「失礼します」
引き戸を数回ノックし、怜花は職員室に入室した。がらんとした室内に教師の姿は一人しか見当たらない。「おはようございます」と怜花は六本木弥生に挨拶をする。
「おはよう、一条さん。今日も早いのね」
オフィスチェアを回転させ、六本木弥生は怜花に挨拶を返す。目元がうっすら濡れて見えるのは直前に欠伸をしていたからだろうか。生徒会顧問・六本木弥生。今年社会人三年目の、まだ年若い女性教諭である。
「昼休みの定例会議で使う資料の整理をしておこうと思いまして。先生は、今日も早朝講習ですか?」
「ううん、今日は講習お休みの日なの。……実はそのこと、ついさっきまで忘れてて。今朝ちょっと寝坊しちゃってね、慌てて準備して来たんだけど、結果的に休みで助かったわ」
六本木弥生は軽く握った拳を頭に当て、てへ、というように笑う。その反対側の頭髪の一部がアンテナのようにぴょこんと立っているのは寝坊の副産物らしい。穏やかで親しみやすく、生徒たちから姉のように慕われている彼女だが、一方で少々のんびりしたところもあり、その鈍感さにつけ込まれるように他の教師から面倒な仕事を押し付けられることも少なくないようだ。生徒会の顧問にしてもそうだし、三年生向けに開講されている受験用の特別講習も今年度から担当させられている。一応、当の本人としては「三年目なんてまだまだ新人みたいなもんだし、色々と経験を積んで頑張らないと」とやる気に燃えているようなので、少なくとも精神面の健康状態はまだ問題なさそうではあるが。
「で、それじゃ一条さんは、生徒会室の鍵を取りに来たのね?」
「はい。わたしのほうでボックスを開けてしまってよろしいですか?」
「もちろん。使ったあとは、また元の場所に戻しておいてね」
はい、と怜花は返事をし、奥の壁に掛かっている縦長の箱のほうに向かう。校内の各教室の鍵が収められている収納ボックスだ。戸の部分には四桁のダイヤル錠が取り付けられているが、怜花は開けるための番号を知っている。通常は教員や学校職員に頼んで開けてもらうのが規則だが、生徒会はその活動の性質上、また教師たちからの信用の大きさから、自分たちで生徒会室の鍵開けができるようその解除番号をあらかじめ教えられている。いつものようにダイヤル錠を外し、怜花はボックスの戸を開けた。そして鍵に手を伸ばそうとしたところで、「あら?」と呟いた。
「どうしたの?」
六本木弥生が訊ねる。
「あ、いえ、なんでも……」
と返事を返し、小首を傾げつつ生徒会室の鍵を手に取る。鍵の掛かっている場所がいつもと違っていたのだ。前に生徒会室を利用したのは昨日の放課後で、そのときは確かにいつもと同じ場所に戻したと思うのだが……。釈然としないまま、怜花はボックスの戸を閉めた。
「あの、先生。今朝、わたし以外の生徒が生徒会室の鍵を取りに来ましたか?」
「え? ううん、誰も来てないわよ」
自分以外の役員が先に来て鍵を開けたのではないかと思ったが、違うようだ。まあ、たしかに、仮にそうだとしたら、普通に考えてその役員は今もまだ生徒会室にいるはずだ。それなら鍵は生徒会室の利用を終え、ドアの鍵を閉めた後でここに戻しに来ればいいのであって、鍵だけ先に戻しておく理由がない。となるとやはり、昨日の段階で自分が無意識のうちにいつもと違う場所に戻してしまったのだろう。そう結論づけることにし、怜花は六本木弥生に礼を言い職員室を後にした。
生徒会室は職員室と同じ階にある。目的の場所が近づいてくるにつれ、怜花の足取りは自然軽くなる。そして頭の中には再び、着いてからのシミュレート映像が流れ出す。静かな早朝。窓から差し込む煌めく太陽の光。目の前には至上の尊さが詰まった一冊の聖典。読む前に、まずは祈りを捧げよう。そして感謝しよう。素晴らしい作品に。それを生み出してくれた水戸コンドリア先生に。オークションサイトに。あの本とわたしを出合わせてくれた運命に。この世に生きるすべての人に。ハレルヤ。
自身は無宗教で、また玉女もべつにミッション系の女子校というわけではないのだが、怜花はそう固く胸に誓った。そしていよいよ、生徒会室の室名札が見えてきた。高鳴る胸の鼓動は、しかしドアの鍵穴に鍵を差し込もうとしたところでその勢力を失った。ドアが僅かに開いているのである。怜花は片手に鍵を握り締めたまま、しばしその場に立ち尽くした。数秒のようにも、数分のようにも感じられた。
このときの彼女の心中は、さぞかし同情をもって思いやられよう。しかしそこはかの、玉女にこの人ありと言われし才女・一条怜花。落胆や失望の色を微塵も感じさせない朗らかな笑みを中にいるのであろう誰かに向けて浮かべ、ドアを横に開けた。しかしそこで怜花は、おや? と頭の上にハテナを浮かべる。部屋の中は無人だったのである。
先に来ているのが誰かは知らないけれど、お手洗いにでも行っているのかしら。そう思いつつ室内に歩み入る。だが、なんだろう。部屋の様子や雰囲気がどことなくいつもと違うような、微かな違和感を胸の内に覚えた。怜花は足を止め、例の収納棚に目を向ける。なぜだか、ものすごく嫌な予感がする。
怜花はふらふらと、まるで誰かに呼ばれるように収納棚のほうへ歩を進めた。引き戸に手をかけると、自動ドアのように戸は横に大きく開く。だいぶ昔から使われているものらしく、どこか部品がバカになっているのか、さして力を入れずともこのとおり簡単に開いてしまうのである。だが、今はそんなことはどうでもよかった。戸の開いた収納棚の前で怜花は硬直していた。BL誌が、いつも置いてある場所に見当たらない。そんな、まさか。怜花は震える手で棚の中を掻き分ける。しかしやはり、彼女のBL誌はどこにも見つからなかった。
わ、わたしの――。
わたしの、聖典が――。
彼女自身、そうしようとした覚えも、実際そうした覚えもまるでなかった。しかし怜花は身を大きくのけ反らせ、開いた口から次のような声を発していた。
「ギィェアアアアアアアアアアッッッ!!」
それは信仰を奪われた哀れな信徒の、魂の叫びであった。