夕方になってようやく目が覚めた惟人が、目を擦りながらリビングに行くと、腕組みをした明菜が仁王立ちして惟人を睨んでいる。
「惟人、昨日のことはどこまで覚えているの?」
「みんなと店で飲んでたことは覚えてるけど、その後は全然……」
まだ眠そうな表情を見せる惟人に、明菜はため息をつく。
「親切なお友達と、男性の方があなたを家まで送ってくださったのよ。ちゃんとお礼をしておきなさい」
「後でやるよ……」
「駄目です。ここでやっていきなさい」
明菜はいつになく厳しい口調で惟人を叱る。
上原にはメッセージアプリから通話して謝りを入れた。
「気にすんな! お前以外にも何人か泥酔してて、結局肝試しは中止したから」
「そうか、乗り気だったのにすまん」
「いいって。とにかくまた飲もうぜ」
「ああ。またな」
友人の陽気な声で少し気持ちが楽になった。
「次はこの方よ」
明菜が、春田の書いたメモを渡す。
「うー、知らない番号にかけるのって緊張する……」
スマホを持つ手は汗で湿っている。
「ちゃんとかけなさい」
「はい……」
心拍数がどんどん増えて息苦しくなりながら、惟人は番号をダイヤルし、水の中に飛び込む時のように息を止めて通話ボタンを押す。
四回目のコール音の後で、低い男性の声が耳に届く。
「はい」
「あ、あの、昨日はありがとうごじゃいました!」
舞台の上から叫んでいるような声が出て、緊張と恥ずかしさで耳が真っ赤になっている。
「ああ、君か。大丈夫だったんだね」
「ほんとすみませんでした」
惟人はひたすら謝り、春田はその度に気にしなくていい、と静かな声で返す。
「また困ったことがあったらいつでも電話してきて」
「はい、ありがとうございます」
惟人が電話を切ろうとした時、春田がぽつりと呟いた。
「君とはまた会えるような気がするんだ。それまで待ってるよ……」
「えっ、なんか言いました?」
再びスマホを耳に当てたが、電話は切れていた。
――なんか気になるけど……まいっか。
「終わったよ」
「なんて言ってた?」
「別に、気にしなくていいよって言って、困ったことがあったらいつでも連絡してって言ってくれた」
「そう……」
明菜の視線が宙を泳ぎ、少し沈んでいるような表情を浮かべた。
「母さん、もしかして春田さんって人が気になるの?」
「何よ、変な事考えないでちょうだい」
「そう? だって顔赤いよ」
顔を伏せる明菜に、惟人はにやにやしながら追い討ちをかける。
「親をからかうんじゃありません。終わったならシャワーでも浴びて来なさい」
「はーい」
惟人がリビングを出ていくと、何を思ったか明菜は和室に行き、仏壇の前に正座した。
「大介さん、ごめんなさい。知らない男の人を家に入れちゃって……」
明菜は何度も髪をかき上げる仕草をした。
「あなたを殺した女と同じ苗字だったけど、関係なんて無いわよね……」
ぐちゃぐちゃになった明菜の心を前にしても、大介の遺影は変わらず微笑んでいた。
上原から結婚式の招待状が届いたのは、それから五年後のことだった。
事前に連絡が来ていたので特段驚きはしなかったが、成人式以来の再会なので、惟人の心は弾んだ。
結婚式は、おそらく日本で一番人気のあるテーマパークに隣接するホテルの式場で行われ、会場のいたる所に、マスコットキャラクターのグッズが飾られている。
「あいつ、こんなに好きだったっけ」
「嫁さんが大好きらしいよ。年パスで月に一回は来てるって」
新郎側の友人枠として集まったメンツとも会うのは五年ぶりで、話のネタは尽きることを知らない。
式は無難に進行し、あっという間に退場の時間になった。
両手にお礼品や引き出物の入った紙袋を下げながら、惟人は帰路に着く。
「おっ、カタログギフトだ」
帰宅し、自分の部屋で着替えながら紙袋を覗くと、厚みのある冊子が目に入った。
ご当地グルメ、生活雑貨、非日常体験などラインナップはかなり豊富で、つい目移りしてしまう。
「うーん、どうしようかな」
悩みに悩んだ末に惟人が選んだのは、プリペイド式のタクシーチケット。
タクシーなら仕事でもプライベートでも使うことはあるだろうし、無駄にならないものが一番であることが決め手になった。
専用サイトから申し込み、二日後にはやや高級感のある封筒が届いた。
「何だこれ」
封筒に入っていたのは、カタログに掲載されていた青地のものではなく、黒地のチケットだった。
しかもただの黒ではなく、吸い込まれそうになるほどの闇を感じる冷たい色で、惟人は思わず息を飲む。
「時空タクシーなんて聞いたことないな」
使用者の生年月日より後の指定した日時に戻れること、乗車するには二人以上であること、戻ることにより現在が著しく変化してしまう場合があること。
裏面には、これらの他に免責や注意事項が細かい字でびっしりと書かれている。
「過去に戻れるチケット……」
真っ先に浮かんだのは、2歳の時に戻り、生前の父親に会いに行くことだった。
しかも二人以上で乗るなら母に声をかけてみようと考えたが、母は父の死以来、ずっと惟人の前では明るく振る舞ってきた。
「きっと反対されるよな……」
こんな怪しい話に巻き込みたくないと思い、母は候補から外す。
スマホの電話帳をスクロールしながら、誘った時のシミュレーションをしてみたが、どれも違うような気がして、惟人は宙を仰ぐ。
「あっ、そうか春田さんがいるじゃん」
あの日、誰よりも丁寧に自分を介抱してくれた優しさを、惟人は忘れられなかった。
ずっと連絡はしていなかったが、惟人は迷わず通話ボタンを押す。
「もしもし、中町です。春田さんですか?」
「やあ、君か」
――春田さん、だよな? こんなに老けてたっけ……。
電話越しの男性の声は、前よりずっとしわがれており、老けたというより摩耗しているような印象を受けた。
過去に戻れるという時空タクシーに同乗して欲しいとお願いすると、春田は二つ返事で快諾してくれた。
「やっと……やっと、この時が来た……」
「え?」
「いや、何でもない」
風邪でも引いているのか、春田の声はくぐもってますます聞き取りづらくなっていた。
待ち合わせの場所や日時を決めて電話を終えた惟人は、期待に胸を膨らませながらボールペンを手に取り、チケットに名前や戻りたい年月日を記入する。
二度と抜け出せない復讐の円環に、足を踏み入れてしまったとは知らずに。