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ー/ー



 何もかもが嫌になって、このまま電車から降りるのを諦めようかと思った。

 八月の半ばだというのに暑さは徐々に落ち着いてしまい、既に秋らしさが顔を覗かせている。それでも若干蒸し暑い車内で私はじっと俯いていた。
 急な外勤。待ち時間の長さと、それに比例しない中身のなさ。終わる頃には本来の退勤時間をとっくに過ぎてしまい、それでも事務所には戻らなければならない。報告書を書いて、置き去りにしてきた仕事を片付けて、それから。
 帰宅できるのはいつになるのだろう。
 スマホの画面ではなく腕時計で時間を確認した私は、マスクの中をため息で一杯にした。車窓から見える景色は濃い夕闇に染まり、暗い中にもぽつぽつと明かりが灯り始めている。
 夜はいつだって音もなく忍び寄る。いつの間にか世界を濃い色で塗り潰して、駆け足で背後に迫ってくる。
 本当なら職場の最寄りの駅はあと三つ。時間にしてみれば十分にも満たない。十分でささくれ立った心を落ち着かせることができたのなら、これまでの私はもっと上手く世の中を渡っていけただろうか。
 私は、呼吸をしているだけで疲れきってしまう弱い生き物なのだ。だから、戻りたくない。当たり前の日常に戻って同じことを繰り返すのが堪らなく苦痛だ。
 重要な書類を預かってきているわけでもないし、通帳を持ち出しているわけでもないし、適当な理由をつけて早退してしまおうか。
 ただ、職場に連絡をするのがひどく億劫で、その億劫さと萎えてしまった気持ちを天秤にかけてみれば億劫さの方が勝った。
 別に具合が悪いわけではないから。体に痛いところなどない。目に見えるところに傷みなんて何も。皆が認めてくれるような正当な傷があれば、少しは楽になれたのかもしれない。
 ずる休みをした後の気まずさを思うと、「仕方ないから戻ろうか」と諦めに似た思いに満たされる。
 もっともらしい言い訳がすらすらと口から滑り落ちそうにないところ。自分の限界を、限界を迎えてから悟ってしまうところ。その両方が、二十何年もこの身を苛んできた生きづらさを増幅させているような気がしてならなかった。
 あと一つ駅を過ぎたら着いてしまう。
 観念して鞄の上に乗せた手を握り締める。車内アナウンスがいつまで経っても流れなければいいのにと思う。ふと何かを感じて目を開けると、正面に座った人影がこちらに視線を送っていた。

「…………」

 きれいな顔をした子どもが背筋を正し、唇を結んだまま私を見ていた。マスクで鼻から下が隠されていても、きれいな顔をしていると思った。
 私の頭の辺りにある車内広告を見ているのかもしれないと一瞬考えたが、私が気づいたと分かった途端に「おや」と目元を緩めたので、視線の先にいたのは間違いなく私だと分かる。
 よく気づいたね、とでも言いたげな顔をしている。
 変な子だな。部活の帰りかな。
 視線を寄越してきたのは、利口そうな顔をした中学生くらいの男の子。
 あまり見知らぬ子どもをじろじろと見ていたら困ったことになりそうだ。本能的に、今ここで見つめ合うことはやめるべきだと思った。だが、視線を外したらいけないと頭の片隅で何者かの声がした。

「次は、……駅。降り口は左です」

 すらりと伸びた脚。うっすらと筋肉のつき始めた男の子の腕。重たそうな鞄の中には何が詰まっているのだろう。
 立ち上がった彼は左側のドアの前に移動して、そしてすぐ側に座ったままの私に声をかけた。

「帰ろう。僕もちゃんと帰るから」
「…………」

 たった一人にだけかけられた言葉は、他の誰の耳にも触れず開いたドアに吸い込まれていった。はっと息を呑んで席を立った私は、その懐かしい声を追いかけるために閉じかけたドアの向こう側へ身を滑らせた。

「待っ、て」

 先ほどまで乗っていた電車は瞬く間に走り去って、まばらに人がいるだけのホームには私の足音が高く響く。

「待って、わたし……は」

 よりにもよってこんな日に会いに来るなんて。まるで私のことを叱るみたいにして、分かりづらい形になって現れて。
 ホームの改札を抜けた辺りで少年は静かに佇んでいた。
 息を切らして目元を濡らした私を見つめ、淡く微笑む。

「私は……の続き、何?」
「……今も頑張ってるよ、って言いたかった」

 投げかけられた問いにすぐ答えられたのは、何年も胸の内に抱いて離さなかった言葉だからだ。

「頑張らなくていいよ。君は昔から、頑張りすぎて周りが見えなくなりがちだからさ」
「あなたがいなくても頑張ろうって、せめて仕事だけでも頑張ろうって思ったのに、今日がとても辛くて」
「そんな日もあるよ。大丈夫」
「ねぇ」

 どうやって戻ってきたの。
 今は亡き恋人に尋ねかければ、お盆だからねと呟きが落ちる。

「僕も今日は君のところに帰るから、君も早く家に帰っておいで」




みんなのリアクション

 何もかもが嫌になって、このまま電車から降りるのを諦めようかと思った。
 八月の半ばだというのに暑さは徐々に落ち着いてしまい、既に秋らしさが顔を覗かせている。それでも若干蒸し暑い車内で私はじっと俯いていた。
 急な外勤。待ち時間の長さと、それに比例しない中身のなさ。終わる頃には本来の退勤時間をとっくに過ぎてしまい、それでも事務所には戻らなければならない。報告書を書いて、置き去りにしてきた仕事を片付けて、それから。
 帰宅できるのはいつになるのだろう。
 スマホの画面ではなく腕時計で時間を確認した私は、マスクの中をため息で一杯にした。車窓から見える景色は濃い夕闇に染まり、暗い中にもぽつぽつと明かりが灯り始めている。
 夜はいつだって音もなく忍び寄る。いつの間にか世界を濃い色で塗り潰して、駆け足で背後に迫ってくる。
 本当なら職場の最寄りの駅はあと三つ。時間にしてみれば十分にも満たない。十分でささくれ立った心を落ち着かせることができたのなら、これまでの私はもっと上手く世の中を渡っていけただろうか。
 私は、呼吸をしているだけで疲れきってしまう弱い生き物なのだ。だから、戻りたくない。当たり前の日常に戻って同じことを繰り返すのが堪らなく苦痛だ。
 重要な書類を預かってきているわけでもないし、通帳を持ち出しているわけでもないし、適当な理由をつけて早退してしまおうか。
 ただ、職場に連絡をするのがひどく億劫で、その億劫さと萎えてしまった気持ちを天秤にかけてみれば億劫さの方が勝った。
 別に具合が悪いわけではないから。体に痛いところなどない。目に見えるところに傷みなんて何も。皆が認めてくれるような正当な傷があれば、少しは楽になれたのかもしれない。
 ずる休みをした後の気まずさを思うと、「仕方ないから戻ろうか」と諦めに似た思いに満たされる。
 もっともらしい言い訳がすらすらと口から滑り落ちそうにないところ。自分の限界を、限界を迎えてから悟ってしまうところ。その両方が、二十何年もこの身を苛んできた生きづらさを増幅させているような気がしてならなかった。
 あと一つ駅を過ぎたら着いてしまう。
 観念して鞄の上に乗せた手を握り締める。車内アナウンスがいつまで経っても流れなければいいのにと思う。ふと何かを感じて目を開けると、正面に座った人影がこちらに視線を送っていた。
「…………」
 きれいな顔をした子どもが背筋を正し、唇を結んだまま私を見ていた。マスクで鼻から下が隠されていても、きれいな顔をしていると思った。
 私の頭の辺りにある車内広告を見ているのかもしれないと一瞬考えたが、私が気づいたと分かった途端に「おや」と目元を緩めたので、視線の先にいたのは間違いなく私だと分かる。
 よく気づいたね、とでも言いたげな顔をしている。
 変な子だな。部活の帰りかな。
 視線を寄越してきたのは、利口そうな顔をした中学生くらいの男の子。
 あまり見知らぬ子どもをじろじろと見ていたら困ったことになりそうだ。本能的に、今ここで見つめ合うことはやめるべきだと思った。だが、視線を外したらいけないと頭の片隅で何者かの声がした。
「次は、……駅。降り口は左です」
 すらりと伸びた脚。うっすらと筋肉のつき始めた男の子の腕。重たそうな鞄の中には何が詰まっているのだろう。
 立ち上がった彼は左側のドアの前に移動して、そしてすぐ側に座ったままの私に声をかけた。
「帰ろう。僕もちゃんと帰るから」
「…………」
 たった一人にだけかけられた言葉は、他の誰の耳にも触れず開いたドアに吸い込まれていった。はっと息を呑んで席を立った私は、その懐かしい声を追いかけるために閉じかけたドアの向こう側へ身を滑らせた。
「待っ、て」
 先ほどまで乗っていた電車は瞬く間に走り去って、まばらに人がいるだけのホームには私の足音が高く響く。
「待って、わたし……は」
 よりにもよってこんな日に会いに来るなんて。まるで私のことを叱るみたいにして、分かりづらい形になって現れて。
 ホームの改札を抜けた辺りで少年は静かに佇んでいた。
 息を切らして目元を濡らした私を見つめ、淡く微笑む。
「私は……の続き、何?」
「……今も頑張ってるよ、って言いたかった」
 投げかけられた問いにすぐ答えられたのは、何年も胸の内に抱いて離さなかった言葉だからだ。
「頑張らなくていいよ。君は昔から、頑張りすぎて周りが見えなくなりがちだからさ」
「あなたがいなくても頑張ろうって、せめて仕事だけでも頑張ろうって思ったのに、今日がとても辛くて」
「そんな日もあるよ。大丈夫」
「ねぇ」
 どうやって戻ってきたの。
 今は亡き恋人に尋ねかければ、お盆だからねと呟きが落ちる。
「僕も今日は君のところに帰るから、君も早く家に帰っておいで」


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