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第7話 水底の常世

ー/ー



 皇神社の社務所と皇邸の間には、小さな池というか、泉というか、のようなものがある。
 水面の広さとかたちでいえば、2メートル四方くらいといったところだろうか。周囲は黒っぽい石に囲まれていて、両脇からは注連縄が渡されてあり、水面はいつも硝子のように凪いでいる。
 夕暮れ時、神社の参拝時間が終わる頃、そこを通りがかったときに。
 ふと。
 そういえばこの池? に、いつからか、純白の鯉がいるのに気がついた飛鳥だ。
 数は、三匹。
 まったく同じような、真っ白の鯉だ。
 体長は30センチから40センチくりだろうか。
 池の水はとても透明度が高いので、覗くとその鯉の姿がはっきりくっきりとよく見えた。
 しかも、この鯉たちは普通の鯉と違って、長く美しい、ヒレを持つ。品種でいえば、鰭長錦鯉(ひれながにしきごい)というやつらしい。見慣れないひらひらしたものがいるなと思ったときに検索してみたらすぐに出てきた。
 その、鯉。
 思えば、いつから、ここに、いるんだっけ――? 
 

 飛鳥は、中学生のころからここには出入りしている。
 なのに、思い出せないのだ。思い出せない、というか、記憶にない、というか。
 学生のころは、なにもいない池だったはずだ。ただ、その池から皇神社は水を使っており、皇神社がこの池の水を神聖なものとして神前に供えたり、潔斎やお祓いに使用していることはしっていた。
 大学を卒業した頃も、とくに何もいなかった。と、思う。
 あれ? いやまじで、いつからだっけ? 
 っていうか鯉なんかここで飼い始めたら自分だったら気になってすぐに柚真人に尋ねていそうなものだ。なのに、思い返してみても、従兄弟の柚真人がここで鯉を飼っているようなそぶりをそもそもしていた記憶がない。
 んん?
 それって、いま思うとちょっと妙だな???
 そう思った飛鳥は、社務所に戻ると、緋月に聞いた。
 あの池の鯉って、いつからいるんだっけ? と。
 そうしたところが。
「あら、飛鳥さんご存知ありませんでしたの?」
「え?」
「あれは、うちの神使(しんし)ですのよ」
「ん?」
神使(しんし)、ですわ。どこの神社にもいらっしゃいますでしょう。まあ、普通は人には見えないことが多いようですけど。私は、正式にここに勤めるようになってから気が付いて、柚真人さまにお聞きしましたわ」
 何をいまさら言っているのか、というような顔を、緋月はしている。
 しかし飛鳥はといえば、神使、などといわれてもきょとんである。
 いや、もちろん飛鳥だって神社勤めの神職だから、神使のなんたるかということぐらいは知っている。ただ、それは一種の伝説とかおとぎ話のようなもので、自分事とはとらえていなかったのだ。この神社には子供の頃から通っているが、その時からそんなもの見たこともなかったし。だからそのまま大人になっても神職になってもまったく気にしたことがなかった。
 緋月にそう話すと、彼女からは呆れたような困ったような表情が向けられた。
「飛鳥さんらしいですわね……」
「じゃあ神使ってことは、あの鯉って、その、もしかしなくてもこの世の生き物じゃない……的な?」
「そういう言い方も、飛鳥さんは本当に変わらないですわね。もしかもなにもなく、神使は神使ですわよ」
「……」
「でも、確かに、私たちが普通にこの世界で見たり触ったりする生物ではありませんわね」
「……おお……」
 飛鳥さんて時々真面目に面白いですわ。
 などと緋月には言われてしまった。ころころとした、相変わらずの可愛らしい笑い声つきで。

      ☆

 というわけで緋月から聞いた話が衝撃で、飛鳥は次に柚真人を社務所で捕まえた。
 その日、宮司は参拝時間の終わりの方まで本殿で祈祷を行ったりしていて、飛鳥と緋月が神社の参拝時間を終えた後に社務所で事務仕事をしているところへ戻ってきた。飛鳥と緋月がこの時期に社務所に残っていたのは、いわゆる残業のようなものだ。この時期――秋も終わりになってくると、次第に年末年始もせまり、神社ではいろいろと用意しなければならない事柄が増えてくる。
 池の鯉のことなんだけど、と飛鳥が柚真人にも向けると、柚真人は言った。
「お前、もしかしてやっとあれが霊視えるようになったのか?」
「ん?」
 飛鳥は、先ほど緋月に見せたのと同じような、なんですと? の顔になる。
「いつまで経っても何も言わないからまったく霊視えてないのか、気づいてないんだろうなと思ってた。――だろ?」
 だろ? と決めつけないで欲しいところである。
 まあ、間違ってはいないのだが。
「緋月には以前訊かれたからいろいろ教えておいたが、まあ、別に知らなくてもなにも困るところもないからな……神使と交われる人間なんてのがそもそも今のご時世では希少だし」
 柚真人は続けた。
「あれは、実のところ俺が生まれる前からずっとここにいるらしい。ただ、俺もここに何かいるなと気がついたのは覚醒の一件の前後だったよ」
 覚醒の一件、というのは――例の、柚真人が前世の記憶を自覚することになった出来事のことだ。あの時を境に、いろいろなことが起こって、変わって、神社は巫女を失った。ゆえにか、柚真人はその頃のことに触れようとするとき、少し、口が重くなる。
 なるほど、それもあって自分との間でわざわざ話題に上らせてこなかったのかな、とも飛鳥はなんとなく察した。
 いや、しかし、気になることはそこではない。飛鳥としては、なにより驚いたのは、
「神使ってその……ほんとうにいるんだ???」
「そりゃ、まあ、いる――ってことになるな」
 柚真人は簡潔に答えた。
「つってもそれは、神社があって、祭神があるのと同じことだろ。神使は、その社と神とを繋ぐもの。もっといえば――俺、がここに存在するのとも同じことだ。そして――司がいま、ここにいないこととも同じこと」
「――……」
 言われてみればそれもそう、ではあった。
 つい今、察して、なんとなくそれとなく回避しようと試みたところに、逆を突くように彼が誰よりも大切に想う人の名が出て、飛鳥の言葉はそこで止まってしまった。
 とはいえ。だとしても別にだからといってそこに触れていけないわけではないのだ。彼女の話自体は今でも時々、自分たちの口に上るし、柚真人もそれを避けたりしない。何より、柚真人は彼女のことを少しも諦めたりしているわけでもなのだから。
 柚真人の反応が重くなるのは、あの日についての悔恨と自責を、彼が今も強く抱え続けているからに他ならない。それ以上に気にかけてしまうのは、どちらかというと自分の方だった。むしろ柚真人は自分よりずっと強く前を見ている。なのに不意を突かれて、飛鳥は少しばかり続ける言葉を探してしまい、沈黙がそこに帳を下ろした。
 その時、ふと席を立って、
「わたくし、お茶を淹れて来ますわね」
 と緋月が発したのは、そんな飛鳥を見計らってくれて、のことだったろう。緋月が、飛鳥と、柚真人と、そして司に向ける気遣いも、昔からずっと変わらない。
 緋月の立ち振る舞いとそんな思いにほっとすると、呪縛のような間が解ける。飛鳥は気を取りなおして、柚真人にもう一点気になるところを向けてみた。
「それにしたって、なんで俺、今ごろそれが急に見えるようになったわけ?」
 すると柚真人は口許を苦笑の感じに歪めた。しょうがないやつだなあ、というように。
「たぶんお前が気づかなかっただけでお前が感知出来るようになったのは今じゃない。ここにお前が勾玉の血脈の継承者として正式に神職として籍を置いたときから、その気になれば見えてたはずだ。緋月もそうだったし」
「ええ……それは、俺と緋月ちゃんが皇の……一族の人間だから? ってこと?」
「もちろん」
「じゃあ、他には?」
「ほか?」
「緋月ちゃんが、普通の人には見えないっていってたから。それって、そういう――こと?」
「お前のいうその、そういうこと、っていうのがいつものお前らしい『そういうこと』ならそうかな。時々は、見える人間もいるだろう」
「じゃ、もちろんうちの弁護士さんとかも……?」
 飛鳥が弁護士と呼ぶのは、笄優麻のことである。
 彼が柚真人と似ていながら少々非なる特殊な存在であることは、飛鳥も緋月も今は正しく認識している。飛鳥が言わんとしていることは柚真人もそれだけでわかったようで、ああ、と頷くと、
「あれは……あれはあれで、ヒトが悪いからなあ――もとから人じゃないけど。人じゃないから、あいつは、ずっと、知っていたようだよ。知っていて、でも、話す必要もないから黙っていた、ってところかな。だから優麻と神使はずっと意思の疎通もちゃんとできてるし……どちらかといえば、種族的には神使の方に近いわけだからな、あいつも――今の俺も」
「!」
 今の、俺も。
 その言い方に、飛鳥ははたと思った。いや、ここは思ったというより思ったことが口から出ていたというべきか。
 だって。
「意思の、疎通? てことは、――話、とかもできたりするの? あれ?」
 あれといったら柚真人が微苦笑のような表情になった。
「あれってお前」
 どうやら、柚真人でも、神使をあれ呼ばわりはいささか不敬と感じるようだ。
「話というか、意思の疎通はできる」
 というのが柚真人の答えだった。
「でも、相手は水の中だからな。それに形態が鯉だから、声は発しない。そうだろう?」
「てことは……話はするけどその……人の御霊と同じような? ってこと? テレパシーみたいな? 俺にはぜんぜんわかんないぽいけど。そういうの。さっきも、白い鯉がいるなーって思っただけだったし、見てても普通に泳いでるだけの鯉だったし」
「テ…………お前、ほんと昔から変わんないな」
「それ、さっき緋月ちゃんにも言われた」
「まあ、でも、言ってしまうとそんなようなもんだな。彼らも、思念で会話する。ただ、人の御霊の言葉を受け取るよりも種族的な親和性が必要だ。あるいは桁のひとつ違う霊力か、鍛錬か。姿が見える見えないも、同じことだよ。俺は、今の俺であることを選択してから彼らの言葉がわかるようになった。つまりそれだけ俺自身が向こうの同族に近づいた、ってことなんだろう。それがそのまま神職としてのの能力のかさましになってることにもなるが」
 優麻が昔からそうであるように。
 今の柚真人――つまり鬼、はヒトよりは神使に近いといえばそうではあろう。
 それから、柚真人は少し自嘲気味な笑みを飛鳥に見せた。
「けど優麻によると、彼らは俺がここに生まれた時から俺のことをそれはもう猛烈に忌み嫌っていたらしい。彼らは俺の本性を正しく知っていて、この社の主として認めるわけにはいかないと強硬に主張していたんだとさ」
「――」
「ただ、司には懐いていたとも言ってた。もちろん司も、あの池に神使がいるなんてことはまったく気がついてなかっただろうけどな」
「――」
「司には認識できなくても、神使の方が懐いてたっていうのはなんとなくわかるだろ?」
「――それは……うん」
 封じていても、自ら強く遮断しようとしていても、司は稀代の巫だった。だけでなく、彼女の持つ性格的な優しさや温かさのようなものが、神使には好ましかったのだろう。司自身は――それを自分の弱さだと捉えていたようなきらいがあったが。
 柚真人は、その名前をその口から紡ぎ出すとき、今でも、どの瞬間でも、本当に愛おしそうな顔をする。飛鳥が、彼女のことに触れる時、必要以上に気がかりになってしまうのはだからでもあった。
 柚真人がそういう表情を見せるぶんだけ、同じぶんだけ、きっと柚真人はずっと切なく辛くもあるのだろう、と飛鳥は思うのだ。そう思うと、柚真人の中には、触れてはならない傷口が、いつまでも開いたままになっている気がして、こちらも辛い。
「まあ、お前や緋月が俺たちよりそういうものに気づきにくいっていのは、いかに勾玉の血脈といってもその血は薄くなっていってるってことなんだろう。そういうことは、俺たちに限らず、他の神社でも起きていることだし、一般の神社には神職と神使との交わりなんてすでに耐えて久しいところもある。事実、お前たちでさえやっと存在に気がついたくらいなんだ。姿が見えてりゃ、うちの巫としちゃ十分に及第点だ」
 柚真人がそこまでいったとき、緋月が三人分のお茶のセットを盆の上に携えて戻ってきた。
 社務所には、授与所と作業場の二間がある。授与所は閉め、作業場の方にはテーブルがあって、事務作業の諸々はだいたいそこで行われる。
 柚真人と飛鳥はそこに向かい合っており、二人でテーブルの上に広げたもろもろ作業中のものを少し片すと、緋月がそこにお茶を置いていった。緋月自身は、柚真人と飛鳥の間に座る。
 そうして。
 「でも――鯉は鯉なわけじゃん? さっき、ずっとまえからいたらしいって言ってたけど、えっと……お前、あれに餌あげてたりしないよな? なんていうか、そういうの見かけた記憶もなかったから、あれって思ったんだけど。神使ってつまり、神使だから、あのままで、その……死なない、ってこと? この先もずっと?」
 飛鳥が発したその問いの答えは、飛鳥と緋月、ふたりで聞いた。そこから先の答えは、どうやら緋月もはじめて聞くものであったらしい。そして、そこそこに衝撃的な内容でもあった。
「鯉は。長く生きると――龍になるんだ。たぶん、千年くらい」
 そういう柚真人は、ふだん見る、人とは違う――どちらかというとそちら側の時間を生きはじめている者としての顔をしているように見えた。少なくとも、飛鳥には。
 いや、というか、何て? 
 突っ込むべきところはそっちだろう。
「――は? ……え、り??? 龍ぅう???」
「ああ」
 と、柚真人はなんでもないことのように頷くが。
「――鯉が? え、鯉が? 龍になるの?」
「ああ」
「…………そんなことある?」
「ある」
「てことは、あの池から、そのうち龍が出てくるってこと…………?」
 飛鳥がそう言ってしまったのは、そうはいってもあの池はどう見ても鯉サイズに最適だろうし、龍はデカくてなんとなく空に昇るというイメージがあったからだ。
 だが、柚真人の返答は飛鳥のそんなイメージとは違うものだった。
「うちの神使は、池からこちら側へは出られない。あそこは人の現世(うつしよ)と常世や幽世(かくりよ)との境目のようなもので、彼らは、時期が来ると常世に還って龍になると聞いている。あの池は、彼らの還るべき常世――ここは速佐須良比売(ハヤサスラヒメ)の社だから、彼らのいう常世とは根の国のことだろう。その、根の国と底で繋がっているという話だ」
「ね、の、くに?」
 ということは? と、瞬間、飛鳥が思ったことを緋月がそのまま口にした。
「とおっしゃいますと……それって、そのまま黄泉の国ということになりますの?」
 ここは確かに黄泉へと迷った死者を導く社だ。ここで自分たち神職が行う祭礼神事もおおむねそのためにある。しかし、その境内に、よもやまさかそのまま文字通り物理的に黄泉への入口があるとは思わないではないか。――ということだ。
 「正確には、黄泉の大神(オオカミ)伊邪那美命(イザナミノミコト)だ。我らの祭神は祓戸大神(ハラエドノオオカミ)の一柱。だから、繋がっているとしたら、黄泉津国(ヨモツクニ)の手前……黄泉平坂(ヨモツヒラサカ)といったところじゃないか」
「よもつひらさか」
 それはそれでそんなことある? という名称であろう。
 柚真人もわずかに説明はしあぐねるといった感じはあった。
「根の国というものそのものがどんなものかは俺にもちょっとはかりかねる。が、一説には海の果てとか、水の底、という話もある。となると、神使が鯉や龍だったり、水底が常世に通じていたとしても、おかしいくはない話ではあるんだろう。っつーか、神使は人間の認識とスケールで話をしないからそこのところは俺もなんとも意味が通じないんだ。こっちが疑問に思っていることそのものを理解しないというか。あいつらはずっと池の中だから神使の中でもとくにおそろしく頭が古い。あと、俺を未だに嫌っていてまともに話をしたがらない」
「――」
「ま、実際、あの池は、うちの一族の墓所でもあるんだ。代々、皇の当主の。その遺骸を池に鎮めると、ひと晩で跡形もなくなるそうだ。皇の当主は、代々、そうやってあの池に水葬されてきたらしい」
「――」
「――水葬、ですか」
「そう。そういう意味で、皇の代々の当主にとってはあの池が文字通りかつ物理的に黄泉の国ではあるだろうな」
「ええ……。いや、でも、あの池の水って――」
「そう。水そのものはとくに何の変哲もない、ただの水、だ。手水にも引いてるし、飲んだりもできる」
「――」
「というか、特殊な清水、聖水、ではあるな。でも、生きている者が触れてもなにかがおこるというわけではないそうだ。別に、酸や薬品みたいに死体を溶かすとか、そういう話じゃあないんだよ。ただ、池からくみ上げた水には強力な浄化と祓いの力がある。神使が棲んでる水だから、尋常ならざる神気を帯びているというわけだ。だから、うちではお焚き上げのような祓いの代わりに池の水を使うだろ。水で洗い清め、穢れを落とす。というか……その池と水があったから、ここに死者のための社が出来た――そういう縁起なのかもしれないな」
 社の神使に、生まれながらにして未だ嫌われ認められぬと言われると笑う宮司が、そもそも人を棄てた鬼。
 あの日。その宮司が、己を苛み続ける悔いを抱えることとなるはじまりとなった日。その日を境に、自らもまた踏み込んだ世界が、ここにある。
 そのただ中にいるのだことを、飛鳥はあらためて思い知った気がした。
 そして。
「えと、柚真人くん?」
「うん?」
「その……神使に嫌われてるって、まじめに?」
 思わず訊いてしまったのは、柚真人がどれほどのものを抱えて、この社を守っているか、知っているからだ。なのに、お前は笑ってそんなことをいうのか、と。何故か飛鳥が、柚真人のふるまいに切なくなった。
 問うと、柚真人はちょっとの間の後で、
「――そうだな。好かれてはいないな。なにしろ――俺は、彼らの仕える神とは対極に在るもんでね」
 そんなふうに、嘯いた。

       ☆

 その日の残業を終えて、飛鳥が退勤する頃には、境内はすっかり闇に呑まれていた。中高校生の頃は夕食までここに入り浸っていたものだ。今はそれも遠い昔のことになり、飛鳥にも緋月にも自分の家と家庭がある。
 飛鳥は今日社務所で交わした柚真人や緋月との会話が気になって、もう一度、池を覗いてみることにした。
 ここに、神使なるものがいる。
 そう思って覗くのと、そういう気持ちがないのとでも、そもそも話は違うのかもしれない。
 昼間や夕方と変わらず、透明な氷のように凪いだ水の中には、水面をすこしも波立たせることもなく、やはり、白くひらひらとしたキレイな鯉が泳いでいた。
「……神使、ねえ」
 つぶやいてみても、鯉は鯉だ。
 少なくとも、飛鳥にとっては。
 ただ、神使と思えばこそなのか、あまりにもその躰が白すぎるためなか、三匹の鯉は、水の中でうっすらとした燐光を纏ってでもいるかのようにも――見えた。
 その水底に、黄泉がある。
 そう言われても、なるほどなあと思うような眺めだ。
「……俺からすると。もうちょっと今の宮司を好いてやって欲しいけどなあ。あれであいつはこの神社のこともちゃんと大事にしているし、いいやつなんだよ」
 飛鳥は、水面にそう洩らした。
 しかしただ人の言葉もまた、向こう側へはきっと届かないのだろう。というか、ついさっきがた、やっとその存在を意識することができた人間の言葉など、聞いてもらえるはずも――ないか。当然ながらいらえはなく、飛鳥はもう少し池の鯉を眺めたあとで、帰路につくため、踵を返した。
 飛鳥がその場を離れた後で、鯉があれほど凪いでいた池の水面を揺らし、ちゃぽん、と音を立てて水が跳ねたが。
 その音を聴くものは、いなかった。


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 皇神社の社務所と皇邸の間には、小さな池というか、泉というか、のようなものがある。
 水面の広さとかたちでいえば、2メートル四方くらいといったところだろうか。周囲は黒っぽい石に囲まれていて、両脇からは注連縄が渡されてあり、水面はいつも硝子のように凪いでいる。
 夕暮れ時、神社の参拝時間が終わる頃、そこを通りがかったときに。
 ふと。
 そういえばこの池? に、いつからか、純白の鯉がいるのに気がついた飛鳥だ。
 数は、三匹。
 まったく同じような、真っ白の鯉だ。
 体長は30センチから40センチくりだろうか。
 池の水はとても透明度が高いので、覗くとその鯉の姿がはっきりくっきりとよく見えた。
 しかも、この鯉たちは普通の鯉と違って、長く美しい、ヒレを持つ。品種でいえば、|鰭長錦鯉《ひれながにしきごい》というやつらしい。見慣れないひらひらしたものがいるなと思ったときに検索してみたらすぐに出てきた。
 その、鯉。
 思えば、いつから、ここに、いるんだっけ――? 
 飛鳥は、中学生のころからここには出入りしている。
 なのに、思い出せないのだ。思い出せない、というか、記憶にない、というか。
 学生のころは、なにもいない池だったはずだ。ただ、その池から皇神社は水を使っており、皇神社がこの池の水を神聖なものとして神前に供えたり、潔斎やお祓いに使用していることはしっていた。
 大学を卒業した頃も、とくに何もいなかった。と、思う。
 あれ? いやまじで、いつからだっけ? 
 っていうか鯉なんかここで飼い始めたら自分だったら気になってすぐに柚真人に尋ねていそうなものだ。なのに、思い返してみても、従兄弟の柚真人がここで鯉を飼っているようなそぶりをそもそもしていた記憶がない。
 んん?
 それって、いま思うとちょっと妙だな???
 そう思った飛鳥は、社務所に戻ると、緋月に聞いた。
 あの池の鯉って、いつからいるんだっけ? と。
 そうしたところが。
「あら、飛鳥さんご存知ありませんでしたの?」
「え?」
「あれは、うちの|神使《しんし》ですのよ」
「ん?」
「|神使《しんし》、ですわ。どこの神社にもいらっしゃいますでしょう。まあ、普通は人には見えないことが多いようですけど。私は、正式にここに勤めるようになってから気が付いて、柚真人さまにお聞きしましたわ」
 何をいまさら言っているのか、というような顔を、緋月はしている。
 しかし飛鳥はといえば、神使、などといわれてもきょとんである。
 いや、もちろん飛鳥だって神社勤めの神職だから、神使のなんたるかということぐらいは知っている。ただ、それは一種の伝説とかおとぎ話のようなもので、自分事とはとらえていなかったのだ。この神社には子供の頃から通っているが、その時からそんなもの見たこともなかったし。だからそのまま大人になっても神職になってもまったく気にしたことがなかった。
 緋月にそう話すと、彼女からは呆れたような困ったような表情が向けられた。
「飛鳥さんらしいですわね……」
「じゃあ神使ってことは、あの鯉って、その、もしかしなくてもこの世の生き物じゃない……的な?」
「そういう言い方も、飛鳥さんは本当に変わらないですわね。もしかもなにもなく、神使は神使ですわよ」
「……」
「でも、確かに、私たちが普通にこの世界で見たり触ったりする生物ではありませんわね」
「……おお……」
 飛鳥さんて時々真面目に面白いですわ。
 などと緋月には言われてしまった。ころころとした、相変わらずの可愛らしい笑い声つきで。
      ☆
 というわけで緋月から聞いた話が衝撃で、飛鳥は次に柚真人を社務所で捕まえた。
 その日、宮司は参拝時間の終わりの方まで本殿で祈祷を行ったりしていて、飛鳥と緋月が神社の参拝時間を終えた後に社務所で事務仕事をしているところへ戻ってきた。飛鳥と緋月がこの時期に社務所に残っていたのは、いわゆる残業のようなものだ。この時期――秋も終わりになってくると、次第に年末年始もせまり、神社ではいろいろと用意しなければならない事柄が増えてくる。
 池の鯉のことなんだけど、と飛鳥が柚真人にも向けると、柚真人は言った。
「お前、もしかしてやっとあれが霊視えるようになったのか?」
「ん?」
 飛鳥は、先ほど緋月に見せたのと同じような、なんですと? の顔になる。
「いつまで経っても何も言わないからまったく霊視えてないのか、気づいてないんだろうなと思ってた。――だろ?」
 だろ? と決めつけないで欲しいところである。
 まあ、間違ってはいないのだが。
「緋月には以前訊かれたからいろいろ教えておいたが、まあ、別に知らなくてもなにも困るところもないからな……神使と交われる人間なんてのがそもそも今のご時世では希少だし」
 柚真人は続けた。
「あれは、実のところ俺が生まれる前からずっとここにいるらしい。ただ、俺もここに何かいるなと気がついたのは覚醒の一件の前後だったよ」
 覚醒の一件、というのは――例の、柚真人が前世の記憶を自覚することになった出来事のことだ。あの時を境に、いろいろなことが起こって、変わって、神社は巫女を失った。ゆえにか、柚真人はその頃のことに触れようとするとき、少し、口が重くなる。
 なるほど、それもあって自分との間でわざわざ話題に上らせてこなかったのかな、とも飛鳥はなんとなく察した。
 いや、しかし、気になることはそこではない。飛鳥としては、なにより驚いたのは、
「神使ってその……ほんとうにいるんだ???」
「そりゃ、まあ、いる――ってことになるな」
 柚真人は簡潔に答えた。
「つってもそれは、神社があって、祭神があるのと同じことだろ。神使は、その社と神とを繋ぐもの。もっといえば――俺、がここに存在するのとも同じことだ。そして――司がいま、ここにいないこととも同じこと」
「――……」
 言われてみればそれもそう、ではあった。
 つい今、察して、なんとなくそれとなく回避しようと試みたところに、逆を突くように彼が誰よりも大切に想う人の名が出て、飛鳥の言葉はそこで止まってしまった。
 とはいえ。だとしても別にだからといってそこに触れていけないわけではないのだ。彼女の話自体は今でも時々、自分たちの口に上るし、柚真人もそれを避けたりしない。何より、柚真人は彼女のことを少しも諦めたりしているわけでもなのだから。
 柚真人の反応が重くなるのは、あの日についての悔恨と自責を、彼が今も強く抱え続けているからに他ならない。それ以上に気にかけてしまうのは、どちらかというと自分の方だった。むしろ柚真人は自分よりずっと強く前を見ている。なのに不意を突かれて、飛鳥は少しばかり続ける言葉を探してしまい、沈黙がそこに帳を下ろした。
 その時、ふと席を立って、
「わたくし、お茶を淹れて来ますわね」
 と緋月が発したのは、そんな飛鳥を見計らってくれて、のことだったろう。緋月が、飛鳥と、柚真人と、そして司に向ける気遣いも、昔からずっと変わらない。
 緋月の立ち振る舞いとそんな思いにほっとすると、呪縛のような間が解ける。飛鳥は気を取りなおして、柚真人にもう一点気になるところを向けてみた。
「それにしたって、なんで俺、今ごろそれが急に見えるようになったわけ?」
 すると柚真人は口許を苦笑の感じに歪めた。しょうがないやつだなあ、というように。
「たぶんお前が気づかなかっただけでお前が感知出来るようになったのは今じゃない。ここにお前が勾玉の血脈の継承者として正式に神職として籍を置いたときから、その気になれば見えてたはずだ。緋月もそうだったし」
「ええ……それは、俺と緋月ちゃんが皇の……一族の人間だから? ってこと?」
「もちろん」
「じゃあ、他には?」
「ほか?」
「緋月ちゃんが、普通の人には見えないっていってたから。それって、そういう――こと?」
「お前のいうその、そういうこと、っていうのがいつものお前らしい『そういうこと』ならそうかな。時々は、見える人間もいるだろう」
「じゃ、もちろんうちの弁護士さんとかも……?」
 飛鳥が弁護士と呼ぶのは、笄優麻のことである。
 彼が柚真人と似ていながら少々非なる特殊な存在であることは、飛鳥も緋月も今は正しく認識している。飛鳥が言わんとしていることは柚真人もそれだけでわかったようで、ああ、と頷くと、
「あれは……あれはあれで、ヒトが悪いからなあ――もとから人じゃないけど。人じゃないから、あいつは、ずっと、知っていたようだよ。知っていて、でも、話す必要もないから黙っていた、ってところかな。だから優麻と神使はずっと意思の疎通もちゃんとできてるし……どちらかといえば、種族的には神使の方に近いわけだからな、あいつも――今の俺も」
「!」
 今の、俺も。
 その言い方に、飛鳥ははたと思った。いや、ここは思ったというより思ったことが口から出ていたというべきか。
 だって。
「意思の、疎通? てことは、――話、とかもできたりするの? あれ?」
 あれといったら柚真人が微苦笑のような表情になった。
「あれってお前」
 どうやら、柚真人でも、神使をあれ呼ばわりはいささか不敬と感じるようだ。
「話というか、意思の疎通はできる」
 というのが柚真人の答えだった。
「でも、相手は水の中だからな。それに形態が鯉だから、声は発しない。そうだろう?」
「てことは……話はするけどその……人の御霊と同じような? ってこと? テレパシーみたいな? 俺にはぜんぜんわかんないぽいけど。そういうの。さっきも、白い鯉がいるなーって思っただけだったし、見てても普通に泳いでるだけの鯉だったし」
「テ…………お前、ほんと昔から変わんないな」
「それ、さっき緋月ちゃんにも言われた」
「まあ、でも、言ってしまうとそんなようなもんだな。彼らも、思念で会話する。ただ、人の御霊の言葉を受け取るよりも種族的な親和性が必要だ。あるいは桁のひとつ違う霊力か、鍛錬か。姿が見える見えないも、同じことだよ。俺は、今の俺であることを選択してから彼らの言葉がわかるようになった。つまりそれだけ俺自身が向こうの同族に近づいた、ってことなんだろう。それがそのまま神職としてのの能力のかさましになってることにもなるが」
 優麻が昔からそうであるように。
 今の柚真人――つまり鬼、はヒトよりは神使に近いといえばそうではあろう。
 それから、柚真人は少し自嘲気味な笑みを飛鳥に見せた。
「けど優麻によると、彼らは俺がここに生まれた時から俺のことをそれはもう猛烈に忌み嫌っていたらしい。彼らは俺の本性を正しく知っていて、この社の主として認めるわけにはいかないと強硬に主張していたんだとさ」
「――」
「ただ、司には懐いていたとも言ってた。もちろん司も、あの池に神使がいるなんてことはまったく気がついてなかっただろうけどな」
「――」
「司には認識できなくても、神使の方が懐いてたっていうのはなんとなくわかるだろ?」
「――それは……うん」
 封じていても、自ら強く遮断しようとしていても、司は稀代の巫だった。だけでなく、彼女の持つ性格的な優しさや温かさのようなものが、神使には好ましかったのだろう。司自身は――それを自分の弱さだと捉えていたようなきらいがあったが。
 柚真人は、その名前をその口から紡ぎ出すとき、今でも、どの瞬間でも、本当に愛おしそうな顔をする。飛鳥が、彼女のことに触れる時、必要以上に気がかりになってしまうのはだからでもあった。
 柚真人がそういう表情を見せるぶんだけ、同じぶんだけ、きっと柚真人はずっと切なく辛くもあるのだろう、と飛鳥は思うのだ。そう思うと、柚真人の中には、触れてはならない傷口が、いつまでも開いたままになっている気がして、こちらも辛い。
「まあ、お前や緋月が俺たちよりそういうものに気づきにくいっていのは、いかに勾玉の血脈といってもその血は薄くなっていってるってことなんだろう。そういうことは、俺たちに限らず、他の神社でも起きていることだし、一般の神社には神職と神使との交わりなんてすでに耐えて久しいところもある。事実、お前たちでさえやっと存在に気がついたくらいなんだ。姿が見えてりゃ、うちの巫としちゃ十分に及第点だ」
 柚真人がそこまでいったとき、緋月が三人分のお茶のセットを盆の上に携えて戻ってきた。
 社務所には、授与所と作業場の二間がある。授与所は閉め、作業場の方にはテーブルがあって、事務作業の諸々はだいたいそこで行われる。
 柚真人と飛鳥はそこに向かい合っており、二人でテーブルの上に広げたもろもろ作業中のものを少し片すと、緋月がそこにお茶を置いていった。緋月自身は、柚真人と飛鳥の間に座る。
 そうして。
 「でも――鯉は鯉なわけじゃん? さっき、ずっとまえからいたらしいって言ってたけど、えっと……お前、あれに餌あげてたりしないよな? なんていうか、そういうの見かけた記憶もなかったから、あれって思ったんだけど。神使ってつまり、神使だから、あのままで、その……死なない、ってこと? この先もずっと?」
 飛鳥が発したその問いの答えは、飛鳥と緋月、ふたりで聞いた。そこから先の答えは、どうやら緋月もはじめて聞くものであったらしい。そして、そこそこに衝撃的な内容でもあった。
「鯉は。長く生きると――龍になるんだ。たぶん、千年くらい」
 そういう柚真人は、ふだん見る、人とは違う――どちらかというとそちら側の時間を生きはじめている者としての顔をしているように見えた。少なくとも、飛鳥には。
 いや、というか、何て? 
 突っ込むべきところはそっちだろう。
「――は? ……え、り??? 龍ぅう???」
「ああ」
 と、柚真人はなんでもないことのように頷くが。
「――鯉が? え、鯉が? 龍になるの?」
「ああ」
「…………そんなことある?」
「ある」
「てことは、あの池から、そのうち龍が出てくるってこと…………?」
 飛鳥がそう言ってしまったのは、そうはいってもあの池はどう見ても鯉サイズに最適だろうし、龍はデカくてなんとなく空に昇るというイメージがあったからだ。
 だが、柚真人の返答は飛鳥のそんなイメージとは違うものだった。
「うちの神使は、池からこちら側へは出られない。あそこは人の|現世《うつしよ》と常世や|幽世《かくりよ》との境目のようなもので、彼らは、時期が来ると常世に還って龍になると聞いている。あの池は、彼らの還るべき常世――ここは|速佐須良比売《ハヤサスラヒメ》の社だから、彼らのいう常世とは根の国のことだろう。その、根の国と底で繋がっているという話だ」
「ね、の、くに?」
 ということは? と、瞬間、飛鳥が思ったことを緋月がそのまま口にした。
「とおっしゃいますと……それって、そのまま黄泉の国ということになりますの?」
 ここは確かに黄泉へと迷った死者を導く社だ。ここで自分たち神職が行う祭礼神事もおおむねそのためにある。しかし、その境内に、よもやまさかそのまま文字通り物理的に黄泉への入口があるとは思わないではないか。――ということだ。
 「正確には、黄泉の|大神《オオカミ》は|伊邪那美命《イザナミノミコト》だ。我らの祭神は|祓戸大神《ハラエドノオオカミ》の一柱。だから、繋がっているとしたら、|黄泉津国《ヨモツクニ》の手前……|黄泉平坂《ヨモツヒラサカ》といったところじゃないか」
「よもつひらさか」
 それはそれでそんなことある? という名称であろう。
 柚真人もわずかに説明はしあぐねるといった感じはあった。
「根の国というものそのものがどんなものかは俺にもちょっとはかりかねる。が、一説には海の果てとか、水の底、という話もある。となると、神使が鯉や龍だったり、水底が常世に通じていたとしても、おかしいくはない話ではあるんだろう。っつーか、神使は人間の認識とスケールで話をしないからそこのところは俺もなんとも意味が通じないんだ。こっちが疑問に思っていることそのものを理解しないというか。あいつらはずっと池の中だから神使の中でもとくにおそろしく頭が古い。あと、俺を未だに嫌っていてまともに話をしたがらない」
「――」
「ま、実際、あの池は、うちの一族の墓所でもあるんだ。代々、皇の当主の。その遺骸を池に鎮めると、ひと晩で跡形もなくなるそうだ。皇の当主は、代々、そうやってあの池に水葬されてきたらしい」
「――」
「――水葬、ですか」
「そう。そういう意味で、皇の代々の当主にとってはあの池が文字通りかつ物理的に黄泉の国ではあるだろうな」
「ええ……。いや、でも、あの池の水って――」
「そう。水そのものはとくに何の変哲もない、ただの水、だ。手水にも引いてるし、飲んだりもできる」
「――」
「というか、特殊な清水、聖水、ではあるな。でも、生きている者が触れてもなにかがおこるというわけではないそうだ。別に、酸や薬品みたいに死体を溶かすとか、そういう話じゃあないんだよ。ただ、池からくみ上げた水には強力な浄化と祓いの力がある。神使が棲んでる水だから、尋常ならざる神気を帯びているというわけだ。だから、うちではお焚き上げのような祓いの代わりに池の水を使うだろ。水で洗い清め、穢れを落とす。というか……その池と水があったから、ここに死者のための社が出来た――そういう縁起なのかもしれないな」
 社の神使に、生まれながらにして未だ嫌われ認められぬと言われると笑う宮司が、そもそも人を棄てた鬼。
 あの日。その宮司が、己を苛み続ける悔いを抱えることとなるはじまりとなった日。その日を境に、自らもまた踏み込んだ世界が、ここにある。
 そのただ中にいるのだことを、飛鳥はあらためて思い知った気がした。
 そして。
「えと、柚真人くん?」
「うん?」
「その……神使に嫌われてるって、まじめに?」
 思わず訊いてしまったのは、柚真人がどれほどのものを抱えて、この社を守っているか、知っているからだ。なのに、お前は笑ってそんなことをいうのか、と。何故か飛鳥が、柚真人のふるまいに切なくなった。
 問うと、柚真人はちょっとの間の後で、
「――そうだな。好かれてはいないな。なにしろ――俺は、彼らの仕える神とは対極に在るもんでね」
 そんなふうに、嘯いた。
       ☆
 その日の残業を終えて、飛鳥が退勤する頃には、境内はすっかり闇に呑まれていた。中高校生の頃は夕食までここに入り浸っていたものだ。今はそれも遠い昔のことになり、飛鳥にも緋月にも自分の家と家庭がある。
 飛鳥は今日社務所で交わした柚真人や緋月との会話が気になって、もう一度、池を覗いてみることにした。
 ここに、神使なるものがいる。
 そう思って覗くのと、そういう気持ちがないのとでも、そもそも話は違うのかもしれない。
 昼間や夕方と変わらず、透明な氷のように凪いだ水の中には、水面をすこしも波立たせることもなく、やはり、白くひらひらとしたキレイな鯉が泳いでいた。
「……神使、ねえ」
 つぶやいてみても、鯉は鯉だ。
 少なくとも、飛鳥にとっては。
 ただ、神使と思えばこそなのか、あまりにもその躰が白すぎるためなか、三匹の鯉は、水の中でうっすらとした燐光を纏ってでもいるかのようにも――見えた。
 その水底に、黄泉がある。
 そう言われても、なるほどなあと思うような眺めだ。
「……俺からすると。もうちょっと今の宮司を好いてやって欲しいけどなあ。あれであいつはこの神社のこともちゃんと大事にしているし、いいやつなんだよ」
 飛鳥は、水面にそう洩らした。
 しかしただ人の言葉もまた、向こう側へはきっと届かないのだろう。というか、ついさっきがた、やっとその存在を意識することができた人間の言葉など、聞いてもらえるはずも――ないか。当然ながらいらえはなく、飛鳥はもう少し池の鯉を眺めたあとで、帰路につくため、踵を返した。
 飛鳥がその場を離れた後で、鯉があれほど凪いでいた池の水面を揺らし、ちゃぽん、と音を立てて水が跳ねたが。
 その音を聴くものは、いなかった。