タイトなTシャツ、その首元を少し弄りながら笑って見せる、呉。
あまりにもの残忍な性格ゆえ、本当に親しい人間以外は容赦なく見せしめと言わんばかりに処刑を繰り返し、流浪の獣を荒廃させた要因の一人である。さらに、神奈川は横浜、元町・中華街でマフィア同士の抗争を繰り返し、結果的に敗北したものの……元町・中華街に残ったマフィア連中に強烈な恐怖心を植え付けた存在でもある。
だがそれほどの存在が、善吉の下に就いていることが、二人にとって理解不能であったのだ。
「――どうして、と言いたい顔ですね。あれほど高名であった
流浪の獣を善吉様に譲り渡したか、と」
「……確かに思っていたが、敢えて聞いてやるよ」
多少なり強がって、眼前の存在を睨みつける灰崎。こんな夏場であるためか、あるいはこんな夏場であろうかという時に暖房でも付いているのか、じっとりと汗ばんでくる。しかし、呉は一切の汗を掻いていない様子であり、実に奇妙であった。
「元々、善吉様とは面識が多少なりありました。山梨に住まいこそしてはいませんでしたが、グレープによる裏の繋がりによって……多少なり仲良くしてもらっていました。
邪魔者の排除、という点では……私たち
流浪の獣がやった方が利点になる部分が多い、と。何せ、私たちは他県の人間であり、一般人目線で見るのなら繋がりはなさそうに見えます。それに――私も少々血の気が多くて。好き勝手に暴れられるのは好都合だったんです」
そこから、千葉県にて融通を効かせるために、流浪の獣の所有権が欲しい、と善吉からの直談判があった。最初は自分の組織を組織外の人間に譲り渡す、という行為に多少なり抵抗を覚えたが、他でもない善吉の頼みであるからこそ彼を信頼し、総帥としての全権を委任した。善吉も礼と言わんばかりに、永久的な相談役としての地位を呉に約束し、現在もその役職として流浪の獣内に居座っている。
「私は……あの方に、善吉様に感謝しています。神奈川中華街での抗争以来、大した刺激が無い状況を憂いていた私の元に、わざわざ荒事を持ってきてくださった。さらに元よりも上位の組織として、表向きの稼業とそれ以上の配下を連れてきてくださりました。中国人だけではなくより幅の利きやすい日本人も動員して、
流浪の獣はより巨大になったのです」
「――そんなに喧嘩が好きなら、格闘家にでもなればいいじゃあない。わざわざ一般人相手に好き放題するだなんて……よっぽど弱い者いじめが好きらしいね」
「何、そんなことを言われるだろうという察しは付いています。これほどの肉体……ただのトレーニングで得た、とでも考えていますか、神崎千尋」
自分の尻ポケットからスマホを取り出すと、複数操作を繰り返し、ある画面を提示する。そこには、今の呉とは大分人相が異なった存在が、リング上にて総合格闘技を行っていた。さらには、その総合格闘技はとてもテレビで放映されているようなルール上にて成り立っているようなものではなく、ルール無用の何でもアリな……文字通りの
闘争であった。
古代ローマのコロッセオで行われていたような、決闘行為に近いかもしれない。
しかも、豪華なチャンピオンベルトを巻くどの写真も、一切負った傷が無いのだ。殴られた拍子に目元を少し切るだの、口の中を切った結果流血しているだの、そんな小さな傷すらなかったのだ。ただ体を動かしたことによる汗を掻いているのみで、中国語にてインタビューに答えているのだ。
法外なほどの、莫大なファイトマネーにキスをしたり、ラウンドガールを複数侍らせていたり。文字通りの
裏世界に生きるファイターそのものであった。
「弱い者いじめだなんて、そんなことは一切していませんよ。ただ、私は善吉様の障害になる存在を消していっただけです。下らない正論ばかりを並べ、大した結果すら上げられない
無能の処理だったり、善吉様を疎ましく思う存在が雇った殺し屋だったり、です。全て、私にとっては児戯に等しい『軽さ』ですよ」
その場で装着するは、拳における部位の、ナックルパート全体を覆うような、特殊なメリケンサック。そのメリケンサック自体、これまで何回も何十回も何百回も装着し、多くの人間を殴殺してきたかのような、視覚による『年季』を感じ取ることが出来る。
そのもの自体が、元々鈍色に輝いているものであったはずが、全体的に紅に染まっていたのだ。しかも、ただ絵具で塗りたくったかのような明るい紅ではなく、人から生まれた紅が、本来染み込むはずのない中で、視認できるほどに染まっていたのだ。
「私が憧れるは、今のような軟弱者ばかりが蔓延る世の中よりも、戦争などで屈強なものが多かった時代そのもの。一般人や女子供を傷つけ、それで名声を得るよりも……最も大事なものが存在すると、私は思うのです。所謂、マッチョイズム。力こそ全て、どこか世紀末を思わせる振る舞いこそ、今の時代に必要な考えではないか、と考えるのです」
呉は静かに手を上げると、そのすぐ後に千尋は宙から急速で降りてきた小さな檻に閉じ込められ、とてもではないが灰崎が手の届かないような、高所へ連れ去られてしまう。
咄嗟に手を伸ばすも、当然届かない。灰崎は、かつてのような心苦しい気持ちを抱くのみであった。
「何、殺しはしません。例え教会を一週間そこらで抜け出そうと、神崎千尋に何ら恨みはありはしないのですから。それに……私は女子供を傷付ける趣味は有りません。それはあくまで軟弱物、あるいは卑怯者の趣味であることに変わりは有りません。あくまで私が望むのは……闘争以外にありはしないのですから」
千尋に向かって手をひらひらと振る呉であったが、その健康確認目的のジェスチャーは、千尋の舌を出し小ばかにする行為によって、意味のないものとなった。
「私が気になっているのは……他でもない。山梨県での一件があったのにも拘らず、凝りもせずに首を突っ込み続け、挙句の果てに善吉様主導開発の
人工生命体すら打倒した……
灰崎廉治、貴方なんですよ」
当人に向け、挑戦的にまっすぐ拳を向ける呉。その目には、これまでにないほどの殺意と、これ以上にないほどの期待の籠った目が向けられていたのだ。
「貴方は一般人同然でありながら……たった一回の英雄との敵対によって得た経験より、今なお成長を続けています。本人は無自覚でありながら、人間の域を
逸脱ていく貴方に……興味がありましてね」
「――悪いが、俺ではそうお気に召さない結果になると思うぜ。ガタイはアンタほど良くはねえし、俺が習得しているのは
極道式素手喧嘩殺法とほぼ付け焼刃同然の
効率式戦闘法だけだ。アンタほどの猛者じゃあねえ」
だが、この先で因縁深い善吉が待っているとなったら、その壁すら乗り越えてみたいと考えたのだ。自分の身長よりも遥かに高い、挑戦することすら躊躇ってしまうほどの絶壁でありながら、灰崎は静かに戦闘態勢を取ったのだ。
「……だがよ。俺ァ女人質に取られて黙っていられるほど……大人じゃあねえんだわ」
「――その言葉は、私の宣戦布告を受け取った、と……そう見做していいのですね?」
「無論だ、馬鹿野――――」
そう言いかけた灰崎は、眼前に迫る『死』を感覚で認識した。その感覚は間違っていないようで、瞬きの間に、呉の拳は迫っていたのだ。
咄嗟にスウェイをし、拳を避ける灰崎。しかし、あまりにもの速度、あまりにもの圧で、そこに刃物類が仕込まれていないことなど分かっていたはずなのに、頬が少し切れてしまうほどの衝撃波を、そして風を切り裂くほどの超高速の拳を、身を以って味わったのだ。
「気を抜かないでくださいね。――もう、闘争は始まっているのですから」
「逆にありがとうよ。ここまで殺意全開なら……俺も身構えることが出来るからよ」
咄嗟に目の色を変え、意表を突く上段の膝蹴り。咄嗟に片腕で防ぐも、眼前の存在の戦闘IQの高さを、その一瞬で感じ取った。思わず距離を取り後ずさりする呉であったが、その表情は恍惚に満ちていたのだ。
「簡単に、壊れないでくださいね……
灰崎廉治!!」
「善処するぜ、
呉一颯!!」
全力の上段飛び膝蹴りと、その膝蹴りを相殺するべく全力の拳をかち合わせる。
人体から生じるはずのない爆音がその広間に鳴り響く中、それが開戦の
鐘と相成ったのだ。