*
壁の一面が全て窓になったオフィスには秋の日差しが柔らかく差し込む。
名塚圭佑(なづか けいすけ)は今月分の報告書をまとめながら2つ前のデスクの島に目をやった。
圭佑のいる営業部からふたつ先は開発部の島だ。その島の中、ひとりだけひょっこりと頭を覗かせる羽藤渉(はとう わたる)を少しの間眺めてみたが、視線が合うことはなかった。ここ数日羽藤渉を何度もこんなふうに見つめているが、真面目にパソコン画面に目を落とす羽藤が圭佑に気づくことはない。海外にルーツを持つ社員も多い中、日本人でありながら社内で高身長のイメージを持たれている羽藤はひとりモニターの高さより上に頭が出てしまう。四六時中他人と目が合うのも気まずいし、デスク越しには目を合わせないように意識しているのかも、と勝手に結論づけて圭佑はまた報告書に目を落とす。
今まで名前すら曖昧だった別の課の社員に興味を持ったきっかけは、いつものように昼休みを何人かの女子社員と過ごす中でのちょっとした話題だった。
「開発部の羽藤さん、絶対彼女いるよね」
「えー喋ってるとこ見たことないけど。多分私声知らない」
「彼女の前では饒舌なんじゃない?めっちゃ渋い声だったりして」
「いなさそうだけどなぁ。告ったら『友達からお願いします』とか言われそう」
「几帳面にはっきり言うタイプかもね、顔が真面目そうだし」
「だからこそギャップに期待しちゃうんじゃん!」
「基本めっちゃ堅そうだもん、笑ってるのも見たことないし」
「でもほんとスタイルいいよね、顔もクールでモデルさんみたい」
「名塚くんはどー思う?」
小さなお弁当箱からプチトマトを摘み上げた女性社員がラメ入りマスカラで輝く睫毛をパチリと上げて圭佑を見る。
栗色に染めたロングヘアーは緩やかに巻かれて、甘い香りのヘアオイルで艶やかに弾む。
圭佑と昼食を囲む人間の割合は女性が多く、数人混じる男性はいつもその中に目当ての女子社員がいる。
一定のメンバーというわけでもないが、常に圭佑を中心に男女の輪が形成されている。
「羽藤さんか。確かにいい体してるよねぇ。通ってるジム教えてもらおうかな」
「男の子ってすぐ筋肉の話する〜」
唇を尖らせながら、それでも全く不満げではない声を上げる女子社員たちに向けて圭佑は下心をほんの少し滲ませた笑顔を返す。
「男はみんな筋肉に憧れるんじゃないかな。みんなだって、ヒョロヒョロの男より多少は包容力のあるカラダの方が嬉しくない?」
敢えての言葉選びにまた会話は盛り上がる。
「まぁ私より体重軽いのはちょっと嫌かも」
「とか言って圭佑はヒョロヒョロじゃん」
「そうだよ、体重私より軽かったら許さないんだけど」
「俺、こう見えて脱いだら凄いよ?」
「見せる気ないくせに?」
「見せてって言われたことないからね」
女の子たちのお弁当は15分たっても一向に減っていかない。彼女たちにとって、昼休憩は食事ではなく交流の時間だからだ。
一定周期で笑いと休みどころが生まれる会話を導いているのは圭佑で、彼にとってこの時間は自己肯定感を上げる時間でもある。
会話が尽きることはない。けれどこういう集団には時として、継続した物語の種も必要だ。
「今度俺、羽藤さんご飯に誘ってみようかな」
「え、ほんとに!?」
「だって気になるもん、どこのジム行ってるのか。羽藤さんに彼女いるかどうかみんなも知りたいんじゃない?」
「勇者だ」
揶揄ったり馬鹿にする意図は全くない。気になるのは本当。でも実際に行動に起こす理由は話題作りだった。
それから今日まで数日。
せめてどんな話し方をするのかだけでも知っておきたいと観察を始めたが、成果は全くない。
一度、彼が同じ課の人間に話しかけられて相槌を打つ姿は確認したが、離れていて声は聞こえなかった。
羽藤の話題が出たのが月曜日、今日が金曜日。流石に今日がリミットだ。
初対面の人間へ話しかけることは圭佑にとって全く苦ではない。そのはずなのに、なぜか若干の緊張を感じるのを軽く息を吐いて誤魔化してみる。
開発部は男性社員の多い課だ。羽藤のデスク近くには圭佑の知り合いはいないが、社内ですれ違えばにこやかに挨拶はする。
そんな顔見知りたちの不思議そうな視線をやわらかい笑顔でいなしつつ、羽藤の背後へ歩み寄る。
どうやら羽藤は身長が高いせいでモニターをアームで持ち上げても若干俯きがちに作業する姿勢になるようだった。短く切り揃えられた黒髪からまっすぐ伸びる首筋には少し俯いた首を支える太い筋が張っているように見える。
圭佑が開発部の島に入ろうと視線すら向けない羽藤の背中に警戒心を持たれないようできるだけフラットな声を意識して話しかけた。
「羽藤さん、お疲れ様です」
名前を呼ぶとモニターに向けて目線を下げていた後頭部が上がる。
椅子のキャスターで轢かないように配慮してか、少し窮屈そうに上体を捻ってこちらを向いた羽藤は、真っ黒な瞳を圭佑に向けた。
「……お疲れ様です」
滑らかな低い声。
用件を探る表情を隠すことない羽藤に、どうやら感情の読めないタイプの人間ではないようだと判断した圭佑は少しホッとして口を開いた。
「俺、営業部の名塚です。もう単刀直入、突然なんですけど。よければ今日ご飯行きません?」
先に物音を立てたのは開発部の別の社員だった。
羽藤は圭佑を見つめた姿勢まま、数秒経って視線を揺らした。
「ご迷惑だったらあれなんですけど…ちょっとお話ししてみたいなって」
ダメ押しでもう一言。圭佑には人からの好感度に関して特段自信があるわけではないが、人との関わり方には自信がある。
そしてその自信が、また人を惹きつけると自覚している。
「ぁ……えっと、今日の、夕飯を、ご一緒に…?」
がっつり困惑が見て取れる羽藤に向けてさらににこやかに言葉を重ねる。
「はい。中華とかどうですか?嫌いじゃなければ。近くに美味しい店を知ってるんです」
「……では、そこで……お願いします」
羽藤にしてみればほとんど選択肢なんてなかっただろう。圭佑は少し申し訳なく思いながらも、夕食の約束を取り付けられたことに素直に喜び、「やった!」と羽藤に見えるように小さくガッツポーズを作った。
「19時ごろ、下のエントランスで待ってますね!」
「ぁ、ありがとうございます…」
圭佑が開発部の島から離れて行ってもまだ目で追っている羽藤の視線を感じて、自分のデスクに戻る前に一度振り返って手を振って見せる。
羽藤は慌てたように目を見開き、デスクの島から一人飛び出た頭をぺこりと下げた。
顔が真面目そうなだけで中身は案外素直なのだろうか。中華料理店の予約をスマホで確認しつつ圭佑はデスクに戻り、完成した報告書を閉じた。
*
羽藤渉から見る名塚圭佑は、端的に説明するならば”陽キャ”である。
昼休憩はいつも何人かで集まっているし、仕事帰りにそのまま飲み屋街に歩いて行く姿は毎日と言っていいほどよく見かける。
社内ではすれ違った人に必ずにこやかに挨拶をするし、なんならある程度の関係値の人とはそのまま少し話してから去っていく。
雑誌の人みたいな髪型はいつ見ても整えられていて、彼からは疲れというものを感じない。
そんな印象の、自分と関わる要素なんて一切見つけられない人間から唐突に食事に誘われた。
ないだろうことはわかっているが、さすがに羽藤はイタズラを疑った。
「あれ、早いですね?待たせちゃいました?」
だから圭佑が19時ぴったりにオフィスエントランスに現れた時、待ちぼうけの可能性が消えて少しホッとした。
圭佑がエントランスのゲートでIDカードをかざした後すぐにカバンに入れたのを見て、羽藤も慌てて首に下がったままのカードをポケットにしまった。
季節は秋だが、羽藤にとってはまだ残暑を感じる気温だ。半袖のポロシャツに濃い色のパンツを適当に合わせて、上着なし。
対してエントランスから颯爽と歩いてくる圭佑は、控えめだが柄入りの長袖シャツをセンタープレスのパンツに合わせ、薄い生地のジャケットも着ている。
気温と見栄えをうまく両立させたコーディネートを目の当たりにすると、羽藤はやはりなぜ自分を夕食に誘ったのか疑問に思う。
「…なぜ、俺に声をかけたんですか」
その言葉が羽藤の口から発せられたのは、羽藤の注文した炒飯と圭佑の注文した五目あんかけ焼きそばを半分ほど食べ進め、同時に頼んだ際店員に「少し時間がかかる」と前置きされた煮物料理がテーブルに提供された頃だった。
その間も圭佑は羽藤に会社に関係することについて幾つかの話題を出していたが、羽藤は初めの疑問に囚われてろくに話を聞いていなかった。
「道中話したまんまですよ。筋トレに興味があって」
羽藤はここに来る道すがらの話なんて緊張のせいで頭に残ってはいなかった。それを圭佑は嫌な顔ひとつせず朗らかに笑って話すのを見てますます自分とは縁のない人間だという気持ちが強くなっていく。
「俺、筋トレなんてしてないです…」
「え、そうなんですか!?めっちゃいい身体してるからてっきりジムに通ってるのかと思った!」
「すみません…」
ジムなど1度も通ったことのない羽藤はますますこの場にいる意味を失っていく気がして、右手のレンゲを見つめた。
早く食べ切ってこの場を去ったほうがいいだろうとは思うが、居心地が悪いせいか炒飯をせかせか口に運ぶ気にもなれない。
「わぁ謝んないで!筋トレはただの口実だし。俺、ほんとに羽藤さんと話してみたかったんです」
重い心地のする視線をあげて圭佑を見ると、圭佑は羽藤の思うよりずっと真剣な表情をしていた。
「すごくかっこいいし、開発部のエースとか呼ばれてるのにずっと静かに仕事してて。この前の自社システムの開発も羽藤さんの仕事だったんでしょ?あれで営業はめっちゃ助かったんですよ!なのに昇進は断ったって隣の経理部の子から聞いたし。こんなん誰でも気になっちゃいますよ」
「………開発部にエースと呼ばれる人はいないと思いますが…」
「だから!それが羽藤さんなんだってば」
「かっこいいなんてことも、」
「モデルさんみたいだって、女子社員が言ってましたよ」
「それにシステム開発はグループの成果であって、」
「でも主導したのは羽藤さんでしょ、次々新しいアイデアが出てきたって開発部の人に聞きました。昇進の話も」
「あれは……俺には向いてないと思ったから」
「向いてない?何が?」
圭佑のクリっとした瞳が真っ直ぐ羽藤を見つめる。少し垂れた印象の目尻がきゅんと持ち上がって、反論する気満々なのが羽藤にもわかった。
「その…人をまとめるような立場は、俺には向いてないんじゃないかと、思ったので」
「…そうですか?」
「はい…」
「……」
さっきまでは羽藤の言葉尻を引っ叩くように言葉を重ねていたのに、圭佑は急に黙って羽藤の次の言葉を待っている。
羽藤は結局先ほどまでと変わらぬ心地で、圭佑に半ば追い立てられるように口を開いていた。
「俺は、人と話すのも、なんというか…名塚さんみたいにスラスラできませんし。面白い話もできないので、役職に就いても舐められるだけで組織はうまく進まないだろうと思う、ので」
「……家に帰ったらいつも何してるの?」
「ぇ、家、に帰ったら…ごはんを」
「食べた後は?」
圭佑が前触れなく話の方向を転換させたので、羽藤は「また自分がつまらない話をしたせいで興味を削がれてしまった」と慌てた。
早く帰りたいと思っていたはずなのに、誉めそやされて、テーブルの向かいで身を乗り出してまであれこれ聞かれたせいか、いつの間にか羽藤には圭佑の興味に応えたいという気持ちが芽生えていた。
しかし話題を逸らされ、感情の読めない表情で見つめられてしまうと、ここまでの道中のように途端に自分の落ち度ばかりが気になり出して話に集中できない。
羽藤は今日だけでその一連を何度も繰り返していた。
「食べた後は、ぇえ…ち、地図帳を」
「地図帳?」
普段ほとんど会話をしない羽藤は繰り返す目まぐるしい感情の上下に振り回され疲れ始めていた。
そのせいで、普段言わないようなことまでが溢れようとしているのにも気が付かなかった。
「地図帳を眺めるのが趣味なんです。小中高の教科書をとってあって。小学校の頃にはあったものが中学、高校の地図帳には載っていなかったり。新しいものが増えていたり。感傷に浸るというよりは、整備されて形を変える道や町が好きなんだろうと思うんですけど。たまに気になって、車を走らせて実際に観にいくこともあります。そしたら高校の地図帳からさらに変わっていたり。でもそれも楽しいから、高校以降の地図は買わずに向かうことにしてるんです。行った後で新しい地図を見直すと、走ってる時には気づかなかった道が……」
しまった、と中途半端な口で言葉を止めた羽藤がいつの間にか中華料理店の壁あたりを見つめていた視線を圭佑へ戻す。
羽藤の想像と違い、圭佑はにっこりと微笑んで頷いた。
「めっちゃ面白いじゃん」
「すみません、」
「いやいやほんとに。続き教えて」
「いえあの……ぇ?」
テーブルの煮物に視線を落としかけた羽藤を覗き込むように圭佑が首を傾げる。
羽藤の想像の中の圭佑の、つまらなさそうな顔が目の前の圭佑の笑顔にかき消される。
「なんとなく、羽藤さんて趣味が充実してる人なんじゃないかと思ってたんだよね!最初はそれが筋トレなんだと思ってたんだけど。ね、まじで教えてよ、地図帳の話。今まで行ったことある場所ってどこ?」
「でもその、こんな話つまらない…」
「面白いって言ってるじゃん!...あれ、敬語抜けてた…?まぁいいよね!羽藤さんもタメ口でいいから!」
「いや俺後輩ですし、」
「やめてよ若い感じだすの。俺だって去年まで20代だったんだけど?羽藤さん今年で27?」
「28です…」
「じゃあほぼタメだって!いいから続き!!」
「ぇ、えっと…」
中華料理屋は圭佑の言う通り、本当にいい店だった。
煮物が入った小ぶりな鍋は随分な時間温度を保っていたし、その間2人の話は途切れなかった。
さらには次の夕食の約束まで取り付けて、ふたりは店を後にした。
*
羽藤と圭佑は気づけば週1回は夕食を共にする仲になっていた。
そのたびにお互いの趣味の話や仕事での話を重ね、週末には酒も入って店を梯子し、くだらないことで笑いながら夜を明かしたりもした。
そうするとそんな圭佑たちの様子は瞬く間に昼食時の会話の種になり、女子社員たちは圭佑に毎日のように羽藤についての話をねだった。
だが圭佑はというと、自分でも不思議なことに羽藤についてほとんど何も話せなかった。
辛うじて筋トレのためにジム通いをしているわけではないことは話せたが、彼女がいないことはおろか昇進を断った理由や地図帳の話などはどうしても話す気になれなかった。
誰彼構わず話す話題でもないが、始まりは話の種に誘ったはずだった。なのに、羽藤と話したほとんど全てを誰かに共有する気にはなれなかった。
週に1度は近くの店で食事をしているということも、なんとなく言い出せない。
やましいことをしているわけでもないのに、と自分の心を俯瞰した時、初めて圭佑は自分が今まさに”隠し事”をしているのだ、と自覚した。
相手に都合のいい言葉を言ったり、言わないでいいことを飲み込んだことはあれど、圭佑は今まで家族にも他人にも隠し事をしたことがなかった。聞かれれば答えるし、答えられないことはなかった。むしろ社交のためなら自分のことは先に開示する。
じゃあなんで今、隠し事をしているんだろう。
「______、名塚さん!」
「えっ」
焦ったように名前を呼ばれてハッとする。
すぐ横には羽藤が立っていた。
「コーヒー、すごいことになってます」
羽藤が手を伸ばしたのは給湯室のコーヒーサーバーで、ボタンを押すと次にもう一度ボタンを押すまでコーヒーが注がれるようになっているが、今はサーバーから注がれたコーヒーがカップの容量を超えて溢れている。
「ゎ、まずい」
圭佑が目の間の光景を理解する間にも羽藤はサーバーのボタンでコーヒーを止め、圭佑のカップを底を拭いて避けてから、辛うじて受け皿に溜まるにとどまったコーヒーを慎重な動作でシンクに流している。
「わー、ごめん…ぼーっとしてた」
「名塚さんにもそういうこと、あるんですね」
サーバーに受け皿を戻しながら言う羽藤は少し笑っているようにも見える。
「そう言うこと?」
「あの…いつもエネルギッシュだから。今日は少しお疲れ…」
言いかけて言葉を止めた羽藤を促すように圭佑が顔を覗き込む。
「そこまで言いかけたらもう言ったも同然でしょ。何?心配してくれるんだ?」
「いえあの……失礼かと思って…」
「失礼って、何が?」
「その...馴れ馴れしかったかな、と」
羽藤が俯くと、いつもは身長のせいで見えない耳の上部が圭佑にも見えるようになる。羽藤の少し尖った耳の頂上は赤くなっていた。
圭佑には正直、どうしてそれが「馴れ馴れしい」になるのかはわからなかったが、羽藤が圭佑の知覚し得ないところで遠慮している気配は伝わった。
「それはどちらかというと俺でしょ。でも寂しいな、そんなふうに言われるのは」
「いや、名塚さんは、その」
「俺はもっと馴れ馴れしくされたいよ。毎週ご飯行くのにいつまでも敬語だし」
「それは…」
「まぁそれが話しやすいならいいけどさ。心配してくれてありがと。でもちょっと考え事してただけだから、大丈夫」
そう言うと圭佑は表面張力で盛り上がるコーヒーカップを持ち上げ、その場で移動できる水位になるまで口をつけるとデスク目指して歩き出した。
圭佑と入れ替わりで給湯室へやってきた開発部の社員が羽藤と親しげに話しているのが背後で聞こえていた。
圭佑は羽藤に対して心の距離を感じたことはなかった。敬語は癖なんだろうし、気にしてはいない。どちらかと言うと圭佑のほうが、羽藤との友達としての距離感を測りきれずにいた。
圭佑はこれまで特定の友達1人をこんな頻度で食事に誘うことなどなかった。
圭佑にとって羽藤は友達という枠の中でも特別な場所に位置しようとしていることは確かだ。
だが圭佑はこれまで、友達にそのような位置付けをしたことがなく、いまも自分のどんな感情がそうさせているのか理解しきれずにいる。
そして同時に、これ以上の関係を想像すると何か恐ろしいような、自分が知らない何かに変質してしまうような心地がして上手く考えがまとまらない。
今までの圭佑ならきっと、「自分は今、生まれて初めて隠し事をする心地を味わっている」と雑談のタネとして羽藤に話せていた。それがどうしてできないのか、考えても答えを見つけられない。その無意識の変化の理由がわからず、圭佑を苛立たせる。
それから数時間、圭佑が苛立ちを払拭するように月末のパソコン業務に齧り付いていると、ワァッと離れた島から声が上がった。
「羽藤くんすごーい!」
その中心にいるのが羽藤だとわかると、圭佑は思わず椅子から腰を浮かせた。
「ほんとに直った!うわ〜よかったぁ!!」
羽藤の座る隣にはノートパソコンを手で抱える女子社員を中心に何名かの経理部の社員が立っている。
羽藤は相変わらず窮屈そうに身体を捻っているが、女子社員に向ける表情は柔らかい。
「羽藤くんが声かけてくれてほんと助かった〜!もう今日帰れないと思ったもん」
「あのまま渡していただけたのが良かったんだと思います。他に何か動かしてたらこの方法は使えなかったので」
「さすがエース」
羽藤の周りには経理部と、開発部の人間も席を立ったり身を乗り出したりしてパソコン画面に注目していた。細かいことはわからないが、羽藤が経理部の深刻なシステムエラーか何かを神がかり的な手腕で解決したらしいことは分かった。
しかも羽藤から助け舟を出したらしいことも。
圭佑は何故か苛立ちが増したような気がして、メッセージアプリのトーク欄に並ぶ名前のひとつをタップし、メッセージを打つ。
『今夜暇?』
打ち込んで数秒もしないうちに既読マークがつき、すぐに返事が返ってきた。
*
「羽藤ってさ、案外話しやすいんだな」
「ぇ、」
経理部が自分たちのデスクに戻り始めると、隣の席の先輩社員がモニターに顔を向けたまま言う。
「いつも真面目な顔して座ってるから話しかけにくいっていうか...プライド高い奴なのかなって思ってたけど」
「えっ」
「さっきも、自分から経理部に声かけてたし。なんか最近?いや、元々なのか分かんないけどさ。すごく...うん、いいと思う」
「良い、ですか、俺」
「うん。...いや、ごめん俺もこう...上手いこと言えないけど、お前がこっち側に来てくれたみたいで嬉しいよ」
「こっち側、ですか?」
「だってお前、優秀だし。コミニュケーションは必要最低限でも仕事できるからこっちは何も言えないだろ。そういうの、俺たちから見るとちょっと気取ってるっていうか...同じ課でもあんまり関わりたくないのかな、とか思ったりさ」
「そう...だったんですか...」
「でも最近のお前見てると安心するよ。俺と同じで、ただ口下手なだけだったんだって」
「先輩より全然口下手だと思います。でも、その」
「どうした?」
「それでも話したほうが、ずっといい気がして」
羽藤は言葉にするのと同時に自分の言葉に気づいて、動きを止めた。
心からの言葉だったが、そう思うようになっていた自分の変化には気づいていなかった。
「羽藤、お前さ。すごく......」
「きっと素直でかわいいんだね、恋人の前では」
「ぇ」
羽藤の向かいの席に座る女性社員が、先輩社員の言葉を奪ってモニターの間から2人を見ていた。
「羽藤くんが変わったの、絶対恋人のせいでしょ。1ヶ月?もっと前かな...優しい顔するようになったから。全然雰囲気違うよ」
「そ、恋人なんて、」
「いきなり割り込んでくるな、お前は」
「だって2人とも、中学生より酷い会話だったよ。逆にエモかったけど、流石に限界」
向かいの女性社員は羽藤の隣の先輩社員と同期で、羽藤が入社した時からデスク越しに親しげに話しているのを聞いていた。
他の課に比べて女子社員が少ない開発部で、はっきりした言動でチームをまとめる頼れる先輩だが恋愛話に目がないらしく、たまに圭佑たちと楽しげに話しているのも見かける。
「ね、今日帰りに飲みに行こうよ。せっかくだしみんな誘ってさ」
「羽藤と飲みにいくのなんて、新卒みんな集めた時以来か」
「お、俺も行くんですか?」
「羽藤くんが主役だよ。それとも今日は恋人とデート?週一くらいでうきうき帰ってる時あるもんね?」
「恋人ではなく、あの、でもえっと、」
羽藤は念のため携帯を取り出した。
圭佑との夕食の約束は今日ではないが、たまに約束した以外の日にも誘われることがあるからだ。
しかし圭佑とのトークルームに更新はなく、代わりに新しく開発部の社員たちの名前が羽藤の友達欄に追加されていった。
終業後、結局課の全員が参加することになった飲み会へ向かうエントランスで、羽藤は車道を挟んだ向かいの道に圭佑を見つけた。
昼過ぎにコーヒーを溢れさせる姿を見たので少し心配だったが、早めに退勤していたようだった。
営業部は基本スーツだが、月末だからか初めて夕食に行った時のように少しカジュアルなコーディネートをしている。
もしこちらに気づいたら手を振って良いだろうか、と見つめていると、圭佑は道の先で誰かを見つけてそちらへ歩いて行ってしまった。
視力の続く限り姿を追う羽藤の視線の先で、キラキラした素材のスカートを穿いた華奢な女性が圭佑を抱きしめるのが見えた。
*
目が覚めたのは、まだ朝日が昇る前だった。
見慣れない窓から明ける気配だけを宿らせる夜空を眺めることには慣れている。
横に人が寝ていると熟睡できないのは子供の頃からだった。
ここ数ヶ月はそんな心地もすっかり忘れていたが、洗面台にあふれた水もやがて排水溝に吸い込まれていくように、圭佑自身もまた自然な状態に戻ったのだと思っている。
甘く圭佑を呼ぶ声を背に、昨夜乱雑に脱ぎ捨てたシャツに腕を通す。今日は始発で帰れば新しいシャツに変えられそうだ、と時計を確認すると、まだベッドに横たわる体へ手を沿わせ「ありがと」とだけ残して部屋を出た。
しばらく羽藤と食事ができないでいる圭佑は、隙間を埋めるように毎晩、様々な場所で違う人と過ごした。その全てが女性で、全ての夜がこんな風に朝を迎える。
寝不足が仕事に支障をきたしたことはなかった。
大学の頃身につけたメイクで隈を隠すのも手慣れている。
なのになぜか、とても疲れる。
以前はここまでの疲労を感じていなかったはずなのに。
始発の下り電車に揺られていると、私立中学のロゴが入ったサッカー部のジャージを着た男の子が大きな荷物を抱えて乗ってきた。部活の朝練に向かっているのは明らかで、眠そうに圭介の斜め前に重そうな荷物と共に腰を下ろした。
圭佑も中学時代はサッカー部に所属していた。
サッカーは楽しかったしレギュラーとして試合にも出ていたが、高校では軽音部に入った。
サッカーの試合より軽音のライブの方が多くの人が興味を持つと思ったからだ。
思い返せば圭佑にとって、何が楽しいかより何をすればより多くの人と関われるかの方が重要だった。三兄弟の中間子だったことも関係しているかもしれない。何かと無理しがちな長男と自由な三男に挟まれて、圭佑はいつも1人だけ照明の当たらない場所にいるような気分だった。
だから照明の当たる場所へ。賑やかな場所へ。
圭佑にとって人と関わることは、自分の存在を確かめる行為と同義だった。
目頭を揉みながら、圭佑は寝てしまわないように眼窩に爪を立てた。
今まで多くの想いは、誰かに接することで解消してきた。軽音のライブ。飲み会。どこかで知り合った女の子と遊ぶこと。でも今はそれらが何一つ意味のないことのように思えてしまう。
「くそ」
最寄駅に降り立ち、ついに小声の悪態が口をついた。
会いたい。
羽藤に会いたい。彼を独占したい。
開発部のメンバーで飲屋街へ向かう後ろ姿を見かけた時、その輪の中から彼を攫ってしまいたいと思った。自分勝手な欲望だ。死んでしまえ。そう願うのに、正体不明の独占欲が消えない。
邪魔したくない。せっかく開発部のメンバーと打ち解けて、きっとこれから彼の交友関係は広がって、仕事も上手くいって、やがて穏やかに彼を愛する誰かが現れるから。訳のわからない理由でそんな彼の幸せを壊すのはごめんだ。
初めは情報収集程度の興味だった。
でも話すうちに彼を知り、ほんの些細な問題が彼を小さく押し込めているのだと気づいた時から、圭佑は彼の素敵なところが周りに伝わるように願うばかりだった。
だから今の羽藤を取り巻く環境は最初に圭佑が願った通りの光景だ。
それを自分で壊したくない。
なのに何故。
「くそ、」
たった1人に自分だけを見て欲しいと思うのは傲慢だろう。だって初めからそれは圭佑に許されなかった。叶えられなかった。
だから圭佑は多くの人間に頼った。たった1人をよすがにするような人間になりたくない。そうなった自分を想像するだけで、息が苦しくなるほど怖い。
「くそ、なんで」
最寄駅から徒歩10分。家の前まで来て鞄を探るが、鍵が見つからない。
朝方の冷えた空気に首をすくめると携帯が震えた。
『鍵忘れてるよ』
昨日の相手から届いたメッセージを見て、圭佑は舌打ちをした。
*
今日も昨日と同じらしい服装の圭佑を見つめて、羽藤は眉間の皺を深めた。
羽藤が女性と抱き合う圭佑を見た日から、圭佑からの連絡はぱったりと来なくなった。
女性との交友関係について本人から聞いたことはないが、女性に人気があることは社内でも明白だったし、冴えない後輩より美しい女性との時間を選ぶのは当然だと思えた。
だが、自然の摂理である、と言い聞かせて自らを納得させようとしている自分がいることにも羽藤は気づいていた。
開発部の飲み会で案の定根掘り葉掘り問い詰められた羽藤は、同じ会社の圭佑だということは誤魔化しつつも、自分に起こった変化については一連を説明した。
しかしそもそも圭佑が声をかけた時開発部の面々は全てを見ていたわけで、羽藤に聞かずとも開発部の中で羽藤にきっかけを与えたのは圭佑だということはわかっていた。
開発部メンバーは羽藤の話を揶揄うでも囃し立てるでもなく一部始終を聞き、さらに最近圭佑からの誘いがないことを聞くと、羽藤から誘ってみることを提案した。
それに促され先々週、羽藤から圭佑に夕食の誘いを送ったが断られている。
「また難しい顔してるぞ。お前そういう顔するとちょっと怖いの知ってるか」
「...最近自覚したところです」
「その調子だ」
隣の先輩社員とは気軽に話せる仲になり、その先輩の計らいで次の査定で羽藤はもう一度昇進のチャンスをもらえることになった。
過去の経験からとはいえ会話を放棄していたのは羽藤自身で、不慣れでも不器用でも本心から話してみれば人と関わるのはそこまで恐ろしくはないのだと認識できるようになってきた。
それもこれも全て、圭佑のおかげだと羽藤は断言できる。
羽藤は幼い頃、よく話す子供だった。それを自分でも覚えている。
小学生から背が伸び始め、結局身長は高校まで伸び続けた。理科が好きで、その土台となる数学が好きになり、やがて0と1の世界に興味を持つが、高身長、理系、精悍な面差しは周囲に一般的な偏見を与えた。
「羽藤くんは理系のクールな男の子」「深みのある声で言葉にするのは素敵なことばかり」
中学生の頃、羽藤は数人の男女グループでファミレスに行ったとき、趣味について話したら「イメージと違う」と言われたことがあった。
羽藤には自分にどんなイメージがあるのかわからなかったが、それでも相手をがっかりさせてしまったことはわかった。
修学旅行で気になる女の子のと2人きりになった時は何を話せばいいかわからず、手当たり次第目に映ったものについて話を広げたら「私に興味ないんだ」と言われたこともあった。
そういう経験が少しずつ羽藤から話す勇気や自信を奪っていた。
何故圭佑ともう一度話をしたいのかという問いに、羽藤はまず「感謝したいから」と答えるだろう。
話す勇気をくれた。もらった勇気を使って話してみたら、周りには優しいひとばかりだった。
あの日から羽藤の周りは花が咲いたように鮮やかになり、誰とも話さなくていいから、と企業のシステム開発を就職先に選んだ新卒の頃とはまるで世界が違って見える。
「...感謝を伝えたい相手には、なんて言葉から始めればいいんでしょうか」
「親孝行でもしたいのか?」
「いえ、あの...と、とも、だち...のような」
「ふぅん」
「ありがとうと伝えたいんですが、なんと話しかければいいのか難しくて」
「......ありがとうって言いたいだけなのか?」
「...どういう、」
「あの!」
手を動かしながら会話していた2人の後ろから可愛らしく裏返った声がして、羽藤も先輩社員もびくりと肩が跳ねた。
振り返ると経理部の小柄な女性社員が縮こまった様子で立っている。
「小竹さん。どうしたの」
先輩社員が話しかけるが、小竹の視線は羽藤に注がれたまま。
「小竹、さん?なにか、」
羽藤もその視線に気づいて話しかけると、小竹は一度小粒の苺のような愛嬌のある目をきゅっと瞑って、勢いづけて口を開いた。
「あの、羽藤さん、今夜...ご飯、一緒にいかが、ですか」
「ご飯...俺と?」
「は、はいっ!」
羽藤が横の先輩社員をチラリと見るが、なんとも絶妙な面持ちをするだけだった。
結局その場で今夜の約束をすると、小竹は小走りに経理部のデスクへ帰って行った。
「モテモテだな、羽藤」
「そういう用事ではないでしょう」
「じゃあお前はなんの用事だと思うんだ」
「...開運の壺とか」
「それ本人に言ったら泣くんじゃないか」
「...ほとんど話したこともない人ですよ」
「だからお前と仲良くなりたいんだろ」
「仲良く...」
「仲良くなった先に何かがあるかもしれないし」
「先、ですか」
「考えたことない訳じゃないだろ」
「......」
話が繋がるような繋がらないような曖昧な感覚だった。
先輩はそれきり作業に戻ったので羽藤も作業を続けるが、どうにも集中しきれない。
首を伸ばして営業部の島を見るが、圭佑どころか全員出払っているようでデスクには誰も座っていなかった。
メッセージアプリを起動して圭佑とのトークルームを確認しようとすると、先ほど連絡先を交換した小竹から今夜の時間について連絡が来ていた。
既読をつけてしまったので返答すると、すぐに犬のイラストのスタンプが返ってきた。
顔を上げると隣の経理部から小竹が顔を覗かせていて、目が合うと恥ずかしそうな笑顔を見せた。
*
取引先から帰社する電車で圭佑は昨夜の相手からのメッセージを確認していた。
家の鍵は泊まったホテルに預けておいてくれたらしい。明らかに疲労を訴える身体で退勤後にホテルへ寄るのは億劫に感じたが、背に腹は変えられない。流石に今夜は自分の部屋で眠りたい、と痛む体の節々を感じながら冷たい吊り革を握り直した。
会社のビルの入り口で営業帰りの同僚に出会し雑談をしながらオフィスに戻ると、定時はすでに過ぎていた。
今日は残務もないのでさっさと帰る準備を始めると、羽藤が経理部の小竹と連れ立ってオフィスを出ようとするのが目に入った。
ああ、早いな。
口にするでもなく、それでもそれ以上どうとも表せない感想を胸のうちに呟いて、鞄を持ち上げた。
いつもよりずいぶん重たく感じるのも気のせいだろうと振り切って立ち上がる、が、なにか感覚がおかしい。
目の前が白と黒でチカチカして、右足と左足で床が違う場所にあるみたいに感じて体が傾いでしまう。
慌てて鞄を抱き、なんとか人気のないトイレへ駆け込んだ。
視界が回って吐き気の波が襲ってくるが、酒で吐くことすらほとんどない圭佑はどうしていいかわからず、誰もいないトイレの洗面台にただしがみついた。
強く目を瞑ると瞼に眼球の熱さが伝わってくる。
熱があるのだとそれで分かった。
余裕のない自分を他人に見られたくないという思いが強いが、家の鍵がホテルにあることを思うとこのまま夜のオフィス街に出ていくのも現実的でない気がして身動きが取れなかった。
________こういう時、どうすればいいんだっけ。
熱で溶けた思考は吐き気を知覚する以上の働きをしてくれない。
なんでこんなことになったんだっけ。
俺は何がしたかったんだっけ。
ああ、
「羽藤くん...」
「はい」
会いたい人の名前を言ったら、その人が返事をしてくれた気がした。
大きくて冷たい手が背中に添えられたのが服越しにも分かる。
「大丈夫ですか」
心地の良い低さの声がやや後ろの頭上から降ってきて、どうせ夢だと思うと体から力が抜けてくる。
「むり...」
「家まで送ります」
「鍵、ない...」
「え?」
膝が折れて、しゃがんで洗面台にぶら下がるような体勢になると、大きな手が身体を支えるように位置を変える。
酷い眠気に意識を手放しつつある圭佑は無意識にその手に身体を預けてしまった。
*
同僚と一緒にオフィスに帰ってきた圭佑を見つけた羽藤は、ずっと話しかけるタイミングを伺っていた。
しかし同僚と話しながらさっさと帰る準備を始めてしまう圭佑たちに割り込む勇気もなく、そのうちに小竹に呼ばれてオフィスを出ることになってしまった。
オフィスのガラス戸から圭佑の方を見ると、もう同僚と話してはいないようだが、半端に立ち上がった姿勢のまま不自然に停止している。
行き先のレストランについて紹介する小竹の声などもう耳に入らず、羽藤は足を止めて圭佑の方へ体を向けていた。
「羽藤さん?」
羽藤の隣に立つ小竹はさらに小柄に見える。小竹は羽藤を見あげて声をかけたが、羽藤は振り返らない。
「……小竹さん、すみません」
「どうされました?」
「今日は、その、都合が悪くなってしまって」
「……あ、え、そうなんですか」
「申し訳ないのですが、今日は…」
「あ、じゃあまた来週にでも」
オフィスの中へ戻ろうとした羽藤を小竹の言葉が止める。
羽藤はジリジリとした焦燥感を感じながら小竹を振り返った。
「その、俺は…多分、あまり器用ではなくて」
「はい?」
「…今、向き合わなければいけない大きな出来事がある、と思っていて」
「…はい」
「その、なので、答えが出るまで、多分何もできないというか…なので、すみません、食事は…」
「……好きな人がいるんですか?」
圭佑がオフィスの奥の扉から廊下へ出てきて、羽藤たちとは逆方向へ去っていくのが見える。
小竹の問いに羽藤はほとんど無意識に口を動かしていた。
「はい。その人と話したくて」
言うや否や羽藤は圭佑の後を追って廊下を走った。
先程まで、羽藤は圭佑に感謝を伝えたいのだと思っていた。
実際その気持ちは変わらない。でも、昼過ぎに先輩社員に聞かれた「ありがとうと言いたいだけか」と言う言葉が妙に引っかかっていた。
小竹に食事に誘われて、「仲良くなった先」のことについてまた考え、そして圭佑のことを考えた。
羽藤は圭佑に、感謝を伝え、仲良くなり、そしてもっと先に期待してしまうものがあるのだと、たった今気がついたのだ。
圭佑の去った方向には非常扉とトイレしかなく、普段ほぼ使われないトイレに自動灯がついているのが見えて迷わずトイレに入った。
洗面台に体重を預けて立つ圭佑は目を瞑っているようで羽藤には気づいていない。体調がおかしいのは明らかだった。
話しかけようとしたら何故か名前を呼ばれたので、つい返事をした。
さっきまで話したかったことが、目の前の状況に気を取られてどうにもまとまらない。
辛そうな圭佑を見ていられなくて背中に手を添えたら、案の定とても熱かった。
話す声より吐息の方が重たく大きく、もう半分眠っているような圭佑が「鍵がない」という言葉を最後にうずくまってしまって、羽藤は小さく震える圭佑の体を支えたまま焦る。
何よりもまずどこかで休ませることが優先だろう。だが圭佑の「鍵がない」と言うのが気になる。
いつもの羽藤ならいくらでも選択肢が浮かんでいただろう。でも今は、焦りと抱いたことのない感情で視野が極端に狭まっていた。
羽藤にとっては比較的体重の軽い圭佑だが、朦朧とした足取りを転ばないように、気分が悪くならないように気にしながらなんとか支えて会社の前でタクシーを捕まえる。
指定した行き先は会社からバスで10分ほどの羽藤の家だった。
*
圭佑は身体に暖かさを感じて目が覚めた。
珍しく不快な気分ではない。
頬に当たる布団の感触が柔らかくて、昨日はどこのホテルに泊まったんだったか、と記憶を呼び覚まそうとするが何故かうまくいかない。
いつものように部屋の窓を探そうと頭を動かしたら、羽藤と目があった。
「名塚さん、気分はいかがですか」
「………っえ、羽藤くん…?」
羽藤が窓を背に椅子に座って圭佑を見下ろしていた。
窓の外は暗く、羽藤の表情は読み取れない。
「……すみません、えっと、混乱すると思うんですが、ここは俺の家です」
「………あ、そう…なんだ…?」
「名塚さん、会社で熱を出して」
「……うわ、そうだ…え、なん、ごめんそれで俺なんで…」
徐々に思い出してくると言われた通りに思考が混乱してきた。
トイレに駆け込んで以降記憶が曖昧だが、羽藤のことを考えていたような気がする。
直前までしていた自分の酷い想像が現実になってしまったような心地で、それが余計に圭佑を混乱させていた。
「体調が悪そうだったんですけど、鍵がないと言っていたので…一旦俺の家に。すみません、今考えればホテルとかにお送りしても良かったんだと思うんですけど…」
「いやそんな…ごめん、迷惑を…」
熱は引いたようで、今は過保護なほど重ねられた布団や暖房が少し暑いと感じるまでになっていた。
意識してみれば枕やベッドから羽藤の匂いを感じてしまって、何故か恥ずかしい。
羽藤が申し訳なさそうにするのを見て、圭佑はさらに落ち着かない気分だった。
「迷惑では…ないんです、その、あの、俺」
羽藤もどうしてだか落ち着かない様子で、話す途中で立ち上がって部屋の電気を付けたりと忙しない。
「俺、あなたのことが好きで」
オレンジの光が点った部屋で、羽藤はずいぶん可愛い顔をしていた。
眉を下げて、きゅっと唇を引き結んだ表情は幼く見える。
そしておそらく本人もこんなふうに言葉を出すつもりはなかったのか、言った後にハッと気づくような表情をした。
「………なんで?」
そして圭佑も、自分がなんと言ったのか理解する前に口が動いていた。
「どうして俺が好きなの?嘘でしょ」
「嘘なんて、」
「ありえないよ。そんなはずないじゃん」
圭佑は羽藤の言葉が受け入れられなかった。
今まで欲しいものは圭佑の手に降ってはこなかった。
欲しくて見上げているものはいつも圭佑に降り注ぐ前に別のところへ行ってしまった。
母親の手のひら。父親の腕。真っ先に呼んで欲しかった名前。
両親からは分け隔てない愛を注いでもらったし、それはしっかり自覚している。それでも、欲しいと願ってしまうものはあった。
だから自分で掴みにいく。でもそれは、羨ましく見上げていたものとは少しずつ違った気がする。
諦めて代わりの物を握りしめてそれを”幸せ”と呼ぶのが人生だと圭佑は思っていた。
降り注ぐように与えられるものを圭佑は知らない。
「……わかってます、名塚さんが俺のことが好きではないことは」
羽藤は立ち上がったまま、圭佑とは目を合わせない。それでも下を向いたまま羽藤は続けた。
「こんなふうに言うつもりではなかったんですが、でも、ごめんなさい、伝えたくて。初めてご飯を食べた日から、あなたは俺をまっすぐ見てくれて…あなたと話していると、自分がすごく素敵な人間になったみたいに感じるんです。ずっとどうしてだろうって考えていて…あなたと話すうちにわかったんです。あなたは俺のことをとても大事に考えてくれていて、俺のために話してくれるんだって。だから俺もそうしたいって思うようになってから、人と関わるのが少し楽になって…そうやってるうちに、気づいたんです。もっと名塚さんを大事に考えたいって。もっと話して、もっと一緒に時間を過ごしたいって。あなたのことばかり気になって、だから、えっと、すみません勝手で。でも、嘘じゃないんです、好きなんです、あなたのことが」
初めて食事に行った日のことを思い出す。
あの日も羽藤は趣味の話をこんなふうに、とめどない言葉にして話してくれた。
それを圭佑は微笑んで聞いていた。
「信じられない」
「…ごめんなさい、気持ち悪いですよね。家にまで連れてきてこんなこと。体調が落ち着くまでと…」
「本当に俺のこと、好きなの?」
圭佑はベッドに身体を起こし、少し潤んだ瞳で羽藤を見つめた。聞かれた羽藤は答えようと圭佑を見つめた。
熱のせいと思われた瞳から、ぼろりと大粒の涙がひとつ落ちるのを見て、羽藤はぎょっとした。
「す、え、はい、好きです、」
「俺のこと?」
圭佑は呆然とした顔で、次々に涙を溢れさせた。
「ご、ごめんなさい、そこまで嫌だとは…い、今すぐタクシー呼びますか、あでも鍵、」
「…俺も」
「………っへ、」
嫌な相手からはすぐに離れたいだろうと携帯を取り出してタクシーアプリを起動させた羽藤は、圭佑の涙交じりの声に動きを止めた。
「おれもすき……」
言いながら圭佑は顔を覆って泣き出してしまった。
「ぇ、ぇえ、ええ……え、好き?」
「だって羽藤くん可愛くて素直でかっこいいから絶対モテるし…!みんなと仲良くなったら選び放題だし!俺好奇心で話しかけただけだったし、気づいたら小竹さんとご飯行くし!」
「行ってないですよ!選び放題てなんですか!!名塚さんこそ、女の子とばっかり遊んでモテモテじゃないですか!馴れ馴れしくしてほしいとか言ってご飯断ったくせに!」
「だって羽藤くんが他の人と仲良くなるの寂しいだろ!でも俺が独り占めするわけにもいかないじゃんか!!」
「独り占めしてくださいよ!勝手にヘソ曲げてるのそっちじゃないですか!」
顔を覆う圭佑の手首を掴んで目を合わせた羽藤は、一人暮らしの部屋で初めて出す音量で話していることに気づいた。
圭佑が泣きながら子供のように話すので、それに釣られていた。
目が合うと落ち着いたのか、恥ずかしそうに視線と音量を下げた圭佑の横に羽藤も腰を下ろす。
「だって…どうせ俺の手に入らない物だって思ったから」
「だから手に入れてくださいよ、俺あなたのものになりたいです」
濡れた圭佑の瞳が羽藤を見上げる。
部屋の照明が映って、少し色素の薄い瞳が飴玉のようにつるりと瞬く。
「俺、こんないいもの貰ってもいいの?」
「その言葉そのまま返したいですけどね」
「わかんないよ、酷くしちゃうかも」
「その言葉もそのまま返します」
言い合う間にも二人の距離は近くなっていく。
やがてふれあって、しばらくして一度離れた時、二人は額を合わせて笑い合った。
**
翌朝、圭佑は羽藤に抱きつかれたまま目を覚ました。
若干痛む気がする腰をさすりながら、ぽつりと、
「俺が抱かれるんかーい……」
と呟いた。
絶対自分が上だと思っていた。
「割と...ノリノリで抱かれにきたじゃないですか…」
半覚醒のもちもちした話し方で羽藤が言う。
圭佑は羽藤の肩を揺さぶりながら問いかける。
「ねぇ、本当に初めてだった?ありえないぐらいかっこよかったんだけど???」
「初めてに決まってるじゃないですか。名塚さんこそ、男に抱かれるの初めてかどうか知りませんでしたけど…ちょっと不自然なくらい可愛かったですよ?」
「俺だって初めてだよ!あんな…あんなこと…」
羽藤は半身を起き上がらせて、圭佑の紅く染まった頬から耳にかけてを大きな手のひらで覆うように撫でる。
壊れ物を扱うような優しすぎる力加減に圭佑は昨日の羽藤の手つきを思い出してまた恥ずかしくなる。
「……嫌でした?名塚さんのこと大事にしようって思ったら、自然とあんな感じになったんですけど…」
「嫌なわけないだろ!言わせんな…」
むくれた顔で羽藤の手に擦り寄る圭佑に羽藤は笑って、圭佑の肩に毛布をかけ直した。
「もう少し寝ててください。昨日熱出してるんですから」
「それでも抱いたのはそっちだけど」
「だから…!」
「嘘だよ。今日はゴロゴロしよう。明日さ、地図帳の旅に連れてってよ」
「体調が良かったら近場でやってもいいですね。そうだこの前また新しい道が_______」
ふたりの会話は結局止まず、二度寝の前に太陽は上りきった。
どちらかともなくお腹がなって、ふたりは適当な昼食を求めて起き出したのだった。
完