灰崎は、己の精神世界の中で目を覚ます。前後不覚、右も左も分からないような、何ならば一歩先すら一切不明瞭な中で、目を覚ましたのだ。
「――俺、死んだのかな」
頭をぼりぼりと掻きながら、何とか辺りを見通そうとする。しかし、何もかも見えやしない中で、どうしようもなかったのだ。このまま歩き出すか、それとも何かしらの
反応を待つか。こんな状況であるからこそ、慎重に動きたかったのだ。
灰崎のこれまでの人生は、短いはずなのに長く苦しく感じられるものであった。渡世の親も、実の妹も目の前で
喪った。さらに、自分の居場所同然であった王漣組を、教会に目の前で全て元あった形から変えられて、部下はいなくなり稼業はほぼ根こそぎ奪われた。
全てを失い、究極のどん底。頼る先すらありはせず、ほんの少しの宿り木として選んだ先は……自分と対極の存在であった。しかも、本来ならば交わるはずのない存在に、ただほんの少しの縁で頼った縁。それも、自分の死により途切れそうな、途切れかけの輪ゴム同然であった。
ただ、山梨の一件以降、胸中に妙な疼きが生まれていたのだ。ぽっかりと空いた、大きな穴に、なにか別の物……表現するならば、『狼』が住み着いたような。
『――それが、私だ』
その声の方にすぐ振り向くも、そこには誰も居ない。ただ、少々冷えた空気感だけが場を支配していた。
「……思えば俺は」
『ずっと、好きにされてきた。まるで意志のない
人形のように』
傍にいるはずなのに、一切見えない。一切感じ取れない。言い知れない不安が、まるで玩具である
粘体がへばり付くように、灰崎にじっとりと纏わりつく。
「俺は……世間一般なら逸れ者」
『それがどうした。好き放題奪われっぱなしで、お前様は良いのか?』
「――良い訳ない、だろ。でも……」
『何かしらの理由を付けて、お前様自身が『そう』であることを認めずに――これからを決めつけてもいいのか?』
その瞬間から、一歩先だけは見えるくらいに暗闇が晴れていた。その先に歩むことは、未だ躊躇したままの灰崎の背を、『何か』がぐい、と頻りに押す。その先へ歩むことが、灰崎に課せられた宿命であると言わんばかりに。
「――俺は……世間一般では鼻つまみ者だ」
『だが、お前様含む人間は……どんな場所であったところで、心機一転いつだってやり直せる。ゲームでもないのに、面白いことにな』
灰崎は、そこまで学が無い。だが、今こうして背を押す存在がどういうものか、というのは何となく理解した。しかし『それ』が自分に許されるのか、あまりにも大きな
逡巡の心が生まれた。
『? 何を
躊躇っている? お前様はお前様。灰崎廉治という男の生き方は、誰かにレールを敷いてもらって決まるようなものではない。何より、そんな生き方……お前様の渡世の親である、
王漣治馬が見たらどう思う? そんな軟弱な精神性の男に……組を受け継いだ訳ではないだろう?』
意識が、徐々に
刷新されていく。それとともに、暗闇は晴れて見える範囲が徐々に広がっていく。この先へ歩んでいいのだと分かった時に、背を押される勢いもあり灰崎は一歩だけ歩を進めた。
「――だけど、流石に……怖いんだ。俺だって怖いと思うことはある。世間一般の思う、大概の怖いことは経験してきた。だが……そこに恐怖が付きまとってくるんだ」
『そんなもの、私とお前様で切り裂けば問題ないだろう。粗方、一般人から向けられる目と声が怖いのだろう? そんな弱者が放つ戯言など、一切気にしなければいい。ただ我々に守られるだけの存在なんだ、守らなかったら死ぬだけの存在に、発言する価値などありはしない』
あまりにも傲岸不遜、あまりにも大胆不敵、あまりにも傍若無人。これほどの尊大な心持ちは、灰崎の深層心理という訳ではない。『それ』が持つ、ある種のこれまでの常識。
『第一……お前様、そしてそれ以外にももちろん言えることだが……何を怖がっている。大した気をしているだけの、行動力も何もない弱者に、何を弱気になっている? お前様はそんな存在にへーこら頭を下げ続けるのか? 冗談じゃアない、お前様のような存在が……世を牽引していくのだ。上の者は、下の者の気持ちを汲む存在だ。顔色を窺っていては……それはただの見た目だけの主従であり、上の者が下僕同然だ』
一見乱暴な理論に思えるだろうが、これは真理であった。極道という職業柄、堅気の人間には頭が上がらない存在であった。それは何より、自分たちが存在できるのは、自分たちが仕事できるのは堅気の人間あってこそであるから。遊郭も、女がいても客がいなければすぐに廃れる。カジノも似たようなものである。膨大な維持費だけが嵩むだけの金食い虫同然である。
だが、この道の先には、確かに
一般人は支えになるだろうが……実際にいなければやっていられないというものではない。救う存在ではあるが、存在理由に必ずしもなるかと言われれば、そうではないのだ。
「――俺は、『この』道を歩いていいのか」
『私がいるからな。力を示すのなら……お前様と私が結託せねば話は始まらんだろうが……どれほど気づかせようと立ち回ったと思っている。無意識に自分が成したことばかりではないのだぞ』
その一言で、全ての点が線となった。これまでの
効率的戦闘法も、
勁≪けい≫の技術も、|中国柔武術も、果てには
拳闘技も、尋常でないほどの吸収力を誇っていた根底には、『それ』がいた。無論、当人の
極道式素手喧嘩殺法によって培われた戦闘センスもあるだろうが、呉に『
見稽古』と称された技術は、まさに『それ』の尽力あってこそ。
『――さあ、この世界の出口が見えてきた。私はお前様を気に入った、だから力をやる。思う存分、気に入らない存在を『噛み砕け』。私がかつて、数多の『神相手』にそうしたようにな』
ゆっくりと歩を進め、出口に近づいていく中で……徐々に灰崎は現実世界で受けた傷と同じものを、静かに受けていく。だが、どの傷も即座に『冷やされていく』。どことなく既視感を覚える力であったが、こうなる理由は予想がついていた。
それは、どん底の自分を支えてくれた、とある小児科医。元々の功績などおくびにも出すことなく、迷える子羊同然であった灰崎の心を、ほんの少し軽くしてくれた存在。圧倒的な強さで、自身の先輩でありながら
好敵手同然であった狐川を、打倒した存在。
「――元極道でも、なれるか」
『なれる。私が保証する』
「……『大切』が無くても……なれるか」
『ンなもん、後からいくらでも作れる! 何なら、もう居るだろう? 私が保証する!』
ぼろぼろと大粒の涙を流しながら、出口を背に振り返る灰崎。そこには喜びと困惑、そしてこれから自分が背負っていく『未来』の重みに耐えながら、前人未到の域を歩くための、最後の覚悟を決めるための雄々しい心を宿していた。
「――こんな、世間一般では元暴として……鼻つまみ者同然である俺が……『
英雄』に……なれるかな」
『成れる!! お前様は出来た
漢だ、私が保証する!! この世の誰かがお前様に石を
擲とうと、私がお前様を認めてやる!!』
静かに、『それ』は左拳を真っ直ぐ突き出す。
その瞬間に、初めて『それ』の姿を視認する。大して手入れのされていない蒼のロングヘアに、幼さすら感じられる童顔の女であった。しかし紺色のパンツスタイルのスーツを着ており、ふわふわとした犬のような耳と尻尾を保有。左腕には何重にも鎖が巻き付けられており、裸足のままの脚には重い足枷が付いている。
スーツ姿であり、獣人かつ囚人。それが『それ』の印象であった。
突き出した拳は、二人の間に出来た絆の証を示すものであった。涙をスーツの袖で乱暴に拭きながら、右拳を同様に突き出して力強くぶつける。お互いが猛者であるために、そこに少しばかりの疼痛を感じるが、その痛みは最後の一歩を踏み出させるにふさわしいもの。
『行って来い、お前様!! 私の……『―――――』の力を用いて、新たな『大切』を救い出せ!! お前様の――山梨の地で見せたような、『
漢』を私に見せてみろ!!』
「!! ああ、分かった!!」