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僕と隣人さん

ー/ー



「今日はここまで」と僕は教科書を閉じて目の前で一生懸命に文字を書いてる人物を見つめる。

 その人が教養を学ぶ姿は実に真剣で、僕より……ましてや同級生よりも短時間で集中して頭に入れ込んでいるのではないだろうか。

「わからないところとか、ありますか」
「ううん、大丈夫。ありがとう。今日も教えてくれて」
「……僕なんかの教えで、いいんですか。もっと本格的に学びたいのだったら、それこそ学ぶところとかありそうですけど」
「はは、まあね。でも多分、教えてくれるのはきっと君だけだろうから」

 中学生の範囲のものを頑張って学んでいる大人。僕は、ただ学校で習ったものを彼に教えているだけだった。過去に碌に勉強してこなかったんだ、と言っていたけど。今の状況を見る限り、学ぶことは好きそうなのに。

 教材としては特に〝社会〟に興味を持っていた。「俺が知らない世界をたくさん知ることができる」って喜んでいた。大人なのに僕より全然知らないことが多いから、知識としては僕の方が上。でも学びたいという意欲がとても強いからそのうち僕をグングン追い抜いていってしまうかもしれない。

 彼は僕が住むアパートの隣の人だった。
 たまたま居合わせて、挨拶して。容姿端麗な人だな、というのが率直な感想だった。

 その程度の関係だと思ったのに、僕が学校から帰る時間と彼が出かける時間は被るようで毎日顔を合わせていた。そこから「勉強を教えて欲しい」と頼まれた。それも、「読み書き出来るようになりたい」って。

 突然で驚いて、僕も直ぐには即答出来なくて。一旦持ち帰って母に聞いてみた。だって僕より全然大人なのに、僕より知識が無いってことだから。

 母は暫く考えた後「わたしが家にいる時間帯ならいいわ」と許可してくれ、毎週日曜日に僕の家に招いて教えるようになった。

 驚いたのはある程度の平仮名はかけても漢字が書けない、読めないこと。だから中学生の教材から家にあった小学校の教科書を引っ張り出して、国語の文章を読み書きして、たくさんの言葉を覚えさせて。言語が増えてから理科や算数、社会と範囲を広げていった。

 学ぶようになってから、気怠げだった彼の雰囲気はどんどん生き生きしているように感じる。きっと楽しい時間なのだろう。僕も、そんな気持ちで授業を受けることが出来たら毎日学校が楽しくなるかもしれないのに。

 ただ教えるだけでは僕にメリットが無いから勉強した後の時間は〝一緒に遊ぶこと〟を条件としていた。僕の家にはボードゲームがたくさん置いてあり、時には母を交えて三人で遊んでいた。

 これまた不思議だったのは、彼が遊び方を全く知らないということだった。僕や母が遊び方を一から教えて、実践して、まるで初めて遊んだ少年のように大はしゃぎする彼を見るのはとても新鮮で「きっと若い頃から働き詰めだったのだろう」なんて考えていた。

「色々知識を与えてくれて、自分のことを考えるようになって、気付いたことがあるんだ」
「何ですか」
「……俺が、今まで教養に触れてこなかった理由」

 筆記用具を片付けながら、彼はふと呟く。何か見つかったのかと前のめりになって尋ねてみれば、苦笑して俯いた。

「社会というものを学んで気付いちゃった」

 彼の表情は浮かない。なんか、もしかしたら。僕が聞いていい言葉なのか少し不安になった。「大事な話だったら、母さん呼んできますけど」と伝えれば「いいんだ。でも、出来たら……少し、苦しみを共有してもいい?」なんて質問をされた。

 どうしてこんなことを聞くのだろう。いつもわからないことは質問して欲しいとは言っているけれど。なんだか。次に発せられる言葉は、僕にはキャパオーバーな予兆がしてならない。

 でも気になってしまう。彼自身が気付いてしまった苦しみを、僕に分けてくれようとしてくれる気持ちに応えたかった。恐る恐る頷けば、彼は「ありがとう」と呟いてから僕を見て。静かに呟く。

「……小さい頃に大人に蔑ろにされてたのも、俺が今してる仕事も誇れるものではないって知ったのも、全部君が教えてくれた」
「そ、う……なんですか」
「うん。みんなが当たり前に持っているものを、俺は持っていなかった。例えば、このカードとか」

 教科書にイメージとして載っている保険証。それから住民票。心臓がドクドクと煩くなっていく。大丈夫だろうか。僕は、うけとめきれられ──

「……無戸籍なんだ。俺」

 ひゅっ、と声が漏れてしまった。習ったばかりだから、意味はわかる。出生届を出されずに国に存在しない人間になっている人。まさか目の前の彼が。そして知識を与えたことできっと彼も最近気付いて。

「……どうすれば、いいんだろう」

 静かに聞いてくる彼に、僕は何も言えなかった。僕だって中学生だから、全てを知っているわけではない。だから。今出来ることは。

「……一緒に、考えましょう。きっと戸籍を持つことが出来る。母さんにも伝えてみよう」

 だってもう一人じゃないから。


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「今日はここまで」と僕は教科書を閉じて目の前で一生懸命に文字を書いてる人物を見つめる。
 その人が教養を学ぶ姿は実に真剣で、僕より……ましてや同級生よりも短時間で集中して頭に入れ込んでいるのではないだろうか。
「わからないところとか、ありますか」
「ううん、大丈夫。ありがとう。今日も教えてくれて」
「……僕なんかの教えで、いいんですか。もっと本格的に学びたいのだったら、それこそ学ぶところとかありそうですけど」
「はは、まあね。でも多分、教えてくれるのはきっと君だけだろうから」
 中学生の範囲のものを頑張って学んでいる大人。僕は、ただ学校で習ったものを彼に教えているだけだった。過去に碌に勉強してこなかったんだ、と言っていたけど。今の状況を見る限り、学ぶことは好きそうなのに。
 教材としては特に〝社会〟に興味を持っていた。「俺が知らない世界をたくさん知ることができる」って喜んでいた。大人なのに僕より全然知らないことが多いから、知識としては僕の方が上。でも学びたいという意欲がとても強いからそのうち僕をグングン追い抜いていってしまうかもしれない。
 彼は僕が住むアパートの隣の人だった。
 たまたま居合わせて、挨拶して。容姿端麗な人だな、というのが率直な感想だった。
 その程度の関係だと思ったのに、僕が学校から帰る時間と彼が出かける時間は被るようで毎日顔を合わせていた。そこから「勉強を教えて欲しい」と頼まれた。それも、「読み書き出来るようになりたい」って。
 突然で驚いて、僕も直ぐには即答出来なくて。一旦持ち帰って母に聞いてみた。だって僕より全然大人なのに、僕より知識が無いってことだから。
 母は暫く考えた後「わたしが家にいる時間帯ならいいわ」と許可してくれ、毎週日曜日に僕の家に招いて教えるようになった。
 驚いたのはある程度の平仮名はかけても漢字が書けない、読めないこと。だから中学生の教材から家にあった小学校の教科書を引っ張り出して、国語の文章を読み書きして、たくさんの言葉を覚えさせて。言語が増えてから理科や算数、社会と範囲を広げていった。
 学ぶようになってから、気怠げだった彼の雰囲気はどんどん生き生きしているように感じる。きっと楽しい時間なのだろう。僕も、そんな気持ちで授業を受けることが出来たら毎日学校が楽しくなるかもしれないのに。
 ただ教えるだけでは僕にメリットが無いから勉強した後の時間は〝一緒に遊ぶこと〟を条件としていた。僕の家にはボードゲームがたくさん置いてあり、時には母を交えて三人で遊んでいた。
 これまた不思議だったのは、彼が遊び方を全く知らないということだった。僕や母が遊び方を一から教えて、実践して、まるで初めて遊んだ少年のように大はしゃぎする彼を見るのはとても新鮮で「きっと若い頃から働き詰めだったのだろう」なんて考えていた。
「色々知識を与えてくれて、自分のことを考えるようになって、気付いたことがあるんだ」
「何ですか」
「……俺が、今まで教養に触れてこなかった理由」
 筆記用具を片付けながら、彼はふと呟く。何か見つかったのかと前のめりになって尋ねてみれば、苦笑して俯いた。
「社会というものを学んで気付いちゃった」
 彼の表情は浮かない。なんか、もしかしたら。僕が聞いていい言葉なのか少し不安になった。「大事な話だったら、母さん呼んできますけど」と伝えれば「いいんだ。でも、出来たら……少し、苦しみを共有してもいい?」なんて質問をされた。
 どうしてこんなことを聞くのだろう。いつもわからないことは質問して欲しいとは言っているけれど。なんだか。次に発せられる言葉は、僕にはキャパオーバーな予兆がしてならない。
 でも気になってしまう。彼自身が気付いてしまった苦しみを、僕に分けてくれようとしてくれる気持ちに応えたかった。恐る恐る頷けば、彼は「ありがとう」と呟いてから僕を見て。静かに呟く。
「……小さい頃に大人に蔑ろにされてたのも、俺が今してる仕事も誇れるものではないって知ったのも、全部君が教えてくれた」
「そ、う……なんですか」
「うん。みんなが当たり前に持っているものを、俺は持っていなかった。例えば、このカードとか」
 教科書にイメージとして載っている保険証。それから住民票。心臓がドクドクと煩くなっていく。大丈夫だろうか。僕は、うけとめきれられ──
「……無戸籍なんだ。俺」
 ひゅっ、と声が漏れてしまった。習ったばかりだから、意味はわかる。出生届を出されずに国に存在しない人間になっている人。まさか目の前の彼が。そして知識を与えたことできっと彼も最近気付いて。
「……どうすれば、いいんだろう」
 静かに聞いてくる彼に、僕は何も言えなかった。僕だって中学生だから、全てを知っているわけではない。だから。今出来ることは。
「……一緒に、考えましょう。きっと戸籍を持つことが出来る。母さんにも伝えてみよう」
 だってもう一人じゃないから。