―日曜日、朝―
日曜の朝は、静かだった。
普段なら、洗濯機の音とコーヒーメーカーの香りが生活の一部として流れていく時間。それが今日は、朝からソワソワと落ち着かない。
(寝坊しなくてよかった……)
鏡の前で髪を整えながら、マリアは自分の顔をもう一度見つめた。
(あくまで“普通のデート”。お見合いの続き。ただ、ちょっと気になる人と、会うだけ)
自分に言い聞かせるように呟きながら、選んだのはきれいめカジュアルな白のブラウスに、シンプルなベージュのロングスカート。派手ではないけれど、清潔感があって、どこか優しい印象になるように。アクセサリーは小ぶりに抑えて、ピアスは控えた。
(ブラン、じゃなくて……今日は“風雅さん”)
そう心の中で区切ることで、やっと少し落ち着く。
待ち合わせは駅前のベンチ。日差しは柔らかく、少しだけ風が涼しかった。
「おはようございます」
その声を聞いた瞬間、胸が軽く跳ねた。
視線を上げると、そこにいたのは――昨日と同じ、“ブランの中の人”とは思えない、飄々とした風雅の姿。
シャツにジャケット、スラックスにスニーカーというきれいめなラフさ。どこか、あのVtuberの「ブラン・パルティータ」の気配をほのかにまといつつも、それ以上に“阿部風雅”という人間の空気感があった。
「おはようございます。今日も、いい天気ですね」
自然と微笑み返すマリアに、風雅は少しだけ目を細めた。
「はい。なんか、こういう日って、それだけで得した気分になりますよね」
その一言が、妙に“ブラン”っぽくて、マリアの胸に波紋が広がる。
(この感じ……本当に、同じ人なんだよね……)
けれど、マリアはあくまで興味が無いふりを貫いた。
二人で向かったのは、風雅が提案してくれた郊外の小さな植物園だった。
大きなテーマパークでも、人気のカフェでもない。けれど、混雑していなくて、花と緑に囲まれた穏やかな空間は、気を張らずに話すにはぴったりだった。
「ここ、意外と穴場なんです。人が少ないし、季節でけっこう花も変わって、面白いんですよ」
「……こういう場所、ひとりで来られるんですか?」
自然と出たマリアの問いに、風雅は少し考えてから笑った。
「……たまに。あと、ネタ探しも兼ねて、ですかね」
マリアの胸がドクンと脈打つ。
(ネタ探し……! それって配信の……)
しかし、口に出すことはできなかった。彼と出会う前からブランのファンだったと明かすことは、まだ自分の中でも整理がついていなかったから。
「マリアさん、こういうところ、好きですか?」
「はい。人が少ない場所、落ち着けるので。……風雅さんと一緒だと、よりそう思えます」
少しだけ、素直な言葉を返してみた。
すると風雅は、きゅっと口元を結び、それからおだやかに笑った。
「僕もです。……なんか、すごく、安心できるなって」
その一言に、思わず顔が熱くなる。
(やっぱり、この人……やさしい)
その後は近くのカフェに移動して、軽いランチを挟みながら、まったりとした会話が続いた。
仕事の話、趣味の話、最近読んだ本の話。どれも自然体で、気を張らずに言葉を交わせるのが不思議だった。
「刺繍、すごいですよね。あれって、やっぱり集中力、いります?」
ふいに、風雅がそう尋ねてきた。
「……あっ、あれ、昨日の雑談……」
思わず口が滑りそうになって、慌てて言葉を止めた。
「え?」
「あ、いえ……なんでも。集中は、たしかに要りますけど、無心になれるというか……。ちょっとした瞑想みたいな感覚になる時もあります」
「へえ……なんか、いいですね。無心になれるって」
風雅のその横顔を見ながら、マリアは胸の奥に、少しだけチクリとした痛みを感じた。
(……話してる内容が、いつか配信で使われるのかな)
(“風雅さん”として話したことが、“ブラン”として広がっていく)
それが、少しだけ寂しかった。
(私だけが知ってる、私だけの推しだったのに……)
でも――
それでも、いま自分に向けられている“風雅”のまなざしは、紛れもなく自分だけに向けられているもので。
(この人に惹かれてるのは、“ブラン”としてじゃない)
(ちゃんと……“阿部風雅”という人に)
その日の午後、街を少し歩いて、本屋や雑貨屋を見て回り、最後は公園のベンチで缶コーヒーを片手に、夕焼けを見ていた。
「……なんか、あっという間でしたね」
風雅の言葉に、マリアは頷く。
「本当ですね……。でも、楽しかったです」
「僕も。すごく……楽しかったです」
沈む夕日に照らされて、風雅の横顔が、少し照れているように見えた。
その姿が、あのVtuberとはまったく違う“現実の人間”として、胸に深く刻まれる。
「……また、会えますか?」
その問いは、ブランではなく、風雅としてのもの。
マリアは、少しだけ笑って、こくりと頷いた。
「……はい。私も、また会いたいです」
スマホの画面の中ではなく、現実の、この人に。
その日一日の記憶が、マリアの中に、やさしく、ゆっくりと染み込んでいった。