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時間の月

ー/ー



 リモコンの電池が弱っているのか、音量の数字が一つずつ遅れて跳ねた。
 ニュースは、途切れ途切れに耳へ落ちてくる。
 ――二十年前に埋められたタイムカプセル……校庭の片隅……当時、テレビ局の企画で……卒業生や地域の人々も参加して……大きなものは重機で……。

 薄い雲を透かして午後の光が部屋の埃を浮かせる。乾いたカーテンの縁が、空調の気まぐれな吐息に合わせてかすかに揺れた。
 ソファの縫い目に小さな糸くず。スーツの膝に残った折り目。三十代のサラリーマンという言葉を自分に当てると、書類のクリップの冷たさまでが肩にのしかかる。こんなふうに、何でもない日用品の手触りが、ふと過去の別の質感へ連れてゆくことがある。

 小学校の頃、近所に少し年上の女の子がいた。
 ふたつ上だったか、ひとつ上だったか、学年の差を具体的に指折りして確認した記憶はない。ただ、私の背よりも早く影が伸びる人――そんな印象だけが残っている。彼女はよく一緒に遊んでくれた。公園で逆上がりを教えてくれ、竹でできた水鉄砲の飛距離を競い、雨の日には軒下でビー玉を並べた。ビー玉のなかの渦巻きは、覗き込むたびに別の空の色を閉じ込めているようだった。

 彼女は、遅くまで帰ろうとしないことが多かった。
「帰ってもね、いるのよ、ママの彼氏」
 そう言って砂場の縁に座り、足先で砂を少しずつ崩した。崩れた砂は形を失いながら、音もなくもといた場所へ戻っていく。
「でも、こないだの人は優しいんだって。ケーキ買ってくれたし。お金もたくさん持ってるって。ママがそう言ってた」
 言いながら、彼女は私のキャップのつばをくい、と持ち上げた。日差しが目に刺さって涙が滲むと、彼女は笑った。
「きみ、頭いいんでしょ? 大人になってお金稼げるようになったら、わたしをお嫁さんにして」
 その台詞は、ビー玉の渦巻きのようにいくつもの意味を内側に巻き取りながら、私の胸に置かれた。私は何と答えたのだろう。たぶん、うん、とか、わかった、とか。意味の薄い肯定が、子供の口からつるりと転がり出ていくときの軽さを、舌の裏が覚えている。

 六年生の春だったか、私の通う小学校がテレビ局の企画で大々的なタイムカプセルをすることになった。
 卒業生だけでなく、地域の人も参加していいという触れ込みで、校庭の奥に穴が掘られ、重機が入った。オレンジ色の機体が唸り、地面は静かに口を開けた。大きな箱がやって来て、みんなが思い思いのものを詰めた。将来の自分宛ての手紙や、使い古しのグローブ、壊れた目覚まし、学級新聞の束。テレビカメラが子どもたちの表情をなめるように追い、そのたびに誰かの頬が少しこわばった。土の匂いに混じって、油の匂いが鼻に残った。

 埋める前日の夜、彼女はいつものように私を連れ出した。
 ふたりで校門まで行くと、柵の向こうに重機の影が眠っていた。月が出ていた。満ち欠けのどの途中だったのか、思い出そうとするたびに、空が白紙のように平らになる。校庭の砂は夜の湿り気で重くなり、踏むたびにきゅっと鳴いた。
 彼女は、ポケットに手を入れたまま、少し背伸びをして言った。
「新しい彼氏、ほんとに優しい人なんだって。お金もたくさん持ってるんだって。だから、わたし、あの人のところに行く」
 言い切って、顔を上げた。目が、月を映していた。
 私は、なぜか胸を張って言った。
「いつか迎えに行く」
 その言葉がどこからやって来たのか、今でもよくわからない。まるで誰かの台詞を借りてきたみたいに、私の声は少しだけ他人行儀だった。
 さらに、当時読み始めたばかりのラノベのどこかで仕入れた知識を、私は披露した。言ってみたかったのだ。
「月がきれいですね」
 彼女は眉をひそめ、それから、ふっと笑って首を傾げた。
「それって、今日の月のこと?」
「うん。……そう」
「そうかな」
 彼女の声が、夜の中で小さく丸まった。
 何をどう取り違えたのか、あるいは取り違えたことなど最初からなかったのかもしれない。私たちは数歩分の会話を重ねて、それから別れた。別れの仕方は簡単で、手を振るだけだった。砂の音がふたたび夜に沈んだ。

 翌日は賑やかだった。
 テレビ局のスタッフがケーブルを延ばし、先生が安全ラインをロープで示した。土の山のそばにブルーシートが敷かれ、集められた箱が番号順に並んだ。
 重機が唸り、いくつかの大きな箱が降ろされ、土が戻された。土は無言だ。無言であることによって、いくつもの約束を呑み込んでしまう。そうやって時間は形を変え、私たちの足元へ均一な地面として戻ってきた。そこをまた、日常が踏みならしていった。

 ニュースの音が、現在へ私を引き戻す。
 ――開封作業の過程で、想定外のものが……。
 ――埋設場所に近い地中から、身元不明の白骨化した遺体……。
 ――子どもの女性とみられ……身元の確認は難航……。

 画面の右下の小さな時計が、分の表示を一つ進めた。
 言葉は、字幕のように遅れて意味になる。意味は、記憶の砂に触れたとたん、音もなく崩れてまたもとの場所へ戻っていく。

 テレビを消す。部屋は急に軽くなる。
 玄関へ向かいながら、足の裏が床の冷たさを拾った。靴べらに少し錆が浮いている。出がけに手探りで掴んだのは、昔の鍵束だった。何の鍵かわからない鍵が一つだけ、鈍い光を宿している。私はそれをポケットに入れ、扉を開けた。

 外の空気は、朝でも夜でもないような、中途半端な湿り気だった。廊下の手すりに手を置くと、金属が油の匂いを返す。見上げると、雲の切れ間に丸いものがあった。満ち欠けのどの途中か、やはりわからない。わからないままであることが、その輪郭を逆に鮮やかにした。

 埋めたものは、きっと正しく開けられるべきだったのだろう。
 けれど、正しく開かないもののほうが、どこかで確かさを持ち続ける。土のなかで形を変えながら、私たちの歩幅に合わせて沈黙の弾力を保っている。喪ったものの輪郭に触れるたび、触れえなかったものが小さく芽を出す。土の下から伸び出す芽のように、目に見えないところで何かがやり直されている。そんな気がした。

「……」

 声にならない呼吸が、喉の奥で折り返し、やがてふくらんだ。
 私は手すりから手を放し、階段に一段、足を置く。足裏に、遠い校庭の砂の感触がほんの一瞬だけ戻る。
 そして、誰に向けるでもなく、空へ。
 あの時の月は永遠に綺麗なままだ。




みんなのリアクション

 リモコンの電池が弱っているのか、音量の数字が一つずつ遅れて跳ねた。
 ニュースは、途切れ途切れに耳へ落ちてくる。
 ――二十年前に埋められたタイムカプセル……校庭の片隅……当時、テレビ局の企画で……卒業生や地域の人々も参加して……大きなものは重機で……。
 薄い雲を透かして午後の光が部屋の埃を浮かせる。乾いたカーテンの縁が、空調の気まぐれな吐息に合わせてかすかに揺れた。
 ソファの縫い目に小さな糸くず。スーツの膝に残った折り目。三十代のサラリーマンという言葉を自分に当てると、書類のクリップの冷たさまでが肩にのしかかる。こんなふうに、何でもない日用品の手触りが、ふと過去の別の質感へ連れてゆくことがある。
 小学校の頃、近所に少し年上の女の子がいた。
 ふたつ上だったか、ひとつ上だったか、学年の差を具体的に指折りして確認した記憶はない。ただ、私の背よりも早く影が伸びる人――そんな印象だけが残っている。彼女はよく一緒に遊んでくれた。公園で逆上がりを教えてくれ、竹でできた水鉄砲の飛距離を競い、雨の日には軒下でビー玉を並べた。ビー玉のなかの渦巻きは、覗き込むたびに別の空の色を閉じ込めているようだった。
 彼女は、遅くまで帰ろうとしないことが多かった。
「帰ってもね、いるのよ、ママの彼氏」
 そう言って砂場の縁に座り、足先で砂を少しずつ崩した。崩れた砂は形を失いながら、音もなくもといた場所へ戻っていく。
「でも、こないだの人は優しいんだって。ケーキ買ってくれたし。お金もたくさん持ってるって。ママがそう言ってた」
 言いながら、彼女は私のキャップのつばをくい、と持ち上げた。日差しが目に刺さって涙が滲むと、彼女は笑った。
「きみ、頭いいんでしょ? 大人になってお金稼げるようになったら、わたしをお嫁さんにして」
 その台詞は、ビー玉の渦巻きのようにいくつもの意味を内側に巻き取りながら、私の胸に置かれた。私は何と答えたのだろう。たぶん、うん、とか、わかった、とか。意味の薄い肯定が、子供の口からつるりと転がり出ていくときの軽さを、舌の裏が覚えている。
 六年生の春だったか、私の通う小学校がテレビ局の企画で大々的なタイムカプセルをすることになった。
 卒業生だけでなく、地域の人も参加していいという触れ込みで、校庭の奥に穴が掘られ、重機が入った。オレンジ色の機体が唸り、地面は静かに口を開けた。大きな箱がやって来て、みんなが思い思いのものを詰めた。将来の自分宛ての手紙や、使い古しのグローブ、壊れた目覚まし、学級新聞の束。テレビカメラが子どもたちの表情をなめるように追い、そのたびに誰かの頬が少しこわばった。土の匂いに混じって、油の匂いが鼻に残った。
 埋める前日の夜、彼女はいつものように私を連れ出した。
 ふたりで校門まで行くと、柵の向こうに重機の影が眠っていた。月が出ていた。満ち欠けのどの途中だったのか、思い出そうとするたびに、空が白紙のように平らになる。校庭の砂は夜の湿り気で重くなり、踏むたびにきゅっと鳴いた。
 彼女は、ポケットに手を入れたまま、少し背伸びをして言った。
「新しい彼氏、ほんとに優しい人なんだって。お金もたくさん持ってるんだって。だから、わたし、あの人のところに行く」
 言い切って、顔を上げた。目が、月を映していた。
 私は、なぜか胸を張って言った。
「いつか迎えに行く」
 その言葉がどこからやって来たのか、今でもよくわからない。まるで誰かの台詞を借りてきたみたいに、私の声は少しだけ他人行儀だった。
 さらに、当時読み始めたばかりのラノベのどこかで仕入れた知識を、私は披露した。言ってみたかったのだ。
「月がきれいですね」
 彼女は眉をひそめ、それから、ふっと笑って首を傾げた。
「それって、今日の月のこと?」
「うん。……そう」
「そうかな」
 彼女の声が、夜の中で小さく丸まった。
 何をどう取り違えたのか、あるいは取り違えたことなど最初からなかったのかもしれない。私たちは数歩分の会話を重ねて、それから別れた。別れの仕方は簡単で、手を振るだけだった。砂の音がふたたび夜に沈んだ。
 翌日は賑やかだった。
 テレビ局のスタッフがケーブルを延ばし、先生が安全ラインをロープで示した。土の山のそばにブルーシートが敷かれ、集められた箱が番号順に並んだ。
 重機が唸り、いくつかの大きな箱が降ろされ、土が戻された。土は無言だ。無言であることによって、いくつもの約束を呑み込んでしまう。そうやって時間は形を変え、私たちの足元へ均一な地面として戻ってきた。そこをまた、日常が踏みならしていった。
 ニュースの音が、現在へ私を引き戻す。
 ――開封作業の過程で、想定外のものが……。
 ――埋設場所に近い地中から、身元不明の白骨化した遺体……。
 ――子どもの女性とみられ……身元の確認は難航……。
 画面の右下の小さな時計が、分の表示を一つ進めた。
 言葉は、字幕のように遅れて意味になる。意味は、記憶の砂に触れたとたん、音もなく崩れてまたもとの場所へ戻っていく。
 テレビを消す。部屋は急に軽くなる。
 玄関へ向かいながら、足の裏が床の冷たさを拾った。靴べらに少し錆が浮いている。出がけに手探りで掴んだのは、昔の鍵束だった。何の鍵かわからない鍵が一つだけ、鈍い光を宿している。私はそれをポケットに入れ、扉を開けた。
 外の空気は、朝でも夜でもないような、中途半端な湿り気だった。廊下の手すりに手を置くと、金属が油の匂いを返す。見上げると、雲の切れ間に丸いものがあった。満ち欠けのどの途中か、やはりわからない。わからないままであることが、その輪郭を逆に鮮やかにした。
 埋めたものは、きっと正しく開けられるべきだったのだろう。
 けれど、正しく開かないもののほうが、どこかで確かさを持ち続ける。土のなかで形を変えながら、私たちの歩幅に合わせて沈黙の弾力を保っている。喪ったものの輪郭に触れるたび、触れえなかったものが小さく芽を出す。土の下から伸び出す芽のように、目に見えないところで何かがやり直されている。そんな気がした。
「……」
 声にならない呼吸が、喉の奥で折り返し、やがてふくらんだ。
 私は手すりから手を放し、階段に一段、足を置く。足裏に、遠い校庭の砂の感触がほんの一瞬だけ戻る。
 そして、誰に向けるでもなく、空へ。
 あの時の月は永遠に綺麗なままだ。


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