒れてきたらしい。
「助けてー! 殺されるぅー!」
「だ、大丈夫?」
 真弘は標本をどけ、プラスチック製だから大丈夫だと教えた。
「ちょっとビビっただけだし! 怖くねーし!」
 陽介は強い調子で指を突き出したが、その指先は小刻みに震えていた。
「つーかなんでこんなとこに標本入れてんだよ。普通こういうの理科室だろ!」
 陽介が文句を言い終えるのと同時に、風が頬を撫でた。
 さっき骨格標本が出てきた戸棚の後ろから、冷たい空気が細く流れてくる。
 二人で戸棚の脇に肩を入れ、ぐっと押した。床板がきしみ、戸棚の重心がずれる。
 ずらした背面に、大きな穴が口を開けていた。
「おお、隠し通路じゃん!」
 陽介の声が一段高くなる。
「行ってみよう」
 二人は身をかがめ、穴をくぐって封鎖されていた隣室へ入った。
 暗闇の中、紅い光がぽうっと灯っていた。
 内側から脈打つように、かすかに明滅している。舞い上がった埃が紅く染まる。その紅を目にした瞬間、真弘の背筋が細く冷えた。
 ――憎しみ。悲しみ。孤独。怒り。
 負の感情が、横殴りの風みたいに体の中へ流れ込んでくる。
 闇の底をひとりで歩いている。足音は吸い込まれ、前も後ろもわからない。
『私は、何のために生まれたのだ。何のために戦ったのだ』
 声は虚空からとも、胸の奥からともつかず響いてきた。
 歩く。
『頂点は孤独だ。誰も、私を理解しない』
 歩く。
『孤独が、憎い』
 歩く。
『封印したやつらが、憎い』
 歩く。
『生み出した者が、憎い』
 歩く。
『己が……憎い』
 闇の手前で、一本の巨大な斧が浮かび上がった。刃が脈打つような紅を反射して、ぬめるように光っている。
「お、おい、真弘! 大丈夫かよ! どうしたんだよ、真弘!」
 陽介の声が割り込んだ。肩が揺さぶられる。オイルライターの炎に照らされた陽介の顔は、強がりと涙目のあいだで揺れていた。
「ご、ごめん。もう、大丈夫」
「一体どうしたんだよ。声かけても震えてるだけで、全然返事しねーし」
「紅いカケラ……」
「カケラ?」
「元に、戻さないと」
「お前、本当に大丈夫かよ。はやく、ここ出るぞ」
 陽介に手を引かれ、二人は簡易ランタンの光が届く教室へ戻った。ほこりっぽい椅子に腰を下ろすと、胸の鼓動がようやく遅れて追いついてくる。
「そろそろ帰るか」
 陽介が深く息を吐いた。真弘はまだ、頭のどこかがあの赤い明滅に引っ張られていた。
 そのとき、床が低く唸り、教室全体がわずかに揺れた。
「地震? マジで?」
 廊下の奥から、ぎしぎしと床を押しつぶすような足音。続いて、ゴリゴリと何か重いものを引きずる音。
「だ、誰だ? 俺たち以外に誰か来たのか?」
 陽介がおろおろと立ち上がる。
 見えた。
 廊下側の窓の向こうに、それは現れた。身長が二メートルはある異形。全身を黒布で覆い、顔は見えない。
 ゆらゆらと体を左右に揺らしながら、そいつは教室の敷居をまたいだ。手に握られているのは、真弘の身長の倍はありそうな斧。
「な、な、なにこいつ」
 陽介の声が震える。黒い異形は、ゆっくりと二人の正面まで近づいてきた。
『オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ――』
 凍てつく咆哮が教室を満たした。同時に空間がぐにゃりと歪む感覚が皮膚を撫でる。膝の力が少し抜けた。
 刹那、一羽のトビが二人と異形の間に矢のような速さで割って入った。
 四つの渦巻きが絡み合った円形の文様が翼に描かれている、あのトビだ。
「トビ? なんで、こんなところに」
 ――逃げるんじゃ。はやく!
 どこからともなく、子供の声が落ちてきた。
 逃げなきゃ。
 頭では走れと命じるのに、足が床から外れなかった。
 ギャッ。
 トビの体が床に叩きつけられた。黒い腕が、無造作にそれを払ったのだ。
「うわっ、やめろ、はなせー!」
 異形の手が、陽介の胸ぐらを掴み、片手で持ち上げていた。
 陽介はじたばたともがいた。やがて抵抗は弱まり、手足がだらりと落ちた。
 床に投げ出された陽介は、白目をむき、微動だにしない。
 黒い影が、真弘へ向く。
 突然、狂ったチャイムが鳴り響いた。同時に校舎が揺れ、視界がぐにゃりと歪んだ。
 次の瞬間、冷たいものが首を掴んだ。
「ぐ、ぇえ」
 黒い手が喉を締め上げ、真弘の身体がゆっくりと持ち上がる。かかとが床を離れ、吸える空気が急に薄くなる。呼吸が途切れ、首の骨に鈍い圧が軋んだ。
 手足をばたつかせる。爪が空を掻くだけだ。視界の端が灰色に粒立っていく。
 その瞬間、紅が浮かんだ。
 胸の奥にともった小さな火が、ふっと広がる。
 赤い光はやがて炎となり、黒布をなめるように焼いた。焦げる匂いが一瞬で満ちる。
 顔を見た。
 顔はなかった。
 布の下にあったのは虚空そのもの――ブラックホールのように、光も音も吸い込む穴だけ。
 ――俺はお前。お前は俺。
 鼓動が遠ざかり、世界が紅に閉じ込められた。
 気がつくと、見慣れた天井があった。
 視線を動かせば、学習机とランドセル。カーテンの隙間からこぼれるやわらかな光の向こうで、スズメがちち、と鳴いていた。布団の匂いが鼻に戻ってきて、ここが自分の部屋だと理解するのに時間はかからなかった。
「よっ、目が覚めたか?」
 ドアのところに兄が立っていた。
「にいちゃん?」
「おう。兄ちゃんだ!」
 兄はにっと笑い、枕元にあぐらをかいた。
「昨日さ、お前、鳥居の前で倒れてたんだよ。けがは見当たらなかったし、息もしてたから、俺がここまで運んだ。マジで心配したんだからな」
 記憶を手繰る。夏祭り、自転車、――そこで糸がぷつりと切れた。
「頭、痛い」
 こめかみを締めつける痛みが、波のように押し寄せた。
「おいおい、まだ寝てたほうがいいんじゃないか?」
「うん」
 ――陽介。
「そうだ、陽介は?」
 兄の目が一瞬だけ泳いだ。
 問い詰めると、陽介も鳥居の前で倒れており、意識は戻らないまま入院中だという。
 真弘は布団に潜り、天井に背を向けた。兄が部屋を出ていく音。静けさが戻る。寝返りを打ったとき、ポケットの中で硬い感触に触れた。
 取り出したのは、カケラだった。それはひときわ紅く瞬き――体温に溶けるみたいに、指の間から静かに消えた。
 掌には何も残らない。
 ただ、かすかなぬくもりだけが、皮膚の奥に滲んでいた。