「どうしたの、四十万さん?」
「えっと……その……」汐音はもじもじと身をよじらせ、呟くような声で言った。「ぼ、僕も会長に――みなさんに、謝らなきゃいけないことがあって……」
「四十万さんが?」
「なになに? 汐音も怜花のこと好きなの?」
「なっ……! み、三田ぁ!」
「も?」
怜花は小首を傾げつつ二人を見る。医者の不養生。紺屋の白袴。その道に通じている人間ほど、自身のことには無頓着なものなのだろうか。怜花は汐音に向き直り、改めて訊ねた。
「それで、四十万さん。謝らなければいけないことって?」
「は、はい。……その、僕、本当は今朝、ポスターのデザインを考えるためじゃなくて……あの本を、盗もうと思って早くに来たんです」
「な、なんですって?」
「ごめんなさい!」と汐音は深く頭を下げる。
「まさか汐音が犯人だったなんて……驚きだ」
「いや待て、三田。四十万はまだ盗んだとは言っていない。『盗もうと思って』早く来たと言っただけだ。そのあたり、なにか事情があるんじゃないか、四十万?」
「は、はい」と汐音は頷き、言葉を続ける。「僕も三田お姉さまと同じで、少し前にたまたま保管庫であの本を見つけたんです。それで、どうにかしてあの本を盗み出せないかと思って、今朝、お姉さまたちがまだ来ていないうちにと早くに学校に来ました。……でも、いざとなったら怖くなっちゃって。やっぱり盗みは悪いことだし、もし誰かに見つかったらと思うと……。それで結局、決心がつかないまま中庭のベンチでどうしようかずっと考えてました」
「つまり、結局本は盗んでいないのね?」
怜花の確認に、汐音はこくりと頷く。
「で、そうして中庭のベンチに座っているときに、怜花の悲鳴を聞いたってわけ? そっか、結局外にいても悲鳴は聞こえたんだね」
「あ、いえ。会長の悲鳴を聞いたのは、その後、生徒会室に向かっているときでした。やっぱり盗む気にはなれなくて、会長に正直に打ち明けようと思ったんです。会長、いつも朝早いから、そろそろ来るころかなと思って……」
「わたしに打ち明けるって、何を?」
「それは、その……」汐音は言い淀み、そして観念したように言った。「……あの本は、僕が描いたものだって、ことを」
「な――」
「し、汐音が?」
「はい。中学のときに少しだけ、そういう活動をしていたときがあったんです。あのころの僕は今よりもっと内気で、暗くて、友だちもいなかったから、ああいう絵や漫画を描いているときだけが楽しくて……。でも、そんな自分の性格が嫌で、高校に上がったのをきっかけにもっと明るく、人と関われる人間になろうと思って生徒会に立候補しました。だけどある日、保管棚であの本を見つけてしまって……。もしあれが僕の描いたものだとお姉さまたちに知れたら、きっと軽蔑されるだろうし、それに……もしかしたら生徒会を辞めさせられちゃうかもしれないと思って……」
「なるほど。それを未然に防ぐために、あの本を盗み出そうと考えたわけか」
侑麻の言葉に、「はい」と汐音は首を振る。
「でも、結局その決心はつかなかったから……いっそ、会長に打ち明けてしまおうと考え直しました。それを黙ったまま、いつバレるかびくびくしながら過ごすのは辛かったので……」
「まあ、たしかに汐音って絵上手いもんね。でも、ポスターのイラストとかでいつも見てるのに、汐音の絵だって全然気づかなかったなあ」
「絵のタッチやテイストは、意識して変えてました。描き方から万一、昔のことを知られないように。あと、前の自分との決別の意味でも……」
「そっか。でもすごいね。あたしはまだしも、もう何度もあの漫画を読んでいるはずの怜花すら見抜けないなんて。ね、怜花?」
そう言って彩芽は怜花のほうを見る。しかし、今や彼女に友人の声は聞こえていなかった。怜花はふらふらと、まるでゾンビのような足どりで汐音の前までやってくる。
「し、四十万、さん……本当にあなたが……あの、水戸コンドリア先生、なの……?」
「は、はい。そうです」
「あ……ああ……あああ……」
溢れる想いを、怜花はもはや言語に変換する機能を失っていた。その様子はさながら本物のゾンビのようだった。怜花は震える手で汐音の手を固く握り締める。
「お……おあ……お会い……できて、光栄……です……」
「ち、ちょっと、やめなよ、怜花。汐音はせっかく昔の自分と決別しようとしてるのに、そんな……」
「いえ、いいんです、三田お姉さま。たしかに、あのころの自分のことは今でも好きじゃないけど……。でも、自分が描いたものをこんなにも愛してくれている人がいるって知れたのは、純粋に嬉しいから。しかもそれが、僕の尊敬するお姉さまたちだなんて……」
「そうですよ、先生。あれだけの素晴らしい作品をお作りになられるあなたが、ペンを置いてしまうなんてあまりに勿体なすぎます……! 先生はこれからも描かれるべきです。そして癒やしと救いをお与えください。この世界の、全ての腐った民たちに」
「わ、わかりました。これからもたまに、その、趣味程度には。……だからその『先生』っていうの、やめてもらってもいいですか?」
「なんか……ちょっと怖いよ、怜花……」
ゴホン、と侑麻の咳払いの音が響く。
「何にせよ、これで全てのことに決着がついたようだな。我々三人の疑いは晴れ、一条も本当のことを話せて胸のつかえがとれたろう」
「えー。でもさあ、結局あの本がどこにいったのかは、まだわかってなくない?」
「いいえ、もうよいのです」
役員三人の顔を順に見て、怜花は言った。
「たしかにあの本は――わたしの聖典は失われたかもしれません。ですがわたしは、それよりもっと大切なものを失わずに済みました。それはみなさんとの絆です。これからはわたしとみなさんでさらに一丸となり、もっともっと、この学校をより良くしていきましょう!」
「おー、そうだね! 今回のことでみんな腐女子ってこともわかったし、なんならこれまでよりも、もっと結束が強まった気がするよ」
「おい、ちょっと待て。どうしてそこにしれっと私も入ってるんだ。私はきみたちのような趣味はもっていないぞ」
「えー? GL好きだって立派な腐女子だと思うけど――」
侑麻が慌てて彩芽の口を塞ぎ、相変わらず気づく様子のない怜花はきょとんとした顔で首を傾げる。そんな上級生たちの様子を見て汐音はくすりと笑う。
と、そこへ、部屋のドアが数回ノックされる音が響いた。
「ふぁへ? ふぁはひゃよいひゃん? (誰? また弥生ちゃん?)」
「はい、どうぞ」
怜花が入室を促すと、部屋のドアがカラカラと開く。そこに立っていたのは――
「失礼します。今、ちょっとよろしいですか?」
校則に則り、眉の上で短く切り揃えられた前髪。腕に巻かれた風紀委員の腕章。
「五十嵐さん。どうされたの?」
現れたのは、風紀委員の五十嵐朱音だった。