「しかしまあ、なんとも立派な屋敷だ。趙員外殿とやらは、ひとかどの人物なのだな」
貧しい生まれの魯達には、勧められた椅子や茶の置かれた卓に使われている光り輝くような木の名前など分かりはしなかった。だが、仄かに漂う品の良い香りと座り心地から、よほどの高級な品であろうことは想像がついた。
部屋のあちこちにちりばめられた調度品の数々も、翠蓮の人となりに合わせたかのように慎ましやかで可憐な意匠のものが多いが、おそらく一つ一つをよく見れば、魯達が一生真面目に勤め上げても手の届かぬような豪奢な品なのだろう。
「こんな立派なお屋敷で暮らせることになったのも、恩人様のおかげでございます」
もう何度聞いたか分からぬ感謝の言葉を口にする翠蓮の淹れた茶を一口飲み、ふと、窓の外に目を向ける。
「翠蓮よ、そういえば、あの樹はいったい何という樹だ? 渭州でも、ここに来る道中でも、あんな色の花を咲かせる樹なんぞ見たことがなかった。それに、何やら香のような匂いがする」
「あれは、
丹桂という樹なのだそうです。本当はもっと南の方に育つ樹なのですが、旦那様がお庭を趣味にされていて、取り寄せられたのです。そして、私に似合うからと、ご自分のお屋敷から分けてくださって……秋になると、ああして橙の花が咲き、甘い香りをさせるのだそうですよ」
なるほど、秋の夕日に照らされる橙の淡い花は、翠蓮によく似合う。そういえば、着物の色も、あの丹桂だかという花の色に似ていた。
「この着物も、旦那様に仕立てていただきました」
魯達の視線に気が付いたのか、翠蓮が着物の袖をつまんで見せる。
「この、袖のところ……母の形見を端切れに使っていただいたんです。そのままだとどうしても、見栄えがよくありませんでしたから」
「どうりで、なにかその色に見覚えがあると思った。あの時お前が大事そうに抱えていた着物だったんだな」
魯達が覚えていたことに驚いたのだろう、翠蓮は目をぱちくりさせ、そして、さも幸せでたまらないというように、柔らかく笑った。
「ハハ、趙員外は、お前のことを大切にしているようだ。この幸せ者め」
頼りなく、不安げで、今にも消えそうだった娘がこうして花のような笑顔を浮かべているのを見ると、何やら妹か娘の幸せを喜んでいるような心地になる。
「恩人様も、花がお好きなのですか?」
「俺が草木を愛でるような男に見えるか? さっぱりわからんから、こうしてお前に聞いたのだ。ああ、だが」
ひっそりと卓の隅に置かれた花瓶から零れる、小さな薄紅の花を指さす。
「この、
秋海棠だけは知っているぞ。死んだ両親が育てていてな。酷い襤褸の家だったが、この花だけは毎年ちゃんと咲いたものだ。なかなか見応えがあったんで、それが珍しかったのか、俺の刺青を彫った同郷の爺さんは、牡丹のほかにこの秋海棠を、ほら、こうやって」
「恩人様、飯の支度ができましたぞ」
自慢の刺青をまさに今披露してやろうとした矢先、金老人が、食べきれぬほどの料理と酒を小間使いたちに運ばせて客間に戻ってきた。
「おお、待ちくたびれたぞ! 酒はあるんだろうな」
「もちろんでございますとも。趙員外様より賜った上酒をお持ちしました……これ、翠蓮、何をそっぽを向いておる?」
胡乱気な父の視線の先で、翠蓮はと言えば、薄紅のさした顔をそらして俯いている。
「ほら、料理が来たのだから、お前も並べるのを手伝いなさい」
「はい」
伏し目がちのまま立ち上がり、どこか困ったような薄い笑みを浮かべて魯達の前に皿を並べていく様は、何か卓上に飾られた小さな花に似ているな、と魯達は一人おかしみを覚えた。
大人しいのかと思えば毅然としていたり、静かに笑っていたかと思えば子供のように目を丸くしたり、どうにも若い娘の気分は己のような男には難解だ。それでも、ひとまず泣いてさえいなければ、魯達はそれでいいのだが。
「恩人様、今一度、拝礼をお受けくだされ」
「や、おやじ、そこまでせんでくれ。こちらが困るのだ」
そうこうしているうちに、山と料理を並べ終えた金老人が、魯達の足元に這いつくばって礼を始める。まったく親子そろって、律儀なことだ。
「いいえ、お聞きくだされ。こちらへ腰を落ち着けて以来、私ども父娘はあなた様を生き神様としてまつるため、紅位牌をつくり、毎朝毎晩、香を焚いては拝んでまいったのです。今日は、そのあなた様ご本人とこうして会えたのです、どうして拝まずにいられましょう」
「そこまでされては、悪い気はせんな。思いもかけず殺しの罪を犯してしまったとはいえ、元はあの鄭の豚野郎がお前たち父娘に仁義もなくひどい仕打ちをしていたのが悪いのだ。俺は悪を見過ごせぬ性分、それがたまたまこうなったまでのことよ。さあ、明日のことはまたあとで考えるとして、あんたたちも一緒に、酒を飲んでくれ」
魯達はなおもひれ伏す金老人を半ば強引に隣に座らせ、翠蓮もともに盃を交えながら、あの日の出来事や、互いに会わぬ間の四方山話に花を咲かせた。たった一人、見知らぬ土地を逃げ続けてきたこの半月で飢え渇いていた身体はすっかり潤い、久方ぶりに人目を気にせず気持ちのいい酒を飲んだ心は高揚する。まるであの日、史進や李忠と酒を酌み交わしたときのような――
「やい、出てこい、恥知らずめ!」
「何、もう追っ手が来たか」
ささやかな感激に浸っていた魯達の耳に、階下で己を罵る男たちの声が、突然潮のように押し寄せる。
「下衆を捕らえよ! 門を閉じて、逃がすなよ」
穏やかならぬ剣幕の怒声の正体を辿って窓から眼下を見やれば、二、三十人の男たちがこん棒や槍を振り回して屋敷を取り囲んでいる。
「ちっ、見たところ捕吏ではなさそうだ。賞金目当ての野郎どもだろうが、俺だけでなく金父娘にまで疑いをかけかねん……!」
ここまでくれば何人はったおして逃亡しようが同じこと、と魯達が太い腕で椅子を振り上げたその時。
「お、お待ちください恩人様! みなさんも、お待ちくだされ!」
目を白黒させた金老人が、魯達の前に身を乗り出し、階下の男たちに向かって手を振った。