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坂を登る家

ー/ー



 晴れた満月の夜は、(りゅう)に会いにいく。
 それが(れい)にとって、長い間の習慣になっていた。もちろん、他の日も他の時間も流の家を訪れている。
 でも。
 晴れた満月の夜だけは、時別だった。
 

 流の家は坂道の途中にあって、上下どちらからでも行ける。降りるバス停を変えればいい。流の家を目指して上りにするか、下りにするか、その選択が自分の心理状態を表していることに玲は気づいていた。
 坂道を駆け降りていく日もあれば、ゆっくりと上がる日もある。
 今日は、坂道を登っている。少し気が重いのだろうと思う。
 雲一つない空に、大きな月が見える。
 それは見事な満月で、玲の記憶を誘う。
 流の反応はいつもと同じだろうが、それを受け止める自分の状態が不安定だ。
 気が重いなら行かなくてもいい、とは思わない。満月の日だけは、行かなくてはならない。
 ならば、せめて、楽な下りにすればいいのだが、そういう時に限って、わざと坂を登る道を選ぶあたり、かなり屈折した心理状態だと思う。
 バスを降りた時に感じた冷気が、今は心地よい風に変わっていた。
 片手に一升瓶の入ったビニール袋を持って、息を切らして坂道を上がると、目の前に、見慣れた家が現れる。
 流の家は、もともと流の祖父母の家だった。
 坂道の中ほどにひっそりと建つその家で、流は祖父母と暮らしていた。
 趣のある古い家は、狭い敷地ながら、最低限のものがコンパクトに収まって、小さな庭まであった。二人が亡くなった後、流が一人で暮らすようになったが、祖父がしていたようにまめに手入れをしていた。
 玲が訪ねたときに、たまに庭木の手入れをしている流を見る。
 しっかりと根付いている木々の下でしゃがんでいる流に、木漏れ日が影を作り、周囲の背景にぴったりはまって、それだけで絵画のように見えた。
 限られた敷地には贅沢な離れがあって、母屋と繋がっていた。離れは、無類の本好きだった流の祖父が集めた本の書庫になっている。
 夜になると、流は、たいてい、この離れで過ごしていた。

 
 一応、玄関の呼び鈴を押してみる。予想通り、なんの反応もない。念の為、玄関ドアを開けてみるが、やはり鍵がかかっていた。
 母屋の玄関を通り過ぎて、離れの入り口の前で立ち止まり、大きく息を吸った。
 影がくっきりとできるほど、満月の光が降り注いでいた。
 いつものように、幼馴染に会いにきただけなのに、満月の夜はやはり緊張する。
 見上げると、今日は、いつもより大きな満月が見え、余計に緊張感は増した。
 木製の年季の入ったガラス窓の引き戸を開けると、派手な音がした。
 また少し軋んでいる。どこか歪みが出ているのだろう。
 今度、工具を持ってこようとぼんやり考えた。
 引き戸を開けると、内側の薄墨色のカーテンが邪魔をするように顔に掛かってくる。
 右手で振り払うと、書庫の中の空気が一緒に動いて、玲の鼻口に届いた。微かに流の匂いが混じっている気がして、足がすくむ。
 軽く頭を振って、ため息をついた。
「おい、いるんだろ」
 わざと大きな声を出す。
 返事などない。いつものことなので、気にせず入っていった。
 窓の小さい離れは、月の光も十分には届かず、薄暗い。本棚に囲まれた小さな部屋は、灯りがついていないと、玲を拒否しているようだ。
 奥の廊下に上がる二段の階段に腰掛けて、本を開いている人影が見える。
 廊下にだけ灯りがともり、部屋が薄暗いので、顔は逆光で見えないが、小さな頭と薄い体は流特有のシルエットを描いていた。
「いるんじゃないか。居留守使うなよ」
 流は、その声でようやく顔を上げて、玲を見た。
「何の用だ」
 嫌そうに顔を背けて、本を閉じる。ぽんと、乾いた音が部屋に響いた。
 呼び鈴に応答しなくても、ここにいる流には、玲が来たことはわかったはずだ。
 玄関が閉まっていれば、玲は離れに来る。玄関の鍵はかけていても、離れの鍵はかけていなかった。
 流は玲を待っていたのだと、気づいた。
 満月の夜、流はいつも以上に気難しくなる。多少の不機嫌は仕方がない。
 今日は、まだずいぶん柔らかい方だと少しほっとする。
 いつものように、流の不機嫌には気づかない顔で、揶揄う言葉を口にした。
「息を切らして来たのに、冷たいなあ。おお、寒い」
 両腕で自分の体を抱くように、おどけて体をふるわせた。
 こういう返し方を反射的にしてしまう自分を情けないと感じるが、それしか出来ないと諦めてもいる。
 その度に、玲の思いは少しずつ胸の奥に溜まって、層を作っているように感じる。もう、どのくらい貯まったのか、わからない。
「だから、今日はなんだ」
 流の反応は同じだ。夜に来ると、満月でなくても、たいてい、こう聞かれる。
 流の態度が変わらないことで、逆に落ち着いてくるのも、いつものことだ。


 立ち上がって本を本棚に返している流の横をすり抜けて、玲は奥に歩いていった。
 すれ違う時、ふわりと流の使うシャンプーの匂いがした。思ったより明瞭に香り、不意打ちだったせいで、構える暇がなかった。
 流との距離が近かったと急に感じて、めまいのように体が揺れた。
 慌てて本棚をつかんで踏ん張ったが、ちらりと流がこちらを見たのがわかった。その顔に、読み取れるような感情は見えない。
 流が入り口の引き戸に鍵をかけるのを見届けて、玲は靴を脱ぎ、逃げるように先にあがった。
 この奥に扉があり、母屋の居住空間へと続いていた。
 勝手知ったる他人の家だったから、さっさと扉を開けて入って行く。
 母屋の一階は、キッチンに続く洋間と、居間として使っている和室、水回りがあった。二階にも、祖父母の寝室だった和室と、流の部屋として使っていた祖父の書斎があるが、今はほとんど使われていない。
 流が一人で住むなら、一階のスペースで十分だったのだろう。流の生活は、一階で完結していた。居間と寝室を分けず、毎日、布団を出し入れして、布団を敷いて寝ていた。
 ベッドを置いた方が便利だと思うが、流は、頑なに、このスタイルで生活している。
 今日も、部屋はそっけないほどきれいに片付いていた。


「酒、買ってきたから、何か作ってくれ。夕飯はすんでるんだろ」
 玲の言葉に、後ろから入ってくる流が即座に言い放った。
「自分の家で飲め」
 流の言葉を聞き流し、キッチンのテーブルの上に一升瓶を置いて、冷蔵庫を覗き込んだ。
 この辺りでは有名な豆腐専門店の豆腐が入っている。
 こんなに高い豆腐を買ってくることは滅多にない。玲のために買い求めて、置いてあったのだと、すぐに気づいた。
 たまに、流が玲のために買い物をしているらしいとわかっていたが、流に指摘したことはない。流も、それを言うことはない。お互い、いつも偶然を装っていた。
「お。飯塚屋の豆腐じゃないか。いいねえ。湯豆腐にするか」
「冷蔵庫を勝手に開けて、献立を決めるな」
 機嫌よく豆腐を手に体を起こしたら、思ったより近く、すぐ後ろに流が立っていた。バランスを崩しかけた玲の体を、流がしっかりと両手で支えた。 
 途端に心拍数が上がる。
 玲が体をこわばらせたことに、流は気づいたか。
 気づいていたとしても、いつも通り無表情だ。
 今までもこんなことは度々あった。それでも、流は顔色ひとつ変えない。自分だけが変な汗をかいている。
「風呂洗ってくるわ。出汁、とってくれ」
 さりげなく、流から離れたつもりだったが、不自然だったかもしれないと、玲は浴室のドアの前で立ちすくむ。
 だが、どちらにしても、どうでもいいことだと思い直した。
 今さら知られたところで、それがどうしたと冷たい目で見られるだけだ。
 多分、流はずっと以前から玲の気持ちを知っている。知っているのに、何も言わない。少なくとも、今は、流がこの関係を変化させる気はないはずだと、自分に言い聞かせる。
 キッチンから、流の声が聞こえた。
「まったく、気まぐれに来るんだから」
 ため息をつきながら、土鍋を置く音がする。
 玲にはひどく嫌そうに言っていたが、それよりはずっと楽しげな雰囲気が伝わってきて、その後ろ姿を見に戻りたくなる。
 今日は、いつもより、流の雰囲気が柔らかい。
 もしかしたら、今日が満月だったことを流が知らずにいる可能性がある。
 それだけで、少し得をした気分になるのだから、どうしようもないと玲は自分に呆れる。
 テーブルに置いた袋の一升瓶を見ているのか、ビニール袋の擦れる音がしてきた。
「高そうな酒だな。そうか。給料日だった」
 流の言葉に思わず口元が緩んだ。
 給料日だったから、奮発して、流のために選んだ酒だった。それを気づいてくれたことだけで、笑みが溢れる。
 浴室に入って、浴槽を洗い始めた。
 浴室だけは、数年前にリフォームしているが、流が選んだのは、ごくシンプルな浴室だった。壁も浴槽も白一色で、手すりさえも白い。
 汚れが目立つから、少し模様の入ったものにすれば、と玲は言った。
「汚れは、目立った方がいい」
 玲を見つめて、小さな声で流はそう言った。その目の強さに、玲はそれ以上何も言えなかった。
 あれは、どういう意味だったのだろうと、風呂を洗うたびに思いだす。
 流がたまに見せる感情を探して、一喜一憂していることを、玲は自覚している。 
 何をやっているんだと、思う。思うが、もう、自分ではどうしようもなかった。


 浴室から廊下に出ると、キッチンにいる流の後ろ姿が見える。
 少し猫背の、薄い体が優雅に動いていた。
 斜め後ろから見た首筋のラインが好きで、いつも声をかける前に、しばらく見てしまう。
 視線に気づかれて、流に振り向かれる前に、玲はキッチンに戻った。
 もう土鍋の中の豆腐がかすかに揺れている。
「うまそうな匂い」
 やり慣れた無駄のない手つきで、流は小鍋に入った醤油だれを小鉢にうつした。相変わらず、手際がいい。
「風呂、洗ったけど、湯張るのは後でいいだろ」
「お前は、自分の家で入れよ。食べたら、帰れ」
 細ネギを器用に刻みながら、振り向きもせず、そう返された。
 想定内の対応なので、そんなことで引き下がることはない。
「俺が洗ってやったんだから、風呂ぐらい入ってもいいだろ」
「誰も頼んでない」
「またまた。いつもながら、ルウちゃんは塩対応」
「その呼び方、やめろ」
 いきなり、流が振り向いた。
 包丁を持ったままの流を牽制して、玲は後ろに飛び退いた。自分が包丁を持っていたことに気づいて、流はまな板の上に慌てて戻した。
 一瞬、お互いの視線が絡んだ。沈黙が気まずさを物語っている。
 先に、目を逸らしたのは、玲の方だった。
「無理だ。幼稚園の時から呼んでるのに、今さら、かえられない」
 流の白い無表情な顔が、わずかに歪み、すぐに元に戻った。
 いまだに、幼い時のことを持ち出すと、いつも動じない流が構えているのがわかる。
 言わなければよかったと、いつも後悔する。
 でも、ここが玲と流の始まりだった。
 ルウと呼んでいた幼い頃から、玲はずっと流といたのだ。
 あの頃の流を、この事実を、手放したくなかった。
 
 
 二人の日常は、たいてい、こんなものだ。
 一見、兄弟のような遠慮のなさにも見えるが、二人の間には二人にしか認識できない、よそよそしさがある。それに気づかないふりをして、一定の距離を保ち、つかず離れず、ずっと一緒にいた。
 和室の食卓の上に卓上コンロと土鍋を置いた後、一升瓶を抱えて玲は座り込んだ。
「うまそうだな。コップ持ってきてくれ」
 両手にコップを握った流がその横に座り、コップを玲の前においた。
「飲み過ぎんなよ。風呂で溺れるぞ」
 そう言われて、玲は思わず笑った。 
「風呂入ってもいいんだ」
 流がさも嫌そうな顔をして、そっぽを向く。
「風呂入って、酔いが回って、泊まる流れだな。よっしゃ」
「誰が、泊まってもいいと言った。酒置いて帰れ」
 嫌そうに返しながら、流が小鉢に豆腐を二人分取り分けて、その一つを玲の前に置いた。
 最初からずっと帰れと冷たくあしらわれているが、結局、一緒に鍋をつついたり、酒を飲んだりして、泊まってしまうのも、いつもの流れだった。
 奮発して買った酒は、値段だけのことはある。口当たりの良さが際立っている。
「うまい。お前も、飲めよ」
 流も酒好きなので、黙ってコップを差し出してくる。
「あんまり飲むな、弱いんだから」
「一言多い」
 横目で睨みながら、流はコップ酒をちびちび飲み始めた。
 流は、酒が好きだが、あまり強くない。
 一杯の酒で、ほんのりと頬が桜色に染まる。きれいな一重の目が少し細くなり、唇の色が赤味を帯びる。
 それだけで、一気に色気が漂い始める。
 もともと、女顔だ。色が白く、優しげな顔をしている。普段の冷たい表情がその顔立ちを隠してしまっているが、少し酔うと、表情が優しくなり、肌が桜色に染まっていく。それを見ているのが好きだった。
 それに、酒が入ると、流の言葉も少し丸みを帯びる。刺すような言葉が和らぐ。
「湯豆腐がうまい季節になったな」
「だな。酒もうまい」
「今日、給料日だからか。奮発しただろ」
「たまにはな」
 ぽつぽつと会話を重ねて、一緒にいる。こんな穏やかな時間がいつまでも続いてほしい。
 いつもそう思うが、このままでは終われないこともよくわかっていた。
 だって、今日は満月だ。そして、雲ひとつない。
「ちょっと、窓開けるぞ。湯気がこもってきた」
 そう言って立ち上がった流を横目で見ながら、玲は覚悟して待つ。
 薄墨色のカーテンをさらりとめくって、流は窓に手をかけた。
 窓を開けた流の顔に、一瞬、怖いものでも見たような表情が現れて、消えた。
 乱暴に窓を閉めて、流がちらりと玲を見る。玲を睨む目だけが感情を表している。
 それを確認して、玲はコップに酒を継ぎ足した。  
 やっぱり、今日が満月だということを忘れていたようだ。
 この顔を見るために、玲は満月の夜に、必ずここに来る。
 流のこんな表情は見たくないが、見なければいけないと思う。
 そんな気持ちとは真逆に、玲には、この顔を見たい強い欲求もある。
 この顔を見ると、胸の奥で何かがむすがゆく疼く。
 それは、流との関係が変わっていないことがわかる嬉しさと、これ以上近づくこともないということをつきつけられる寂しさが混在するからだ。
 関係が歪んでいるのはよくわかっていた。
 コップの酒を口に運びながら、玲はいつものように呟いた。
「今日、満月だな」



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 晴れた満月の夜は、|流《りゅう》に会いにいく。
 それが|玲《れい》にとって、長い間の習慣になっていた。もちろん、他の日も他の時間も流の家を訪れている。
 でも。
 晴れた満月の夜だけは、時別だった。
 流の家は坂道の途中にあって、上下どちらからでも行ける。降りるバス停を変えればいい。流の家を目指して上りにするか、下りにするか、その選択が自分の心理状態を表していることに玲は気づいていた。
 坂道を駆け降りていく日もあれば、ゆっくりと上がる日もある。
 今日は、坂道を登っている。少し気が重いのだろうと思う。
 雲一つない空に、大きな月が見える。
 それは見事な満月で、玲の記憶を誘う。
 流の反応はいつもと同じだろうが、それを受け止める自分の状態が不安定だ。
 気が重いなら行かなくてもいい、とは思わない。満月の日だけは、行かなくてはならない。
 ならば、せめて、楽な下りにすればいいのだが、そういう時に限って、わざと坂を登る道を選ぶあたり、かなり屈折した心理状態だと思う。
 バスを降りた時に感じた冷気が、今は心地よい風に変わっていた。
 片手に一升瓶の入ったビニール袋を持って、息を切らして坂道を上がると、目の前に、見慣れた家が現れる。
 流の家は、もともと流の祖父母の家だった。
 坂道の中ほどにひっそりと建つその家で、流は祖父母と暮らしていた。
 趣のある古い家は、狭い敷地ながら、最低限のものがコンパクトに収まって、小さな庭まであった。二人が亡くなった後、流が一人で暮らすようになったが、祖父がしていたようにまめに手入れをしていた。
 玲が訪ねたときに、たまに庭木の手入れをしている流を見る。
 しっかりと根付いている木々の下でしゃがんでいる流に、木漏れ日が影を作り、周囲の背景にぴったりはまって、それだけで絵画のように見えた。
 限られた敷地には贅沢な離れがあって、母屋と繋がっていた。離れは、無類の本好きだった流の祖父が集めた本の書庫になっている。
 夜になると、流は、たいてい、この離れで過ごしていた。
 一応、玄関の呼び鈴を押してみる。予想通り、なんの反応もない。念の為、玄関ドアを開けてみるが、やはり鍵がかかっていた。
 母屋の玄関を通り過ぎて、離れの入り口の前で立ち止まり、大きく息を吸った。
 影がくっきりとできるほど、満月の光が降り注いでいた。
 いつものように、幼馴染に会いにきただけなのに、満月の夜はやはり緊張する。
 見上げると、今日は、いつもより大きな満月が見え、余計に緊張感は増した。
 木製の年季の入ったガラス窓の引き戸を開けると、派手な音がした。
 また少し軋んでいる。どこか歪みが出ているのだろう。
 今度、工具を持ってこようとぼんやり考えた。
 引き戸を開けると、内側の薄墨色のカーテンが邪魔をするように顔に掛かってくる。
 右手で振り払うと、書庫の中の空気が一緒に動いて、玲の鼻口に届いた。微かに流の匂いが混じっている気がして、足がすくむ。
 軽く頭を振って、ため息をついた。
「おい、いるんだろ」
 わざと大きな声を出す。
 返事などない。いつものことなので、気にせず入っていった。
 窓の小さい離れは、月の光も十分には届かず、薄暗い。本棚に囲まれた小さな部屋は、灯りがついていないと、玲を拒否しているようだ。
 奥の廊下に上がる二段の階段に腰掛けて、本を開いている人影が見える。
 廊下にだけ灯りがともり、部屋が薄暗いので、顔は逆光で見えないが、小さな頭と薄い体は流特有のシルエットを描いていた。
「いるんじゃないか。居留守使うなよ」
 流は、その声でようやく顔を上げて、玲を見た。
「何の用だ」
 嫌そうに顔を背けて、本を閉じる。ぽんと、乾いた音が部屋に響いた。
 呼び鈴に応答しなくても、ここにいる流には、玲が来たことはわかったはずだ。
 玄関が閉まっていれば、玲は離れに来る。玄関の鍵はかけていても、離れの鍵はかけていなかった。
 流は玲を待っていたのだと、気づいた。
 満月の夜、流はいつも以上に気難しくなる。多少の不機嫌は仕方がない。
 今日は、まだずいぶん柔らかい方だと少しほっとする。
 いつものように、流の不機嫌には気づかない顔で、揶揄う言葉を口にした。
「息を切らして来たのに、冷たいなあ。おお、寒い」
 両腕で自分の体を抱くように、おどけて体をふるわせた。
 こういう返し方を反射的にしてしまう自分を情けないと感じるが、それしか出来ないと諦めてもいる。
 その度に、玲の思いは少しずつ胸の奥に溜まって、層を作っているように感じる。もう、どのくらい貯まったのか、わからない。
「だから、今日はなんだ」
 流の反応は同じだ。夜に来ると、満月でなくても、たいてい、こう聞かれる。
 流の態度が変わらないことで、逆に落ち着いてくるのも、いつものことだ。
 立ち上がって本を本棚に返している流の横をすり抜けて、玲は奥に歩いていった。
 すれ違う時、ふわりと流の使うシャンプーの匂いがした。思ったより明瞭に香り、不意打ちだったせいで、構える暇がなかった。
 流との距離が近かったと急に感じて、めまいのように体が揺れた。
 慌てて本棚をつかんで踏ん張ったが、ちらりと流がこちらを見たのがわかった。その顔に、読み取れるような感情は見えない。
 流が入り口の引き戸に鍵をかけるのを見届けて、玲は靴を脱ぎ、逃げるように先にあがった。
 この奥に扉があり、母屋の居住空間へと続いていた。
 勝手知ったる他人の家だったから、さっさと扉を開けて入って行く。
 母屋の一階は、キッチンに続く洋間と、居間として使っている和室、水回りがあった。二階にも、祖父母の寝室だった和室と、流の部屋として使っていた祖父の書斎があるが、今はほとんど使われていない。
 流が一人で住むなら、一階のスペースで十分だったのだろう。流の生活は、一階で完結していた。居間と寝室を分けず、毎日、布団を出し入れして、布団を敷いて寝ていた。
 ベッドを置いた方が便利だと思うが、流は、頑なに、このスタイルで生活している。
 今日も、部屋はそっけないほどきれいに片付いていた。
「酒、買ってきたから、何か作ってくれ。夕飯はすんでるんだろ」
 玲の言葉に、後ろから入ってくる流が即座に言い放った。
「自分の家で飲め」
 流の言葉を聞き流し、キッチンのテーブルの上に一升瓶を置いて、冷蔵庫を覗き込んだ。
 この辺りでは有名な豆腐専門店の豆腐が入っている。
 こんなに高い豆腐を買ってくることは滅多にない。玲のために買い求めて、置いてあったのだと、すぐに気づいた。
 たまに、流が玲のために買い物をしているらしいとわかっていたが、流に指摘したことはない。流も、それを言うことはない。お互い、いつも偶然を装っていた。
「お。飯塚屋の豆腐じゃないか。いいねえ。湯豆腐にするか」
「冷蔵庫を勝手に開けて、献立を決めるな」
 機嫌よく豆腐を手に体を起こしたら、思ったより近く、すぐ後ろに流が立っていた。バランスを崩しかけた玲の体を、流がしっかりと両手で支えた。 
 途端に心拍数が上がる。
 玲が体をこわばらせたことに、流は気づいたか。
 気づいていたとしても、いつも通り無表情だ。
 今までもこんなことは度々あった。それでも、流は顔色ひとつ変えない。自分だけが変な汗をかいている。
「風呂洗ってくるわ。出汁、とってくれ」
 さりげなく、流から離れたつもりだったが、不自然だったかもしれないと、玲は浴室のドアの前で立ちすくむ。
 だが、どちらにしても、どうでもいいことだと思い直した。
 今さら知られたところで、それがどうしたと冷たい目で見られるだけだ。
 多分、流はずっと以前から玲の気持ちを知っている。知っているのに、何も言わない。少なくとも、今は、流がこの関係を変化させる気はないはずだと、自分に言い聞かせる。
 キッチンから、流の声が聞こえた。
「まったく、気まぐれに来るんだから」
 ため息をつきながら、土鍋を置く音がする。
 玲にはひどく嫌そうに言っていたが、それよりはずっと楽しげな雰囲気が伝わってきて、その後ろ姿を見に戻りたくなる。
 今日は、いつもより、流の雰囲気が柔らかい。
 もしかしたら、今日が満月だったことを流が知らずにいる可能性がある。
 それだけで、少し得をした気分になるのだから、どうしようもないと玲は自分に呆れる。
 テーブルに置いた袋の一升瓶を見ているのか、ビニール袋の擦れる音がしてきた。
「高そうな酒だな。そうか。給料日だった」
 流の言葉に思わず口元が緩んだ。
 給料日だったから、奮発して、流のために選んだ酒だった。それを気づいてくれたことだけで、笑みが溢れる。
 浴室に入って、浴槽を洗い始めた。
 浴室だけは、数年前にリフォームしているが、流が選んだのは、ごくシンプルな浴室だった。壁も浴槽も白一色で、手すりさえも白い。
 汚れが目立つから、少し模様の入ったものにすれば、と玲は言った。
「汚れは、目立った方がいい」
 玲を見つめて、小さな声で流はそう言った。その目の強さに、玲はそれ以上何も言えなかった。
 あれは、どういう意味だったのだろうと、風呂を洗うたびに思いだす。
 流がたまに見せる感情を探して、一喜一憂していることを、玲は自覚している。 
 何をやっているんだと、思う。思うが、もう、自分ではどうしようもなかった。
 浴室から廊下に出ると、キッチンにいる流の後ろ姿が見える。
 少し猫背の、薄い体が優雅に動いていた。
 斜め後ろから見た首筋のラインが好きで、いつも声をかける前に、しばらく見てしまう。
 視線に気づかれて、流に振り向かれる前に、玲はキッチンに戻った。
 もう土鍋の中の豆腐がかすかに揺れている。
「うまそうな匂い」
 やり慣れた無駄のない手つきで、流は小鍋に入った醤油だれを小鉢にうつした。相変わらず、手際がいい。
「風呂、洗ったけど、湯張るのは後でいいだろ」
「お前は、自分の家で入れよ。食べたら、帰れ」
 細ネギを器用に刻みながら、振り向きもせず、そう返された。
 想定内の対応なので、そんなことで引き下がることはない。
「俺が洗ってやったんだから、風呂ぐらい入ってもいいだろ」
「誰も頼んでない」
「またまた。いつもながら、ルウちゃんは塩対応」
「その呼び方、やめろ」
 いきなり、流が振り向いた。
 包丁を持ったままの流を牽制して、玲は後ろに飛び退いた。自分が包丁を持っていたことに気づいて、流はまな板の上に慌てて戻した。
 一瞬、お互いの視線が絡んだ。沈黙が気まずさを物語っている。
 先に、目を逸らしたのは、玲の方だった。
「無理だ。幼稚園の時から呼んでるのに、今さら、かえられない」
 流の白い無表情な顔が、わずかに歪み、すぐに元に戻った。
 いまだに、幼い時のことを持ち出すと、いつも動じない流が構えているのがわかる。
 言わなければよかったと、いつも後悔する。
 でも、ここが玲と流の始まりだった。
 ルウと呼んでいた幼い頃から、玲はずっと流といたのだ。
 あの頃の流を、この事実を、手放したくなかった。
 二人の日常は、たいてい、こんなものだ。
 一見、兄弟のような遠慮のなさにも見えるが、二人の間には二人にしか認識できない、よそよそしさがある。それに気づかないふりをして、一定の距離を保ち、つかず離れず、ずっと一緒にいた。
 和室の食卓の上に卓上コンロと土鍋を置いた後、一升瓶を抱えて玲は座り込んだ。
「うまそうだな。コップ持ってきてくれ」
 両手にコップを握った流がその横に座り、コップを玲の前においた。
「飲み過ぎんなよ。風呂で溺れるぞ」
 そう言われて、玲は思わず笑った。 
「風呂入ってもいいんだ」
 流がさも嫌そうな顔をして、そっぽを向く。
「風呂入って、酔いが回って、泊まる流れだな。よっしゃ」
「誰が、泊まってもいいと言った。酒置いて帰れ」
 嫌そうに返しながら、流が小鉢に豆腐を二人分取り分けて、その一つを玲の前に置いた。
 最初からずっと帰れと冷たくあしらわれているが、結局、一緒に鍋をつついたり、酒を飲んだりして、泊まってしまうのも、いつもの流れだった。
 奮発して買った酒は、値段だけのことはある。口当たりの良さが際立っている。
「うまい。お前も、飲めよ」
 流も酒好きなので、黙ってコップを差し出してくる。
「あんまり飲むな、弱いんだから」
「一言多い」
 横目で睨みながら、流はコップ酒をちびちび飲み始めた。
 流は、酒が好きだが、あまり強くない。
 一杯の酒で、ほんのりと頬が桜色に染まる。きれいな一重の目が少し細くなり、唇の色が赤味を帯びる。
 それだけで、一気に色気が漂い始める。
 もともと、女顔だ。色が白く、優しげな顔をしている。普段の冷たい表情がその顔立ちを隠してしまっているが、少し酔うと、表情が優しくなり、肌が桜色に染まっていく。それを見ているのが好きだった。
 それに、酒が入ると、流の言葉も少し丸みを帯びる。刺すような言葉が和らぐ。
「湯豆腐がうまい季節になったな」
「だな。酒もうまい」
「今日、給料日だからか。奮発しただろ」
「たまにはな」
 ぽつぽつと会話を重ねて、一緒にいる。こんな穏やかな時間がいつまでも続いてほしい。
 いつもそう思うが、このままでは終われないこともよくわかっていた。
 だって、今日は満月だ。そして、雲ひとつない。
「ちょっと、窓開けるぞ。湯気がこもってきた」
 そう言って立ち上がった流を横目で見ながら、玲は覚悟して待つ。
 薄墨色のカーテンをさらりとめくって、流は窓に手をかけた。
 窓を開けた流の顔に、一瞬、怖いものでも見たような表情が現れて、消えた。
 乱暴に窓を閉めて、流がちらりと玲を見る。玲を睨む目だけが感情を表している。
 それを確認して、玲はコップに酒を継ぎ足した。  
 やっぱり、今日が満月だということを忘れていたようだ。
 この顔を見るために、玲は満月の夜に、必ずここに来る。
 流のこんな表情は見たくないが、見なければいけないと思う。
 そんな気持ちとは真逆に、玲には、この顔を見たい強い欲求もある。
 この顔を見ると、胸の奥で何かがむすがゆく疼く。
 それは、流との関係が変わっていないことがわかる嬉しさと、これ以上近づくこともないということをつきつけられる寂しさが混在するからだ。
 関係が歪んでいるのはよくわかっていた。
 コップの酒を口に運びながら、玲はいつものように呟いた。
「今日、満月だな」