まごうことなき山国である。
北に天然の障壁、乳生山塊。東にその一塊、大薩埵嶺。西に六合の屋根、蒼谷山脈。そして南に国家の最高峰、御聖嶽。
それら険しい山々に抱かれた盆地は、いにしえより峡原と呼ばれた。
六合の東西を結ぶ内陸交通の要にして、戦略上の拠点だ。
『戈』の一門は四百年に渡り、この地へ根ざしてきた。
元は守護として任じられた、神室に連なる名門である。
中央の齋公儀が戦乱によって求心力を失うと、第十八代当主・淲が峡原を武力で統一、いわゆる戦国大名となって独自の支配体制を敷いた。
だが苛烈な粛清や労役を強制するようになり、すなわち暴君と化す。
ゆえにこれを追放して成り代わった嫡男の淵は、さらに隣邦の鹿埜の攻略に乗りだし、当時誕生した子が廿路を迎える頃には、中部地方の内陸――すなわち山州をほぼ手中に収めた。
そんな『戦国最強』と後世に謳われる戈淵の、末娘として胤は生まれた。
淵が四十歳を迎え、北方の『雪解けの竜姫』こと木家の凛との宿命の対決、第四次梵平の戦いに挑んだ年だ。
この決戦が痛み分けで終わりし折、産声をあげたという。
幼名は、つむぎ。
母親は側室の恵夫人で、その祖が淵の大叔父にあたる由氏の娘だ。
もとは奥内の下働きをしていた女房だが、機転がきくうえにくるくるとよく働き、正室・晶夫人の覚えもめでたかった。それゆえ、夫人が御褥御免となった折、その推薦を受けて側室へと迎えられた。
胤を含め二男三女(うち一人早逝)をなし、後の二洸や和夫人も彼女の産だ。
つむぎは、閑やかな赤ちゃんだった。
女の子らしいおしとやかさに、奥内は仄かな微笑みに包まれる。
先の梵平の戦いにて、淵の弟をはじめ重臣たちが戦死し、家は喪に服していたが、その中へ静かに咲いたひとひらの慶事であった。
だが、ひと月経ち、ふた月経ち……。
泣かないどころか笑顔も見せず、その異様さに皆が気づき始めた。
自身も三男二女を出産し、育つ様を見てきた正室の晶夫人に至っては、心ひそかに「赤子のうちに天へ召されるやも」とすら思った。
幸い、健康には問題なかったようで、活発に動き回るようになる。
しかし、世話をする乳母になつかず、ただ、蠢くものに心惹かれた。それが犬や猫であれば良い。だが、蜘蛛や百足といったものにも執着し、危険だと乳母が追い払うたび、鬼のような癇癪を起こすのだった。
そして、奥内の女衆の心胆を寒からしめる出来事が起こる。
まだよちよちと歩けるくらいの頃、まるで呼ばれたかのように縁側を降りると、それは床下へ妖しく君臨していた。
巨大な碧蛇だった。
青玉を散りばめたかのような尖った頭、贄の気配を確かめる紫の蛇舌、細やかな菱の紋様を刻んだ胴体。鱗は薄光を纏って鈍色に輝き、宝石のような黒い瞳は静謐を湛える。
お互い惹かれるように、じっと見つめ合った。
その光景を目撃した乳母が、どこから出たのかというくらい凄まじい悲鳴をあげ、必死でつむぎを救いあげた。
曰く「姫は蛙のように魅入られ、丸呑みされる寸前だった」と。一丈(約三メートル)もあったらしく、さもありなん。
血気盛んな奥近習の若い衆が、捕獲のために呼ばれ、特別に許可を得て奥内をしらみつぶしに探したが、不思議なことにどこにも見当たらなかった。
煙のように巨体が消え去るとは、あやかしの類か。
――ひょっとして、つむぎ様に憑依したのでは。あり得ること、乳飲み子の時から、蟲を恐れぬ奇特な方だからの。ここだけの話、つゆの間なれど姫の影が、蛇に見えた気が……。
奥内の女房たちの間に、ひそひそと耳打ちが広がった。
「月雫の祟りか」
やがて、家中にも噂が波及し、皆、主家の末娘を憐れんだ。
戈家にとって『蛇』が因縁となりしは、廿年前に遡る。
戈淵は、若干廿歳にして父から権力を奪いし後、軍事的な目標として、山州の支配を掲げた。峡原の六合衆は、暴君の淲を排除するという果断に富んだ若殿を熱狂的に支持し、その渦のまま月雫郡の月氏を攻めた。
この月氏は、月雫大社に祀られる現人神を祖としたまま――すなわち万世一系の皇帝たる大御神の血を引かずして、その尊さを内外に認められた特異な一族である。古代王国の末裔とも。
しかし衆寡敵せず、若き旗頭の下へ一致団結した戈軍に一蹴された。
当主の祈は潔く降伏したのだが、淵はこの山州の霊的頂点を許さず処刑した。名門ゆえ伝統を重んじる風に見られがちだが、実は戦国きっての合理主義者である。この非情な処断でもって、迷信を断ち切るつもりでいた。
かくして諸侯としての月氏は滅亡した。
恨み骨髄の月祈は、月雫大社の大祝(神職の最高位)も兼ねていた。
「黄泉より碧蛇と化生し、廿路が巡るたび戈家を滅びへ導かん」
刑場の露と消える直前、さながら宣託のように叫んだ。
月雫大社の真の御神体が、おひゃくじさま──真名にすると御碧蛇というのは、山州の民なら誰でも知っている。
また、月雫の鳥居は貫が柱の外へ突き抜ける構造で、逆さにすると『廿』の形となり……この数字が呪いの徴と化す。
つむぎが産まれたしらぬひ四年は、宣託から一度目の廿路の巡りにあたる。