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首を吊らなかったひと

ー/ー



「ハルちゃん? えっと、いるかな? はじめまして、わたし、メグミって言うんだけど、へへ、来ちゃいました。ハルちゃんのパパ、やっぱりいないんだね。ううん、いいの。今日、プリン買ってきたんだけど、結構人気なお店のでね、冷蔵庫いれといたから、あとで食べてね」

 ハルは、自室の扉の外から聞こえる女性の声に、そちらに一瞬でも目をやったが、すぐに逸らした。ハルの日常にとってそう珍しいことでもなかったし、相手も、別にハルと顔を合わせたいわけでもないだろう。

 すぐ隣に、ハルの母親の部屋がある。廊下を誰かが動く気配がして、母の部屋の扉が開かれたようだった。

 ハルがわざわざ見にいくこともない。
 そのうち、この家に来たナナ姉が片付けてくれるだろう。
 ちゃんとやった? とかまた聞かれると思うから、そろそろ宿題やり始めないとなあと思う。
 今読んでいる本は図書館から借りてきたものだから、期限がくる前に読み終わっておきたいのだが。

 欲しい本なんかは頼めばナナ姉が買ってくれるとは思うのだけど、ただでさえ食べ物だの服だので世話になっているため、そこまで世話になるのもな、というのは、ハルのような小学生でも思う。


「ハル? ナナ姉だよ。マサハルさん来てない? まああの人のことだから来てないよね。いつもフラフラしてるんだから……。ハルもたまには会いたいよね? 玄関に靴あったけど、また誰か来たんだね。ハルはあっち行っちゃ駄目よ。ナナ姉がどうにかしてあげるから」

 しばらくして、ナナ姉の声が聞こえてくる。ナナ姉にも生活というのがあるので、昼間からハルの家に来るのはあまりないため、一緒にご飯を食べるのは夜ご飯がほとんどだ。休日にここにいるときは、朝ごはんや昼ごはんを一緒に済ますこともある。

 こういう日は、三十分くらいしてから、ナナ姉が呼びにくる。それから、夜ごはんになるだろう。



「ごめん、ちょっと散らかってたから、時間かかっちゃった。おなか減っちゃった? すぐご飯にしようね」

 扉を叩かれたから、廊下に出てみれば、そこにナナ姉が立っていた。

 外見は、多分大学生くらい。明るくて人懐っこい笑顔のお姉さん。肩くらいにまでさらさらの髪を伸ばしている。

「……ナナ姉にばっかやってもらうのも悪いし。ちょっと、ハルも手伝った方がよくない?」
「いいよ、子どもがそんなこと気にしないの。あんな奴らのことなんか、ハルがすることないよ。ナナ姉がやってあげるから」

 ハルを見下ろして、ナナ姉がからからと笑う。

 またいつも通り、廊下にはビニールシートでぐるぐるに巻かれた、人一人はいるくらいのサイズの塊が置かれている。紐で頑丈に縛られている。
 中にいるのは、先ほどこの家に訪ねてきたひと。ハルの母の部屋でまた死んでいたのだろう。

 ハルの家は、見知らぬ女性が来ては、母の部屋で首を吊りたがることがよくある。今のところ、失敗した人はいない。
 そうやって、成功してしまった人たちの死体を片付けるのは、いつもナナ姉の仕事だった。



「ハル、美味しい? よかった。あ、そういえばさあ、担任の先生に、また何か言われたりしてない? お家についてとかさ。あの人、ちょっとうるさいよね。マサハルさんになんの問題があるってのよ。学校側が言うことじゃなくない?」
「んー、最近はあんまり」

 何かあったらちゃんと先生たちに相談してね、とはずっと言われてるんだけどね。
 ただ、ママの部屋に来る人たちがみんな首を吊ってしぬんです、とか、困ったことにぜんぜん言えてない。先生たちもたぶん言われても、信じてくれないだろう。

 クラスメートの子たちも、ちょっとヤンチャな生徒とかもいるはいるけど、とくにハルに何かちょっかいをかけてくるようなことはない。
 以前は少しはあった気がするけど、大概の生徒のママは、あの子にはあんまり関わっちゃ駄目よと言うらしいので、ハルにそれほど深い嫌がらせをしてくるような相手もいない。

 同じクラスの子。歳の離れたお姉さんだったらしい人がうちに来て首を吊ってからは、ちょっと友達じゃなくなっちゃってるし。いちおう、せけん的にはゆくえ不明で済ませてるはずなんだけどね。

「そう? ならいいけど。あ、宿題やった?」
「んー、大丈夫、もう終わってる」
「いい子ね。そういうのサボると、下手するとうちに来ようとするかもしれないからね。ハルだって嫌でしょ? 油断も隙もないんだから……」

 ナナ姉は学校というのが嫌いなのか、その辺りが話題になるととにかく嫌な顔をする。



 マサハルというのは、ハルの父親の名前だ。
 なんの仕事をしているのかは知らない。あまり、家に帰ってこない人だ。

 とにかく、いろいろな女性に好かれていて、その人たちにこの家の合鍵を渡しているらしい。たぶんナナ姉もそうだったのだろう。ナナ姉は、珍しく首を吊らなかったひとで、ハルに構ってくれている。

 母の部屋に来た人たちの合鍵を含めた荷物とか、その身体とかはナナ姉が片付けてくれている。どこにどうしているのかは訊いても教えてくれない。ドラマで見るように、どこかにこっそり埋めたりしているのだろうか。ナナ姉ひとりでは難しそうではある。

 ご飯をちゃんと時間を決めて食べるということも、お風呂の入り方も、髪の乾かし方も、ハルは全部ナナ姉に教えてもらった。

 ハルは母親と共にいた記憶はほとんどない。
この家で、はじめて首を吊ったのは、ハルの母親だった。




 今日もまた、マサハルさんの家に来た女の身体を下ろす。廊下の奥、マサハルさんの妻になった女の部屋。

 あの人と結婚して子供までつくっておいて、さっさとこの世から居なくなった厚顔無恥なあの女の。わたしだったら絶対にそんなことしない。自分がどれほど恵まれた場所にいたのか、わかっていたのだろうか。

 今では次々と薄汚い女たちが訪れては命を捧げる場所になってしまった。いい気味。
 マサハルさんは、こうなることがわかっていて様々な女たちをこの家に招いているのだろうか? わたしがこの家に居るというのに?
 
 マサハルさんの家に、我が物顔で踏み入り、厚かましくも、自分があの人の妻として相応しいとばかりに首を括っていく連中。うんざりだ。
 マサハルさんがあっさり家の鍵を渡していくものだから。あのひとのやさしさに漬け込んで、こうやって勘違いをした頭のわるい奴らが来てしまう。
 本当は合鍵が使えなくなるように鍵を替えてしまいたいけど、マサハルさんが嫌がるかもしれないから。

 なかには、何を考えたのか、あの子に食べ物や服を押し付けていくような奴もいる。そんなことであの子の母親にでもなれると思ったのだろうか。
 手料理を食べさせて、宿題をさせて、風呂に入らせて、面倒を見てるのはわたしなのに。

 今日の女の持っていたバッグを漁って、中のものをチェックする。あった、この家の合鍵。ちゃんと回収しないと。どうせ処分する予定の死体だろうが、こんな女がここの鍵を持っているままなんて我慢ならなかった。家族でもないくせに。

 マサハルさんが何を考えているのか知らないけど、せっかくこうやってたくさん死体ができるのだから、こんな奴らのものでも利用してやらなくちゃ。

 死体を見下ろす。
 きっとこれでマサハルさんの妻になれたって思ってるんでしょうね。そうやって死んだって、全部無駄。そんな思い上がったやつの肉体なんて、死んだあとでもちゃんと思い知らせてやらないと。ちゃんと辱めてやらないと。

 やり方は、たまたま出会ったわるい人たちに教えてもらった。……もしかしたらあの人たち、人間の格好をしてるだけで、人じゃないのかも。
 でもいいんだ、マサハルさんの妻になろうとする女たちの肉体を処分できて、わたしももっとずっと、マサハルさんをモノにできるように、そんなわたしになれるように、糧にできる。

 床に倒れた椅子を元に戻しておく。
 部屋の天井を見上げれば、そこに、青白い、ほそい女の腕が作り物みたいに生えている。

 まるで冗談みたいな光景だが、ここに紐をひっかけてどいつもこいつも死んでいくのだから、幻覚でもなんでもない。

 一番最初に、この部屋で死んだ、マサハルさんの妻の腕。その場所に成り変わるために、縋りつくみたいに吊り下がっていく女たちのことをどう思っているのかは知らない。

 女たちを呼んでいるのは、マサハルさんなのか、それとも死んだ分際でみっともなくこの部屋に居座っているこの女なのか。夫婦の共同作業とかじゃないだろうな。そう考えると、苛ついてしまう。

 乱暴に、不潔な女の身体を引きずっていく。この部屋で、処理なんてやってられない。あの女が、ずっとそこにいるのだから。
 今日の女は、胸も尻も肉がついていて、おかげで重たい。きっとこのだらしのない肉のかたまりでマサハルさんを誘惑したんだ。ゆるせない。

 あの日、マサハルさんが話しかけてくれたことを、いつまでだって覚えている。わすれたことなんかない。今でも、あの宝物みたいな記憶に指先をふれさせれば、うっとりしてしまう。

 わたし、こんなに頑張ってるんだから、ちょっとは、報われていいはずだ。




「ハル? ねえ、さっきのあの女、ハルの部屋に入ろうとしてたの? ……入れてないんだよね? よかった、あんな乱暴な女、何されるかわかったものじゃないよ。何もされてないよね?」

 今日、この家に来た人はずいぶんと落ち着かない様子で、何度か部屋に入れて欲しい、顔を見せて欲しいと頼まれたが、ハルは最後まで断り続けた。ナナ姉に、訪ねてくる相手を部屋に入れてはいけないと言われていたから。
 結局、無理に押し入ってくることはなかった。居なくなる前に、ごめんねって言われた。

「ねえ、ハル聞いてよ。さっきの女、あと数日したら、マサハルさんがここに来るんだってさ。バカみたい、マサハルさんがそう言ってたらしいけど……あんな頭のおかしそうな女の言うことなんか信じちゃダメだよね。だって、わたしにもハルにもマサハルさん、連絡なんてくれてないでしょ? そんなの、まずわたしに言うべきだよ。そうに決まってる……」

 廊下にいるらしいナナ姉の呼吸は安定していなくて、声の大きさがバラバラだった。時々、廊下の壁を叩くような音が聞こえてくる。

「マサハルさんが来る時までここで待たせて、だってぇ、そんなの、いいわけないじゃん、何考えてんだか、頭がすっからかんだからあんなこと言えるんだろうね。ハルだってそう思うでしょ? ねえ?
日曜つってたっけ……ハル、日曜日、朝になったらここから出ちゃだめだよ。ナナ姉の言うこと聞けるよね? ほんとに、あの人が帰ってきたら、わたし……」

 しばらく待ってみたが、ナナ姉はそのまま、廊下から去っていったようだ。
 本当に父は帰ってくるだろうか。学校からのお家の人に伝えてね、と言われている様々なことはもうほとんどナナ姉にやってもらっているし、なんというか、父がいなくても、けっこうどうにかなってしまっている。
 おしゃべりとかしてくれるかな。父に遊んでもらった記憶は、正直ない。

 そういえば、今日来た人、あの人は結局、母の部屋に行ったのだろうか。そのあと、ナナ姉が呼びに来るまで、ハルは自分の部屋で大人しくしていた。



 さて。日曜日になったわけだが。朝のうちは、とりあえず言われた通りに部屋にこもっていたが、昼頃になると流石にそろそろお腹が空いてくる。
ナナ姉はまだ来ない。
 ハルは少し迷った。ここで出てしまったら怒られるだろうか。

 ……怒られたらそこまでだ。それに、父が本当に帰って来ているのかも気になる。

 廊下には、誰もいない。階段を降りる。
 リビング。家族で揃って過ごした記憶はほぼない。

 そこに。
 巨大な、塊のようなものが転がっている。

 薄い桃色で、透き通って、中身が少し見える。ナナ姉が買って来てくれた、桃味のゼリーを思い出した。

 表面は淡く濡れているようにも見える。サイズは、ハルではとても抱えられないほど。大人ひとりくらいは、まるまる呑み込んでしまうだろう。
 手足もない、巨大な芋虫みたいな。もしくは、チョココロネだ。甘いパンをハルに食べさせるのをナナ姉は好まなかったので、実物を見たことはないけど。同じクラスの子が、コンビニで買ってるのを見たことがある。
 ああ、それと、ナナ姉が、この家に来た人たちをビニールシートでぐるぐる巻きにしていた、あれと少し似ている。

 頭部のようなものはあるが、顔みたいなものはわからなかった。

「……ナナ姉?」

 呼んでみれば、そのピンク色の巨大な半透明の塊が、ずずず、と蠢いた。

 それじゃあ、ここにいるモノが、ナナ姉なのかもしれない。

「……ナナ姉? なんか、おしり? からはみ出てるけど……」

 頭部らしきものの、反対側。たぶん、お尻なのだろう方から、何か硬そうなものが飛び出していた。細いもの。

 気になったから、そちらに歩いて覗き込んで見る。

 五本の指。ひとの足の指先だと思った。ナナ姉が裸足でこの家を歩いているのは見たことないけど、たぶんナナ姉じゃない。
 男のひとの、足の先端。

「……パパ?」

 マサハルさん。ナナ姉や、この家にくる女の人たちが、口の中で甘い飴玉を転がすみたいに呼んでた名前。ハルのよく知らないひと。
 半透明の肉の塊のなかに、うっすらと見える、なかに丸ごと呑み込まれている何か。

 ナナ姉が、パパを食べてしまったんだ。

「……ナナ姉。おいしかった?」

 言葉はなかった。ただ、目の前にずっしりと転がった、ピンク色の巨大な塊が、ぐずぐずと身を捩らせる。それがうれしそうに見えたから、じゃあ、よかったな、と思う。
 パパ、ちゃんと帰ってきてたんだ。ナナ姉や、ハルに会いに来たのかはわからないけど。

 しゃがみ込んで、ナナ姉に寄り添う。
 ハルの関わった女の人たちの中で、珍しく、首を吊らなかったひと。
 もうおしゃべりしたり、一緒にご飯を食べたり、お風呂の後に髪を乾かしてくれることもないのだろうと思って、ハルは少し泣いた。




「へえ、私みたいな仕事してる人、他にも会ったことあるんだ。なにかお仕事お願いしてたの?
そんなにしょっちゅう頼まないといけないんだから、貴方のところもきっと色々やってるんだろうね。このあたり、行方不明になってる人、多いんだっけ? いや、細かいことまで突っ込んで聞かないよ」

 ……呼び出された廃墟の一室。
 若い女がそこにいた。
 背筋に染み付いていく寒気を誤魔化すように始めた雑談が、そこかしこに響く。

 外見は若い女のそれだが、この手の連中の外見など、意味がないことがほとんどだ。人間ではない可能性すらある。
 その傍にいる、床にひろがっている『処理』を頼んだモノたちをぬちゃぬちゃと貪り喰っている、ソレ。もうその手足もない芋虫のような姿を見ただけでも、油断していい相手ではないことがわかる。

「こっちもお金さえ貰えればいいよ。ナナ姉、あんまり長い間、食べないと痩せちゃうんだよね」

 巨大な塊が、床に転がったそれらを体内に納めていく。単に人間の死体なら処理の仕様など色々あるのだ。コレは人だけでは処理ができないモノである。だから、こんな連中に頼むことになる。

「痩せるとさあ、見えちゃうんだよ、中身。まだ入ってんの。私も、アレ見たくないし。ナナ姉にはもうちょっと太ってて貰わないと。あんまり貴方も恋人とかにダイエットしたら? とか言っちゃ駄目だよ。女の子なんてちょっとふっくらしてる方がいいんだから」
「……こんな仕事してて、異性を口説こうとか思う余裕、ありませんよ」

 そう? とか言って目の前の女が笑う。
 鳥肌が立つ。
 懐に入る金は悪くはないが、今夜も嫌な夢を見るだろう。こんな仕事をしているのだから仕方がないが、男は目の前の光景を見ながら、今日もうんざりした。 




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「ハルちゃん? えっと、いるかな? はじめまして、わたし、メグミって言うんだけど、へへ、来ちゃいました。ハルちゃんのパパ、やっぱりいないんだね。ううん、いいの。今日、プリン買ってきたんだけど、結構人気なお店のでね、冷蔵庫いれといたから、あとで食べてね」
 ハルは、自室の扉の外から聞こえる女性の声に、そちらに一瞬でも目をやったが、すぐに逸らした。ハルの日常にとってそう珍しいことでもなかったし、相手も、別にハルと顔を合わせたいわけでもないだろう。
 すぐ隣に、ハルの母親の部屋がある。廊下を誰かが動く気配がして、母の部屋の扉が開かれたようだった。
 ハルがわざわざ見にいくこともない。
 そのうち、この家に来たナナ姉が片付けてくれるだろう。
 ちゃんとやった? とかまた聞かれると思うから、そろそろ宿題やり始めないとなあと思う。
 今読んでいる本は図書館から借りてきたものだから、期限がくる前に読み終わっておきたいのだが。
 欲しい本なんかは頼めばナナ姉が買ってくれるとは思うのだけど、ただでさえ食べ物だの服だので世話になっているため、そこまで世話になるのもな、というのは、ハルのような小学生でも思う。
「ハル? ナナ姉だよ。マサハルさん来てない? まああの人のことだから来てないよね。いつもフラフラしてるんだから……。ハルもたまには会いたいよね? 玄関に靴あったけど、また誰か来たんだね。ハルはあっち行っちゃ駄目よ。ナナ姉がどうにかしてあげるから」
 しばらくして、ナナ姉の声が聞こえてくる。ナナ姉にも生活というのがあるので、昼間からハルの家に来るのはあまりないため、一緒にご飯を食べるのは夜ご飯がほとんどだ。休日にここにいるときは、朝ごはんや昼ごはんを一緒に済ますこともある。
 こういう日は、三十分くらいしてから、ナナ姉が呼びにくる。それから、夜ごはんになるだろう。
「ごめん、ちょっと散らかってたから、時間かかっちゃった。おなか減っちゃった? すぐご飯にしようね」
 扉を叩かれたから、廊下に出てみれば、そこにナナ姉が立っていた。
 外見は、多分大学生くらい。明るくて人懐っこい笑顔のお姉さん。肩くらいにまでさらさらの髪を伸ばしている。
「……ナナ姉にばっかやってもらうのも悪いし。ちょっと、ハルも手伝った方がよくない?」
「いいよ、子どもがそんなこと気にしないの。あんな奴らのことなんか、ハルがすることないよ。ナナ姉がやってあげるから」
 ハルを見下ろして、ナナ姉がからからと笑う。
 またいつも通り、廊下にはビニールシートでぐるぐるに巻かれた、人一人はいるくらいのサイズの塊が置かれている。紐で頑丈に縛られている。
 中にいるのは、先ほどこの家に訪ねてきたひと。ハルの母の部屋でまた死んでいたのだろう。
 ハルの家は、見知らぬ女性が来ては、母の部屋で首を吊りたがることがよくある。今のところ、失敗した人はいない。
 そうやって、成功してしまった人たちの死体を片付けるのは、いつもナナ姉の仕事だった。
「ハル、美味しい? よかった。あ、そういえばさあ、担任の先生に、また何か言われたりしてない? お家についてとかさ。あの人、ちょっとうるさいよね。マサハルさんになんの問題があるってのよ。学校側が言うことじゃなくない?」
「んー、最近はあんまり」
 何かあったらちゃんと先生たちに相談してね、とはずっと言われてるんだけどね。
 ただ、ママの部屋に来る人たちがみんな首を吊ってしぬんです、とか、困ったことにぜんぜん言えてない。先生たちもたぶん言われても、信じてくれないだろう。
 クラスメートの子たちも、ちょっとヤンチャな生徒とかもいるはいるけど、とくにハルに何かちょっかいをかけてくるようなことはない。
 以前は少しはあった気がするけど、大概の生徒のママは、あの子にはあんまり関わっちゃ駄目よと言うらしいので、ハルにそれほど深い嫌がらせをしてくるような相手もいない。
 同じクラスの子。歳の離れたお姉さんだったらしい人がうちに来て首を吊ってからは、ちょっと友達じゃなくなっちゃってるし。いちおう、せけん的にはゆくえ不明で済ませてるはずなんだけどね。
「そう? ならいいけど。あ、宿題やった?」
「んー、大丈夫、もう終わってる」
「いい子ね。そういうのサボると、下手するとうちに来ようとするかもしれないからね。ハルだって嫌でしょ? 油断も隙もないんだから……」
 ナナ姉は学校というのが嫌いなのか、その辺りが話題になるととにかく嫌な顔をする。
 マサハルというのは、ハルの父親の名前だ。
 なんの仕事をしているのかは知らない。あまり、家に帰ってこない人だ。
 とにかく、いろいろな女性に好かれていて、その人たちにこの家の合鍵を渡しているらしい。たぶんナナ姉もそうだったのだろう。ナナ姉は、珍しく首を吊らなかったひとで、ハルに構ってくれている。
 母の部屋に来た人たちの合鍵を含めた荷物とか、その身体とかはナナ姉が片付けてくれている。どこにどうしているのかは訊いても教えてくれない。ドラマで見るように、どこかにこっそり埋めたりしているのだろうか。ナナ姉ひとりでは難しそうではある。
 ご飯をちゃんと時間を決めて食べるということも、お風呂の入り方も、髪の乾かし方も、ハルは全部ナナ姉に教えてもらった。
 ハルは母親と共にいた記憶はほとんどない。
この家で、はじめて首を吊ったのは、ハルの母親だった。
 今日もまた、マサハルさんの家に来た女の身体を下ろす。廊下の奥、マサハルさんの妻になった女の部屋。
 あの人と結婚して子供までつくっておいて、さっさとこの世から居なくなった厚顔無恥なあの女の。わたしだったら絶対にそんなことしない。自分がどれほど恵まれた場所にいたのか、わかっていたのだろうか。
 今では次々と薄汚い女たちが訪れては命を捧げる場所になってしまった。いい気味。
 マサハルさんは、こうなることがわかっていて様々な女たちをこの家に招いているのだろうか? わたしがこの家に居るというのに?
 マサハルさんの家に、我が物顔で踏み入り、厚かましくも、自分があの人の妻として相応しいとばかりに首を括っていく連中。うんざりだ。
 マサハルさんがあっさり家の鍵を渡していくものだから。あのひとのやさしさに漬け込んで、こうやって勘違いをした頭のわるい奴らが来てしまう。
 本当は合鍵が使えなくなるように鍵を替えてしまいたいけど、マサハルさんが嫌がるかもしれないから。
 なかには、何を考えたのか、あの子に食べ物や服を押し付けていくような奴もいる。そんなことであの子の母親にでもなれると思ったのだろうか。
 手料理を食べさせて、宿題をさせて、風呂に入らせて、面倒を見てるのはわたしなのに。
 今日の女の持っていたバッグを漁って、中のものをチェックする。あった、この家の合鍵。ちゃんと回収しないと。どうせ処分する予定の死体だろうが、こんな女がここの鍵を持っているままなんて我慢ならなかった。家族でもないくせに。
 マサハルさんが何を考えているのか知らないけど、せっかくこうやってたくさん死体ができるのだから、こんな奴らのものでも利用してやらなくちゃ。
 死体を見下ろす。
 きっとこれでマサハルさんの妻になれたって思ってるんでしょうね。そうやって死んだって、全部無駄。そんな思い上がったやつの肉体なんて、死んだあとでもちゃんと思い知らせてやらないと。ちゃんと辱めてやらないと。
 やり方は、たまたま出会ったわるい人たちに教えてもらった。……もしかしたらあの人たち、人間の格好をしてるだけで、人じゃないのかも。
 でもいいんだ、マサハルさんの妻になろうとする女たちの肉体を処分できて、わたしももっとずっと、マサハルさんをモノにできるように、そんなわたしになれるように、糧にできる。
 床に倒れた椅子を元に戻しておく。
 部屋の天井を見上げれば、そこに、青白い、ほそい女の腕が作り物みたいに生えている。
 まるで冗談みたいな光景だが、ここに紐をひっかけてどいつもこいつも死んでいくのだから、幻覚でもなんでもない。
 一番最初に、この部屋で死んだ、マサハルさんの妻の腕。その場所に成り変わるために、縋りつくみたいに吊り下がっていく女たちのことをどう思っているのかは知らない。
 女たちを呼んでいるのは、マサハルさんなのか、それとも死んだ分際でみっともなくこの部屋に居座っているこの女なのか。夫婦の共同作業とかじゃないだろうな。そう考えると、苛ついてしまう。
 乱暴に、不潔な女の身体を引きずっていく。この部屋で、処理なんてやってられない。あの女が、ずっとそこにいるのだから。
 今日の女は、胸も尻も肉がついていて、おかげで重たい。きっとこのだらしのない肉のかたまりでマサハルさんを誘惑したんだ。ゆるせない。
 あの日、マサハルさんが話しかけてくれたことを、いつまでだって覚えている。わすれたことなんかない。今でも、あの宝物みたいな記憶に指先をふれさせれば、うっとりしてしまう。
 わたし、こんなに頑張ってるんだから、ちょっとは、報われていいはずだ。
「ハル? ねえ、さっきのあの女、ハルの部屋に入ろうとしてたの? ……入れてないんだよね? よかった、あんな乱暴な女、何されるかわかったものじゃないよ。何もされてないよね?」
 今日、この家に来た人はずいぶんと落ち着かない様子で、何度か部屋に入れて欲しい、顔を見せて欲しいと頼まれたが、ハルは最後まで断り続けた。ナナ姉に、訪ねてくる相手を部屋に入れてはいけないと言われていたから。
 結局、無理に押し入ってくることはなかった。居なくなる前に、ごめんねって言われた。
「ねえ、ハル聞いてよ。さっきの女、あと数日したら、マサハルさんがここに来るんだってさ。バカみたい、マサハルさんがそう言ってたらしいけど……あんな頭のおかしそうな女の言うことなんか信じちゃダメだよね。だって、わたしにもハルにもマサハルさん、連絡なんてくれてないでしょ? そんなの、まずわたしに言うべきだよ。そうに決まってる……」
 廊下にいるらしいナナ姉の呼吸は安定していなくて、声の大きさがバラバラだった。時々、廊下の壁を叩くような音が聞こえてくる。
「マサハルさんが来る時までここで待たせて、だってぇ、そんなの、いいわけないじゃん、何考えてんだか、頭がすっからかんだからあんなこと言えるんだろうね。ハルだってそう思うでしょ? ねえ?
日曜つってたっけ……ハル、日曜日、朝になったらここから出ちゃだめだよ。ナナ姉の言うこと聞けるよね? ほんとに、あの人が帰ってきたら、わたし……」
 しばらく待ってみたが、ナナ姉はそのまま、廊下から去っていったようだ。
 本当に父は帰ってくるだろうか。学校からのお家の人に伝えてね、と言われている様々なことはもうほとんどナナ姉にやってもらっているし、なんというか、父がいなくても、けっこうどうにかなってしまっている。
 おしゃべりとかしてくれるかな。父に遊んでもらった記憶は、正直ない。
 そういえば、今日来た人、あの人は結局、母の部屋に行ったのだろうか。そのあと、ナナ姉が呼びに来るまで、ハルは自分の部屋で大人しくしていた。
 さて。日曜日になったわけだが。朝のうちは、とりあえず言われた通りに部屋にこもっていたが、昼頃になると流石にそろそろお腹が空いてくる。
ナナ姉はまだ来ない。
 ハルは少し迷った。ここで出てしまったら怒られるだろうか。
 ……怒られたらそこまでだ。それに、父が本当に帰って来ているのかも気になる。
 廊下には、誰もいない。階段を降りる。
 リビング。家族で揃って過ごした記憶はほぼない。
 そこに。
 巨大な、塊のようなものが転がっている。
 薄い桃色で、透き通って、中身が少し見える。ナナ姉が買って来てくれた、桃味のゼリーを思い出した。
 表面は淡く濡れているようにも見える。サイズは、ハルではとても抱えられないほど。大人ひとりくらいは、まるまる呑み込んでしまうだろう。
 手足もない、巨大な芋虫みたいな。もしくは、チョココロネだ。甘いパンをハルに食べさせるのをナナ姉は好まなかったので、実物を見たことはないけど。同じクラスの子が、コンビニで買ってるのを見たことがある。
 ああ、それと、ナナ姉が、この家に来た人たちをビニールシートでぐるぐる巻きにしていた、あれと少し似ている。
 頭部のようなものはあるが、顔みたいなものはわからなかった。
「……ナナ姉?」
 呼んでみれば、そのピンク色の巨大な半透明の塊が、ずずず、と蠢いた。
 それじゃあ、ここにいるモノが、ナナ姉なのかもしれない。
「……ナナ姉? なんか、おしり? からはみ出てるけど……」
 頭部らしきものの、反対側。たぶん、お尻なのだろう方から、何か硬そうなものが飛び出していた。細いもの。
 気になったから、そちらに歩いて覗き込んで見る。
 五本の指。ひとの足の指先だと思った。ナナ姉が裸足でこの家を歩いているのは見たことないけど、たぶんナナ姉じゃない。
 男のひとの、足の先端。
「……パパ?」
 マサハルさん。ナナ姉や、この家にくる女の人たちが、口の中で甘い飴玉を転がすみたいに呼んでた名前。ハルのよく知らないひと。
 半透明の肉の塊のなかに、うっすらと見える、なかに丸ごと呑み込まれている何か。
 ナナ姉が、パパを食べてしまったんだ。
「……ナナ姉。おいしかった?」
 言葉はなかった。ただ、目の前にずっしりと転がった、ピンク色の巨大な塊が、ぐずぐずと身を捩らせる。それがうれしそうに見えたから、じゃあ、よかったな、と思う。
 パパ、ちゃんと帰ってきてたんだ。ナナ姉や、ハルに会いに来たのかはわからないけど。
 しゃがみ込んで、ナナ姉に寄り添う。
 ハルの関わった女の人たちの中で、珍しく、首を吊らなかったひと。
 もうおしゃべりしたり、一緒にご飯を食べたり、お風呂の後に髪を乾かしてくれることもないのだろうと思って、ハルは少し泣いた。
「へえ、私みたいな仕事してる人、他にも会ったことあるんだ。なにかお仕事お願いしてたの?
そんなにしょっちゅう頼まないといけないんだから、貴方のところもきっと色々やってるんだろうね。このあたり、行方不明になってる人、多いんだっけ? いや、細かいことまで突っ込んで聞かないよ」
 ……呼び出された廃墟の一室。
 若い女がそこにいた。
 背筋に染み付いていく寒気を誤魔化すように始めた雑談が、そこかしこに響く。
 外見は若い女のそれだが、この手の連中の外見など、意味がないことがほとんどだ。人間ではない可能性すらある。
 その傍にいる、床にひろがっている『処理』を頼んだモノたちをぬちゃぬちゃと貪り喰っている、ソレ。もうその手足もない芋虫のような姿を見ただけでも、油断していい相手ではないことがわかる。
「こっちもお金さえ貰えればいいよ。ナナ姉、あんまり長い間、食べないと痩せちゃうんだよね」
 巨大な塊が、床に転がったそれらを体内に納めていく。単に人間の死体なら処理の仕様など色々あるのだ。コレは人だけでは処理ができないモノである。だから、こんな連中に頼むことになる。
「痩せるとさあ、見えちゃうんだよ、中身。まだ入ってんの。私も、アレ見たくないし。ナナ姉にはもうちょっと太ってて貰わないと。あんまり貴方も恋人とかにダイエットしたら? とか言っちゃ駄目だよ。女の子なんてちょっとふっくらしてる方がいいんだから」
「……こんな仕事してて、異性を口説こうとか思う余裕、ありませんよ」
 そう? とか言って目の前の女が笑う。
 鳥肌が立つ。
 懐に入る金は悪くはないが、今夜も嫌な夢を見るだろう。こんな仕事をしているのだから仕方がないが、男は目の前の光景を見ながら、今日もうんざりした。