―月曜日、昼休み―
社内にあるカフェスペースで、マリアはスープカップを片手に、同僚たちの会話を聞き流していた。
「……なんか最近、あのV見ててさ、夜ふかしが止まらないんだよねー。あれ、なんだっけ? ブラン……なんとかって」
「パルティータじゃない? 最近コラボしてたでしょ、有名どころと」
「そうそう! あの声、めっちゃ癖になるっていうか、落ち着くんだよね……」
サンドイッチを頬張りながら笑う同僚たちの言葉に、マリアはスプーンを止めた。
(……ブラン、こんなとこまで来てるんだ)
ふと視線を落とすと、スマホの画面には通知が一つ――『ブラン・パルティータ新着動画公開』。
静かに胸がふくらむ感覚。
(あの登録300人台だったチャンネルが……今は、もう一万人を超えてる)
思い返すと、あの爆発的な伸びは、某大手Vとのコラボがきっかけだった。突然の“奇跡の客演”。しかも内容が大絶賛されてバズり、切り抜きが回って……そして、風雅さん――ブランの配信にも、新しい視聴者がどっと流れ込んだ。
自分だけの“秘密”だったブランが、じわじわと「みんなのもの」になっていくような寂しさ。けれど、嬉しさもある。
(……でも、私は“知ってる”。あの人が、ブラン)
その優越感が、胸の奥をじんわりと満たしていく。
そんなことを考えていると、画面の上にはもうひとつの通知。
《風雅さん:明日楽しみにしてます。お店、予約しました!》
ほんの一文。それだけなのに、頬がふわりと緩む。
(明日……)
スープが冷めるのも忘れて、マリアは夢見るような表情でスマホを見つめた。
―火曜日、午後―
待ち合わせ場所は、少し落ち着いた雰囲気のあるビストロ。
風雅は、前回より少しラフな格好で現れた。白シャツにブルーのカーディガンを羽織り、リュックを背負っている。
「今日も……すごく素敵ですね、マリアさん」
「えっ……あ、ありがとうございます。風雅さんも、その……似合ってます」
何でもない会話なのに、胸がじわりと熱くなる。ほんの少しだけ、心の距離が近づいていくような、そんな空気。
店の予約名を告げ、案内されたテーブルは、奥まった二人席。外のテラス席が見える落ち着いた場所だった。
「……料理、ここの評判、実は前から気になってたんです」
「私もです。嬉しいです、一緒に来られて」
最初の乾杯――ノンアルコールのスパークリングをグラスで合わせるとき、ふと風雅が笑う。
「……こういうの、夢みたいだなって。誰かと、普通にこうして食事できるって」
「……風雅さん?」
「僕、人と会うのって……そんなに得意じゃないんです。リアルだと、つい壁を作っちゃって。でもマリアさんとは……自然に話せるから」
マリアの胸が、きゅっと締めつけられた。
(……だから、言えなかったんだ。最初からファンだった、なんて)
会話は弾み、料理も美味しくて、ゆったりとした空気のまま店を後にする。
二人は並んで歩きながら、小さな雑貨屋に立ち寄ったり、気になっていたカフェで一杯ずつコーヒーを買ったり。
そして、ふとした瞬間――マリアがカフェの会計時に財布を出したとき、それは起きた。
硬貨と一緒に、小さなチャームがテーブルに転がり落ちた。
風雅が何気なく拾い上げる。
「……あっ」
その手が止まる。
「これ……」
風雅の表情から、すっと血の気が引いていくのが分かった。
彼の手の中にあるのは、初期のグッズ――ブランが配信初期に自作した、手作り風チャーム。知る人ぞ知る、完全受注のレア品。
「これ……持ってる人、ほとんどいないはずなんです。あの時、買った人……」
「…………」
マリアは言葉を飲み込む。
「マリアさん……お見合いの前から、僕のこと、知ってましたか? “ブラン”だって……知ってて、会ったんですか?」
声は震えていた。怒りではない。戸惑いと、少しの絶望のにじんだ声。
嘘を――つけなかった。
「……はい。気づいてました。最初に会った時から……風雅さんが“ブラン”だって」
風雅は目を伏せ、言葉を探すように口を開いた。
「……じゃあ、マリアさんが僕を好きだって言ってくれたのは……それは、“ブラン”だからですか? ……僕じゃなくて」
「違います。それは……」
けれど、否定しきれなかった。
言い訳のようになるのが怖かった。どう答えても、今の空気が変わってしまう気がして。
それ以上、言葉は続かなかった。
会話はぎこちなくなり、気まずい沈黙が間に流れる。いつの間にか空は暮れかけていて、帰りの足取りはどちらも重たかった。
別れ際――駅の改札の前で、風雅がぽつりと言った。
「……今日は、ありがとう。楽しかったです……」
その「楽しかったです……」に込められた感情に、マリアはただ俯くしかなかった。
風雅は、深く息を吐いて、改札を抜けていった。
残されたマリアは、胸に重く沈む想いを抱えながら、スマホを見つめる。
画面には、未読のままのメッセージ。
《今度は、いつ会えますか?》
――その言葉に、応える資格があるのか。マリアはまだ、答えを出せずにいた。