私立玉蘭女子学園高等学校東棟二階の廊下には今日も塵ひとつ落ちていなかった。中庭に面した窓は丁寧に磨き上げられ、早朝の太陽の光を受けキラキラと光り輝いている。掲示板に貼られた今月の努力目標「美しい精神は美しい環境で育つ。毎日の掃除に真心をこめて取り組もう!」が印字されたポスターに目をやり、自分たちの日々の活動が十二分な効果をもたらしていることに、生徒会長・一条怜花は満足そうな笑みを浮かべる。
私立玉蘭女子学園高等学校、通称「玉女」は都内でも有数のお嬢様学校である。明治から続く伝統によって育まれた上品で落ち着きのある校風は親やその親世代からの評判も高く、かの学校に子を通わせることは一種の社会的ステータスの一つと目されている。一方でその伝統に縛られすぎることなく、グローバル教育やAIを活用した科目指導、SDGsへの取り組みなど時代に合わせた教育方法も積極的に取り入れ、全国の高校を対象とした東大合格者数ランキングでは毎年二十位以内にその名を列ねる実績ある進学校でもある。
そんな有名私立女子校の秩序と規律を司る機関・生徒会。その中心に君臨しているのが彼女、二年生の一条怜花である。成績は常に学年トップ、校内のあらゆる部活動から大会のたびに助っ人を頼まれるほどスポーツ万能で、転び倒れた者がいればすかさず駆け付け右手を差し伸べてやり、ついでに空いた左手でその目に浮かぶ涙をそっと拭ってやるような優しい心根の持ち主だ。さらには容姿端麗。身に纏う清らかなオーラは、彼女が歩いた道に純白の花々が咲きこぼれていくかのようである。才色兼備、文武両道、博愛精神。それらの言葉はまさにこの少女のためにあるのではないか、と思えるような彼女の華々しい活動の経歴については、ここでは割愛することにする。その素晴らしさは詳細を語らずとも、彼女が二年生にして既に生徒会長の座に就いていることからも概ね察されよう。とにもかくにも一条怜花、玉女にこの人あり、と誰もが認める完璧才女なのである。
さて、そんな怜花が廊下を歩いていると、向こうから同じ制服を着た一人の少女がやってきた。少女は怜花の近くまで来ると足を止め、「ごきげんよう」とやや硬いながらも親密さのこもった笑みを彼女に向けた。
「ごきげんよう」
怜花も頬に微笑を浮かべ挨拶を返す。ごきげんよう。たとえよく知る生徒同士であっても、そのように挨拶をするのが伝統校たる玉女におけるルールなのである。
「五十嵐さん、今日も朝から校内の見回り?」
「あ、はい。今日は東棟の担当で」
「ご苦労さま。毎日、朝早くから感心ね」
怜花が労いの言葉を口にすると、五十嵐朱音は少し照れたように「まあ、それが仕事ですから」と、校則に則り短く切り揃えられた前髪に手で触れる。その腕には「風紀委員会」の文字が入った腕章がしっかりと巻かれている。
「一条さんは、これから生徒会のお仕事ですか?」
「ええ。今日は昼休みに定例会議があるから、今のうちに生徒会室で資料の整理をしておこうと思って」
「そうですか。大変ですね、生徒会長は。本来の活動時間以外でもやることがたくさんあって」
「ええ。でも、とてもやりがいのある仕事だし、この学校をより良くするためと思えばいくらでも頑張れるわ。わたしを応援してくれるみんなのためにもね」
「わたしも応援してます。お仕事、頑張ってくださいね」
「ありがとう。五十嵐さんもね」
行儀よく一礼し去っていく朱音を怜花はそう言って見送る。まるで新品のように皺一つないスカートがひらりと揺れる。五十嵐朱音。風紀委員。同じ二年生でありながら怜花に対し常に礼儀正しく、敬意をもって接してくれる。職務上、日ごろの業務や行事ごとの際に顔を合わせることが自然多くなる彼女が、自分に対しいつも協力的な態度を示してくれていることに怜花は心からの感謝を感じている。
五十嵐朱音と別れた怜花は、生徒会室の鍵を取りにまずは職員室へ向かう。鍵を受け取り、生徒会室に着いてからのことを頭の中でシミュレートし、怜花の頬は我知らず緩み出す。学校をより良くしようという使命感に燃える生徒会長は、こんな早朝からの時間外の業務にすら楽しみを見出してしまうのだろうか。もしかしたら、それもあるのかもしれない。だが現在彼女の意識はそれとは若干違う部分に多く向けられている。すなわち、生徒会室に置かれている一冊の本に対してである。
それは今から一か月ほど前、ネットオークションで起こった奇跡の出合いだった。画面に表示されたその本の写真画像を見たとき、怜花は驚きのあまりパソコンの前で数分間硬直した。瞬きを忘れ、食い入るようにその画像をじっと見つめた。本物だ――。遅れて、身体の内側からインクが染み出すように喜びがやってきた。ああ、神様、と思った。パソコンの画面に映った一冊の本。それは長年に渡って怜花が探し求めていたBL同人誌だったのだ。
BL。ボーイズラブ。やおい。いわゆる男性同士による恋愛を描いたこの作品ジャンルを怜花は以前から愛好していた。平素からネットで推しカプの画像を検索しては身を悶えさせ、掲示板で同好の士たちのやりとりを目にしては画面の前でひとりウンウンと首を頷かせていた。機を見計らいイベントや同人誌即売会などにこっそり参加したことも何度かあった。厳格な両親やまだ幼い妹の情操教育のことを考え、いつも購入は見合わせていたが、しかし怜花はそれでも充分だった。自分が心から愛するものに囲まれた環境に身を置くことで怜花は無上の喜びを得ていた。
しかしその日、怜花は出合ってしまった。画面に映っている同人誌は間違いなく、あの水戸コンドリア氏の作品だった。かつて同氏の描いた絵をネットで初めて見た際に受けた衝撃を怜花は今でもはっきりと覚えている。目の表現だけでいくつもの表情を描き分けてしまう繊細なタッチ。髪の毛一本一本に至るまで確かに命が宿っているように感じられる丁寧な描き込み。何より同氏の描くシチュエーションはどれも怜花の好みに深く突き刺さるものばかりだった。絵の上手さと相まって、まるで自分も彼らと同じ部屋にいて、カップルが絡み合う様を間近で見ているかのような臨場感が得られた。自分にとっての真の「尊さ」というものを怜花は知るに至った。
以来、怜花はすっかり水戸コンドリア氏のファンになった。イベントで偶然同氏の作品を発見したときには、買おうかどうしようか二時間以上かけて悩んだ。そのときは結局購入を躊躇したものの、後になってやはり諦め切れず、次見つけたときはもう買ってしまおうと思っていたのだが、以来イベントや即売会で同氏の作品を目にすることはなかった。人知れず引退してしまったのだろうかと悲嘆に暮れていたところへ、たまたま閲覧していたオークションサイトで水戸コンドリア氏作のBL誌を発見してしまったのだった。
なんという偶然。いいえ、これはもはや運命。その瞬間、彼女を思い留まらせるものは何もなかった。何かに取り憑かれたようにマウスを操作し、購入ボタンをクリックしていた。即決価格だった。
後日、両親のいない時間を指定して荷物を受け取った怜花は、はたと思った。これをどこに隠しておいたらよいだろう。もちろん、自分の部屋がまず最初に浮かんだ。しかし自分の留守中に、家で遊んでいた幼い妹がもしわたしの部屋に侵入し、この本を見つけてしまったらどうしよう。わたしの部屋を掃除してくれていたヘルパーさんが偶然本を見つけ、両親にそのことを話してしまうことも絶対にないとは言い切れない。学生という身分柄、家にいない間のことがどうしても気になった。
怜花は考えた。どこかよい場所はないだろうか。自分以外の人間が容易に出入りできない場所で、読みたいと思ったときにすぐに読みに行けるような場所……。
やがて、ある考えが浮かんだ。生徒会室――。あそこなら、自分を含む四人の役員以外はめったに寄りつかないし、授業の時間以外ならいつでも自分の好きなときに読みに行ける。
翌日、怜花は早速考えを行動に移した。隠し場所として選んだのは生徒会室に置かれている、とある収納棚の中だった。怜花の背丈ほどの高さがある引き戸式の収納棚で、普段は生徒たちから没収した品々の保管場所として利用している。伝統ある高偏差値校として名高い玉女だが、校則で禁止されている物品を学校に持ってきてしまう生徒はそれでもなかなか後を絶たない。そういった生徒たちから違反物を没収し一時保管しておくのも怜花たち生徒会役員の仕事の一つなのだ。
没収品でいちばん多いのはやはり化粧品の類だが、漫画本や雑誌類なども比較的よく摘発され保管棚に置かれる。怜花はそれらに紛れさせるようにして、自分のBL誌をそこに置いておくことにしたのだった。アニメなどでよく見る生徒会長専用の大きなデスクなどがあれば、その引き出しの中に鍵をかけて隠しておくところだったのだが、生憎そんなものは現実の生徒会室には存在しない。だが、却ってこの場所はBL誌の隠し場所としてむしろ最適なのではないか。仮に誰かにそれを発見されたとしても、他の生徒からの没収物として認識されるだけで、自分の物だと疑われることはまずないだろう。自身の発想の秀逸さに自ら感心し、怜花は満足げにウンウンと首を数回大きく頷かせた。それにより、他ならぬ生徒会長たる自分自身が校則を破り違反物を学校に持ってきていることになるのだが、その事実はそのときの怜花の頭からはすっぽり抜け落ちていた。
以来、怜花は頻繁にこうして朝早くから学校に来るようになった。ほとんどの生徒がまだ登校してきていない静かな早朝の時間を利用し、生徒会室で至福の一時を過ごすためだ。生徒会長たる自分が生徒会室へ行くのは行動として自然なことだし、今朝の五十嵐朱音のように他の生徒と会うことがあっても、真面目な生徒会長が朝から何か生徒会の仕事をしにやってきたのだろうと思ってくれる。いや、実際ちゃんと仕事もしているし、今日だって定例会議用の資料整理をするつもりなのは本当なのだが。