「魯提轄、し、しばしお待ちを!」
冷や汗を滲ませたその剣幕に思わず椅子を手放した魯達が見ていると、慌てて階段を駆け下りた金老人は、階下に集まっていた男たちの中で一際目立つ、美しい衣を纏って威厳を湛えた馬上の男に何やら早口でまくし立てた。
すると奇妙なことに、男は大笑いして馬から下りると、周りに集っていた二、三十人の男たちを手の一振りで追い払い、聡明そうな瞳をきらめかせて魯達を見上げた。
「なんだ、あのお偉いさんは」
いぶかしげに男を睨みつけていると、金老人が「恩人様!」と魯達を手招く。
「行きましょう、恩人様」
翠蓮までもが何やらおかしげなに頬を緩ませていて、魯達はいまいち事態を飲み込めぬままに階段を下りる。そうすればさらに妙なことに、先ほどの立派な男が、魯達の姿を見るなり地べたにがばりと平伏し、何度も拝礼をするのだ。
「な、なんだ、一体?」
「百聞は一見にしかずとは、かの
趙充国の言葉がまさにこのこと。あなた様こそ義にあつき好漢、魯提轄殿とは知らず、無礼な真似をいたしました。どうか拝礼をお受けください」
「あいや、こりゃまたご丁寧に……な、なあおやじ、この立派なお方はいったいどなただ? 会ったこともない俺のような男に向かって、どうしてこんなに平伏なさるんだ?」
金老人は、目尻に皺を寄せて微笑んだ。
「このお方こそが、翠蓮を娶り、我々父娘を救ってくださった、趙員外様にございます」
「や、なんと!」
「先ほどは、私がどこぞの若い男を引き入れて娘に引き合わせていると勘違いなさり、従者の方々を連れて殴り込みに来られたのです。私がわけをお話しいたしましたので、こうして大事にいたらずに」
「はは、そういうことだったか! そうとなれば員外殿、そんなふうに拝礼をせんでください」
魯達はあわてて趙員外の腕を引いて立たせたが、それでもなお彼は仏でも拝むかのように頭を下げる。
「魯提轄殿、そうは参りません。あなた様こそ我が妻、翠蓮を救ってくださった生き神様。感謝してもしきれぬ」
「まったく、親子だけかと思えば旦那のあんたまでこうもぺこぺこ俺をありがたがるとは。俺のほうこそ、翠蓮は妹分のようなもんだからな。あんたがこの娘を大切にしてくれているだけでありがたいさ。ほら、顔をあげてくれ」
ようやく拝礼をやめた趙員外は、なかなかの美男。なんとも人のよさそうな顔をしており、聡明な眉目と整えられた髭が、ひとかどの人物であろうことを思わせた。これで財を持ち、義にも通じているというのだから、翠蓮はなんともいい夫を持ったものだ。
「翠蓮、義父殿、こうして提轄殿と出会えたのも何かの御縁。改めて酒席を設けてもてなしたい故、支度を頼みたい」
「かしこまりました」
大層な喜びようの趙員外に抗えぬまま再び二階に戻れば、彼ほどの男がなんと、魯達に上座を勧めてくる。地元ではいばっていた魯達とて、人の上下はわきまえているつもりだ。
「員外殿、そりゃいかん。ここはあんたと翠蓮の屋敷だ、あんたが上座に座ってください」
「いいえ、提轄殿、これは私の敬意のしるしなのです。義父殿や翠蓮があなた様のことをお話しするたび、どれだけお会いしたいと思っていたか……この幸運に、感謝をしたいのです」
「あの父娘が何を言ったか知らんが、俺はただの乱暴者。それに今となっては人を殺して死罪まで負った身だ。それでもあんたがかまわんというなら、俺はなんでもするし、喜んで上座に着こう」
それを聞いた趙員外は大喜びし、さっそく翠蓮たちも呼び寄せ四人で卓を囲むと、魯達が鎮関西の鄭を殴り殺した話に目を輝かせ、道中の面白おかしい話に笑い声をあげ、槍棒術の話に熱弁をふるった。
趙員外は魯達と違い武の人ではなかったが、何を学ぶにも熱心なようで、真剣になって魯達の語り口を聴く眼差しは、どこか好漢のそれを思わせるのだった。
そうこうしているうちにすっかり夜も更け、金老人が船をこぎだしたのを見て、趙員外はようやく小間使いたちに酒食を下げさせた。
「魯提轄殿、私は考えたのですが……この街中の屋敷にいては、御身が危ないかもしれぬ。どうです、今日は私と一緒にここに泊まり、明日からは私の屋敷でゆっくりされては?」
趙員外がそう言った刹那、翠蓮が静かに立ち上がり、父親を小突き起こして寝室へと連れていくため客間を出ていく。それを横目に、魯達は乗り気で尋ねた。
「確かに、ここじゃいくら街はずれといっても人目につくし、金父娘にも迷惑がかかる。あんたの屋敷はどこにあるんだい?」
「ここから十里ほど離れた、
七宝村という場所にございます」
「そりゃあいい。あんたさえよければ、明日からはそっちへご厄介になるとしよう」
「決まりですな」
上機嫌な趙員外に連れられ寝室へと移ろうとした時、ふと、どこか遠くで小さな泣き声を聞いた気がして魯達は部屋を見回した。
だが先ほどと変わったことと言えば、一輪の秋海棠が、静かに床に横たわっていたことだけであった。
翌朝、食事を済ませた魯達は、名残惜し気な金父娘に見送られ、趙員外の連れてきた立派な馬に乗って七宝村へとやってきた。
趙員外の屋敷は、田舎の静かな村にはもったいないほどの豪奢な邸宅だったが、決して華美に過ぎず、粗野な魯達ですらその品格に感じ入るほどであった。
おまけに趙員外は格別に魯達をもてなし、毎日の酒食を用意するばかりか、表立って出歩けない魯達に代わって下男にこまごまとした買い物をさせたり、逃亡の最中にすっかり汚れてくたびれてしまった衣や草鞋を新しいものに取り換えた。
確かに金父娘のことを助けはしたが、その夫に、しかも名のある員外に、ここまでされるとかえって魯達もなにやらこそばゆいものを感じてしまう。こうまでしてもらっては、と遠慮をするのだが、そのたびに趙員外は金父娘の名を出し感謝の言葉を述べるのだった。
「つらいことがたくさんあったでしょうに、翠蓮はいつも笑顔を絶やさぬのです。そして口癖のように、あなたと泣かぬと約束したのだ、と言っておりました。あなたは彼女の心をもお救いになった。誰にでもできることではありません」
「よくわからんが、あんたたちが幸せそうならそれでいいさ。俺は、女がめそめそ泣いているのを見るのが嫌なんだ」
幼いころ、そんな光景にさんざ悩まされたのだ。それに、渭州で別れた時も、代州の屋敷で別れた時も、思い出すのは晴れ晴れと微笑んでいた顔だ。別れ際を思い出すたび浮かぶのが泣き顔では、いつまでも心配になってしまう。
だが、そんな金父娘との別れを懐かしむ暇もなく、数日後に再び魯達は、金老人の顔を見ることとなった。
「義父殿、いったい何があったのです」
息を切らしながら屋敷に通された金老人の、ただならぬ様子を感じ取った趙員外は、人払いをさせて魯達とともに部屋の奥へと引っ込んだ。
「旦那様、恩人様、実は……先日、私どもの屋敷の二階で恩人様をもてなしていたとき、旦那様が人の知らせを聞き違えてひと騒ぎ起こしましたでしょう。あのとき、騒ぎがあまりにもすぐに静まったもので、街の者たちが不審がって噂をたてているようでして……昨日も、屋敷のまわりを役人様が三、四人、聞き込みをしてまわっていたようです。我らもなんとか隠し通すつもりではおりますが、ここまで手がまわるのも、もはや時間の問題かと……」
「何? それはいかん!」
太鼓腹を揺らして立ち上がった魯達の大音声に、趙員外と金老人がびくりと肩を揺らす。
「こうしちゃおれん、このままここにおれば、員外殿とあんたたち父娘に危害が及ぶ。俺はすぐにここを出ていくから、安心せい」
「お、お待ちください提轄殿! まずは落ち着いて」
趙員外に腕を引かれ、魯達はしぶしぶ椅子に腰かける。
「だが、あまり悠長なことはしておれんぞ」
「ええ、わかっておりますとも。ですが義父殿の話を聞けば、そも疑われた原因は、私があのように勘違いして騒ぎ立てたが故。お引き留めしたいが、そうすれば追手がやってきて面倒なことになり、貴方様に恨まれましょう。そして私に責がある以上、お引き留めしなければ私の顔も立たぬ。そこで、ここ数日、私が考えていたことがあるのです」
まるでその言葉を誰かに聞かれるのを恐れるかのように、趙員外は声をひそめ、魯達と金老人と額を合わせた。
「この方法ならば、提轄殿は間違いなく安全な身の上となります。ただ、ご承知されるかどうか……」
「ふん、俺は死罪の追われ者。鄭なんかのために命を落とすのが癪なだけで、死ぬことなどなにも怖くはない。それが、安全に身を置ける場所があるというのなら、拒むことなどありえんぞ」
「ああ、その言葉を聞いて、安心いたしました。実は……」
わずかばかり言い澱んだ後、趙員外が夕暮れに沈む窓の外を指さす。魯達がそちらに目を向ければ、はるか向こうには、晩秋にも関わらず青々とした山並みが続いていた。
「ここから三十里ほど行ったあの山は、
五台山という山でございます。その山頂には文珠院という寺があり、もとは文殊菩薩の道場だったのですが、大変霊験あらたかなこの寺には五、六百名ほどの僧侶がおります。その筆頭である
智真長老という方は、私とは兄弟のような仲。私の先祖が文珠院に喜捨をしたことから、私も施主ということになっております。以前より、私は誰かをここに出家させ功徳を積み、長老への御恩返しをしたいと思っておりまして、度牒も買っておいたのです。ただ、どうにもこれはという人に巡り合えず、そのままになっておりました。もし……もし、魯提轄殿がご承知くださるならば、費用や支度の一切は私が準備しますので、剃髪して文珠院に出家されませんか」
思いも寄らぬ趙員外の言葉に、迫る危機も忘れ、魯達はぎょろりとした目をぱちくりさせた。
「俺が、出家?」
確かに、寺に入り髪を剃ってしまえば、一切の罪は問われず、役人の手からは逃れられるだろう。出家の生活など人並みのことしか想像が及ばないが、命からがら逃げまわるよりは、悪くはなさそうだ――生臭物を飲み食いできないことを除いては、だが。
「まあ、そこはどうにでもなるだろう」
「提轄殿?」
「あいや、こっちの話だ。なに、どうせこの先あんたたち以外に頼るあてはないんだ。員外殿が世話してくれるなら、寺でそうひどい扱いも受けまい。喜んで坊主になってやろうじゃないか」
魯達はぼりぼりと髭をかきむしり、にやりと笑った。この自分が、槍や棒や拳を振り回し、酒と肉を愛し、今となっては人殺しの罪まで犯した己が坊主になるとは、なんとも奇妙な巡り合わせではないか。史進や李忠が知ったら、何というだろうか。
「そうと決まれば、すぐに支度をいたしましょう。提轄殿、もう少しお付き合いいただけますかな。衣服を見繕って、荷造りをせねばなりますまい」
「何から何まですみませんな、員外殿」
あわただしく小間使いたちを呼び寄せ始めた趙員外と金老人の背から、ふともう一度、窓の外に目をうつす。
出家の相談をしているうちにすっかり日の落ちた景色の中で、五台山の頂上に、怪しげな灯りが揺らめいていた。