「ただいま……」
玄関を閉める音が、静かな部屋に響いた。
ネックレスを外し、ピアスを外し、化粧を落とすために洗面台へ向かいながら、マリアは自然と頬が緩んでいる自分に気づいていた。
(ふぅ……緊張した)
けれど、それは嫌な疲労感ではなく、ふわふわと心が浮き立つような――浮かれた疲れ。
予想以上に“楽しかった”。
(まさか……まさか、本当に……)
(推し本人と、お見合いして、ご飯食べて、笑って、LINE交換して……)
あの低くて心地良い声、くしゃっと笑うときの目尻の皺。照れたときにちょっと首をかしげる癖。
すべてが、画面の中の「ブラン・パルティータ」と完全に重なっていた。
(あの声で、目の前で“またご飯行きましょう”って言われたの、やばすぎるでしょ……)
湧き上がる実感と興奮を押し込めながら、リビングのソファへと倒れ込む。
(ちょっとだけ、いつもの日常に戻るか……)
そう言い聞かせるように、いつものようにYouTubeアプリを開いた――
そして、見慣れたあのアイコンが、赤いライブ表示になっているのを目にして目を疑った。
「……えっ!?」
画面に表示された通知が、否応なく現実をつきつける。
【ライブ配信中】ブラン・パルティータ:「今日もゆる雑談しようかな~🍷」
(え、ちょっと待って!?)
(今!? 今やってるの!?)
慌ててタップした。
ロードが終わると、すぐに聞こえてきたのは、あの声。
『みなさん、こんばんは~。ブラン・パルティータです。今日はね、ちょっとだけ外に出てまして……え? 珍しいって? ふふ、たまには、ね』
その瞬間、ゾワッと鳥肌が立った。
(この声……この人……)
(この人と、私、今日いっしょにご飯食べてたんだよね……?)
改めて意識すると、現実感がぐにゃりと歪む。
(さっき目の前にいて、コーヒー飲んで、笑って、LINE交換して……その人が、今ここで“ブラン”として、他のファンに話しかけてるの……?)
画面の向こうにいるはずの“推し”が、さっきまで手が届く場所にいたという事実。
それが、じわじわと体に染み込んできて――
(あの声で“こんばんは”って言ってくれてるけど……その声、今日は私だけのものだったんだよ)
(推しと……二人で……一緒に……)
思わず、笑いがこみ上げる。
両手で顔を覆って、ふわっと吐息を漏らした。
(……優越感……やば……)
配信では、いつものようにブランがゆるいテンションで雑談を続けていた。
『あ、そうそう。今日は珍しく手芸の話を聞いたんですよ。自分じゃ全然できないんですけど、なんか刺繍とか、細かい作業できる人って本当に尊敬しますね。』
(あっ、これ……私のこと!?)
あの時話した内容が、今“ファン向けの雑談”として消化されている。
(うわ……間接的に私ネタにされてる……)
コメント欄がにぎやかに流れていく。
「手芸できる人すごい~」
「ブランが家庭的女子に弱いの、なんか意外w」
「今日のブラン、ちょっと浮かれてる?」
(うん。浮かれてるよ。だって、今日、私といたからね)
誰も知らない、たったひとりの秘密。
この甘くてくすぐったい優越感は、マリアだけの特権だった。
ふと、スマホのホームボタンに触れ、LINEの通知画面へと切り替える。
そこには、数時間前――|風雅《ふうが》さんから届いていたメッセージ。
> 【阿部|風雅《ふうが》】
今日はありがとうございました。次の予定、空いてる日があれば教えてください。また話せたら嬉しいです。
(……あぁ、まだ返事してなかった)
嬉しすぎて、どう返そうか考えすぎて、タイミングを逃してしまっていた。
あの声で言われた「また行きましょう」が、文面になっていても胸に刺さる。
(よし……今送ろう)
スマホを手に、少しだけ深呼吸をして、指先で慎重に文字を打つ。
> 【戸塚マリア】
次の日曜日、もしご都合よければ朝からお会いできたりしますか?
難しければ午後でも大丈夫です!
送信を押して、ほんの数秒。
――LINE通知音がすぐに鳴る。
「……えっ!?」
> 【阿部|風雅《ふうが》】
日曜日、朝から大丈夫ですよ!
せっかくなので、ゆっくり過ごせたら嬉しいです。
行きたい場所とか、食べたいものありますか?
(え!? 配信中なのに……今、返ってきた!?)
マリアは思わず画面を見比べた。
一方ではLINEの返信、もう一方では配信中の“ブラン・パルティータ”。
配信に戻ると、ちょうどブランが少しだけ沈黙していた場面。
『……あ、すみません。ただいまです。では続きいきましょう~』
(……え。マジで今、LINE返した直後じゃないのこれ……!?)
心臓がバクバクと騒ぎ出す。
(私のLINEに返して、すぐ“ただいま”って……無理……尊い……)
スマホをぎゅっと胸に抱きしめた。
耳元では、相変わらず癒しの声が続いている。
『うん、今日はいい日でした。たまには外もいいもんですね~』
その言葉が、まるでマリアだけに向けられているように聞こえた。