第8話 夢のまにまに:前編
ー/ー
ああ、またあの夢だな。
柚真人はそう思ってあたりを見渡した。
とはいえこの夢を見る時は、決まってあたりは真っ暗で、自分がどこにいるかもわからない。夜というわけでもないし、何かの建物の中というわけでもない。空があるわけでもなく、さりとて地面らしい地面のようなものがあるわけでもない。
おそらくこれは、夢、独特の空間なのだろう。
――毎度、解せないことしかないな。
柚真人は――そんなふうに、自分の目の前にいる存在に向かって呟いた。この夢を自分が見る時は、さらに決まって、ここに自分と相手しかいない。それも、夢という独特なものなればこそであったろう。
――世の中、きみに解せることばかりではないということだよ。
目の前の相手からは、そんな言葉が返ってきた。
にしても、戸惑う。この夢の中で自分と向かい合っている相手は、6、7歳ほどであろうと思われる子供の姿をしているのだ。
子供は、しかし幼いながらも白い修練用の神職衣装を身に着けている。そのことから、これが自分の――厳密には、自分とは違う、と柚真人は認識しているが――幼い頃の姿であるということはわかっていた。
つまり、これは、あの事件――自分が、この年齢の姿だったときに皇家で起きたあの事件を境に乖離してしまった、もうひとりの自分なのだ。
その自分と、自分が、対話する夢。柚真人は時々、それに悩まされている。いや、別段悩まされているというほどのこともないのだけれど、その意味がわからず、当惑を覚えるといったところか。
なぜなら、この幼い少年――あの日、自分と乖離した本来の『皇柚真人』と言うべき存在は、ずっと、意識を喪失していたのだから。あの日以来、『柚真人』は柚真人の中に在りはしたものの、人格は完全に隔てられて、ずっと眠り続けているような状態だった。
それが――どうして?
きっかけは、あった。それは、柚真人が意を決して『緋の禍鬼』と呼ばれていた自分を取り戻そうと決め、自分の中に眠り続けていた、この本来の『皇柚真人』たるべき存在を、『喰って』からだ。
柚真人と『柚真人』は、本当であればひとつの人間の霊魂として現世に生まれ変わったはずであった。ところが、たまさかというかそのたまさかに乗じて仕組まれてというか、その身に施された呪によって、ひとつの霊魂が生まれ変わった人のものと前世の業や霊力を内包した鬼のものとに分けられた。だから、可能だったのだ。鬼の部分である自分が、人である部分を喰ってしまう、ということが。
もちろんそれは、もともとの人の部分を、『殺して』しまうということにもなる。存在が消えて消滅するということではないが、たとえば食べた食料が捕食者の身の一部となるように、とりこまれて別個の存在としてのかたちは保てなくなる。そのはずだった。
だから柚真人もその手に踏み出してしまうまでには迷いもあったし、逡巡もしたのだ――けれど。
逆にその瞬間から、確固たる人格、確固たる意識を持って、自分の夢の中に現れる。なんて、どう考えても、合点がいかない。
あるいは。
俺の、妄想か。願望か。
そうも疑わなくもない。
本来ならばここにあるのは、人として生まれ変わった『皇柚真人』の方だった。自分自身は、その『皇柚真人』を守るために生まれた。なのにそれを果たすことができなかった。自分がしたのは、『皇柚真人』からすべてを奪った。そういうことになるのではないか。そういった思いが、現状、柚真人の中にないともいえない。その罪悪感や、自責、後悔、後ろめたさ。それが、こういうかたちになって表れているのか?
自分自身の性格に鑑みて言うなら、とてもそうも思えない。後悔や内省をすることはあっても、それを妄想にまでしてしまうようなことはない。けれど、ひとつあるとしたら、妹への――司への、罪悪感だ。
司にとっては、彼もまた、兄であったろう。いや、もしかしたら彼の方が兄だった。それを、自分が勝手に奪った。そのことに対する自責の念は、強くある。今でも、これを司にどう説明すべきか、司が知ればどう思うか、といったことは考えるのだ。必要だからしたこととはいえ、それで押しきっていい問題ではない。今は、司をどうにかして取り戻すことが先決だからと自分で自分に言い聞かせて考えないようにしているだけで。
しかし。
――きみが、自分を責める必要はないよ。
子供の姿をした、『柚真人』は、この夢を見るたびに、そうも言う。
それがどういうことなのか。それすら自分の願望に過ぎないのか、それとも本当に彼が自分を許すといっているのか。わからない。
――ただ、ぼくがときどきこうしてきみに会いに来るのは、ぼくがこうしてぼくであり続けるために、必要なことなんだ。もう、少しの間だけね。
柚真人には、意味がわからない。
なればやはり、これは自分の妄想などではなく、なにかの現象なのだろうかと――考えはいまのところ詮無く堂々巡りをするが。
すると、自分の心中を見透かしたように、『柚真人』は苦笑するのだ。
――もっと、いつものきみらしく考えればいいのに。
まるで、それを知っているかのような口ぶりで。
子供の姿のままのくせに。
そして。
――ぼくがいまいるのは、『そう』いう場所なんだ。でも、今は『ここ』に居続けなきゃいけない。ひとつ、やりのこしたことがあるからね。
それが決まって、『柚真人』が返してくる言葉だった。
やりのこしたことがある、と。
――それが済んだら、ぼくはきみの中に還るよ。だから、そんなにぼくのことを深く考えなくていい。ただ、ときどききみにあう必要がある。いまのところ、ぼくには、ね。
夢というのは、それ自体、ひとつの怪異でもある。なのに、わからない、ということが遺憾だった。
『緋』と呼ばれる自分は、すべての怪異を、その長として統べて来た。なのに。しかもほかならぬ自分自身のことなのに、この自分に、把握できないなどということがあろうか。
夢はそのまま、うっすらと夜明けの気配を感じて、解けていく。
いつも。
――そんなに、むずかしく考えなくてもいいんだよ。
――ぼくからしたら。
――ぼくは、きみで。きみは、ぼくだよ。
そんな言葉すら、果たして自分が自分にしている言い訳なのではないだろうか。
そんな疑念が、払えない。
☆
☆
「――そういえば、最近はどう? 例の、夢の話」
なんて訊かれたのは、だからだ。
柚真人はカウンターで隣の席に座っている女性に、ちょっと首を傾ける仕草で応えた。
「ああ――まあ、相変わらずだな」
背中の真ん中あたりまで緩く伸びたウェーブの髪に、職業を想像しづらいスーツ姿の女性は、暁水月だ。
皇の一族を構成する、暁家の長女。
かつて彼女は、柚真人の主治医であった。その関係で、柚真人の精神面でのサポートを医者の立場からまだときどきしてくれている。
しかし彼女自身には皇の神職に足りる能力は無く、現在彼女は、彼女自身の持てる技能の面で、皇の家業と関わりをもっている。たとえば、霊や怪異に悩まされていると訴える人間があるとして、それが本人の認識とは異なる疾病や疾患に基づく症状である場合も少なくない。暁の家は、そのような訴えに対処するための医療機関を運営するための家でもあった。
今日も、主には、柚真人と水月がここで顔を合わせているのはそれが理由だ。
仕事の話は取り敢えず終わったところで、カウンターテーブルの上にはまだ半分ほど残っている料理の皿がふたつばかりと、それぞれのグラスが乗っていた。
夢の話を柚真人が彼女にしてみたのは、それそこ、それがあくまでも今の自分の心の問題なのか、あるいはかつての自分と類似したような現象であるのか、柚真人自身にもわからないところがあったからである。
自分のこと、しかも自分の魂魄にかかわることであるはずなのに、当の本人わからないというのはおかしな話で、柚真人とてもうずっとそうは思っている。しかし彼女は柚真人の主治医であり、その側面、その視点から柚真人をずっと診てきた信頼のおける人間だったので、彼女にであれば訊いてみる理由と価値はあった。
柚真人と水月が『皇柚真人』について初めてきちんと向き合って話をしたのは、柚真人が高校生だった時のことだ。柚真人がまだ、自分の身に起きていることと、自分の身に施された呪の真実とその意味を知らなかった頃。
その頃、柚真人は自分が『柚真人』を守るために生まれた『柚真人』とは別の人格であるという認識をしていた。だというのに実の妹に募らせつつあったあらぬ恋情に苦しみ、少し疲れていたのだ。
水月のもとを訪れたのは、あの年の夏休みが終わったばかりの頃だったろうか。今振り返ると、若かったな、と思うし、子供だったな、とも思う。だが、それは致し方のないことでもあろう。柚真人はその時に、水月から、当時暁の長であり水月の父親でもあった暁圭吾が何をしたと推測されるかということを聞いたのだった。
そもそものことの起こりは、『柚真人』の両親、皇満と皇朔子という双子が、子供たちの目の前で凄惨きわまる事件を起こしたこと。その事件によって、『柚真人』は事件の記憶を中から追い出すために、柚真人を生み出した。いや――正確に言えば、『柚真人』は、その事件の衝撃で一時的に精神的な混乱を来した。むろん幼い子供であればそれは無理からぬ反応だった。なにしろ、『柚真人』は事件の現場で、頭から大量の両親の血を浴びて、真っ赤になった状態でいたからだ。その精神的な混乱に乗じて、暁圭吾が、『柚真人』の中から柚真人という存在を引きずり出した。――と、いうべきだった。
普通、医者のすることは、その逆だ。しかも暁圭吾は歴とした精神科医であった。だというのに圭吾が『柚真人』にしたことは、不安定になったこどもの精神をもとに、投薬や催眠などを駆使して、よりはっきりと人格をふたつに分けることだったのだ。
なんのためにそんなことをしたのか、わからない、と、当時の水月は柚真人に言った。
まあ、現状では、それがなんのためであったのか、はなんとなく推測がついている。これにかつて聞いた漣鎮護官からの話を合わせると、どうも暁圭吾は皇満と結託しており、『柚真人』の中から『鬼』を引き出そうとしたようなのだ。
『柚真人』が『鬼』の生まれ変わりであることは、勾玉の血脈の者であれば知りえたことだった。勾玉の血脈の者たちにとって、『緋の禍鬼』は討伐すべき存在で、古来より、緋色の花を咲かせて生まれ変わると伝わっていたからだ。
今の柚真人にはその縁起の記憶があり、自分を人として生まれ変わらせてくれたのもまた、勾玉の血脈に連なる者たちだった。だが、そのはじまりの物語は、千年以上の時が過ぎるうちに、歪み、捻じれ、忌むべき存在が人として生まれてくると、そんなふうに後世には伝わっていってしまったらしい。
つまり、『鬼』を『鬼』として今この世に引きずり出したらどうなるか。『皇柚真人』は、勾玉の血脈の者たちから、追われ、狩られる者となる。
ではなぜ、『柚真人』の父親である皇満と暁圭吾がそのようなことを目論んだか。それは、『柚真人』が――皇の次期当主候補であり、母親である皇朔子に、きちんと愛されていたからだった。
双子の妹を犯して孕ませた皇満は、すでに狂気に呑まれた思考で、妹と自分を引き裂いたのは、子供の柚真人であると考えた。また、暁圭吾は、暁の家に生まれながら神職能力をもたず、皇の神事――というより、圭吾が固執したのはその家督や名誉、地位のようなものであったろう――に関わることを許されなかったことが皇の家に対する恨みとなった。さらにいえば、圭吾は、自身の最初の子供であった水月もまた神職能力をもたずに生まれたことから、皇の家より強制的に後妻を迎えさせられている。そのことについての鬱屈も抱えていたのだろう。
そして、さらに。もうひとつ。おそらく、暁圭吾は、思いついた。表向きは患者として、幼い『柚真人』と問答を繰り返しているうちに。どうやら『柚真人』もまた、妹に強い執着を示す傾向にある。なれば、そこに仕掛けをしてやろう、と。
『柚真人』と柚真人を分けることに成功した暁圭吾は、『柚真人』を深い眠りにつかせた。同時に、柚真人に人格の主導権を与え、柚真人の中にある前世の記憶も眠らせた。そして、あるきっかけによって、柚真人の中で前世の記憶の蓋が開くようにした。そのきっかけとは、柚真人の『情動』だ。その針が振り切れた時にすべてが終わるように、圭吾は柚真人の意識に罠を仕掛けた。
これは、のちのちになって柚真人がすべての記憶を取り戻したあと、水月や、水月のもとに残った柚真人と暁圭吾とのやりとりの記録、皇を含めた勾玉の血脈の監視者である漣の証言、それに笄優麻などと推測を付き合わせてたどり着いた道筋でもあった。
そもそもあの夏の日、柚真人が水月に相談しようとしたのは、自分の中で眠っている『柚真人』を強制的に起こせるか、ということだった。
己が、妹の司に対してあってはならない想いを募らせ、本来あるべき自分の姿と自分の役目を見失いそうだという自覚が、柚真人にはあった。もう限界だ。いつか、この手がすべてを壊す。それを恐れた柚真人は、自分を止める手立てを求めた。
だが、そこにこそ暁圭吾の目付はあったわけで、そういう意味では柚真人はまんまと暁圭吾の策略にはまった――と言えた。まったく忌々しいことに。
あの日、水月と話をした柚真人は、水月から、過去の圭吾との不審な遣り取りの話を聞いて、そのまま暁圭吾を問い質そうとした。水月にもなにがなんだかわからないというのであれば、本人を質すほかないだろう、と。
しかしその日、暁圭吾は失踪した。
今も、その行方はわかっていない。
暁の家は、今は水月の妹である緋月が継ぎ、水月は暁が表の顔として運営してきた病院の経営を束ねている。
暁圭吾の失踪にまつわることは――未だひとつ残されている謎ではあった。
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子供は、しかし幼いながらも白い修練用の神職衣装を身に着けている。そのことから、これが自分の――厳密には、自分とは違う、と柚真人は認識しているが――幼い頃の姿であるということはわかっていた。
つまり、これは、あの事件――自分が、この年齢の姿だったときに皇家で起きたあの事件を境に乖離してしまった、もうひとりの自分なのだ。
その自分と、自分が、対話する夢。柚真人は時々、それに悩まされている。いや、別段悩まされているというほどのこともないのだけれど、その意味がわからず、当惑を覚えるといったところか。
なぜなら、この幼い少年――あの日、自分と乖離した本来の『皇柚真人』と言うべき存在は、ずっと、意識を喪失していたのだから。あの日以来、『柚真人』は柚真人の中に在りはしたものの、人格は完全に隔てられて、ずっと眠り続けているような状態だった。
それが――どうして?
きっかけは、あった。それは、柚真人が意を決して『緋の禍鬼』と呼ばれていた自分を取り戻そうと決め、自分の中に眠り続けていた、この本来の『皇柚真人』たるべき存在を、『喰って』からだ。
柚真人と『柚真人』は、本当であればひとつの人間の霊魂として現世に生まれ変わったはずであった。ところが、たまさかというかそのたまさかに乗じて仕組まれてというか、その身に施された呪によって、ひとつの霊魂が生まれ変わった人のものと前世の業や霊力を内包した鬼のものとに分けられた。だから、可能だったのだ。鬼の部分である自分が、人である部分を喰ってしまう、ということが。
もちろんそれは、もともとの人の部分を、『殺して』しまうということにもなる。存在が消えて消滅するということではないが、たとえば食べた食料が捕食者の身の一部となるように、とりこまれて別個の存在としてのかたちは保てなくなる。そのはずだった。
だから柚真人もその手に踏み出してしまうまでには迷いもあったし、逡巡もしたのだ――けれど。
逆にその瞬間から、確固たる人格、確固たる意識を持って、自分の夢の中に現れる。なんて、どう考えても、合点がいかない。
あるいは。
俺の、妄想か。願望か。
そうも疑わなくもない。
本来ならばここにあるのは、人として生まれ変わった『皇柚真人』の方だった。自分自身は、その『皇柚真人』を守るために生まれた。なのにそれを果たすことができなかった。自分がしたのは、『皇柚真人』からすべてを奪った。そういうことになるのではないか。そういった思いが、現状、柚真人の中にないともいえない。その罪悪感や、自責、後悔、後ろめたさ。それが、こういうかたちになって表れているのか?
自分自身の性格に鑑みて言うなら、とてもそうも思えない。後悔や内省をすることはあっても、それを妄想にまでしてしまうようなことはない。けれど、ひとつあるとしたら、妹への――司への、罪悪感だ。
司にとっては、彼もまた、兄であったろう。いや、もしかしたら彼の方が兄だった。それを、自分が勝手に奪った。そのことに対する自責の念は、強くある。今でも、これを司にどう説明すべきか、司が知ればどう思うか、といったことは考えるのだ。必要だからしたこととはいえ、それで押しきっていい問題ではない。今は、司をどうにかして取り戻すことが先決だからと自分で自分に言い聞かせて考えないようにしているだけで。
しかし。
――きみが、自分を責める必要はないよ。
子供の姿をした、『柚真人』は、この夢を見るたびに、そうも言う。
それがどういうことなのか。それすら自分の願望に過ぎないのか、それとも本当に彼が自分を許すといっているのか。わからない。
――ただ、ぼくがときどきこうしてきみに会いに来るのは、ぼくがこうしてぼくであり続けるために、必要なことなんだ。もう、少しの間だけね。
柚真人には、意味がわからない。
なればやはり、これは自分の妄想などではなく、なにかの現象なのだろうかと――考えはいまのところ詮無く堂々巡りをするが。
すると、自分の心中を見透かしたように、『柚真人』は苦笑するのだ。
――もっと、いつものきみらしく考えればいいのに。
まるで、それを知っているかのような口ぶりで。
子供の姿のままのくせに。
そして。
――ぼくがいまいるのは、『そう』いう場所なんだ。でも、今は『ここ』に居続けなきゃいけない。ひとつ、やりのこしたことがあるからね。
それが決まって、『柚真人』が返してくる言葉だった。
やりのこしたことがある、と。
――それが済んだら、ぼくはきみの中に還るよ。だから、そんなにぼくのことを深く考えなくていい。ただ、ときどききみにあう必要がある。いまのところ、ぼくには、ね。
夢というのは、それ自体、ひとつの怪異でもある。なのに、わからない、ということが遺憾だった。
『緋』と呼ばれる自分は、すべての怪異を、その長として統べて来た。なのに。しかもほかならぬ自分自身のことなのに、この自分に、把握できないなどということがあろうか。
夢はそのまま、うっすらと夜明けの気配を感じて、解けていく。
いつも。
――そんなに、むずかしく考えなくてもいいんだよ。
――ぼくからしたら。
――ぼくは、きみで。きみは、ぼくだよ。
そんな言葉すら、果たして自分が自分にしている言い訳なのではないだろうか。
そんな疑念が、払えない。
☆
☆
「――そういえば、最近はどう? 例の、夢の話」
なんて訊かれたのは、だからだ。
柚真人はカウンターで隣の席に座っている女性に、ちょっと首を傾ける仕草で応えた。
「ああ――まあ、相変わらずだな」
背中の真ん中あたりまで緩く伸びたウェーブの髪に、職業を想像しづらいスーツ姿の女性は、暁水月だ。
皇の一族を構成する、暁家の長女。
かつて彼女は、柚真人の主治医であった。その関係で、柚真人の精神面でのサポートを医者の立場からまだときどきしてくれている。
しかし彼女自身には皇の神職に足りる能力は無く、現在彼女は、彼女自身の持てる技能の面で、皇の家業と関わりをもっている。たとえば、霊や怪異に悩まされていると訴える人間があるとして、それが本人の認識とは異なる疾病や疾患に基づく症状である場合も少なくない。暁の家は、そのような訴えに対処するための医療機関を運営するための家でもあった。
今日も、主には、柚真人と水月がここで顔を合わせているのはそれが理由だ。
仕事の話は取り敢えず終わったところで、カウンターテーブルの上にはまだ半分ほど残っている料理の皿がふたつばかりと、それぞれのグラスが乗っていた。
夢の話を柚真人が彼女にしてみたのは、それそこ、それがあくまでも今の自分の心の問題なのか、あるいはかつての自分と類似したような現象であるのか、柚真人自身にもわからないところがあったからである。
自分のこと、しかも自分の魂魄にかかわることであるはずなのに、当の本人わからないというのはおかしな話で、柚真人とてもうずっとそうは思っている。しかし彼女は柚真人の主治医であり、その側面、その視点から柚真人をずっと診てきた信頼のおける人間だったので、彼女にであれば訊いてみる理由と価値はあった。
柚真人と水月が『皇柚真人』について初めてきちんと向き合って話をしたのは、柚真人が高校生だった時のことだ。柚真人がまだ、自分の身に起きていることと、自分の身に施された呪の真実とその意味を知らなかった頃。
その頃、柚真人は自分が『柚真人』を守るために生まれた『柚真人』とは別の人格であるという認識をしていた。だというのに実の妹に募らせつつあったあらぬ恋情に苦しみ、少し疲れていたのだ。
水月のもとを訪れたのは、あの年の夏休みが終わったばかりの頃だったろうか。今振り返ると、若かったな、と思うし、子供だったな、とも思う。だが、それは致し方のないことでもあろう。柚真人はその時に、水月から、当時暁の長であり水月の父親でもあった暁圭吾が何をしたと推測されるかということを聞いたのだった。
そもそものことの起こりは、『柚真人』の両親、皇満と皇朔子という双子が、子供たちの目の前で凄惨きわまる事件を起こしたこと。その事件によって、『柚真人』は事件の記憶を中から追い出すために、柚真人を生み出した。いや――正確に言えば、『柚真人』は、その事件の衝撃で一時的に精神的な混乱を来した。むろん幼い子供であればそれは無理からぬ反応だった。なにしろ、『柚真人』は事件の現場で、頭から大量の両親の血を浴びて、真っ赤になった状態でいたからだ。その精神的な混乱に乗じて、暁圭吾が、『柚真人』の中から柚真人という存在を引きずり出した。――と、いうべきだった。
普通、医者のすることは、その逆だ。しかも暁圭吾は歴とした精神科医であった。だというのに圭吾が『柚真人』にしたことは、不安定になったこどもの精神をもとに、投薬や催眠などを駆使して、よりはっきりと人格をふたつに分けることだったのだ。
なんのためにそんなことをしたのか、わからない、と、当時の水月は柚真人に言った。
まあ、現状では、それがなんのためであったのか、はなんとなく推測がついている。これにかつて聞いた漣鎮護官からの話を合わせると、どうも暁圭吾は皇満と結託しており、『柚真人』の中から『鬼』を引き出そうとしたようなのだ。
『柚真人』が『鬼』の生まれ変わりであることは、勾玉の血脈の者であれば知りえたことだった。勾玉の血脈の者たちにとって、『緋の禍鬼』は討伐すべき存在で、古来より、緋色の花を咲かせて生まれ変わると伝わっていたからだ。
今の柚真人にはその縁起の記憶があり、自分を人として生まれ変わらせてくれたのもまた、勾玉の血脈に連なる者たちだった。だが、そのはじまりの物語は、千年以上の時が過ぎるうちに、歪み、捻じれ、忌むべき存在が人として生まれてくると、そんなふうに後世には伝わっていってしまったらしい。
つまり、『鬼』を『鬼』として今この世に引きずり出したらどうなるか。『皇柚真人』は、勾玉の血脈の者たちから、追われ、狩られる者となる。
ではなぜ、『柚真人』の父親である皇満と暁圭吾がそのようなことを目論んだか。それは、『柚真人』が――皇の次期当主候補であり、母親である皇朔子に、きちんと愛されていたからだった。
双子の妹を犯して孕ませた皇満は、すでに狂気に呑まれた思考で、妹と自分を引き裂いたのは、子供の柚真人であると考えた。また、暁圭吾は、暁の家に生まれながら神職能力をもたず、皇の神事――というより、圭吾が固執したのはその家督や名誉、地位のようなものであったろう――に関わることを許されなかったことが皇の家に対する恨みとなった。さらにいえば、圭吾は、自身の最初の子供であった水月もまた神職能力をもたずに生まれたことから、皇の家より強制的に後妻を迎えさせられている。そのことについての鬱屈も抱えていたのだろう。
そして、さらに。もうひとつ。おそらく、暁圭吾は、思いついた。表向きは患者として、幼い『柚真人』と問答を繰り返しているうちに。どうやら『柚真人』もまた、妹に強い執着を示す傾向にある。なれば、そこに仕掛けをしてやろう、と。
『柚真人』と柚真人を分けることに成功した暁圭吾は、『柚真人』を深い眠りにつかせた。同時に、柚真人に人格の主導権を与え、柚真人の中にある前世の記憶も眠らせた。そして、あるきっかけによって、柚真人の中で前世の記憶の蓋が開くようにした。そのきっかけとは、柚真人の『情動』だ。その針が振り切れた時にすべてが終わるように、圭吾は柚真人の意識に罠を仕掛けた。
これは、のちのちになって柚真人がすべての記憶を取り戻したあと、水月や、水月のもとに残った柚真人と暁圭吾とのやりとりの記録、皇を含めた勾玉の血脈の監視者である漣の証言、それに笄優麻などと推測を付き合わせてたどり着いた道筋でもあった。
そもそもあの夏の日、柚真人が水月に相談しようとしたのは、自分の中で眠っている『柚真人』を強制的に起こせるか、ということだった。
己が、妹の司に対してあってはならない想いを募らせ、本来あるべき自分の姿と自分の役目を見失いそうだという自覚が、柚真人にはあった。もう限界だ。いつか、この手がすべてを壊す。それを恐れた柚真人は、自分を止める手立てを求めた。
だが、そこにこそ暁圭吾の目付はあったわけで、そういう意味では柚真人はまんまと暁圭吾の策略にはまった――と言えた。まったく忌々しいことに。
あの日、水月と話をした柚真人は、水月から、過去の圭吾との不審な遣り取りの話を聞いて、そのまま暁圭吾を問い質そうとした。水月にもなにがなんだかわからないというのであれば、本人を質すほかないだろう、と。
しかしその日、暁圭吾は失踪した。
今も、その行方はわかっていない。
暁の家は、今は水月の妹である緋月が継ぎ、水月は暁が表の顔として運営してきた病院の経営を束ねている。
暁圭吾の失踪にまつわることは――未だひとつ残されている謎ではあった。