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青い牢獄

ー/ー



 狭い入り口には『桐山(きりやま)小学校同窓会御一行様』と掲げられた札。その奥に広がる居酒屋では、二十代後半の男女が、久々の再会を楽しんでいた。焼酎グラスを手にした者、料理の載った小皿を持つ者──田舎の小さな村で育った仲間たちだが、男はジャケットを着こなし、女たちは思い思いに着飾っている。

 今日は五月十一日、日曜日。

 会場に青いワンピースを着てきた園田美貴(そのだみき)は、少し後悔していた。なぜなら同じテーブルの四人全員が、デザインこそ違えど青色のワンピースを着ていたからだ。

「まさか、四人とも色がかぶるなんてね」

 美貴の正面に座る木村加子(きむらかこ)が肩をすくめて言った。

「本当はもっと可愛い色のが欲しかったんだけど、青しかなかったのよ。マタニティウェアってカラバリ少ないから」

 加子は四人の中で唯一の既婚者だ。
 半年前に授かり婚をし、現在妊娠六ヶ月。高校卒業と同時に上京したものの、産休中のいまは地元へ戻ってきている。金髪を指先でくるくると弄びながら、スマホを片手に忙しなく画面をスクロールしていた。

穂乃果(ほのか)はなんで青なんか着てるの? 高校のときはずっとピンクロリータだったじゃない」

 美貴は、隣で酎ハイをあおる松原穂乃果(まつばらほのか)に尋ねた。

「最近付き合い始めた彼が言うのよ。『ほーちゃんはかわいいんだから、同窓会にピンクなんか着てっちゃダメ』って」

「なんでよ」と、加子が画面から目を離さずに訊く。

「そりゃあ、男が寄ってくるからに決まってんじゃん。あの人、心配性なの」
「大丈夫じゃない? あんたに言い寄ってくる男なんか、たぶんいないと思うけど」
「ひっどーい! なんでそんなこと言うのよ」

 穂乃果は口を尖らせつつ、皿から唐揚げを一つつまみ、勢いよく頬張った。くちゃくちゃという咀嚼音が響く。それは小学生の頃からまったく治らない、彼女の悪いクセだった。ぽっちゃりを通り越した体型に、年齢にそぐわないツインテール。モテるモテない以前に、大人としての所作をそろそろ身につけるべきだ──美貴は内心、そう思わずにはいられなかった。

 次々と料理を平らげていく穂乃果を、斜め前に座る大場菜美(おおばなみ)は、新種の生き物でも見るような目でじっと観察していた。

 菜美に会うのは何年ぶりだろう──と美貴は思う。小学校卒業と同時に、親の仕事の都合で海外へ引っ越して以来、一度も顔を合わせていない。連絡先も知らず、SNSでも繋がっていなかったから、彼女が今までどこで何をしていたのかも分からない。ただ、ひさしぶりに会った菜美は驚くほど垢抜けていた。

 小学生の頃のむちむちした体格も、くるくるとはねていた天パも、すっかり影を潜めている。高く伸びた身長、色白の肌、体の線が綺麗に出るワンピース。黒く艶やかな長髪は蛍光灯の下で柔らかく光り、思わず目を奪われた。

「園田さん、私には聞かないの?」

 菜美がいたずらっぽく微笑む。

「ああ、そうね。どうして菜美は青いワンピースを着てきたの?」

 美貴は生ビールを一口飲んでから、同じ質問を投げた。飲み慣れているはずなのに、今夜のビールは妙に苦い。それにしても、いつもジャージを着ていた菜美が、こんなに女性らしい格好をするなんて──大人になったんだな、と自然と胸の奥で思う。

「みんな、忘れちゃった? ほら、青は私たちにとって思い出の色でしょ」

 その言葉を聞いた瞬間、美貴の頭から酔いが一気に引いた。

「そうだったっけ?」「知らない」「勘違いじゃない?」と三者三様の声が飛ぶ間に、酒のおかわりが運ばれ、穂乃果は早くも二皿目の唐揚げを注文する。
 しかし、菜美を除く三人は思い出の色について深掘りしようとはせず、代わりに桐山小学校が取り壊される話題に切り替えた。けれどその話も、どこか空気を沈ませただけだった。

 四人の母校である桐山小学校は、少子化の影響で、去年の十二月に閉校した。今回の同窓会は、閉校するまで学校に勤めていた穂積孝弥(ほづみたかや)が「思い出話がしたい」と自主的に企画したものだ。

 一学年三十人にも満たない田舎の小学校とはいえ、学年合同での開催は大ごとだ。
 同級生の連絡先を集め、案内状を送り、返事を管理し、人数がまとまったら会場を探して予約する──考えるだけで目が回りそうな作業を、母校への愛情だけで成し遂げたのだから、あの穂積は本当にすごい。

 美貴には到底できないことだ。
 そもそも小学校に愛着なんてないし、語るべき思い出もほとんどない。むしろ忘れてしまいたい記憶のほうが多いのだ。

「同窓会を開いてもらった手前、言いにくいんだけどさ。私、そこまで思い出ないんだよね。っていうか、記憶もあんまりない」

 美貴の胸の内を見透かしたように、加子が言った。六年ものあいだ同じメンバーで過ごしたとはいえ、中学・高校・大学と環境が変わるにつれて、記憶は薄れていく。忘れたいことだけは、なぜかくっきり残したまま。

「自分の黒歴史みたいなのは、しっかり覚えてるのにね」
「美貴の黒歴史なら覚えてるよ。ほら、『私のお父さんは町議会議員だぞ!』ってやつ」

 加子が大声で笑い、美貴は口元をひきつらせた。美貴の父親は、小学生の頃から町議会議員として活動している。当選当初はまぐれと揶揄されていたが、美貴が大人になった今も議席を守っているのだから、それなりに実力はあったのだろう。けれど、すごいのは父であって、美貴ではない。

 当時の美貴はその「議員の娘」という肩書を振りかざし、教師にも同級生にも横柄な態度をとっていた。言うことを聞かせたり、気に入らない相手をいじめたり、先生に反抗したり──思えば可愛げのない、世間知らずの子どもだった。
 加子の父親も穂乃果の父親も町役場勤めだったし、もしかすると、議員の娘の美貴と仲良くしろ、と言われていたのかもしれない。

「今考えると、ほんとに馬鹿だったと思うよ。すごいのは父親で、私はただの子どもなのに、やたら偉そうにしてさ。全部なかったことにしたいくらい……」
「まあ、私も穂乃果も、美貴に便乗して好き勝手してたしねー」

 そう言って、加子はスマホをテーブルに伏せた。穂乃果も「そうだね」と頷いたあと、ふいにため息を漏らす。

「あれ、穂乃果がため息つくなんて珍しいじゃん」

加子に言われると、穂乃果は一度自分の服を見下ろし、ぎこちなく視線を逸らした。

「今まで忘れてたことも、こうやって集まると思い出しちゃうんだよね」

 まただ。場が重くなる。美貴は心の内で舌打ちする。嫌な記憶に触れないよう、みんなで慎重に話題を選んでいたはずなのに、少し油断するとすぐ元に戻ってしまう。

「そういうもんだよ」と加子はかすかに笑い、「でも私は昔のことより、今の生活で精一杯だわ」と頬杖をついた。

「マタニティブルーなのかな。お腹が大きくなるにつれて、不安まで一緒に大きくなるみたいでさ。暇さえあれば出産費用とか養育費とか、そんなのばっかりスマホで調べてる。検索履歴、見る? ヤバいよ」

 差し出されたスマホには『子ども 保育園 費用』『出産一時金』『旦那 育児 参加してくれる?』などの単語がずらりと並んでいる。

「うわ、大丈夫?」と画面をスクロールした瞬間、美貴の目にある文字が飛び込んできた。

『いじめで死なせた相手 怨まれる』

 冷たいものが背中を伝い落ちる。
 美貴は慌てて元の画面に戻し、スマホを加子へ返した。

「辛かったら、病院行ったほうがいいんじゃない?」

 そして、平静を装いながらグラスを傾ける。

「ねぇねぇ、私も加子の気持ち、ちょっと分かるんだけど」

 突然、穂乃果が会話に割り込んだ。

「彼氏に同棲しようって言われててさ。嫌じゃないし、むしろ嬉しいんだよ? でも、一緒に住んだらマンネリして嫌われるんじゃないかとか、相手の嫌なとこが見えて喧嘩するとか、家事の負担とか……心配が尽きなくて。だから私もいろいろ調べちゃうの」

 穂乃果の惚気と同棲への不安がしばらく続き、美貴は「へぇー、大変だね。同棲ブルーじゃない?」と相槌を打ちながら、心の中では羨ましさを噛みしめていた。

 しばらく恋人もおらず、転職したばかりで余裕のない自分からすれば──穂乃果の悩みは、ただの自慢にしか聞こえなかった。

「美貴はブルーになることない?」

 一通り話し終えたあと、穂乃果がリップを塗り直しながら訊いてきた。美貴は「うーん……」と腕を組む。

「仕事のこと考えると落ち込むかな。転職したばっかりで慣れてないのもあるけど、上司が意地悪でさ。小さいミスをいつまでもネチネチ言ってくるタイプなの」
「うわ、だるすぎ」
「でしょ? だから最近、日曜の夜が憂鬱になっちゃって。サンデーブルーってやつ? 明日から仕事かと思うと、動悸がやばいんだよね」

 そう言って、美貴はグラスを傾ける。

「なんかさ、大人になるってしんどいよね」

 加子がぽつりと呟いた、そのときだった。美貴の背後に、人が立つ気配がする。振り向くと、グラス片手の穂積がそこにいた。床屋で整えたような短髪に、陽焼けした褐色の肌。季節は初夏とはいえ、まだ肌寒い五月だというのに、半袖のポロシャツ姿だ。

「盛り上がってるとこ悪いけどな。頼んだ酒は残さず飲めよ。食べ物も同じだ。残したらお店の人に失礼だからな」

 いかにも体育教師らしい物言いに、美貴は思わず眉をひそめた。そもそもそんなに残してたっけ? とテーブルを見ると、菜美のために取り分けた料理が、手付かずのまま残っている。

「どうしたの? 苦手なものあった?」
「ううん、そういうんじゃないよ。今、ダイエット中なの」

 悪びれる様子もなく菜美は答えた。穂積は怪訝そうにしながらも、それ以上は言わず席へ戻る。
 その背中をぼんやり見送りながら、美貴は思案した。そろそろ話題のネタも尽きてきたし、嫌な記憶を避け続けるのも限界がある。とはいえ、先に帰っても、日曜の夜の憂鬱が待っているだけだ。

「ねぇ美貴ちゃん。飲み会も飽きてきちゃったし、みんなで小学校行かない?」

 ちょうど良いタイミングで、菜美が提案してきた。渡りに船だ。

「いいね。みんな揃う機会なんて滅多にないし、行こうよ」

 他の二人も同じように飽きが来ていたのだろう。すぐに賛同し、四人はテーブルを簡単に片付けて、加子の車に乗り込み、桐山小学校へ向かった。

「久しぶりに来たけど、ずいぶん印象が違うよね」

 肩からショールを掛け、自分を抱きしめるようにして加子が言った。日中の陽射しはすでに消え失せ、冷たい風が荒々しく吹き抜けていく。目の前にそびえるのは懐かしき学舎──のはずだ。窓ガラスが割れているわけでもなく、草木が荒れ放題ということもない。むしろ綺麗に手入れされている。けれど、午後十時の闇に浮かぶ校舎は、記憶よりもずっと禍々しかった。

「寒いから、早く中に入ろう」

 菜美がそう言って昇降口の扉を押すと、ギィ、と嫌な音を立てて開いた。
どうして鍵が開いているのか──美貴がそう言いかけた瞬間、

「うわっ、懐かしい!」

 加子の声にかき消された。
 中へ入り、スマホのライトで周囲を照らすと、掲示物こそ違うが見覚えのある景色が広がっている。一年生の教室、職員室、給食室……懐かしい空間を歩くうちに、違和感は次第に薄れ、テーマパークに迷い込んだような楽しささえ湧き上がってきた。ほんの、一瞬だけ。二階へ続く階段を上り始めると、忘れたはずの記憶がじわじわと脳内を侵食しはじめた。

 美貴が小学五年生になる頃、東京から可愛い女の子が転校してきた。名前は 絹川青(きぬがわ)さん。事故で亡くした両親に代わり、祖父母に引き取られてきたのだと聞いた。
 当初、美貴は「かわいそうだし、仲良くしてあげよう」と思っていた。しかし絹川は、ことあるごとに東京での生活を自慢し、それが美貴の癪に障った。やがて美貴は加子と穂乃果を誘い、青をいじめるようになった。

 最初は持ち物を隠す程度だったものが、机への落書き、上履きへの泥、給食に虫──エスカレートしていくのに、誰も止めなかった。先生も、級友も。

 逆らえなかったのだ。

 地方議員の娘である美貴は、ここでは権力だった。自分が恵まれていることを知っていたし、だからこそ、何をしても許されると思っていた。
 そしてあの年の五月。絹川は、五年二組の窓から落ちて死んだ。事故として処理されたが、真相は関わった者たちが一番よく分かっている。

 階段を踏みしめる足が重くなる。横を見ると、加子も穂乃果も黙り込み、同じように暗い表情で上っていた。
 酒の勢いがあったとはいえ、こんな場所に来るべきではなかった。そもそも元はと言えば──菜美が、あの子が行こうと言い出したのだ。

 突然、甲高い着信音が響き、美貴は飛び上がった。自分のスマホだ。慌ててバッグから取り出すと、画面には 『穂積孝弥』 の文字。首を傾げつつ通話ボタンを押し、耳に当てる。

「もしもし」
『ああ園田? これから二次会行こうと思ってんだけど、お前ら今どこ?』
「小学校。今、ちょうど階段のぼって二階に──」
『は? 冗談よせよ』
「冗談じゃないって。鍵も開いてたし」
『あのな。小学校は取り壊されて、もう更地だぞ。お前ら、帰ってきたの久しぶりだから知らなかったんだろうけど、こっちじゃ有名だ』

 更地?

 もし穂積の言うことが本当なら、今自分たちがいる場所は一体どこなのか。

 美貴は思わず立ち止まった。気づけば階段を上りきり、三人の後ろを追うように五年二組の教室へ足を踏み入れていた。胸の鼓動が激しくなる。

「菜美が、小学校に行こうって言い出して……それで私たち」
『菜美って誰だ?』
「大場菜美だよ。ずっと同じクラスだった──幹事なら分かるでしょ?」
『園田、お前ら今日おかしいぞ。居酒屋でも、ナミナミって知らない名前呼んで、誰もいない席に料理取り分けてたし……それに、大場菜美なんて、そもそも俺たちの学年にいない』

 ザーッ、とノイズが混ざり、通話が途切れた。
 スマホを握る手が震える。膝が勝手に笑う。大場菜美? ナミ? なみ……?
 どれだけ思い出そうとしても、小学生の頃の菜美が出てこない。

「園田さん、どうしたの?」

 顔を上げる。

 そこには、菜美と呼んでいた女が微笑んでいた。艶やかな黒髪。大きな目。完璧に整った白い歯。その笑顔を見た瞬間、全身の血の気が引いた。

「……あなたは誰?」
「とぼけないでよ。みんなもう気付いてるくせに」

 女は笑顔で言った。けれど、その目はひとかけらも笑っていなかった。

「……絹川 (あお)なの?」

 口にした瞬間、自分でも息が詰まる。二度と触れたくないと思っていた名前を。忘れたふりをし続けてきた名前を。気がつけば美貴は、それを震える唇からこぼしていた。

 すぐ横では加子が床にへたり込み、全身を小刻みに震わせている。穂乃果は教室の扉を必死に引いたが、蝶番が溶けたかのように動かなかった。

「ねえ。みんな小学校の記憶がないって言うけどさ」

 青は軽やかに続ける。

「頭のどこかでは、私のこと覚えててくれたんでしょ? だから同窓会に青いワンピース着てきてくれたんだよね。ほんと、嬉しかったなぁ」

 その表情は、ひどく純粋な喜びに満ちていた。

「いじめていたことを後悔してるなら、赦してあげてもいいと思ってたの。けど」

 青は言葉を切り、ゆっくりと上目遣いで美貴を覗き込む。その瞬間、

「わ、私も穂乃果も、美貴に命令されてやっただけなの! 私たちは関係ない!」

 加子が金切り声を上げた。青の視線が滑るように彼女へ向く。

「私はね、大人になることさえ許されなかったの」

 青の声は平坦で、だからこそ重い。

「彼氏を作ることも、結婚することも、妊娠することも、仕事をすることも……全部、叶わなかった。なのにみんな、私が生きたかった幸せを歩いてる。そのくせ憂鬱って顔して……ねぇ、許せると思う?」
「お願い、なんでもするから助けて!」

 穂乃果が泣き叫び、加子は何度も千切れそうなほど首を縦に振った。
 美貴は青ざめた顔でただ首を振るだけだった。この光景、知っている。何度も、何度も、何度も、何度も……見たことがある。

 「ゔっ」と加子が腹を押さえて崩れ落ちた。ライトを向けると、ワンピースの裾がじわりと黒く染まっていく。内股を伝う赤い筋が床に広がる。

「加子!? 大丈夫?」

 肩に手を置きながらも、美貴の脳裏には冷たい確信があった。ああ、お腹の子はもう助からない。
突然、穂乃果のスマホから場違いな電子音が流れた。

「も、もしもし……」

 暗闇に浮かぶ液晶の光が、穂乃果の血の気を引いた顔を照らす。震える声、指。やがて、彼女は片手で口を押さえながらその場に座り込んだ。

「……彼氏が、事故に遭って……即死だって……」
「穂乃果」

 美貴が声をかけても、返事はなく、くぐもった泣き声だけが続いた。

 加子はお腹の子どもを。穂乃果は愛する彼氏を。みんな、みんな、命より大切なものを奪われた。

 では、自分は。自分は何を奪われるのか。

「加子ちゃんと穂乃果ちゃんは、園田さんが怖くて従ってただけ」

 青が優しげな声で言う。

「仕方なくいじめてたんだよね。酷いけど、同情の余地はあるから……大切なものを奪うだけで勘弁してあげた。ほら、私って優しいでしょ?お腹の子が流れれば悩まないで済むし、彼氏が死ねば同棲しなくて済む。憂鬱にならなくていいもの」

 ふっと息を吸い、青は美貴に向き直る。
 瞳孔が開ききり、瞳が闇の中で光った。

「でも園田さんはダメ」

 美貴は、まるで弾かれたように後ずさった。

「もしかして殺すつもり? それとも、大切なものを奪うの?私は独り身だから、奪われて困るものなんて、何もないよ」

 自分でも驚くほど、声が乾いていた。
 青が復讐の内容を「居酒屋での会話」から拾っているのだとしたら。美貴が漏らしたのは、『日曜日が憂鬱』という、他愛ない愚痴にすぎない。なら、会社をクビになるとか、そういう生ぬるい罰で済むのかもしれなかった。

 くふ、くふふふふふ。

 耳の奥にこびりつくような、湿った笑い声が教室の闇に広がった。美貴は更に後ずさった。
 だが青は、まるで逃げる予兆を読んでいたかのように、一瞥しただけで動いた。

 次の瞬間、肩を掴まれ、引き倒される。その力は、生者のものではなかった。床に背中が打ちつけられ、呼吸が詰まる。

「ねぇ、園田さん」

 耳元で、氷のように冷たい声。

「園田さんはサンデーブルーなんだよね? 日曜日が憂鬱で仕方ないんでしょ?」

 青の顔が、暗闇の中で異様なほど近い。目だけが、不自然に光っている。

「だったら、これから一生、明日が来なければいいんじゃない?」

 喉が震え、声が出なかった。

「ずっとずっと、今日に囚われたまま。死ぬことも、生きることもできなくなって。終わらない日曜日に閉じ込められて……ね?」

 青が手を伸ばす。
 爪の先がそっと美貴の頬に触れ、そのまま、両目を覆った。視界が黒く染まる。
 青の手の内側から、じわりと何かが滲み出す。
 まるで闇そのものが、美貴の眼球へと染み込んでくるようだった。

 嗚呼。意識から切り離されていく感覚。
 迫る絶望を拒むこともできず、美貴はただ飲み込まれていく。

 そう、自分は一生、月曜日を迎えることができない。
 その確信が胸を貫いた瞬間、美貴の意識は、ゆっくりと遠のいた。

 視界が、ふっと明るくなる。遠くで、人の話し声がする。耳に馴染んだはずの雑音なのに、どこか薄い膜越しに聞こえるような、ひどく遠い。
 身体は鉛のように重く、心もまた同じ重さで沈んでいた。

 ゆっくり目を開けると、同じような青いワンピースを着た女たちがいた。笑い声を上げ、グラスを軽くぶつけ合い、どこまでも楽しげに談笑している。

「まさか、四人とも色がかぶるなんてね」

 美貴の口が、勝手にその台詞を紡いだ。
 何度も、何度も、何度も繰り返してきた、擦り切れた言葉。

 今日もまた。今日も、また。

 今日は、美貴にとって1,586回目の、五月十一日の日曜日。

 青に引き倒されたあの瞬間から、月曜日は一度も訪れない。すべてが既視感の中で反復される牢獄。

 美貴は、ゆっくりと天井を見上げた。
 そこに救いはなく、ただ終わりなき日曜日が透き通った薄膜のように張り付いている。

 彼女は級友を殺した罪と引き換えに、
 サンデーブルーという名の永遠の牢獄に閉じ込められている。

 そして今日もまた、青いワンピースの笑い声が、虚しく、何度目かの夜にこだまするのだった。



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 狭い入り口には『|桐山《きりやま》小学校同窓会御一行様』と掲げられた札。その奥に広がる居酒屋では、二十代後半の男女が、久々の再会を楽しんでいた。焼酎グラスを手にした者、料理の載った小皿を持つ者──田舎の小さな村で育った仲間たちだが、男はジャケットを着こなし、女たちは思い思いに着飾っている。
 今日は五月十一日、日曜日。
 会場に青いワンピースを着てきた|園田美貴《そのだみき》は、少し後悔していた。なぜなら同じテーブルの四人全員が、デザインこそ違えど青色のワンピースを着ていたからだ。
「まさか、四人とも色がかぶるなんてね」
 美貴の正面に座る|木村加子《きむらかこ》が肩をすくめて言った。
「本当はもっと可愛い色のが欲しかったんだけど、青しかなかったのよ。マタニティウェアってカラバリ少ないから」
 加子は四人の中で唯一の既婚者だ。
 半年前に授かり婚をし、現在妊娠六ヶ月。高校卒業と同時に上京したものの、産休中のいまは地元へ戻ってきている。金髪を指先でくるくると弄びながら、スマホを片手に忙しなく画面をスクロールしていた。
「|穂乃果《ほのか》はなんで青なんか着てるの? 高校のときはずっとピンクロリータだったじゃない」
 美貴は、隣で酎ハイをあおる|松原穂乃果《まつばらほのか》に尋ねた。
「最近付き合い始めた彼が言うのよ。『ほーちゃんはかわいいんだから、同窓会にピンクなんか着てっちゃダメ』って」
「なんでよ」と、加子が画面から目を離さずに訊く。
「そりゃあ、男が寄ってくるからに決まってんじゃん。あの人、心配性なの」
「大丈夫じゃない? あんたに言い寄ってくる男なんか、たぶんいないと思うけど」
「ひっどーい! なんでそんなこと言うのよ」
 穂乃果は口を尖らせつつ、皿から唐揚げを一つつまみ、勢いよく頬張った。くちゃくちゃという咀嚼音が響く。それは小学生の頃からまったく治らない、彼女の悪いクセだった。ぽっちゃりを通り越した体型に、年齢にそぐわないツインテール。モテるモテない以前に、大人としての所作をそろそろ身につけるべきだ──美貴は内心、そう思わずにはいられなかった。
 次々と料理を平らげていく穂乃果を、斜め前に座る|大場菜美《おおばなみ》は、新種の生き物でも見るような目でじっと観察していた。
 菜美に会うのは何年ぶりだろう──と美貴は思う。小学校卒業と同時に、親の仕事の都合で海外へ引っ越して以来、一度も顔を合わせていない。連絡先も知らず、SNSでも繋がっていなかったから、彼女が今までどこで何をしていたのかも分からない。ただ、ひさしぶりに会った菜美は驚くほど垢抜けていた。
 小学生の頃のむちむちした体格も、くるくるとはねていた天パも、すっかり影を潜めている。高く伸びた身長、色白の肌、体の線が綺麗に出るワンピース。黒く艶やかな長髪は蛍光灯の下で柔らかく光り、思わず目を奪われた。
「園田さん、私には聞かないの?」
 菜美がいたずらっぽく微笑む。
「ああ、そうね。どうして菜美は青いワンピースを着てきたの?」
 美貴は生ビールを一口飲んでから、同じ質問を投げた。飲み慣れているはずなのに、今夜のビールは妙に苦い。それにしても、いつもジャージを着ていた菜美が、こんなに女性らしい格好をするなんて──大人になったんだな、と自然と胸の奥で思う。
「みんな、忘れちゃった? ほら、青は私たちにとって思い出の色でしょ」
 その言葉を聞いた瞬間、美貴の頭から酔いが一気に引いた。
「そうだったっけ?」「知らない」「勘違いじゃない?」と三者三様の声が飛ぶ間に、酒のおかわりが運ばれ、穂乃果は早くも二皿目の唐揚げを注文する。
 しかし、菜美を除く三人は思い出の色について深掘りしようとはせず、代わりに桐山小学校が取り壊される話題に切り替えた。けれどその話も、どこか空気を沈ませただけだった。
 四人の母校である桐山小学校は、少子化の影響で、去年の十二月に閉校した。今回の同窓会は、閉校するまで学校に勤めていた|穂積孝弥《ほづみたかや》が「思い出話がしたい」と自主的に企画したものだ。
 一学年三十人にも満たない田舎の小学校とはいえ、学年合同での開催は大ごとだ。
 同級生の連絡先を集め、案内状を送り、返事を管理し、人数がまとまったら会場を探して予約する──考えるだけで目が回りそうな作業を、母校への愛情だけで成し遂げたのだから、あの穂積は本当にすごい。
 美貴には到底できないことだ。
 そもそも小学校に愛着なんてないし、語るべき思い出もほとんどない。むしろ忘れてしまいたい記憶のほうが多いのだ。
「同窓会を開いてもらった手前、言いにくいんだけどさ。私、そこまで思い出ないんだよね。っていうか、記憶もあんまりない」
 美貴の胸の内を見透かしたように、加子が言った。六年ものあいだ同じメンバーで過ごしたとはいえ、中学・高校・大学と環境が変わるにつれて、記憶は薄れていく。忘れたいことだけは、なぜかくっきり残したまま。
「自分の黒歴史みたいなのは、しっかり覚えてるのにね」
「美貴の黒歴史なら覚えてるよ。ほら、『私のお父さんは町議会議員だぞ!』ってやつ」
 加子が大声で笑い、美貴は口元をひきつらせた。美貴の父親は、小学生の頃から町議会議員として活動している。当選当初はまぐれと揶揄されていたが、美貴が大人になった今も議席を守っているのだから、それなりに実力はあったのだろう。けれど、すごいのは父であって、美貴ではない。
 当時の美貴はその「議員の娘」という肩書を振りかざし、教師にも同級生にも横柄な態度をとっていた。言うことを聞かせたり、気に入らない相手をいじめたり、先生に反抗したり──思えば可愛げのない、世間知らずの子どもだった。
 加子の父親も穂乃果の父親も町役場勤めだったし、もしかすると、議員の娘の美貴と仲良くしろ、と言われていたのかもしれない。
「今考えると、ほんとに馬鹿だったと思うよ。すごいのは父親で、私はただの子どもなのに、やたら偉そうにしてさ。全部なかったことにしたいくらい……」
「まあ、私も穂乃果も、美貴に便乗して好き勝手してたしねー」
 そう言って、加子はスマホをテーブルに伏せた。穂乃果も「そうだね」と頷いたあと、ふいにため息を漏らす。
「あれ、穂乃果がため息つくなんて珍しいじゃん」
加子に言われると、穂乃果は一度自分の服を見下ろし、ぎこちなく視線を逸らした。
「今まで忘れてたことも、こうやって集まると思い出しちゃうんだよね」
 まただ。場が重くなる。美貴は心の内で舌打ちする。嫌な記憶に触れないよう、みんなで慎重に話題を選んでいたはずなのに、少し油断するとすぐ元に戻ってしまう。
「そういうもんだよ」と加子はかすかに笑い、「でも私は昔のことより、今の生活で精一杯だわ」と頬杖をついた。
「マタニティブルーなのかな。お腹が大きくなるにつれて、不安まで一緒に大きくなるみたいでさ。暇さえあれば出産費用とか養育費とか、そんなのばっかりスマホで調べてる。検索履歴、見る? ヤバいよ」
 差し出されたスマホには『子ども 保育園 費用』『出産一時金』『旦那 育児 参加してくれる?』などの単語がずらりと並んでいる。
「うわ、大丈夫?」と画面をスクロールした瞬間、美貴の目にある文字が飛び込んできた。
『いじめで死なせた相手 怨まれる』
 冷たいものが背中を伝い落ちる。
 美貴は慌てて元の画面に戻し、スマホを加子へ返した。
「辛かったら、病院行ったほうがいいんじゃない?」
 そして、平静を装いながらグラスを傾ける。
「ねぇねぇ、私も加子の気持ち、ちょっと分かるんだけど」
 突然、穂乃果が会話に割り込んだ。
「彼氏に同棲しようって言われててさ。嫌じゃないし、むしろ嬉しいんだよ? でも、一緒に住んだらマンネリして嫌われるんじゃないかとか、相手の嫌なとこが見えて喧嘩するとか、家事の負担とか……心配が尽きなくて。だから私もいろいろ調べちゃうの」
 穂乃果の惚気と同棲への不安がしばらく続き、美貴は「へぇー、大変だね。同棲ブルーじゃない?」と相槌を打ちながら、心の中では羨ましさを噛みしめていた。
 しばらく恋人もおらず、転職したばかりで余裕のない自分からすれば──穂乃果の悩みは、ただの自慢にしか聞こえなかった。
「美貴はブルーになることない?」
 一通り話し終えたあと、穂乃果がリップを塗り直しながら訊いてきた。美貴は「うーん……」と腕を組む。
「仕事のこと考えると落ち込むかな。転職したばっかりで慣れてないのもあるけど、上司が意地悪でさ。小さいミスをいつまでもネチネチ言ってくるタイプなの」
「うわ、だるすぎ」
「でしょ? だから最近、日曜の夜が憂鬱になっちゃって。サンデーブルーってやつ? 明日から仕事かと思うと、動悸がやばいんだよね」
 そう言って、美貴はグラスを傾ける。
「なんかさ、大人になるってしんどいよね」
 加子がぽつりと呟いた、そのときだった。美貴の背後に、人が立つ気配がする。振り向くと、グラス片手の穂積がそこにいた。床屋で整えたような短髪に、陽焼けした褐色の肌。季節は初夏とはいえ、まだ肌寒い五月だというのに、半袖のポロシャツ姿だ。
「盛り上がってるとこ悪いけどな。頼んだ酒は残さず飲めよ。食べ物も同じだ。残したらお店の人に失礼だからな」
 いかにも体育教師らしい物言いに、美貴は思わず眉をひそめた。そもそもそんなに残してたっけ? とテーブルを見ると、菜美のために取り分けた料理が、手付かずのまま残っている。
「どうしたの? 苦手なものあった?」
「ううん、そういうんじゃないよ。今、ダイエット中なの」
 悪びれる様子もなく菜美は答えた。穂積は怪訝そうにしながらも、それ以上は言わず席へ戻る。
 その背中をぼんやり見送りながら、美貴は思案した。そろそろ話題のネタも尽きてきたし、嫌な記憶を避け続けるのも限界がある。とはいえ、先に帰っても、日曜の夜の憂鬱が待っているだけだ。
「ねぇ美貴ちゃん。飲み会も飽きてきちゃったし、みんなで小学校行かない?」
 ちょうど良いタイミングで、菜美が提案してきた。渡りに船だ。
「いいね。みんな揃う機会なんて滅多にないし、行こうよ」
 他の二人も同じように飽きが来ていたのだろう。すぐに賛同し、四人はテーブルを簡単に片付けて、加子の車に乗り込み、桐山小学校へ向かった。
「久しぶりに来たけど、ずいぶん印象が違うよね」
 肩からショールを掛け、自分を抱きしめるようにして加子が言った。日中の陽射しはすでに消え失せ、冷たい風が荒々しく吹き抜けていく。目の前にそびえるのは懐かしき学舎──のはずだ。窓ガラスが割れているわけでもなく、草木が荒れ放題ということもない。むしろ綺麗に手入れされている。けれど、午後十時の闇に浮かぶ校舎は、記憶よりもずっと禍々しかった。
「寒いから、早く中に入ろう」
 菜美がそう言って昇降口の扉を押すと、ギィ、と嫌な音を立てて開いた。
どうして鍵が開いているのか──美貴がそう言いかけた瞬間、
「うわっ、懐かしい!」
 加子の声にかき消された。
 中へ入り、スマホのライトで周囲を照らすと、掲示物こそ違うが見覚えのある景色が広がっている。一年生の教室、職員室、給食室……懐かしい空間を歩くうちに、違和感は次第に薄れ、テーマパークに迷い込んだような楽しささえ湧き上がってきた。ほんの、一瞬だけ。二階へ続く階段を上り始めると、忘れたはずの記憶がじわじわと脳内を侵食しはじめた。
 美貴が小学五年生になる頃、東京から可愛い女の子が転校してきた。名前は |絹川青《きぬがわ》さん。事故で亡くした両親に代わり、祖父母に引き取られてきたのだと聞いた。
 当初、美貴は「かわいそうだし、仲良くしてあげよう」と思っていた。しかし絹川は、ことあるごとに東京での生活を自慢し、それが美貴の癪に障った。やがて美貴は加子と穂乃果を誘い、青をいじめるようになった。
 最初は持ち物を隠す程度だったものが、机への落書き、上履きへの泥、給食に虫──エスカレートしていくのに、誰も止めなかった。先生も、級友も。
 逆らえなかったのだ。
 地方議員の娘である美貴は、ここでは権力だった。自分が恵まれていることを知っていたし、だからこそ、何をしても許されると思っていた。
 そしてあの年の五月。絹川は、五年二組の窓から落ちて死んだ。事故として処理されたが、真相は関わった者たちが一番よく分かっている。
 階段を踏みしめる足が重くなる。横を見ると、加子も穂乃果も黙り込み、同じように暗い表情で上っていた。
 酒の勢いがあったとはいえ、こんな場所に来るべきではなかった。そもそも元はと言えば──菜美が、あの子が行こうと言い出したのだ。
 突然、甲高い着信音が響き、美貴は飛び上がった。自分のスマホだ。慌ててバッグから取り出すと、画面には 『穂積孝弥』 の文字。首を傾げつつ通話ボタンを押し、耳に当てる。
「もしもし」
『ああ園田? これから二次会行こうと思ってんだけど、お前ら今どこ?』
「小学校。今、ちょうど階段のぼって二階に──」
『は? 冗談よせよ』
「冗談じゃないって。鍵も開いてたし」
『あのな。小学校は取り壊されて、もう更地だぞ。お前ら、帰ってきたの久しぶりだから知らなかったんだろうけど、こっちじゃ有名だ』
 更地?
 もし穂積の言うことが本当なら、今自分たちがいる場所は一体どこなのか。
 美貴は思わず立ち止まった。気づけば階段を上りきり、三人の後ろを追うように五年二組の教室へ足を踏み入れていた。胸の鼓動が激しくなる。
「菜美が、小学校に行こうって言い出して……それで私たち」
『菜美って誰だ?』
「大場菜美だよ。ずっと同じクラスだった──幹事なら分かるでしょ?」
『園田、お前ら今日おかしいぞ。居酒屋でも、ナミナミって知らない名前呼んで、誰もいない席に料理取り分けてたし……それに、大場菜美なんて、そもそも俺たちの学年にいない』
 ザーッ、とノイズが混ざり、通話が途切れた。
 スマホを握る手が震える。膝が勝手に笑う。大場菜美? ナミ? なみ……?
 どれだけ思い出そうとしても、小学生の頃の菜美が出てこない。
「園田さん、どうしたの?」
 顔を上げる。
 そこには、菜美と呼んでいた女が微笑んでいた。艶やかな黒髪。大きな目。完璧に整った白い歯。その笑顔を見た瞬間、全身の血の気が引いた。
「……あなたは誰?」
「とぼけないでよ。みんなもう気付いてるくせに」
 女は笑顔で言った。けれど、その目はひとかけらも笑っていなかった。
「……絹川 |青《あお》なの?」
 口にした瞬間、自分でも息が詰まる。二度と触れたくないと思っていた名前を。忘れたふりをし続けてきた名前を。気がつけば美貴は、それを震える唇からこぼしていた。
 すぐ横では加子が床にへたり込み、全身を小刻みに震わせている。穂乃果は教室の扉を必死に引いたが、蝶番が溶けたかのように動かなかった。
「ねえ。みんな小学校の記憶がないって言うけどさ」
 青は軽やかに続ける。
「頭のどこかでは、私のこと覚えててくれたんでしょ? だから同窓会に青いワンピース着てきてくれたんだよね。ほんと、嬉しかったなぁ」
 その表情は、ひどく純粋な喜びに満ちていた。
「いじめていたことを後悔してるなら、赦してあげてもいいと思ってたの。けど」
 青は言葉を切り、ゆっくりと上目遣いで美貴を覗き込む。その瞬間、
「わ、私も穂乃果も、美貴に命令されてやっただけなの! 私たちは関係ない!」
 加子が金切り声を上げた。青の視線が滑るように彼女へ向く。
「私はね、大人になることさえ許されなかったの」
 青の声は平坦で、だからこそ重い。
「彼氏を作ることも、結婚することも、妊娠することも、仕事をすることも……全部、叶わなかった。なのにみんな、私が生きたかった幸せを歩いてる。そのくせ憂鬱って顔して……ねぇ、許せると思う?」
「お願い、なんでもするから助けて!」
 穂乃果が泣き叫び、加子は何度も千切れそうなほど首を縦に振った。
 美貴は青ざめた顔でただ首を振るだけだった。この光景、知っている。何度も、何度も、何度も、何度も……見たことがある。
 「ゔっ」と加子が腹を押さえて崩れ落ちた。ライトを向けると、ワンピースの裾がじわりと黒く染まっていく。内股を伝う赤い筋が床に広がる。
「加子!? 大丈夫?」
 肩に手を置きながらも、美貴の脳裏には冷たい確信があった。ああ、お腹の子はもう助からない。
突然、穂乃果のスマホから場違いな電子音が流れた。
「も、もしもし……」
 暗闇に浮かぶ液晶の光が、穂乃果の血の気を引いた顔を照らす。震える声、指。やがて、彼女は片手で口を押さえながらその場に座り込んだ。
「……彼氏が、事故に遭って……即死だって……」
「穂乃果」
 美貴が声をかけても、返事はなく、くぐもった泣き声だけが続いた。
 加子はお腹の子どもを。穂乃果は愛する彼氏を。みんな、みんな、命より大切なものを奪われた。
 では、自分は。自分は何を奪われるのか。
「加子ちゃんと穂乃果ちゃんは、園田さんが怖くて従ってただけ」
 青が優しげな声で言う。
「仕方なくいじめてたんだよね。酷いけど、同情の余地はあるから……大切なものを奪うだけで勘弁してあげた。ほら、私って優しいでしょ?お腹の子が流れれば悩まないで済むし、彼氏が死ねば同棲しなくて済む。憂鬱にならなくていいもの」
 ふっと息を吸い、青は美貴に向き直る。
 瞳孔が開ききり、瞳が闇の中で光った。
「でも園田さんはダメ」
 美貴は、まるで弾かれたように後ずさった。
「もしかして殺すつもり? それとも、大切なものを奪うの?私は独り身だから、奪われて困るものなんて、何もないよ」
 自分でも驚くほど、声が乾いていた。
 青が復讐の内容を「居酒屋での会話」から拾っているのだとしたら。美貴が漏らしたのは、『日曜日が憂鬱』という、他愛ない愚痴にすぎない。なら、会社をクビになるとか、そういう生ぬるい罰で済むのかもしれなかった。
 くふ、くふふふふふ。
 耳の奥にこびりつくような、湿った笑い声が教室の闇に広がった。美貴は更に後ずさった。
 だが青は、まるで逃げる予兆を読んでいたかのように、一瞥しただけで動いた。
 次の瞬間、肩を掴まれ、引き倒される。その力は、生者のものではなかった。床に背中が打ちつけられ、呼吸が詰まる。
「ねぇ、園田さん」
 耳元で、氷のように冷たい声。
「園田さんはサンデーブルーなんだよね? 日曜日が憂鬱で仕方ないんでしょ?」
 青の顔が、暗闇の中で異様なほど近い。目だけが、不自然に光っている。
「だったら、これから一生、明日が来なければいいんじゃない?」
 喉が震え、声が出なかった。
「ずっとずっと、今日に囚われたまま。死ぬことも、生きることもできなくなって。終わらない日曜日に閉じ込められて……ね?」
 青が手を伸ばす。
 爪の先がそっと美貴の頬に触れ、そのまま、両目を覆った。視界が黒く染まる。
 青の手の内側から、じわりと何かが滲み出す。
 まるで闇そのものが、美貴の眼球へと染み込んでくるようだった。
 嗚呼。意識から切り離されていく感覚。
 迫る絶望を拒むこともできず、美貴はただ飲み込まれていく。
 そう、自分は一生、月曜日を迎えることができない。
 その確信が胸を貫いた瞬間、美貴の意識は、ゆっくりと遠のいた。
 視界が、ふっと明るくなる。遠くで、人の話し声がする。耳に馴染んだはずの雑音なのに、どこか薄い膜越しに聞こえるような、ひどく遠い。
 身体は鉛のように重く、心もまた同じ重さで沈んでいた。
 ゆっくり目を開けると、同じような青いワンピースを着た女たちがいた。笑い声を上げ、グラスを軽くぶつけ合い、どこまでも楽しげに談笑している。
「まさか、四人とも色がかぶるなんてね」
 美貴の口が、勝手にその台詞を紡いだ。
 何度も、何度も、何度も繰り返してきた、擦り切れた言葉。
 今日もまた。今日も、また。
 今日は、美貴にとって1,586回目の、五月十一日の日曜日。
 青に引き倒されたあの瞬間から、月曜日は一度も訪れない。すべてが既視感の中で反復される牢獄。
 美貴は、ゆっくりと天井を見上げた。
 そこに救いはなく、ただ終わりなき日曜日が透き通った薄膜のように張り付いている。
 彼女は級友を殺した罪と引き換えに、
 サンデーブルーという名の永遠の牢獄に閉じ込められている。
 そして今日もまた、青いワンピースの笑い声が、虚しく、何度目かの夜にこだまするのだった。