あとのまつり(1ページ)
ー/ー 僕たちの母は、美しい字を書く人だった。
ひと目見ればそれこそ一生の記憶に残るような、他の誰にも真似できない美しい字を書く人だった。
「ずいぶんと田舎に来ちまったな。俺のせいで……」
「いいじゃない。私はずっと静かなところに住みたいと思っていたわよ」
「ずいぶんと田舎に来ちまったな。俺のせいで……」
「いいじゃない。私はずっと静かなところに住みたいと思っていたわよ」
肩を落として歩く父の背を母が優しく叩く。
僕たち兄弟は両親に気を遣って余計なことを言わないようにしていた。できるだけ父に罪悪感を抱かせず、母のように明るく振る舞おうと心がけていた。
事業に失敗した父は多額の借金を抱えることとなり、元居た家を売り払って僕たち家族を連れてこの地にやってきた。新しく住む家の面倒を見てくれたのは数少ない親戚のうちの一人だ。
その人は父の従兄か、もう少し遠い親戚だったと記憶している。つまり僕とはさほど面識がない。
この親戚というのが少々厄介で、あの手この手で言い包めて僕らに奇妙な立地の家を押しつけていったのだった。こんなところに来たくなかったと思っているのが父の表情からありありと伝わってきた。
引っ越す先の家は何と畑のど真ん中に立っている。
北側には鬱蒼とした大きな森が広がっていた。他に家らしい家はなく、通学するのにも買い物をするのにも畑と畑の間のあぜ道を通らなければならない。立地が悪いのであればせめて建物くらいは新しく使い勝手がよいものであってほしいと願ったが、僕らの願いも虚しく、与えられた家は築五十年を軽く超えていた。
学校からも遠く、友人を呼ぶことも躊躇われるようなぼろぼろの小さな家。
本当に親身になってくれる親戚だったらこんなぼろい家を寄こすわけがないだろうと、父親に言ってやりたい気持ちになった。いざというときに相手の申し出を突っぱねられない弱さ。事業に失敗したのもその性格のせいだと理解できる。
ただ、日頃からのストレスと引っ越しでさらに体調を崩しつつあった病弱な母のことを考えると、一所懸命に働き口を探して家に金を入れている父のことを責めるのは違うかと思って口を噤んでいた。家族なら困ったときにこそ協力し合わなければ。
親戚の要求はただ一つ。
膨れ上がった借金を肩代わりする代わりに、しばらくこの家に住んで管理をしてほしいということだった。彼の言う、「しばらく」がどのくらいの期間を指しているのかは僕らには分からなかった。
まだ幼い弟の手を引いた僕と父の表情は引っ越し当初から暗い。打って変わって、母だけは新しい生活に期待を寄せているのか目をきらきらと輝かせていた。
「カラスが全然来ないなんていいじゃない」と、都会で長年ゴミ捨て場を荒らすカラスに悩まされてきた母は喜んでいたが、確かにここの土地は広大な土地があって、山も森も周りにあるのに生き物の気配がやけに薄い。
「これで、みんなずっと一緒にいられるわね」
彼女が無邪気に喜んでいると分かるからこそ、誰も口を挟むことはしなかった。入退院を繰り返していた母からすると、望まぬ新生活を強いられることになったとしても家にいる時間が増えた今の方が幸せなのだ。
大きな森のある北側は常にひんやりとした風が吹いてきて、昼でもなぜか「薄暗い」と感じさせる何かがあって不気味だった。自分も高校生ながらバイトを始めて、夜も家にいない両親に代わってまだ幼稚園生だった弟の面倒を見た。
弟は誰かと一緒じゃなければ寝室に行きたがらず、僕のバイトが長引いて帰るのが遅くなっても一人きりで待っている。引っ越し前は何も言わなくても勝手に自室で眠っていたのに。
お母さんと一緒に寝てればいいだろ。そう言えなかったのは、夜通し激しく咳き込んでいる母の声を壁越しに聞いていたからだ。子どもたちには特に何も言わない両親であったが、僕は何となく彼女の死期を感じ取っていた。
誰かに手紙を書いている時間が長くなった。遠い親戚らしき人が訪ねてくることもあった。とてもきれいな字で、僕たちに向けた手紙を書く機会も増えていた。彼女からしたら遺言のつもりだったのかもしれない。
それでも僕は、弟のためを思って厳しく言い聞かせるしかなかった。
母がいなくなったらますます一人で過ごす時間が増えるのだから、今のうちから慣れておいてほしいという兄心だったのかもしれない。
「来年から小学生なんだから一人で寝ないとな。そんなんで小学校に行けるのか?」
今日もぽつんと居間で絵を描いていた弟が、僕の小言を遮るようにして首を横に振る。
「兄ちゃん、押し入れから変な音するよ。あれがこわいから、やだ」
「……どんな?」
「太鼓の音。どん、どんって」
暑くもないのに手のひらにじわりと汗が滲む。
そう、僕にも思い当たる節があった。
ねずみが走っていくカサカサとした足音は天井からよく聞こえていた。だが、押し入れの中から太鼓の音がしているのを聞いたのはこの前が初めてのことだった。
夏祭りを盛り上げる賑やかな御囃子の音。どんどん、どんどん、と小気味よいリズムを紡いでいく。そんなものが押し入れの奥から聞こえてくるわけがない。気のせいだと思って知らないふりをしていたが、弟も聞いているとなるとあれは幻聴ではなかったのだ。
「いや、太鼓ってさ……いったい誰が叩いてるんだよ」
冗談っぽく軽い口調で尋ねてみても弟はにこりともしなかった。
「しらない」
寝ぼけていたんじゃないかと言ってみても、弟は聞こえる日があるとの一点張りだ。人を困らせるために嘘をつくような子ではないので何かしら理由があるのだろう。自分も弟も引っ越しのストレスが出てきているのかもしれない。
しばらくは兄である自分が側にいて様子を見ていれば落ち着くだろうと、そのときはあまり深く考えていなかった。
ぱちんと室内の電気を消して、二人で並んで布団に潜り込む。
土地全体を覆う薄暗さにもそのうち慣れる日が来るのだろう。まだ小さい弟は理解できていないかもしれないが、近隣では立て続けに人が死んでいる様子で頻繁に霊柩車が道を駆けていた。
「兄ちゃん。今日も聞こえたらどうしよう」
「お祭りの音が家の中でも聞こえてくるなんてラッキーじゃないか? ちょっとは楽しい気持ちになるだろ」
暗がりの中で弟が身じろぐ。今もぴったりと閉められた押し入れの戸を見つめているのだと気配で分かった。
「あれってお祭りの音なんだ」
「……太鼓と笛の音、俺にも聞こえてるよ。お囃子だった。祭りのときに流れてくる音楽」
「押し入れの中でお祭り? へんなの」
「何でこんな汚い家の押し入れで祭りをしているのか分からないけど」
「そこに誰がいるんだろうね」
ほんの少し興味を持ったのか、潜めた弟の声が心なしか弾んでいる。
「知らない。でも、見ない方がいい。そういうのは見るべきじゃない。触らぬ神になんとやらって言うんだよ」
「押し入れの中に神様かぁ」
「人間は見ない方がいいんだって。ほら、もう寝よう」
「……うん」
まだ何か言いたそうにしている彼を寝かしつけて、自分もすぐに目を閉じた。学業とバイトの両立で疲れきった体が重たい。睡魔はすぐに押し寄せてきた。
カチリ。数時間後、時計の長針が立てた音で意識が僅かに浮かび上がる。
ケンちゃん。
押し入れの中から名前を呼ばれたような気がして目を覚ますが、弟にぎゅっと手を握られていて身動きが取れない。今動いたらせっかく寝かしつけた弟を起こしてしまう。何に呼ばれたのか、どこから声がしたのか確かめたい気持ちにもなったが再び襲ってきた眠気に負ける。
まあいいか。
再び眠りにつく僕の名をまた誰かが呼んだ。気がした。
父と母が仕事や通院で不在にする日の夜は、決まって例のお囃子の音が聞こえてくる。
その他にも、近くの集落で重病人が出たとか事故に遭って入院することが決まったとか、そういう良くない知らせが舞い込む日には、必ずと言っていいほどに押し入れの奥は賑やかになる。そのことに気づいてからは弟をあの家に一人にしてはいけないといっそう強く思うようになった。
いつも聞こえてくるのは、周囲で起こる暗い出来事を吹き飛ばすような明るい音色だ。だから、不気味だと思うことはあっても当初は悪いものだとは考えていなかったのだ。
中からカリカリと爪を立てる音がして、たぬきでもいるのではないかと押し入れを開けたみたこともあったが何も見えなかった。この引っ掻くような音は祭囃子と同じく時々聞こえた。
突然倒れた母親が入院することになり、それからあっという間に亡くなってしまうまで、自分はこの異様さと恐ろしさに気づくことができなかった。
弟はまだ小さいのに泣いたりしなかった。憔悴しきった父と兄を気遣って自分から手伝いを申し出るくらいだ。今は泣いている場合ではないと感じたに違いない。
その日の夜、いつになく押し入れの奥が賑やかになった。手のひらで耳を塞いで聞こえないふりをすることにも慣れっこだった僕たちだが、今日に限っては知らないふりを貫き通すことは許されなかった。
祭囃子を掻き消す勢いで男の絶叫が響き渡ったからだ。声の主は隣室にいる。
「うるさいうるさいうるさいうるさいうるさい」
「…………」
「うるさい! うるさい! 黙れ黙れ黙れ!!」
布団の中で弟の手をぎゅっと握る。弟は可哀想なほどに細かく震えていた。互いの表情は見えなかった。しかし、二人揃って考えていることは一致しているはずだ。
おそらく、父親にも僕たちと同じものが聞こえていた。
叫び声を聞いたときには父親がおかしくなってしまったのかと焦ったが、父はどこまでも正気だった。父の絶叫と押し入れの内側からの音が家全体を揺らす。瞬間的にしんと静まり返った押し入れの奥で、かりかり、がりがりと荒く引っ掻く声がしてあそこにいるのは神様などではなかったのだと悟る。
「ケンちゃん」
誰かが僕の名を呼んだ。いつもの声だ。
「ケンちゃん」
押し入れの隙間から覗かれているイメージがふと湧き上がってぞっとした。これまで視線など感じたことはなかった。音だけだったのに。僕と弟に関しては、辛うじて音だけで済んでいたのに。
数か月後、母の後を追うようにして父が心筋梗塞で亡くなった。
ここに越してきてからというもの、昼も夜も働き詰めだったから体を壊して当然だった。当然だったと思わなければ、今度は僕自身がおかしくなりそうだった。
両親を亡くした僕は怯える弟を連れて逃げるように家を出た。この次は僕か弟のどちらかだと分かっていた。もう周りには誰も住んでいない。みんな死んでしまったから。
今でもその選択は間違っていなかったと思っている。あれからは祭囃子に脅かされることもなく平穏な生活を送ることができた。
みんなのリアクション
まだリアクションはありません。最初の一歩を踏み出しましょう!
僕たちの母は、美しい字を書く人だった。
ひと目見ればそれこそ一生の記憶に残るような、他の誰にも真似できない美しい字を書く人だった。
「ずいぶんと田舎に来ちまったな。俺のせいで……」
「いいじゃない。私はずっと静かなところに住みたいと思っていたわよ」
「いいじゃない。私はずっと静かなところに住みたいと思っていたわよ」
肩を落として歩く父の背を母が優しく叩く。
僕たち兄弟は両親に気を遣って余計なことを言わないようにしていた。できるだけ父に罪悪感を抱かせず、母のように明るく振る舞おうと心がけていた。
事業に失敗した父は多額の借金を抱えることとなり、元居た家を売り払って僕たち家族を連れてこの地にやってきた。新しく住む家の面倒を見てくれたのは数少ない親戚のうちの一人だ。
その人は父の従兄か、もう少し遠い親戚だったと記憶している。つまり僕とはさほど面識がない。
この親戚というのが少々厄介で、あの手この手で言い包めて僕らに奇妙な立地の家を押しつけていったのだった。こんなところに来たくなかったと思っているのが父の表情からありありと伝わってきた。
引っ越す先の家は何と畑のど真ん中に立っている。
北側には鬱蒼とした大きな森が広がっていた。他に家らしい家はなく、通学するのにも買い物をするのにも畑と畑の間のあぜ道を通らなければならない。立地が悪いのであればせめて建物くらいは新しく使い勝手がよいものであってほしいと願ったが、僕らの願いも虚しく、与えられた家は築五十年を軽く超えていた。
学校からも遠く、友人を呼ぶことも躊躇われるようなぼろぼろの小さな家。
本当に親身になってくれる親戚だったらこんなぼろい家を寄こすわけがないだろうと、父親に言ってやりたい気持ちになった。いざというときに相手の申し出を突っぱねられない弱さ。事業に失敗したのもその性格のせいだと理解できる。
ただ、日頃からのストレスと引っ越しでさらに体調を崩しつつあった病弱な母のことを考えると、一所懸命に働き口を探して家に金を入れている父のことを責めるのは違うかと思って口を噤んでいた。家族なら困ったときにこそ協力し合わなければ。
親戚の要求はただ一つ。
膨れ上がった借金を肩代わりする代わりに、しばらくこの家に住んで管理をしてほしいということだった。彼の言う、「しばらく」がどのくらいの期間を指しているのかは僕らには分からなかった。
まだ幼い弟の手を引いた僕と父の表情は引っ越し当初から暗い。打って変わって、母だけは新しい生活に期待を寄せているのか目をきらきらと輝かせていた。
「カラスが全然来ないなんていいじゃない」と、都会で長年ゴミ捨て場を荒らすカラスに悩まされてきた母は喜んでいたが、確かにここの土地は広大な土地があって、山も森も周りにあるのに生き物の気配がやけに薄い。
僕たち兄弟は両親に気を遣って余計なことを言わないようにしていた。できるだけ父に罪悪感を抱かせず、母のように明るく振る舞おうと心がけていた。
事業に失敗した父は多額の借金を抱えることとなり、元居た家を売り払って僕たち家族を連れてこの地にやってきた。新しく住む家の面倒を見てくれたのは数少ない親戚のうちの一人だ。
その人は父の従兄か、もう少し遠い親戚だったと記憶している。つまり僕とはさほど面識がない。
この親戚というのが少々厄介で、あの手この手で言い包めて僕らに奇妙な立地の家を押しつけていったのだった。こんなところに来たくなかったと思っているのが父の表情からありありと伝わってきた。
引っ越す先の家は何と畑のど真ん中に立っている。
北側には鬱蒼とした大きな森が広がっていた。他に家らしい家はなく、通学するのにも買い物をするのにも畑と畑の間のあぜ道を通らなければならない。立地が悪いのであればせめて建物くらいは新しく使い勝手がよいものであってほしいと願ったが、僕らの願いも虚しく、与えられた家は築五十年を軽く超えていた。
学校からも遠く、友人を呼ぶことも躊躇われるようなぼろぼろの小さな家。
本当に親身になってくれる親戚だったらこんなぼろい家を寄こすわけがないだろうと、父親に言ってやりたい気持ちになった。いざというときに相手の申し出を突っぱねられない弱さ。事業に失敗したのもその性格のせいだと理解できる。
ただ、日頃からのストレスと引っ越しでさらに体調を崩しつつあった病弱な母のことを考えると、一所懸命に働き口を探して家に金を入れている父のことを責めるのは違うかと思って口を噤んでいた。家族なら困ったときにこそ協力し合わなければ。
親戚の要求はただ一つ。
膨れ上がった借金を肩代わりする代わりに、しばらくこの家に住んで管理をしてほしいということだった。彼の言う、「しばらく」がどのくらいの期間を指しているのかは僕らには分からなかった。
まだ幼い弟の手を引いた僕と父の表情は引っ越し当初から暗い。打って変わって、母だけは新しい生活に期待を寄せているのか目をきらきらと輝かせていた。
「カラスが全然来ないなんていいじゃない」と、都会で長年ゴミ捨て場を荒らすカラスに悩まされてきた母は喜んでいたが、確かにここの土地は広大な土地があって、山も森も周りにあるのに生き物の気配がやけに薄い。
「これで、みんなずっと一緒にいられるわね」
彼女が無邪気に喜んでいると分かるからこそ、誰も口を挟むことはしなかった。入退院を繰り返していた母からすると、望まぬ新生活を強いられることになったとしても家にいる時間が増えた今の方が幸せなのだ。
大きな森のある北側は常にひんやりとした風が吹いてきて、昼でもなぜか「薄暗い」と感じさせる何かがあって不気味だった。自分も高校生ながらバイトを始めて、夜も家にいない両親に代わってまだ幼稚園生だった弟の面倒を見た。
弟は誰かと一緒じゃなければ寝室に行きたがらず、僕のバイトが長引いて帰るのが遅くなっても一人きりで待っている。引っ越し前は何も言わなくても勝手に自室で眠っていたのに。
お母さんと一緒に寝てればいいだろ。そう言えなかったのは、夜通し激しく咳き込んでいる母の声を壁越しに聞いていたからだ。子どもたちには特に何も言わない両親であったが、僕は何となく彼女の死期を感じ取っていた。
誰かに手紙を書いている時間が長くなった。遠い親戚らしき人が訪ねてくることもあった。とてもきれいな字で、僕たちに向けた手紙を書く機会も増えていた。彼女からしたら遺言のつもりだったのかもしれない。
それでも僕は、弟のためを思って厳しく言い聞かせるしかなかった。
母がいなくなったらますます一人で過ごす時間が増えるのだから、今のうちから慣れておいてほしいという兄心だったのかもしれない。
大きな森のある北側は常にひんやりとした風が吹いてきて、昼でもなぜか「薄暗い」と感じさせる何かがあって不気味だった。自分も高校生ながらバイトを始めて、夜も家にいない両親に代わってまだ幼稚園生だった弟の面倒を見た。
弟は誰かと一緒じゃなければ寝室に行きたがらず、僕のバイトが長引いて帰るのが遅くなっても一人きりで待っている。引っ越し前は何も言わなくても勝手に自室で眠っていたのに。
お母さんと一緒に寝てればいいだろ。そう言えなかったのは、夜通し激しく咳き込んでいる母の声を壁越しに聞いていたからだ。子どもたちには特に何も言わない両親であったが、僕は何となく彼女の死期を感じ取っていた。
誰かに手紙を書いている時間が長くなった。遠い親戚らしき人が訪ねてくることもあった。とてもきれいな字で、僕たちに向けた手紙を書く機会も増えていた。彼女からしたら遺言のつもりだったのかもしれない。
それでも僕は、弟のためを思って厳しく言い聞かせるしかなかった。
母がいなくなったらますます一人で過ごす時間が増えるのだから、今のうちから慣れておいてほしいという兄心だったのかもしれない。
「来年から小学生なんだから一人で寝ないとな。そんなんで小学校に行けるのか?」
今日もぽつんと居間で絵を描いていた弟が、僕の小言を遮るようにして首を横に振る。
「兄ちゃん、押し入れから変な音するよ。あれがこわいから、やだ」
「……どんな?」
「太鼓の音。どん、どんって」
「……どんな?」
「太鼓の音。どん、どんって」
暑くもないのに手のひらにじわりと汗が滲む。
そう、僕にも思い当たる節があった。
ねずみが走っていくカサカサとした足音は天井からよく聞こえていた。だが、押し入れの中から太鼓の音がしているのを聞いたのはこの前が初めてのことだった。
夏祭りを盛り上げる賑やかな御囃子の音。どんどん、どんどん、と小気味よいリズムを紡いでいく。そんなものが押し入れの奥から聞こえてくるわけがない。気のせいだと思って知らないふりをしていたが、弟も聞いているとなるとあれは幻聴ではなかったのだ。
夏祭りを盛り上げる賑やかな御囃子の音。どんどん、どんどん、と小気味よいリズムを紡いでいく。そんなものが押し入れの奥から聞こえてくるわけがない。気のせいだと思って知らないふりをしていたが、弟も聞いているとなるとあれは幻聴ではなかったのだ。
「いや、太鼓ってさ……いったい誰が叩いてるんだよ」
冗談っぽく軽い口調で尋ねてみても弟はにこりともしなかった。
「しらない」
寝ぼけていたんじゃないかと言ってみても、弟は聞こえる日があるとの一点張りだ。人を困らせるために嘘をつくような子ではないので何かしら理由があるのだろう。自分も弟も引っ越しのストレスが出てきているのかもしれない。
しばらくは兄である自分が側にいて様子を見ていれば落ち着くだろうと、そのときはあまり深く考えていなかった。
ぱちんと室内の電気を消して、二人で並んで布団に潜り込む。
土地全体を覆う薄暗さにもそのうち慣れる日が来るのだろう。まだ小さい弟は理解できていないかもしれないが、近隣では立て続けに人が死んでいる様子で頻繁に霊柩車が道を駆けていた。
しばらくは兄である自分が側にいて様子を見ていれば落ち着くだろうと、そのときはあまり深く考えていなかった。
ぱちんと室内の電気を消して、二人で並んで布団に潜り込む。
土地全体を覆う薄暗さにもそのうち慣れる日が来るのだろう。まだ小さい弟は理解できていないかもしれないが、近隣では立て続けに人が死んでいる様子で頻繁に霊柩車が道を駆けていた。
「兄ちゃん。今日も聞こえたらどうしよう」
「お祭りの音が家の中でも聞こえてくるなんてラッキーじゃないか? ちょっとは楽しい気持ちになるだろ」
「お祭りの音が家の中でも聞こえてくるなんてラッキーじゃないか? ちょっとは楽しい気持ちになるだろ」
暗がりの中で弟が身じろぐ。今もぴったりと閉められた押し入れの戸を見つめているのだと気配で分かった。
「あれってお祭りの音なんだ」
「……太鼓と笛の音、俺にも聞こえてるよ。お囃子だった。祭りのときに流れてくる音楽」
「押し入れの中でお祭り? へんなの」
「何でこんな汚い家の押し入れで祭りをしているのか分からないけど」
「そこに誰がいるんだろうね」
「……太鼓と笛の音、俺にも聞こえてるよ。お囃子だった。祭りのときに流れてくる音楽」
「押し入れの中でお祭り? へんなの」
「何でこんな汚い家の押し入れで祭りをしているのか分からないけど」
「そこに誰がいるんだろうね」
ほんの少し興味を持ったのか、潜めた弟の声が心なしか弾んでいる。
「知らない。でも、見ない方がいい。そういうのは見るべきじゃない。触らぬ神になんとやらって言うんだよ」
「押し入れの中に神様かぁ」
「人間は見ない方がいいんだって。ほら、もう寝よう」
「……うん」
「押し入れの中に神様かぁ」
「人間は見ない方がいいんだって。ほら、もう寝よう」
「……うん」
まだ何か言いたそうにしている彼を寝かしつけて、自分もすぐに目を閉じた。学業とバイトの両立で疲れきった体が重たい。睡魔はすぐに押し寄せてきた。
カチリ。数時間後、時計の長針が立てた音で意識が僅かに浮かび上がる。
ケンちゃん。
押し入れの中から名前を呼ばれたような気がして目を覚ますが、弟にぎゅっと手を握られていて身動きが取れない。今動いたらせっかく寝かしつけた弟を起こしてしまう。何に呼ばれたのか、どこから声がしたのか確かめたい気持ちにもなったが再び襲ってきた眠気に負ける。
まあいいか。
再び眠りにつく僕の名をまた誰かが呼んだ。気がした。
ケンちゃん。
押し入れの中から名前を呼ばれたような気がして目を覚ますが、弟にぎゅっと手を握られていて身動きが取れない。今動いたらせっかく寝かしつけた弟を起こしてしまう。何に呼ばれたのか、どこから声がしたのか確かめたい気持ちにもなったが再び襲ってきた眠気に負ける。
まあいいか。
再び眠りにつく僕の名をまた誰かが呼んだ。気がした。
父と母が仕事や通院で不在にする日の夜は、決まって例のお囃子の音が聞こえてくる。
その他にも、近くの集落で重病人が出たとか事故に遭って入院することが決まったとか、そういう良くない知らせが舞い込む日には、必ずと言っていいほどに押し入れの奥は賑やかになる。そのことに気づいてからは弟をあの家に一人にしてはいけないといっそう強く思うようになった。
いつも聞こえてくるのは、周囲で起こる暗い出来事を吹き飛ばすような明るい音色だ。だから、不気味だと思うことはあっても当初は悪いものだとは考えていなかったのだ。
中からカリカリと爪を立てる音がして、たぬきでもいるのではないかと押し入れを開けたみたこともあったが何も見えなかった。この引っ掻くような音は祭囃子と同じく時々聞こえた。
突然倒れた母親が入院することになり、それからあっという間に亡くなってしまうまで、自分はこの異様さと恐ろしさに気づくことができなかった。
弟はまだ小さいのに泣いたりしなかった。憔悴しきった父と兄を気遣って自分から手伝いを申し出るくらいだ。今は泣いている場合ではないと感じたに違いない。
その日の夜、いつになく押し入れの奥が賑やかになった。手のひらで耳を塞いで聞こえないふりをすることにも慣れっこだった僕たちだが、今日に限っては知らないふりを貫き通すことは許されなかった。
祭囃子を掻き消す勢いで男の絶叫が響き渡ったからだ。声の主は隣室にいる。
その他にも、近くの集落で重病人が出たとか事故に遭って入院することが決まったとか、そういう良くない知らせが舞い込む日には、必ずと言っていいほどに押し入れの奥は賑やかになる。そのことに気づいてからは弟をあの家に一人にしてはいけないといっそう強く思うようになった。
いつも聞こえてくるのは、周囲で起こる暗い出来事を吹き飛ばすような明るい音色だ。だから、不気味だと思うことはあっても当初は悪いものだとは考えていなかったのだ。
中からカリカリと爪を立てる音がして、たぬきでもいるのではないかと押し入れを開けたみたこともあったが何も見えなかった。この引っ掻くような音は祭囃子と同じく時々聞こえた。
突然倒れた母親が入院することになり、それからあっという間に亡くなってしまうまで、自分はこの異様さと恐ろしさに気づくことができなかった。
弟はまだ小さいのに泣いたりしなかった。憔悴しきった父と兄を気遣って自分から手伝いを申し出るくらいだ。今は泣いている場合ではないと感じたに違いない。
その日の夜、いつになく押し入れの奥が賑やかになった。手のひらで耳を塞いで聞こえないふりをすることにも慣れっこだった僕たちだが、今日に限っては知らないふりを貫き通すことは許されなかった。
祭囃子を掻き消す勢いで男の絶叫が響き渡ったからだ。声の主は隣室にいる。
「うるさいうるさいうるさいうるさいうるさい」
「…………」
「うるさい! うるさい! 黙れ黙れ黙れ!!」
「…………」
「うるさい! うるさい! 黙れ黙れ黙れ!!」
布団の中で弟の手をぎゅっと握る。弟は可哀想なほどに細かく震えていた。互いの表情は見えなかった。しかし、二人揃って考えていることは一致しているはずだ。
おそらく、父親にも僕たちと同じものが聞こえていた。
叫び声を聞いたときには父親がおかしくなってしまったのかと焦ったが、父はどこまでも正気だった。父の絶叫と押し入れの内側からの音が家全体を揺らす。瞬間的にしんと静まり返った押し入れの奥で、かりかり、がりがりと荒く引っ掻く声がしてあそこにいるのは神様などではなかったのだと悟る。
おそらく、父親にも僕たちと同じものが聞こえていた。
叫び声を聞いたときには父親がおかしくなってしまったのかと焦ったが、父はどこまでも正気だった。父の絶叫と押し入れの内側からの音が家全体を揺らす。瞬間的にしんと静まり返った押し入れの奥で、かりかり、がりがりと荒く引っ掻く声がしてあそこにいるのは神様などではなかったのだと悟る。
「ケンちゃん」
誰かが僕の名を呼んだ。いつもの声だ。
「ケンちゃん」
押し入れの隙間から覗かれているイメージがふと湧き上がってぞっとした。これまで視線など感じたことはなかった。音だけだったのに。僕と弟に関しては、辛うじて音だけで済んでいたのに。
数か月後、母の後を追うようにして父が心筋梗塞で亡くなった。
ここに越してきてからというもの、昼も夜も働き詰めだったから体を壊して当然だった。当然だったと思わなければ、今度は僕自身がおかしくなりそうだった。
ここに越してきてからというもの、昼も夜も働き詰めだったから体を壊して当然だった。当然だったと思わなければ、今度は僕自身がおかしくなりそうだった。
両親を亡くした僕は怯える弟を連れて逃げるように家を出た。この次は僕か弟のどちらかだと分かっていた。もう周りには誰も住んでいない。みんな死んでしまったから。
今でもその選択は間違っていなかったと思っている。あれからは祭囃子に脅かされることもなく平穏な生活を送ることができた。
今でもその選択は間違っていなかったと思っている。あれからは祭囃子に脅かされることもなく平穏な生活を送ることができた。