幕間
ー/ー ソーマは鼻歌を口ずさみながら、石造りの回廊を歩いていた。氷の中に閉じ込められた勇斗の左腕を、大切そうに胸元へ抱いている。
魔神の居城に足を踏み入れるのは、復活してから初めてだった。
あの頃と同じだ。黒曜石のような床、歪んだ柱、赤黒く脈打つ壁、肌を刺す熱気。いたるところに禍々しい瘴気が満ちている。それなのに、不思議と心が落ち着く。
変わったのは、自分の容姿だけだ。
ソーマは血に染まったゴシックドレスへ目を落とした。
「だいぶ汚れましたわね。孤児院のおばさまには悪いけど、この服は処分しちゃいましょう」
それに、お風呂にも入りたい。さすがに血を浴びすぎた。髪もべたついて気持ちが悪い。
そんなことを考えながら、巨大な黒鉄の扉を魔法でこじ開ける。
広間へ足を踏み入れた瞬間、ソーマの足がぴたりと止まった。
「よぅ、ご機嫌だな」
両腕を組み、壁にもたれかかった竜人型の魔族が、唸るような低音を響かせた。
「あら、どなたかと思えば、黒トカゲさんじゃありませんこと」
「誰がトカゲだ。オレ様にはギナスって名前があんだよ」
ギナスは口元から葉巻を引き抜き、無造作に紫煙を吐き出した。
ソーマは眉をひそめる。煙の吐き方が下品だ。ユートと全然違う。
「お前だろ? カルント山でオレ様の邪魔をしたやつは」
「そうですけど、それが何かしら?」
「獲物を横取りするなんて、卑怯だと思わねぇのか?」
「ユートはわたくしのもの。野蛮なトカゲに渡すわけないでしょう?」
ソーマはうっとりと、氷漬けの左腕を眺めた。
ケッ、とギナスが短く吐き捨てる。
「その腕、あいつのだろ? ちゃんと殺したのか?」
「さあ、どうでしょうね。うふふ」
あれくらいで死なれては困る。もっと、もっと可愛がりたいのだから。完全に壊れる、その瞬間まで。
「食えねぇ女だぜ」
「それはそうと、新しい主のご様子はいかが?」
「あぁ、あの野郎のことか」
「主に対して、あの野郎は失礼ですわよ?」
「オレ様は今のご主人サマが気に入らねぇんだよ。中途半端さに、どうにもムズムズしちまう」
「あなたの主観なんてどうでもいいですのよ」
「チッ。なら自分で見に行けよ、このババア」
「あらあら、お口が達者なことで。言われなくても、そうさせていただきますわ。その前にお風呂へ入りますけど」
勝手にしやがれ、とギナスが吐き捨てた。
ソーマは鼻歌を再開する。
数歩進んだところで、思い出したように振り返った。
「あ、そうですわ」
「何だ、まだ何かあるってのか? オレ様はスマートじゃねぇやつが嫌いなんだ。さっさと消えやがれ」
「ミュールさん、死んでませんわよ」
「あぁ?」
ギナスは怪訝そうに顔を歪めた。
ソーマは喉の奥で、くすくすと笑った。
◆
魔神の居城、最深部。
光も音も届かぬ暗黒の空間に、玉座だけが静かに据えられていた。
その上に腰掛ける影――全身を漆黒の甲冑で覆った魔神は、兜の奥で両目をぎらりと見開く。
己は何者なのか。
なぜ、この場所にいるのか。
わからない。
だが、なすべきことだけは明確だった。
圧倒的な力で世界を支配すること。
それだけが、この身に刻まれた使命だった。
最初は混乱していた。何もわからぬまま、この世界をさまよっていた。
だが、ある日、己の力に気づいた。
魂の叫びを喰らい、怨念すら実体へ変える力。理をねじ伏せ、魔を従わせ、死者すら屈服させる力。
配下が増えるたび、孤独は薄れていった。喉奥を満たすような充足感が、心の奥までゆっくりと広がっていく。
魔神は視線を玉座の傍らへ向けた。
そこには一頭の飛龍がいた。真紅の鱗に覆われた巨体を伏せ、巨大な翼を静かに畳んでいる。
魔神はゆっくりと手を伸ばした。漆黒の籠手に包まれた指先が、赤い飛龍の頭頂をそっと撫でる。
飛龍は目を細め、のどを鳴らすような低い唸りを漏らした。
魔神は、静かに息を吸う。
この満たされた感覚を、誰にも壊されたくはない。
壊してくるとすれば、誰だ?
思考の闇に、ひとつの光が差し込んだ。
黄金色に輝く鎧をまとう、あの少年。
――勇斗。
その名を思い浮かべた瞬間、胸の奥がざわついた。
痛みのような、懐かしさのような、名づけようのない波が広がる。
だが、それももう遠い。
過去の記憶は霧の中へ沈み、輪郭を失っていく。
名前も感情も日常の記憶も、すべて黒に染まっていく。
もう、戻れない。
心も身体も、闇の底へと完全に堕ちていく。
魔神は、そっと瞳を閉じた。
魔神の居城に足を踏み入れるのは、復活してから初めてだった。
あの頃と同じだ。黒曜石のような床、歪んだ柱、赤黒く脈打つ壁、肌を刺す熱気。いたるところに禍々しい瘴気が満ちている。それなのに、不思議と心が落ち着く。
変わったのは、自分の容姿だけだ。
ソーマは血に染まったゴシックドレスへ目を落とした。
「だいぶ汚れましたわね。孤児院のおばさまには悪いけど、この服は処分しちゃいましょう」
それに、お風呂にも入りたい。さすがに血を浴びすぎた。髪もべたついて気持ちが悪い。
そんなことを考えながら、巨大な黒鉄の扉を魔法でこじ開ける。
広間へ足を踏み入れた瞬間、ソーマの足がぴたりと止まった。
「よぅ、ご機嫌だな」
両腕を組み、壁にもたれかかった竜人型の魔族が、唸るような低音を響かせた。
「あら、どなたかと思えば、黒トカゲさんじゃありませんこと」
「誰がトカゲだ。オレ様にはギナスって名前があんだよ」
ギナスは口元から葉巻を引き抜き、無造作に紫煙を吐き出した。
ソーマは眉をひそめる。煙の吐き方が下品だ。ユートと全然違う。
「お前だろ? カルント山でオレ様の邪魔をしたやつは」
「そうですけど、それが何かしら?」
「獲物を横取りするなんて、卑怯だと思わねぇのか?」
「ユートはわたくしのもの。野蛮なトカゲに渡すわけないでしょう?」
ソーマはうっとりと、氷漬けの左腕を眺めた。
ケッ、とギナスが短く吐き捨てる。
「その腕、あいつのだろ? ちゃんと殺したのか?」
「さあ、どうでしょうね。うふふ」
あれくらいで死なれては困る。もっと、もっと可愛がりたいのだから。完全に壊れる、その瞬間まで。
「食えねぇ女だぜ」
「それはそうと、新しい主のご様子はいかが?」
「あぁ、あの野郎のことか」
「主に対して、あの野郎は失礼ですわよ?」
「オレ様は今のご主人サマが気に入らねぇんだよ。中途半端さに、どうにもムズムズしちまう」
「あなたの主観なんてどうでもいいですのよ」
「チッ。なら自分で見に行けよ、このババア」
「あらあら、お口が達者なことで。言われなくても、そうさせていただきますわ。その前にお風呂へ入りますけど」
勝手にしやがれ、とギナスが吐き捨てた。
ソーマは鼻歌を再開する。
数歩進んだところで、思い出したように振り返った。
「あ、そうですわ」
「何だ、まだ何かあるってのか? オレ様はスマートじゃねぇやつが嫌いなんだ。さっさと消えやがれ」
「ミュールさん、死んでませんわよ」
「あぁ?」
ギナスは怪訝そうに顔を歪めた。
ソーマは喉の奥で、くすくすと笑った。
◆
魔神の居城、最深部。
光も音も届かぬ暗黒の空間に、玉座だけが静かに据えられていた。
その上に腰掛ける影――全身を漆黒の甲冑で覆った魔神は、兜の奥で両目をぎらりと見開く。
己は何者なのか。
なぜ、この場所にいるのか。
わからない。
だが、なすべきことだけは明確だった。
圧倒的な力で世界を支配すること。
それだけが、この身に刻まれた使命だった。
最初は混乱していた。何もわからぬまま、この世界をさまよっていた。
だが、ある日、己の力に気づいた。
魂の叫びを喰らい、怨念すら実体へ変える力。理をねじ伏せ、魔を従わせ、死者すら屈服させる力。
配下が増えるたび、孤独は薄れていった。喉奥を満たすような充足感が、心の奥までゆっくりと広がっていく。
魔神は視線を玉座の傍らへ向けた。
そこには一頭の飛龍がいた。真紅の鱗に覆われた巨体を伏せ、巨大な翼を静かに畳んでいる。
魔神はゆっくりと手を伸ばした。漆黒の籠手に包まれた指先が、赤い飛龍の頭頂をそっと撫でる。
飛龍は目を細め、のどを鳴らすような低い唸りを漏らした。
魔神は、静かに息を吸う。
この満たされた感覚を、誰にも壊されたくはない。
壊してくるとすれば、誰だ?
思考の闇に、ひとつの光が差し込んだ。
黄金色に輝く鎧をまとう、あの少年。
――勇斗。
その名を思い浮かべた瞬間、胸の奥がざわついた。
痛みのような、懐かしさのような、名づけようのない波が広がる。
だが、それももう遠い。
過去の記憶は霧の中へ沈み、輪郭を失っていく。
名前も感情も日常の記憶も、すべて黒に染まっていく。
もう、戻れない。
心も身体も、闇の底へと完全に堕ちていく。
魔神は、そっと瞳を閉じた。
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