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幕間

ー/ー



 夏野光太(なつのこうた)は、高日総合病院のエントランスホールの受付に並んでいた。

 順番が来て、学生証を提示する。検温を終えると、受付の事務員から面会札を手渡された。

 東棟まで歩き、エレベーターのボタンを押す。

 弟が目を覚ましたと聞いたのは、三日前だった。本当はすぐにでも会いに行きたかったが、風邪をひいていたせいで、面会は断念せざるを得なかった。ようやく熱が下がった今日、学校の授業が終わるやいなや、大急ぎで病院に駆けつけた。

 エレベーターに乗っている時間が、やけに長く感じられた。

 四階に到着する。

 ナースステーションで面会札を見せると、看護師が軽く笑った。

「面会は三十分までね」

 会釈し、弟の病室――五〇五号室へと足を運ぶ。

 光太は、病室の入り口で立ち止まった。

 窓際にあるベッドに、小柄な少年が腰掛けている。黒いパジャマの背中は、彫像のように微動だにしない。外を眺めているのだろうか。

真弘(まひろ)!」

 光太は明るい声で呼びかけた。しかし、少年は振り返らなかった。

「真弘、にいちゃんだぞ」

 病室に入り、弟の顔を覗き込んだ光太は、一瞬、息がつまった。

 真弘の目は虚ろだった。焦点の合わない瞳で、ただずっと窓の外をぼんやりと見つめている。

 肩を叩いても、体をゆすっても、何の反応も返ってこなかった。

 光太は真弘の手をそっと握った。温かい。でも――

『心拍と呼吸は安定しているのに、呼びかけには一切反応がない。まるで魂だけが抜け落ちてしまったみたいだ』

 親から聞かされた言葉を反芻する。まさに、その通りだった。

 覚悟していたつもりだったが、実際に目にすると、ショックは何倍にも跳ね上がった。

 光太は真弘の隣に腰をおろし、いっしょに窓の外を見た。天陽山が夕日に照らされ、オレンジ色に染まっている。

「真弘。勇斗な、今異世界にいるんだ。冗談じゃなく、ほんとだぞ?」

 おちゃらけた口調で話しかけるも、声はどこか震えていた。

「でさ、代わりに勇斗そっくりのアルトってやつが今この世界にいてさ。そいつが勇斗の代わりをやってんだけど、これがまぁ、めちゃくちゃなやつで」

 光太は苦笑いを浮かべる。

「元の世界に戻るため必死になってるんだけどな、全然手掛かりが見つからないみたいで。さて、どうしたもんかねぇ」

 返事はない。真弘はただ黙ったままだ。

 そのとき、一羽の黒い鳥が窓の外を横切った。

「カラスか。あ、そうだ、カラスっていえばさ、覚えてる? 二人でカラスにいじめられていたトビを助けた日。あの日の夜、家の窓際にこのお守りが置いてあったんだよな」

 光太は、首からぶら下げた白いお守りをそっと見せた。

 だが、真弘の視線は何一つ変わらなかった。

「あ、う――」

 言葉がつまる。やがて、涙が静かに頬を伝った。

 静かな病室に、時間だけが流れていく。

「面会時間、もう終わりよ」

 背後から声がして、光太ははっとした。もう三十分が経ったらしい。

「――じゃあな、また来るわ」

 鼻水をすする。肩に鞄をかけて立ち上がると、真弘に背を向けた。

 少し歩くと、棚の上に置いてある鏡が目に入った。

 鏡には、真弘の後ろ姿が映り込んでいる。

 ――真弘、お前、今どこにいるんだよ。

 ぴくっと、真弘の肩がわずかに動いたような気がした。

 ◆

 ソーマは鼻歌を口ずさみながら、石造りの回廊を歩いていた。氷の中に閉じ込められた勇斗の左腕を、大切そうに胸元に抱えている。

 魔神の居城に足を踏み入れるのは、復活してから初めてのことだった。

 あの頃と同じだ。黒曜石のような床、歪んだ柱、赤黒く脈打つ壁、肌を刺す熱気。いたるところに禍々しい瘴気が満ちているのに、それが妙に落ち着く。

 変わったのは、自分の容姿だ。

 ソーマは血に染まったゴシックドレスに目を落とす。

「だいぶ汚れましたわね。孤児院のおばさまには悪いけど、この服は処分しちゃいましょう」

 それに、お風呂にも入りたい。さすがに血を浴びすぎた。髪の毛もベトベトだし。

 そんなことを考えながら、巨大な黒鉄の扉を魔法でこじ開ける。

 広間へと足を踏み入れた瞬間、ソーマの足がぴたりと止まった。

「よぅ、ご機嫌だな」

 両腕を組み、壁にもたれかかった竜人型の魔族が、唸るような低音を響かせた。

「あら、どなたかと思えば、黒トカゲさんじゃありませんこと」

「誰がトカゲだ。オレ様にはギナスっていう名前があんだよ」

 ギナスは口元から葉巻を引き抜き、無造作に紫煙を吐き出す。

 ソーマは眉をひそめた。煙の吐き方が下品だ。ユートと全然違う。

「お前だろ? カルント山でオレ様の邪魔をしたやつは」

「そうですけど、それが何かしら?」

「獲物を横取りするなんて、卑怯だと思わねぇのか?」

「ユートはわたくしのもの。野蛮なトカゲに渡すわけないでしょう?」

 ソーマはうっとりと氷漬けの左腕を眺めた。

 ケッ、とギナスが短く発した。

「その腕、あいつのだろ? ちゃんと殺したのか?」

「さぁ、どうでしょうね。うふふ」

 あれくらいで死なれたら困る。もっと、もっと可愛がりたいのだから。完全に壊れるその瞬間まで――

「食えねぇ女だぜ」

「それはそうと、わたくしたちの新しい主の様子はいかが?」

「あぁ、あの野郎のことか」

「主に対して、あの野郎は失礼ですわよ?」

「オレ様は今のご主人サマが気に入らないんだよ。中途半端さに、どうにもムズムズしちまう」

「あなたの主観なんてどうでもいいですのよ」

「チッ、なら自分で見に行けよ。このババア」

「あらあら、お口が達者なことで。言われなくても、そうさせていただきますわ。その前にお風呂に入りますけど」

 勝手にしやがれ、とギナスが呟いた。

 ソーマは、鼻歌を再開した。

 数歩進んだところで、思い出したように振り返る。

「あ、そうですわ」

「何だ、まだ何かあるってのか? オレ様はスマートじゃねぇやつは嫌いなんだ。さっさと消えやがれ」

「ミュールさん、死んでませんわよ」

「――あぁ?」

 ギナスは怪訝そうに顔を歪めた。

「うふふふふふ」

 ◆

 魔神の居城、最深部。

 光も音も届かぬ暗黒の空間に、玉座が鎮座している。
 
 玉座の上に腰掛ける影――全身を漆黒の甲冑で覆った魔神は、重く閉ざされた兜の奥で、両目をぎらりと見開いた。

 己は、何者なのか。
 
 なぜ、この場所にいるのか。

 わからない。

 だが、なすべきことは明確だった。

 圧倒的な力による、世界の支配。
 
 それだけが、この身に刻まれた使命。

 最初は混乱していた。訳がわからぬまま、この世界をさまよっていた。

 だが、ある日、己の力に気づいた。

 魂の叫びを喰らい、怨念すら実体に変える力。理をねじ伏せ、魔を従わせ、死者すら屈服させる力。

 配下が増えるたび、孤独は薄れていった。喉奥を満たすような充足感が、心に広がった。

 魔神は、視線を玉座の横に向けた。

 そこに、一頭の飛龍がいた。真紅の鱗に覆われ、巨大な翼を畳んで身を伏せている。

 ゆっくりと手を伸ばす。漆黒の籠手に包まれた指が、赤い飛龍の頭頂部をそっと撫でた。

 飛龍は目を細め、のどを鳴らすような低い唸りを漏らす。

 魔神は、深呼吸をした。

 この満たされた感覚を、誰にも壊されたくはない。

 壊してくるとすれば、誰だ?

 思考の闇に、ひとつの光が差し込む。

 黄金色に輝く鎧をまとう、あの少年。

 ――勇斗。

 その名を思い浮かべた瞬間、胸の奥がざわつく。
 
 痛みのような、懐かしさのような、名もなき波紋が広がる。

 だが、それも、もう遠い。

 過去の記憶は、霧の中に沈みゆく。
 
 名前も、感情も、日常の記憶も。すべて、黒に染まっていく。

 もう、戻れない。
 
 心と身体は、闇の底へと完全に堕ちる。

 魔神は、そっと瞳を閉じた。


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 |夏野光太《なつのこうた》は、高日総合病院のエントランスホールの受付に並んでいた。
 順番が来て、学生証を提示する。検温を終えると、受付の事務員から面会札を手渡された。
 東棟まで歩き、エレベーターのボタンを押す。
 弟が目を覚ましたと聞いたのは、三日前だった。本当はすぐにでも会いに行きたかったが、風邪をひいていたせいで、面会は断念せざるを得なかった。ようやく熱が下がった今日、学校の授業が終わるやいなや、大急ぎで病院に駆けつけた。
 エレベーターに乗っている時間が、やけに長く感じられた。
 四階に到着する。
 ナースステーションで面会札を見せると、看護師が軽く笑った。
「面会は三十分までね」
 会釈し、弟の病室――五〇五号室へと足を運ぶ。
 光太は、病室の入り口で立ち止まった。
 窓際にあるベッドに、小柄な少年が腰掛けている。黒いパジャマの背中は、彫像のように微動だにしない。外を眺めているのだろうか。
「|真弘《まひろ》!」
 光太は明るい声で呼びかけた。しかし、少年は振り返らなかった。
「真弘、にいちゃんだぞ」
 病室に入り、弟の顔を覗き込んだ光太は、一瞬、息がつまった。
 真弘の目は虚ろだった。焦点の合わない瞳で、ただずっと窓の外をぼんやりと見つめている。
 肩を叩いても、体をゆすっても、何の反応も返ってこなかった。
 光太は真弘の手をそっと握った。温かい。でも――
『心拍と呼吸は安定しているのに、呼びかけには一切反応がない。まるで魂だけが抜け落ちてしまったみたいだ』
 親から聞かされた言葉を反芻する。まさに、その通りだった。
 覚悟していたつもりだったが、実際に目にすると、ショックは何倍にも跳ね上がった。
 光太は真弘の隣に腰をおろし、いっしょに窓の外を見た。天陽山が夕日に照らされ、オレンジ色に染まっている。
「真弘。勇斗な、今異世界にいるんだ。冗談じゃなく、ほんとだぞ?」
 おちゃらけた口調で話しかけるも、声はどこか震えていた。
「でさ、代わりに勇斗そっくりのアルトってやつが今この世界にいてさ。そいつが勇斗の代わりをやってんだけど、これがまぁ、めちゃくちゃなやつで」
 光太は苦笑いを浮かべる。
「元の世界に戻るため必死になってるんだけどな、全然手掛かりが見つからないみたいで。さて、どうしたもんかねぇ」
 返事はない。真弘はただ黙ったままだ。
 そのとき、一羽の黒い鳥が窓の外を横切った。
「カラスか。あ、そうだ、カラスっていえばさ、覚えてる? 二人でカラスにいじめられていたトビを助けた日。あの日の夜、家の窓際にこのお守りが置いてあったんだよな」
 光太は、首からぶら下げた白いお守りをそっと見せた。
 だが、真弘の視線は何一つ変わらなかった。
「あ、う――」
 言葉がつまる。やがて、涙が静かに頬を伝った。
 静かな病室に、時間だけが流れていく。
「面会時間、もう終わりよ」
 背後から声がして、光太ははっとした。もう三十分が経ったらしい。
「――じゃあな、また来るわ」
 鼻水をすする。肩に鞄をかけて立ち上がると、真弘に背を向けた。
 少し歩くと、棚の上に置いてある鏡が目に入った。
 鏡には、真弘の後ろ姿が映り込んでいる。
 ――真弘、お前、今どこにいるんだよ。
 ぴくっと、真弘の肩がわずかに動いたような気がした。
 ◆
 ソーマは鼻歌を口ずさみながら、石造りの回廊を歩いていた。氷の中に閉じ込められた勇斗の左腕を、大切そうに胸元に抱えている。
 魔神の居城に足を踏み入れるのは、復活してから初めてのことだった。
 あの頃と同じだ。黒曜石のような床、歪んだ柱、赤黒く脈打つ壁、肌を刺す熱気。いたるところに禍々しい瘴気が満ちているのに、それが妙に落ち着く。
 変わったのは、自分の容姿だ。
 ソーマは血に染まったゴシックドレスに目を落とす。
「だいぶ汚れましたわね。孤児院のおばさまには悪いけど、この服は処分しちゃいましょう」
 それに、お風呂にも入りたい。さすがに血を浴びすぎた。髪の毛もベトベトだし。
 そんなことを考えながら、巨大な黒鉄の扉を魔法でこじ開ける。
 広間へと足を踏み入れた瞬間、ソーマの足がぴたりと止まった。
「よぅ、ご機嫌だな」
 両腕を組み、壁にもたれかかった竜人型の魔族が、唸るような低音を響かせた。
「あら、どなたかと思えば、黒トカゲさんじゃありませんこと」
「誰がトカゲだ。オレ様にはギナスっていう名前があんだよ」
 ギナスは口元から葉巻を引き抜き、無造作に紫煙を吐き出す。
 ソーマは眉をひそめた。煙の吐き方が下品だ。ユートと全然違う。
「お前だろ? カルント山でオレ様の邪魔をしたやつは」
「そうですけど、それが何かしら?」
「獲物を横取りするなんて、卑怯だと思わねぇのか?」
「ユートはわたくしのもの。野蛮なトカゲに渡すわけないでしょう?」
 ソーマはうっとりと氷漬けの左腕を眺めた。
 ケッ、とギナスが短く発した。
「その腕、あいつのだろ? ちゃんと殺したのか?」
「さぁ、どうでしょうね。うふふ」
 あれくらいで死なれたら困る。もっと、もっと可愛がりたいのだから。完全に壊れるその瞬間まで――
「食えねぇ女だぜ」
「それはそうと、わたくしたちの新しい主の様子はいかが?」
「あぁ、あの野郎のことか」
「主に対して、あの野郎は失礼ですわよ?」
「オレ様は今のご主人サマが気に入らないんだよ。中途半端さに、どうにもムズムズしちまう」
「あなたの主観なんてどうでもいいですのよ」
「チッ、なら自分で見に行けよ。このババア」
「あらあら、お口が達者なことで。言われなくても、そうさせていただきますわ。その前にお風呂に入りますけど」
 勝手にしやがれ、とギナスが呟いた。
 ソーマは、鼻歌を再開した。
 数歩進んだところで、思い出したように振り返る。
「あ、そうですわ」
「何だ、まだ何かあるってのか? オレ様はスマートじゃねぇやつは嫌いなんだ。さっさと消えやがれ」
「ミュールさん、死んでませんわよ」
「――あぁ?」
 ギナスは怪訝そうに顔を歪めた。
「うふふふふふ」
 ◆
 魔神の居城、最深部。
 光も音も届かぬ暗黒の空間に、玉座が鎮座している。
 玉座の上に腰掛ける影――全身を漆黒の甲冑で覆った魔神は、重く閉ざされた兜の奥で、両目をぎらりと見開いた。
 己は、何者なのか。
 なぜ、この場所にいるのか。
 わからない。
 だが、なすべきことは明確だった。
 圧倒的な力による、世界の支配。
 それだけが、この身に刻まれた使命。
 最初は混乱していた。訳がわからぬまま、この世界をさまよっていた。
 だが、ある日、己の力に気づいた。
 魂の叫びを喰らい、怨念すら実体に変える力。理をねじ伏せ、魔を従わせ、死者すら屈服させる力。
 配下が増えるたび、孤独は薄れていった。喉奥を満たすような充足感が、心に広がった。
 魔神は、視線を玉座の横に向けた。
 そこに、一頭の飛龍がいた。真紅の鱗に覆われ、巨大な翼を畳んで身を伏せている。
 ゆっくりと手を伸ばす。漆黒の籠手に包まれた指が、赤い飛龍の頭頂部をそっと撫でた。
 飛龍は目を細め、のどを鳴らすような低い唸りを漏らす。
 魔神は、深呼吸をした。
 この満たされた感覚を、誰にも壊されたくはない。
 壊してくるとすれば、誰だ?
 思考の闇に、ひとつの光が差し込む。
 黄金色に輝く鎧をまとう、あの少年。
 ――勇斗。
 その名を思い浮かべた瞬間、胸の奥がざわつく。
 痛みのような、懐かしさのような、名もなき波紋が広がる。
 だが、それも、もう遠い。
 過去の記憶は、霧の中に沈みゆく。
 名前も、感情も、日常の記憶も。すべて、黒に染まっていく。
 もう、戻れない。
 心と身体は、闇の底へと完全に堕ちる。
 魔神は、そっと瞳を閉じた。