肝試し⑴
ー/ー ギーギー、と低く震えるような声でセミが鳴いていた。
昼下がり、夏野真弘と白鳥陽介は、高日図書館の裏手にあるベンチで涼んでいた。
「宿題手伝ってくれてサンキューな。これで夏休み後半は遊び放題だぜー!」
陽介の目が、きらりと輝いた。
真弘もつられて笑った。
陽介は、唯一の友達だった。やんちゃで騒がしいくせに、クラスで孤独だった自分にだけは普通に話しかけてくれた。家が近いこともあって、いつの間にか毎日一緒に遊ぶ仲になっていた。小学校に入ってから五年間、毎年同じクラスなのは、ちょっとした運命みたいに思えた。
「お前、ほんとそういうの好きだよなー」
陽介が、真弘の借りた本を指さした。『世界のオカルト大全集』という分厚いハードカバーの本だ。
「まぁね」
この世には、未確認飛行物体や未確認生物、パラレルワールドなど、説明できない話が山ほどある。だいたいは科学で否定されるけれど、あると信じていたほうが、少なくともロマンはある。
「そういや、知ってる? ほら、俺たちのガッコで噂になってるやつ」
「黒い大男のやつ?」
「そう、それ」
夜の旧校舎に現れる、全身を黒布で覆った大男。素顔を見た者は魂を奪われる――そんな昔からの噂だ。口裂け女やトイレの花子さんみたいな、いわゆる都市伝説。
旧校舎とは、町外れにある、今は使われていない小学校の校舎のことだ。近所では有名な心霊スポットで、肝試しに行く人も多いらしい。
「今度、旧校舎に行ってみない?」
陽介が、弾むように体を揺らした。
真弘は目を見開いた。
「本気で言ってる?」
「おう、マジだぜ。肝試し。夏休みの思い出作りってことで」
陽介は興奮して、少し息が上がっていた。
真弘は顎に手を当てた。暇だし、ちょっとしたスリルも悪くない。危なそうなら、すぐ帰ればいい。
ただ、問題がひとつある。
「どうやって、夜に抜け出すの?」
「一週間後、夏祭りあるだろ。祭りに行くって家を出て、こっそり旧校舎まで行けばいいんだよ」
陽介がにやりと笑った。
自室に戻ると、窓から差し込むオレンジ色の光が畳に長い影を落としていた。
窓の外では、セミが相変わらず鳴いていた。
真弘はエアコンのスイッチを入れたあと、勉強机へ向かった。
ショルダーバッグから一冊の本を取り出す。『高日町地域史』という古い上製本だ。図書館で陽介と別れたあと、追加で借りてきた。旧高日小学校について、少しでも調べておきたかった。
慎重にページをめくる。古紙の匂いが鼻を刺激した。
――旧高日小学校の沿革と閉校――
高日小学校は昭和○○年に創立。木造二階建ての校舎を中心に、長らく地域の児童教育の場として親しまれた。
平成○○年三月、児童数の減少および町の財政事情により閉校となり、その役目を終えた。
なお、閉校に至る数年前より校内にいくつかの不審事象が記録されている。
一、平成○○年六月、男性教諭が授業中に突然倒れ、病院搬送後に死亡(死因:急性心不全)。当時の児童の一部は「黒い影のようなものを見た」と証言。
二、平成○○年十月、全校集会の最中、十数名の児童が同時に悲鳴を上げて卒倒。後日、児童は「大きな黒布のようなものが迫ってきた」と証言。原因は不明。
三、平成○○年一月、理科室にて小規模な火災が発生。延焼・人的被害はなし。現場付近に居合わせた教諭が「赤い石片のようなものを拾った」と記録。その後、当該教諭は体調不良を理由に退職。
これらの事象と閉校との直接的関連は確認されていないが、当時の地域住民の間では「校舎に不吉な影が差した」との風聞が広まり、児童の転校が相次いだ。
校舎は現在も町はずれに現存するが、老朽化が著しく危険であるため、立ち入りは禁じられている。
読み終えると、背すじが粟立った。
黒い影、大きな黒布。全身を黒布で覆った大男の素顔を見た者は魂を奪われる、という都市伝説はここから生まれたのだろうか。そして赤い石片というのも気になる。
真弘は無意識に両手を組んだ。
その時、コン、コン、と背後で乾いた音がした。
え?
振り返ると、窓辺に一羽の鳥がいた。ガラス越しに夕陽が反射し、輪郭がゆらいでいた。
よく見るとトビだった。広げた翼には、四つの渦巻きが絡み合った円形の文様が描かれていた。
あの模様は、もしかして。
真弘は椅子から立ち、息を殺して窓辺へ近づいた。
以前、カラスに襲われていたトビを、兄と一緒に助けたことがある。そのトビの羽にも、同じ文様があった。
雨の日だった。空は鉛色で、雨粒は針みたいに斜めに突き刺さっていた。アスファルトの上、水たまりが無数の目のように瞬き、その真ん中で黒い影が三つ、ひとつの茶色い塊を突いていた。
やめろ、と兄が傘を振り上げると、カラスがざわっと割れて、雨の幕に紛れた。
真弘はレインコートを脱いで、震える塊をそっとくるんだ。濡れた羽根の匂い。鼓動が小さく指をたたく。
もう大丈夫。
カラスがいなくなったことを確認した真弘は、トビを逃がした。
その夜、窓辺に白いお守りが置かれていた。
記憶がほどけ、視界は現在へ戻る。
トビと真弘は、しばらく見つめ合った。
突然、脳内に言葉が流れ込んできた。
――イッテハ、イケナイ。
こめかみの内側を氷水で締めつけられたような痛み。かき氷を一気に食べた時の感覚と似ている。
真弘は頭を抱え、膝を折った。
セミの声が遠のく。
やがて痛みが引き、顔を上げた。
窓辺にトビの姿はなかった。
セミの声だけが部屋に張りついていた。
夏祭り当日。真弘と陽介は、山道を自転車で走っていた。
祭囃子は、もう聞こえない。タイヤの音と夜虫の声だけが響いている。
しばらく進むと、ガードレール下の谷間に、朽ち果てた建物が見えた。屋根には穴がいくつも空き、窓ガラスはほとんど割れている。
その建物を見た瞬間、胸の奥がざわついた。
「おっ、多分あれだな。どこから下りるんだろ」
「あそこに坂道がある」
ガードレールが途切れた先に、谷間へ続く坂道が見えた。真弘たちは自転車を降り、そこへ向かった。
坂道を下ると、固いコンクリートの地面は、やわらかな土の道へと変わった。地面には落ち葉が散らばり、周りでは木々が風に揺れている。ときおりザーッと強風が吹き抜け、木々の揺れが激しくなると、その音が声のように聞こえた。
しばらく歩くと、石造りの柱が見えた。道の右端と左端に立つその柱には何か文字が彫られていて、懐中電灯の光を当てると、かろうじて『小学校』とだけ読めた。おそらく校門だろう。
校門を通り過ぎた時、背筋にひやりとしたものを感じた。
薄暗い中、落ち葉を踏みしめながら進んでいく。やがて目の前に旧校舎が姿を現した。荒れ方は想像以上で、校舎の周辺は真弘たちの背丈以上の雑草で覆われている。ひっそりと佇む校舎を見ていると、胸の内側が落ち着かなくなった。
錆びついた玄関扉は板で塞がれ、誰も入れないようになっていた。
「別の入り口を探すか」
二人は校舎の外周を右回りに進んだ。雑草をかき分けると、「お手洗い」と書かれた木札のかかった小屋が見える。渡り廊下で校舎と繋がっているらしい。
「ま、まひろぉ」
「ど、どうしたの?」
「しょんべんしたくなった。もう我慢できない」
陽介は小屋へ駆けたが、扉は歪んでいて開かなかった。
「まじかよ」
ぼやくと、陽介は小屋の陰へ消えた。
待つ間、真弘は何となく二階へ視線を上げた。懐中電灯の先で、割れた窓には蜘蛛の巣がびっしり張りつき、無数の小さな影がうごめいていた。ぞわりと鳥肌が立ち、光を一階へ落とす。
廊下に、誰かが立っていた。
黒いもの。輪郭が熱の蜃気楼みたいに揺れている。顔は見えないのに、見られていると脳が先に理解した。逃げろと体が言い、確かめろと頭が言う。足のつま先が少し前に出た。
「お待たせー」
陽介の声で糸が切れる。
「黒いのがいた」
言ってから、声の高さに自分で驚いた。
「え、まじで? どこ?」
「ほら、あれ」
真弘は窓を指さす。
「誰もいないじゃん」
黒いものの姿はなかった。
いない。気のせい? いや、確かにいた。
――イッテハ、イケナイ。
あの時の声が蘇る。
なら、どうすればいい。行くなと言われるほど、確かめずにはいられない。
割れた窓の桟に手をかけた。錆の粉が指にざらりと付く。
真弘は窓から身をねじ込んだ。
背後から陽介の声と鳥の羽音が聞こえた。
昼下がり、夏野真弘と白鳥陽介は、高日図書館の裏手にあるベンチで涼んでいた。
「宿題手伝ってくれてサンキューな。これで夏休み後半は遊び放題だぜー!」
陽介の目が、きらりと輝いた。
真弘もつられて笑った。
陽介は、唯一の友達だった。やんちゃで騒がしいくせに、クラスで孤独だった自分にだけは普通に話しかけてくれた。家が近いこともあって、いつの間にか毎日一緒に遊ぶ仲になっていた。小学校に入ってから五年間、毎年同じクラスなのは、ちょっとした運命みたいに思えた。
「お前、ほんとそういうの好きだよなー」
陽介が、真弘の借りた本を指さした。『世界のオカルト大全集』という分厚いハードカバーの本だ。
「まぁね」
この世には、未確認飛行物体や未確認生物、パラレルワールドなど、説明できない話が山ほどある。だいたいは科学で否定されるけれど、あると信じていたほうが、少なくともロマンはある。
「そういや、知ってる? ほら、俺たちのガッコで噂になってるやつ」
「黒い大男のやつ?」
「そう、それ」
夜の旧校舎に現れる、全身を黒布で覆った大男。素顔を見た者は魂を奪われる――そんな昔からの噂だ。口裂け女やトイレの花子さんみたいな、いわゆる都市伝説。
旧校舎とは、町外れにある、今は使われていない小学校の校舎のことだ。近所では有名な心霊スポットで、肝試しに行く人も多いらしい。
「今度、旧校舎に行ってみない?」
陽介が、弾むように体を揺らした。
真弘は目を見開いた。
「本気で言ってる?」
「おう、マジだぜ。肝試し。夏休みの思い出作りってことで」
陽介は興奮して、少し息が上がっていた。
真弘は顎に手を当てた。暇だし、ちょっとしたスリルも悪くない。危なそうなら、すぐ帰ればいい。
ただ、問題がひとつある。
「どうやって、夜に抜け出すの?」
「一週間後、夏祭りあるだろ。祭りに行くって家を出て、こっそり旧校舎まで行けばいいんだよ」
陽介がにやりと笑った。
自室に戻ると、窓から差し込むオレンジ色の光が畳に長い影を落としていた。
窓の外では、セミが相変わらず鳴いていた。
真弘はエアコンのスイッチを入れたあと、勉強机へ向かった。
ショルダーバッグから一冊の本を取り出す。『高日町地域史』という古い上製本だ。図書館で陽介と別れたあと、追加で借りてきた。旧高日小学校について、少しでも調べておきたかった。
慎重にページをめくる。古紙の匂いが鼻を刺激した。
――旧高日小学校の沿革と閉校――
高日小学校は昭和○○年に創立。木造二階建ての校舎を中心に、長らく地域の児童教育の場として親しまれた。
平成○○年三月、児童数の減少および町の財政事情により閉校となり、その役目を終えた。
なお、閉校に至る数年前より校内にいくつかの不審事象が記録されている。
一、平成○○年六月、男性教諭が授業中に突然倒れ、病院搬送後に死亡(死因:急性心不全)。当時の児童の一部は「黒い影のようなものを見た」と証言。
二、平成○○年十月、全校集会の最中、十数名の児童が同時に悲鳴を上げて卒倒。後日、児童は「大きな黒布のようなものが迫ってきた」と証言。原因は不明。
三、平成○○年一月、理科室にて小規模な火災が発生。延焼・人的被害はなし。現場付近に居合わせた教諭が「赤い石片のようなものを拾った」と記録。その後、当該教諭は体調不良を理由に退職。
これらの事象と閉校との直接的関連は確認されていないが、当時の地域住民の間では「校舎に不吉な影が差した」との風聞が広まり、児童の転校が相次いだ。
校舎は現在も町はずれに現存するが、老朽化が著しく危険であるため、立ち入りは禁じられている。
読み終えると、背すじが粟立った。
黒い影、大きな黒布。全身を黒布で覆った大男の素顔を見た者は魂を奪われる、という都市伝説はここから生まれたのだろうか。そして赤い石片というのも気になる。
真弘は無意識に両手を組んだ。
その時、コン、コン、と背後で乾いた音がした。
え?
振り返ると、窓辺に一羽の鳥がいた。ガラス越しに夕陽が反射し、輪郭がゆらいでいた。
よく見るとトビだった。広げた翼には、四つの渦巻きが絡み合った円形の文様が描かれていた。
あの模様は、もしかして。
真弘は椅子から立ち、息を殺して窓辺へ近づいた。
以前、カラスに襲われていたトビを、兄と一緒に助けたことがある。そのトビの羽にも、同じ文様があった。
雨の日だった。空は鉛色で、雨粒は針みたいに斜めに突き刺さっていた。アスファルトの上、水たまりが無数の目のように瞬き、その真ん中で黒い影が三つ、ひとつの茶色い塊を突いていた。
やめろ、と兄が傘を振り上げると、カラスがざわっと割れて、雨の幕に紛れた。
真弘はレインコートを脱いで、震える塊をそっとくるんだ。濡れた羽根の匂い。鼓動が小さく指をたたく。
もう大丈夫。
カラスがいなくなったことを確認した真弘は、トビを逃がした。
その夜、窓辺に白いお守りが置かれていた。
記憶がほどけ、視界は現在へ戻る。
トビと真弘は、しばらく見つめ合った。
突然、脳内に言葉が流れ込んできた。
――イッテハ、イケナイ。
こめかみの内側を氷水で締めつけられたような痛み。かき氷を一気に食べた時の感覚と似ている。
真弘は頭を抱え、膝を折った。
セミの声が遠のく。
やがて痛みが引き、顔を上げた。
窓辺にトビの姿はなかった。
セミの声だけが部屋に張りついていた。
夏祭り当日。真弘と陽介は、山道を自転車で走っていた。
祭囃子は、もう聞こえない。タイヤの音と夜虫の声だけが響いている。
しばらく進むと、ガードレール下の谷間に、朽ち果てた建物が見えた。屋根には穴がいくつも空き、窓ガラスはほとんど割れている。
その建物を見た瞬間、胸の奥がざわついた。
「おっ、多分あれだな。どこから下りるんだろ」
「あそこに坂道がある」
ガードレールが途切れた先に、谷間へ続く坂道が見えた。真弘たちは自転車を降り、そこへ向かった。
坂道を下ると、固いコンクリートの地面は、やわらかな土の道へと変わった。地面には落ち葉が散らばり、周りでは木々が風に揺れている。ときおりザーッと強風が吹き抜け、木々の揺れが激しくなると、その音が声のように聞こえた。
しばらく歩くと、石造りの柱が見えた。道の右端と左端に立つその柱には何か文字が彫られていて、懐中電灯の光を当てると、かろうじて『小学校』とだけ読めた。おそらく校門だろう。
校門を通り過ぎた時、背筋にひやりとしたものを感じた。
薄暗い中、落ち葉を踏みしめながら進んでいく。やがて目の前に旧校舎が姿を現した。荒れ方は想像以上で、校舎の周辺は真弘たちの背丈以上の雑草で覆われている。ひっそりと佇む校舎を見ていると、胸の内側が落ち着かなくなった。
錆びついた玄関扉は板で塞がれ、誰も入れないようになっていた。
「別の入り口を探すか」
二人は校舎の外周を右回りに進んだ。雑草をかき分けると、「お手洗い」と書かれた木札のかかった小屋が見える。渡り廊下で校舎と繋がっているらしい。
「ま、まひろぉ」
「ど、どうしたの?」
「しょんべんしたくなった。もう我慢できない」
陽介は小屋へ駆けたが、扉は歪んでいて開かなかった。
「まじかよ」
ぼやくと、陽介は小屋の陰へ消えた。
待つ間、真弘は何となく二階へ視線を上げた。懐中電灯の先で、割れた窓には蜘蛛の巣がびっしり張りつき、無数の小さな影がうごめいていた。ぞわりと鳥肌が立ち、光を一階へ落とす。
廊下に、誰かが立っていた。
黒いもの。輪郭が熱の蜃気楼みたいに揺れている。顔は見えないのに、見られていると脳が先に理解した。逃げろと体が言い、確かめろと頭が言う。足のつま先が少し前に出た。
「お待たせー」
陽介の声で糸が切れる。
「黒いのがいた」
言ってから、声の高さに自分で驚いた。
「え、まじで? どこ?」
「ほら、あれ」
真弘は窓を指さす。
「誰もいないじゃん」
黒いものの姿はなかった。
いない。気のせい? いや、確かにいた。
――イッテハ、イケナイ。
あの時の声が蘇る。
なら、どうすればいい。行くなと言われるほど、確かめずにはいられない。
割れた窓の桟に手をかけた。錆の粉が指にざらりと付く。
真弘は窓から身をねじ込んだ。
背後から陽介の声と鳥の羽音が聞こえた。
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