サラブレッド・プロジェクト
ー/ー 春の訪れ。それは桜が舞い、暖かな空気が様々なものを迎え入れて、そして送り出してくる始まりを告げる季節。
深井ショウもまた、高校生を華々しく卒業しようとしていた。
卒業証書の入った筒を片手に、最後の学生服を着て、友人たちと記念撮影を撮り終えた頃合い。
「ショウ、お前の進路ってさ」
なんとなしに友人の一人が声を掛ける。
「ああ、前々から決めてたからな」
大学への進学か、それとも就職か。様々に分岐した将来がある中で、ショウは明瞭に一つの答えを告げる。
「競走馬だよ!」
そういって、学生服が着崩れることもいとわず、ショウは走り出す。その手に持った筒をバトンのように持ちながら。
※ ※ ※
サラブレッド・プロジェクトというものが発足されたのは歴史上でもまだ浅い。
進化論を唱えて研究を続けてきた、一部の学者の道楽とも揶揄されることの多いこのプロジェクトだが、簡潔にかいつまんでいえば人間を競走馬として育成させる計画のことを示す。
競馬業界が斜陽になりつつあった頃、専属の調教師や牧場主も次々と上がり続けるコストに失業していき、将来の担い手も望み薄だった。
そんな最中に流行し始めていたのが変身薬と呼ばれるもの。
読んで字のごとく、変身することのできる薬である。
当初は愛玩動物などに化け、人間社会で疲弊した人々のほんのひと時の現実逃避を実現させる程度のものだったが、そんな変身薬に目を付けたのが競馬業界だった。
要するに、もともと知能の高い人間を競走馬として育て上げれば、多くのコストを削減することが実現できる――というのが目論見だ。
現代において、サラブレッド・プロジェクトは新しい業種といえた。
なんといっても一獲千金を狙えるという夢のある職業だ。
かつて斜陽と言われていた競馬業界もこのプロジェクトのおかげで息を吹き返し、目新しさも然ることながら馬一頭を飼育していくよりもずっとハードルが低いことも相まって、脱サラで競走馬を目指す者も珍しくはない。
深井ショウも、幼少期より走ることが大好きで、誰よりも負けず嫌いだったことが高じて、いつしか競走馬になることが夢になっていた。
とはいえ、このサラブレッド・プロジェクトもメジャー化するにつれて、規約や条例が設けられていき、昨今では変身薬の適性がなければその時点で門前払いされる。
それこそ発足して間もない頃など、ケンタウロスのような不格好な姿でも許容されていたくらいだったが、さすがに誰でも無条件で、というほど生ぬるくはなかった。
「次、三百二十五番。変身薬を受け取ってください。激しい吐き気や頭痛を覚えた場合はただちに飲むのを中止し、係員を呼んでください」
今日もまた新たな金の卵を獲得すべく、サラブレッド・プロジェクトに加入しているトレーニングセンターにて、機械的に列が捌かれていく。
「はい、分かりました」
二つ返事でショウは係員から筒状のボトルを受け取り、強張った表情で眺める。
そして、人一人分入るにはやや大きめの個室の中へと移動し、ボトルを開封する。
一時期流行していた変身薬とはいえ、ショウが飲むのは初めてだ。
もしここで適性がないと判断されれば夢は潰える。
見るからに不味そうな色合いと香りをしている液体だったが、ショウはボトルに口をつけ、飲み始める。うっかり吐き出さないように気を付けながら、鼻で呼吸するのを止め、喉の奥へと流し込む。
すると、何やら体がふやけていくような錯覚に陥る。ちゃんと足で立てているのかすらも不安になっていく。先ほど係員に言われた激しい吐き気や頭痛とはこのことなのだろうかと思いながらも、ショウは床に両手をついた。
このまま倒れて病院に運ばれてしまうのかもしれない。
やはり拭いきれない不安の中、心臓のバクバクする音を感じながらも、今度は体が膨張していく感覚に襲われる。
自分の体がどうなっているのかまるで分からない。
ただ、四つん這いという恰好だったはずなのに不思議とバランスが保たれていた。
床についた両手も、後ろの方の両足もピンと伸ばした状態で立てている。
かと思えば、首が異様なほどにのけぞり、正面に向く。
ショウの自覚できている限りでは、まるで粘土細工みたく、手足や首に至るまでがぐにょんぐにょんに伸びている感覚だった。
夢見心地というよりも、風邪気味の最中に朦朧としているような心地で、ショウは自分の状態を理解するのに時間を要した。
バツンバツンになった服が体を締め付けるような感覚でようやく脳が動き出す。
四つ足で立ち、先ほどよりも視線が高くなっている。
思わず腕を確認しようとするが上手く持ち上がらない。ふと振り向こうとしても体ごと引っ張られるみたいに、感覚がおかしくなっている。
(ああ、体が馬になっているんだ)
そう気付き始め、やっと心が落ち着きを取り戻す。
自分の体をよく見ることができなかったため、ちゃんと全身が馬になれているのか不安だったが、ショウはゆっくりと前足と後ろ足を動かし、個室を出ていく。
蹄で芝を踏みしめる感触が新鮮で、特に意味もなく撫でるように足踏みした。
「三百二十五番、変身良好。体長は――二歳馬程度。毛色は――[[rb:鹿毛 > かげ]]」
手にボードを持った係員がベタベタとショウの体に触れながら念入りに観察し、ペンを走らせる。それから逐一、「前に三歩進め」とか「後ろに一歩下がれ」とか細かい指示もされ、緊張しながらも全てを何の問題もなくこなす。
「異常なし! では、続いてタイムを計ります。トラックへ移動してください」
当然ながら馬に変身ができて終わりではない。
むしろ本番はこれからで、いよいよテストが開始される。
係員に誘導されるままに、ショウは四つ足でトラックへと向かった。
そこは競走馬たちが鍛錬を積むために用意されたトレーニングセンターの練習用コース。競馬場のように観客はいないが、今日のテストのために集まっていた審査員と思わしき人々がショウに注目する。ショウにとって、将来の全てが決まる瞬間だ。
「ゲートが開いたらスタートしてください」
うながされるままに鉄の柵の中へと案内され、ショウの緊張は最高潮まで上り詰める。清々しいほどの青い空が今だけは冷たく感じられた。人間の陸上とは違う、経験したことのない張り詰めた空気が、肌を締め付けるようだった。
――――ガチャン。
目の前の鉄の柵が開くと同時に、ショウはそこから飛び出す。
土を踏む感触、後ろ足で跳ねる感覚、肌に触れる風も何もかもが知らないことだらけ。それでもショウは、一心不乱に四つの足で前へ前へと突き進む。
ちゃんと走れているのか、そもそも馬らしく動けているのか。
無駄な思考をまとめて振り払うように、ただただ足を動かすことに集中する。
ふとゴールテープがないことに気付いたのは、ウィニングポストを通り抜けて数十メートル以上を走った後のことだ。旗を持った係員が目の前で停止の合図を送っているのが見えて、ショウは徐々に速度を緩めて係員の前に停止する。
あまりにも走ることに無我夢中すぎて、馬としてのゴールを意識していなかった。
何か間違ったことはしていなかっただろうか、と不安がまたしても後から押し寄せてくる。タイムはどうだ。走り方に問題はないか。
ショウは重い体をよじるようにして振り向く。観客代わりにコースの外側で観戦していた審査員一同がざわついているのが見えた。
「こ、このタイムは……」
「そんな、ありえない。まさか、どうして」
タイムを表示する電光掲示板は目についたが、それが早いのかどうかはショウには分からなかった。何せ、自分が何メートルを走ったのかも理解できていなかったし、馬としての速度の基準も把握しきれてはいなかった。
「彼は新人なのか? あまりにも……」
「プロが会場を間違えてやってきたわけじゃあるまい」
騒然とする審査員の態度に、ショウはますます不安を煽られるばかりで、居ても立っても居られなくなり、思わず審査員たちが並ぶ席へと駆け寄る。後ろの方から係員の制止する言葉も聞こえないくらい、内心は穏やかではなかった。
近づいてきたショウに対し、審査員の面々の表情は、どちらかといえば歓迎するような笑みが含まれていた。期待のまなざしにも近い、そんな表情だ。
「素晴らしい。文句なしに合格、合格さ!」
審査員の一人がその一声を上げるや否や、一同の拍手がショウに向けられた。
「新人とは思えない、圧倒的なタイムだ。君は将来有望だよ」
ここでようやくしてショウは、自分の中にあったネガティブな気持ちの全部が弾け飛ぶのを実感した。称賛の声に感極まって嘶いてしまうほどに。
高揚が収まることがなく、そこから正式契約に至るまではあまりにもあっという間だった。
※ ※ ※
トレーニングセンターに入厩が決まり、さっそくショウにはプロのトレーナーがつくことになった。サラブレッド・プロジェクトのトレーニングセンターは競走馬向けの施設も多いが、当然人間用のジムのような設備も整っている。
ショウはこれまでの新人の比ではないタイムを出したせいか、上層部にもかなり気に入られた様子で、良い意味でも悪い意味でも目をつけられているようだ。
「はぁっ……! はぁっ……!」
「ペースが落ちている! ピッチを上げて! 次は馬コースもあるんだ。ここでバテてる場合じゃないぞ!」
「はいっ!」
一般的なジムにあるウォーキングマシンの上、息を切らして走るショウに、トレーナーは厳しく叱責する。評価されているからといって甘くするつもりは毛頭ないようで、むしろビシバシしごく気迫を感じられた。
スピード設定は既にアスリート並みで、下手したら怪我しかねない。
人間の状態の筋肉を酷使するのも理由がある。馬の状態であれば数十キロは走れるスタミナがあるため、並みのトレーニングでは足りない。かといって馬の状態で無理に走らせるとそれこそ怪我してしまい、最悪骨折してしまう。
馬の骨折は命に係わる。
人間の状態ならある程度の怪我のリスクを軽減でき、馬のトレーニングの半分以下でもそれ以上の効果を得られることが立証されており、酷使した後に馬に変身することで十分すぎるくらいの超回復することができる仕組みだ。
効率だけを極めた理論上のトレーニング方法であり、当然ながら怪我の見極めが肝心だ。人間の状態で酷使しすぎてしまえば本末転倒以外の何ものでもない。
「よし、そこまでだ。マッサージを終えたら向こうのマシンに移動しろ」
「……はい! 分かりました!」
額から玉のような汗を拭きだしながらショウが答える。足もくたくたになっている様子は誰が見ても明らかなほど。
もしもこれが陸上のアスリートのトレーニングであればオーバーワークであり、純粋な馬のトレーニングだったとしたら尚のこと。
人間並みの知恵を持ち合わせ、動物並みのスタミナを獲得できるサラブレッド・プロジェクトだからこそ許されている異例のトレーニングといえる。
尤も、このハードトレーニングを課せられて一か月以上持った選手はそう多くない。大概が怪我をする前に耐え切れず音を上げて逃げ出す。
「はぁ……、ふぅ……」
床にへたりこんで息を整える。
「ほら、水分補給も忘れるんじゃない」
「あ、ありがとうございます!」
冷たいスポーツドリンクを頬にあてられ、ショウは感謝の言葉をもらす。
受け取ったボトルはキンキンに冷えていて、間髪入れず摂取する。あたかもスポンジになった身体に染みわたっていくかのような心地だった。
何もトレーナーだって選手を破壊するためにトレーニングを強いているわけではない。理論上の効率化に沿って適切に課しているつもりだ。
できないものにできないことをやらせるつもりなどあるはずもない。
ただ、その理想論についてこれない者が圧倒的に多数であり、ショウは少数派だったというだけの話だ。
※ ※ ※
春を超え、雨季に入りつつある頃合い。
その競馬場は気候とは違う、人々の熱気に包まれていた。
馬券を破り捨てる者、または投げ捨てる者、あるいは感極まって泣きわめく者もいる中で、一際大きく響き渡っていたのは罵声でも怒声でもなく歓声だった。
実況の声がまくしたてる。
『まさか、まさかの大差! 誰がこの展開を読めたというのでしょう! 後続を大きく突き放してゴールを決めたのは――』
蹄の先で芝を叩く馬が一頭。
放心状態といえばその通りで、観客席を呆然と見上げていたのはショウだった。
宙を舞う馬券が、あたかも自分を祝福してくれている紙吹雪のように見えた。
興奮が収まらない。まだ走り足らないくらい。
このデビューまでの道のりは決して短くはなかった。
それまで厳しいトレーニングをずっとこなしてきた。だからこの結果は予測こそできていたが、まさか現実のものになるとまでは思っていなかった様子。
後から後から実感がじわじわとわいてきて、ショウは鼻息を荒くした。
(これで少しはアイツに追いつけた、かな……?)
凛とした瞳のショウの見上げる空の彼方には何かの背中が見えているようだった。
深井ショウもまた、高校生を華々しく卒業しようとしていた。
卒業証書の入った筒を片手に、最後の学生服を着て、友人たちと記念撮影を撮り終えた頃合い。
「ショウ、お前の進路ってさ」
なんとなしに友人の一人が声を掛ける。
「ああ、前々から決めてたからな」
大学への進学か、それとも就職か。様々に分岐した将来がある中で、ショウは明瞭に一つの答えを告げる。
「競走馬だよ!」
そういって、学生服が着崩れることもいとわず、ショウは走り出す。その手に持った筒をバトンのように持ちながら。
※ ※ ※
サラブレッド・プロジェクトというものが発足されたのは歴史上でもまだ浅い。
進化論を唱えて研究を続けてきた、一部の学者の道楽とも揶揄されることの多いこのプロジェクトだが、簡潔にかいつまんでいえば人間を競走馬として育成させる計画のことを示す。
競馬業界が斜陽になりつつあった頃、専属の調教師や牧場主も次々と上がり続けるコストに失業していき、将来の担い手も望み薄だった。
そんな最中に流行し始めていたのが変身薬と呼ばれるもの。
読んで字のごとく、変身することのできる薬である。
当初は愛玩動物などに化け、人間社会で疲弊した人々のほんのひと時の現実逃避を実現させる程度のものだったが、そんな変身薬に目を付けたのが競馬業界だった。
要するに、もともと知能の高い人間を競走馬として育て上げれば、多くのコストを削減することが実現できる――というのが目論見だ。
現代において、サラブレッド・プロジェクトは新しい業種といえた。
なんといっても一獲千金を狙えるという夢のある職業だ。
かつて斜陽と言われていた競馬業界もこのプロジェクトのおかげで息を吹き返し、目新しさも然ることながら馬一頭を飼育していくよりもずっとハードルが低いことも相まって、脱サラで競走馬を目指す者も珍しくはない。
深井ショウも、幼少期より走ることが大好きで、誰よりも負けず嫌いだったことが高じて、いつしか競走馬になることが夢になっていた。
とはいえ、このサラブレッド・プロジェクトもメジャー化するにつれて、規約や条例が設けられていき、昨今では変身薬の適性がなければその時点で門前払いされる。
それこそ発足して間もない頃など、ケンタウロスのような不格好な姿でも許容されていたくらいだったが、さすがに誰でも無条件で、というほど生ぬるくはなかった。
「次、三百二十五番。変身薬を受け取ってください。激しい吐き気や頭痛を覚えた場合はただちに飲むのを中止し、係員を呼んでください」
今日もまた新たな金の卵を獲得すべく、サラブレッド・プロジェクトに加入しているトレーニングセンターにて、機械的に列が捌かれていく。
「はい、分かりました」
二つ返事でショウは係員から筒状のボトルを受け取り、強張った表情で眺める。
そして、人一人分入るにはやや大きめの個室の中へと移動し、ボトルを開封する。
一時期流行していた変身薬とはいえ、ショウが飲むのは初めてだ。
もしここで適性がないと判断されれば夢は潰える。
見るからに不味そうな色合いと香りをしている液体だったが、ショウはボトルに口をつけ、飲み始める。うっかり吐き出さないように気を付けながら、鼻で呼吸するのを止め、喉の奥へと流し込む。
すると、何やら体がふやけていくような錯覚に陥る。ちゃんと足で立てているのかすらも不安になっていく。先ほど係員に言われた激しい吐き気や頭痛とはこのことなのだろうかと思いながらも、ショウは床に両手をついた。
このまま倒れて病院に運ばれてしまうのかもしれない。
やはり拭いきれない不安の中、心臓のバクバクする音を感じながらも、今度は体が膨張していく感覚に襲われる。
自分の体がどうなっているのかまるで分からない。
ただ、四つん這いという恰好だったはずなのに不思議とバランスが保たれていた。
床についた両手も、後ろの方の両足もピンと伸ばした状態で立てている。
かと思えば、首が異様なほどにのけぞり、正面に向く。
ショウの自覚できている限りでは、まるで粘土細工みたく、手足や首に至るまでがぐにょんぐにょんに伸びている感覚だった。
夢見心地というよりも、風邪気味の最中に朦朧としているような心地で、ショウは自分の状態を理解するのに時間を要した。
バツンバツンになった服が体を締め付けるような感覚でようやく脳が動き出す。
四つ足で立ち、先ほどよりも視線が高くなっている。
思わず腕を確認しようとするが上手く持ち上がらない。ふと振り向こうとしても体ごと引っ張られるみたいに、感覚がおかしくなっている。
(ああ、体が馬になっているんだ)
そう気付き始め、やっと心が落ち着きを取り戻す。
自分の体をよく見ることができなかったため、ちゃんと全身が馬になれているのか不安だったが、ショウはゆっくりと前足と後ろ足を動かし、個室を出ていく。
蹄で芝を踏みしめる感触が新鮮で、特に意味もなく撫でるように足踏みした。
「三百二十五番、変身良好。体長は――二歳馬程度。毛色は――[[rb:鹿毛 > かげ]]」
手にボードを持った係員がベタベタとショウの体に触れながら念入りに観察し、ペンを走らせる。それから逐一、「前に三歩進め」とか「後ろに一歩下がれ」とか細かい指示もされ、緊張しながらも全てを何の問題もなくこなす。
「異常なし! では、続いてタイムを計ります。トラックへ移動してください」
当然ながら馬に変身ができて終わりではない。
むしろ本番はこれからで、いよいよテストが開始される。
係員に誘導されるままに、ショウは四つ足でトラックへと向かった。
そこは競走馬たちが鍛錬を積むために用意されたトレーニングセンターの練習用コース。競馬場のように観客はいないが、今日のテストのために集まっていた審査員と思わしき人々がショウに注目する。ショウにとって、将来の全てが決まる瞬間だ。
「ゲートが開いたらスタートしてください」
うながされるままに鉄の柵の中へと案内され、ショウの緊張は最高潮まで上り詰める。清々しいほどの青い空が今だけは冷たく感じられた。人間の陸上とは違う、経験したことのない張り詰めた空気が、肌を締め付けるようだった。
――――ガチャン。
目の前の鉄の柵が開くと同時に、ショウはそこから飛び出す。
土を踏む感触、後ろ足で跳ねる感覚、肌に触れる風も何もかもが知らないことだらけ。それでもショウは、一心不乱に四つの足で前へ前へと突き進む。
ちゃんと走れているのか、そもそも馬らしく動けているのか。
無駄な思考をまとめて振り払うように、ただただ足を動かすことに集中する。
ふとゴールテープがないことに気付いたのは、ウィニングポストを通り抜けて数十メートル以上を走った後のことだ。旗を持った係員が目の前で停止の合図を送っているのが見えて、ショウは徐々に速度を緩めて係員の前に停止する。
あまりにも走ることに無我夢中すぎて、馬としてのゴールを意識していなかった。
何か間違ったことはしていなかっただろうか、と不安がまたしても後から押し寄せてくる。タイムはどうだ。走り方に問題はないか。
ショウは重い体をよじるようにして振り向く。観客代わりにコースの外側で観戦していた審査員一同がざわついているのが見えた。
「こ、このタイムは……」
「そんな、ありえない。まさか、どうして」
タイムを表示する電光掲示板は目についたが、それが早いのかどうかはショウには分からなかった。何せ、自分が何メートルを走ったのかも理解できていなかったし、馬としての速度の基準も把握しきれてはいなかった。
「彼は新人なのか? あまりにも……」
「プロが会場を間違えてやってきたわけじゃあるまい」
騒然とする審査員の態度に、ショウはますます不安を煽られるばかりで、居ても立っても居られなくなり、思わず審査員たちが並ぶ席へと駆け寄る。後ろの方から係員の制止する言葉も聞こえないくらい、内心は穏やかではなかった。
近づいてきたショウに対し、審査員の面々の表情は、どちらかといえば歓迎するような笑みが含まれていた。期待のまなざしにも近い、そんな表情だ。
「素晴らしい。文句なしに合格、合格さ!」
審査員の一人がその一声を上げるや否や、一同の拍手がショウに向けられた。
「新人とは思えない、圧倒的なタイムだ。君は将来有望だよ」
ここでようやくしてショウは、自分の中にあったネガティブな気持ちの全部が弾け飛ぶのを実感した。称賛の声に感極まって嘶いてしまうほどに。
高揚が収まることがなく、そこから正式契約に至るまではあまりにもあっという間だった。
※ ※ ※
トレーニングセンターに入厩が決まり、さっそくショウにはプロのトレーナーがつくことになった。サラブレッド・プロジェクトのトレーニングセンターは競走馬向けの施設も多いが、当然人間用のジムのような設備も整っている。
ショウはこれまでの新人の比ではないタイムを出したせいか、上層部にもかなり気に入られた様子で、良い意味でも悪い意味でも目をつけられているようだ。
「はぁっ……! はぁっ……!」
「ペースが落ちている! ピッチを上げて! 次は馬コースもあるんだ。ここでバテてる場合じゃないぞ!」
「はいっ!」
一般的なジムにあるウォーキングマシンの上、息を切らして走るショウに、トレーナーは厳しく叱責する。評価されているからといって甘くするつもりは毛頭ないようで、むしろビシバシしごく気迫を感じられた。
スピード設定は既にアスリート並みで、下手したら怪我しかねない。
人間の状態の筋肉を酷使するのも理由がある。馬の状態であれば数十キロは走れるスタミナがあるため、並みのトレーニングでは足りない。かといって馬の状態で無理に走らせるとそれこそ怪我してしまい、最悪骨折してしまう。
馬の骨折は命に係わる。
人間の状態ならある程度の怪我のリスクを軽減でき、馬のトレーニングの半分以下でもそれ以上の効果を得られることが立証されており、酷使した後に馬に変身することで十分すぎるくらいの超回復することができる仕組みだ。
効率だけを極めた理論上のトレーニング方法であり、当然ながら怪我の見極めが肝心だ。人間の状態で酷使しすぎてしまえば本末転倒以外の何ものでもない。
「よし、そこまでだ。マッサージを終えたら向こうのマシンに移動しろ」
「……はい! 分かりました!」
額から玉のような汗を拭きだしながらショウが答える。足もくたくたになっている様子は誰が見ても明らかなほど。
もしもこれが陸上のアスリートのトレーニングであればオーバーワークであり、純粋な馬のトレーニングだったとしたら尚のこと。
人間並みの知恵を持ち合わせ、動物並みのスタミナを獲得できるサラブレッド・プロジェクトだからこそ許されている異例のトレーニングといえる。
尤も、このハードトレーニングを課せられて一か月以上持った選手はそう多くない。大概が怪我をする前に耐え切れず音を上げて逃げ出す。
「はぁ……、ふぅ……」
床にへたりこんで息を整える。
「ほら、水分補給も忘れるんじゃない」
「あ、ありがとうございます!」
冷たいスポーツドリンクを頬にあてられ、ショウは感謝の言葉をもらす。
受け取ったボトルはキンキンに冷えていて、間髪入れず摂取する。あたかもスポンジになった身体に染みわたっていくかのような心地だった。
何もトレーナーだって選手を破壊するためにトレーニングを強いているわけではない。理論上の効率化に沿って適切に課しているつもりだ。
できないものにできないことをやらせるつもりなどあるはずもない。
ただ、その理想論についてこれない者が圧倒的に多数であり、ショウは少数派だったというだけの話だ。
※ ※ ※
春を超え、雨季に入りつつある頃合い。
その競馬場は気候とは違う、人々の熱気に包まれていた。
馬券を破り捨てる者、または投げ捨てる者、あるいは感極まって泣きわめく者もいる中で、一際大きく響き渡っていたのは罵声でも怒声でもなく歓声だった。
実況の声がまくしたてる。
『まさか、まさかの大差! 誰がこの展開を読めたというのでしょう! 後続を大きく突き放してゴールを決めたのは――』
蹄の先で芝を叩く馬が一頭。
放心状態といえばその通りで、観客席を呆然と見上げていたのはショウだった。
宙を舞う馬券が、あたかも自分を祝福してくれている紙吹雪のように見えた。
興奮が収まらない。まだ走り足らないくらい。
このデビューまでの道のりは決して短くはなかった。
それまで厳しいトレーニングをずっとこなしてきた。だからこの結果は予測こそできていたが、まさか現実のものになるとまでは思っていなかった様子。
後から後から実感がじわじわとわいてきて、ショウは鼻息を荒くした。
(これで少しはアイツに追いつけた、かな……?)
凛とした瞳のショウの見上げる空の彼方には何かの背中が見えているようだった。
みんなのリアクション
まだリアクションはありません。最初の一歩を踏み出しましょう!
春の訪れ。それは桜が舞い、暖かな空気が様々なものを迎え入れて、そして送り出してくる始まりを告げる季節。
深井ショウもまた、高校生を華々しく卒業しようとしていた。
卒業証書の入った筒を片手に、最後の学生服を着て、友人たちと記念撮影を撮り終えた頃合い。
深井ショウもまた、高校生を華々しく卒業しようとしていた。
卒業証書の入った筒を片手に、最後の学生服を着て、友人たちと記念撮影を撮り終えた頃合い。
「ショウ、お前の進路ってさ」
なんとなしに友人の一人が声を掛ける。
「ああ、前々から決めてたからな」
大学への進学か、それとも就職か。様々に分岐した将来がある中で、ショウは明瞭に一つの答えを告げる。
「競走馬だよ!」
そういって、学生服が着崩れることもいとわず、ショウは走り出す。その手に持った筒をバトンのように持ちながら。
※ ※ ※
サラブレッド・プロジェクトというものが発足されたのは歴史上でもまだ浅い。
進化論を唱えて研究を続けてきた、一部の学者の道楽とも揶揄されることの多いこのプロジェクトだが、簡潔にかいつまんでいえば人間を競走馬として育成させる計画のことを示す。
競馬業界が斜陽になりつつあった頃、専属の調教師や牧場主も次々と上がり続けるコストに失業していき、将来の担い手も望み薄だった。
そんな最中に流行し始めていたのが変身薬と呼ばれるもの。
読んで字のごとく、変身することのできる薬である。
読んで字のごとく、変身することのできる薬である。
当初は愛玩動物などに化け、人間社会で疲弊した人々のほんのひと時の現実逃避を実現させる程度のものだったが、そんな変身薬に目を付けたのが競馬業界だった。
要するに、もともと知能の高い人間を競走馬として育て上げれば、多くのコストを削減することが実現できる――というのが目論見だ。
現代において、サラブレッド・プロジェクトは新しい業種といえた。
なんといっても一獲千金を狙えるという夢のある職業だ。
なんといっても一獲千金を狙えるという夢のある職業だ。
かつて斜陽と言われていた競馬業界もこのプロジェクトのおかげで息を吹き返し、目新しさも然ることながら馬一頭を飼育していくよりもずっとハードルが低いことも相まって、脱サラで競走馬を目指す者も珍しくはない。
深井ショウも、幼少期より走ることが大好きで、誰よりも負けず嫌いだったことが高じて、いつしか競走馬になることが夢になっていた。
とはいえ、このサラブレッド・プロジェクトもメジャー化するにつれて、規約や条例が設けられていき、昨今では変身薬の適性がなければその時点で門前払いされる。
それこそ発足して間もない頃など、ケンタウロスのような不格好な姿でも許容されていたくらいだったが、さすがに誰でも無条件で、というほど生ぬるくはなかった。
「次、三百二十五番。変身薬を受け取ってください。激しい吐き気や頭痛を覚えた場合はただちに飲むのを中止し、係員を呼んでください」
今日もまた新たな金の卵を獲得すべく、サラブレッド・プロジェクトに加入しているトレーニングセンターにて、機械的に列が捌かれていく。
「はい、分かりました」
二つ返事でショウは係員から筒状のボトルを受け取り、強張った表情で眺める。
そして、人一人分入るにはやや大きめの個室の中へと移動し、ボトルを開封する。
そして、人一人分入るにはやや大きめの個室の中へと移動し、ボトルを開封する。
一時期流行していた変身薬とはいえ、ショウが飲むのは初めてだ。
もしここで適性がないと判断されれば夢は潰える。
もしここで適性がないと判断されれば夢は潰える。
見るからに不味そうな色合いと香りをしている液体だったが、ショウはボトルに口をつけ、飲み始める。うっかり吐き出さないように気を付けながら、鼻で呼吸するのを止め、喉の奥へと流し込む。
すると、何やら体がふやけていくような錯覚に陥る。ちゃんと足で立てているのかすらも不安になっていく。先ほど係員に言われた激しい吐き気や頭痛とはこのことなのだろうかと思いながらも、ショウは床に両手をついた。
このまま倒れて病院に運ばれてしまうのかもしれない。
やはり拭いきれない不安の中、心臓のバクバクする音を感じながらも、今度は体が膨張していく感覚に襲われる。
やはり拭いきれない不安の中、心臓のバクバクする音を感じながらも、今度は体が膨張していく感覚に襲われる。
自分の体がどうなっているのかまるで分からない。
ただ、四つん這いという恰好だったはずなのに不思議とバランスが保たれていた。
ただ、四つん這いという恰好だったはずなのに不思議とバランスが保たれていた。
床についた両手も、後ろの方の両足もピンと伸ばした状態で立てている。
かと思えば、首が異様なほどにのけぞり、正面に向く。
かと思えば、首が異様なほどにのけぞり、正面に向く。
ショウの自覚できている限りでは、まるで粘土細工みたく、手足や首に至るまでがぐにょんぐにょんに伸びている感覚だった。
夢見心地というよりも、風邪気味の最中に朦朧としているような心地で、ショウは自分の状態を理解するのに時間を要した。
バツンバツンになった服が体を締め付けるような感覚でようやく脳が動き出す。
四つ足で立ち、先ほどよりも視線が高くなっている。
四つ足で立ち、先ほどよりも視線が高くなっている。
思わず腕を確認しようとするが上手く持ち上がらない。ふと振り向こうとしても体ごと引っ張られるみたいに、感覚がおかしくなっている。
(ああ、体が馬になっているんだ)
そう気付き始め、やっと心が落ち着きを取り戻す。
自分の体をよく見ることができなかったため、ちゃんと全身が馬になれているのか不安だったが、ショウはゆっくりと前足と後ろ足を動かし、個室を出ていく。
蹄で芝を踏みしめる感触が新鮮で、特に意味もなく撫でるように足踏みした。
「三百二十五番、変身良好。体長は――二歳馬程度。毛色は――[[rb:鹿毛 > かげ]]」
手にボードを持った係員がベタベタとショウの体に触れながら念入りに観察し、ペンを走らせる。それから逐一、「前に三歩進め」とか「後ろに一歩下がれ」とか細かい指示もされ、緊張しながらも全てを何の問題もなくこなす。
「異常なし! では、続いてタイムを計ります。トラックへ移動してください」
当然ながら馬に変身ができて終わりではない。
むしろ本番はこれからで、いよいよテストが開始される。
むしろ本番はこれからで、いよいよテストが開始される。
係員に誘導されるままに、ショウは四つ足でトラックへと向かった。
そこは競走馬たちが鍛錬を積むために用意されたトレーニングセンターの練習用コース。競馬場のように観客はいないが、今日のテストのために集まっていた審査員と思わしき人々がショウに注目する。ショウにとって、将来の全てが決まる瞬間だ。
「ゲートが開いたらスタートしてください」
うながされるままに鉄の柵の中へと案内され、ショウの緊張は最高潮まで上り詰める。清々しいほどの青い空が今だけは冷たく感じられた。人間の陸上とは違う、経験したことのない張り詰めた空気が、肌を締め付けるようだった。
――――ガチャン。
目の前の鉄の柵が開くと同時に、ショウはそこから飛び出す。
土を踏む感触、後ろ足で跳ねる感覚、肌に触れる風も何もかもが知らないことだらけ。それでもショウは、一心不乱に四つの足で前へ前へと突き進む。
ちゃんと走れているのか、そもそも馬らしく動けているのか。
無駄な思考をまとめて振り払うように、ただただ足を動かすことに集中する。
無駄な思考をまとめて振り払うように、ただただ足を動かすことに集中する。
ふとゴールテープがないことに気付いたのは、ウィニングポストを通り抜けて数十メートル以上を走った後のことだ。旗を持った係員が目の前で停止の合図を送っているのが見えて、ショウは徐々に速度を緩めて係員の前に停止する。
あまりにも走ることに無我夢中すぎて、馬としてのゴールを意識していなかった。
何か間違ったことはしていなかっただろうか、と不安がまたしても後から押し寄せてくる。タイムはどうだ。走り方に問題はないか。
何か間違ったことはしていなかっただろうか、と不安がまたしても後から押し寄せてくる。タイムはどうだ。走り方に問題はないか。
ショウは重い体をよじるようにして振り向く。観客代わりにコースの外側で観戦していた審査員一同がざわついているのが見えた。
「こ、このタイムは……」
「そんな、ありえない。まさか、どうして」
「そんな、ありえない。まさか、どうして」
タイムを表示する電光掲示板は目についたが、それが早いのかどうかはショウには分からなかった。何せ、自分が何メートルを走ったのかも理解できていなかったし、馬としての速度の基準も把握しきれてはいなかった。
「彼は新人なのか? あまりにも……」
「プロが会場を間違えてやってきたわけじゃあるまい」
「プロが会場を間違えてやってきたわけじゃあるまい」
騒然とする審査員の態度に、ショウはますます不安を煽られるばかりで、居ても立っても居られなくなり、思わず審査員たちが並ぶ席へと駆け寄る。後ろの方から係員の制止する言葉も聞こえないくらい、内心は穏やかではなかった。
近づいてきたショウに対し、審査員の面々の表情は、どちらかといえば歓迎するような笑みが含まれていた。期待のまなざしにも近い、そんな表情だ。
「素晴らしい。文句なしに合格、合格さ!」
審査員の一人がその一声を上げるや否や、一同の拍手がショウに向けられた。
「新人とは思えない、圧倒的なタイムだ。君は将来有望だよ」
ここでようやくしてショウは、自分の中にあったネガティブな気持ちの全部が弾け飛ぶのを実感した。称賛の声に感極まって嘶いてしまうほどに。
高揚が収まることがなく、そこから正式契約に至るまではあまりにもあっという間だった。
高揚が収まることがなく、そこから正式契約に至るまではあまりにもあっという間だった。
※ ※ ※
トレーニングセンターに入厩が決まり、さっそくショウにはプロのトレーナーがつくことになった。サラブレッド・プロジェクトのトレーニングセンターは競走馬向けの施設も多いが、当然人間用のジムのような設備も整っている。
ショウはこれまでの新人の比ではないタイムを出したせいか、上層部にもかなり気に入られた様子で、良い意味でも悪い意味でも目をつけられているようだ。
「はぁっ……! はぁっ……!」
「ペースが落ちている! ピッチを上げて! 次は馬コースもあるんだ。ここでバテてる場合じゃないぞ!」
「はいっ!」
「ペースが落ちている! ピッチを上げて! 次は馬コースもあるんだ。ここでバテてる場合じゃないぞ!」
「はいっ!」
一般的なジムにあるウォーキングマシンの上、息を切らして走るショウに、トレーナーは厳しく叱責する。評価されているからといって甘くするつもりは毛頭ないようで、むしろビシバシしごく気迫を感じられた。
スピード設定は既にアスリート並みで、下手したら怪我しかねない。
人間の状態の筋肉を酷使するのも理由がある。馬の状態であれば数十キロは走れるスタミナがあるため、並みのトレーニングでは足りない。かといって馬の状態で無理に走らせるとそれこそ怪我してしまい、最悪骨折してしまう。
馬の骨折は命に係わる。
人間の状態ならある程度の怪我のリスクを軽減でき、馬のトレーニングの半分以下でもそれ以上の効果を得られることが立証されており、酷使した後に馬に変身することで十分すぎるくらいの超回復することができる仕組みだ。
効率だけを極めた理論上のトレーニング方法であり、当然ながら怪我の見極めが肝心だ。人間の状態で酷使しすぎてしまえば本末転倒以外の何ものでもない。
「よし、そこまでだ。マッサージを終えたら向こうのマシンに移動しろ」
「……はい! 分かりました!」
「……はい! 分かりました!」
額から玉のような汗を拭きだしながらショウが答える。足もくたくたになっている様子は誰が見ても明らかなほど。
もしもこれが陸上のアスリートのトレーニングであればオーバーワークであり、純粋な馬のトレーニングだったとしたら尚のこと。
人間並みの知恵を持ち合わせ、動物並みのスタミナを獲得できるサラブレッド・プロジェクトだからこそ許されている異例のトレーニングといえる。
尤も、このハードトレーニングを課せられて一か月以上持った選手はそう多くない。大概が怪我をする前に耐え切れず音を上げて逃げ出す。
「はぁ……、ふぅ……」
床にへたりこんで息を整える。
「ほら、水分補給も忘れるんじゃない」
「あ、ありがとうございます!」
「あ、ありがとうございます!」
冷たいスポーツドリンクを頬にあてられ、ショウは感謝の言葉をもらす。
受け取ったボトルはキンキンに冷えていて、間髪入れず摂取する。あたかもスポンジになった身体に染みわたっていくかのような心地だった。
受け取ったボトルはキンキンに冷えていて、間髪入れず摂取する。あたかもスポンジになった身体に染みわたっていくかのような心地だった。
何もトレーナーだって選手を破壊するためにトレーニングを強いているわけではない。理論上の効率化に沿って適切に課しているつもりだ。
できないものにできないことをやらせるつもりなどあるはずもない。
ただ、その理想論についてこれない者が圧倒的に多数であり、ショウは少数派だったというだけの話だ。
ただ、その理想論についてこれない者が圧倒的に多数であり、ショウは少数派だったというだけの話だ。
※ ※ ※
春を超え、雨季に入りつつある頃合い。
その競馬場は気候とは違う、人々の熱気に包まれていた。
その競馬場は気候とは違う、人々の熱気に包まれていた。
馬券を破り捨てる者、または投げ捨てる者、あるいは感極まって泣きわめく者もいる中で、一際大きく響き渡っていたのは罵声でも怒声でもなく歓声だった。
実況の声がまくしたてる。
実況の声がまくしたてる。
『まさか、まさかの大差! 誰がこの展開を読めたというのでしょう! 後続を大きく突き放してゴールを決めたのは――』
蹄の先で芝を叩く馬が一頭。
放心状態といえばその通りで、観客席を呆然と見上げていたのはショウだった。
放心状態といえばその通りで、観客席を呆然と見上げていたのはショウだった。
宙を舞う馬券が、あたかも自分を祝福してくれている紙吹雪のように見えた。
興奮が収まらない。まだ走り足らないくらい。
興奮が収まらない。まだ走り足らないくらい。
このデビューまでの道のりは決して短くはなかった。
それまで厳しいトレーニングをずっとこなしてきた。だからこの結果は予測こそできていたが、まさか現実のものになるとまでは思っていなかった様子。
後から後から実感がじわじわとわいてきて、ショウは鼻息を荒くした。
後から後から実感がじわじわとわいてきて、ショウは鼻息を荒くした。
(これで少しはアイツに追いつけた、かな……?)
凛とした瞳のショウの見上げる空の彼方には何かの背中が見えているようだった。