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持ち余した獣

ー/ー



 覚めているのか、眠っているのか。その区別さえ、この部屋では意味をなさない。四方を閉ざした遮光カーテンは、太陽の存在を拒否し続けている。いまが昼なのか夜なのか、それを知る手立ては、枕元のスマートフォンが放つ、無機質な明かりだけだ。私は仰向けになったまま、天井の木目を数える。もう何度数えたか分からない。それは染みひとつない、無個性な天井だ。この安アパートの天井も、私という存在も、ひどく似通っているように思えた。

 何もしていない。
 本当に、何ひとつ。かつては、何かを為さねばならぬという焦燥があった。大学を出て、小さな出版社に潜り込んだ頃は、自分は何か特別なものを生み出せるはずだという、根拠のない自負があった。だが、それは単なる思い上がりだった。同僚たちの、生活に根差した堅実な会話。当たり障りのない雑談。そのすべてが、私には理解できない外国語のように聞こえた。彼らの常識は、私の常識ではなかった。私は、彼らのように『普通』に振る舞うことができなかった。笑うべき場所でうまく笑えず、怒るべき場所で無感動だった。次第に私は、周囲から浮き上がっていった。いや、あるいは最初から、私は彼らの世界に属していなかったのだ。退職届を出した日の空の青さを、なぜか今でもはっきりと覚えている。

 それ以来、私はこの六畳一間の空間からほとんど出ていない。
 親からの仕送りは、まだ細々と続いている。彼らは、私が『療養中』であると信じている。何を療養しているのか。私にも分からない。ただ、生きていることが、ひどく疲れるのだ。
 外の世界との繋がりは、この冷たい板状の機械だけだ。匿名の言葉が流れては消えていく、どこか薄情とも感じられるような情報発信の仕組み。そこでは、私も雄弁になれる。もっともらしい批評を書き連ね、世の中を憂い、誰かの浅薄さを嘲笑う。だが、画面を消せば、そこには虚ろな目をした、三十路手前の男が横たわっているだけだ。私自身の浅薄さこそ、誰が笑ってくれるというのか。

 空腹を感じて、ゆっくりと体を起こす。床に散らばった菓子の袋を踏みつけないよう、慎重に足を運ぶ。冷蔵庫を開けると、冷気とともに、期限の切れた牛乳の酸っぱい匂いが鼻をついた。それ以外には、色の変わった野菜がいくつか。私はため息をひとつ吐き、結局、水道の水を無機質に喉へ流し込んだ。

 その時だった。

 ピコン、と。スマートフォンが、乾いた電子音を立てた。
 あそこの、匿名のアカウントではない。もっと古い、私の『本名』に紐付けられた通信手段だ。誰だろう。親か。あるいは、何かの督促か。
 私はゆっくりとベッドに戻り、画面を覗き込む。
 そこに表示されていた名前に、私は息を詰めた。

「砂川」

 大学時代の、友人だった。いや、友人と呼んでいいのか。私にとって彼は、唯一、私がいわゆる『道化』を演じなくても、そばにいてくれた人間だった。彼は私の中にわだかまる、この得体の知れない自意識や、他者への不信感を、まるで気にも留めないかのように、いつも穏やかに笑っていた。私がどれほど捻くれた理屈をこねても、「君は面白いことを考えるな」と、ただ感心するだけだった。
 彼とは、卒業以来、ほとんど連絡を取っていなかった。私が会社を辞めたことも、こんな生活をしていることも、彼はおそらく知らない。

『久しぶり。元気か? 来週、こっちに出張で戻るんだ。よかったら、少しだけでもお茶しないか?』

 短い文面だった。そこには、何の悪意も、探るような意図もない。ただ、純粋な好意だけが感じられた。
 だからこそ、苦しかった。
 今の私を、この抜け殻のような私を、彼に見せるのか。
 断ろう。居留守を使おう。『体調が悪い』とでも返事をすればいい。だが、指が動かなかった。
 私の内側で、二つの声が言い争っている。
 見られたくない、という私。
 そして、砂川になら、この地獄から引き上げてもらえるかもしれない、と微かな期待を抱く私。
 結局、私は『分かった。駅前のカフェで』と、それだけを打ち返していた。自分でも、なぜそんな返事をしたのか、分からなかった。



 約束の日。私は数ヶ月ぶりに、まともな衣服に袖を通した。最後に着たのがいつだったか思い出せない、皺の寄ったシャツ。それを無理やり伸ばし、埃の浮いたズボンを履く。顔を洗い、伸びすぎた髭を剃る。剃刀の刃が肌を滑る感触が、ひどく久しぶりだった。水で濡らした髪を整えながら、洗面台のくすんだ表面に映る自分を見る。目の下には濃い隈が張り付き、頬はこけ、まるで病人のようだった。こんな顔で、彼に会うのか。

 アパートのドアを開けると、生ぬるい空気が頬を撫でた。外に出ると、日の光が網膜を焼いた。眩暈がする。世界は、私が部屋にこもっている間も、当たり前のように動き続けていたらしい。車の走行音、遠くの工事の音、話し声。それらすべてが、ひとつの巨大な音の塊となって私に襲いかかる。人々が、私を避けて通る気がした。彼らの視線が、私の薄汚れたシャツや、生気のない顔つきを値踏みしているように感じられる。私は俯き、足早に駅へと向かった。

 指定された店は、駅前に新しくできた、どこにでもある大手チェーンのカフェだった。緑色の円い看板。ガラス張りの店内は、平日の昼間だというのに、多くの人で埋まっている。私は一度、入り口の前で立ち止まった。このまま引き返そうか。だが、ガラスの向こう、奥の席で、砂川がこちらに気づき、人懐こい笑顔で軽く手を挙げているのが見えた。もう、逃げられない。
 自動ドアが開き、エアコンの風と、焙煎された豆のありふれた香りが私を迎えた。カウンターでは、制服を着た店員が、マニュアル通りの抑揚で「いらっしゃいませ」と繰り返している。私はその列に並ぶのが億劫で、先に砂川の席へ向かった。

「おお、久しぶり」

 砂川の声は、昔と変わっていなかった。

「……ああ」

 私は曖昧に頷きながら、彼の向かいの席に腰を下ろした。プラスチック製の椅子が、ぎし、と小さな音を立てた。

「何か飲むだろ? 俺、買ってくるよ。ブレンドでいいか?」
「いや、いい。自分で……」
「いいって、いいって。座ってろよ」

 彼はそう言って、財布を手に立ち上がり、混雑するカウンターの方へ行ってしまった。私は、手持ち無沙汰にテーブルの上を見つめる。学生が教科書を広げ、老夫婦が静かに新聞を読み、若い女性たちが甲高い声で笑い合っている。ここは、健全な市民の場所だ。私のような人間がいていい場所ではない。

 すぐに砂川が、二つの紙コップをトレイに乗せて戻ってきた。

「はい、ブレンド。熱いから気をつけろよ」
「……すまない」
「水くさいな。それより、本当に久しぶりだ。何年だ? 五年か?」
「そんなになるか……」
「なるさ。お互い、歳食うわけだ」

 彼はそう言って笑った。少しだけ疲れているように見えたが、根本的には何も変わっていなかった。彼の周囲だけ、空気が穏やかな気がした。それが、私には不思議だった。

「元気そう……とは言えないか。少し痩せたな」
「まあ、色々あって」

 私は、当たり障りのない返事をしながら、紙コップを両手で包んだ。伝わってくる熱だけが、今ここにいるという現実感を教えてくれる。

「そっちはどうなんだ。出張って、忙しいのか」
「ああ。今は地方の支社にいるんだ。まあ、忙しいけど、充実はしてるよ。車がないとどこにも行けないような場所だけど、空気は美味いし、人もいい」
「そうか」

 会話が途切れた。私はコーヒーを一口飲む。苦く、薄い味がした。

「……あ、そうだ」

 砂川が、何かを思い出したように言った。

「実は、俺、結婚したんだ。去年の春」

 彼はそう言って、スマートフォンを取り出した。慣れた手つきで画面を操作し、私の方へ差し出す。

「で、これが先月」

 画面には、彼と、見知らぬ女性。そして、二人に抱かれた、小さな赤ん坊が写っていた。背景は、おそらく彼の新しい家なのだろう。簡素だが、生活の匂いがする部屋だった。
 私は、その画面を見つめた。赤ん坊は、小さく、しわくちゃで、生きているという実感が、そこには凝縮されていた。

 彼が手に入れたもの。

 生活。家族。未来。

「……おめでとう」

 声が、思ったよりもかすれていた。

「ありがとう。いやあ、大変だよ、子育てって。寝る暇もなくてさ。昨夜も夜泣きでたたき起こされて」

 彼は嬉しそうに、父親としての苦労を語り始めた。その横顔は、私の知っている学生時代の彼よりも、ずっと大人びて見えた。
 私は、それを聞きながら、手元のコーヒーに視線を落とす。黒い液体が、ゆらゆらと表面を揺らしている。
 私は、彼のいる世界から、どれほど遠くへ来てしまったのだろう。彼の言葉は、私には届かない。それは、健やかな人間の言葉だ。この私とは、違う生き物の言葉だ。
 私は、この男が眩しかった。彼の平凡さが、彼の幸福が、私の目を焼く。

 ふと、彼の話が途切れた。

「……で、君は? 君こそ、今、何してるんだ?」

 砂川の目が、まっすぐに私を見ていた。

「前の出版社、辞めたって風の噂で聞いたけど。……大丈夫なのか?」

 心配そうな、純粋な色。

「ああ……まあ、色々あって」
「色々って?」

 彼は、身を乗り出す、というほどではないが、僅かにテーブルに体重をかけた。

「君は、昔から文章がうまかったじゃないか。大学の時、読ませてもらった批評、俺、結構好きだったぜ。なんか、こう、他の奴らとは見ている場所が違うっていうか」

 やめてくれ、と思った。

「今も、何か、書いてるんだろ? 小説とか、評論とか」

 悪意のない、純粋な好奇心。かつて、私の書いた拙い文章を、彼はいつも「面白い」と褒めてくれた。彼は、私に才能があると信じていた。
 その信頼が、今、私を追い詰める。
 言葉が、出てこない。

 『何もしていない』
 『ただ、息をしているだけだ』

 そう言えば、彼はどんな顔をするだろう。軽蔑するだろうか。それとも、あの頃のように、穏やかに「そうか」とだけ言うのだろうか。
 どちらにしても、私は耐えられない。
 私は、彼が期待するような『私』では、もうないのだ。
 口元が引きつるのが分かった。私は、必死で笑みを作ろうとした。あの頃、私が世間に対して演じていた『道化』の仮面。だが、それすら、もううまく被ることができない。

「いや……まあ、ぼちぼちだよ」

 喉から絞り出したのは、そんな、中身のない音だけだった。
 砂川は、私の答えに何かを感じ取ったようだった。彼の表情から、さっきまでの明るさが少し引いた。

「……そうか」

 彼は、視線をわずかに落とした。

「まあ、元気ならいいんだ。無理するなよ」

 彼は、それ以上、何も聞いてこなかった。
 そして、努めて明るい声で、今度は自分の仕事の失敗談のような、当たり障りのない話を始めた。
 その優しさが、私を打ちのめした。彼は、私という存在の『中身のなさ』に気づいていながら、それに触れないようにしてくれている。
 私を『傷つけない』ように、配慮してくれている。

 その瞬間に、私と彼の間には、もう決して渡ることのできない、深くて暗い川が横たわっていることを悟った。

 もう、だめだった。

 二人の間に、重苦しい空気が澱む。砂川の懸命な独り言だけが、空回りして聞こえる。店内の喧騒だけが、やけに大きく耳についた。私は、自分のカップが冷たくなっていることに気づいた。一口しか飲んでいなかった。
 私は、息苦しさを覚えた。この場所に、もう一秒もいられない。

「……すまない。急用を思い出した」

 私は唐突に立ち上がった。

「え?」

 砂川が、驚いた顔で私を見上げた。彼の手には、まだ息子の写真が映ったままのスマートフォンが握られている。

「あ、おい、どうしたんだよ急に」
「本当に、すまない」

 私は伝票を掴むと、彼の顔を見ずに、レジへと早足で向かった。金を払い、逃げるように店のドアを押す。

「おい!」

 砂川の、困惑した声が背中に刺さる。
 外の雑踏が、私を飲み込んだ。
 振り返らなかった。
 私は走っていた。どこへ向かうでもなく、ただ、あの場所から離れたかった。人々が私を訝しげに見る。構うものか。

 どれだけ歩いただろう。

 いつの間にか、私は見知らぬ裏路地で、壁に背を預けて荒い呼吸を繰り返していた。肺が痛い。久しぶりに全力で走ったせいで、足ががくがくしている。
 ああ、と。私は乾いた笑い声を漏らした。
 私は、砂川の優しささえも、拒絶したのだ。
 彼は、私を人間として扱ってくれた。だが、私はもう、人間ではいられない。
 かつて、私には高い自負があった。自分は、あの凡庸な人間たちとは違うのだと。何かを成し遂げるはずの、特別な存在なのだと。

 だが、現実はどうだ。

 私は何も生み出せず、社会から逃げ出し、友人のささやかな幸福さえ祝福できない、卑小な存在に成り果てた。
 私を苛んでいたのは、世間ではない。私自身だ。私の中にある、このどうしようもない自意識だ。それは、私を養うどころか、私自身を食い尽くそうとしている。
 あのカフェにいたとき、砂川の幸福を前にしたとき、私は、私の中で何かが決定的に変質していくのを感じた。それは、嫉妬というような生易しい感情ではない。もっと根本的な存在としての変容だ。
 私は、もう砂川の世界には戻れない。彼らのいる、健やかな場所には。
 あの、赤ん坊の写真。あれは、生命だ。だが、今の私は、生命を生み出すどころか、自分自身の生命すら持て余している。
 私は、人間であることを、もうやめてしまったのかもしれない。
 砂川の優しさに触れたとき、私は、自分の内側が、人間とは異なる何かで満たされていることに気づいてしまった。それは、冷たく、硬く、他者を拒絶することだけで成り立つ、哀れな獣性だ。

 私は、ゆっくりと顔を上げた。
 ビルの谷間から、灰色の空が見えた。

 もう、誰にも会うまい。

 私は、あの六畳の箱に戻るのだ。そして、この私を食い尽くす『何か』とともに、静かに朽ちていくのだ。
 そう思うと、不思議なほど、気持ちは安らいでいた。
 私は、誰にも理解されぬまま、ただ一人で、この冷たい道を歩いていく。




みんなのリアクション

 覚めているのか、眠っているのか。その区別さえ、この部屋では意味をなさない。四方を閉ざした遮光カーテンは、太陽の存在を拒否し続けている。いまが昼なのか夜なのか、それを知る手立ては、枕元のスマートフォンが放つ、無機質な明かりだけだ。私は仰向けになったまま、天井の木目を数える。もう何度数えたか分からない。それは染みひとつない、無個性な天井だ。この安アパートの天井も、私という存在も、ひどく似通っているように思えた。
 何もしていない。
 本当に、何ひとつ。かつては、何かを為さねばならぬという焦燥があった。大学を出て、小さな出版社に潜り込んだ頃は、自分は何か特別なものを生み出せるはずだという、根拠のない自負があった。だが、それは単なる思い上がりだった。同僚たちの、生活に根差した堅実な会話。当たり障りのない雑談。そのすべてが、私には理解できない外国語のように聞こえた。彼らの常識は、私の常識ではなかった。私は、彼らのように『普通』に振る舞うことができなかった。笑うべき場所でうまく笑えず、怒るべき場所で無感動だった。次第に私は、周囲から浮き上がっていった。いや、あるいは最初から、私は彼らの世界に属していなかったのだ。退職届を出した日の空の青さを、なぜか今でもはっきりと覚えている。
 それ以来、私はこの六畳一間の空間からほとんど出ていない。
 親からの仕送りは、まだ細々と続いている。彼らは、私が『療養中』であると信じている。何を療養しているのか。私にも分からない。ただ、生きていることが、ひどく疲れるのだ。
 外の世界との繋がりは、この冷たい板状の機械だけだ。匿名の言葉が流れては消えていく、どこか薄情とも感じられるような情報発信の仕組み。そこでは、私も雄弁になれる。もっともらしい批評を書き連ね、世の中を憂い、誰かの浅薄さを嘲笑う。だが、画面を消せば、そこには虚ろな目をした、三十路手前の男が横たわっているだけだ。私自身の浅薄さこそ、誰が笑ってくれるというのか。
 空腹を感じて、ゆっくりと体を起こす。床に散らばった菓子の袋を踏みつけないよう、慎重に足を運ぶ。冷蔵庫を開けると、冷気とともに、期限の切れた牛乳の酸っぱい匂いが鼻をついた。それ以外には、色の変わった野菜がいくつか。私はため息をひとつ吐き、結局、水道の水を無機質に喉へ流し込んだ。
 その時だった。
 ピコン、と。スマートフォンが、乾いた電子音を立てた。
 あそこの、匿名のアカウントではない。もっと古い、私の『本名』に紐付けられた通信手段だ。誰だろう。親か。あるいは、何かの督促か。
 私はゆっくりとベッドに戻り、画面を覗き込む。
 そこに表示されていた名前に、私は息を詰めた。
「砂川」
 大学時代の、友人だった。いや、友人と呼んでいいのか。私にとって彼は、唯一、私がいわゆる『道化』を演じなくても、そばにいてくれた人間だった。彼は私の中にわだかまる、この得体の知れない自意識や、他者への不信感を、まるで気にも留めないかのように、いつも穏やかに笑っていた。私がどれほど捻くれた理屈をこねても、「君は面白いことを考えるな」と、ただ感心するだけだった。
 彼とは、卒業以来、ほとんど連絡を取っていなかった。私が会社を辞めたことも、こんな生活をしていることも、彼はおそらく知らない。
『久しぶり。元気か? 来週、こっちに出張で戻るんだ。よかったら、少しだけでもお茶しないか?』
 短い文面だった。そこには、何の悪意も、探るような意図もない。ただ、純粋な好意だけが感じられた。
 だからこそ、苦しかった。
 今の私を、この抜け殻のような私を、彼に見せるのか。
 断ろう。居留守を使おう。『体調が悪い』とでも返事をすればいい。だが、指が動かなかった。
 私の内側で、二つの声が言い争っている。
 見られたくない、という私。
 そして、砂川になら、この地獄から引き上げてもらえるかもしれない、と微かな期待を抱く私。
 結局、私は『分かった。駅前のカフェで』と、それだけを打ち返していた。自分でも、なぜそんな返事をしたのか、分からなかった。
 約束の日。私は数ヶ月ぶりに、まともな衣服に袖を通した。最後に着たのがいつだったか思い出せない、皺の寄ったシャツ。それを無理やり伸ばし、埃の浮いたズボンを履く。顔を洗い、伸びすぎた髭を剃る。剃刀の刃が肌を滑る感触が、ひどく久しぶりだった。水で濡らした髪を整えながら、洗面台のくすんだ表面に映る自分を見る。目の下には濃い隈が張り付き、頬はこけ、まるで病人のようだった。こんな顔で、彼に会うのか。
 アパートのドアを開けると、生ぬるい空気が頬を撫でた。外に出ると、日の光が網膜を焼いた。眩暈がする。世界は、私が部屋にこもっている間も、当たり前のように動き続けていたらしい。車の走行音、遠くの工事の音、話し声。それらすべてが、ひとつの巨大な音の塊となって私に襲いかかる。人々が、私を避けて通る気がした。彼らの視線が、私の薄汚れたシャツや、生気のない顔つきを値踏みしているように感じられる。私は俯き、足早に駅へと向かった。
 指定された店は、駅前に新しくできた、どこにでもある大手チェーンのカフェだった。緑色の円い看板。ガラス張りの店内は、平日の昼間だというのに、多くの人で埋まっている。私は一度、入り口の前で立ち止まった。このまま引き返そうか。だが、ガラスの向こう、奥の席で、砂川がこちらに気づき、人懐こい笑顔で軽く手を挙げているのが見えた。もう、逃げられない。
 自動ドアが開き、エアコンの風と、焙煎された豆のありふれた香りが私を迎えた。カウンターでは、制服を着た店員が、マニュアル通りの抑揚で「いらっしゃいませ」と繰り返している。私はその列に並ぶのが億劫で、先に砂川の席へ向かった。
「おお、久しぶり」
 砂川の声は、昔と変わっていなかった。
「……ああ」
 私は曖昧に頷きながら、彼の向かいの席に腰を下ろした。プラスチック製の椅子が、ぎし、と小さな音を立てた。
「何か飲むだろ? 俺、買ってくるよ。ブレンドでいいか?」
「いや、いい。自分で……」
「いいって、いいって。座ってろよ」
 彼はそう言って、財布を手に立ち上がり、混雑するカウンターの方へ行ってしまった。私は、手持ち無沙汰にテーブルの上を見つめる。学生が教科書を広げ、老夫婦が静かに新聞を読み、若い女性たちが甲高い声で笑い合っている。ここは、健全な市民の場所だ。私のような人間がいていい場所ではない。
 すぐに砂川が、二つの紙コップをトレイに乗せて戻ってきた。
「はい、ブレンド。熱いから気をつけろよ」
「……すまない」
「水くさいな。それより、本当に久しぶりだ。何年だ? 五年か?」
「そんなになるか……」
「なるさ。お互い、歳食うわけだ」
 彼はそう言って笑った。少しだけ疲れているように見えたが、根本的には何も変わっていなかった。彼の周囲だけ、空気が穏やかな気がした。それが、私には不思議だった。
「元気そう……とは言えないか。少し痩せたな」
「まあ、色々あって」
 私は、当たり障りのない返事をしながら、紙コップを両手で包んだ。伝わってくる熱だけが、今ここにいるという現実感を教えてくれる。
「そっちはどうなんだ。出張って、忙しいのか」
「ああ。今は地方の支社にいるんだ。まあ、忙しいけど、充実はしてるよ。車がないとどこにも行けないような場所だけど、空気は美味いし、人もいい」
「そうか」
 会話が途切れた。私はコーヒーを一口飲む。苦く、薄い味がした。
「……あ、そうだ」
 砂川が、何かを思い出したように言った。
「実は、俺、結婚したんだ。去年の春」
 彼はそう言って、スマートフォンを取り出した。慣れた手つきで画面を操作し、私の方へ差し出す。
「で、これが先月」
 画面には、彼と、見知らぬ女性。そして、二人に抱かれた、小さな赤ん坊が写っていた。背景は、おそらく彼の新しい家なのだろう。簡素だが、生活の匂いがする部屋だった。
 私は、その画面を見つめた。赤ん坊は、小さく、しわくちゃで、生きているという実感が、そこには凝縮されていた。
 彼が手に入れたもの。
 生活。家族。未来。
「……おめでとう」
 声が、思ったよりもかすれていた。
「ありがとう。いやあ、大変だよ、子育てって。寝る暇もなくてさ。昨夜も夜泣きでたたき起こされて」
 彼は嬉しそうに、父親としての苦労を語り始めた。その横顔は、私の知っている学生時代の彼よりも、ずっと大人びて見えた。
 私は、それを聞きながら、手元のコーヒーに視線を落とす。黒い液体が、ゆらゆらと表面を揺らしている。
 私は、彼のいる世界から、どれほど遠くへ来てしまったのだろう。彼の言葉は、私には届かない。それは、健やかな人間の言葉だ。この私とは、違う生き物の言葉だ。
 私は、この男が眩しかった。彼の平凡さが、彼の幸福が、私の目を焼く。
 ふと、彼の話が途切れた。
「……で、君は? 君こそ、今、何してるんだ?」
 砂川の目が、まっすぐに私を見ていた。
「前の出版社、辞めたって風の噂で聞いたけど。……大丈夫なのか?」
 心配そうな、純粋な色。
「ああ……まあ、色々あって」
「色々って?」
 彼は、身を乗り出す、というほどではないが、僅かにテーブルに体重をかけた。
「君は、昔から文章がうまかったじゃないか。大学の時、読ませてもらった批評、俺、結構好きだったぜ。なんか、こう、他の奴らとは見ている場所が違うっていうか」
 やめてくれ、と思った。
「今も、何か、書いてるんだろ? 小説とか、評論とか」
 悪意のない、純粋な好奇心。かつて、私の書いた拙い文章を、彼はいつも「面白い」と褒めてくれた。彼は、私に才能があると信じていた。
 その信頼が、今、私を追い詰める。
 言葉が、出てこない。
 『何もしていない』
 『ただ、息をしているだけだ』
 そう言えば、彼はどんな顔をするだろう。軽蔑するだろうか。それとも、あの頃のように、穏やかに「そうか」とだけ言うのだろうか。
 どちらにしても、私は耐えられない。
 私は、彼が期待するような『私』では、もうないのだ。
 口元が引きつるのが分かった。私は、必死で笑みを作ろうとした。あの頃、私が世間に対して演じていた『道化』の仮面。だが、それすら、もううまく被ることができない。
「いや……まあ、ぼちぼちだよ」
 喉から絞り出したのは、そんな、中身のない音だけだった。
 砂川は、私の答えに何かを感じ取ったようだった。彼の表情から、さっきまでの明るさが少し引いた。
「……そうか」
 彼は、視線をわずかに落とした。
「まあ、元気ならいいんだ。無理するなよ」
 彼は、それ以上、何も聞いてこなかった。
 そして、努めて明るい声で、今度は自分の仕事の失敗談のような、当たり障りのない話を始めた。
 その優しさが、私を打ちのめした。彼は、私という存在の『中身のなさ』に気づいていながら、それに触れないようにしてくれている。
 私を『傷つけない』ように、配慮してくれている。
 その瞬間に、私と彼の間には、もう決して渡ることのできない、深くて暗い川が横たわっていることを悟った。
 もう、だめだった。
 二人の間に、重苦しい空気が澱む。砂川の懸命な独り言だけが、空回りして聞こえる。店内の喧騒だけが、やけに大きく耳についた。私は、自分のカップが冷たくなっていることに気づいた。一口しか飲んでいなかった。
 私は、息苦しさを覚えた。この場所に、もう一秒もいられない。
「……すまない。急用を思い出した」
 私は唐突に立ち上がった。
「え?」
 砂川が、驚いた顔で私を見上げた。彼の手には、まだ息子の写真が映ったままのスマートフォンが握られている。
「あ、おい、どうしたんだよ急に」
「本当に、すまない」
 私は伝票を掴むと、彼の顔を見ずに、レジへと早足で向かった。金を払い、逃げるように店のドアを押す。
「おい!」
 砂川の、困惑した声が背中に刺さる。
 外の雑踏が、私を飲み込んだ。
 振り返らなかった。
 私は走っていた。どこへ向かうでもなく、ただ、あの場所から離れたかった。人々が私を訝しげに見る。構うものか。
 どれだけ歩いただろう。
 いつの間にか、私は見知らぬ裏路地で、壁に背を預けて荒い呼吸を繰り返していた。肺が痛い。久しぶりに全力で走ったせいで、足ががくがくしている。
 ああ、と。私は乾いた笑い声を漏らした。
 私は、砂川の優しささえも、拒絶したのだ。
 彼は、私を人間として扱ってくれた。だが、私はもう、人間ではいられない。
 かつて、私には高い自負があった。自分は、あの凡庸な人間たちとは違うのだと。何かを成し遂げるはずの、特別な存在なのだと。
 だが、現実はどうだ。
 私は何も生み出せず、社会から逃げ出し、友人のささやかな幸福さえ祝福できない、卑小な存在に成り果てた。
 私を苛んでいたのは、世間ではない。私自身だ。私の中にある、このどうしようもない自意識だ。それは、私を養うどころか、私自身を食い尽くそうとしている。
 あのカフェにいたとき、砂川の幸福を前にしたとき、私は、私の中で何かが決定的に変質していくのを感じた。それは、嫉妬というような生易しい感情ではない。もっと根本的な存在としての変容だ。
 私は、もう砂川の世界には戻れない。彼らのいる、健やかな場所には。
 あの、赤ん坊の写真。あれは、生命だ。だが、今の私は、生命を生み出すどころか、自分自身の生命すら持て余している。
 私は、人間であることを、もうやめてしまったのかもしれない。
 砂川の優しさに触れたとき、私は、自分の内側が、人間とは異なる何かで満たされていることに気づいてしまった。それは、冷たく、硬く、他者を拒絶することだけで成り立つ、哀れな獣性だ。
 私は、ゆっくりと顔を上げた。
 ビルの谷間から、灰色の空が見えた。
 もう、誰にも会うまい。
 私は、あの六畳の箱に戻るのだ。そして、この私を食い尽くす『何か』とともに、静かに朽ちていくのだ。
 そう思うと、不思議なほど、気持ちは安らいでいた。
 私は、誰にも理解されぬまま、ただ一人で、この冷たい道を歩いていく。


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