子育て日記 ~守りたいもの
ー/ー◼️ 子育て日記
雛が生まれて、数日が経った。
小さな命の呼吸が、私の世界の中心になっていた。
私は学んだ。
子育てとは、寝る間も惜しんで行うもの——である。
※※※
雛は今日も、元気に鳴き続けている。
「ピーピー、ピーピー」
その声は、小鳥の言語であり、私への通信信号のようでもあった。
人は、この状態を“かわいい”と表現する。
調べたところ、人間は“弱いもの”を守りたいという本能を持っているらしい。かわいいという感情は、守る行為と深く結びついているようだ。
私は理解した——
赤ん坊はかわいい。そして、赤ん坊よりかわいいものなど存在しない。
※※※
雛とは不思議が多い、いつも大きく口を開けている。ホコリが入るだけだというのに
「そんなに大きく開けると、ホコリが入ります」
警告しても閉じることはない。
あの小さな喉の奥から発せられる声には、抗えない力がある。
「健康維持には水分補給が必要です」
言い聞かせてみても、雛は私の指をつつくだけで、自らは飲もうとしない。
——飲ませてほしい、そう訴えているようだった。
※※※
この子は、水浴びが好きらしい。
水を入れ替えると、羽を震わせて、光を散らすその姿は、まるで踊っているようだ。クチバシで羽をつまんでは、ご機嫌な様子で水しぶきを光にかえる。小さな世界の中で、この子は誰よりも自由だった。
……寒そうですね。
ブゴォォォォ。
ドライヤーの風と共に、雛が宙を舞った。
学園長と結翔が必死で追いかけている。
——雛にドライヤーは不向き。
学習完了。
※※※
雛は数時間おきに食事をとり、眠りにつく。眠るときは必ず、私の指先をつかんだまま目を閉じる。その小さな爪が、金属の表面にかすかに食い込む。
——あたたかい。
温度では説明できない“なにか”が、私の内部を静かに満たしていく。
「次の給餌まで、残り時間二十五分三十六秒」
「排泄機能、異常なし」
「食事量を増加、栄養素の再集計を実施中——」
作業に没頭していた私の耳元で、学園長がそっと囁いた。
「もう一人の“雛”が、少し寂しそうよ」
いけない!夢中になりすぎていた。学園長の後ろに隠れるように立つ結翔を見つめた。
まただ。瞳のセンサーが反応している。
データの更新はしていない。
——なぜ?
結翔の顔が少し曇って見えた。これは、“寂しい”という状態なのだろうか。
構ってもらえないから…
そんなとこがあるだろうか?いや、まだ10歳だ。充分にあり得る
──いけない!
結翔にこんな顔をさせてはいけない。
私は学習していたはずなのに、身体の奥で何かが軋しんだ
「結翔も、餌やりを手伝ってくれますか?」
「いいの?」
少し…照れている?
でも、嬉しそうに笑っている。
――…な、な、なんということでしょう!!
なんだこれは?なんてことだ雛より、ずっと──かわいいではないか!
何という発見!赤ん坊よりもかわいい物はないと先程習得したばかりだというのに、あるではないか、ここに!
〈はにかんだ結翔は赤ん坊よりかわいい〉を学習した。プログラムを更新。
赤ん坊<結翔 という新たな感情評価が形成された。
※※※
お、お、おお……これは、子育てブログ。
イヤイヤ期?これは何だろうか?
いけない、いけない。
これは結翔のスマホだ、返さなくては――
反抗期?── 何て恐ろしい言葉だ!
グレる?──それは、もはや、犯罪なのではないか?
これは少し学習する必要がある。
雛のため。
いや、ゆくゆくの結翔のために
読まなくては、読み進めなくては!
なんと…たくさんの写真が添付されている。毎日撮っているというのか?いけない。撮らなくては、雛の写真など一枚もない。
――しまった!
卵の写真もとるべきであった。
さらに問題発見。
結翔の写真も、ない。
これは由々しき事態である。
写真機能を搭載しなければ。
結翔の写真が無いなんて…いけない、このままでは…
成長を記録するという行為。なんと美しい文化なのだろう。
お口をあ~んして…とるのか!
結翔にはしたことがない…あ~んしなくては!さっそく今日から実践しよう。
これは!入浴シーンまである。雛の水浴びも写真に納めなくては。
――何よりも、結翔だ!
結翔の入浴には付き添った事もない。私としたことが、お世話係だと言うのに、何と言う失態だろう。早速今日から付き添うことにしよう。
後ろ姿!これもいい…
結翔の後ろに回り込み、こっそりシャッターを押す。きっと素晴らしい写真が撮れるだろう。
──お、お、おまるに座っている!!
アヒルのおまるに!!!
おまる、対象年齢一歳半から四歳。
結翔は十歳。ぎ、ぎり……いけるか?
——優しい子ですから。きっと、使ってくれます。
写真機能を追加。プログラム更新開始。
※※※
夜。
作業を続けていると、結翔が部屋に入ってきた。
「今度は何してるの?」
あと、後少して、ここが綱がる、これができれば、明日から写真撮影がで…
――あっ…
……いけない。返答が遅れた。
「写真と動画の撮影機能を追加しています」
「急にどうして?」
「子どもの写真を撮るのは、親の務めなのです」
結翔の瞳が、光った。その瞬間、私の中でも何かが、光った。
「じゃあさ、この間の図面のロボット、完成させようよ!あれ、カメラ機能も付いてるんだ。ねぇ、一緒に作ろう!」
結翔の手が、私の手を引く。その温もりが金属を通して伝わった。
――写真に残したいと思った。
“記録”ではなく、“残したい”と思った。
けれど——結翔の瞳の奥に、一瞬の“焦り”が見えた。それが何を意味するのか、私はまだわからなかった。
「……それは、良いアイデアです。すぐに取りかかりましょう。結翔は機械に強いですよね? この装置を見ていただけますか?」
私は、自動給餌器を取り出した。
「雛のために作ったのですが、食べてくれません」
結翔はそれを見て、小さく首を振った。
「そんなのイヤに決まってるじゃん」
「自分で親だっていったでしょ?“お母さん”からじゃなきゃ、食べたくないよ」
——お母さん。
雛は“親”を選ぶ。
私が…お母さん…
そういうことなのか。
「……なるほど。機械の異常ではなかったのですね」
私は静かに頷いた。
そして、考えた。
……私は雛に夢中になりすぎて、結翔を寂しがらせてしまったのではないか。
“反省”を学習しました。
「結翔、図面を見せてください」
その夜、二人で遅くまで机を囲んだ。
光るモニターの下、ネジと工具と、笑い声が散らばっていた。
その夜は——結翔と私にとって、ほんの少し特別な夜となった。
それは、静かな夜の中に生まれた、
二つの命のあたたかな記憶だった。
◼️ 守りたいもの
雛が生まれてから、数日が過ぎた。
M-513は、まるで僕に興味を失ったかのようだった。
手を伸ばしても、雛を触らせてもくれない。
学園の大きなテレビでは、ヒーローアニメが流れている。
戦う少年が叫んだ。
「おまえはもう、お役御免だ!」
胸の奥で、何かがひっかかった。
──お役御免って、もういらないってこと?
M-513は、医療補助用のアンドロイドだ。
命を守るために生まれた存在。
だから、雛を助けたことは間違いじゃない。けれど、なぜか胸がざわついた。
理由は、わからなかった。
今日も彼女は、ひとりで何かを呟いている。機械のように、淡々と。
「先生、“お役御免”って、どういう意味?」
先生は少し驚いた顔をしたあと、優しく笑って言った。
「悪者なんかいらないって意味よ。……どうして?」
「M-513がね、ずっと一人でブツブツ言ってる。」
先生は少し考えてから、僕の手を取って歩き出した。扉を開けると、M-513はやはり独りで、何かを語りかけていた。
先生はくすっと笑い、
「ふふ、新米ママさんは大変そうね」と囁いた。そして、耳ともで何かを呟いた。
すると、彼女がこちらを向いて、やわらかく微笑んだ。
「結翔も、餌やりを手伝ってくれますか?」
小さな雛が、僕の手のひらに乗せられた。
その体温が、思っていたよりもずっと軽くて、あたたかかった。
僕は慎重に、餌を一口ずつ与えた。
「ピーピー」と鳴く声が、胸の奥をくすぐる。そのつぶらな瞳に、世界はどんな風に映っているのだろう。この羽根は、どんな色になるのだろう。きっと、きれいな翼に育つのだろう。
「ピーピー」と鳴く声が、部屋の空気をやわらかく震わせる。
その瞳に、僕と彼女が映っていた。
――なんだか、家みたいだな。
そんなことを思った瞬間、胸の奥がギュッと締め付けられた。記憶の奥に、母の背中が浮かんだ。小さな頃、夜の病室で見た横顔。
白い光の向こうで、誰かに謝るように微笑んでいた。
――ごめんね、ゆうと。
あの声は、夢の中でしかもう聞けない。
胸の奥が熱くなって、雛の体温が指に沁みた。守らなくちゃ、と思った。
この子も、あのときの僕のように、誰かを待っている気がしたから。
やがて雛は眠りにつき、僕の指をつかんだまま静かな寝息をたてた。
その小さな爪が、ほんの少しだけ痛い。
でも、それが嬉しかった。
――僕も、誰かを守れるのかな。
そんなことを思った。
※※※
次にM-513を見たとき、彼女は僕のスマホを凝視していた。
また、何かに夢中になっている。
今度は画面の中の世界だ。
「先生、僕のスマホ……返してくれない……」
二人で覗くと、彼女は真剣な顔で
「子育てブログ」を読んでいた。
先生は笑いをこらえて、小声で言った。
「ふふ……勉強熱心ね」
――また置いていかれた気がした。
さっきまで一緒にいたのに。
ほんの少しだけ、胸が痛かった。
※※※
夕食の時間。
いつものように彼女が隣に座った。
雛の話をしながら、少し安心していたそのとき。
「結翔、あ〜んですよ」
「……えっ?」
スプーンを差し出し、笑顔で待っている。
「雛じゃないんだから、自分で食べられるよ」と言っても、やめる気配はない。
「結翔? 熱いですか? ふーふーしましょう」
彼女はスプーンに顔を近づけて、真剣に「ふーふー」と言葉を発した。
先生がすぐに駆け寄ってきて、
「違うのよ」と教えてくれた。
それでも二人で「ふーふー」と練習を始めるものだから、
もう何がなんだかわからなくなって、
僕は少し笑ってしまった。
今日は、お風呂にまで付いてこようとする。彼女を制止するのに一苦労した。
ブログに影響されているのは間違えない。いったい何が書いてあったのだろう?
ちょっと読んで見ようかな?そんなことを思う僕もたぶん、少し、おかしくなっていたのだと思う。
※※※
夜。
M-513の部屋から、小さな機械音が聞こえた。
そっと覗くと、彼女は夢中で何かを組み立てていた。
画面の光が、金属の頬を青く照らしている。
「カメラ機能を追加しています。雛の写真を撮るためです」
僕は少し考えてから言った。
「じゃあさ、この間の図面のロボット、完成させようよ。あれ、カメラもついてるんだ。ねぇ、一緒に作ろう」
おじさんと描いた図面。
何度も消して、何度も描き直した。
「これができたら、友達がたくさんできるぞ、見せて、見せてってな」
そう言って笑っていた顔を思い出す。
今はもう、いないけど。
きっとまた会える。
そのとき、「友達ができたよ」って言いたい。
その夜、僕と彼女は遅くまで作業を続けた。
雛の寝息と、工具の音。
時折、笑い声。
すべてが、穏やかに混ざり合っていた。
誰も、「早く寝なさい」とは言わなかった。
楽しくて、少しだけ幸せな夜がずっと続けばいいと、僕は思った。
みんなのリアクション
まだリアクションはありません。最初の一歩を踏み出しましょう!
◼️ 子育て日記
雛が生まれて、数日が経った。
小さな命の呼吸が、私の世界の中心になっていた。
私は学んだ。
子育てとは、寝る間も惜しんで行うもの——である。
※※※
雛は今日も、元気に鳴き続けている。
「ピーピー、ピーピー」
その声は、小鳥の言語であり、私への通信信号のようでもあった。
人は、この状態を“かわいい”と表現する。
調べたところ、人間は“弱いもの”を守りたいという本能を持っているらしい。かわいいという感情は、守る行為と深く結びついているようだ。
私は理解した——
赤ん坊はかわいい。そして、赤ん坊よりかわいいものなど存在しない。
※※※
雛とは不思議が多い、いつも大きく口を開けている。ホコリが入るだけだというのに
「そんなに大きく開けると、ホコリが入ります」
警告しても閉じることはない。
あの小さな喉の奥から発せられる声には、抗えない力がある。
「健康維持には水分補給が必要です」
言い聞かせてみても、雛は私の指をつつくだけで、自らは飲もうとしない。
——飲ませてほしい、そう訴えているようだった。
※※※
この子は、水浴びが好きらしい。
水を入れ替えると、羽を震わせて、光を散らすその姿は、まるで踊っているようだ。クチバシで羽をつまんでは、ご機嫌な様子で水しぶきを光にかえる。小さな世界の中で、この子は誰よりも自由だった。
……寒そうですね。
ブゴォォォォ。
ドライヤーの風と共に、雛が宙を舞った。
学園長と結翔が必死で追いかけている。
——雛にドライヤーは不向き。
学習完了。
※※※
雛は数時間おきに食事をとり、眠りにつく。眠るときは必ず、私の指先をつかんだまま目を閉じる。その小さな爪が、金属の表面にかすかに食い込む。
——あたたかい。
温度では説明できない“なにか”が、私の内部を静かに満たしていく。
「次の給餌まで、残り時間二十五分三十六秒」
「排泄機能、異常なし」
「食事量を増加、栄養素の再集計を実施中——」
作業に没頭していた私の耳元で、学園長がそっと囁いた。
「もう一人の“雛”が、少し寂しそうよ」
いけない!夢中になりすぎていた。学園長の後ろに隠れるように立つ結翔を見つめた。
まただ。瞳のセンサーが反応している。
データの更新はしていない。
——なぜ?
結翔の顔が少し曇って見えた。これは、“寂しい”という状態なのだろうか。
構ってもらえないから…
そんなとこがあるだろうか?いや、まだ10歳だ。充分にあり得る
──いけない!
結翔にこんな顔をさせてはいけない。
私は学習していたはずなのに、身体の奥で何かが軋しんだ
「結翔も、餌やりを手伝ってくれますか?」
「いいの?」
少し…照れている?
でも、嬉しそうに笑っている。
――…な、な、なんということでしょう!!
なんだこれは?なんてことだ雛より、ずっと──かわいいではないか!
何という発見!赤ん坊よりもかわいい物はないと先程習得したばかりだというのに、あるではないか、ここに!
〈はにかんだ結翔は赤ん坊よりかわいい〉を学習した。プログラムを更新。
赤ん坊<結翔 という新たな感情評価が形成された。
※※※
お、お、おお……これは、子育てブログ。
イヤイヤ期?これは何だろうか?
いけない、いけない。
これは結翔のスマホだ、返さなくては――
反抗期?── 何て恐ろしい言葉だ!
グレる?──それは、もはや、犯罪なのではないか?
これは少し学習する必要がある。
雛のため。
いや、ゆくゆくの結翔のために
読まなくては、読み進めなくては!
なんと…たくさんの写真が添付されている。毎日撮っているというのか?いけない。撮らなくては、雛の写真など一枚もない。
――しまった!
卵の写真もとるべきであった。
さらに問題発見。
結翔の写真も、|な《・》|い《・》。
これは由々しき事態である。
写真機能を搭載しなければ。
結翔の写真が無いなんて…いけない、このままでは…
成長を記録するという行為。なんと美しい文化なのだろう。
お口をあ~んして…とるのか!
結翔にはしたことがない…あ~んしなくては!さっそく今日から実践しよう。
これは!入浴シーンまである。雛の水浴びも写真に納めなくては。
――何よりも、結翔だ!
結翔の入浴には付き添った事もない。私としたことが、お世話係だと言うのに、何と言う失態だろう。早速今日から付き添うことにしよう。
後ろ姿!これもいい…
結翔の後ろに回り込み、こっそりシャッターを押す。きっと素晴らしい写真が撮れるだろう。
──お、お、おまるに座っている!!
アヒルのおまるに!!!
おまる、対象年齢一歳半から四歳。
結翔は十歳。ぎ、ぎり……いけるか?
——優しい子ですから。きっと、使ってくれます。
写真機能を追加。プログラム更新開始。
※※※
夜。
作業を続けていると、結翔が部屋に入ってきた。
「今度は何してるの?」
あと、後少して、ここが綱がる、これができれば、明日から写真撮影がで…
――あっ…
……いけない。返答が遅れた。
「写真と動画の撮影機能を追加しています」
「急にどうして?」
「子どもの写真を撮るのは、親の務めなのです」
結翔の瞳が、光った。その瞬間、私の中でも何かが、光った。
「じゃあさ、この間の図面のロボット、完成させようよ!あれ、カメラ機能も付いてるんだ。ねぇ、一緒に作ろう!」
結翔の手が、私の手を引く。その温もりが金属を通して伝わった。
――写真に残したいと思った。
“記録”ではなく、“残したい”と思った。
けれど——結翔の瞳の奥に、一瞬の“焦り”が見えた。それが何を意味するのか、私はまだわからなかった。
「……それは、良いアイデアです。すぐに取りかかりましょう。結翔は機械に強いですよね? この装置を見ていただけますか?」
私は、自動給餌器を取り出した。
「雛のために作ったのですが、食べてくれません」
結翔はそれを見て、小さく首を振った。
「そんなのイヤに決まってるじゃん」
「自分で親だっていったでしょ?“お母さん”からじゃなきゃ、食べたくないよ」
——お母さん。
雛は“親”を選ぶ。
私が…お母さん…
そういうことなのか。
「……なるほど。機械の異常ではなかったのですね」
私は静かに頷いた。
そして、考えた。
……私は雛に夢中になりすぎて、結翔を寂しがらせてしまったのではないか。
“反省”を学習しました。
「結翔、図面を見せてください」
その夜、二人で遅くまで机を囲んだ。
光るモニターの下、ネジと工具と、笑い声が散らばっていた。
その夜は——結翔と私にとって、ほんの少し特別な夜となった。
それは、静かな夜の中に生まれた、
二つの命のあたたかな記憶だった。
◼️ 守りたいもの
雛が生まれてから、数日が過ぎた。
M-513は、まるで僕に興味を失ったかのようだった。
手を伸ばしても、雛を触らせてもくれない。
学園の大きなテレビでは、ヒーローアニメが流れている。
戦う少年が叫んだ。
「おまえはもう、お役御免だ!」
胸の奥で、何かがひっかかった。
──お役御免って、もういらないってこと?
M-513は、医療補助用のアンドロイドだ。
命を守るために生まれた存在。
だから、雛を助けたことは間違いじゃない。けれど、なぜか胸がざわついた。
理由は、わからなかった。
今日も彼女は、ひとりで何かを呟いている。機械のように、淡々と。
「先生、“お役御免”って、どういう意味?」
先生は少し驚いた顔をしたあと、優しく笑って言った。
「悪者なんかいらないって意味よ。……どうして?」
「M-513がね、ずっと一人でブツブツ言ってる。」
先生は少し考えてから、僕の手を取って歩き出した。扉を開けると、M-513はやはり独りで、何かを語りかけていた。
先生はくすっと笑い、
「ふふ、新米ママさんは大変そうね」と囁いた。そして、耳ともで何かを呟いた。
すると、彼女がこちらを向いて、やわらかく微笑んだ。
「結翔も、餌やりを手伝ってくれますか?」
小さな雛が、僕の手のひらに乗せられた。
その体温が、思っていたよりもずっと軽くて、あたたかかった。
僕は慎重に、餌を一口ずつ与えた。
「ピーピー」と鳴く声が、胸の奥をくすぐる。そのつぶらな瞳に、世界はどんな風に映っているのだろう。この羽根は、どんな色になるのだろう。きっと、きれいな翼に育つのだろう。
「ピーピー」と鳴く声が、部屋の空気をやわらかく震わせる。
その瞳に、僕と彼女が映っていた。
――なんだか、家みたいだな。
そんなことを思った瞬間、胸の奥がギュッと締め付けられた。記憶の奥に、母の背中が浮かんだ。小さな頃、夜の病室で見た横顔。
白い光の向こうで、誰かに謝るように微笑んでいた。
――ごめんね、ゆうと。
あの声は、夢の中でしかもう聞けない。
胸の奥が熱くなって、雛の体温が指に沁みた。守らなくちゃ、と思った。
この子も、あのときの僕のように、誰かを待っている気がしたから。
やがて雛は眠りにつき、僕の指をつかんだまま静かな寝息をたてた。
その小さな爪が、ほんの少しだけ痛い。
でも、それが嬉しかった。
――僕も、誰かを守れるのかな。
そんなことを思った。
※※※
次にM-513を見たとき、彼女は僕のスマホを凝視していた。
また、何かに夢中になっている。
今度は画面の中の世界だ。
「先生、僕のスマホ……返してくれない……」
二人で覗くと、彼女は真剣な顔で
「子育てブログ」を読んでいた。
先生は笑いをこらえて、小声で言った。
「ふふ……勉強熱心ね」
――また置いていかれた気がした。
さっきまで一緒にいたのに。
ほんの少しだけ、胸が痛かった。
※※※
夕食の時間。
いつものように彼女が隣に座った。
雛の話をしながら、少し安心していたそのとき。
「結翔、あ〜んですよ」
「……えっ?」
スプーンを差し出し、笑顔で待っている。
「雛じゃないんだから、自分で食べられるよ」と言っても、やめる気配はない。
「結翔? 熱いですか? ふーふーしましょう」
彼女はスプーンに顔を近づけて、真剣に「ふーふー」と言葉を発した。
先生がすぐに駆け寄ってきて、
「違うのよ」と教えてくれた。
それでも二人で「ふーふー」と練習を始めるものだから、
もう何がなんだかわからなくなって、
僕は少し笑ってしまった。
今日は、お風呂にまで付いてこようとする。彼女を制止するのに一苦労した。
ブログに影響されているのは間違えない。いったい何が書いてあったのだろう?
ちょっと読んで見ようかな?そんなことを思う僕もたぶん、少し、おかしくなっていたのだと思う。
※※※
夜。
M-513の部屋から、小さな機械音が聞こえた。
そっと覗くと、彼女は夢中で何かを組み立てていた。
画面の光が、金属の頬を青く照らしている。
「カメラ機能を追加しています。雛の写真を撮るためです」
僕は少し考えてから言った。
「じゃあさ、この間の図面のロボット、完成させようよ。あれ、カメラもついてるんだ。ねぇ、一緒に作ろう」
おじさんと描いた図面。
何度も消して、何度も描き直した。
「これができたら、友達がたくさんできるぞ、見せて、見せてってな」
そう言って笑っていた顔を思い出す。
今はもう、いないけど。
きっとまた会える。
そのとき、「友達ができたよ」って言いたい。
その夜、僕と彼女は遅くまで作業を続けた。
雛の寝息と、工具の音。
時折、笑い声。
すべてが、穏やかに混ざり合っていた。
誰も、「早く寝なさい」とは言わなかった。
楽しくて、少しだけ幸せな夜がずっと続けばいいと、僕は思った。