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ー/ー



 逃げてきちゃった。息苦しくて死んじゃいそうだから。
 ふと逃げ出したくなったとき、そして誰かにそれを咎められたとき、言い訳をさらりと口にできる強い子になりたかった。理屈では説明できないことがこの世にはたくさんあって、私が抱え続けている厄介な想いだって言ってしまえば説明不可能な部類に入るのだろう。目の前に佇んでいる少女だってきっとそう。
 岩場に投げ出された尾びれが、青い水面と空の間で透けたように濡れて輝いている。

「呼吸ができないって苦しいよね。他の人がそれを分かってくれなかったらもっと苦しい」
「ええ、そうね」

 瞳を伏せて小さく微笑んだ彼女は、岩場をその美しい尾びれで軽く打つ。
 ぱしゃんと跳ねた海水は瞬く間にまん丸になって、ぱらぱらと海に吸い込まれていく。

「私はまたここに来るよ。きっと途中でバスを降りて、息が苦しくないところに逃げてくる」
「……夏期講習が終わっても?」

 彼女の視線は何かを見定めるように細かく揺れていた。初めて会ったときのどこかぼんやりとした目線とは異なっている。うっすらと響くウミネコの声を聞きながら、この子は私と同じ目をしていると思った。


 私が校内で行われる夏期講習に通うには、常日頃と同じように公共交通機関を乗り継いで行かなければならない。
 夏特有の容赦ない直射日光。朝からぐんぐんと上がる気温に私の体はいとも簡単に打ち破れた。こちらが呆れてしまうくらいあっさり白旗を振った。最近は落ち着いていたのに。
 最初は冷や汗だった。その次は世界が回りはじめた。最後は徐々に音が聞こえなくなった。
 揺れるバスの中で気分が悪くなったのも一度や二度の話ではない。他人にはあまり理解してもらえない持病を抱えていると、いざというときに助けを呼ぶことを躊躇ってしまう。世の中そんなに冷たい人ばかりではないと分かっていても、ヘルプマークをぶら下げた鞄を見せる勇気も持てなくて、静かすぎる車内で「席を譲ってください」と声を上げることはもっと難しい。
 このまま学校最寄りのバス停まで耐えられる気がしない。
 のろのろと降り口に進む高齢者の後を必死に追って、私は転げ落ちるようにして途中下車した。ここから次のバスに乗ったところで夏期講習に間に合うかどうか微妙なところだった。
 止まらない冷や汗を手の甲で伸ばす。腰を下ろせる場所を探していた私は嗅ぎ慣れない匂いに驚いて思わず立ち止まった。潮の香りがする。

「具合が悪いの? 大丈夫?」

 か細い声が耳に入ってくるが、声の主を探す余裕はなかった。応える元気もなかった。
 私はいつの間にか引き寄せられるように海岸に向かって歩いていたらしい。うろうろと彷徨い歩く私を見かねた地元の人だろうか。迷惑をかけてはいけないとぱっと視線を上げると、海面から少女らしき人影が顔を出していて一瞬凍りついた。
 その子は近くの岩場を指で示して、とりあえずそこに座ってはどうかと勧めてきた。弱りきった状態でなければ私も大人しく従ったりはしなかったはずだ。

「珍しい。ここに来る学生さんなんて滅多にいないのに」

 慣れた動きで岩場に腰を下ろした少女は足から下が魚の形をしていた。
 だって鱗がある。日に透けて輝く半透明の尾びれもある。優美で可憐な人魚がぺたぺたと陸に上がってきた。夢でも見ているのではないか。茫然として声を失くす私のことを海水に濡れた瞳が静かに見つめている。こちらの反応を面白がっているわけではないと気づいたのは、私と同じだけ彼女も青ざめて震えていたからだった。
 私の体調が落ち着くまでの間、彼女は黙って側にいてくれた。暑くて気分が悪いのなら足を水に浸しているといいかもしれないと、小声でそう教えてくれた。
 その日を境に、私と人魚らしき少女の交流が始まる。
 私が体調を崩して途中下車をするたびに決まって海岸を訪れた。約束をしているわけでもないのに彼女は決まって同じ場所に現れて、落ち着くまで側にいてくれるのだった。

「みんなと少し違うだけで息苦しくて、その場で溺れそうになる。誰も私のことを責めたことなんてないのに。みんなと同じようにできない自分が嫌で高校からは頑張ろうと思ってたのに」

 たった三ヶ月で挫折ですよ。
 冗談めかした口調で嘆く私に、彼女は僅かに眉根を寄せて同意した。何度も途中下車を繰り返す自分に嫌気が差して、普段なら口にしない苦しみや悲しみをこぼした。
 夕焼けに染まりはじめた天上が、空に浮かぶ雲の形の移り変わりが、この夏の終わりを私たちに知らせている。
 あなたもそうなんだよね、とはあえて聞かなかった。
 ただ、私の感じている息苦しさを理解できるのは同じ息苦しさを感じている人だけだと思う。「必ずまた来るよ」と約束をしたときに潤んだ瞳を見れば、彼女の持つ苦しみに少しだけ触れられたような気がした。




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 逃げてきちゃった。息苦しくて死んじゃいそうだから。
 ふと逃げ出したくなったとき、そして誰かにそれを咎められたとき、言い訳をさらりと口にできる強い子になりたかった。理屈では説明できないことがこの世にはたくさんあって、私が抱え続けている厄介な想いだって言ってしまえば説明不可能な部類に入るのだろう。目の前に佇んでいる少女だってきっとそう。
 岩場に投げ出された尾びれが、青い水面と空の間で透けたように濡れて輝いている。
「呼吸ができないって苦しいよね。他の人がそれを分かってくれなかったらもっと苦しい」
「ええ、そうね」
 瞳を伏せて小さく微笑んだ彼女は、岩場をその美しい尾びれで軽く打つ。
 ぱしゃんと跳ねた海水は瞬く間にまん丸になって、ぱらぱらと海に吸い込まれていく。
「私はまたここに来るよ。きっと途中でバスを降りて、息が苦しくないところに逃げてくる」
「……夏期講習が終わっても?」
 彼女の視線は何かを見定めるように細かく揺れていた。初めて会ったときのどこかぼんやりとした目線とは異なっている。うっすらと響くウミネコの声を聞きながら、この子は私と同じ目をしていると思った。
 私が校内で行われる夏期講習に通うには、常日頃と同じように公共交通機関を乗り継いで行かなければならない。
 夏特有の容赦ない直射日光。朝からぐんぐんと上がる気温に私の体はいとも簡単に打ち破れた。こちらが呆れてしまうくらいあっさり白旗を振った。最近は落ち着いていたのに。
 最初は冷や汗だった。その次は世界が回りはじめた。最後は徐々に音が聞こえなくなった。
 揺れるバスの中で気分が悪くなったのも一度や二度の話ではない。他人にはあまり理解してもらえない持病を抱えていると、いざというときに助けを呼ぶことを躊躇ってしまう。世の中そんなに冷たい人ばかりではないと分かっていても、ヘルプマークをぶら下げた鞄を見せる勇気も持てなくて、静かすぎる車内で「席を譲ってください」と声を上げることはもっと難しい。
 このまま学校最寄りのバス停まで耐えられる気がしない。
 のろのろと降り口に進む高齢者の後を必死に追って、私は転げ落ちるようにして途中下車した。ここから次のバスに乗ったところで夏期講習に間に合うかどうか微妙なところだった。
 止まらない冷や汗を手の甲で伸ばす。腰を下ろせる場所を探していた私は嗅ぎ慣れない匂いに驚いて思わず立ち止まった。潮の香りがする。
「具合が悪いの? 大丈夫?」
 か細い声が耳に入ってくるが、声の主を探す余裕はなかった。応える元気もなかった。
 私はいつの間にか引き寄せられるように海岸に向かって歩いていたらしい。うろうろと彷徨い歩く私を見かねた地元の人だろうか。迷惑をかけてはいけないとぱっと視線を上げると、海面から少女らしき人影が顔を出していて一瞬凍りついた。
 その子は近くの岩場を指で示して、とりあえずそこに座ってはどうかと勧めてきた。弱りきった状態でなければ私も大人しく従ったりはしなかったはずだ。
「珍しい。ここに来る学生さんなんて滅多にいないのに」
 慣れた動きで岩場に腰を下ろした少女は足から下が魚の形をしていた。
 だって鱗がある。日に透けて輝く半透明の尾びれもある。優美で可憐な人魚がぺたぺたと陸に上がってきた。夢でも見ているのではないか。茫然として声を失くす私のことを海水に濡れた瞳が静かに見つめている。こちらの反応を面白がっているわけではないと気づいたのは、私と同じだけ彼女も青ざめて震えていたからだった。
 私の体調が落ち着くまでの間、彼女は黙って側にいてくれた。暑くて気分が悪いのなら足を水に浸しているといいかもしれないと、小声でそう教えてくれた。
 その日を境に、私と人魚らしき少女の交流が始まる。
 私が体調を崩して途中下車をするたびに決まって海岸を訪れた。約束をしているわけでもないのに彼女は決まって同じ場所に現れて、落ち着くまで側にいてくれるのだった。
「みんなと少し違うだけで息苦しくて、その場で溺れそうになる。誰も私のことを責めたことなんてないのに。みんなと同じようにできない自分が嫌で高校からは頑張ろうと思ってたのに」
 たった三ヶ月で挫折ですよ。
 冗談めかした口調で嘆く私に、彼女は僅かに眉根を寄せて同意した。何度も途中下車を繰り返す自分に嫌気が差して、普段なら口にしない苦しみや悲しみをこぼした。
 夕焼けに染まりはじめた天上が、空に浮かぶ雲の形の移り変わりが、この夏の終わりを私たちに知らせている。
 あなたもそうなんだよね、とはあえて聞かなかった。
 ただ、私の感じている息苦しさを理解できるのは同じ息苦しさを感じている人だけだと思う。「必ずまた来るよ」と約束をしたときに潤んだ瞳を見れば、彼女の持つ苦しみに少しだけ触れられたような気がした。


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