表示設定
表示設定
目次 目次




其れは百合と誰かが言った

ー/ー



 清々しくも眩いオレンジ色の空は溶けてしまいそうなほどにそれは映って見えた。
 ピンクの象が行き交いする交差点を横目に、イエローの動く歩道を爪先で追いかけていくばかり。とてもではないが、マグニチュードを計測される範疇と感じた。
 靴の先が擦れる感触には直ぐに気付くことができず、肩から先も浮いているよう。
 浮遊感と言ってしまえば簡単ではあったが、耳鳴りの奥から馴染み深い声が鈍痛のごとくゴアンゴアンと響いてきてしまっていて、不快感の方が勝って混ざっていた。
 認識がまともに機能しているなどと到底思えない。理性が旅立っているのだろう。
 空は何色だ。シアンか。マゼンタか。あるいは、そのいずれでもないのかもしれない。ただ言えることは、クロコダイルが横切っているであろうということくらい。
 奇妙であり、不可解でもある。如何ようにしてこの世界がこの世界たり得るのか。
 ご存じであろうか。この世界はご存じなのだろうか。かの有名なアイザック・ニュートンと唱えた説のことを。さもあらば物理法則の崩落の顛末を垣間見ている。
 とうとう視界の端には、ドラゴンが往来していた。猛烈な速さですれ違ってくる。
 時計の針の付け方を間違えたのか、はたまた螺子の巻き方を失念してしまっていたのか。万物が途方もなく狂い続けて見える。そもデジタル時計すら持っていないが。
 敢えて驚くまい。寒気が霧を晴らすように空の果てに銀河を見た。漆黒の宇宙だ。
 失礼ながら視界の先に写るその物体が地面から突き出てくる陰茎のように見えてしまった。しかし、このような銀色に光るものなどあっただろうか。てんで分からん。
 ああ冷たい。酷く冷たい。液体。否、水。凍てつくような水が顔に降りかかる。
 靄だった。きっとそれは靄だったに違いない。そう認識するようになるとようやくして暗がりの空が見えてきた。オレンジとは。シアンとは。マゼンタとは一体。
「目が覚めたかよ、おい」
 野太い声が頭上から響いてくる。見上げると鼻の赤い顔が見えた。
 途端に、一気に熱が冷めてきたような気がする。
 ここは何処だろう。そう思って辺りを見回し、辛うじて理解できたのは夜の公園であるということ。そして目の前にあるものは紛れもなく水飲み場だ。
 コイツめ、この季節に水浸しにすることはないだろう。
 上着がすっかり濡れてしまったではないか。
「うっぐ……」
 何かが込み上げてきた。頭の中をかき混ぜられているかのような不快感がグググっと上り詰めてくる。
「おい、よせ、こっちだ。こっち」
「おげえぇぇぇ……」
 ビチャビチャと、排水溝に向けて汚物が解き放たれる。今夜の記憶が蘇り、そして今晩の献立が体内から消え去っていった。
「だからいっただろう。瓶ごとはやめろって。一人で十本は馬鹿だよ。一斗とか見栄張りすぎだ」
 目の前がチカチカする。何か大事な部分まで持っていかれたかのように錯覚する。
 下の方の蛇口を捻って、ジャボジャボと水を出し、口を持っていき、中のものを濯ぐようにして繰り返しうがいする。
 もはや顔中濡れてしまったが、かえって目が冴える。
「ぁー……飛んだ、飛んだ。もう途中が抜けちまったよ。何も覚えてねぇ」
「だろうな。本気で目ン玉飛び出すかと思うくらいイッてたよ」
「すまん。今、何時だ?」
「終電とっくにねぇよ」
 それはそれは酷い落胆を覚えたことだろう。懐から取り出したスマートフォンを確認して、着信履歴の多さにまた肝を冷やしてしまう。
 何とどうしようもなくだらしない亭主だろう。愛想尽かされないことを祈りたい。
「ふぅふぅ、明日響くぞ、これ……」
 口の奥に詰まった残りかすを排水溝に吐き捨て、明日の不安を懸念する。
「ほどほどにすることだよ。これに懲りてな」
 呆れっ面で正論を吐き捨てられてしまった。これほどの善意をいただける幸福を今一度感謝すべきだろう。
 それにしても一斗か。十升と考えたら合に直すといくらだ。考えるのもアホらしい勘定を回らない頭で算出しながら、明日に待つ多くの憂鬱をかき消した。
 濡れたシャツで出歩くには流石に冷え込みの過ぎる夜半。星空は悔しいほどに眩くて、悲しいくらいに綺麗だった。
 これだけ冷めておきながらも覚めきらない脳みそのふわふわ感に苛まれ、公園のベンチに腰を掛けるくらいの気力しか残ってはいなかった。
「そんなとこで横になってると風邪引くぞ」
 分からいでか。だが、どうやら身体はとうに根が生えていた。
 そして、悲しいことに目蓋は重かった。


スタンプを贈って作者を応援しよう!



みんなのリアクション



おすすめ作品を読み込み中です…



 清々しくも眩いオレンジ色の空は溶けてしまいそうなほどにそれは映って見えた。
 ピンクの象が行き交いする交差点を横目に、イエローの動く歩道を爪先で追いかけていくばかり。とてもではないが、マグニチュードを計測される範疇と感じた。
 靴の先が擦れる感触には直ぐに気付くことができず、肩から先も浮いているよう。
 浮遊感と言ってしまえば簡単ではあったが、耳鳴りの奥から馴染み深い声が鈍痛のごとくゴアンゴアンと響いてきてしまっていて、不快感の方が勝って混ざっていた。
 認識がまともに機能しているなどと到底思えない。理性が旅立っているのだろう。
 空は何色だ。シアンか。マゼンタか。あるいは、そのいずれでもないのかもしれない。ただ言えることは、クロコダイルが横切っているであろうということくらい。
 奇妙であり、不可解でもある。如何ようにしてこの世界がこの世界たり得るのか。
 ご存じであろうか。この世界はご存じなのだろうか。かの有名なアイザック・ニュートンと唱えた説のことを。さもあらば物理法則の崩落の顛末を垣間見ている。
 とうとう視界の端には、ドラゴンが往来していた。猛烈な速さですれ違ってくる。
 時計の針の付け方を間違えたのか、はたまた螺子の巻き方を失念してしまっていたのか。万物が途方もなく狂い続けて見える。そもデジタル時計すら持っていないが。
 敢えて驚くまい。寒気が霧を晴らすように空の果てに銀河を見た。漆黒の宇宙だ。
 失礼ながら視界の先に写るその物体が地面から突き出てくる陰茎のように見えてしまった。しかし、このような銀色に光るものなどあっただろうか。てんで分からん。
 ああ冷たい。酷く冷たい。液体。否、水。凍てつくような水が顔に降りかかる。
 靄だった。きっとそれは靄だったに違いない。そう認識するようになるとようやくして暗がりの空が見えてきた。オレンジとは。シアンとは。マゼンタとは一体。
「目が覚めたかよ、おい」
 野太い声が頭上から響いてくる。見上げると鼻の赤い顔が見えた。
 途端に、一気に熱が冷めてきたような気がする。
 ここは何処だろう。そう思って辺りを見回し、辛うじて理解できたのは夜の公園であるということ。そして目の前にあるものは紛れもなく水飲み場だ。
 コイツめ、この季節に水浸しにすることはないだろう。
 上着がすっかり濡れてしまったではないか。
「うっぐ……」
 何かが込み上げてきた。頭の中をかき混ぜられているかのような不快感がグググっと上り詰めてくる。
「おい、よせ、こっちだ。こっち」
「おげえぇぇぇ……」
 ビチャビチャと、排水溝に向けて汚物が解き放たれる。今夜の記憶が蘇り、そして今晩の献立が体内から消え去っていった。
「だからいっただろう。瓶ごとはやめろって。一人で十本は馬鹿だよ。一斗とか見栄張りすぎだ」
 目の前がチカチカする。何か大事な部分まで持っていかれたかのように錯覚する。
 下の方の蛇口を捻って、ジャボジャボと水を出し、口を持っていき、中のものを濯ぐようにして繰り返しうがいする。
 もはや顔中濡れてしまったが、かえって目が冴える。
「ぁー……飛んだ、飛んだ。もう途中が抜けちまったよ。何も覚えてねぇ」
「だろうな。本気で目ン玉飛び出すかと思うくらいイッてたよ」
「すまん。今、何時だ?」
「終電とっくにねぇよ」
 それはそれは酷い落胆を覚えたことだろう。懐から取り出したスマートフォンを確認して、着信履歴の多さにまた肝を冷やしてしまう。
 何とどうしようもなくだらしない亭主だろう。愛想尽かされないことを祈りたい。
「ふぅふぅ、明日響くぞ、これ……」
 口の奥に詰まった残りかすを排水溝に吐き捨て、明日の不安を懸念する。
「ほどほどにすることだよ。これに懲りてな」
 呆れっ面で正論を吐き捨てられてしまった。これほどの善意をいただける幸福を今一度感謝すべきだろう。
 それにしても一斗か。十升と考えたら合に直すといくらだ。考えるのもアホらしい勘定を回らない頭で算出しながら、明日に待つ多くの憂鬱をかき消した。
 濡れたシャツで出歩くには流石に冷え込みの過ぎる夜半。星空は悔しいほどに眩くて、悲しいくらいに綺麗だった。
 これだけ冷めておきながらも覚めきらない脳みそのふわふわ感に苛まれ、公園のベンチに腰を掛けるくらいの気力しか残ってはいなかった。
「そんなとこで横になってると風邪引くぞ」
 分からいでか。だが、どうやら身体はとうに根が生えていた。
 そして、悲しいことに目蓋は重かった。