あれは僕の奥さんじゃないという呪い
ー/ー結婚生活というものも10年ともなると、当初の恋人気分もとうに抜けて
さらに僕たちのように子供がいない夫婦となると、いつの頃からか、友達のような感覚で妻と接するようになっていく気がする。
子供の居る同僚にそんな話をしたところ、「友達というよりも子育てという戦場で戦う 戦友だな」という答えが返ってきた。
どちらにしても妻を女性として見ていないのが問題となってくる。
その証拠に、僕たちの寝室にあるのは、結婚当初に購入したキングサイズのベッドがある。
しかしベッドの中央を綺麗に分けるように置かれ、その隙間にナイトテーブルに各自の充電コードと、読みかけの本の山だ。
互いのテリトリーに踏み込まないという暗黙の了解が、いつしか僕たちの最も穏やかな生活ルールとなっていた。
僕の名前は、立花和也 36歳、大手出版社に勤めるサラリーマンだ。
妻のみゆきもまた、才能あるフリーのイラストレーターで売れっ子だ。
二人の馴れ初めは高校時代に遡る。お互いに意識しつつも特に進展はなく、そのまま卒業。大学時代は別々の道を歩んでいたが、運命のいたずらか、和也が編集を担当した書籍の挿絵を描いたのがみゆきだった。
それを機に付き合いが始まり、順調な交際を経て10年前に結婚。
しかし、結婚生活が長くなるにつれ、夫婦関係には次第に変化が訪れた。仕事に追われる日々、朝方まで仕事をこなすみゆきとの互いの時間のすれ違い、気づけば6年以上もセックスレスの状態だった。それでも仲が悪いわけではなく、表面上は穏やかな関係が続いていた。
そんなある日、米国の弁護士から届いた一通の手紙が二人の人生を大きく変える。
「みゆき、君あてに米国の弁護士から手紙が届いてるぞ」
夜に帰宅した僕が、マンションの郵便受けから持ってきた郵便物の中から、その手紙を見つけた。
「米国の弁護士? それって英語ってこと? 悪いけど読んでみてくれる?」
リビングのテーブルでノートパソコンに向かい仕事をしていた妻のみゆきが、パソコンを閉じ、夕食の支度にキッチンへと向かう。
「ああ 僕が開けて良いんだな?」
「英語でしょう?読めないし、お願い。今日はクリームシチューだけど、ライスがいい?パンがいい?」
「うーん パンがいいな、じゃあ読むよ」
食器棚の引き出しからハサミを取り出し、手紙の上部を丁寧に切る。
「SHINJIさんって君の叔父さん?」
「そうだね 亡くなった私の父のお兄さんだね」
「亡くなったそうだよ 亡くなったのは、1週間前で埋葬もすませているようだよ」
「ふ〜ん」
みゆきは特に動揺した様子もなく、玉ねぎを炒める手を止めなかった。
「そう言えば伸二叔父さんって、いい年をしてゲームばかりして親戚中の鼻つまみ者だったって聞いたことがあるんだけど…」
和也が言うと、みゆきは小さく頷いた。
「うん、父がよく言っていた。独身で定職にもつかず、ゲームを作るなんて言って単身米国に渡ったって。でも、何年か前に、スターライト何とかっていうインディーゲームを作って売却して、それでニュースにもなったらしいよ」
たいして興味も無さそうに手元に視線を落とす。 みゆき
「え、ちょっと待って!そのゲーム俺も知ってるよ!」
和也は慌ててスマートフォンを取り出し、画面を見せた。
「これだよ、『スターライト・キーパー』僕も数年前に夢中になって遊んでいたよ!」
興奮した僕のスマホを持つ手が震える。
「ああ、それか。へえ、伸二叔父さんが作ったんだ。すごいね。それで、いくら相続しろって?」
みゆきはスマホをチラッと見て、また鍋に向き直る
「えっとね 一十百千万……んっ?ちょっと待ってもう一回……1十百千万……一億ドル!?」
手紙を持つ手が震える。
「ふ〜ん 一億ドル。このマンションのローン完済できるね」
クリームシチューの出来に満足したのか、うんうんと頷く みゆき。
「ローンの完済どころじゃないよ、このマンションごと買えるよ! でも相続には条件があるみたいだ。結婚していて、子供をもうけていることだってさ……」
手紙によると彼は生涯独身を通し、子供も居ないことを深く後悔したようだ。
もし唯一の親類である姪のみゆきまでが独身で子供も産んでいないのであれば相続は白紙となり、どこかの病院へ寄付されるらしい。
相続の猶予期間は、2年。つまり1年ちょっとの間に子供を作らなければ遺産は手に入らない。
『一億ドル……?それは、36歳の中年サラリーマンの僕が、一生どれだけ頑張って働いても決して手にできない金額だ。
つまり年収700万円ちょっとの僕が、イエス・キリストが生まれる少し前から現在まで働き続け、1円も使わなければ貯まる金額か……』
無意識にスマホの電卓を叩く僕
そしてその瞬間に決意した!子供を作ろう!!
まず、ローンを一括完済して、毎月引き落とされる住宅ローンの通知書を、火をつけて燃やそう。あの南青山のタワーマンションの最上階に引っ越して。仕事なんて辞めて、毎日ゴルフ三昧だ。
クルーズ船で世界旅行もいいな〜みゆきのアトリエを作って、最高級のエスプレッソマシーンを置いて……。僕が人生で初めて抱いた、明確な、そして強い欲望だった。
「みゆき!僕たち、子供を作ろう!!」
興奮のあまり、僕は思わず大声を出した。みゆきはクリームシチューの味見をするために、スプーンを口に運びながら、目を丸くした。
「そんなに……お金が欲しいの?」
「そりゃー欲しいさ! それだけのお金があれば、子供を育てるのも楽勝だろう!?」
「ふ~ん。和也が欲しいのはお金? それとも子供?」
「えっ? そりゃみゆきとの子供が欲しいんだよ。もちろんだよ!」
みゆきは小さく笑った。「わかったわ。じゃあ、頑張らないとね」
しかし、それには問題があった。
これまでも何度か、妻を抱こうと試みたのだが、役に立たなかったのだ。
まさか、と悩んだ僕は、1年ほど前に生まれて初めて風俗へ行ってみた。
それは、己の機能が正常か否かを診断するための、いわば『臨床試験』だった。
結果は、正常に機能するではないか!僕は帰りのタクシーの中で、なぜか達成感と、同時に深い絶望に包まれた覚えがある。
つまり**妻限定のED?**これでは猶予期間の2年などすぐに過ぎてしまうのではないか。
妻の優しすぎる視線、友達のような親愛の情、そして何よりベッド中央に積まれた本と充電コードの境界線が、僕の「戦意」を失わせるのだ。
ある晩、和也はふと思いつく。
「もしかして……妻を妻だと思わなければ?」
そこで彼は、行為の前にトイレに行き、呪文のように唱えてみることにした。
「あれは僕の奥さんじゃない、あれは僕の奥さんじゃない、あれは僕の奥さんじゃない……」
すると不思議なことに、今までの悩みが嘘のように消え、事がうまく運ぶようになったのだ。
以来、彼は毎回この儀式を行い、週に一度のペースで夫婦の夜の営みを取り戻した。
しかし呪文の効果は約10分。遺産の為に子作りをするだけなら十分な時間である。
だが、ある日妙なことに気がついた。
トイレから戻ると、なぜかみゆきも「ちょっとトイレ」と言って部屋を出ていく。
しばらく戻ってこない。時間が経つにつれ、和也は焦りを覚えた。
「早く戻ってくれないと呪文の効果が切れる……」
不審に思った僕は、ふとみゆきが入ったトイレのドアに耳を当てた。ぶつぶつと聞こえてくる声
「あれは私の夫じゃない、あれは私の夫じゃない、あれは私の夫じゃない……」
僕は息を呑んだ。
扉が開き、みゆきが戻ってくる。彼女はいつもの穏やかな笑顔で「お待たせ」と言いながら
頬を染めた……僕は言葉を失っていた。
その夜、僕たちはトイレの後の儀式を行うことはなかった。
その代わりに互いのテリトリーを分断していたベッドの充電コードと本をそっと床に下ろし、二つベッドをくっつけて寝た。どちらからともなく手が伸び、結婚後、最も長く、互いの手のひらを重ねた夜だった。
和也は夢を見た。
広々とした南青山のタワーマンションのベランダで、小さな子供と遊んでいる夢だ。子供は楽しそうに笑っている。
しかし、その子供の顔が……巨大なドルマークになっているではないか!?
翌朝、二人は目覚めたとき、顔を見合わせた。
僕たちは、遺産のための子作りを止めた。自然に求め合える日を待つことにしよう。
一億ドルを棒に振るかもしれない。だが、呪文を唱えなければ愛し合えない関係に戻るよりはマシだ。
僕たちの寝室から、静かに充電コードと本の山が消えた。そして、夫婦の関係が友達ではない何かに変わる日を、僕たちは静かに待ち始めた。
みんなのリアクション
まだリアクションはありません。最初の一歩を踏み出しましょう!
結婚生活というものも10年ともなると、当初の恋人気分もとうに抜けてさらに僕たちのように子供がいない夫婦となると、いつの頃からか、友達のような感覚で妻と接するようになっていく気がする。
子供の居る同僚にそんな話をしたところ、「友達というよりも子育てという戦場で戦う 戦友だな」という答えが返ってきた。
どちらにしても妻を女性として見ていないのが問題となってくる。
その証拠に、僕たちの寝室にあるのは、結婚当初に購入したキングサイズのベッドがある。
しかしベッドの中央を綺麗に分けるように置かれ、その隙間にナイトテーブルに各自の充電コードと、読みかけの本の山だ。
互いのテリトリーに踏み込まないという暗黙の了解が、いつしか僕たちの最も穏やかな生活ルールとなっていた。
僕の名前は、立花和也 36歳、大手出版社に勤めるサラリーマンだ。
妻のみゆきもまた、才能あるフリーのイラストレーターで売れっ子だ。
二人の馴れ初めは高校時代に遡る。お互いに意識しつつも特に進展はなく、そのまま卒業。大学時代は別々の道を歩んでいたが、運命のいたずらか、和也が編集を担当した書籍の挿絵を描いたのがみゆきだった。
それを機に付き合いが始まり、順調な交際を経て10年前に結婚。
しかし、結婚生活が長くなるにつれ、夫婦関係には次第に変化が訪れた。仕事に追われる日々、朝方まで仕事をこなすみゆきとの互いの時間のすれ違い、気づけば6年以上もセックスレスの状態だった。それでも仲が悪いわけではなく、表面上は穏やかな関係が続いていた。
そんなある日、米国の弁護士から届いた一通の手紙が二人の人生を大きく変える。
「みゆき、君あてに米国の弁護士から手紙が届いてるぞ」
夜に帰宅した僕が、マンションの郵便受けから持ってきた郵便物の中から、その手紙を見つけた。
「米国の弁護士? それって英語ってこと? 悪いけど読んでみてくれる?」
リビングのテーブルでノートパソコンに向かい仕事をしていた妻のみゆきが、パソコンを閉じ、夕食の支度にキッチンへと向かう。
「ああ 僕が開けて良いんだな?」
「英語でしょう?読めないし、お願い。今日はクリームシチューだけど、ライスがいい?パンがいい?」
「うーん パンがいいな、じゃあ読むよ」
食器棚の引き出しからハサミを取り出し、手紙の上部を丁寧に切る。
「SHINJIさんって君の叔父さん?」
「そうだね 亡くなった私の父のお兄さんだね」
「亡くなったそうだよ 亡くなったのは、1週間前で埋葬もすませているようだよ」
「ふ〜ん」
みゆきは特に動揺した様子もなく、玉ねぎを炒める手を止めなかった。
「そう言えば伸二叔父さんって、いい年をしてゲームばかりして親戚中の鼻つまみ者だったって聞いたことがあるんだけど…」
和也が言うと、みゆきは小さく頷いた。
「うん、父がよく言っていた。独身で定職にもつかず、ゲームを作るなんて言って単身米国に渡ったって。でも、何年か前に、スターライト何とかっていうインディーゲームを作って売却して、それでニュースにもなったらしいよ」
たいして興味も無さそうに手元に視線を落とす。 みゆき
「え、ちょっと待って!そのゲーム俺も知ってるよ!」
和也は慌ててスマートフォンを取り出し、画面を見せた。
「これだよ、『スターライト・キーパー』僕も数年前に夢中になって遊んでいたよ!」
興奮した僕のスマホを持つ手が震える。
「ああ、それか。へえ、伸二叔父さんが作ったんだ。すごいね。それで、いくら相続しろって?」
みゆきはスマホをチラッと見て、また鍋に向き直る
「えっとね 一十百千万……んっ?ちょっと待ってもう一回……1十百千万……一億ドル!?」
手紙を持つ手が震える。
「ふ〜ん 一億ドル。このマンションのローン完済できるね」
クリームシチューの出来に満足したのか、うんうんと頷く みゆき。
「ローンの完済どころじゃないよ、このマンションごと買えるよ! でも相続には条件があるみたいだ。結婚していて、子供をもうけていることだってさ……」
手紙によると彼は生涯独身を通し、子供も居ないことを深く後悔したようだ。
もし唯一の親類である姪のみゆきまでが独身で子供も産んでいないのであれば相続は白紙となり、どこかの病院へ寄付されるらしい。
相続の猶予期間は、2年。つまり1年ちょっとの間に子供を作らなければ遺産は手に入らない。
『一億ドル……?それは、36歳の中年サラリーマンの僕が、一生どれだけ頑張って働いても決して手にできない金額だ。
つまり年収700万円ちょっとの僕が、イエス・キリストが生まれる少し前から現在まで働き続け、1円も使わなければ貯まる金額か……』
無意識にスマホの電卓を叩く僕
そしてその瞬間に決意した!子供を作ろう!!
まず、ローンを一括完済して、毎月引き落とされる住宅ローンの通知書を、火をつけて燃やそう。あの南青山のタワーマンションの最上階に引っ越して。仕事なんて辞めて、毎日ゴルフ三昧だ。
クルーズ船で世界旅行もいいな〜みゆきのアトリエを作って、最高級のエスプレッソマシーンを置いて……。僕が人生で初めて抱いた、明確な、そして強い欲望だった。
「みゆき!僕たち、子供を作ろう!!」
興奮のあまり、僕は思わず大声を出した。みゆきはクリームシチューの味見をするために、スプーンを口に運びながら、目を丸くした。
「そんなに……お金が欲しいの?」
「そりゃー欲しいさ! それだけのお金があれば、子供を育てるのも楽勝だろう!?」
「ふ~ん。和也が欲しいのはお金? それとも子供?」
「えっ? そりゃみゆきとの子供が欲しいんだよ。もちろんだよ!」
みゆきは小さく笑った。「わかったわ。じゃあ、頑張らないとね」
しかし、それには問題があった。
これまでも何度か、妻を抱こうと試みたのだが、役に立たなかったのだ。
まさか、と悩んだ僕は、1年ほど前に生まれて初めて風俗へ行ってみた。
それは、己の機能が正常か否かを診断するための、いわば『臨床試験』だった。
結果は、正常に機能するではないか!僕は帰りのタクシーの中で、なぜか達成感と、同時に深い絶望に包まれた覚えがある。
つまり**妻限定のED?**これでは猶予期間の2年などすぐに過ぎてしまうのではないか。
妻の優しすぎる視線、友達のような親愛の情、そして何よりベッド中央に積まれた本と充電コードの境界線が、僕の「戦意」を失わせるのだ。
ある晩、和也はふと思いつく。
「もしかして……妻を妻だと思わなければ?」
そこで彼は、行為の前にトイレに行き、呪文のように唱えてみることにした。
「あれは僕の奥さんじゃない、あれは僕の奥さんじゃない、あれは僕の奥さんじゃない……」
すると不思議なことに、今までの悩みが嘘のように消え、事がうまく運ぶようになったのだ。
以来、彼は毎回この儀式を行い、週に一度のペースで夫婦の夜の営みを取り戻した。
しかし呪文の効果は約10分。遺産の為に子作りをするだけなら十分な時間である。
だが、ある日妙なことに気がついた。
トイレから戻ると、なぜかみゆきも「ちょっとトイレ」と言って部屋を出ていく。
しばらく戻ってこない。時間が経つにつれ、和也は焦りを覚えた。
「早く戻ってくれないと呪文の効果が切れる……」
不審に思った僕は、ふとみゆきが入ったトイレのドアに耳を当てた。ぶつぶつと聞こえてくる声
「あれは私の夫じゃない、あれは私の夫じゃない、あれは私の夫じゃない……」
僕は息を呑んだ。
扉が開き、みゆきが戻ってくる。彼女はいつもの穏やかな笑顔で「お待たせ」と言いながら
頬を染めた……僕は言葉を失っていた。
その夜、僕たちはトイレの後の儀式を行うことはなかった。
その代わりに互いのテリトリーを分断していたベッドの充電コードと本をそっと床に下ろし、二つベッドをくっつけて寝た。どちらからともなく手が伸び、結婚後、最も長く、互いの手のひらを重ねた夜だった。
和也は夢を見た。
広々とした南青山のタワーマンションのベランダで、小さな子供と遊んでいる夢だ。子供は楽しそうに笑っている。
しかし、その子供の顔が……巨大なドルマークになっているではないか!?
翌朝、二人は目覚めたとき、顔を見合わせた。
僕たちは、遺産のための子作りを止めた。自然に求め合える日を待つことにしよう。
一億ドルを棒に振るかもしれない。だが、呪文を唱えなければ愛し合えない関係に戻るよりはマシだ。
僕たちの寝室から、静かに充電コードと本の山が消えた。そして、夫婦の関係が友達ではない何かに変わる日を、僕たちは静かに待ち始めた。