廃寺からほうほうの体で逃げ出したはずの大男が再びゆらりと現れたのを見て、石橋の欄干に腰かけ辺りを見回していた二人の賊は、へらりと薄い笑いを浮かべた。
「おい、見ろよ。俺たちに負けたやつが、またのこのこと戻って来たぜ」
「兄貴、おいらが相手をしてやろうか」
「いや、なに、少し体を動かすにはちょうどいい相手。この生鉄仏があのでぶを御陀仏にしてやろうじゃないか」
欄干から滑り降り、朴刀を手に黄色い歯をむき出してこちらに歩んでくる崔道成に向かって、智深もまた大音声で怒鳴りつける。
「ふん、さっきは腹が減って力が出なかったが、此度は違うぞ。貴様ら如き、とことん叩きのめしてやる!」
「ぐうッ!」
もはや飢えも満たされ、おまけに背後には義兄弟が潜んでいる。水を得た魚とばかりに禅杖をぐるりと振り回して躍りかかれば、生鉄仏のほうも、これはどうやら先ほどと様子が違うと目を見開き、気合一声、腰を落として智深の一撃を受け止める。
「しつこい野郎だ、これでも喰らえ!」
八、九合も渡り合わぬうち、甲高い音とともに、しっかと握ったはずの刀を吹き飛ばされ仰天した崔道成は、余裕の態度などかなぐり捨てて、背中をこちらに見せぬようにと必死の形相で後ずさる。
「兄貴!」
仲間の窮地を見た丘小乙が慌てて助太刀に入ろうとするが、そのとき、近くの大樹の影で息を潜めていた史進が軽やかな足取りで飛び出した。
「動くな! お前の相手は、この俺だ」
「ひっ……!」
鴈翎刀を振り上げる袖口から露になった龍の刺青に恐れをなした丘小乙は、それでもどうにか史進に歯向かったが、九紋龍の重たい太刀筋を防ぐのがやっと、息を荒げて駆けずり回る様はなんとも無様で、横目に見ていた智深も思わず笑い声をあげた。
「ハハッ、大口叩いていた勢いはどこへ行った? 貴様らのように年寄りを虐げる賊に、慈悲などないぞ!」
巨体を揺らして飛び上がった智深の禅杖が、一直線に生鉄仏の脳天に吸い込まれる。
「逃がすか!」
もはやこれまでと見て走り去ろうとした丘小乙の背中を史進の鴈翎刀が鮮やかに奔り、立て続けに幾度も容赦なく貫く。
先はあれほど智深を苦しめた二人の賊は、最期の悲鳴も上げられぬまま高々と血しぶきを迸らせ、寄り添うように冷たい石橋の下に消えていった。
弱い者を虐げる悪党を、今度は自分の意志で葬ったのだ。
ふと橋の下を覗き込めば、もはや動かぬ肉となった二人の小悪党から流れ出した赤い血が、川面を一瞬黒々とした赤に染め、そして消えていく。
「やったな、兄貴……兄貴?」
黙ってその様子を見つめる己を不審に思ったのか、史進に背中を叩かれる。
「どうした兄貴? まさか、このくらいで疲れたわけじゃないだろう」
「ハハッ、何を言う。腹が減っていなければ、こんな小悪党など俺の相手ではなかったんだ」
「そりゃあそうだ。さ、それより、寺の中の様子を見に行こう。
瓦罐寺、と書いているぞ」
「瓦罐寺か。食い物も、水さえ満足に残っていないのに、
罐も何もあったものか 」
切り捨てた肉塊を振り返りもせず、颯爽とした足取りで寺の中へと進んでいく史進に続いて、智深もまた廃寺の内へと引き返す。
「なんだ、随分しんとしているな。これじゃあ俺が気付かないわけだよ」
「いや、史進。なんだかちいとばかり、静かすぎるぞ」
やかましいほどに威張り散らしていた輩がいなくなっただけにしては気味の悪いほどの静けさに、智深は太い眉をしかめる。何やら風までどんよりと動いていないようで、じとりとした湿り気がわずかに頬に絡みつく。
「おい、坊主、じいさんたち、お前らを困らせた阿呆どもは、この俺がやっつけて……」
訝しみながらも、老僧たちが息を潜めているはずの小屋に踏み入った智深は、この静けさの訳を目の前にして、つう、と押し黙った。
「兄貴? どうした……」
石像のようにかたまった兄貴分の後ろから中の様子を覗き込んだ史進もまた、口をつぐみ、ふ、と息を吐いたようであった。
「……年寄りというのは、短気でいかん。俺の真の力量を信じられなかったか」
揺れもせず、ゆらりと梁からぶらさがる骸に背を向け、智深は半ば諦念をもって槐の樹のあったところへと行ってはみたが、近くの井戸の傍に並んで置かれた小さな靴を見ては、これ以上探し回る気は起きなかった。
「兄貴、終わってしまったことは仕方がない。それより、ここに長くいては、いらん疑いをかけられるかもしれないぞ。はやく荷物を探して出発しよう」
「ああ、お前の言うとおりだ。せっかく人助けのつもりで痛快に暴れてやったのに、また妙なことを言われて役人に追いかけまわされるんじゃ、たまらんからな」
だが、先ほどの小屋に置いてきたはずの荷物は、影も形も見当たらなかった。わずかばかりの着物や草鞋などどうでもよいが、智真長老より預かった大事な手紙だけはなんとしても探し出さねばなるまい。
「弱った、いったいどこにいったんだか」
「このあたりを探して見よう。あの賊どもがかっぱらって、どこかに隠したかもしれないぞ」
「それなら、この槐の樹の近くが怪しいな」
二人で辺りを見渡せば、ちょうど木々の葉陰に、崩れかけた長屋のような小屋がある。
押し入ってみれば、七つも八つも部屋があるうちのひとつにあれこれとした荷が山のように積まれており、その一番手前には、智深の運んできた荷が無造作に放り出されていた。
「ハハ、俺の荷があまりに軽いんで、大したものは入っとらんと捨て置いたな?」
包みを解いて中を改めれば、衣服も草鞋も、そして手紙も何一つ欠けることなく揃っている。
「よかった、この手紙がなきゃ、住処にもあぶれるところだった」
「それが、さっき話していた智真長老様の手紙か。東京といやあ、ここからすぐ……いや、遠いのかな。ここがどのあたりなのか見当がつかないけど、あまり遠くないといいね。東京には行ったことがないが、王進師匠の話を聞く限りじゃ、とても華やかな都なんだろうな」
話ながらも手を止めずに山と積まれた荷を改めていた史進は、その中から傷みの少ない着物と銀子を探り当て、智深に投げてよこした。
「俺が幼い頃に立ち寄った時も、賑わっていた。あんなに人がうじゃうじゃいるのを見たのは、後にも先にもあれだけだ」
受け取った着物はどう考えても智深の太鼓腹を収めるには小さすぎたが、売れば多少の路銀にはなるだろう。
「そういえば、やつらが残していた酒と肉があったな。あれも失敬しよう」
「え、兄貴、まだ食うのか」
「馬鹿を言え、干し肉とおやきくらいでいっぱいになるような腹じゃないわ」
「ハハ、確かにな」
賊どもが二度と続きを味わうことのできなくなった宴席に舌鼓をうつと、衣服や銀子を詰め込んだ荷物を抱えなおし、禅杖を握り、すっかり身も心も満たされた智深は、史進と連れ立って早々にこの寺を去ろうとした。
だが、満たされたはずなのに、どうにも心の内に気にかかるものがある。
「……供養を」
「供養?」
意外げに目を丸くした史進よりも、驚いていたのは己自身であった。
育ての親さえ満足に供養できずに暮らしてきた己が、恩人でも知人でも友でもない、僅かな時間言葉を交わしただけの他人相手にそのような言葉を口に上らせるなど、夢にも思わなかった。おまけに僧形とは言え、すっかり仏に帰依するような殊勝な心を持っているわけでもない。
それでも、なぜか、その想いは無意識の中で口をついた。
「思えば、哀れな者たちよ。五台山の坊主と名乗りながら経も満足に読めんが、せめて荼毘に付してやろうじゃないか」
去り掛けに通りかかったかまどの傍に屈みこみ、僅かに残った火種をかき集めて火を起こすと、手近な藁を縛って作り上げた二本の松明に火をともし、その一本を史進に渡す。
「ちょうど風も吹いてきたようだ。お前はあの槐の樹を燃やしてくれないか」
「……わかったよ」
刹那、何かを考えるような色を乗せた史進の瞳は、しかしすぐに常の健康的な輝きに戻る。
智深の心の内を察したかのように強さを増した風に吹かれ、廃寺を包んだ炎はその勢いを増す。
「火をつけたのは、二度目だ」
天にまで昇る黒い煙を離れたところから眺めていた智深の隣で、史進がぼそりと呟いた。
「さ、行くぞ。また宿を逃してはかなわんからな」
弟分の背を軽く叩き、智深は赤松林を迂回して、細い馬車道を歩き出す。
「兄貴はこの辺りに詳しいのかい?」
「詳しくはないが、どう考えてもこの大層な林に入り込んじまったら、迷うだろう」
「俺は近道だと思うんだけどなあ」
「史進よ」
五台山を下りてから、うるさく言う者もおらずすっかり伸ばし放題の髭をさすり、智深は唸る。
「お前は、地図を見ながら旅をしたほうがよさそうだ」
「もちろん見てるさ! でも、持っているものが古いのかもしれない」
「……そうだなあ」